伎人郷と息長伝説
更新日 2015年1月24日
 伎人郷と息長伝説 目次
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喜連の語源と言われる
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東成郡誌・喜連村誌
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発掘調査に見る馬池谷 河内国伎人郷の謎 伎人郷から杭全郷へ 北村某の家記と
喜連の息長伝説
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          近世喜連村文書に見る村の実情と楯原神社の祭神

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攝河の地に
息長川は存在せず
  
 系譜に見る息長氏 伝承地の息長氏 
 万葉歌に見る
大伴家持の生涯
 
馬史国人
万葉歌4458の詠み人
孝謙天皇・聖武太上天皇
難波宮行幸と河内六寺
 
 
 
付替えられた大和川 平野川筋探訪  平野川関連河川
(空港北濠・大正川・今川・駒川
空港放水路・平野川分水路)
今井啓一氏と八木毅氏の
息長論争全文
万葉集巻二十編纂の謎  リンクのペ-ジ 

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奈良時代の(756)天平勝宝八歳丙申(ひのえさる)の朔乙酉(つきたちきのととり)の二十四日戊申(つちのえさる)に、太上天皇(聖武)・天皇(孝謙)・太后(光明)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し、経信(ふたよあまり)、壬子(みずのえね)をもちて難波の宮に傳幸(いでま)す。三月七日に、河内国伎人郷(くれのさと)馬国人(うまのくにひと)の家にして宴(うたげ)する歌三首。
 4457 住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野の草な刈りそね
                                               兵部少輔 大伴宿禰家持

 4458 にほ鳥の息長川(おきながかわ)は絶えぬとも君に語らむ言尽(ことつ)きめやも    古新未詳
                                                  散位寮散位 馬史国人
 4459 葦刈(あしか)りに堀江漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)は大宮人の皆聞(みなき)くまでに
                                                   式部少丞 大伴宿禰池主
万葉集巻二十にある記述で題詞の 河内国伎人郷」と4458の歌に詠まれた「息長川」の所在を巡る論争が発端になり、「伎人郷に居住する馬国人が遠く離れた北近江を流れる息長川(現天の川)を詠み込む筈がない当時伎人郷の近くを流れる川に「息長川」と呼ばれる川が存在し、その川は現今川である」 また、「伎人郷」とは「現在の大阪市平野区喜連町である。この町に「北村某の家記」という古文書があり往古に息長氏が居住していた」という伝承がある、といわれています。
昭和三十四年、日本上古史研究会報において大阪樟蔭女子大学教授の今井啓一氏が
『息長氏異聞』と題する論文で喜連の息長氏について論じられ、これに対して大阪大学助手の八木毅氏が『万葉集の息長』と題する論文で反論されています。最近になってこの『息長川』が注目を浴びだしたのは東住吉区の郷土史家の方が『万葉集に詠まれた息長川は我が町の今川だった』と活発な『今川即ち息長川』説を唱えておられます。当初私もこの説に賛同して考察を始め喜連村誌・東成郡誌・大阪府史・市史等の記事内容から往古の息長氏喜連居住説を信じていましたが大阪市文化財協会(現研究所)の発掘調査報告書を読み現地を歩いてみると古代の地形環境や数少ない資料から村郡誌府市にある喜連の息長関連記事や喜連近辺の息長川存在説に多くの疑問があることを知りましたが、信頼できる資料が皆無に近く2次3次資料を参考に憶測することが多く合理的な論理をもって通説を完全に覆すことはできなかったことは残念ですが、発掘調査結果や関連する2次3次資料だけでも『今川=息長』説には疑問が山積することがお解かりいただけると思います。今後とも出来うる限り裏付けとなる資料の収集に努め考察を続けたいと考えております。 

奈良時代の伎人郷周辺の地形と環境
 上図 7世紀の大阪南部推定図 (日下雅義氏作成)
 右図 古市大溝・丹比大溝図 (古代学研究より一部加筆)
 上左図は歴史地理学者の日下雅義氏の研究に基づく七世紀の大阪を中心とする地域の推定図です。上町台地と生駒山脈にはさまれたのが河内低地と呼ばれる所で、今から五千年位前は内海で河内湾であった所ですが、北の淀川や南の大和川水系の河川から排出される土砂が堆積するのと海面が下がる作用で陸地が広がり七世紀(飛鳥時代)には、この図の様な様相になったものと考えられます。縄文晩期から弥生中期にかけての河内湾内は海水準変化の影響で淡水化が進み河内湖の時代に三角州性の堆積環境ができ、そこに集落が形成されるようになります。弥生時代後期(西暦元~200)には再び海水準変化が起き水面が上昇し多くの集落が水没し住民は段丘地へ移動せざるを得なくなりますが、段丘地には農地が少なく当時の灌漑技術では高所の農地開拓もままならず、移住者との間に農地を巡る争いが勃発します。これが倭国大乱の原因だとする説もあります。長原遺跡の発掘調査でも弥生時代の焼けた竪穴住居が検出されており、この火災原因も不明ですが偶発的な火災とは思えない状況なので戦闘(倭国大乱?)か高所への集団移住のため焼き払ったものか不明です。
古墳時代(200~590)前期までは河川灌漑が可能な沖積平野を主とする低地農業が生活基盤でしたが洪水毎に水田は壊滅し住居は埋没する繰り返しでしたが、古墳時代後半から飛鳥時代(550~720)にかけて鉄器農耕具や土木技術の進歩により、貯水・冶水・灌漑・開発が国家的規模で行われるようになり目覚しい進歩を遂げます。推古朝には狭山池が築かれ、丹比大溝・古市大溝(上右図参照)の開鑿で段丘地の開発が可能となり、この二大溝は灌漑以外に水運にも利用されたという説もあります。古市を流れる石川から取水して東除川の大堀で排水する古市大溝は延長10kmに及ぶ大水路で大堀で東除川に入り川辺・長原・出戸で北西にに流路をとる古東除川ル-トで現平野付近で平野川へ入り難波の堀江へ繋がる水路で長原遺跡の水路跡では「古市里」と墨書された土器が出土しており大溝を流されてきたものではないかといわれています。
六世紀後半~七世紀初頭にかけての池溝開発が進み沖積低地の開発から新たに段丘面の開発が始まります。・長吉台地でも飛鳥時代の大洪水で馬池谷も大きく埋まり、この洪水で排出された土砂は2mにも及んでいるのが発掘調査で判明しています。飛鳥時代の大洪水は瓜破台地下の集落や農地を壊滅させましたが、この洪水で台地下の低湿地に自然堤防状の新たな居住地と農耕地も提供したものと考えられます。
東除川に架かる大堀上小橋
 古市大溝はここで東除川に接続していた
古市大溝発掘調査地の説明板 
いま私達が目にする、大阪東南部の平野区一帯は平坦な土地にみえますが、千三百年前の八世紀当時の地形は左図に見られるように南の松原市方面から張り出す河内台地の北端にあたり、台地には東から「馬池谷」「東谷」「西谷」の三つの解析谷が存在し、「馬池谷」以東を長吉台地、以西を瓜破台地と呼ばれています。この台地の標高は松原市大堀付近で13~14m、現大和川を越えた川辺付近で11~12m、台地北端の現東喜連町付近で7~8mで瓜破台地の北端は長居公園通(伝磯歯津路)を越えて現喜連町中心部付近で沖積平野に埋没しています。台地下の低地は平野川古東除川・西除川の氾濫原にあたり標高1~0mの低湿地でしたが飛鳥時代の頻発する洪水で馬池谷等から排出される土砂と当時の大和川本流といわれる平野川の洪水で出来る自然堤防の影響で奈良時代には現喜連町付近も標高3~4m位になり集落が形成されていたと考えられます。
平野川の自然堤防上に開けた現平野郷町のJR平野駅付近で標高5m、平野郷町と喜連町の境界流町付近で4.7m程度で現平野区南部の地形は平野川自然堤防跡から南へ、また、東から西へと緩やかに下がっており、往古の地形の名残が見てとれます。また、近世に旧中喜連村と西喜連村が中高野街道を境界としながら入り組み状態であったのも現西喜連一帯が低湿地であったため居住地として適さず農耕地として利用されていたからのようです。飛鳥時代に頻発した馬池谷筋の洪水は上流地域での大溝開削工事や東除川の水を長吉台地上の灌漑水路に導水する工事の影響と考えられます。東除川に取水して西除川に落とす丹比大溝、古市郡の石川で取水して東除川に接続さらに平野川へと続く遠大な構想の下に開鑿された古市大溝・丹比大溝により河内丘陵や羽曳野丘陵上の開発が可能となり現在の喜連町付近の地形も東から西へ緩やかに下っており、今川付近が最も低く旧西除川の自然堤防付近から緩やかな上りになり上町台地へと続きます。

発掘調査に見る馬池谷
息長川(今川)の水源を馬池谷に求める説もありますが、馬池谷とは長吉台地と瓜破台地を区切る解析谷で長原遺跡と瓜破遺跡の境界付近を南南東から北北西へと延びて喜連東遺跡の南西部をかすめ現喜連町付近が谷の開口部で 「馬池谷」と呼称されています。馬池谷の発掘調査は(1982)昭和57年のKR82-2が最初で(2004)平成16年のUR04-5次調査まで大阪文化財研究所によって続けられ「馬池谷」内部を基底まで層位的に調査されています。その発掘調査報告の要部を下記に転載しました。
      ※ 本ぺ-ジの背景色が水色の箇所は大阪文化財協会の発掘調査報告よりの転載です。
上図 UR00-8・UR07-4とNG96-32・NG96-71「馬池谷」発掘調査地の位置
     下図 UR00-8・UR07-4の「馬池谷」埋設過程を示す模式断面図
上図白線内の馬池谷内の発掘調査の詳細で大阪文化財研究所発掘調査報告よりの転載です。       ※ 上記2図は大阪文化財研究所の発掘調査報告よりの転載(一部加筆しています)
河内・瓜破台地は、最終氷期に「古天野川」によって形成された扇状地がそれ自身の浸食で段丘化して成立したと考えられており、おもに中位段丘面で構成される。中位段丘面は南から北に向かって緩やかに低くなり、瓜破遺跡の北端付近で沖積平野の地下に埋没する。台地上には凹凸があり、複数の解析谷(馬池谷・東谷・西谷他)が台地を刻み込んでいる。
KR82-2次調査
試掘の成果に基き、3700m2の敷地に東西38m、南北12mの南トレンチと、東西30m、南北11mの北トレンチを設定。両トレンチとも表土層真下に室町~江戸時代のピット(穴、窪地)や溝・井戸等の遺構が検出されたが、北トレンチでは現代の撹乱によって遺構面が大きく削平されており、江戸時代末期と推定する井戸が4基見つかった以外、顕著な遺構はなかった。そのため、北トレンチについては東半分にサブトレンチを設定し、堆積状況と遺構面の確認作業を行った。その結果、削平されたところより下は厚さ3.7mにわたって砂・シルト・粘土で構成される水成層が互層になっており、「馬池谷」を埋める厚い堆積層であることが確認され、さらにその下層で水田畦畔が見つかった。削平されたところより下は厚さ3.7mにわたって砂・シルト・粘土で構成される水成層の下位まで全面を調査し、それ以下は調査範囲を縮小し、層序や遺構面の確認作業を行ったところ、この調査地には深い谷が埋没していることがあきらかになり、喜連東遺跡一帯の地形復元に関る重要な手掛かりを得た。
KR84-2次調査

KR82-2次調査で検出した「馬池谷」の続きが存在することが予測された東西約23m、南北約5mのトレンチを設定し、調査を行った結果、北東隅以外では低位段丘構成層が確認出来ず、南西方向に向かって低くなる谷を検出した。谷に堆積していた地層から古代の土器や古墳時代前期の土器、埴輪、弥生時代中期の土器が出土した。また、縄文時代晩期の土器を埋めた土壙も検出された。
KR86-2次調査

