万葉集と   大伴家持の生涯
更新日 2014年3月 
万葉歌に見る大伴家持目次
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家持の前半生  家持後半生とその後
坂上郎女
大伴氏の出自 歌わぬ人家持と
相次ぐ事件
怨霊に悩まされる
桓武天皇
 
家持の母と妹留女 家持越中守赴任 氷上川継の乱   家持亡き後の
万葉集の行方
 
亡妾悲傷歌の謎 婿右大臣藤原二郎
慈母への挽歌の謎
藤原種継暗殺事件 没官された万葉集が世にでるまで
安積親王への挽歌 百済王明信について 家持の死と
早良皇太子廃位事情
 
家持亡き後の
大伴氏の浮沈
橘奈良麻呂の変
と家持
聖武天皇の
詔書と家持
 
 
万葉の息長川関連
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攝河の地に
息長川は存在せず
 
 伎人郷(くれひとのさと)
息長伝説の信憑性
系譜に見る息長氏 
孝謙天皇難波宮行幸と
河内六寺
 
万葉歌4458の詠み人
馬史国人
 
伝承地に見る息長氏 
平野川探訪  万葉集巻二十編纂の謎  付替られた大和川 
万葉の息長川    リンクのペ-ジ 

大伴氏の出自 
今回の再考察では「続日本紀」「日本後紀」で家持の官位・官職・中央政界での動き「万葉集」記載の家持の歌等から、その生涯を追ってみました。全く和歌などに縁のなかった私なので、万葉仮名・題詞・左注の漢文も読めず、全訳書に頼りながらの悪戦苦闘でした。しかし、そこには今まで私が仮想していた家持像とは違った家持像がありました。大伴家といえば古代より武門の家柄で新撰姓氏録」によると大伴宿禰は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)五世孫天押日命(あめのおしひのみこと)之後也と記されており、この命の曾孫、道臣命(みちおみのみこと)が神武東征に随伴し大伴氏の祖となり皇室とも密接に繋がっていた古代からの大豪族であったことがわかります。また、「尊卑分脉」や「藤氏家伝」でみると藤原鎌足の父、中臣御食子(なかとみのみけこ)が大伴咋子(おおとものくいこ)の女(むすめ)、智仙娘(ちせんのいらつめ)を娶り藤原鎌足が生まれています。奈良時代には大伴宗家と藤原南家・京家間には相聞往来があり婚姻も成立しており、北家の八束(やつか)は家持の歌友で昵懇の間柄であったようです。家持の養育者で歌人家持を育て義母でもある坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の藤原麻呂との大恋愛、家持が聟の南右大臣家藤原二郎の慈母の死去に寄せた挽歌。藤原不比等が大伴古慈斐(こじひ)の才能を見込んで娘を古慈斐に嫁がす等、大伴氏と藤原氏との意外な関係を知ることが出来ました。
また、若き日の家持の自由奔放な青春時代の相聞往来、妾の死で悲傷にくれる家持、大伴家持といえば教養豊かな万葉歌人であり、彼の父もまた万葉歌人として其の名を知られた大伴旅人(たびと)です。神話時代以来の名門大伴氏は、もともと武門の家柄で壬申の乱に活躍した大伴吹負(ふけい)、馬来田(まぐた)がおり、その後の政界に大納言・中納言・参議等に人材を出していますが家持が大伴家の家長の座に付いた頃は藤原氏の台頭が著しくこの新興勢力に対して、家持は武人の古い家柄の誇りを失うまいと随分抵抗もし悩み続けたようです。家持の生涯は有為転変でなかでも橘奈良麻呂の変ほか度々叛乱・政変・陰謀等への関与を疑われながらも家持自身は拘束されることはなく、いずれも左遷程度の軽い処分で済んでいるのは何故か、そして最後に家持死後にもかかわらず藤原種継暗殺事件の首謀者として除名処分を受けています。家持の生涯を考察してゆくと実に多くの謎があり、これらの謎を解明し合理的な説明をすることは私のような俄か古代史ファンには到底無理なことです故、私の未熟な考察結果ですが参考にしていただき、皆さんもこの謎の解明に取り組んでいただきたいと思います。
 新撰姓氏録の大伴氏出自
 本貫  種別  細分  氏族名  姓  同祖関係 始祖  備考 
 左京  神別  天神  大伴宿禰  宿禰 高皇産霊尊五世孫天押日命之後也 高皇産霊尊五世孫
天押日命之後也
初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命。大来目部立於御前。降乎日向高千穂峯。然後以大来目部。為天靱部。靱負之号起於此也。雄略天皇御世。以入部靱負賜大連公。奏曰。衛門開闔之務。於職已重。若有一身難堪。望与愚児語。相伴奉衛左右。勅依奏。是大伴佐伯二氏。掌左右開闔之縁也 
左京  神別  天神   佐伯宿禰 宿禰  大伴宿禰同祖   道臣命七世孫室屋
大連公之後也
 
左京  神別  天神  大伴連  連  道臣命十世孫佐弖彦之後也  道臣命十世孫佐弖彦之後也   

 万葉歌に見る家持の前半生
 大伴家持年表 (養老二年~天平18年まで)
 西暦 和暦 天皇   家持
 年令
 大伴家持関係索引
 718  養老2年 元正     家持生まれる
 727 神亀4年   聖武  10  父大伴旅人、大宰帥となり大宰府へ赴く家族同伴。
 旅人亡妻挽歌3-438~40 旅人は大宰府で妻を亡くしている。
 旅人の妻亡き後、家持は叔母坂上郎女から大伴家の棟梁としての
 教養と歌の指導を受ける。
(730)天平2年、旅人、大納言となり帰京。
 731 天平2年     14  1/27 旅人従二位となる。7/25 旅人没 享年67歳
733  天平5年    16   家持、初月の歌6-994を詠む。この歌が家持の初作歌。
 (734)天平6年頃より家持、多くの女性と相聞歌の贈答を始める。
737  天平9年    20   この年、天然痘大流行。藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四兄弟も相次ぎ死去。橘諸兄大納言となり藤原氏亡き後の政権担当する。
 (738)天平10年、家持、内舎人として勤務か?
739  天平11年    22   家持亡妾悲傷歌3-462・464~474
744  天平16年    27   1/13 安積親王没。家持、安積親王薨去時の歌3-475~77
 安積親王薨去後の歌3-478~80。 独居平城故宅の歌17-3916~21
745  天平17年    28   家持、従五位下を授与される。
746  天平18年    29   3/10 家持、宮内少輔となる。 6/21 家持、越中守となり赴任する。
 9月、弟書持の訃報を受ける。長逝の書持を哀傷歌17-3957~59
 坂上郎女
家持育ての親であり叔母の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は家持の妻坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)の母でもあり家持にとっては姑にあたり、大伴旅人の妹で旅人の死後、大伴宗家に戻り大伴氏の大刀自(おおとじ)の役割を担い「万葉集」に八十四首の歌があるが生没年は不詳。坂上郎女は才色兼備で二度の結婚と多くの男性との相聞歌を残しています。最初の結婚で穂積皇子(ほづみのみこ)に嫁ぐが(715)霊亀元年に死別。次の結婚は正式なものではなかった様で相手は藤原不比等の四男の藤原麻呂であり、麻呂が折々郎女の家に通うという間柄であったらしいが、この関係もあまり長続きはしなかった様で養老末年頃、異母兄大伴宿奈麻呂と結婚し坂上大嬢(おおいらつめ)・二嬢(おといらつめ)を生んでいますが宿奈麻呂とは三十三歳頃に死別したといわれています。(728)神亀五年、旅人の妻大伴郎女(おおとものいらつめ)が死去すると坂上郎女は大宰府に向かい旅人と家持・書持(ふみもち)の面倒をみる。そして(730)天平二年に帰京。翌三年、旅人死去後の大伴家の家刀自(いえとじ)としての責務と家持の歌の指導にあたった。
  京職大夫藤原の大夫が大伴坂上郎女に贈るれる歌三首 卿諱曰麻呂也
4-522  娘子(をとめ)らが玉櫛笥(たまくしげ)なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば
4-523  よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
4-524  蒸衾(むしぶすま )(なこや)が下に臥せれども妹とし寝ば肌し寒しも
  大伴坂上郎女が和ふる歌四首
4-525  佐保川の小石踏み渡りぬば玉の黒馬(くろま)の来(く)(よ)は年にもあらぬか
4-526  千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし吾が恋ふらくは
4-527  来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを
4-528  千鳥鳴く佐保の川門(かはと)の瀬を広み打橋(うちはし)渡す汝(な)が来と思へば
右郎女は、佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵被ること儔無し。皇子薨しし後、藤原麻呂大夫郎女を娉ふ。郎女坂上の里に家す。仍れ族氏(うじ)を坂上郎女と号ふなり。
次の歌は失恋した坂上郎女が男への恨みを書き綴った歌ですが相手の名が無く、この歌を詠んだ年月も不明ですが、巻四の排列からすると、天平三~四年頃で相手は藤原麻呂ではないかと推察しています。

大伴坂上郎女の怨恨の歌一首 并せて短歌
4-619 おしてる 難波(なには)の菅(すげ)の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば 真澄鏡(まそかがみ) 磨(と)ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波のむた 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船(おほぶね)の 憑(たの)める時に ちはやぶる 神か離(さ)けけむ 空蝉(うつせみ)の 人か禁(さ)ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓(たまづさ)の 使(つかひ)も見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜(よる)はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)を無み 思へども たづきを知らに 手弱女(たわやめ)と 言(い)はくもしるく た童(わらは)の 哭(ね)のみ泣きつつ たもとほり 君が使を 待ちや兼ねてむ

4-620 はじめより 長く言ひつつ 恃(たの)めずは かかる思ひに 逢はましものか
他にも4-656~661や8-1432~33にも相手の名はわからないが坂上郎女の相聞歌があり、才色兼備の女性として随分と浮名を流しています。中でも藤原麻呂とは大恋愛であったことがわかります。坂上郎女は若き日の家持の生活情緒に強い影響を与えた人であり、また佐保大納言家の主的存在の才媛でもあり、この坂上郎女の許で青春期を過ごした家持は他の大伴一門の藤原氏に対する感情とは、いささか違った感情を抱いていたのではあるまいかと推察する次第です。しかも郎女の女(むすめ)に家持が恋をして結婚したのですから家持が郎女から受けた感化は非常に大きなものであったと思われます。また、坂上郎女は聖武天皇にも歌を捧げています。 
天皇に献(たてまつ)る歌二首大伴坂上郎女、春日里にありて作れり
4-725 にほ鳥の 潜(かづ)く池水 心あらば 君に我が恋ふる 心示さね
4-726 外にいて 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むといふ 鴨にあらましを 

家持の母と妹留女 ? 
大伴家持の生年は明らかではなく通説では(718)養老二年説が有力なようです。父旅人は神亀四年頃、大宰帥(だざいのそち)として九州の大宰府に妻と子を伴って赴任したと伝わるが「続紀」には記述がなく通説によると旅人は妻を大宰府で亡くした後に旅人の異母妹の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が西下し、家持、書持兄弟を養育したという。旅人は(730)天平二年、大納言に任じられ帰京。
「続紀」(731)天平三年正月二十七日条、正三位大伴宿禰旅人に授二位を授けた。
同年秋七月二十五日条、大納言・授二位の大伴宿禰旅人が薨じた。彼は難波朝の右大臣で大紫(だいし)の位の長徳(ながとこ)の孫であり、大納言で授二位を追贈された安麻呂の第一子である。
「続紀」には死去時の年齢は記されていないが通説では享年六十七歳といわれている。家持の生年を(718)養老二年とすると父旅人五十四歳の子であり、家持には弟書持(ふみもち)、妹留女(るめ)がいたことが次の歌でわかりますが、いずれも旅人の高齢期の子です。
長逝せる弟を哀傷する歌一首并せて短歌 (長歌略)
17-3957 ま幸(さき)くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも


(みやこ)の人に贈る歌二首
19-4197 妹に似る 草と見しより 我が標(し)めし 野辺の山吹 誰れか手折りし
19-4198 つれもなく 離(か)れにしものと 人は言へど 逢はぬ日まねみ 思ひぞ我
(あ)がする