 「馬池谷」の延長部が存在することが予想されたことから、まず敷地内に南北方向のトレンチとそれに直交する東西トレンチを設定し、遺構面の有無を確認する調査を行った(KR-86-2次調査)。その結果、敷地の中央付近より南には谷はなく低位段丘構成層が検出されたため、多くの遺物が出土した南側建築予定地を中心にトレンチを広く設定してKR86-4次調査を行うことになった。
KR86-4次調査
弥生時代末から古墳時代初頭の方形周溝墓と古墳時代前期の方墳のほか、室町時代の溝や流路、江戸時代の粘土採掘壙群を検出した。方形周溝墓は喜連東遺跡における初めての発見例であり、さらに埴輪の出土が端緒となって方墳を確認することができた。
KR86-3次調査
平安時代後期から室町時代におよぶ中世の集落が発見された。また、飛鳥~平安時代の堀立柱建物や井戸も見つかったことから、集落の起源が古代まで遡ることが予察された。特に15世紀代の遺構が多く、室町時代になって集落規模がが拡大したことが窺える。また、検出した遺構の中に「墳墓堂」と呼ぶ方形周溝墓がある。墳墓堂は溝で囲まれた一辺約6mの土壇で、土壇中央に祖先や貴人を祀った瓦葺建物が存在していた可能性があり、溝からは平安時代後期から室町時代に至る時期の大量の瓦が出土している。また、その周囲の溝や井戸からも同時期の遺物が出土しており、この一帯が中世集落の一角に当たることが判明した。
KR86-6次調査地
旧地形は「馬池谷」の東肩部に当たるのではないかとすいていされた。調査は敷地の関係上、東西に2分して行った。先に西側の表土を掘削したが、その南部では試掘調査で検出した深さで低位段丘構成層を検出できず、谷の中にあたると考えられた。また、東側でも低位段丘構成層は北部にしか検出できず、南半には谷が拡がっていることが判明した。谷の肩部では縄文土器が出土した土壙や中世の溝などが検出されたが、南部では谷の堆積状況を確認して調査を終了した。
KR94-7次調査地
南から延びる「馬池谷」の東肩から中央部附近にあたり、KR94-8次調査地は「馬池谷」の東肩から、東方にかけての位置に当たっていた。94-7調査では「馬池谷」の埋土を4m以上にわたって観察出来たことで縄文時代の汽水成層を確認し、縄文時代前期末から中期にかけてこの一帯に海水が侵入していたことを明らかにするとともに、縄文時代中期に属すと考えられる石皿と、接着剤が付着したサヌカイト製の石鏃を検出した。また、5世紀後半~6世紀初頭の谷の埋土内から錫装刀子(すずそうとうす)を検出した。一方馬池谷の東肩部に当たる94-8次調査では平安時代後期の井戸を多数検出し、下位層に当たる中位段丘構成層内でナウマンゾウの足跡化石を検出。総じて、この調査地付近は建物遺構が少ないことから、「馬池谷」の位置が古代から中世の喜連東遺跡の西限であったと推定できる。
KR82-2   KR84-2   KR94-7  
当地の発掘調査地はいずれも埋め戻され跡地には公営住宅が建設されています。 
UR88-5次調査 
馬池谷の東肩調査では、弥生時代後期中葉の竪穴住居1棟と住居の排水溝とみられる溝が検出された。また、立会調査ではあるがUR91-14次調査では後期後葉の土器が多量に出土している。両調査地とも馬池谷の谷地形に面して立地しており、長原遺跡など東方の沖積平野の集落から分岐した小規模な集落で、谷斜面部を生産域としていた可能性が指摘されている。
UR83-17・26
奈良時代の瓦が多く出土したほか、4棟の堀立柱建物が検出された。それらの堀立柱建物は時期を判断できる遺物を伴っていないが、寺院に付属する建物であった可能性が指摘されている。また、UR91-1次調査ではコンテナ10箱にも及ぶ瓦・?が出土しており、寺院との関係は不明であるが、近隣に瓦を用いた建物が存在したことが明らかとなっている。このほか、調査地周辺ではUR88-5次調査で10世紀末~11世紀初頭にかけてのものとみられる土壙や、同時期の堀立柱建物となる可能性がある小穴群などが検出されている。今回の調査と同様に馬池谷の内部で行われ、谷内の土地利用の変遷などを知る上で参考となる調査としては、長原遺跡西地区と西南地区の境界部を中心とする諸調査や、喜連東遺跡で行われた調査などがある。谷の斜面部で行われた調査の成果によれば、周辺地域と同様に飛鳥時代から奈良時代にかけて水田化がすすめられたことが判明しており、NG93-34・96-71次調査では、長原遺跡の西辺を画する「馬池谷」という埋没谷を取り巻く、歴史的な変遷過程を知ることが出来た。谷底を東西に横断する形で調査できたことは、この谷の辿ってきた埋積の過程とその各段階での人間の係わり方を知りうる上で有益であった谷の肩部には棚田状に水田が造成され、灌漑用水路も設けられていた。組織的で、徹底した水田開発の姿がうかがえる。この頃、旧東除川が開削されたと考えられており、この水田開発はそれと関連するものであろう。西斜面に比べ勾配が緩やかな東斜面で古墳時代中~後期の堀立柱建物が検出されるなど、地形に応じた土地利用がなされていた様子が窺われる。
谷を東西に横断する形で行われたNG96-32・71次調査で、古墳時代中期に機能していた谷内部の流路が、飛鳥時代から奈良時代にかけて埋没していき、谷中央部までヒトやウシが頻繁に入り込んでいた形跡を確認したが、水田遺構は検出されず、場所によって異なる土地利用が行われていた可能性が指摘されている。
一方喜連東遺跡で行われたKR94-7次調査では、乾湿を繰り返す安定的な環境が古墳時代中期頃まで続いた後、飛鳥~奈良時代に頻発する洪水により約2mもの砂礫層が堆積しており、谷内の水田化が進むのは平安時代以降のようである。こうした洪水をもたらした要因としては、上流側での耕作地の開墾や水路の開削や付替などの人為的な開発によるものである。錫装刀子を含む5世紀後半から6世紀初頭にかけての遺物が多く出土し、同時期に打設されたとみられる杭が検出されるなど、今回の調査成果と共通する点も多く見られた。また、これら「馬池谷」内部で行われてきた調査の多くで、古墳~飛鳥時代を中心とする木製品やウシ・ウマなどの動物遺体が出土しており、多様な土地利用の実態を復元する上で重要な遺物として注目される。
UR88-5  UR00-8  UR00-7 馬池谷底調査 
「馬池谷」の全容については大阪文化財研究所の発掘調査において明らかになっており奈良時代には谷内に流路が存在しなかったことが立証されています。また冒頭の谷図で見られるとおり当時の現喜連町は馬池谷や西谷の開口部にあたり、古墳時代から飛鳥時代に度々発生した洪水に見まわれる地でもあり、谷内から流出した土砂でこの低地の様相は一変したと考えられます。弥生~飛鳥時代に 現喜連町に集落が存在したか否かについては発掘調査が行われて居ないので定かではありませんが、「北村某の家記」や口承伝説では縄文時代に当地は大々杼国として息長氏の祖の大々杼彦仁が国造として治めていた等、また応神天皇妃の息長真若中比売陵といわれる広住塚が町中に現存していますが、この辺りは馬池谷・東谷・西谷の沖積低地への出口に当たり弥生時代以降の度重なる洪水被害を被る地であり、この様な地に応神妃の息長真若中比売の墳墓が築造されたり、周辺に集落が存在した事は考えられず、縄文・弥生期からの息長氏居住伝説や集落存在説も私は大和川付替の(1704)宝永元年前後に作為された「北村某の家記」に基づくものと考えています。また、奈良時代に至っても北方の平野川の洪水被害も甚大であったと思われ土地条件図でも見られるように現喜連町は東から西に緩やかに下がり、南は瓜破台地が存在する沖積平野の低地であり北の平野川の自然堤防地帯が標高5~6mにたいして喜連付近は1~3mの状態であったと推測され、南北からの水害を受ける低地でこの地に集落が出来るのは九世紀後半の河内国堤使が任命され大和川の植松分岐点が締切られ大和川の本流が久宝寺川(長瀬川)に切替えられ、平野川(河内川)筋の水害が軽減され十世紀になると坂上一族による杭全郷の開発が始まったと推定され、この開発と前後して平野や喜連の集落もできたものと推測しています。往古から鎌倉時代までの喜連は長吉台地上の喜連東(喜連東遺跡)に集落
の中心があったと考えられます。現喜連町は鎌倉時代以降数度の戦禍を被り(1615)元和元年の大坂夏の陣においても焦土と化し、元和以前の信頼できる村資料は皆無ではないかと思われます、現存する建築物・文献史料は江戸中期以降のもので関西大学図書館古文書室所蔵の「攝津国住吉郡西喜連村文書」38点と「攝津国住吉郡中喜連村佐々木家文書」3015点が近世の喜連村を知る唯一の貴重な史料です。この史料の一部を「赤留比売と楯原神社」「近世の喜連村」の項で紹介させていただきましたのでご覧下さい。
     馬池谷の最新調査報告  
      2013年3月大阪文化財研究所「長原遺跡発掘調査報告」第26冊より転載
喜連東遺跡・瓜破遺跡・長原遺跡で進められてきた「馬池谷」内の発掘調査についての成果については、これまで大阪文化財研究所の発掘調査報告を当ペ-ジへ転載してご覧いただいた通りです。今回は2011年12月から翌年3月まで長原遺跡西南地区(NG11-3)
において馬池谷内部の最新の発掘調査成果の報告が2013年3月に公表されましたので要旨のみここに転載しました。
 左 2011年12月のNG11-3(馬池谷内)発掘調査箇所
 右写真 馬池谷底最深部
 調査結果の検討
今回の調査では馬池谷の埋積過程に係わる貴重な資料が得られた。本調査地および周辺の調査における馬池谷の堆積環境の変遷について述べる。
本調査地における馬池谷の谷底はTP+5.6mであった。縄文時代中期頃とみられる地層(第10層)がわずかに残っていたのみで、古墳時代前期以前の地層の大部分は削剥されていた。古墳時代中期頃の氾濫堆積層(第8~9b層)によって谷底はごく短期間で
約1.5m埋積していた。 北100m地点のNG96-71次調査地ではこの時期の住居跡が確認されている。本調査地で確認した溝群(SD17~19・21・23~25)は谷斜面を谷底へ向かって掘られた排水路とみられ、NG96-71次調査地の住居跡と関連する可能性は高いと考えられる。古墳時代後期から飛鳥時代にかけて(第7ai・aii層:長原6層に対比) SR12以西の谷底は継続して河川の環境にあったことが明らかになった。その後、SR12
・SD14の構築によって東側は水田(第7bi層)として利用されるようになる。2度の
洪水による氾濫(第7ai・aii層:長原6層に対比)に見舞われるが、奈良時代初め頃まで耕作は継続されていた(第7ai・aii層)。奈良時代末か平安時代初め頃、付近一帯に壊滅的な被害を与えた大規模洪水による氾濫(第6bii層:長原5層に対比)によって谷全体が埋没した。この氾濫のごく初期にはヒトやウシなどの偶蹄類が水田に足を踏み入れていたことが踏込みの検出で明らかになった。平安時代の間には再び耕作が開始されるが、この時には谷の中央部まで耕作地となっていた。鎌倉時代から近世にかけても河川氾濫の頻発したようすが作土層と氾濫堆積層の互層から窺われた。馬池谷の調査は本調査を含めて10数箇所で行われてきている。本調査地の下流に当たる北100mにNG96-32次・71次調査地、北300mにNG93-68次調査地、北700mにUR00-8次・07-4
次調査地、そして1㎞ほど下流、馬池谷の末端で東谷との合流点付近にKR94-7次調査地がある。
上左図 調査地(NG11-3)の立地と周辺の遺跡(大阪文化財研究所発掘調査報告より転載一部加筆・馬池谷調査地を○印で囲う)
右写真上からSD17~21・23、SK22完堀状況(東から)/中写真SD21・25断面(北西から)
下写真SD24・25完堀状況(東から)
馬池谷の谷底は本調査地ではTP+5.6m、NG96-32次・71次調査でTP+4.9m・NG93-68
次調査地でTP+4.8m、UR00-8次・07ー4次調査地でTP+2.5m、KR94-7次調査地でTP+
0mと南から北に向かって徐々に深くなっている。それぞれの調査地ごとの谷を大きく埋積した時期と地層の厚さ(堆積量)を比較すると、KR94-7次調査地では縄文時代中期から晩期までに約2m埋まり、UR00-8・07-4次調査地では弥生時代後期頃に約2m
埋積している。本調査地近辺のNG93-68次調査地では飛鳥時代に約1m、NG96-32次・
71次調査地では同じく飛鳥時代に約2.5m、本調査地では古墳時代中期に約1.5m堆積している。埋積状況を大局的に捉えると、馬池谷末端部で埋積の開始されるのは縄文海進後の海退期に当たる縄文時代中期以降、末端部から300m上流のUR00-8次・07ー4
次調査地では弥生時代後期に大きく埋積しており、調査地近辺の埋積が始まるのは古墳時代から飛鳥時代になってからである。飛鳥時代ではKR94-7次調査地で2mを超える堆積があり、その後、奈良時代にNG96-32・71次調査地で約1.5m埋積している。
本調査地から馬池谷末端部までの間には、いくつかの支流の存在が明らかになっている。それぞれの地点で谷が大きく埋積して以降、再び大きく堆積する時、それぞれの地点が連動せず堆積していることから、この支流からの堆積物の供給がかなり影響していると考えられる。堆積量が少なくなるのは近世になってからで、谷の内部とは言え、近世に至るまでは頻繁に氾濫を繰り返していたことが明らかになった。
『まとめ』
長原遺跡の西南地区に当たる今回の調査地は、瓜破台地の東縁を解析した「馬池谷」の中に位置しており、瓜破台地の様相を知る上でも貴重な資料を得ることができた。前章までの報告を踏まえて、以下に調査成果についてまとめる。
馬池谷底(TP+5.6m)まで調査を行い、谷の埋積過程を明らかにすることができた。谷底には縄文時代中期頃とみられる地層がわずかに残っていたが、流路の大部分は古墳時代中期頃の氾濫堆積層によって埋積していた。その後、谷全体が埋没するのは平安時代になってからであった。人々の活動の痕跡が見られるようになるのは、古墳時代中期以降であることが明らかになった。古墳時代中期頃には付近の集落からと見られる排水路を確認し、これ以降、飛鳥時代に至る間に大畦や大溝などの構築により谷底付近にまで水田化が進んだ。そして平安時代には中央部まで水田が広がった。この間に幾度となく氾濫に見舞われるが、その都度造り替えられ、平安時代初め頃、周辺地域に壊滅的な被害を与えた大洪水に見舞われながらも、大きく間を置くことなく水田耕作を再開していた。その後、近世にかけて頻発した氾濫に対しても、その度に復旧を繰り返していた。 