右留女(るめ)の女郎(いらつめ)に贈らむために、家婦に誂(あとら)へられて作る。女郎は即(すなは)ち大伴家持の妹。 
私は留女(るめ)と訳しましたが正式には(りゅうじょ)だという説もあります。留女とは留守宅を預かる女性のことで家持は越中に単身赴任なので佐保山の大伴邸に残って留守を預かる妻坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を指しているという説がありますが、この歌の左注に大伴家持の妹と明記されているので私は左注に従いますが確かに、この妹には疑問があるのも事実です。これについては19-4214~16の所で後述します。    
万葉集巻17-3957で弟書持(ふみもち)。19-4197~8妹留女の実在がわかりますが、この二人は旅人五十六歳前後の子ということになる。当時の人として余りにも晩年の子であり、この年齢には疑問が生じるように思うのですが? 旅人と正妻の間には子はなく家持・書持・留女の母は多治比家の女性であり家持・書持は大伴家に引き取られ旅人の許で育てられ、留女は多治比の母の許で育てられたという説もありますが、それを立証する史料はなく、家持が越中守として在任仲に「京(みやこ)の丹比の家に贈れる歌」 と記された歌があり、この歌が家持の実母を推測する説の根拠ではないかと思われます。
京の丹比の家に贈れる歌一首
19-4173
 妹(いも)を見ず越の国辺(くにへ)に年経(としふ)ればわが精神(こころど)の和(な)ぐる日もなし
19-4213
 東風(あゆ)を疾(いた)み奈呉(なご)の浦廻(うらみ)に寄する波いや千重(ちえ)しきに恋ひ渡るかも
     右の一首は京の丹比の家に贈れり。
旅人が大宰府に同行したという「妻」についても大宰府で死去したという簡略な万葉集の記述以外何も判りません。ただ「続紀」に次の記述があり
「続紀」(781)天応元年八月八日条、正四位上大伴宿禰家持を左大弁兼春宮大夫(とうぐうだいふ)に任じた。是より先、母の喪によって解任されていたが、もとに復されたのである。
この記述によると家持の母がこの年まで生存していたことになります。「続紀」と「万葉集」の記述に整合性が無く、いずれが正しいのか迷うことがありますが私的には「続紀」の方を重視せざるを得ませんが、この家持の母が亡くなった天応元年は家持六十四歳なので母十八歳で家持を生んだとすると母の享年は八十四歳になり、父旅人五十四歳、母十八歳で家持が誕生したことになり、この異世代婚にも考えさせられます。また、この時代の「喪葬令(そうそうりょう)」では父母の死に対する服喪は一年と定められています。しかし家持は(780)宝亀十一年九月右大弁に(781)天応元年四月に正四位、右京大夫兼春宮大夫(とうぐうだいふ)。五月に左大弁春宮大夫に任命されているので、これらは服喪期間中の任命となり矛盾が生じます。
この母とは家持の妻坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)の母坂上郎女(さかのうえのいらつめ)とする説もありますが、坂上郎女は生没年不詳ですが旅人(665年生)の異母妹なのでその生年は668年前後と推定されます。780年頃まで生存していれば110歳を越えることになり、この説も成り立たないとおもいます。(747)天平十九年、家持が越中守として滞在中に病床に臥した時に詠んだ17-3962の題詞忽ちに枉疾(おうしつ)に沈み、殆(ほとほ)と泉路(せんろ)に臨(のぞ)む。仍(よ)りて歌詞を作り、以って悲傷を申(の)ぶる一首の長歌の中に『……たらちねの母の命の大船のゆくらゆくらに下恋(したごい)にいつかも来むと待たすらむ心さぶしく……』右天平十九年春二月二十日に越中国守(こしのみちのなかのくにのかみ)の館(むろつみ)に病に臥(ふ)して悲傷(ひしょう)し聊(いささ)かこの歌を作る。このたらちねの母とは生み育ててくれた母という意味だと解釈できると思うのですが、この歌に見る限り家持の母は健在であったと思われますが、この家持の母に関しては、どう考えても合理的な説明が出来ず謎が深まるばかりです。   
家持を大伴氏の家督を継ぐべき人物に育てるため、叔母大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられたといわれています。家持がはじめて歌を詠んだのは天平五年、十六歳の時でこの歌が家持の処女作といわれています。
 6-994 振仰(ふりさけて)若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも
万葉集巻四には家持の相聞歌が多くあり後に家持の妻となる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)、紀女郎(きのいらつめ)、中臣女郎(なかとみのいらつめ)、笠女郎(かさのいらつめ)、巫部麻蘇娘子(かんなぎべのまそのおとめ)等、既婚者、未婚者を問わず相聞往来をして青春を謳歌している姿がそこに見てとれます。笠女郎の家持宛の相聞歌が万葉集に二十九首も収録されており内二十四首が巻四(4-587~610)に一括して収録されていますが家持の返歌は二首(611・612)のみで内容も、きわめて冷淡で恋にさめ果てた歌になっており、恐らく最初の求愛の歌は家持から贈ったと思われるがその贈歌は見当たらないので故意に収録しなかったのでは無いかと思われ、そこに家持の人間性の一端を覗き見たような気がします。
家持の年齢について知る手懸りが8-1591の歌にあります。この歌の左注に『右一首内舎人大伴宿禰家持。以前は冬十月十七日に、右大臣橘卿の旧宅に集(つど)ひて宴飲せるなり』。とあり、天平十年十月以前に内舎人であったことがわかります。ただし家持が内舎人であったことは「万葉集」の記載のみで知ることができます。この内舎人制度について
「続紀」(701)大宝元年六月二日条、この度、初めて内舎人(中務省に属し、天皇側近の雑用に従う)九十人を任命し、太政官において整列・閲見を行った。と記述されており天皇の側近に侍従し、常に帯刀して宿直、警備、その他の雑事に従っていたことがわかります。内舎人の任官には「軍防令」によると『凡五位以上子孫、年二十一以上……』五位以上の者の子弟で年二十一歳に達した者を、十二月一日式部省において資格審査し優秀な者を採用しています。天平十年に家持が内舎人であったなら天平九年以前に任官していたことになり(738)天平十年の家持の年齢は二十一歳であり通常であれば、この年の十二月に資格審査を受け翌十一年の任官になるのですが天平十年十月以前に内舎人であったことが8-1591の左注で明らかになっているので家持は十九か二十歳で内舎人に任官したことになります。これは推測ですが(737)天平九年は西日本一帯に天然痘が大流行し平城京でも政権の中軸にいた藤原四兄弟を始め多くの死者が出ています。内舎人の中からも天然痘による死亡者が出て欠員が発生し補充の必要が起こり規定の二十一歳に近い者を繰上げ採用する必要に迫られ、家持もこの補充採用により二十一歳前に任官されたと思われます。
 現代の奈良市佐保山  伝大伴氏の佐保山旧宅跡  佐保川
亡妾悲傷歌の謎
ただ、家持の没年は「続紀」の記述により(785)延暦四年八月二十八日であることが判りますが享年は記されておらず、生年を(718)養老二年とすると享年は六十八歳になります。しかし、ここに一つの疑問があります。内舎人の任期は選叙令により六考制ですが(706)慶雲三年に四考制に改められており、天平年間の内舎人の任期は四年で、大過なく四年務めて在任功過に合格すると翌年正月に昇叙される規定です。家持は(745)天平十七年正月に従五位下に昇叙されているので逆算すると家持が内舎人に任官したのは(740)天平十二年となり、天平十年以前に詠んだと推定される8-1591の左注に右一首内舎人大伴宿禰家持と記されているものと符号せず、(740)天平十二年、二十一歳で任官説を取ると家持の生年は(720)養老四年生まれとなります。この他にも諸説がありますが、家持の生年は、やはり(718)養老二年説が妥当な説ではないかと思います。
(739)天平十一年、家持二十二歳の時「亡妾悲傷歌(ぼうしょうひしょうか)を作っています。
十一年己卯(つちのとう)の夏六月、大伴宿禰家持、亡(みまか)りし妾(をみなめ)を悲傷して作る歌一首。
  3-462 今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝(ね)
 
弟大伴宿禰書持、即ち和(こた)ふる歌一首
  3-463 長き夜をひとりや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
家持は亡き妾(をみなめ)を悲傷して3-462の歌を詠み、それに対して弟の書持(ふみもち)が反歌3-463を詠み、さらに家持は3-464~469の六首の長・短歌と悲緒未(かなしびいま)だ息(や)まず、更に作る歌五首。と妾の死去に際して十二首の悲傷歌を詠んで悲嘆にくれているのは少し異常な感じがします。また、この中で3-467の歌は気がかりな歌です。
3-467 時はしも何時(いつ)もあらむを心痛くい行く我妹(わがも)かみどり子を置きて
この歌でみると家持と妾の間に子供がおり、「若子(みどりこ)」といえば(3才以下)を置いて死去したものと思われます。この若子の性別は不明ですが天平九・十年生まれと推定されます。この時以後この若子は「万葉集」には登場しませんが(750)天平勝宝二年の作歌19-4214~6でこの若子に該当する人ではないかと思われる人物が登場します。
しかし、万葉学者の間で家持の妾の存在を否定し全て家持の創作歌という説と実在説があります。書持の歌を含むと十三首にもなる「亡妾悲傷歌」について今の私の能力ではいずれの説が正しいのか判断致しかねますが、亡妾を妹と詠んでいる歌が九首もあり、当時は年下の女性を妹(いも)と言ったのでしょうか?
弟、書持の歌を含むと十三首にもなる「亡妾悲傷歌」で妾の死が家持をこれほど悲嘆させたのは何故? 妾とは今流にいうなれば本妻がいるから妾の存在があると思うのですが、この時の家持は独身であるから恋人か同棲者なのですが妾(をみなめ)と記しています。この当時の家持は後に彼の妻となる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)以外に笠女郎(かさのいらつめ)をはじめ名のわかる女性だけでも十数人、ほかに娘子(じょうし)・童女(わらわめ)と記された者とも相聞往来しており、「万葉集」巻四はこれらの家持青春歌巻です。その中で妾の死にこれほどの哀傷挽歌を詠ませた妾の存在は? とても関心がありますが今の私には、この家持の妾に関してこれ以上解明する力が無いのが残念です。
因みに「大宝令」では「妾」は妻に次ぐ者として記されていることは法的に認められた存在であったと思われます。
安積親王への挽歌 
家持は(740)天平十二年藤原広嗣(ひろつぐ)の乱の時、聖武天皇の内舎人として関東行幸に従駕していますが、(743)天平十五年には聖武天皇の紫香楽(しがらき)離宮行幸には従駕せず、安積親王(あさかしんのう)と共に恭仁京に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になったという説もありますが確証はありませんが6-1040の歌の題詞に次の様に記されています。
   安積親王宴左少弁藤原八束朝臣家之日内舎人大伴家持持作歌一首
安積親王、左少弁藤原八束朝臣(ふじはらのやつかあそみ)の家にして宴する日に、内舎人大伴宿禰家持の作る歌一首。この宴席は藤原八束が安積親王を招いて開いた宴ですが万葉集に収録されているのは家持の歌のみで主人の八束や安積親王の歌がないのは疑問です?。 また、家持は親王付きの内舎人として供をした可能性もあります。この家持歌には日付がありませんが前後の歌から察すると天平十五年と思われます。翌年には家持にとって衝撃的な事件が起きます。(744)天平十六年正月十一日聖武天皇は恭仁京(くにのみや)から難波宮行幸に向かい、恭仁京留守役に長屋王の弟、鈴鹿王と藤原仲麻呂を残します。聖武一行が桜井頓宮(河内国河内郡桜井郷)についたところで安積親王が(脚の病)の為、恭仁京に引き返します。その二日後恭仁京で安積親王は急逝しています。この安積親王の行動と急逝についても諸説があり藤原仲麻呂に暗殺されたという説が有力ですが、この事件も安積親王急逝という記述以外一切史料が無く詳細は不明。このとき家持は親王と共に恭仁京に戻ったと思うのですがこれも史料が無く不明です、また、安積親王の急逝に関する背後事情等もいろいろと推測されていますがここでは省略します。家持は安積親王が謎の急死後これを悼いたんだ悲痛な歌を詠んでいます。
天平十六年甲申(きのえさる)の春二月、安積親王の薨(こう)ぜし時に、内舎人大伴宿禰家持の作る歌六首。として長歌二首(3-475・478)、短歌四首(3-476~7・479~80)
3-477  あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも
3-480 大伴の名に負ふ靫帯(ゆきお)びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくか寄せむ