報告書抄録 (所在地等省略)
所収遺跡名 種別   主な時代  主な遺構  主な遺物
長原遺跡   集落  縄文時代            縄文土器・石器
 古墳時代  大畦・大溝・溝・土壙  土師器・須恵器 
 飛鳥~奈良時代  水田・大畦・畦畔  土師器
 平安~室町時代  畦畔・鋤溝群・足跡  土師器・黒色土器・瓦器
 近世  鋤溝群  陶磁器
要  約  本書は2011年度に行った長原遺跡西南地区における発掘調査の成果を収録する。
調査では「馬池谷」の東半分を検出し、古墳時代中期の溝群や飛鳥時代と奈良時代の水田、それぞれの時期に谷底付近に構築された堤防状の大畦を検出した。
上記の遺構は、古墳時代中期以降、谷内が度重なる洪水に見舞われて埋没していく過程で、人々がこれに対応するために行った営為の結果である。 

発掘調査に見る喜連東遺跡
 [上図]  (大阪文化財協会発掘調査報告より転載一部加筆)
上の空撮写真  磯歯津路沿いの喜連東遺跡で黄色記号と数字は発掘調査が行われた地点。
 字山王は息長伝説で允恭天皇皇后の忍坂大中比売陵といわれるところ。
 この地点は馬池谷の開口部にあたる所で飛鳥時代の馬池谷洪水で現喜連町地域は跡形もなく押し流 されたと考えられます。
 KR82-2記号箇所は大阪市文化財研究所により発掘調査の行われた箇所です。
現喜連町で発掘調査の行われた地域は奈良時代の段丘上にあった喜連東遺跡のみで沖積低地地域の旧中喜連・西喜連地域は人口密集地であり未発掘地域です。今川に近い西喜連地区の一部が公営住宅建替えで最近調査されました。また、喜連町の長居公園通り(伝磯歯津路)に面して建つ公営住宅団地が近年中に建替えられると思われ、ここの発掘調査で往古の喜連や磯歯津路の遺構検出が期待されます。
下記に喜連東遺跡と西喜連遺跡の発掘調査で検出された遺構や出土遺物の詳細を大阪市文化財研究所の発掘調査報告をそのまま転載しましたのでご覧ください。
     ※背景色が水色箇所は大阪市文化財研究所発掘調査報告の転載
喜連東遺跡は大阪市の南東部、平野区喜連東3~5丁目一帯に所在する。周知の遺跡の範囲としては東西600m、南北650mである。従来、喜連東遺跡の立地する台地は瓜破台地とされていたが、周辺の調査の結果から瓜破台地とは谷で隔てられた別の台地であることが提示され、「長吉台地」と呼称されている。これによれば喜連東遺跡は長吉台地の最先端に立地している。遺跡の現地表はTP+7.0~9.0mにあり、遺跡南東部が最も高い。発掘調査の結果からは、高所においては後世の削平が著しく、表土真下で洪積層が検出される地点がある一方、解析谷が検出される地点もあり、本来の高低差はさらにあったといえる。長吉台地と瓜破台地を区切る解析谷は「馬池谷」と呼称されるもので[京嶋覚1992]長原遺跡と瓜破遺跡の境付近を南南東から北北西へと延び、喜連東遺跡の南西部をかすめている。また、遺跡北部でも地形が落込み、北東には緩やかに下がっている。これらのことから喜連東遺跡は南を除く三方に開けた立地であったといえよう。周知の遺跡としては南に接して瓜破遺跡、東に接して長原遺跡があるが、本来、一連の遺跡として理解するべきものであろう。 -中略-
中世、天文~永禄には高屋城の属城として喜連城がおかれ、細川氏綱や三好長慶らの陣所となった。鎌倉~室町時代の遺構としては建物・井戸のほか堀状の施設を確認している。中国製磁器も多く出土しており、一般の集落とは違った様相を呈している。近世、文禄~慶長期には摂津国欠郡もしくは住吉郡に属する。慶長10年(1605)』の
『摂津国絵図』には、住吉郡中に「東喜連村・中喜連村・西喜連村」とある。三村ともに寛永元(1624)年までは北政所領であった。その後、東喜連は幕府領を経て(1713)正徳3年から幕末まで下総古河藩領となる。江戸時代の遺構としては耕作に係わる小溝群・井戸を検出している。おもに生産域として利用されていたと考えられる。近代以降は、明治22年の町村制施行により住吉郡、翌年には東成郡に属する。大正14年の住吉区成立により同区に、昭和18年の分区により東住吉区に、昭和49年のさらなる分区により平野区に属することとなった。』 
     
 上写真左からKR86-3・KR87-3・KR89-2の発掘調査地。跡地には公営の高層住宅が建設され現在ではここ  長吉台地上にあった奈良時代や室町時代の住居群を想像することも難しい現状です。
※ 左図・上図
大阪文化財研究所喜連東発掘調査報告よりの転載
上図 室町時代の墳墓堂跡 (KR86-3)   上図 飛鳥~奈良時代の建物跡 (KR89-2)   
 KR86-3
前項「馬池谷」に調査詳細記載
 KR87-3
旧石器時代の角錐状石器が出土しており、古墳時代の溝や平安時代の堀立柱建物・井戸なども見つかっている。KR87-2次調査では古墳時代の方墳検出。飛鳥~平安時代の建物のほか室町時代の建物、区画溝を確認。南の墳墓堂群(KR86-3)と同時期の遺構群として注目される。
 KR89-2
飛鳥~奈良時代の遺構として柵と溝を伴う19棟もの建物群が検出されており、瓜破遺跡の柵と溝を伴う飛鳥時代の建物群の廃絶と軌を一にして出現しており、長原遺跡の水田経営を含んだ長吉台地東部の開発を考える上で興味深い資料となった。同調査では平安~室町時代にも多くの井戸のほか柱穴群・土壙・溝などを確認している。
後世の撹乱により遺構の遺存状態は必ずしも良好とはいえないが、建物群は北側に柵を設け、東北西の3面は溝により区画されている。建物群の中心的な位置をしめるのは東西10間、南北2間という非常に長大な建物である。この建物の南側を空閑地とし、周囲に小型~中型の建物を配する。建物の中には3間×3間の倉庫と思われる総柱建物があることも注目される。この遺跡から瓦が出土していること、長大な建物とその南の空閑地の存在、建物群の周囲に柵、溝を設けていることから、この建物群は周囲の遺跡の中で極めて特異な平面配置をもつものであり、官衙もしくは豪族居館と考えることができよう。ただ、主殿、後殿や脇殿といったような整然とした建物配置がなく、倉庫群なども見られないことから、後者の可能性が高いように思われる。建物群の中心は平城京土器Ⅲにあるが、出土する遺物から平安時代Ⅰ期まで下る建物の存在が想定され、ほぼ奈良時代を通じて建物群が存続していたものとみなすことができる。KR89-2次調査で検出された飛鳥~奈良時代の遺構の続きが見つかり、東部では平安時代後期~鎌倉時代の堀立柱建物や、集落を囲む室町時代の堀を検出した。この堀からは多量の瓦が出土し、周辺に瓦葺きの建物が存在していたことが推定できる。また、平安~鎌倉時代の各遺構から中国製白磁や青磁がまとまって出土したことで、当該地域の中心的な集落であったことが考えられる。この調査は1992 年にもKR92-3次調査として継続され、喜連東遺跡の中世集落の一端が明らかになった。
 
 
 
いま一つ注目したいのは、上記した墳墓堂と考えられる遺構群と井戸との関係である。たとえばSX01の南東に同時期の井戸SE14がある。遺構の上端に沿って検出された柱穴から、この井戸には八角形の井桁があった可能性が高い。八角形の井桁のある特殊な井戸で墳墓堂にとって井戸は重要な施設であり、そこに祀られた人物に閼伽水(あかみず)を供えるという意味で各堂ごとに設けられていたと考えられる。平安時代後期~鎌倉時代の井戸は先にも述べたように同時期の建物などの遺構が周辺になく、調査区内に散在する意味が不明であったが上に挙げたような組合わせが考えられるなら、それらの存在理由を墳墓堂と閼伽井の関係として理解することができる。また、このことは墳墓堂の創建を鎌倉時代や平安時代後期までさかのぼらせうることを示し、出土瓦?を通した検討からも数百年にわたり供養が継続された可能性が窺える。これらの推定が妥当であるならば、発見当初にSX01を祖先や貴人の霊を祀る施設として「廟堂」と位置づけたことは的を射た見解であったと評価できる。室町時代の遺構にはC・D区SD19・20、E区SD23・26・36といった正方位からかなり振れた軸線をとる遺構群もある。これらが墳墓堂群と同時に存在することに疑問がもたれたが、先に考えられたように墳墓堂群が数百年前に造られ、それが室町時代まで維持されていたものであったならば主軸を全く異にする遺構が隣接して存在することもありえよう。SD23から出土した備前焼・常滑焼・瀬戸焼の国産陶器に加え、中国製磁器や李朝陶器などの存在から喜連東遺跡の居住者の経済力を推し量ることができる。(1330)元徳二年の堀江秀清請文案には「輔房(基宗伯父、河内国キレノ住人)とあるここに記された沢村基宗は平安時代末以来、代々摂関家の大番舎人にあった家柄の出といわれ、鎌倉時代にこうした有力者が蟠踞していたようである。A区を中心とした「廟堂」群、E区の屋敷地は十五世紀の中頃に時を同じくして廃絶する。これは喜連東遺跡の他の調査地でも同様で、この後、目立った遺構は見られなくなる。喜連東遺跡周辺は南北朝期、瓜破城の合戦(1371)や応仁の乱(1467~77)、明応の政変(1493)などの争乱にさらされてきた。おそらくこれらの戦乱の中で喜連東の中世集落は衰亡していったのであろう。    
閼伽水 
閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。閼伽を汲むた めの井戸を「閼伽井」その上屋を「閼伽井屋」、「閼伽井堂」という。 
大番舎人】 
摂関家の大番領から上京して宿直警備その他の雑役に従った者。「兵範記」裏文書の一例によると、摂津・和泉・近江の三ヶ国にある大番領から上番した舎人(とねり)は、一ヶ月間に二百六十八人を数え、いくつかの番に分かれ一人十日間ずつ摂関家の政所や納殿(おさめどの)、細工所等に配置された。舎人にはこの身役(しんえき)に対して一定の土地が給与された。(1253)建長五年の「近衛家所領目録」にも「大番国々」として上記三ヶ国が記載されていいます。  
   
【喜連の初見文字資料】について
鎌倉期末の(1330)元徳2年12月16日の源秀清請文で 『和泉国大鳥庄上条地頭田代又次郎基綱代真行申、当庄住人(向井)等覚今者死去、同子息観勝以下事、構城郭致殺害由事、今年十月廿五日、御教書謹下預候畢、任(被脱か)仰下旨、香川彦五郎(景康)相共莅彼所、破却城郭、欲召進交名人等候之処、件観勝・長俊・(八田)助房・殿木兵衛二郎・中尾土佐房等本交名之外、当庄預所号高野山高祖院家人了善・万徳・式部房・孫太郎助房婿・王子伊賀房当庄住人、八田庄住人毛穴左衛門五郎以下輩、対御使突楯放火、致種々悪行狼藉之後、於観勝・長俊以下輩者、構傍郷毛穴左衛門五郎住宅於城郭楯籠之候畢、於助房者令自放火、構殿木兵衛入道住宅於城郭引籠候畢、沢村源次郎基氏并(上村)基宗者、同任被仰下之旨、任法欲召進候之処、於基宗住宅、輔房基宗伯父河内国キレノ住人并高石三郎当庄下条住人、基宗家人等并左衛門三郎河内国若江住人基宗イトコ、此外所々悪党数百人、雖為基宗他行、於御使者不可入立之由申之、及合戦狼藉候之間、両使之外、於近隣地頭・御家人者、向井五郎代計相向候之間、以無勢難破却候、於基氏者令逐電候了、此条偽申候者、可蒙仏神御罸候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
      元徳二年十二月十六日     源秀清請文
裏判』