安積親王を偲ぶ六首の挽歌から家持が親王に接して聖武天皇の唯一の皇子である親王が皇太子阿倍内親王即位後には次期皇太子候補となるであろう親王に名門貴族大伴家と自分の将来を全て託すつもりでいたものと思われます。
17-3913の左注に、右四月三日に、内舎人大伴宿禰家持、久邇京(くにのみやこ)より弟書持に報(こた)へ送る。この左注には年がしるされていませんが天平十五年と思われます。翌天平十六年閏一月十三日に安積親王が急逝して安積親王付きの内舎人であった家持が親王の薨去により散位になって佐保山の旧宅に戻って詠んだ17-3916~21の題詞に十六年四月五日に独(ひと)り平城(なら)の故宅(きゅうたく)に居(を)りて作る歌六首
17-3919 あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれどもとほととぎす鳴かずあらなくに
恭仁京跡 (山城国分寺跡)  大伴家持歌碑 (恭仁大橋畔)   安積親王和束墓
家持越中守赴任 
そんな家持も(744)天平十六年には内舎人(うどねり)の任期が終り、翌天平十七年正月七日の
「続紀」正六位上の大伴宿禰古麻呂・大伴宿禰家持にそれぞれ従五位下を授ける。
「続紀」(746)天平十八年三月十日条、従五位下の大伴宿禰家持を宮内少輔に任じる。宮内少輔任官で家持は約二年の散位生活を終え官職に付きますが、この二年間彼は万葉集の編纂に携わっていたという説もあります。
「続紀」(746)天平十八年六月二十一日条、従五位下の大伴宿禰家持を越中守に任じる
同年七月に家持は越中に単身赴任しています。以後(751)天平勝宝三年までの五年間が家持の越中時代です。この越中時代が家持の生涯で最も充実し、作歌意欲の旺盛な時期であったと思われ実に二百二十三首の歌を詠んでいます。彼の生涯の作歌は四百七十三首ですから半数近くの歌が越中時代の作歌になります。
越中着任後の九月に弟、書持の訃報に接し長逝せる弟を哀傷する歌一首并せて短歌
17-3957 (長歌略)
17-3958 ま幸(さき)くと言ひてしものを白雪に立ちたなびくと聞けば悲しも
17-3959 かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを
右天平十八年秋九月二十五日に、越中守大伴宿禰家持、遥かに弟の喪を聞き、感傷して作る
 大伴氏系譜
 大伴家持年表 (天平十九年~天平宝字二年)
西暦  和暦  天皇  家持
 年令
 大伴家持関係索引 
747  天平19年  聖武  30  2月.家持、枉疾(おうしつ)に苦しむ(17-3962~64)。
5月家持.税帳使として上京。
748  天平20年    31   3月.左大臣橘家の使者造酒司田辺福麻呂来越(18-4032~35)
749  天平勝宝元年   孝謙 32  4月.天皇、大仏に黄金産出を報告する。天平感宝に改元。豊成、右大  臣就任。
5月大仏鋳造完成。聖武天皇大仏殿にて三宝(ほとけ)の奴を称し詔で 大伴・佐伯氏を賞賛する。
7月.孝謙天皇即位。藤原仲麻呂.大納言に、橘奈良麻呂参議となる
8月.大納言藤原仲麻呂を紫微令に任命。
750   天平勝宝2年    33   家持婿の藤原二郎の母の死を知り、挽歌を作る。(19-4214~16)
751  天平勝宝3年   34  7月.家持少納言となる。
8月.家持、越中守離任京へ帰る。
752  天平勝宝4年    35  4月.大仏開眼。聖武太上天皇、橘諸兄宅で肆宴に家持も参加   (19-4272)。
11月.橘奈良麻呂但馬按察市使の送別宴に家持も出席(19-4281)。
754  天平勝宝6年    37  4月. 家持兵部少輔を拝命  11月.山陰道巡察使に任命される。
755 天平勝宝7年     38  2月.家持防人歌を蒐集。 5月.奈良麻呂宅で終宴(20-4450~51)。
5月.橘諸兄、丹比国人宅で集宴(20-4451)
8月.宮中にて肆宴(20-4453) 11月.奈良麻呂宅で集宴
756  天平勝宝8年    39   大原今城、兵部大丞。家持の部下となる。
2月.朝廷に対して不敬の言があったと讒言され 橘諸兄致仕。
3月. 聖武上皇の河内・難波行幸に従駕し、伎人郷の馬国人宅で歌を 詠む(20-4457)  
4月. 聖武上皇、危篤。橘奈良麻呂、謀反を計画。
5月. 聖武上皇崩御。 5月.大伴古慈斐・淡海三船が、朝廷に対する 誹謗の罪で拘束される。    
757  天平勝宝9年
八月十八日改元
天平宝字元年 
  40  1月.橘諸兄没(74)。  6月.家持、兵部大輔に昇任 
7月.橘奈良麻呂の乱、大伴・佐伯・丹比氏などの多数が連座。黄  文王・道祖王・大伴古麻呂・池主ら獄死。 
758  天平宝字2年    淳仁 41  6月.家持因幡守に左遷される。(前年の橘奈良麻呂の乱による)
759  天平宝字3年     42  1月.家持、因幡国庁に於いて万葉終焉歌を詠む(20-4516)
天平十九年二月の作歌17-3962~64の題詞 忽ちに枉疾(おうしつ)に沈み、殆(ほとほ)と泉路に臨(のぞ)む。仍(よ)りて、歌詞を作り、以て悲傷を申(の)ぶる一首。并せて短歌。左注に右天平十九年春二月二十日に越中国守(こしのみちのなかのくにのかみ)の館(むろつみ)に病に臥(ふ)して悲傷(ひしょう)し聊(いささ)かこの歌を作る。とありかなりの重病で病床に臥せっていたようです。また、この頃から越中掾(じょう)であつた部下で一族の人、大伴池主との間で活発に歌の贈答が始まります。この池主とは無二の歌友として彼が、越前国掾(じょう)に転任してからも歌の交換が続きます。
万葉集巻十八の巻頭の歌18-4032~4035の題詞に天平二十年春三月二十三日に左大臣橘卿の使者造酒司令田邊史福麻呂(さけのつかさのさくわんたなべのふひとさきまろ)を守大伴宿禰家持の館
(むろつみ)
に饗(あへ)す。ここに新しき歌を作り、并(あわ)せて便(すなは)ち古詠(こえい)を誦み、各心緒(おのおののしんしょ)を述ぶ。
この田邊史福麻呂が来越に関して造酒司令史の職掌は左大臣とは関係のない職掌なので橘諸兄の私的関係の使いとして家持の許を訪ねたものと思われます。そもそも家持の越中守任官は諸兄の推挙によるもので、礪波(となみ)郡には諸兄の子奈良麻呂の墾田があり橘氏の便宜を図るための赴任とする説もあり、万葉集編纂の打合わせ相談の為、諸兄が歌人でもある福麻呂を家持の許に派遣したとする説もあります。家持も福麻呂の来訪を喜び大いに歓待して歌の交歓をしています。
(749)天平勝宝元年四月一日条、従五位下の大伴宿禰家持を従五位上を授ける。
この年家持は大帳使(だいちょうし)として上京しており帰途妻の坂上大嬢をつれて越中へ帰っています。
 京(みやこ)より贈来(おこ)せる歌一首
19-4184 山吹の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹(いも)を偲ひつるかも
右四月五日、京に留まれる女郎(いらつめ)より送れり。
山振の花を詠める歌一首并せて短歌 19-4185
19-4186 山吹をやどに植えては見るごとに思ひは止まず恋こそ増され

19-4184の歌は京に留まっている留女郎女(るめのいらつめ)からの歌で、歌中の妹(いも)は家持と共に越中に旅立った坂上大嬢を指していると思われます。ということは家持には妹がいたと解釈できます。また、この四月五日の日付に年が記されていませんが天平勝宝二年と見られます。  
婿南右大臣家の藤原二郎慈母を弔ふ挽歌の謎
挽歌一首并せて短歌
19-4214
 長歌につき略す。
19-4215
遠音(とほと)にもにも君が嘆(なげ)くと聞きつれば哭(ね)のみし泣かゆ相思(あひおも)ふ我は
19-4216
世間(よのなか)の常なきことは知るらむを心尽(つ)くすな大夫(ますらを)にして
右大伴宿禰家持、聟(むこ)の南右大臣家藤原二郎の慈母(じぼ)を喪(うしな)ひつる患(うれ)へを弔(とぶら)ふ。五月二十七
この挽歌には月日のみで年が記されていませんが前後の歌から見て(750)天平勝宝二年と推定されます。南右大臣家藤原二郎といえば南家藤原豊成の次男で藤原朝臣継縄(ふじはらあそんつぐただ)のことで、家持は聟(むこ)と記しているので、家持の妹聟のことかと思われます。しかし留女郎女(るめのいらつめ)については、生没年不詳ですが家持・書持・留女の兄妹と仮定して留女の生年を(722)養老六年と推定すると、(750)天平勝宝二年には二十八歳であったことになります。藤原継縄の生年は(727)神亀四年なので二十三歳になります。
当時の女性の結婚適齢期は十六歳から十八歳とされるので留女之女郎が、この適齢期の十六歳で継縄の許に嫁いだとすると(738)天平十年で継縄は十一歳で、この婚姻には無理がある様です。また、継縄に嫁いだのは家持の妹ではなく(739)天平十一年、「亡妾悲傷歌(ぼうしょうひしょうか)」に詠まれた3-467の若子(わくご)が娘であったとすると生年が(737)天平九年と仮定されるので、いずれも継縄との婚姻には無理があります。
また4-786~92の題詞 大伴宿禰家持、藤原朝臣久須麻呂(ふじはらのあそみくすまろ)に報へ贈る歌三首4-786~88。と藤原朝臣久須麻呂に贈る歌二首4-789~90 があり、この歌の作歌年月は不明ですが家持の娘か妹に久須麻呂が息子の嫁にと求婚の相聞歌を送り家持がこの求婚に対して、やんわりと断っていますが、万葉学者の間にもこの求婚は成立したとする説がありますが、この場合は家持の娘婿ということなので家持と妾の間に生まれた子ということになります。そして藤原継縄に嫁いだのは家持の妹留女ということですが、いずれも年齢的に矛盾があり真相は藪の中ですが、久須麻呂の息子、三岡と家持の娘の婚姻については異論も多いようですが、継縄と留女の婚姻について異論が少ないようです。それは家持の19-4214~16の左注『聟(むこ)の南右大臣家藤原二郎…』があるからだと思いますが、留女は継縄の嫡妻(ちゃくさい)ではなかったという説もあり、この家持の妹留女と若子については「万葉集」以外に史料が無く、この矛盾を解く鍵が見当たりません。   
百済王明信について
さらに「続紀」と「日本後紀」には藤原継縄の正室百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)に関する次の記述があります。
「続紀」(787)延暦六年八月二十四日条、高椅津(たかはしのつ)に行幸(桓武天皇)した。帰途、大納言・従二位の藤原朝臣継縄(つぐただ)の邸宅に立ち寄って、継縄の正室で正四位上の百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)に従三位を授けた。
継縄は妻の明信が百済系渡来氏族出身であり、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠(たかのにいがさ)を母に持つ、桓武天皇からの個人的信頼が厚く、藤原種継亡き後の桓武天皇の寵臣で天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。例えば
「続紀」(791)延暦十年の冬十月十日条、天皇は交野(かたの)に行幸して、鷹を放って遊猟された。右大臣藤原継縄の別荘を行宮(かりのみや)とした。
十月十二日条、右大臣が百済王氏らを率いて、天皇のために百済の楽を演奏させた。そこで天皇は、正五位下の藤原朝臣乙叡(たかとし/父桓武・母百済王明信)従四位下を、従五位下の百済王玄風(げんぷう)・百済王善貞(ぜんじょう)にそれぞれ従五位上を、従五位下の藤原朝臣浄子(きよこ)に正五位下を、正六位上の百済王貞孫(じょうそん)に従五位下を授けた。  
百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)。男性のような名前ですが女性です。桓武天皇の後宮にに出仕して尚侍司の尚侍(ないしのつかさのないしのかみ)従二位にまで昇進しています。
尚侍司とは天皇や后妃に仕える後宮十二司の一つで尚侍以下典侍(てんじ/ないしのすけ)掌侍(しょうじ)ほか百十名が所属し、尚侍は奏請(臣下の言葉を天皇に伝える)や伝宣(天皇の言葉を臣下に伝える)職務から後宮に仕える女官全般を取り仕切るもので、その長官が尚侍で従って、明信は桓武朝の後宮の頂点にあり、絶大な権力を握っていたのです。明信は、桓武天皇が皇位につく前、山部王と呼ばれていた頃の初恋の女性だったのです。そのことは次の「日本後紀」の記述によって知ることができます。
(795)延暦十四年四月十一日条、曲宴が催された。天皇が古歌を誦(しょう)した。
    いにしえの野中ふる道あらためば あらたまらむや 野中ふる道
歌意《
昔、人目をしのんで逢い引きするために急いだ野中の細い道、今もありありと瞼に浮かんでくる。あの日の胸のときめきが、そのまま今よみがえってくる。帰れるものなら、もう一度、あの日に帰りたい。
天皇は尚侍(ないしのかみ)従三位百済王明信に勅して応答の歌を作ることを求めたが、作ることができなかった。そこで、天皇はみずから明信に代わって次の和歌を詠んだ

   きみこそは忘れたるらめ にぎ珠(たま)のたわやめ我は 常の白珠
歌意《陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれませんが、私は常に光の変わらない白珠のような状態でいますこの応答歌に侍臣は万歳を叫んだ。侍臣の居並ぶ曲宴の席でこのような歌を天皇が詠まれるのは、天皇と明信との若き日の間柄は公然の秘密であったようです。         
以下は「日本後紀」の記述
(794)延暦十三年七月九日条、山背・河内・摂津・播磨等の国の稲1万1千束を従三位百済王明信・従四位上五百井(いおい)女王・従五位上置始(おきそめ)女王・従四位上和気朝臣広虫(わけのあそんひろむし)・因幡国造浄成(いなばのくにのみやつこきよなり)ら十五人に賜わった。新京に家を造るためである。
延暦十八年二月七日条、従三位百済王明信に正三位を授けた。(明信の記述以外略)   
藤原氏系譜
(755)天平勝宝七年、兵部少輔として難波津で防人(さきもり)交替業務に従事していた家持が防人たちから歌を収集して巻二十に収めています。家持も防人の別れを悲しむ心を後に痛んで作った歌一首并せて短歌 
20-4332 ますらをの靫(ゆき)取り負ひて出(い)でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
20-4333 鶏が鳴く東男(あづまをとこ)の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み
       右は、二月八日、兵部少輔大伴宿禰家持。
河内国伎人郷の馬国人の家にして宴せる歌  
三月七日に大伴家持・池主が河内国伎人郷の馬国人の家に招かれ歌宴が催され三首の歌が詠まれ、その歌を万葉集巻20-4457~4459に記載しています。これに対して歌宴の席上で詠まれたのは20-4457~4462の七首であるとする説もありますが、4460~4462の三首には右三首江邊作之と記されており、他日江邊(堀江?)で作られた歌であり「続紀」によると三月一日、太上天皇(聖武)は難波の堀江のほとりに行幸されたとあるので、家持も供奉したと思われその時に作った可能性もあり、それを国人家の歌宴で披露したものか? しかし次の4463・64の二首には右二首廿日大伴宿祢家持依興作之と記されており、4460~4462の三首は三月七日と廿日の間に記載されているので、その間に作られたとも考えられるが、作歌の日付がないのでいずれとも断定し難い。
国人の家での詠み歌が三首とは少ないと思われるが何首か詠まれていても家持の意に適った歌はこの三首であった為これが万葉集に取り上げられたとも考えられます。
下記は三月七日、馬国人の家で詠まれた歌三首。  

20-4457 住吉(すみのえ)の 浜松が根の 下延(したは)へて 我が見る小野の 草な刈りそね
                           右一首兵部少輔大伴宿祢家持

20-4458 にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽(ことつ)きめやも 古新未詳
                           右一首主人散位寮散位馬史国人

20-4459 葦(あし)刈に 堀江漕ぐなる 楫(かじ)の音は 大宮人の 皆聞くまでに                               右一首式部少丞大伴宿祢池主読む      即ち云はく「兵部大丞大原真人今城先つ日に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ
                                         
 国人が詠んだ4458の『息長川』の歌意については『馬国人』のペ-ジで述べています故ここでは省略いたします。下記をクリックしていただくとご覧いただけます。
万葉歌20-4458の歌詞の解釈について   
                  
聖武天皇の詔書と家持 
(749)天平勝宝元年四月一日、天皇は東大寺に行幸し廬舎那(るしゃな)仏像の前殿に出御し、北面して像にむかった。皇后・皇太子(阿倍内親王)はともに近侍した。橘宿禰諸兄を遣わして大仏に次の様に述べさせた(宣命体)三宝(みほとけ)の奴としてお仕え申し上げている天皇の大命(おおみこと)として、廬舎那仏像の御前に申し上げよう、と仰せられます。この大倭国では天地の開闢以来、黄金は他国より献上することはあっても、この国にはないものと思っていたところ、統治している国内の東方の陸奥国の国守である、従五位上の百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)が、管内の小田郡に黄金が出ましたと申し献上してきました。これを聞いて天皇は驚き喜び貴んで思われるに、これは廬舎那仏がお恵み下さり、祝福して頂いた物であると思い、受け賜り恐(かしこ)まっていただき、百官の役人たちを率いて礼拝してお仕えすることを、口に出すのも恐れ多い三宝の御前に、かしこまりかしこまって申し上げますともうします。
続いて従三位・中務(なかつかさ)卿の石上(いそのかみ)朝臣乙麻呂が、次の様に宣命(せんみょう)を述べた。(この宣命は前後を省略して大伴氏関連箇所のみ記述します)
…大伴・佐伯の宿禰は、常にも言っているように天皇の朝廷を守りお仕え申し上げることに、己の身を顧みない人達であって、汝らの祖先が言い伝えてきたことのように、海ゆかば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじと言い伝えている人達であるとお聞きになっている。そこで遠い先祖の天皇の御代から、今の朕の御代においても、天皇をお守りする側近の兵士と思ってお使いになる。そのようであるから子は先祖の心のような心となることが、子としてあるべきことである。この心を失わないで明るく浄い心をもって仕え申し上げよ…
この聖武天皇の大伴氏に対する絶大な信頼にたいして感動した家持は長歌と短歌でこたえています。18-4094の長歌は家持の長歌のなかでも最も長い歌なので省略して短歌のみ。
18-4096 大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥つ城(き)は著(しる)く標立(しめたて)て人の知るべく
18-4097 天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あずま)なる陸奥山(みちのくやま)に金花(くがねはな)咲く
聖武天皇は大伴・佐伯両氏の名をあげ「内兵(うちのいくさ)」として代々の天皇に仕えてきた忠勤を褒め讃えた。この頃皇太子阿倍内親王を廃立しようとする動きが一部にあり武門の家柄として潜在的な軍事力を持つ両氏に対して「内兵」の自覚を促すことで軽挙に走らぬよう働きかける警告の意味が含まれていたとする説もあります。
この宣命と昇叙の報せ(従五位上授与される)を越中で受けた家持の感激はいかばかりであったことでしょう。
橘奈良麻呂の変と家持 
(755)天平勝宝七年十一月、家持にとっても政局にも重大な影響を及ぼす事件が発生した。この頃、太上天皇(聖武)の病状がおもわしくない折に「左大臣飲酒の庭にして、言辞礼なし、稍反状あり」と密告するものあり、左大臣橘諸兄の「言辞礼なし、稍反状あり」との件はその月二十八日に子息奈良麻呂邸の宴でのことであり、諸兄の言動がどの様な内容であったのか記録が無く不明。しかしこの件で翌年二月に左大臣を引責辞任することになる。一説によると政敵藤原仲麻呂の陰謀によるという。家持のよき庇護者でもある諸兄であったが家持はこの宴席に出席していなかった。これは偶然か或いは奈良麻呂の日頃の言動からキナ臭さを感じ距離を置き始めたものか? この宴席に出ていた越前守佐伯美濃麻呂・佐伯全成(またなり)は朝廷に出頭を命じられ事情聴取を受けたが太上天皇の病状悪化の折に政局不安定化することを憂えた光明皇太后が介入し左大臣辞任で事態を収拾した。(729)天平元年、藤原氏の陰謀術策で左大臣長屋王が自害に追い込まれた事件と、この左大臣橘諸兄失脚事件の違いは、きわどいところで異母妹の光明皇太后の介入で左大臣辞任で幕引きと成り仲麻呂は諸兄を太上天皇に対する不敬罪に陥れることが出来なかったことである。しかし翌天平勝宝九年正月六日に諸兄は失意のうちに薨じた。家持は天平勝宝三年、少納言遷任の時
19-4256
(いにし)へに君が三代経(みよへ)て仕(つか)へけりわが大主(おおぬし)は七世(ななよ)申さね
と詠んでいるが諸兄の死去に際しては挽歌を詠んでいない。
「続紀」は天平勝宝八年五月二日、この日太上天皇(聖武)が内裏の寝殿において崩御されたと記す。太上天皇(聖武)の崩御にさいしても家持の挽歌は見当たらない。
その八日後、大伴古慈斐(こしび)・淡海三船(おうみのみふね)が「朝廷を誹謗し、人臣の礼なし」という嫌疑で衛士府に拘禁される事件が起きるが二日後に天皇の命により二人は釈放される。この事件は藤原仲麻呂が太上天皇崩御後の政局混迷に便乗して政敵一掃に乗り出した最初の事件で世間に大きな衝撃を与えた大伴古慈斐は仲麻呂の祖父不比等に見込まれ、その娘を娶っており藤原氏とは浅からぬ縁のある人物で当時は大伴氏族の家長的存在であった人であるだけに家持の受けた衝撃のほどが偲ばれる。家持はこの事件後に族(やから)を喩(さと)す歌 一首并せて短歌20-4465~67の左注に淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によると記しているが「続紀」には次のように記されており淡海三船の讒言とする家持の左注の記述とは異なります。
(756)天平勝宝八年五月十日条、出雲守・従四位上の大伴古慈斐と内堅(ないじゅ)淡海真人三船は、朝廷を非難悪口し、臣下としての礼を失したという罪に連座させられ、左右の衛士府に拘禁された。
同年五月十三日条、天皇は詔して二人をともに放免された。 
 族を喩す歌に続き病に臥して無常を悲しむ歌  「万葉集」巻20-4466~7の左注(淡海三船讒言をしるす)
聖武太上天皇崩御、橘諸兄の死去、一族の長老大伴古慈斐解任事件、橘奈良麻呂の謀反計画の進行と物情騒然とした中で家持を取り巻く重圧環境から病に臥し
(やから)に喩(さと)す歌一首 短歌を并せたり
20-4465 (長歌略す)
20-4466 磯城島(しきしま)の大和の国に明(あけ)らけき名に負ふ伴の緒(お)心つとめよ
20-4467 剣太刀(つるぎたち)いよよ研ぐべし古(いにしえ)ゆ清(さや)けく負ひて来にしその名そ
右は、淡海真人三船の讒言(ざんげん)に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈斐宿禰解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作れり。
「続紀」の記述とは異なり、いずれが正しいのか判断しかねます。「続紀」では淡海三船を内堅(ないじゅ)と記していますが、内豎(ないじゅ)とは宮中の行事や日常の雑事の処理に召し使われた者で少年が多いそうです。淡海三船は(722)養老六年生まれで弘文天皇の曾孫池辺王の子で御船王と称し(751)天平勝宝三年に臣籍降下した際、淡海真人の氏姓を賜与され御船王から淡海三船に改名しています。
家持が4465~4467の族に喩す歌を作った時には一族の古麻呂や池主らから奈良麻呂の蜂起に関する情報の詳細が家持にももたらされていたと思われ、家持の参加も求められていたであろう。しかし悩みに悩んだ家持はこの歌で己の立場を表明したのでしょうが、なお家持は亡き諸兄に対する恩義、子息奈良麻呂との朋友関係に悩み次の歌を詠んでいます。
病に臥して、無常を悲しび、修道を欲して作る歌二首
20-4468 うつせみは 数なき身なり 山川の 清(さや)けき見つつ 道を尋ねな
20-4469 渡る日のかげに競(きそ)ひて尋ねてな清(さや)きその道またも偶(あ)はむため
寿(いのち)を願ひて作る歌一首
20-4470 泡沫(みつぼ)なす仮(か)れる身そとは知れれどもなほし願いつ千歳(ちとせ)の命を

「泡沫
(みつぼ)なす仮れる身そ」「うつせみは 数なき身なり」は同意語だと思うのですが「なほし願いつ千歳の命を」と詠むのは矛盾しているように思うのですが。家持が族人に対して強い調子で大伴氏の武名を長く維持すべきことを説いた歌20-4465~67を作った同日に4468-69では「この世の中から逃げてしまいたい」と4470では永遠の命を願うという複雑な心境です。家持の心がこのような矛盾する二面の間を揺れ動いています。
この時期既に奈良麻呂一派のク-デタ-情報は公然の秘密であったようで(757)天平宝字元年六月九日、反仲麻呂派の不穏な動きに対して孝謙天皇は次の五条を制定しています。
『諸氏族の氏(うじ)の上(かみ)らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集めている。今後はこのようなことがあってはならない』
(その一)王族や臣下の所有する馬の数は、格による制限がある。この制限以上に馬を飼ってはならない。
(その二)令の定めによれば、所持する武器について限度のきまりがある。この規定以上に武器を蓄えてはならぬ。
(その三)武官を除いては、宮中で武器をもってはならない。これは以前から禁断している。しかるになおこれに違反する者がある。所司に布告して厳重に禁断せよ。
(その四)宮中を二十騎以上の集団で行動してはならぬ。
(その五)以上について所司に布告して厳重に禁断せよ。もし違反者があれば違勅の罪を科せ。
『続紀』によると、この物情騒然たる中で山背王(やましろおう)が「橘奈良麻呂が兵器を用意して田村宮を包囲することを計画しています。正四位下の大伴宿禰古麻呂も、その内情をよく知って加担しております」と訴えてきた。これに対して七月三日に孝謙天皇・光明皇太后が塩焼(しおやき)・安宿(あすかべ)・黄文(きぶみ)の三王と橘奈良麻呂・大伴古麻呂を禁中に呼びいれ、詔(宣命体/漢字で綴ったもの)して奈良麻呂らの決起を諌められた。光明皇太后の詔(宣命体)『塩焼王ら五人が謀反を企てていると、ある人が告げて来た。汝ら一同は、わが甥同然の近親者であるから。吾を怨むようなことがあろうとは、少しも思い及ばなかった。汝らを朝廷は大変高い位につけておられるのに、何を怨めしいことと思ってこのようなことを企てたのか。このようなことはあろうはずがないと思う。それ故、汝らの罪は許してやる。これから先このようなことがあってはならぬぞ。』この詔が出た当日の夕方、中衛舎人の上道臣斐太都(かみつみちのおみひたつ)が仲麻呂に「黄文(きぶみ)王・安宿(あすかべ)・橘奈良麻呂・大伴古麻呂等の叛乱」を報告してきた。翌四日に道祖(ふなど)王他三王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂他全員が検挙され黄文王・道祖王・大伴古麻呂のほか多治比犢養(たじひのこうしかい)・小野東人(おののあずまひと)・賀茂角足(かものつのたり)らは、それぞれ拷問の杖下に惨死した。安宿王とその妻子は佐渡に流罪。信濃国守佐伯大成(おおなり)・土佐国守大伴古慈斐(こしび)はそのまま任国に流罪。遠江守多治比国人は伊豆国に流罪。陸奥国守佐伯全成(またなり)は喚問を受けて自殺。橘奈良麻呂・大伴池主らの処分について「続紀」には何も記されていないが、やはり拷問の杖下に惨死したと思われます。
七月五日、従四位の山背王・巨勢朝臣堺麻呂を従三位に、従八位上の上道臣斐太都に従四位下を、正七位下の県犬養宿禰佐味麻呂(あがたいぬかいのすくねさみまろ)・従八位上の佐味朝臣朝臣宮守(さみあそんみやもり)に従五位下を授けた。これらは共に奈良麻呂の陰謀を密告した人々である。また、右大臣藤原豊成は、この事件を事前に知りながら奏上しなかった、事件発覚後も積極的に究明に努めなかったという事由で大宰員外師(だざいのいんがいそち)に左遷される。
(758)天平宝字二年六月、家持、前年の奈良麻呂の変が原因と思われる件で因幡守に左遷される。この頃の家持の作歌はめっきり少なくなっている。奈良麻呂の変は家持が公私共に親しかった奈良麻呂・池主や長老古麻呂の無残な死や古慈斐・国道の流罪等で家持に大きな心的外傷を与えたそれかあらぬか奈良麻呂の変後に家持の作歌は少なくなり天平宝字二年七月五日に大原今城(おおはらいまき)が因幡に発つ家持のために送別の宴を催した時に詠んだ歌一首。
七月五日治部少輔大原今城の宅にて因幡守大伴家持に餞(はなむけ)せる宴の歌一首
20-4515 秋風のすゑ吹き靡(なび)く萩の花ともに挿頭(かざ)さずあひか別れむ
                   右一首大伴宿禰家持作之
因幡国へ赴任してからも一首の歌も作らなかった家持が(759)天平宝三年雪の正月を迎え年賀に訪れた郡司らを饗応する席で家持は歌を披露しています。
20-4516  新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)
この歌が万葉集の最後の歌になる。いや家持最後の歌となる。これ以後家持は一首の歌も詠んではいません。家持はこの後二十六年間の生存中一首の歌も詠まなかったとは考えられないことですが、実際に作歌した記録がない以上家持晩年の作歌はなかったと思はざるを得ません。
この橘奈良麻呂の変は藤原氏対橘氏の争いに大伴氏が橘氏に加担し変後に多くの犠牲者を出すことになります。また、家持はこの事件では優柔不断の態度に終始しますが、藤原氏に対する認識について大伴宗家の佐保大納言家を継いだ家持と一族の間に大きな溝があったのではないかと思われます。この頃の大伴家の氏上としての実力は古慈斐や古麻呂が握っていたと思われ「族に喩(さと)す歌」で一族に自重を促したが殆ど無視された結果になっています。
この事件を密告した山背(やましろ)王は安宿王・黄文王の弟であり、二人の兄を仲麻呂に売ったことになります。この兄弟の母は那娥子(ながこ父は長屋王)は藤原不比等の娘であった為死罪を免れます。
道祖(ふなど)王は聖武太上天皇の遺言で皇太子になったが仲麻呂の謀略によって廃太子になる。右大臣藤原豊成(仲麻呂の兄)の三男乙縄(おとただ)も事件関与の疑いで拘束され、豊成左遷の一因となる。この事件に関与したとされる塩焼王は直接謀議に加わっていないことと父新田部(にいたべ)親王の功績を考慮して皇族身分を剥奪し氷上真人塩焼と改名することになる。塩焼王・道祖王も新田部親王(天武の皇子)の子で邸宅は右京五条二坊(現唐招提寺)にあり親王の没後は道祖王が住んでいたが没官された。この事件の密告者上道臣斐太都の七階級特進で朝臣を賜姓され中衛少将に抜擢されているのが注目される。このような一連の動きを見るとこの事件は仲麻呂の政敵駆逐の謀略であった可能性が高いと思われます。
大伴家持  因幡国の国庁跡  大伴旅人 
2015年11月前々からの宿願であった家持が終焉歌を詠んだ因幡国庁跡を訪ねる機会に恵まれました。天平宝字三年(759)正月因幡国庁に於いて国郡司らと宴し万葉集最後の歌を作った所です。
万葉集巻二十卷四五一六   新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉言
                           右の一首 守大伴宿禰家持作る
前年因幡守に左遷され赴任した、この地で迎えた元旦に詠んだこの歌が家持の生涯に於ける最後の歌になり、万葉集全二十巻の終焉歌になったのは何故か?この時家持42才で以後、延暦4年(759)8月に中納言従三位春宮大夫兼持節東将軍として任地の陸奥国にて68才で死去するまで一首の歌も詠んでいません。
人生の前半生にあれだけの歌を詠んだ家持が因幡国で詠んだ四五一六で終焉に至ったことについては万葉学者の間でも種々の論議がありますが永遠の謎でしょう。 