この文書にある基宗とは鎌倉期の武士で和泉国の人であり、その縁戚者輔房左衛門三郎が喜連・若江の在地有力者であったと推測されます。中世に至ってもなお河内国キレと呼ばれている詳細は今後この関連資料を収集して調べる要がありますが、なにぶん私は古文書が読めないので、かなりの時日を要しますが「木礼成心」「切判官代」とかキレ=喜連に通じる人名や、平野将監入道といった中世平野に居住していた攝関家の家人で、「太平記」にも登場する人物で中世に於ける平野・喜連に係わる新資料が出るものと期待しています。木礼(きれ)切(きれ)判代といった名はこの時代の土地の名を取ったものか、こうした有力者の名が土地名になったのか? また、こうした謎について現時点に於いて満足のゆく説明が出来ずに申訳ありません。この資料を調査すれば平野郷・喜連の新資料もでるものと期待しています。文書の中で基宗らは「悪党」と記されているがこの場合の「悪党」とは当時の荘園領主や幕府に反抗した荘民とその集団を指すもので楠木正成・平野将監入道なども「悪党」と呼ばれています。この鎌倉時代の古文書の解読により平野将監入道や沢村基宗・木礼成心の人物像や「伎人郷」→「杭全郷」→平野・喜連の集村形態の成立時期等もある程度解明できるのではないかと考えています。
(1330)元徳2年の藤原基信請文案の一部で河内国平野将監入道、攝津国木礼(キレ)成心の名が見えます。この両名は平野郷と喜連の有力住人であった可能性があります。平野将監入道・木礼成心共に京都の攝関家の家人であったようで喜連東遺跡の墳墓堂や出土遺物の輸入磁器等との関連も窺われます。
平野将監入道は太平記に赤坂城の守将として記されている人物と同一人である可能性もあり、彼等は攝関家の家人でも有り、悪党交名簿にも名を連ねる反鎌倉幕府派でもあったようです。今
後この平野将監入道・木礼成心両名の出自や平野・喜連での活動歴の詳細を調査出来れば中世に至ってもなお「河内国キレ」や伎人郷から杭全郷へと移った年代や平野・喜連集落の成立年代や、それぞれの地名の由来もある程度までは明らかになると思いますゆえ、その時点で本ペ-ジ更新して報告いたします。  
KR92-7  KR91-3・92-3  伝忍坂大中比売陵といわれる字山王 
KR91-3
この調査地の西部KR89-2次調査で検出された飛鳥~奈良時代の遺構の続きが見つかり、東部では平安時代後期~鎌倉時代の堀立柱建物や、集落を囲む室町時代の堀を検出した。この堀からは多量の瓦が出土し、周辺に瓦葺きの建物が存在していたことが推定できる。また、平安~鎌倉時代の各遺構から中国製白磁や青磁がまとまって出土したことで、当該地域の中心的な集落であったことが考えられる。この調査は1992年にもKR92-3次調査として継続され、喜連東遺跡の中世集落の一端が明らかになった。 
 KR92-3
KR92-3次調査として拡張調査を実施。西部ではKR89-2次調査の奈良時代の建物群の続きを検出するとともに、建物群の東端と考えられる区画溝を確認平安後期~鎌倉時代の遺構としては多数の掘立柱建物がある。堀状の区画施設を持つとともに中国製白磁を多く出土。一般集落とは異なる性格を想定させる資料となった。また、幅3.6m、深さ1mに及ぶ室町時代の堀を確認。堀内から同時期の多量の瓦を出土し、その様相はKR86-3次調査検出の墳墓堂群に類似、礎石と考えられる人頭大の石が出土していること、周辺に柱穴がみとめられないことから、堀で囲まれた内部に礎石を用いた瓦葺き建物が存在していたと考えられ、墳墓堂群と係わりの深い施設として寺院の存在を推定している。同調査では古代以降、大きな断絶無く遺構・遺物が検出されており、古代・中世を通じてこの地域の中心であったと考えられる。
 KR92-7
奈良時代の建物群の南限と推定できる建物を検出。平安時代前~中期の遺構としては大規模な井戸を、平安時代後期~鎌倉時代及び室町時代の遺構にはKR91-3次調査のそれぞれの時期の堀の続きを確認している。同調査では「山王塚」の記載がある一部も調査しており、性格は不明ながらも平安後期~鎌倉時代の構造物であることがわかった
 KR99-1・KR00-1 (字地山王概当地)
古墳時代中期の方墳2基
(喜連3号墳:KR99-1、喜連4号墳KR00-1)と奈良~平安時代の掘立柱建物や溝・土壙を検出した。喜連東遺跡における古墳の分布は、遺跡範囲の全域に拡がることが確認された。また、北東部で行ったKR99-2・00-2次調査では弥生時代後期初頭の大型の方形周溝墓を検出した。この方形周溝墓は、墳丘が14.5m×13.0m、高さ0.8mあり、木棺6基、土器棺3基と多くの埋葬施設があった。こうした成果から遺跡範囲はさらに東に拡がり、長原遺跡と連続していることが推定できるようになった。そこで、本章第2節以下で述べる喜連東遺跡の層序については、東に接する長原遺跡の基本層序[趙2001a]を対比させ、相互の対応関係を記した。  
 上写真 喜連西遺跡鋤溝群
 左図 喜連西遺跡発掘調査地位置
 下 発掘報告書抄録
大阪文化財研究所発掘調査報告より転載
  一部加筆
所収遺跡   種別  主な時代  主な遺跡  主な遺物  
喜連西遺跡 その他  後期旧石器時代    楔形石器・小型ナイフ形石器・剥片 
その他  縄文時代前期 凹基無茎式石鏃
その他  弥生時代
  中期後葉
弥生土器・凸基有茎式石鏃
集落
 墳墓 
弥生時代
   終末期
土壙・土器埋納壙
墳丘墓
弥生土器・敲石
耕作地  室町~江戸時代 掘立柱建物・水田
鋤溝群・溝
土師器・須恵器・瓦器・銭貨・肥前磁器
要約  本書は、喜連西遺跡において2010年度に行った1件の発掘調査の成果を報告するものである。
後期旧石器時代の可能性の高いサヌカイト製の楔形石器・小型ナイフ石器・石核・剥片、縄文時代前期に属する石鏃などが出土した。
弥生時代では中期後葉の土器や石鏃、同終末の大型の墳丘墓や土壙、土器埋納壙ほかを検出し、南方にある同時期の瓜破北遺跡の集落および墓域と当地域の関係を明らかにするための資料を得た。
室町時代の掘立柱建物や鋤溝群、当地域の条里制方位と同じ溝は、中世集落や当時の景観を復元する上で基礎となる資料である。また、紹聖元寶は輸入銭貨として注目しうる。江戸時代以降の畦畔は、中世以降も当地域がが引き続き田園地帯であったことを裏付ける資料であり、肥前染付け磁器や煙管の吸口などは当時の農村での生活の一端を今に伝えるものである。 
喜連東遺跡の発掘調査に於いては意外にも奈良時代の遺構・遺物の検出は少なく同時代の遺構としては飛鳥から奈良時代の遺構として建物群が検出されていますが、この建物群にまつわる遺物は検出されず官衙か豪族居館のいずれかであろうとしかいえないのが現状です。また室町時代の墳墓堂跡や寺院を想定させる遺構も検出され、鎌倉時代に京都との関連性のある有力者の居住地であった?事も想定させる中国製磁器・陶器の出土も有り、また、喜連の初見文書である(1330)元徳二年の堀江秀清請文案の「輔房〈基宗伯父、河内国キレノ住人〉」とあるここに記された沢村基宗は平安時代末以来、代々摂関家の大番舎人にあった家柄の出といわれ、鎌倉時代にこうした有力者が段丘上の喜連東に居住していたことが窺われ伎人郷時代から杭全郷時代まで引き続き当地が郷内の中心地であったと考えられます。
喜連の伝説で忍坂大中比売の墳墓といわれる字地「山王」についても発掘調査が行われ上述のように大中比売の墳墓は検出されず信憑性のない伝説であることが確認されました。
 

喜連の語源といわれる呉国とは?

喜連地名の由来「呉」「呉人」とは 

 
古代史に於いては文字資料の無い時代や、文字資料が存在しても簡略すぎて理解し難いことが沢山あります。日本最古の歴史書といわれる「古事記」「日本書紀」の内容についても疑問や矛盾が随所に見受けられ、その記述の中から真偽の判断をするのは、私のような俄古代史ファンにとっては難しいことです。文字資料も6世紀末頃から徐々に増え、7世紀頃(推古592)からは記述に信頼性が増し8世紀以降は格段に信頼性は向上するものの、やはり記事の簡略性から文字資料の事実解明が難しいものも多くあります、この万葉集巻二十の4457~4459の歌の題詞にある「河内国伎人郷」も文字資料・歴史資料が皆無に近く、事実解明の難しい部類の話で、こうした場合出来得る限り信頼性の高い関連資料を収集し、それを基に推理・推察を重ねてゆくしか無いのが現状です。
右は万葉集西本願寺本で鎌倉後期の写本で室町期以前のものでは珍しく全二十巻揃ったものです。しかしこの時代の写本になると題詞にも訓仮名が振られるようになります。 
喜連の地名由来については呉(クレ)が訛って喜連になった。また呉(クレ)とは呉人(クレヒト)の住んだ渡来人の集落である。「伎人」「呉」「久礼」の「クレ」が転訛して「喜連」になったというのが通説です。しかし、これらの説に対する歴史的資料は皆無で現在のところ確定的な定説は存在しませ
ん。しかし奈良時代に「伎人郷」と呼ばれる集落が当地に存在したことは唯一の資料である萬葉集で確認できますが、場所の特定までには至りません。
文字資料も6世紀末頃から徐々に増え、7世紀頃(推古592)からは記述に信頼性が増し8世紀以降は格段に信頼性は向上するものの、やはり記事の簡略性から文字資料の事実解明が難しいものも多くあります。「万葉集」ではご覧のように「河内国伎人郷(クレヒトノサト)」と訓仮名を付けて記されていますが次点本などでは訓仮名は記されておらず原本にも勿論なかったと考えられます。奈良時代の行政所属では磯歯津路以北の喜連・平野・鷹合地域は明らかに攝津国住吉郡になります。「河内国伎人郷」の記述は大伴家持の間違いか? 「伎人郷」の語源になったと言われる呉国、呉人とは?  呉国が「日本書記」に表れるのは下表の仁徳・雄略・推古朝です。 
西暦  和  歴  記 事 内 容  出 典 
370   仁徳天皇58年冬10月   呉国の使人と高麗国の使人が並立して天皇に朝貢した。 日本書紀
462   雄略天皇6年夏4月  呉国が使いを遣わし天皇に貢物を奉った。  日本書記
464  雄略天皇8年春2月  身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わされた。天皇即位以来この年に至る迄、新羅国は貢物を奉らないことが八年に及んだ……  日本書記
466  雄略天皇10年秋9月  身狭村主青らが、呉の献った2羽の鵞鳥(がちょう)をもって、筑紫に行った。  日本書記
468  雄略天皇10年夏4月   身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わされた。   日本書記
470  雄略天皇14年春1月  身狭村主青らは、 呉の献った手末の才伎、漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛らを率いて住吉津に泊まった。この月に呉の来朝者のため道を造って磯果(しはつ)の道に通じさせた。これを呉坂と名付けた。  日本書記
470  雄略天皇14年春3月   臣、連に命じて呉国からの使人を迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉原と名付けた。  日本書記
470  雄略天皇14年夏4月   天皇は呉人をもてなそうと思われて、郡臣につぎつぎ尋ねられた…  日本書記
609  推古天皇17年4月  百済僧十人ら合計八十五人の船が肥後国の葦北津に入港して「私達は百済王の命を受けて呉国へ行ったところ、呉国は戦乱状態で入国することが出来ず、帰国しようとしたが途中、暴風にあって漂流し天皇の御国に流れ着きました…」 日本書記 