家持後半生とその後 
西暦  和暦  天皇  家持
 年令
   家持関係事項と歴史事項   
762  天平宝字6年    45   1月.家持信部大輔に任じられる。 因幡帰京 
763  天平宝字7年   46  3月.藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人・家持による恵美押勝暗殺計画 が発覚する。宿奈麻呂は官位を剥奪され、家持らは現職解任のうえ京外に
 追放される。
764  天平宝字8年  承徳  47  1月.家持薩摩守に左遷される。  9/ 恵美押勝の乱
 10月.大炊王、天皇を廃され淡路に配流される。孝謙上皇再祚称徳天皇
765  天平神護元年    48  2月.薩摩守解任され帰京、散位となる。  
767  神護景雲元年    50   家持大宰少弐に任命される。
770  宝亀元年  光仁  53   6月.家持、民部少輔拝命。 9/16左中弁兼中務大輔拝命。
 10月.家持正五位下に昇叙。
 8月.称徳天皇崩御。天武直系の皇統は女帝の死により断絶する。
771  宝亀2年    54   11月.家持、従四位下に昇叙される。★この頃万葉集編纂完了説あり。
772  宝亀3年    55   2月.家持左中弁兼式部員外大輔に任命される。
 3月.巫蠱(ふこ)の罪により井上内親王、皇后を廃せられる。
 5月. 母の罪により、他戸親王(おさべしんのう)皇太子を廃せられる。
 歌わぬ人家持と相次ぐ事件
(749)天平勝宝元年、聖武天皇は健康上の問題から阿倍内親王に譲位され孝謙天皇となる。(756)天平勝宝八年五月二日、聖武太上天皇が崩御される、遺詔して中務卿・従四位上の道祖王(ふなどおう)を皇太子に任命する。道祖王の祖父は天武天皇、父は新田部親王(にいたべしんのう)。しかし、翌年三月には、孝謙天皇の命令で先帝への服喪の期間中哀悼の心がなかった。という理由で皇太子を廃された。同年四月、後任の皇太子として大炊王(おおいおう)が立太子する。王は天武天皇の皇子・舎人親王の七男で天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった大炊王が立太子したのは藤原仲麻呂の推挙によるもので大炊王は仲麻呂の子・真従(まより)の未亡人である粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深い関係にあった。(758)天平宝字二年、八月一日、孝謙天皇は仲麻呂が意図したとおり皇位を皇太子に譲位して大炊王は淳仁天皇となる。(762)天平宝字六年、信部大輔(しんぶだいふ)となって平城京へ帰ってきた家持は、今度は「藤原良継の変」に巻き込まれる。この事件も密告するものがあり「良継が佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、石上宅継(いそのかみのやかつぐ)、大伴家持らと共謀して恵美押勝(藤原仲麻呂が改名)を殺害しようとしている」訴えたが良継が共謀をあくまで否定した為、一人罪を問われ、家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せられる。翌(764)天平宝字八年正月、前年の暗殺未遂事件疑惑による左遷で家持は薩摩守に任じられる。同年九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。この乱では淳仁天皇は後見人であった恵美押勝(仲麻呂)につかず中立を維持するが、孝謙上皇より「仲麻呂と関係が深かった」ことを理由に廃位を宣告され、淡路島へ流罪となるが、「続紀」(765)天平神護元年十月二十二日、『淡路公(淳仁天皇)は幽閉された墳りに耐えられず、垣根を乗り越えて逃亡した。淡路守の佐伯宿禰助(たすく)・掾(じょう)の高屋連並木(たかやのむらじなみき)らが兵を率いて逃亡を阻止した。淡路公は引き戻された翌日、押し込められた一郭の中で薨じた』と記されている。
(765)天平神護元年、家持薩摩守解任。散位となる一説によると散位の二年間は万葉集編纂に没頭したという。
(767)神護景雲元年八月、家持、大宰少弐に任命される。
(770)神護景雲四年六月、家持、民部少輔に遷任される。同年八月称徳天皇(孝謙の重祚)が崩御。独身の女帝に皇太子はなく、聖武没後の度重なる叛乱事件で天武天皇の嫡流にあたる皇族がいなくなって聖武の皇女、井上内親王(いがみのないしんのう)を妃にもつ白壁王が皇太子に就き光仁天皇となる。天皇は天智天皇の孫、施基皇子(しきのみこ)の第六皇子で即位時は六十二歳であった。白壁王と井上内親王との子、他戸王(おさべおう)が称徳天皇の遺宣で光仁天皇の皇太子となる。天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人である。光仁天皇即位とともに、家持は正五位下に昇叙される。天平二十一年以来、実に二十一年ぶりの叙位である。以後家持は急速に昇進を重ねることになる。
(772)宝亀三年、前年に従四位下に昇叙した家持を左中弁兼式部員外大輔に任命される。この年三月に、皇后の井上内親王が呪詛(じゅそ)の罪[光仁天皇の姉、難波内親王を呪い殺したとされ]に連座して、皇后の地位を廃されるという事件が勃発する。
同年五月二十七日、天皇は皇太子の他戸親王を廃して庶人(しょにん)とした。天皇は次の様に詔した。
『天皇のお言葉であると仰せられるみことのりを、百官人たち、および天下の人民はみな承れと申し告げる。今皇太子と定めてあった他戸王の母である井上内親王が、呪詛によって大逆をはかっていることは一度や二度のことではなく、度々発覚している。そもそも高御座(たかみくら)の天の日継の座(くらい)というものは、自分一人の私的な位ではないと思っている。それ故、皇嗣と定めもうけられた皇太子の位に謀反・大逆の人の子を決めておいたなら、公卿たち百官の人たち、天下の人民たちがどう思うであろうか。朕は恥ずかしくおそれ多い。それだけでなく、後世が平安で末永く欠けることがないような政治でなければならぬと神として思うので、他戸王を皇太子の位を停(とど)め退(しりぞ)ける、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申し付ける』と「続紀」は記しています。
井上内親王宇智陵   光仁天皇陵  藤原不比等の長子である武智麻呂が不比等の菩提を弔うため(719)養老3年に創建したと伝わる。国宝の八角堂(栄山寺)  
775  宝亀6年  58   11月.衛門督を拝命。 4/25 幽閉中の井上内親王・他戸王、変死。
777  宝亀8年 60   1月.家持、従四位上に昇叙。
780  宝亀11 63   2月.家持、参議兼右大弁を拝命。
781  天応元年  桓武 64   4月. 家持、右京大夫兼春宮大夫を拝命。 4/15正四位上に昇叙。 
 5月. 左大弁を兼ねる。  11/15従三位に昇叙公卿に列する。
782  延暦元年  65   1月.家持、氷上川継の乱に連座、現職解任される。
 5月.春宮大夫に復任される。
 6月.陸奥按察使鎮守将軍兼任となり陸奥に赴任。
783  延暦2 66   7月.家持中納言拝命
784  延暦3年  67   1月.家持、持節征東将軍に任命される。 家持、息子の永主従五位下に叙任。
785  延暦4年  68   8月. 家持、陸奥国にて死去。
 9月. 中納言・正三位藤原朝臣種継長岡京造営中に暗殺される。
 9月. 大伴継人・大伴竹良ら数十人暗殺犯として逮捕。
 家持、藤原種継暗殺事件の首謀者として除名処分、息子の永主も流罪。
796  延暦15年      7月.藤原朝臣継縄が死去した。
806  大同元年     3月.家持無罪確定、従三位に復位。 息子永主、遠島先の隠岐島より帰京許   可がでる。
(775)宝亀六年四月二十七日、井上内親王と他戸王がともに卒した。
大和国宇智郡に幽閉されていた、母子二人が同時に没しています。これについて毒殺説が有力である。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えたことになります。「続紀」(777)宝亀八年十二月二十八日、井上内親王の遺骸を改葬した。その塚を御墓(みはか)と称して墓守一戸を置いた。という記述があり光仁天皇もこの頃には廃皇后の呪詛事件が冤罪であったことを認識したものと思われます。 
藤原百川の策謀により六十二歳の老天皇白壁王が即位した。天皇は天智天皇の第7皇子・施基親王の第6子で、本来なら皇位継承者には程遠い存在であり、度重なる政変で多くの親王や王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたと言われている。妻は聖武天皇の皇女である井上内親王で、この内親王も権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王(光仁天皇)と結婚したのだが、運命とは皮肉なもので称徳女帝に後継者がなく、藤原百川の策謀で第49代天皇として即位することになるが、百川の讒言で井上皇后と他戸皇太子を廃位させ死に追いやることになる。他戸皇太子を廃位させた後に立太子したのが山部親王(後の桓武天皇)です。これら一連の事件が藤原百川の謀略であることは「公卿補任(くぎょうぶにん)に『百川公は数々の奇計を案出して、山部王の立太子を実現し』と記されているのを見ても光仁即位井上内親王・他戸親王廃位事件が百川の策略であったことを立証しています。 
(776)宝亀七年から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、翌八年、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓(みはか)と追称。さらに(800)延暦十九年、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。のちに慰霊のために霊安寺(廃寺)が建立され、更には霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社も創祀された。
天智天皇の第七皇子である志貴皇子の第六子の白壁王が皇位につくことは誰も予想だにしなかったが、藤原百川(ももかわ)や永手(ながて)らが強力に推したためといわれる。早良は父の白壁王が天皇になったため父の要望で還俗する、光仁天皇は皇太子山部王に安殿(あて)親王という実子がいるにも関わらず早良親王を皇太子山部王の後継者に指名する。光仁天皇は高齢であり政権安定のためにも東大寺を抑えておくことが肝要であると考え東大寺に強い早良親王を桓武の後継者にしておくのが最良の方策と考えていたらしい。しかし桓武天皇は天武系の皇都であり東大寺をはじめ守旧派の勢力基盤である平城京から脱出する遷都構想をもっており、この光仁天皇の立太子介入は甚だ迷惑であったが断るわけにも行かず渋々受け入れたものと思われます。むしろ桓武天皇は実弟、早良親王より実子安殿(あて)親王を皇太子にという感情が強かったのでしょう。
氷上川継の乱 
「続紀」(782)延暦元年春正月十六日、従五位下の氷上真人川継を因幡守に任じた。
(782)延暦元年閏正月十一日、因幡国守・従五位下氷上真人川継が謀反を起こし、事が露見して遁走した。
川継謀反事件を報じる「続紀」の記述です。奈良朝末期からの権力闘争で皇族間にも多くの犠牲者を出し聖武天皇の血族の男子は氷上川継ただ一人となっていた。川継の父は塩焼王(天武の孫)、母は不破内親王(聖武の皇女)と父母ともに天武系であり、 光仁・桓武の天智系王朝に不満をもっていたのかも知れない。対する桓武は藤原百川の策謀で廃位に追い込まれた井上内親王・他戸皇太子の後に立太子する。母系に帰化人の血が流れている山部王(桓武)にとっては思いもかけなかった皇位継承者の地位につくことが出来たのである。それは父の光仁天皇も同じである。皇后の呪詛事件の時も百川の事件報告にたいして深く疑義を追求することも憚られ、百川の思惑通りに事が進んだ形跡が窺われます。ただ桓武即位の時には百川は他界しており、光仁帝のように配慮すへき臣下もなく桓武親政政権としてスタ-トできたようです。(783)延暦二年に、桓武天皇は百川生前の労を追思し、詔して右大臣を贈っています。
次に「続紀」の記述で氷上川継謀反事件を追ってみると不審な点が浮かんできます。
(782)延暦元年閏正月十四日、氷上川継を大和国葛上(かずらぎのかみ)郡で捕らえた。
天皇は次の様に詔した。氷上川継は密かに反乱を謀ったが、事件はすでに発覚した。法によって裁断すれば罪は極刑にあたる。川継の母不破内親王も反逆者の近親であるからまた重罪にあたる。但し諒闇(りょうあん/天皇の服喪)が始まったばかりで山陵の土も乾いていない。哀悼の気持ちでまだ刑を論ずるには忍びないので、川継はその死を免じて遠流に処し、不破内親王と川継の姉妹は淡路国に移配せよ…川継は塩焼王の子である。初め川継の資人(とねり)の大和乙人(やまとのおとひと)が、密かに武器を帯びて宮中に許可なく進入した。担当の官人が捕らえて問いただすと、乙人は白状して「川継は、今月十日の夜に衆を集めて、平城宮の北門より入り、朝廷を覆そうと陰謀をめぐらしました。そのために乙人を遣わして、一味の宇治王を引き入れて決行日に参加させようとしています」といった。それで天皇は勅して、使者を遣わし川継を召還した。しかし川継は勅使が到着したと聞いて、密かに裏門から出て遁走し、ここに居たり、捕らえられた。天皇は詔して、死罪より一等を減じて伊豆国三嶋に配流した。妻の藤原法壱もともに従った。閏正月十八日、天皇は大宰府に勅した。氷上川継は謀反をして罪人になった。大宰員外師(いんげのそち)である藤原朝臣浜成の娘は川継の妻である。思うに浜成もまた川継の一味であろう。そこで浜成の任じられている参議並びに侍従の官職は解任する。ただし大宰員外師はそのままでよい。正五位上の山上朝臣船主を左遷して、隠岐介とし、従四位下の三方王を日向介とした。ともに川継の一味であったからである。閏正月十九日、左代弁・従三位の大伴宿禰家持、右衛士督・正四位上の坂上大忌寸刈田麻呂、散位・正四位下の伊勢朝臣老人、従五位下の大原真人美気、従五位下の藤原朝臣継彦ら五人は、官職にある者はその現職を解任し、官職にない散位の者は居住地を京外に移した。ともに川継の事件に連座したためである。それ以外の仲間は合わせて三十五人で、或いは川継の姻戚であったり、或いは平生からの知人や友人たちである。それぞれまた京外に追放した。
「続紀」同年五月十七日、参議・従三位の大伴宿禰家持を春宮大夫(とうぐうたいふ)に任じる。謀反事件に連座したとされ処分を受けて、わずか五ヶ月である。本当に謀反計画があったのならこの程度の処分で済むはずがない。この事件の不審な点は乙人が宇治王を一味に引き入れる為に武器を帯びて宮中に進入したという、宇治王を説得するために、なぜ武装して行く必要があるのか、武装して宮中に入るなどわざわざ捕らえてくださいといっているようなもの。しかも「続紀」には宇治王に関する記述はなく、処罰を受けた事実もなく、謀反事件としては余りにもお粗末ではないかと思います。さらに「続紀」には次のような記述があります。
同年六月十四日、左大臣・正二位で太宰師を兼任する藤原朝臣魚名はあることで罪に触れ、左大臣を罷免された。その息子、正四位下の鷹取は石見介に左遷され、従五位下の末茂(すえもち)は土佐介に左遷され、従五位下の真鷲(まわし)は父に従って大宰府へ行くこととなった。それぞれ急き立てられて任地へ行かせた。
藤原魚名は藤原北家の房前の五男。兄の永手・式家の良継・百川らと光仁天皇を擁立した功臣として急速に頭角を現し、光仁天皇の信頼が非常に厚かった。(781)天応元年六月には左大臣正二位兼大宰帥に任じられたが翌延暦元年六月には上述のように突然左大臣を罷免、父子ともに左遷される。「続紀」には罷免の理由は記述されていないが、氷上川継の乱に連座したものと考えられます。氷上川継の乱の経緯から見てこの事件も皇位継承問題が絡んでおり桓武と天武の血統者の争いに藤原式家と京家の対立に新興貴族の藤原氏と守旧派大伴氏等の対立が複雑に絡んだ事件であったと思われ、