雄略天皇14年の呉坂について
「日本書紀」(470)雄略天皇14年春1月条、身狭村主青(むさのすぐりあお)らは、呉の献った手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)・衣縫(いぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まった。この月に呉の来朝者のため道を造って磯果(しはつ)の道に通じさせた。これを呉坂と名付けた。記事が有り本居宣長の「古事記伝」によると『磯齒津は、万葉巻六の歌(999)に和泉国の千沼(ちぬ)と詠み合わせている。千沼は住吉の隣で、ほど近いところである。ある人のいわく、「住吉の東一里ほどのところに喜連村というところがある。河内の境だ。昔は河内に属して万葉に『河内国伎人(くれびと)郷』とあったのを、『くれ』を訛って『喜連』という。孝徳紀、三代実録などに『伎人の堤』とあるのもここのことだ。住吉から喜連に行く間に低い岡山が横たわっている。これが万葉巻三の歌(272)に『四極山打越見者(しはつやまうちこえみれば)……』とある山で、呉坂はここだろう。いまも住吉から河内へ通ったこの道を、いにしえに呉の国人が通った道だと言い伝える。喜連村に『呉羽明神』という社などもある。また万葉の『四極山』の歌に詠み合わせている『笠縫の嶋』は内匠式に『‥‥菅の蓋一具、菅ならびに骨の材料を摂津の国から取り寄せ、笠縫氏がやって来て作る』とある笠縫氏の居住するところで、今の東生郡の深江村がこれである。』としていますが「古事記伝」のこの記事を見て本居宣長ほどの人でも、こうした誤った見方をするものかと思わされました。只宣長自身の見聞に基づくものではなく「ある人のいわく」とあるのでこうした判断になったものと思われるので「古事記伝」の「呉坂」の位置については疑問のあるところです。また、『四極山打越見者(しはつやまうちこえみれば)……』の「四極山」についても諸説がありますが詠み人高市連黒人(たけちのむらじくろひと)は生没年不詳で経歴も定かでなく柿本人麻呂と同時代の人といわれています。彼の歌が万葉集に十八首収められていますが、すべての歌が旅先での作と思われ下級の地方官人であったとみる説が有力です。万葉集3-272 四極山打ち越え見れば笠縫の島榜ぎ隠る棚無小舟の「語釈」では四極山は所在不詳。中世の「歌枕名寄」はこの歌を引いて豊前国の山と推定していますが、前歌「桜田へ…」との関係から尾張国の山と見る説が現代では有力です。笠縫の島についても所在不詳です。
上左図は歴史地理学者の7世紀当時の住吉津・朴津・難波津の推定図。右図は現代地図の上に住吉津・朴津(榎津)の推定位置を入れ私説「呉坂」と磯歯津路の始発点を挿入してみました。現代の通説では「呉坂」は住吉社境内北にある大海神社の北にある坂道が「呉坂」であるといわれています。 
仁徳期に難波の堀江を開鑿し墨江(すみのえ)の津を定めた記事が有り、この記事の真偽はともかく7世紀後半に攝津国が成立し難波津が出来るまでは、それまでの大陸や朝鮮半島との交流の拠点は住吉津が国家的な港として繁栄していたことは事実でしょう。その住吉津の位置は歴史地理学者によると細江川(現細井川)の河口にあったとする説が有力で同川は現在の流路からは、とても想像出来ない水量豊かな河川で有り現阪堺電車の細井川停留所付近が往古の住吉津といわれています。私の推定では住吉津から上町台地上の磯歯津路始点まで2~3段階の段丘があったと推定最初の段丘上に住吉社があり現南海高野線から千躰交差点付近が上町台地の最高地点であったと推定この地点が磯歯津路の始発点であったと推定して住吉津を住吉大社の南側の細江川河口付近とすると、ここから最短コ-スで磯歯津路の始点である現千躰までの道を拡幅工事で完成させたのが「日本書記」雄略期の「呉坂」であると憶測しています。但し5世紀中期に磯歯津路が既に存在していたのかについては、この地域の発掘調査で道路遺構は検出されておらず磯歯津路については疑問のあるところです。
「日本書記」の記述によると仁徳朝1件・雄略朝7件(470年は3回)・推古朝1件の呉国関連記述があります。仁徳朝には呉国と高麗国(こうらい・こま)の使人が並立して天皇に朝貢(ちょうこう)したとあり、この記述で見る限り呉国と高麗国は別個の国です。
高麗国(936~1392)とは936年に王建が朝鮮半島を統一して建国した国。
高句麗(紀元前後~668)扶余族の朱蒙が建国668年唐・新羅の連合軍により滅亡する百済(四世紀中期~663)日本に仏教・文字文化等を伝え日本古代文化の形成に最も貢献したが663年に日本・百済と唐・新羅の連合軍が白村江(はくそんこう)で戦い、日本・百済連合軍が大敗し百済は滅亡。多くの百済王族や百済人が日本に亡命してきた。
呉国 ①(?~前473)紀元前に長江下流域にあった国
   ②(222~280)孫権が建国した中国(三国時代の王朝)
   ③(902~937)中国(五大十国時代現南京付近)にあった。 
仁徳期(270~310)「日本書紀」の呉国とは②の三国時代の王朝が該当しますが当時の
呉国が仁徳天皇に朝貢したというのは疑問があります。
しかし、この年代の中国は五胡十六国時代で「呉国」という名の国は存在せず、朝鮮半島でも「高句麗」は存在するが「高麗国」は存在せず、これは「高句麗」を指したものと思われます。朝鮮半島に「高麗国」が成立するのは西暦918年です。また、(464)雄略8年の記述では呉国とは新羅のことかと思われる内容になっていますが「身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わされた」と「天皇即位以来この年に至る迄、新羅国は貢物を奉らないことが八年に及んだ」を切り離して考えるべきか? 462~466の記述には疑義のある内容で、そのまま信じ難い記述です。
雄略朝には「呉国」の記述が7回あり、「宋書」によると雄略天皇は倭の五王の「武」に比定される天皇で「日本書紀」で見ると呉国に5回遣使しています。また、雄略天皇を倭の五王「武」とすることについては考古学界に於いても、ほぼ認められているようです。この呉国とは中国大陸にあった国の事と推定されるので私なりに調べてみると右下図で見られる様に西暦220~280年の中国三国時代(西暦220~280年)に呉国が見られますが、この呉国は220年に孫権によって建国された国ですが、280年三代孫皓(そんこう)の時に西晋により滅ぼされています。以後東晋・五胡十六国時代を経て旧呉国の地に宋(420~479)が建国されます。「日本書記」「古事記」には倭の五王に関する記述はありませんが宋書倭国伝にある記述から「倭の五王」が知られるようになり、雄略天皇(457~479)は5回にわたって遣使しており中でも478年(雄略22年)の遣使では上表文を出し「安東大将軍」の号を受けたと(「宋書」順帝昇明2年)に記されています。推古朝(592~628)の記事百済王の命を受けて呉国へ行ったが、呉国が戦乱状態で入国出来ず帰途暴風で漂流、肥後国に漂着したという記述にも疑問があります。609年代の中国は隋(581~618)の時代で、隋の後は唐(618~907)の時代となります。推古朝には中国に呉国は存在しません。(609)推古17年頃の隋は煬帝(ようてい)の時代で首都大興城の建設・河北から江南へと繋がる大運河の開鑿等の大土木工事を行っています。「日本書記」の推古朝の記述も百済人の虚偽の申告を鵜呑みにしたのか、書記編纂者の智識不足からか5世紀~6世紀に「呉国」とした記述がみられます。
しかし(607)推古15年に遣隋使として小野妹子が派遣されており、「日出処の天子……」の国書を持参したことで有名です。翌(608)推古16年小野妹子は隋の裴世清(はいせいせい)をともない帰国しており、(609)推古17年には裴世清の帰国に伴い第3回遣隋使として小野妹子・吉士雄成(きしのおなり)や学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)南淵請安(みなみふちのしょうあん)新漢人日文(にちもん)、後の僧旻(みん)らが学問僧として隋へ留学しています。「日本書紀」「隋書」倭國伝(わこくでん)の記述が一致しており609年に隋が戦乱状態とは考えられず「日本書記」の編者が何故5~6世紀の記述に「呉国」と記し、「隋」を大唐(もろこし)と記したのか理解に苦しみますが今となっては真意の解明は無理です。
 中国の南北朝時代「宋」は420年建国、479滅亡以後斉が興る。  西暦220~280の魏・呉・蜀の三国時代の中国
下記は「日本書記」原文です。隋の国名が「唐国」「大唐」「唐客」と記されています。因みに「唐」は618年に李淵(りえん)が隋を滅ぼして建国した国です。
遣隋使は推古朝の600年~614年の間に5回派遣されていますが「日本書記」と「隋書」では遣隋使記述については相違があり「日本書記」では小野妹子を派遣したのは「大唐國」となっています。また小野妹子が帰途朝鮮半島での返書紛失事件は「日本書記」に記されていて有名ですが「隋書」にその記述はなく、小野妹子の名前の記述もありません。「日本書記」編纂時は唐(618~907)の時代であり、遣唐使派遣は200年以上にわたり、唐の文化・制度・仏教を朝鮮半島経由でなく直接我が国に伝えることで大いに貢献した事情等も有り書記編纂者は短命王朝であった隋との交流を「唐」に置き換えたのではと推測されます。
『日本書紀』の記述
608推古天皇十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐唐国号妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。従妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。為唐客、更造新館於難波高麗館之上。 
608推古天皇十六年九月辛巳。唐客裴世清罷帰。則復以小野妹子臣為大使。吉士雄成為小使。福利為逸事。副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝。其辞曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大礼蘇因高。大礼乎那利等徃。謹白、不具。是時。遣於唐国学生、倭漢直福因。奈羅訳語恵明。高向漢人玄理。新漢人大国。学問僧、新漢人日文。南淵漢人請安。志賀漢人恵隠。新漢人広斉等、并八人也。 
609推古天皇十七年夏四月丁酉朔庚子。筑紫大宰奏上言。百済僧道欣。恵弥為首、一十人。俗人七十五人。泊于肥後国葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史竜、以問之曰。何来也。対曰。百済王命以遣於呉国。其国有乱不得入。更返於本郷。忽逢暴風、漂蕩海中。然有大幸、而泊于聖帝之辺境。以歓喜。 
喜連の語源となったといわれる「呉」は高句麗ではなく中国大陸の「宋」である可能性が高いと思われます。雄略朝には「呉人を桧隈野に住まわせた。それでその地を呉原と名付けた」記述が有り、この時期の呉人とは宋人のことであると思われます。 呉人の住んだといわれる喜連は何故「呉人」でなく「伎人」なのか? 
「伎人」を「クレヒト」「テヒト」「ワザヒト」と読むか意見の分かれるところですが現代では「テヒト」「ワザヒト」説は少数派で大半は「クレヒト」派ですが私は「テヒト」説です。これは私の憶測ですが4~5世紀は百舌鳥古墳群の築造。5~6世紀には古市古墳群の築造。また長原古墳群も4世紀末~6世紀初頭の築造で有り、6世紀末~7世紀には狭山池・丹比大溝・古市大溝といった池溝の開削等で南河内地方は国家的プロジェクトによる大開発時代です。これらの事業には渡来系技術者が多く携わったものと考えられます。この時期の渡来者の主流は朝鮮半島からですが、中国大陸からの渡来者も多かったと考えられ、これらの人々は南河内一帯の開発には欠かせない土木技術者も多くいたと考えられます。こうした職能人が集団で住んでいた集落が「伎人郷(てひとの里)」「ワザヒトの里」と呼ばれていたのではないでしょうか?。奈良時代には「伎人郷(てひとのさと)」の地名は残っていたものの、なお職能人の集う集落であった可能性はひくく、一般集落になっていたのではないでしょうか。
1975年(S50)に書かれた金達寿氏の「歴史の中心は渡来人だった」を読んでいたら「呉国」に関する記述がありましたので参考までに紹介しておきます。
『「クレ」が「呉」という字であるために、中国の呉国を連想しがちだが、実は朝鮮語では高句麗のことを「コクレ」という。そして「コ(高)」は国の姓であると同時に美称なのだ。和(ヤマト)を大和(ヤマト)というときの「大」と同じである。「コクレ」から美称「コ」を取れば「クレ」 でそれが「呉」と書かれるようになったのだ。』 
私達が「ヤマト」を読み書きする場合「大和」「倭」で通常は「和」一字のみで「ヤマト」を表すことは殆どないと思うのですが。また、「倭の五王」の「武」は雄略天皇はに比定される天皇として学会でも異論がないようです。「日本書紀」雄略朝には呉国との記事が5回記録されていますが、中国側の宋書と内容・年次が下表の様に違っています。
紀年は「日本書紀」の紀年に基づいた和暦ですが書紀の紀年に疑義があるようです。
西歴  和暦   日本書記  中国史料(宋書・斉書・梁書)
 421     倭王讃、宋の武帝に朝貢、除授を賜る。
 425     倭王讃、宋の文帝に朝貢、方物を献表する。 
       
 438     倭王珍(讃の弟)、宋の文帝に朝貢し安東将軍倭国王の称号を受ける。
 443     倭国王遣使、貢献。 
 451     倭王済、安東将軍・倭・新羅・任那・加羅等軍事を加う。
 460     倭国遣使貢献。 
 462  雄略6  4月、呉国、使を遣して貢献す。 倭王興、宋の孝武帝に遣使貢献。 
 464  雄略8  2月、身狭村主青・桧隈民使博徳を呉国に遣わ    す。  
 466  雄略10  9月、身狭村主青ら、呉の献上した2羽の鵞鳥    を持ち筑紫に戻る。  
 468  雄略12  4月、身狭村主青・桧隈民使博徳を呉に遣わす  
 470  雄略14  1月、 身狭村主青ら、呉国の使と共に呉の献上した手末の才伎、漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを連れて住吉津に泊まる。
 477     倭国遣使、貢献。
 478     倭王武、遣使上表、安東大将軍。使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓軍事を加う。
 479     斉の高帝、倭王武を鎭東大将軍にすすめる。
 502     梁の武帝、倭王武を追号。征東将軍にすすめる。 
こうして「日本書紀」の呉国記事と中国史料を比較してみると「日本書紀」の呉国とは中国大陸の宋・斉・梁であることが判明します。日本人が文字を使って記録する様になるのは、5世紀頃からですが当初の文字については鉄剣や銅剣に彫られり銅鏡に鋳造された金石文で解読が難しい文字です。おそらく文字知識を持った帰化人が記したもので当時日常使用されていた日本語とはかけ離れたものだつたと考えられます。日本人による文字記録の時代が始まるのは6世紀末頃で7世紀の「古事記」「日本書記」の編纂が我が国に於ける最初の文字記録の始まりでしょう。それまでは語り部などによる伝承の時代であり「日本書紀」の紀元前660年から始まる編年編集の疑義もそこから生まれるのです。残念ながら「雄略期」の呉国記事も中国宋書記事の方が信憑性があるようです。
伎人郷の名称はここに居住していたのは高句麗からの渡来人であった可能性があります。百済の滅亡が660年で難波(大阪)の地に百済郡が設置され百済王氏をはじめ亡命百済人が定住したのは飛鳥時代中頃以降と思われ、8年後の668年には高句麗が滅亡しており、高句麗からの流民もかなりあったと推定されます。百済・高句麗からの亡命者は職能人や政府高官が多く一般庶民は皆無であったと思われます。そうした高句麗系の職能人が定住して攝河の水利・治水事業に取組んだ可能性が考えられます。
また、大正期の喜連村誌には村名の由来を延元の乱に此の地に鎮守の兵士を備へ置きしかば其の地を鎮平と云へり此の乱に北畠顕家住吉に退かれしかば喜連川(きつれかわ)氏此に居を築きて六万石を領し楯原神社に六百石を寄進せり今の北池の水係りの地是なり然るに喜連川氏は応仁の乱(1467~1477)に細川氏に襲われて落城し其の君臣逃げ退けり是に於いて文明九年(1477)郷民其の城跡に移り住まん欲し同十年初めて建築せり故に喜連川氏の縁により喜連村と呼ぶに至れりと記していますが、喜連川氏とは足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった鎌倉公方の足利基氏を祖とする家で鎌倉公方と称し、(1590)天正十八年豊臣秀吉の命により、上総の小弓御所足利頼純の長男国朝が、古河公方足利義氏の遺女に入夫し、その名跡を継ぎ、古河と下野喜連川(現・栃木県さくら市)において領地を与えられた際に、喜連川を苗字としたのが興りで応仁の乱は(1467)応仁元年で、それ以前の(1455)康正元年に古河(こが)に移転しており(1590)天正十八年に下野国喜連川に移った時に喜連川に改名しているので、喜連村誌の記事内容の様に喜連川氏が喜連城に在城した事実はなく、喜連川氏の縁により喜連村と称するようになった事実は有り得ないと思います。
長々と「伎人郷」の呼び名について述べましたが「伎人」が「クレヒト」とは解釈しがたいと思ったのですが馬国人の名に「国人(トキヒト)」と訓仮名されているように奈良時代と現代では漢字の読み方にも相違があるのかも? 

「伎人」は「クレヒト」「テヒト」「ワザヒト」のいずれか? 
上左から攝津国神名帳で(863)貞観5年の太政官符において作成されたものを文亀3年(1503)に卜部兼倶(うらべかねとも)が書写したものです。「伎人大明神」の名が見え、ふり仮名は「ワサヒトノ」と読めます。これは「わざびと」所謂職業人の意か?と思われるのですが、念のため濁音の起源を調べてみると当時の文書には訓仮名に濁点が見られないことから現在のように仮名文字の右肩に濁点をつける方法では無く例えば「ザ」には「‥サ」のように文字の左に濁点を付けているのが鎌倉期「毘沙門堂本古今集註」に見られることから書写する際の訓仮名には濁点を省略したものか、濁点が未だ普及していなかったのかのいずれかであろうと思います。また、伎人大明神とは住吉神代記にみられる「伎人神」と推測されます。次は万葉集西本願寺本で20巻揃った鎌倉後期の貴重な万葉写本です。伎人郷に「クレヒトノサト」また馬国人の国人に「トキヒト」と訓仮名されています。時代と共に読み方も変わるものなのか?。次の「日本三代実録」は天安2年(858)~仁和3年(887)迄の30年間を50巻にまとめた六国史の第六巻にあたります。(862)貞観四年三月四日の伎人堤の争いを記した箇所で「テヒトノ堤」としています。この三代実録も現存するのは写本ですが作成年代不明です。次は「住吉松葉大記」の著者は松下見林(けんりん)の影響をうけた神道家で住吉社人の梅園惟朝(うめぞのこれとも)で元禄年間に「住吉松葉大記」を記しています。「住吉神代記」に記されている「伎人神」について述べている箇所からの抽出で「クレ」と「テヒト」の二つの訓仮名をしています。いずれにするべきか迷ったのでしょうか。昭和9年に発刊された「住吉松葉大記」本からの抜粋です。下右は「住吉大社神代記」子神の条に記されている「伎人神」です。下左は松葉大記の「伎人神(社)」の記事です。
 
万葉集では「クレヒトノサト」と訓仮名されており日本三代実録では「テヒトノツツミ」と訓仮名されています。しかし万葉集の原本は現存せず現在に伝わっているものは全て写本であり、日本三代実録は(901)延喜元年に完成した書で記述の密度は六国史中もっとも高いといわれている反面,現存する写本には脱文や後人伝写のさいの抄略が多いという説もあります。これらの写本にはいずれも仮名文字による訓仮名がありますが、原本にはなかったものです。後年に写本の際書写した人物が、訓仮名をしたものと推定されます。下の写真は「元暦校本万葉集」で卷二十の卷末に「元暦元年六月九日以或人校合了 右近権少将(花押)」の奥書がある写本で桂本、藍紙本、金沢本、天治本と共に「五大万葉」の一つとして知られているもので万葉集研究家の間でも特に重要視されている写本です。この元暦校本万葉集では訓仮名はなく歌は万葉仮名で、左にはその歌がひら仮名で添え書きされて他の写本とは違った形態になっています。「万葉集」の編纂については勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など諸説がありますが、大伴家持説が有力というだけで(785)延暦4年8月28日家持が陸奥の任所で没するまでに万葉集の編纂が終わっていたか否かも、また、家持亡きあと平城天皇の御代に「万葉集」が世に出るまで誰がどの様に保管したのかも記録がなく一切不明のままです。そして平安中期から室町時代にかけて「万葉集」の写本が多く作成されています。
現代の私達が近世の古文書を見ても読めない人が大半であるように、奈良時代から
数百年近く経過した平安中期から室町期では万葉仮名や地名などに、訓仮名を付ける必要が生じていたと考えられます。そのため筆者によって「伎人郷」が「クレヒト」や「テヒト」「ワザヒト」になったものと考えられますが、いずれが正しいのか意見のわかれるところですが、その根拠を示す資料がなく断定はできません。私は渡来系の技術者が居住した職能集落であったと考え「テヒト」「ワザヒト」説に傾いています。しかし、いずれの説にも立証出来る確定的な資料がなく憶測の域をでないのが現状です。
奈良時代には大阪市生野区付近に百済人の居住地として百済郡が設置されていました。古代の渡来人達の上陸地は住吉津と難波津であり、ここに揚がった人々は百済系の人達は百済郡へ、其の他の人達は一旦攝津国住吉郡や隣接する河内国丹比郡に仮住し大和政権の指示により各地に分散、定住地をあたえられたと考えられます。5~7世紀は渡来文化の最盛期であり中でも農業技術や農耕具が木製から鉄製に変わった時期でもあり攝河の地でも狭山池・依網池が築造され段丘地や低地の大開発が行われたています。こうした大規模開発には多くの渡来技術者が携わったと考えられ当時そうした技術者集団が居住していたのが瓜破・長吉台地を中心とする地域に「伎人郷」と呼ばれた地区であったと私は憶測しています。土木工業・農業指導・機織・陶工・牛馬飼育等こうした職業人を手末才伎(タナスヱノテヒト)と呼んでいたようです。この手末才伎は朝鮮語で倭国語では「伎人(テヒト・ワザヒト)」になっていたのではないでしょうか。
上左は「日本三代実録」(862)貞観4年3月4日河内、攝津両国の伎人堤の争い記述。ここでは「伎人堤」
に「テヒト」の訓仮名がある。中は「続日本紀」(750)天平勝宝2年5月24日、伎人・茨田等堤往々決壊と記すも「等堤往々決壊」には訓仮名があるが「伎人・茨田」には訓仮名はない。
右も「続日本紀」(741)天平13年4月22日の河内、攝津の河堤争い記述で堤名は記されていないが「伎人堤」であろうと推定されます。  
「日本書記」(675)天武4年2月9日条、大倭(やまと)・河内・攝津・山背(やましろ)・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張らの国に勅して、「管内の人民で歌の上手な男女、侏儒(しゅじゅ)、伎人を選んでたてまつれ」との勅がだされています。
この詔の「伎人」は「ワザヒト」と解すべきだと考えられます。侏儒(しゅじゅ)とは小人を意味し古代大和朝廷にはこっけいな芸をもっぱらとしたらしい侏儒がいて,そうした芸を母胎にして生まれたのが平安時代の侏儒舞といわれています。  
また、「テヒト」についての参考資料の一端として下に韓国歴史学者の『日本書記に現れる「テヒト」について』と題する論文の一部を転載してしておきました参考までにご覧下さい。
日本書紀の古写本にはテヒトの語彙(ごい)が見られ、14・15・25・26 に散在している。テヒトは巻14では才伎に西漢、手末(たなすえ)、今來(いまき)が上接した語形であらわれるが、それ以降の巻では巧手者、才伎、才伎者は単独形として用いられることから、テヒトの表記の特徴は巻14と、以降の巻に分けることができる。日本語的な用語のテヒトが手人と書かれず、才伎、才伎者、巧手者のような漢語で表記されているのは、日本書紀が純粋漢文体を志向したために、漢語表記を原則としたと思われる。これについては同時期の文字資料では手人は見えるが、才伎、才伎者、巧手者が確認されないからである。 テヒトの意味であるが、巻14では手末才伎(たなすえてひと)が諸技術者や専門家を総称する普通名詞として使われていたり、織物などの手工業生産物と関連のある職人を指したりしており、同一表記においても職種においては細部的な違いが見られる。他に手末才伎と才伎も記事内容からは、意味領域において明確な違いは現れない。ただし、テヒトが帰化系の専門職の技術者や技術集団を指していることには共通性があるといえよう。
 ※ テヒト=技術者、手人、才伎、巧手者、手末  
資料に基づく「伎人郷」の正式な呼称は不明で通説が根拠のないままに定説の如く世間に信じられているというのが事実ではないでしょうか。下表に「伎人郷」周辺と推定できる地域の古文書を調べましたが「伎人郷」関係の文字資料は皆無で、瓜破地域の行政所属・瓜破の地名等に係わる文字資料も皆無で、「河内国伎人郷」の謎は深まるばかりです。「伎人」が「クレヒト」か「テヒト」「ワザヒト」かについての判断は本文をご覧になった皆さんにお任せするしかないようです。  
西暦  和暦  内     容  出典 
740  天平十二年   住吉郡田辺郷戸主正七位上田辺史真立   右京計帳 
740  天平十二年   船連石立年丗七河内国渋川郡竹渕郷戸主正八位下利苅寸主家戸 正倉院文書 
740  天平十二年   飽田史石足 年廾四 河内国渋川郡賀美郷即戸主 正倉院文書  
750  天平勝宝二年   上道人数年丗一河内国丹比郡三宅郷戸主大初位下
 上道波堤麻呂戸主
正倉院文書  
-  文書の前後が
欠け年次不明 
 竹志淨道年廿摂津職百済郡南部郷戸主正六位下竹志麻呂戸口 正倉院文書  
862  貞観四年   摂津国正六位上田邊東神。田邊西神並授従五位下 三代実録 
喜連地域と磯歯津路を挟んで南にある瓜破地域も旧石器時代から人々が生活を営んだ
遺跡ですが、地名を記した文献資料が皆無で河内国丹比郡に所属していただろうと推定する以外に郷名などは不明で瓜破の初見資料は「花営三代記」(1371)応安四年十一月五日。郡書類従(花営三代記)に記されている「暁。河州宇利和利城寄手南方勢引退云々」の瓜破合戦記述です(下記参照)。下左は近世文書記載の瓜破城図。
右も瓜破の近世絵図で字城山が中世の宇利和利城址と推定され、瓜破台地の東谷と西谷に挟まれた先端位置にあたる場所です。磯歯津路(しはつみち)が攝津・河内の国境で図の磯歯津路より上部が攝津国になり、伎人郷推定地域の一部になるところです。
喜連東・瓜破地域共に縄文・弥生期から人の生活が認められる地域ですが、この地の文字資料は皆無に近く「伎人郷」の8世紀に於ける位置や行政所属を確定できる資料もないのが現状です。
喜連の地名の由来については、呉(クレ)が訛って喜連になった。「伎人」「呉」「久礼」の「クレ」が転訛して「喜連」になったという通説が定着しており、現喜連町がその中心地と思われこの地を訪れる古代史ファンも多いようです。これは全く8世紀代の地形と環境を無視したもので本ペ-ジでは当時の地形と環境を考えて一次史料である発掘調査報告を基に2次資料・3次資料等を出来うる限り調査して考察しましたが、伎人郷の誕生年代や奈良時代の集落の様相・伎人堤の位置等については初回の考察失敗以来数年かけて私なりの考察を続けてきましたが、なお、皆様方に理路整然とした回答を示すことが出来ず恥ずかしい限りです。近代に鎌倉末期の古文書が発見されその一部を紹介したように平野将監入道や木礼成心(基宗と同一人物か?)関連資料を詳細に考察することにより次回更新時には何らかの進歩があると思います。 