聖武系の血を引く氷上川継を駆逐し、あわせて藤原京家の失脚と北家の勢力を削ぐ為に式家の種継が仕組んだ事件のような感じがするのですが、その後種継は桓武天皇の寵臣として桓武政権下において絶大な権力を握り長岡遷都を実行に移し遷都工事を指揮中に暗殺されます。
※不破内親王
聖武天皇の皇女。母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)。同母兄弟に安積(あさか)親王、井上内親王がいる。新田部(にいたべ)親王の王子で道祖(ふなど)王の兄塩焼王と結婚し、氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)、と川継を生んでいる。
(764)天平宝字八年、夫塩焼が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されているが、不破内親王と息子氷上志計志麻呂は連坐を免れている。
(769)神護景雲三年、志計志麻呂を天皇にするため称徳天皇を呪詛したとして、内親王の位を廃され、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名させられ、京外追放となり志計志麻呂は土佐国に配流されている。(772)宝亀三年、呪詛事件は誣告(ぶこく)による冤罪であったとして、内親王に復帰して二品(にほん)を授けられている。
川継の謀反事件では淡路国に流罪にされ、のち和泉国に移されているが、その後の消息については記録が無く不明。
 ※ 二品(にほん)律令制で、一品から四品まである親王の位階のうち第二等。 
長岡宮大極殿跡  長岡宮発掘調査  大極殿跡は公園として整備されている 
藤原種継暗殺事件 
(781)天応元年四月、光仁天皇は皇太子山部親王に譲位し桓武天皇が即位する。天皇は同母弟の早良(さわら)親王を皇太子に立てる。これは父光仁天皇の意向で桓武天皇の意思ではなかった。早良皇太子の春宮大夫(とうぐうのたいふ)に任命されたのが正四位下右京大夫の大伴宿禰家持であった。この任命にも光仁太上天皇の意向が反映されたらしい。春宮大夫という地位が、その後の家持を急速に昇叙・昇任に導き(783)延暦二年には従三位中納言にまで家持の地位を押し上げるが。結果的には大きな悲劇をもたらす原因になる。天応元年十二月に光仁太上天皇が崩御。藤原永手・良継・百川も相次いで亡くなり桓武朝になり台頭してきたのが藤原種継であり、種継が暗殺されると藤原継縄(つぐただ)と桓武の寵臣政治が続くことになる。、
桓武天皇には(774)宝亀五年に生まれた安殿(あて)親王がいたが、光仁太上天皇は東大寺で僧籍に入っていた早良親王を還俗させて桓武天皇の皇太子にしたが、桓武天皇にとっては有難迷惑であった、天皇といえどもやはり人の子、弟よりも我が子に皇位を継承させたいという思いが強く、天皇側近の重臣たちも天皇の心中を察してなにかと早良皇太子を軽んじるようになり、天皇やその側近たちと早良皇太子との間に確執が生まれることになる。そこに起きたのが長岡京造営工事現場における種継暗殺事件である。「続紀」の記述によると
(785)延暦四年九月二十三日、中納言・正三位で式部卿兼任の藤原朝臣種継が、賊に射られて薨じた。
同年九月二十四日、天皇は平城京より帰った。大伴継人・大伴竹良とその徒党の数十人を捕らえて、これを取り調べたところ、そろってみな罪を認めたので、法によって判決し、斬首あるいは配流とした。
藤原朝臣種継は、参議・式部卿で太宰師兼任・正三位であった藤原朝臣宇合(うまかい)の孫である。天平神護二年に従五位を授けられ、美作守に任ぜられた。しばらくして還って宝亀末年に左京大夫・兼下総守に任ぜられ、すぐに従四位下を加えられて、左衛士督・兼近江按察使に転任した(天応元年)。延暦の初めに、従三位を授けられて中納言・兼式部卿を拝命した。延暦三年に正三位を授けられた。種継は天皇の信任が非常に厚く、内外の事をみな決定した。初め種継が中心となって建議をし、都を長岡に遷すことにした。宮室は造り始められたが、諸官司はまだ出来上がらず、職人や人夫は日夜ぶっ通しで工事をしていた。天皇が平城宮に行幸することになって、皇太子の早良親王と右大臣の藤原是公(これきみ)、中納言の種継らはそれぞれ長岡宮の留守官となった。種継は夜も炬(かがり)を照らして工事を促し検分していたところ、灯火の下で傷を受けて、その翌日、自邸で薨じた。時に四十九歳。天皇はその死を大変悼み惜しんで、詔して正一位・左大臣を贈った。
暗殺犯人らを糾問したところ、事件の首謀者は家持で大伴氏・佐伯氏を糾合して種継暗殺計画を練り、この計画は早良皇太子も了承していたことが判明。家持は死後にも関わらず除名処分その子永主は官位剥奪の上、隠岐に流罪。大伴継人・佐伯高成・大伴竹良等は断罪、大蔵卿藤原雄依(おより)・春宮亮紀白麿等も流罪。早良皇太子は地位剥奪のうえ乙訓(おとくに)寺に幽閉。後日流罪地の淡路島に護送中、無実を訴え絶食憤死しています。
「続紀」延暦四年十月八日、中納言・正三位の藤原朝臣小黒麻呂と大膳大夫・従五位上の笠王を山科(やましな)の山陵(天智陵)に遣わし、治部卿・従四位上の壱志濃(いちしの)王と散位・従五位下の紀朝臣馬守を田原の山陵(光仁陵)に遣わし、中務大輔・正五位上当麻(たぎま)王と中衛中将・従四位下の紀朝臣古佐美(こさみ)を後佐保の山陵(聖武陵)に遣わし、皇太子(早良親王)を廃した事情を告げさせた。
同年十一月二十五日、天皇は詔して、安殿(あて)親王(後の平城天皇)を皇太子とした。
家持の死と早良皇太子廃位事情 
「続紀」(785)延暦四年八月二十八日、家持の死去を次の様に記述しています。
『中納言大伴宿禰家持が死んだ。祖父は大納言贈従二位安麻呂、父は大納言従二位旅人である。家持は天平十七年に従五位下を授かり、宮内少輔に任じられ、中央・地方の諸官を歴任した。宝亀初年、従四位下左中弁兼式部員外大輔に至った。十一年には参議を拝し、左右の大弁を歴任し、やがて従三位を授けられた。氷上川継の謀反に連座して、官職を罷免され京外に追放されたが、詔があり、罪を許され、参議春宮大夫(とうぐうのたいふ)に復任した。本官(参議春宮大夫)はもとのまま、京を出て陸奥按察使となった。陸奥にいてしばらく後、中納言を拝命した。春宮大夫は以前の通りであった。死後二十日余り、遺体がいまだ埋葬されないうち、大伴継人(つぐひと)・竹良(つくら)らが種継(たねつぐ)を殺害し、事が発覚して投獄されるという事件が起こった。これを取調べると、事は家持らに及んでいた。そこで追って除名処分とし、息子の永主(ながぬし)らはいずれも流罪に処せられた。』
同年九月二十三日、中納言・正三位で式部卿兼任の藤原朝臣種継が賊に射られて薨じた。
同年九月二十四日、大伴継人・大伴竹良とその徒党の数十人を捕らえて、これを取調べたところ、そろってみな罪を認めたので、法によって判決し、斬首あるいは配流とした。
家持の死去は種継暗殺事件の約一ヶ月前なので家持除名記述は九月二十四日以降に記述されるべなのに八月二十八日の死去日に記述されている。
(注)家持の没伝。三位以上の公卿の死は「薨」と称するのが令の定めであるが、家持は死後除名されたため「死」の文字が使われている。
この藤原種継暗殺事件で注目されるのは桓武天皇の皇太子であった早良親王も事件の首謀者として逮捕され淡路島に流罪となる。早良廃太子は無罪を主張し断食、護送途中に憤死する。遺体はそのまま流刑地の淡路島へ移送される。
山部王(後の桓武天皇)と早良は帰化人の子孫である高野新笠(たかのにいがさ)を母として白壁王(後の光仁天皇)との間に生まれたが、白壁王には井上内親王(聖武の皇女)との間に他戸(おさべ)親王がいて山辺王と早良は皇位継承者には到底なり難いとみて、白壁王は山辺親王(桓武)を将来臣籍降下して官僚の道を歩ませることとし、早良親王は僧として東大寺に修行に出している。
光仁天皇は桓武天皇に実子がいるのに何故早良親王を皇太子に推挙したのか、光仁天皇は前述したように自分が皇位につくなどとは夢にも考えていなかったが藤原百川・永手らの策略で即位することになったが高齢で皇后と皇太子が天武系であり、その政権基盤が軟弱であることを危惧していたのではないかと思われます。
そうしたことから譲位した桓武政権の安泰を願い、東大寺初代別当の良弁の後継者に指名されていた早良親王を還俗させて皇太子にすることにより、南都において強大な力を持つ「造東大寺司」をバックに平城京における磐石の安定政権を作ることが出来ると考えていたようです。
しかし桓武天皇が即位したときには、光仁・桓武の皇位継承に尽力した藤原永手・良継・百川もすでに鬼籍に入っており、父光仁のように気配りのいる臣下はおらず、平城京における肥大化した東大寺を初めとする仏教寺院の影響力を嫌い、これらの影響力の排除と皇統が天武系から天智系に移ったことを天下に周知させるためにも天武系の平城京を棄て長岡遷都にいたった理由でしょう。 
怨霊に悩まされる桓武天皇 
無実の罪を訴え断食して早良親王が亡くなってから桓武天皇の身辺には不幸が相次ぎ
(788)延暦七年五月、桓武天皇夫人(ぶにん)の藤原旅子(たびこ)が三十歳で死去。翌延暦八年、十二月には母の皇太后高野新笠が崩じた。翌延暦九年三月には皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が崩じた。皇太子の安殿親王も病弱であった。先に井上内親王の件もあり、また無実の罪で自害に追い込まれた長屋王の怨霊が藤原四兄弟を天平九年の疫病で死に追いやり、天武系の皇統を断絶させたのも長屋王の祟りであると思っていた桓武天皇は「無実の罪で死んだ者こそ最も激しく祟りをなす」という怨霊信仰が世間に存在することも承知しており、自分の身辺に起こる不幸が早良親王の怨霊のせいではないかと感じてはいても、口にすることは出来なかったのであろう。それを言い出せば早良親王の無実を認めることになり天皇が冤罪を作ったことになるから、しかし安殿皇太子の病状も依然おもわしくなく天皇は(792)延暦十一年六月遂に陰陽師(おんみょうし)に近辺に起こる不幸の原因を占わせる。占いにその原因は早良親王の祟りであると出るこ及び桓武天皇の怨霊対策がはじまる。『後紀』の記述によると
(792)延暦11年6月、癸巳(みずのとみ/10日)皇太子の病が長期にわたっている。卜(うらな)ってみると、崇道(すどう)天皇(早良親王)の祟りであることが判ったので、諸陵頭調使王(しよりようのかみつきのつかいおう)らを淡路国へ派遣して、その霊に謝罪した。
庚子(かのとね17日)天皇が次のように勅した。去る延暦9年に淡路国に命じて某親王(早良親王)の塚に守冢(しゅちょう/墓守)一戸をあて、かねて近隣の郡司に墓守りのことをもっぱらの任務とさせることにしたが、墓の守衛につかず祟りが起きてしまった。今後は、塚の周囲に隍(ほり)を築き、濫(みだ)れ穢れたりすることのないようにせよ。
(797)延暦16年5月、乙巳(きのとみ/20日)僧侶二人を淡路国へ遣わして、転経(てんきょう)・悔過(けか)を行った。早良親王の霊に謝罪するためである。
(799)延暦18年2月、己丑(つちのとうし/15日)従五位上兵部大輔兼中衛少将春宮亮(ひょうぶのたいふちゅうえのしようしようとうぐうのすけ)大伴宿禰是成(これなり)と伝灯大法師位泰信(でんとうだいほつしいたいしん)らを淡路国へ派遣して、奉幣して崇道天皇の霊に謝罪した。
(※桓武朝で大伴一族でも種継暗殺事件に関与しなかった大伴氏はそれぞれ登用され官職についていることに注目)
(800)延暦19年7月、己未(つちのとひつじ/23日)天皇が次のように詔した。
朕に思うところがあり、故皇太子早良親王を崇道天皇と称し、故廃后井上内親王を皇后に戻し、二人の墓を共に山陵と改称せよ。従五位上守近衛少将兼春宮亮丹波守大伴宿禰是成に陰陽師(おんようじ)・衆僧(しゅうそう)を引率させ、淡路国にある崇道天皇の山陵を鎮め謝罪させた。
壬戌(みずのえいぬ/26日)淡路国津名郡の二戸を守戸として崇道天皇の陵を守らせ、大和国宇智郡の一戸に井上皇后陵を守らせることにした。
甲子(きのえね/28日)少納言従五位下称城王(しようぎおう)らを遣わして、崇道天皇陵へ天皇号を贈ったことを報告し、散位従五位下葛井王(ふじいおう)らを遣わして井上皇后陵へ皇后への復位のことを報告した。
(805)延暦24年1月甲申(きのえさる/14日)崇道天皇のために、寺を淡路国に建てることにした。
4月甲辰(きのえたつ/5日)諸国に命じて崇道天皇のために小倉を建て、正税四十束を納め、併せて天皇に准じ国忌(こき)の扱いとし、奉幣を行うことにした。崇道天皇の怨霊に謝罪するためである。
4月庚戌(かのえいぬ/11日)崇道天皇を淡路国から八島陵(奈良市八島町)へ改葬する臨時の官司を任官した。外従五位下豊山忌寸真足(とよやまのいみきまたり)を主殿助(とのものすけ)に任じた。
7月甲午(きのえうま/27日)唐国からもたらされた物品を山科(天智陵)・後田原(光仁陵)・崇道天皇の三陵に奉納した。
10月庚申(かのえさる/25日)崇道天皇のために一切経を書写した。書写に当たった書生(しょしょう)には書き写した分に応じて叙位および得度を許した。
(806)延暦25年三月辛巳(かのとみ/17日)天皇が次のように勅した。
延暦四年のこと(藤原種継暗殺事件)に連座して配流となった者はすでに罪を許し帰郷させている。いま朕は思うことがありね生死を論ぜず、本位に復することにする。大伴宿禰家持を従三位、藤原朝臣小依(こより)を従四位上、大伴宿禰継人・紀朝臣白麻呂を正五位上、大伴宿禰真麻呂・大伴宿禰永主(家持の子)を従五位下、林宿禰稲麻呂を外従五位下に復せ。崇道天皇のために、諸国の国分寺僧に春秋二仲月(二月、八月)の七日に金剛般若経を読ませることにした。
しばらくして桓武天皇が内裏正殿で死去した。行年七十。桓武天皇は死の間際まで怨霊へのおさえがたい恐怖から遁れることが出来なかったようです。
家持亡き後の万葉集の行方 
万葉集について官撰説、私撰説がありますが、「書紀」には万葉集についての記述が一行もないことから私撰説が正しいと思われます。万葉集の編者は複数の人が携わったと推測されますが最終的に二十巻本に纏め上げたのは大伴家持その人であったのではないでしょうか。桓武天皇が皇太子であった早良(さわら)親王を無実の罪で死に追いやり、春宮大夫(とうぐうのだいぶ)であった家持を「早良皇太子反逆事件」の首謀者として死後にも関わらず極刑に処しているので、没官令に基き家持の所領・家財一切が没収されたと考えられます。
日本の律令制は、7世紀後期から10世紀頃まで実施されており、そのうち、8世紀が律令制の最盛期といわれています。(757)天平宝字元年施行の養老律令の構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行されています。この律令の中に没官という規定があり、没官(ぼっかん)とは人身または物品を官に没収することで律では謀反や大逆罪など重罪を犯した者に科される付加刑罰で、その父子・家人・田宅・資財を官に取り上げることで、人身の場合は官奴婢とし、没収された土地は没官領といった。これを扱うのは大宝令では神祇官に所属する贓贖司(ぞうしょくし)で職員構成は正 1名・佑 1名・大令史 1名・少令史 1名・使部10名・直丁 1名で職掌は、逆人没官の資財の疏収(そしゅう)、配没(はいぼつ)、贓贖(ぞうしょく)、闌遺(らんい)の雑物のこと。
物の没官は犯罪人の資材田宅の全てを没収する場合と、犯罪に関わるものだけ没収する場合があり、犯罪人の資材田宅の全てを没収が賊盗律第一条に規定された謀反大逆の場合であり家持の場合はこの条が適用されたと思われます。詳細な記録が無く不明ですが、家持の没官田である越前国加賀郡の田100余町が勧学田(かんがくでん)となったが、承和年間(834~847)伴善男(とものよしお)が家持の無罪を訴え没官された越前国加賀郡の田100余町を返給されたことが(914)延喜十四年の「三善清行意見十二箇条」によって知ることが出来ます。
疏収(そしゅう)・闌遺(らんい) については適当な説明用語がなく疏収(そしゅう)については疏と収に分けて辞書で引いたものでこれで推察願います。
闌遺(らんい)についても同じく辞書引きです。