万葉集の振り仮名
 左写真は万葉集西本願 寺本で題詞、歌詞に片 仮名の訓が付けられて いますが歌詞は一字一 音の万葉仮名で記され ており、編纂当時の原 本には、こうした訓仮 名は付いていなかった はずです。こうした訓 仮名が付けられたのは 何時で誰が付けたので
しょうか?。一例として馬国人の国人に「トキヒト」と振り仮名が付けられていますが天平勝宝8年当時そう読んでいたのか、それとも後年振り仮名が付けら
れた当時の読み方なのか? また、題詞の地名等についても奈良時代と振り仮名がつけられたと想定される鎌倉期では読み方が違っていたのではといった疑問が有り、万葉集の原本には無かった振り仮名が何時、誰によって付けられたものか調べてみました。我が国に文字が伝わったのは「記紀」によると応神朝に百済から来朝した王仁(わに)が持参した「論語」「千字文」が最初であると記されています。この説についても異論が多い様ですが、我が国に文字文化がもたらされたのは3~4世紀頃だと考えられます。
阿智使主(あちのおみ)の後裔氏族といわれる東漢氏(やまとのあやうじし)と王仁の後裔氏族といわれる西文首(かわちのふみのおびと)ともに応神朝に百済・新羅からの来朝者といわれ文筆の技能を、もって朝廷に仕えた氏族です。こうして漢字文化圏に入った我が国ですが、古代からの話し言葉である古代日本語と輸入漢字はうまく整合したのでしょうか? おそらく種々の矛盾が発生したと思われます。ある説によると最古の万葉仮名は稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)に刻まれている「獲加多支鹵(わかたける)大王」「斯鬼(しき)宮」「意富比?(おほひこ)」「乎獲居(をわけ)臣」や隅田八幡神社の人物画像鏡の「意柴沙加(おしさか)」「斯麻(しま)」「開中費直(かわちのあたい)」等の文字だそうですが「開中費直」は一字一音ではありません。
稲荷山古墳出土鉄剣の製作は「辛亥(しんがい)年」471年といわれており、人物画像鏡の「癸未(きび)年」については443年説と503年説があり、いずれとも決め難いのが現状です。いずれにしてもこの文字を万葉仮名とすると万葉仮名の起源は500年代で、その完成は6世紀末~7世紀初頭頃と推定されます。    

左写真は稲荷山古墳出土鉄剣
「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?……」 
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ……の銘文が刻まれています。

右写真は隅田八幡神社の人物画像鏡
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮……」
癸未(みずのとひつじ)の年八月十日大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)……銘文があります。 
和歌等を漢字で表す場合の不便さなぞから一字一音の文字が生まれたものでしょうが何時誰が考え実用されたものか資料がなく不明ですが、一字一音の万葉仮名で記された最古の歌集である「万葉集」から考察してみたいと思いますが「万葉集」の成立時期を確定することは難しく、万葉集の成立に関しては勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など、がありますが万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なり、それが家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力です。
「万葉集」の原本は実在せず、現在では最古の「万葉集」といえば「天暦古点本」が最古と考えられますが、この「万葉集天暦古点本」も現存せず現存最古の「写本万葉集」は「万葉集桂本」で「天暦古点本」からの書写といわれていますが、これらの写本が「原本」の書体・書風を一字一句忠実に書写されているのか疑問です。
平安中期の900年代には万葉仮名で記された万葉集はすでに当時の人々には難解なものであったと推測されます。そのため村上天皇の詔により(951)天暦5年、村上天皇の宣旨で梨壺の5人で万葉集の訓点作業が始まったことが源順(みなもとのしたごう)の記述「天暦五年宣旨ありて、やまとうたはえらぶところなしつぼにおかせ給、古万葉集よみときえらばしめ給なり……」の記述より知ることができます。
梨壺の5人とは村上天皇の命により、平安御所の昭陽舎に置かれた和歌所の梨壺で万葉集の訓点を施した寄人(よりうど)で大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源順(みなもとのしたごう)・紀時文(きのときふみ)・坂上望城(さかのうえのもちき)の5人。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれていました。この時に万葉集に付けられた訓点が古点で、その後に幾人かの人が、何代にもわたって訓を付けたのが次点、そして鎌倉時代に仙覚が訓のついていない残った読みにくい100ないし150首の歌に訓を付けたのが新点といわれています。梨壺の5人が訓点をつけた古点本といわれる万葉集は現存せず、現在最古の万葉集は次点本(桂本・元?校本等)です。西本願寺本は新点本に属します。 
上は万葉集元暦校本で(1184)元暦元年6月9日以或人校合了 右近権少将(花押)の奥書がある現存する万葉集写本では最古のものです。題詞・歌詞に振り仮名はなく万葉仮名で記された歌詞の次に平仮名で、その読み下しを書き記しています。
 ※「河内国人伎郷」と誤写して修正しています。
上左写真 万葉集天治本(平安後期の写本)       上右写真 万葉集金沢本(平安後期の写本) 
 
 上左写真は万葉集桂本(平安中期)。中 万葉集藍紙本(平安中期)。右写真は富山県赤田(あかんだ)遺跡出土の万葉仮名から平仮名への移行期の仮名文字で草仮名といわれた文字だそうです。緑釉(りょくゆう)の皿で9世紀後半のもので草仮名の中でも成立期のものだそうです。
上写真左から万葉集「京大本」平安末期~鎌倉初期の写本。中「近衛本」室町時代末期の写本?
右「西本願寺本」鎌倉後期の写本。 近衛本の題詞にはふり仮名なく歌詞のみにカナ文字の振り仮名がある。京大本、西本願寺本には「クレヒトノサトウマトキヒト」と題詞にもカナ文字でフリカナしている。 
これらの写本をみると平安中期までの写本には題詞・歌詞に振り仮名は無く、万葉仮名で記された歌詞を平仮名で書かれた和歌に置き換えています。この方式が(951)天暦5年に梨壺の5人が編纂した万葉集であると思われますが、それを裏付ける資料は存在しません。したがって平安中期に書写されたといわれる桂本・藍紙本・元?校本が(951)天暦5年に梨壺の5人が訓点を施したものか否かは不明です。またこれらの次点本に用いられているのは平仮名のみで片仮名は見られないことから950年代には、平仮名がすでに完成していたことがわかります。
下の表は8~9世紀に完成した我が国の初期の書物でいずれも巻子本(かんしほん)で振り仮名はついていません。現存する振り仮名つきの本は全て書写本です。
  ※下表の完成年は西暦 
8世紀の主な書物  9世紀の主な書物 
書名  完成年 和歴 
古事記  712  和銅5年 
日本書記  720  養老4年 
常陸国風土記  721  養老5年 
出雲国風土紀  733  天平5年 
懐風藻  752  天平勝宝3年 
万葉集  759以後  信頼できる資料がなく
天平宝字3年以降と推定
続日本紀  797  延暦16年 
書名  完成年  和歴 
古語捨遺  807  大同2年 
凌雲集  814  弘仁5年 
日本後紀  840  承和7年 
続日本後紀  869  貞観11年 
日本文徳天皇実録  879  元慶3年 
類従国史  892  寛平4年 
令義解  -  推定800年代作成 
常陸国風土記 
(原本は消失現存するのは写本書写年不詳) 
出雲国風土記
(1817)文化14年の写本
古語拾遺(書写年不詳)  類聚国史(書写年不詳) 
上表の8~9世紀当時の書籍は和綴じ製本されたものではなく巻子本であったと考えられます。しかし現存するものは皆無にちかく、殆どが書写本で原本が残っているものもありますが私どもの目に触れる機会はありません。また、書写年月日についても記していないものについては推定です。原本が無く推測ですが、この時代の書籍には訓仮名は使用されていなかったと考えられます。   
万葉集の原本は現存せず現在に伝わっているものは全て写本であり、次点本、新点本が現存していますが、全二十巻揃ったものは次点本の広瀬本と新点本の西本願寺本のみではないかと思います。あとはいずれも数巻か断簡が伝わるのみです。「元暦校本」「桂本」「藍紙本」の3点は平安中期の写本で現存する最古の次点本。「金沢本」「天治本」は平安後期の次点本で共に「五大万葉」の一つとして知られているもので万葉集研究家の間でも特に重要視されている写本です。
上の写真でご覧いただいた様に平安時代に書写された万葉集次点本には振り仮名はなく万葉仮名の歌詞の隣に平仮名の読み下しが書かれています。鎌倉時代以降の写本には題詞に片仮名の振り仮名があるものと無いものがあり、歌詞には殆ど片仮名で振り仮名が付けられています。こうした書風から見ると平仮名・片仮名の順で仮名文字が考案されたものと思われます。
西本願寺本は、万葉集全20巻を、完全に保存する写本で鎌倉後期の書写といわれています。万葉集の写本も鎌倉期になると平安期の巻子本から冊子本へと変遷しています。また、鎌倉時代の万葉学者である仙覚が万葉集の校訂・訓点・注釈などに画期的な業績を残しており、1260年代には「萬葉集註釈」を完成させており、西本願寺本は仙覚本の系統を引くものとして本文の信頼性が高く評価されている反面、仙覚個人の見解の影響を強く受けている為、万葉集の原形を損なっているとの説もあります。「クレヒトノサト」の訓仮名も鎌倉期以降の写本に見られることから仙覚の付けた訓仮名と思われます。鎌倉後期以後の写本は西本願寺本を底本としているので「伎人郷」は「クレノサト」になっています。
片仮名の起源については推定する資料もとぼしく、その完成時期も不明ですが9世紀
初め頃奈良の学僧たちが漢文を和読するために考えたのが最初とする説があります。
平安時代後期に成立したと見られる「堤中納言物語」の「虫めづる姫君」に、姫君が男から送られた恋文に対して仮名
(平仮名)はまだ書き給はざりければ、かたかんな(片仮名)に「契りあらばよき極楽に行きあはむまつわれにくし虫のすがたは福地の園に」と書き送っていますが、この文によれば平仮名に先行して片仮名が出来ていたことになりますが、950年代(10世紀前半)の書籍には片仮名の訓が見られないことから平仮名が先に完成したものと考えられます。
万葉集の題詞の地名・人名についての振り仮名は平安末 ~鎌倉時代にかけて付けられたものと推測され当時の万葉研究者の音読み、訓読みによって付けられたものと推察されます。因みに現在の漢語辞典で「伎」をみると[字解] 形声。ひと+支(手に棒をもつ)。手に棒をもち演ずるひと、わざおぎの意。 [参考] 万葉仮名ででは音を借りて「き甲」「ぎ甲」。[意味]①わざ、うでまえ。「技」に同じ。②わざおぎ。芸人。「伎楽」「歌舞伎」とあります。万葉集の題詞部分に振り仮名した人物は歌宴の主宰者馬史国人の名から「河内国伎人郷」を渡来系の人達の住む地域と推定して「伎」を訓読みにしたものと思われます。「ワザ」「テ」と人によって音・訓読みが混合していたことが「日本三代実録」「神名帳」「松葉大記」の振り仮名によっても知られます。これもいずれの振り仮名が正しいのかとなると、それを立証する資料がなく判断がつきかねるのが現状です。