疏収 疏=
注釈をさらに細かく説き明かしたもの。注の注   
  収=
収められる 収納 収蔵 収録 収載
配没
令制で、犯罪を犯した者の財産を没官した場合に、刑部省の贓贖司(あがもののつか   さ)がこれを諸官司に配分すること。図書は図書寮へ、財物は大蔵省へ配分する類。
贓贖
令制で、罪人の資財などの没収、不正に収得された財物。
闌遺
律、賊盗・強盗条「凡強盗 〈略〉即得闌遺之物」
  牛馬などが繋いだ綱を離れ、また、小屋からのがれはなれること。闌畜。転じて、財物  を遺失すること。
勧学田
 
平安時代、大学寮・典薬寮・陰陽寮(おんようりょう)などの学生の、食料費用など をまかなうために設けられた田。 
雷丘(いかずちのおか)  柿本人麻呂  天武・持統天皇陵 
家持死後の万葉集については諸々の推測以外に手掛かりはありませんが、万葉集には巻一の雄略天皇の歌から淳仁天皇の(759)天平宝字三年に家持が因幡の国庁で詠んだ20-4516までの歌が収められ、その中には宮廷儀礼・行幸・饗宴の歌も多くあり、天武・持統朝には宮廷歌人といわれる柿本人麻呂・山辺赤人らの皇統賛美の歌が多くあります。
天皇の雷岳(いかづちのをか)に御遊(あそ)びたまひし時に柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
3-235 大君は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも 

六年甲戌(きのえいぬ)海犬養宿禰岡麻呂(あまのいぬかいのおかまろ)の詔にふる歌一首
6-996 御民われ生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時に遇(あ)へらく思へば 
天皇・皇族・貴族の歌も多く、私撰集ながらその内容は官撰集と同様で反逆人の歌集として没官したものの、その取扱いには所轄官庁でも腐心したものと思われます。
恐らく官庫の奥深く厳重保管されたものと推測されます。
   
 伴善男について
藤原種継暗殺事件で処刑された大伴継人の子で佐渡国配流された大伴国道の子(823)弘仁十四年、淳和天皇(大伴親王)の即位で大伴氏は避諱(ひき)のために伴氏と改姓しています。没官された家持の田について既に家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張し強引に返還させたという説もあります。その後出世街道を順調に歩み(848)嘉祥元年には従四位下・参議・右大弁に叙任され公卿に列し(855)斉衡元年には従三位と昇進を続け皇太后宮大夫・中宮大夫を歴任する一方、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっています。清和朝に入っても(859)貞観元年に正三位・民部卿、(860)貞観二年に中納言と累進し、貞観6年(864年)には大納言に昇任。これは(730)天平二年、大伴旅人が大納言に任ぜられて以来約130年ぶりのことで、家持も果たせなかったことです。しかし(866)貞観八年閏三月に起きた応天門放火事件で伴善男とその子中庸らの陰謀とされ死罪とされるも、善男がかつて自分を抜擢してくれた仁明天皇のために毎年法要を行っていたという忠節に免じて罪一等を許されて流罪となり善男は配所の伊豆で亡くなります。家持死後も中央政界に重きを成した名門氏族の伴氏(大伴氏)はこの事件により完全に没落する。この事件も藤原氏による策謀のひとつと言う説もあります。
没官された万葉集が世に出るまで 
家持の名誉が回復されたのは(806)大同元年で「早良皇太子反逆事件首謀者」の汚名を着せられてから二十一年が経過しています。しかしこの時点で没収された「万葉集」について返還請求がなされた記録が無く、また家持の子息永主もこの時名誉回復し流罪地の隠岐から都へ帰り元の従五位下に復位しているが父家持の没官田の返給請求もしなかったようで前述のように後代の伴善男が返給を受けています。このように家持の名誉が回復後も「万葉集」の所在についての資料は一切なく霧の中です。
また、万葉集の編纂や巻末四巻(巻17~20)の家持歌日記と言われる部分の編纂作業の推定や大同元年の家持複位後の万葉集を誰がどの様に保管して何時、世にでたのかなどについては私の考察不足で、ここで述べることはできませんが唯一史料のある古今和歌集の序文でその概要を知ることができます。
家持の復位百年後の(905)延喜五年に紀貫之(きのつらゆき)ら四人が編纂した勅撰集「古今和歌集」を醍醐天皇に撰上した際の序文に「万葉集」が解禁になったのは平城天皇の時代であることを記しています。「古今和歌集」には和文の「仮名序」と漢文の「真名序」があり「仮名序」に…(前略)…古(いにしへ)よりかく伝はるうちにも、平城(なら)の御時(おほむとき)よりぞ広まりにける。かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは、君も人も身を合わせたりといふなるべし。秋の夕(ゆふべ)、龍田川に流るる紅葉をば帝の御目には錦と見給ひ、春の朝(あした)、吉野の山の桜は、人麿が心には、雲かとのみなむ覚えける。…(中略)…この人々をおきて、またすぐれたる人も、呉竹の代々に聞こえ、片糸のよりよりに絶えずぞありける。これよりさきの歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。ここに古のことをも歌の心をも知れる人、わずかに一人二人なりき。然(しか)あれど、これかれ、得たる所、得ぬ所、たがひになむある。かの御時よりこの方、年は百年(ももとせ)あまり、世は十継(とつぎ)になん、なりにける。古のことをも、知れる人、よむ人、多からず。今この事を言ふに、官位(つかさのくらい)高き人をば、たやすきようなれば入れず…(後略)…
また、真名序」では…(前略)…昔平城の天子、侍臣に詔して万葉集を選ばしむ。それより来(このかた)、時は十代を歴(へ)、数は百年を過ぎたり。…(後略)…と記されており「仮名序」で万葉集が編纂され世に出たのは平城天皇の時代である。そして「真名序」で昔平城天皇は侍臣に命じて「万葉集」を撰進させた。それから今日まで、天皇の御代は十代、年数は百年を経過した。と記し(806)大同元年以降の「万葉集」の所在と命名の由来が述べられています。しかし学界には、この解釈にも異論が多くありますがこの項では取りあえず「仮名序」「真名序」の記述に従いたいと思います。
律令に従い没官された家持の私撰集である「万葉集」が焚書されずに官庫に保管されていたのは雄略天皇の歌に始まり天皇・皇族方の歌や歌聖といわれる柿本人麿らの歌を収めた歌集で宮廷との深い繋がりが伝承され意識されていた歌集であることが桓武治世下の官僚にもよく知られ、また、「早良皇太子反逆事件」そのものが藤原種継暗殺事件に乗じて宮廷により仕組まれた事件であることが周知されていたこともあり平城天皇の御代まで官庫に保管されていたのでしょう。 
   
西本願寺本  近衛本  京大本 
「万葉集」の禁書期間中に「4458」に対する政策的な改竄が行われ原典に「古新未詳」の四文字を注記させる……とした説を強調される方もおられますが、そうしたことは律令制下における没官品にたいして政策的な改竄をおこなとか「古新未詳」を書き入れるような事は100%有り得ないことです。また、なぜ馬国人の4458の歌に対して政策的な改竄をおこなう必要があるのか理解に苦しみます。
私は20-4458にある「古新未詳」の四字について現存する万葉集写本中、元暦校本・春日本にはありませんが、元暦校本には朱書きで付加されており家持が第二次原本に書き入れた注記かともいはれています。「政策的な改竄が行われ原典に「古新未詳」の四文字を注記させる」というのは、このことを指しておられると思いますが、現存万葉集写本を詳細に考察いただけば、指摘されているような意図のもとに注記したものではないことがお解りいただけると思います。元暦校本・春日本以外の写本には「古新未詳」の注記はあるので現存万葉集は全て写本であり脱字・誤記もあろうかと思われます。馬国人の家での宴には家持自身が出席しており、そこで詠まれた歌に他人が「古新未詳」の書入れなどはしないと考えられ筆録者は家持本人であると思われます。
家持亡き後の大伴氏の浮沈 
今回の再考察で万葉集の大伴家持歌から、家持の生涯を追ってみましたが、歌の題詞と短歌(一部長歌)のみから家持の生涯を考察するには、やはり資料不足と矛盾がありその辺りの解明が出来ず多くの謎が残りました。
家持の生年を通説の(718)養老2年に設定して考察をはじめると父旅人と妻大伴郎女(いらつめ/年令不詳)の年齢が問題となります。旅人の没年が(731)天平3年67歳なので家持は旅人54歳の子となり、家持には2歳下の弟書持(ふみもち)、妹留女(るめ/年令不詳)がおり、旅人の妻大伴郎女は(728)神亀5年大宰府で亡くなっているが、「続紀」(781)天応元年八月八日条に『母の憂に遭ひて解任す。是に至りて復す』という記述があり、家持の母はこの時まで健在であったと思える記述があり、一説によると正妻に子がなかった為、旅人が多治比郎女(たじひのいらつめ)に生ませたという。(739)天平11年(家持22歳)に詠んだ亡妾悲歌3-467に「時はしも何時(いつ)もあらむを心痛くい行く我妹(わがも)かみどり子を置きて」この歌によると家持の亡妾は「若子(みどりこ)」を置いて亡くなっている。若子とは3歳以下の子である。
万葉集巻四の巻末に記載されている、藤原朝臣久須麻呂(ふじはらのあそみくすまろ)の相聞歌4-783~785・789・790と家持の返歌4-786~788・791・792があり、この歌の作歌年月は不明ですが天平13~15年頃と推定され、家持の娘か妹に久須麻呂が求婚の相聞歌を送り家持がこの求婚に対して、やんわりと断っています。久須麻呂が求婚したのは家持の亡妾が残した「若子」であろうと思われますが(743)天平15年としても6~9歳です。妹留女の生年を(722)養老5年と推定すると21歳て当時の女性の結婚適齢期は16~18歳といわれているのでどうかと思われ、また、(750)天平勝宝二年(推定)に『婿南右大臣家の藤原二郎慈母を弔ふ挽歌』があり、この「婿」が留女ではと推測しましたが本文で述べましたように年齢が該当せず、家持の母・娘と妹留女については全く謎で解明の手掛かりさえもつかめませんでした。久須麻呂と家持の娘か妹との婚姻は成立したという説もありますが、それについての合理的な説明はないようです。藤原家と大伴家は元々姻戚関係にあり藤原鎌足の母智仙娘(ちせんのいらつめ)は大伴家の出身であり、家持の養母といわれる大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)と不比等の孫の麻呂とは恋愛関係にあり相聞歌が万葉集に記載されており、結婚していたのではという説もあります。また、藤原北家の八束(やつか)・式家の良嗣(よしつぐ)とは和歌を通じて、かなり深い付き合いがあったことが歌からも推察できます。南家の継縄(つぐただ)を婿と呼び、同じく南家の久須麻呂(仲麻呂の子)から娘?への求愛の相聞歌などがあり、家持には一族の大伴氏とは藤原氏にたいする感覚が若干異なっていたようです。古代から天皇家の近衛兵として古い武将の伝統と名誉の中に生きて新しい律令体制に馴染めない大伴氏の古老たちと、同じくその伝統の中にありながら新しい制度の中に溶け込もうとしたが、溶け込めず悩む家持。それでも越中守赴任までは橘諸兄の庇護もあり順風な官僚生活にいり充実した人生であったようです。それは彼が越中在任5年の間に223首もの歌を詠んでいることでもわかります。家持生涯の作歌が473首であり、その半数近くが越中守在任なかのものです。
※ 藤原朝臣久須麻呂は藤原仲麻呂の三男(生年不詳、没年(764)天平宝字8年)父仲麻呂(恵美押勝)の乱に加担射殺されています。
そして(751)天平勝宝3年、家持少納言となって都へ戻り、受難の日々が始まることになります。律令制を巧みに利用して権謀術策を弄して政敵を斃し藤原独裁政権樹立を策謀する仲麻呂。る仲麻呂。橘奈良麻呂の乱・藤原良嗣の謀反事件・氷上川次の乱に関与したとされる家持だが、いずれも左遷・教祖と追放ほど度の微罪で済んでいます。なかでも(757)天平宝字元年の橘奈良麻呂の乱には大伴家一族の人達が多く参加した。家持自身も奈良麻呂の父諸兄は主筋に近い関係にあり、奈良麻呂とも多年の親交があり、世間も当然家持の参加を予想したであろうが、家持はさんかしなかった。しかし家持はこの事件で大きな衝撃を受けたと思われ家持の作歌意欲は急激に衰えています。恐らく彼は一族と朋友奈良麻呂に対する裏切りに似た感情や自身の優柔不断に悩まされたのでしょう。しかし家持には衰退してゆく名門大伴家を律令体制のなかで何とか立て直なおす為に藤原南家(継縄・久須麻呂)と婚姻関係(立証困難)を結んだりした形跡があります。それかあらぬか光仁朝に入ると急速に家持の昇任・昇叙が進み桓武朝にも氷上川継の乱で京外追放となるも僅か5ヶ月で復位して参議春宮大夫(とうぐうだいふ)となり、(785)延暦4年は中納言・従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となり任地の多賀城において死去しています。同年九月二十四日に藤原種継暗殺事件の首謀者と認定され除名処分を受け、名門の佐保大納言家である大伴宗家は没落します。 
しかし没落したのは大伴宗家であり
同年十月十二日条、従四位下の大伴宿禰潔足(きよたり)を大蔵卿任じる。
(787)延暦六年春正月七日条、従四位下の大伴宿禰潔足(きよたり)に従四位上を授ける。
同年二月二十五日条、従五位上大伴宿禰弟麻呂(おとまろ)を右中弁に任じる。
(788)延暦七年二月六日条、従五位下の大伴宿禰蓑麻呂(みのまろ)を河内守に任じる。
同年二月二十八日条、従五位上大伴宿禰弟麻呂に皇后宮亮(すけ)を兼任させる。
同年三月二十一日条、従四位上の大伴宿禰潔足を衛門督(かみ)に任じる。
同年十一月二十五日条、従五位上大伴宿禰弟麻呂を正五位下を授ける。
(790)延暦九年二月二十七日条、従四位上の大伴宿禰潔足を参議に任じる。
同年三月二十六日条、皇后宮亮・正五位下の大伴宿禰弟麻呂に河内守を兼任させる。
同年七月二十四日条、従五位下の大伴宿禰蓑麻呂を中衛少将に任じる。
(791)延暦十年春正月一日条、正六位上の大伴宿禰是成(これなり)に従五位下を授ける。
同年七月十三日条、従四位下の大伴宿禰弟麻呂を征夷大使に任じる。
  (※この時の征夷副使に従五位下の坂上大宿禰田村麻呂が任じられている)
以上が家持除名処分後の桓武政権下における大伴氏の処遇状況です。宗家の家持が反逆罪に問われたにしては、ここに見る大伴氏の処遇は通常と何等変わることなく要職についています。また「後紀」によると(806)大同元年二月甲寅(二十日)、従三位行皇太子傳(こうたいしのふ)大伴宿禰弟麻呂が次の様に上表した。
『私は幸いにも盛んな時代にめぐりあい、高位に昇り、犬が軒下の敷石に伏すように三十余年間忠実に仕えて来ました。そして、位は三位となり、職は八省の長官(治部卿)となりました。また、畏れ多くも東宮傳に選任され、貴族としての家門を守っています。陛下のご恩には測り知れないものがあり絶えずみずからを顧みて努力してきましたが、恥じいることははなはだしいものがあります。心中みずからに鞭打ち、国家に尽くして生命をすり減らし、陛下の命令を受ければ家を破っても誠意を尽くし、死に甘んじる決意をしていますが、いま年八十歳となろうとして、自由に動くことができず、悲しいことに思いどおりにいかなくなってしまいました。進むことも退くこともできず、病気により力は衰え、何もしないのに責任は重く、時の鐘は鳴り、漏刻(ろうこく)の水も尽き、生涯の終わりが近づいていますので辞職を願い出ます。人生の日暮れ時に当たり、日の昇る方角を見て退き、衰弱した体ながら宮廷を仰ぎ見て申し上げるしだいです。謹んで参内し、請願します』
桓武天皇は中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂を大伴弟麻呂の邸へ派遣し、辞職を許可し、春秋に参内せよ、との勅語を伝えた。 
藤原種継暗殺事件に関与し処刑された大伴継人の子国道は佐渡国に配流となっていたが延暦二十二年に恩赦令により京に戻り、(813)弘仁4年に正六位上から従五位下に昇叙し、伊予介や弁官等を歴任、内官と外官の両方で優れた業績をあげ、その後急速に昇進し(823)弘仁十四年には参議・右大弁に任ぜられています。この年、大伴親王が即位淳和天皇と成った為、その避諱のために大伴氏から伴氏へ改姓しています。この国道の五男伴善雄が仁明天皇の知遇を受け次第に重用され大内記・六位蔵人・式部大丞を経て(843)承和十年、従五位下・讃岐権守・右少弁に叙任。かつて藤原種継暗殺事件によって没収された家持の没官田100町余りを家持は無罪として赦免されているのに返還されないのは不当と主張して返還させています。(855)斉衡元年には従三位・皇太后宮大夫・中宮大夫を歴任し、右大臣・藤原良房らと『続日本後紀』の編纂にも携わっています。その後清和朝に入っても順調に昇進を続け(864)貞観六年には大納言に任じられる。これは大伴旅人が天平二年に大納言に任ぜられて以来約130年ぶりのことです。しかし(866)貞観八年に起きた応天門の変で伴善雄親子の放火によるものとの密告があり、罪一等を免ぜられ流罪となりここに古代以来の名門伴氏(大伴氏)は完全に政治の表舞台から消え去ることになります。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功したことから、この事件は良房の謀略という説もあります。 
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