河内国伎人郷の謎

年籍作製と郡郷里の編成時期
西歴   和暦  年籍作製と郡郷里の編成 
646  大化2年1月1日   改新の詔第三条第一項『凡(およそ)五十戸を里となす』
670  天智9年2月   庚午年籍(こうごねんじやく)作成。
689  持統3年6月   浄御原令22巻を諸官司に分かつ。
690  持統4年9月   庚寅年籍(こういんねんじやく)以降の編成
       大郡=40里・中郡=4~30里・小郡=3里
701  大宝元年8月   大宝律令、以降の編成
 大郡=16~20里 上郡=12~15里 中郡=8~11里 下郡4~7里 小郡=3
715  霊亀元年  里を郷に改称。 郷の下に二・三の里を置く。
畿内の国境の線引きは「書紀」によると(683)天武12年12月13日条、『諸王五位の伊勢王・大錦下羽田公八国(はたのきみやくに)小錦下多臣品治(おおのほむじ)・小錦下中臣連大嶋(なかとみむらじおおしま)と判官・録史(ふびと)・工匠(たくみ)などを遣わし、全国を巡幸し諸国の境界を区分させたが、この年区分はできなかった。』翌13年冬10月3日条、『伊勢王らを遣わして、諸国の境界を定めさせた。』と記されています。「書紀」の記事もこの時代になると真実性を増してくると思われます。遅くとも(701)の大宝律令の施行までには畿内国の国境は確定していたと考えられます。また、大宝律令の施行によって郡里の制も諸国に確立したと考えられます。この律令制を支えた班田収授法の基礎となる戸籍の作成や国郡郷里制の確立が必要となるため国境が定まっていないという事態は有り得ないと思います。
(756)天平勝宝八年当時には攝津国住吉郡と河内国丹比郡の境界は磯歯津路であったことも条里遺構から見て動かし難い事実であると私は考えていますが、現代までの発掘調査で磯歯津路の道路遺構が検出されていないのが気がかりですが条里遺構では磯歯津路に該当する条里線が攝河の国境であることを立証しています。(下図参照)       

住吉郡と河内国丹比・渋川郡の条里
住吉郡の条里は当時の和泉国  との境界であった大津道を起  点として北へ数えているので
 磯歯津路が6条になります。
 丹比郡の条里は住吉郡と南北  の境界に当たる難波大道を起  点として東へ数えています。
 渋川郡は磯歯津路を起点とし  て北へ数える方式を採用して  います。住吉郡と渋川郡の境  界は近世の古市街道と平野川  ですが古市街道が奈良時代に存在したか否かについては不明
倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、(931~938)承平年間に源順(みなもとのしたごう)
編纂した書物で二十卷本の国郡部の巻では古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅していますが、そこに「伎人郷」の名はなく?全(くまた)郷が記載されています。  

倭名類聚抄に見る郡郷名
「和名類聚抄」本居宣長手沢本で宣長による
付箋、書き入れ等が随所にみられます。  
 攝津国十三郡が記載されている。 
河内国十四郡が記載されている。  住吉郡の郷 住道・大羅・?全・榎津・餘戸の五郷 
攝津国東生郡と百済郡の郷名   河内国丹北郡(旧丹比郡)と渋川郡の郷名
 ※丹比郡の郷名の続 きは右上赤丸のところです  
倭名抄に記載の郡郷は攝津国が13郡78郷、河内国が14郡80郷です。上の住吉・東生・西成郡の郷に「餘戸(あまるべ)」と記されているのは50戸に満たない、小郷なのですが郡内に於ける所在地は不明です。住吉郡では住道(すむち)・大羅(おおよさみ)・?全(くまた)・榎津(えなつ)・餘戸(あまるべ)の五郷になっています。倭名抄の攝津国、河内国にも「伎人郷」「田辺郷」の名は見当たらず、この2郷の地域は?全(くまた)郷と記載されています。「伎人郷」が万葉集に記された(756)天平勝宝8年から倭名抄編纂の(931~938)承平年間までの175年間に郷名が変わったことになります。私は伎人郷と田辺郷・鷹合(伎人・田辺のいずれに所属か鷹合郷であったか不明)合わせて杭全(くまた)郷が成立したと考えています。その杭全郷が文献史料に登場するのは「和名抄」記載より、更に後年の(1151)仁平元年8月10日の藤原頼長「台記別記(日記)」に頼長が春日詣での費用として「杭全秣(まぐさ)五十束、芻(まぐさ)五十束」を供出するよう命じた記事が?全郷の初見です。「伎人郷」や「田辺郷」の名称が消滅し?全郷の誕生は何時か立証する史料がなく931年以前としか言えませんが、この間の資料がなく不明です。

近世・近年の攝河の境界線
古代の攝津国と河内国の境界(大阪市史付図より)  近世の攝津国住吉郡東部(元禄国絵図より)  
上左地図は大阪市史の付図より転載した郡郷と条里図です。住吉郡の条里は難波大道が大津道と接続する地点を一条とし北へ二条、三条と進み磯歯津路は六条になり、ここから東へ進路をとり出戸付近で北西に進む破線が平野川で流路に沿い北北西へ進むのが攝津・河内の国境です。この境界線は多少の出入りはあったと考えられますが近年まで国、郡、市境として引継がれています。
右図は元禄国絵図で幕府の命で各国が作成したもので攝津国住吉郡の部分で平野川に此川中央国境と記され、東喜連村から堀村まで(現長居公園通り)が河内国丹北郡との国境で堀村から国境は南下して大津道(長尾街道)に至っており、この国境線のみ近年に至り変更されていますがその他は往古から現在まで大きな変化はありません。
森幸安の攝州三郡地図 宝暦3年3月3日作画 大正期の大阪市と郡部の境界 
上図左は森幸安の攝州三郡地図で住吉郡と河内国渋川郡・丹北郡の国境がわかりにくいですが右の大正期地図と全く同じです。いずれも攝河の国境に変化はなく奈良時代から近世・近年に至るまで平野川筋の国郡境線には基本的大きな変化はありません。また、国境の河川として推定できるのは平野川・古東除川の2河川のみです。こうしたことから「伎人郷」として推定できる大正期の地図で見る喜連・平野郷・南百済地域になります。
このように喜連・平野周辺の攝津・河内の国境は奈良時代から近年(昭和30)の瓜破・長吉・加美地域が大阪市に編入されるまで国郡境・市界として存続してきました。
大伴家持が「河内国伎人郷」と記したのは家持の思い違いか? 河内国丹比郡の磯歯津路ぞいに伎人郷が存在したのか? いずれも立証史料がなく伎人郷の所在位置についての合理的説明ができないのが現状です。
「万葉集」では天平勝宝八年(756)当時の「伎人郷」は河内国に所属していたことになり、この時点で『伎人郷』に隣接する河内国といえば渋川郡では竹渕郷、賀美郷、丹比郡では瓜破地域(但し瓜破については行政所属は不明)です。『河内国伎人郷』が存在したとするなら磯歯津路以南か、東除川以東の渋川郡内になりますが、東除川以東説は考えられないと思っています。竹渕郷・賀美郷は(740)天平十二年の正倉院文書に「河内国渋川郡竹渕郷」「河内国渋川郡賀美郷」と明記された文献が現存しています。
「河内国伎人郷」については「家持の思い違い」「往古の一時期河内国に属していた」で済まされない問題であり何とかこの謎の解明に今後とも取り組み続けたいと思っています。

奈良時代の戸籍に見る集落形態
天平勝宝8年、大伴家持が訪ねた馬国人の家のあった伎人郷とはどの様な集落であったのでしょう。これまでの国、郡、郷、里制が(740)天平十二年には里が廃され「国、郡、郷」制になり、この時点で郷を「さと」と呼ぶようになったようです。奈良時代の集落形態については発掘調査で一集落そのまま発掘された例はなく単独または数戸の住居跡の発掘しかなく、その全容については不明ですが現代正倉院に残存する古代戸籍から、律令制下の集落形態をおぼろげながら覗い知ることができます。正倉院に現存する戸籍は豊前国・御野国(美濃)・下総国のものですが、戸籍内容は三者三様に異なり、御野や豊前国では奴婢が多く住民にも他姓が多く家族構成も多人数の戸が多いが、下総国では郷内に奴婢や寄口が少なく同姓が多く郷戸の人数も平均的であるので、下総国戸籍を参考に奈良時代の集落形態を推測し、律令国家の国郡郷制の「五十戸一郷」の実態から「伎人郷」の集落形態を推定することにしました。この下総国葛飾郡
(かつしかぐん)大嶋郷(おおしまのさと)の戸籍は養老5年(721)のもので万葉集に見る「河内国伎人郷」の記事が天平勝宝8年(751)ですからこれに近い年代のものゆえ参考資料として選びました。 
耆老/耆女 
66歳以上
老丁/老女
61~65歳 
正丁/丁女
21~60歳 
 少丁/次女
17~20歳
小子/少女
4~16歳 
緑児/緑女
3歳以下 
上写真は(721)養老5年の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍(正倉院文書から)と、その訳文です。
次が戸籍の年齢区分で課税・労働力の徴発対象等を決める基準になります。
この大嶋郷戸籍は孔王部佐留(あなほべのさる)が戸主で佐留は残疾・課戸とあり、佐留の母・妻・子女・兄弟合わせて15人の家族構成です。次に佐留の父方の従兄、孔王部子諸(こもろ)の家族が5人。次に子諸の甥である孔王部小国(おくに)の家族が7人。この3世帯が「房戸(ぼうこ)」で、この3房戸を合わせて「郷戸(ごうこ)」と呼び、戸主が佐留で戸主はたいてい2~5の房戸を従えています。佐留の郷戸で夫婦揃っているのは佐留のみです。子諸と小国は子供がいるが妻がいないのは何故なのか?別居か死別か、または当時の風習として夫婦は同居せず夫が妻の家を訪ねる妻問い婚であったという説もあります。この様な郷戸が五十戸集まったのが一郷であり、五十戸以下の戸数の場合は余部(あまりべ)と呼ばれます。
残疾とは身体障害・疾病者で老丁と同じに扱われます。課戸は律令制で、調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)を負担する所謂納税者。 廃疾とは身体障害を伴う回復不能の病で租のほかは免除された。
この孔王部佐留の郷戸の人口は27人なので4戸~5戸の堀立柱住居に居住、農機具や食料貯蔵庫等も入れると7戸程度の堀立住居があったと推定されます。現存する御野や豊前国の戸籍を見ると少ない郷戸で10数人、多い郷戸では120余人のところもあります。この孔王部佐留の郷戸人口は平均的な人数です故この郷を参考資料とすることにしました。乙巳の変前は土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)があり、その上に大王(天皇)が存在していました。乙巳の変後は旧来のこうした体制を全て全廃して律令を基本法とする次の様な改新の詔4ヶ条を発布。
  ① 私地・私民を廃して公地・公民とすること。
  ② 地方の行政区画を定めて人民を地域的に編成すること。
  ③ 戸籍・計帳を作り班田制を施行すること。
  ④ 新しい統一的税制を施行すること。

中央集権的政治制度を作り、それに基づく政治体制で、二官八省を中心とする中央官制、国郡里制による地方行政組織を新たに作り公地・公民を原則として官僚による土地・人民支配を確立させ、人民を良民・賤民(せんみん)に大別し、班田収授の法によ
り耕地を与える代わりに租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)雑徭(ぞうよう)などを課税して中央および地方の財源を確保する制度に変えています。乙巳の変で皇族・豪族・県主等が所有していた土地は全て国家の所有にして個人の土地所有は認められなくなりましたが班田収授法により国家から個人に6年ごとに班田を班給する制度にしています。

口分田の班給面積 (1段=360歩) 条里制の基本
 良民男子  2段  良民女子  1段120歩
 官公奴婢男子  2段  官公奴婢女子  1段120歩
家人私奴婢男子  240歩 家人私奴婢女   160歩
この班田制を施行するには地方の行政区画の確定、条里制による土地区画、戸籍による人民の把握等が必須条件になり、これらが確立して始めて施行に至るものです。条里制とは古代の土地区画法で6町(約654メートル)の幅で碁盤目状に区画し東西の列を条、南北の列を里と呼んでおり、6町四方の一区画を里とよび、里はさらに1町間隔で縦横に区切って36の坪とし、何国何郡何条何里何坪とよんで土地の位置を表していたものです。この班田制が条里制地割の上に施行されたことは確実で造籍による人口把握と条里制地割なくして班田制は施行
出来ません。班田法では満6歳以上の男子には2段、女子には1段120歩の農地を与え本人が死ねば収公する。また、当時の1段当りの収量は穎稲50束といわれ、これに対する租は稲2束2杷を税率としており税率は3%ですが、これは上田の収穫で中田は40束、下田は30束、下々田は15束の段当り収量といわれ一般庶民には中田以下が班田され、稲2束2杷はかなりの重税であったようです。農家以外の人達は物納・銭納であったようです。また、戸籍に関しては「日本書記」欽明天皇元年
(540)8月の条に『高麗・百済・新羅・任那が使いを遣わして、貢物を奉った。秦人・漢人ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍にいれた。秦人の戸数は、全部で7053戸で、大蔵掾(おおくらのふびと)を秦伴造(はたのとものみやつこ)とされた。』また、(569)欽明天皇30年正月の条に『田部が設けられてから久しいが、年齢が10歳になっても戸籍に漏れているため、課役を免れる者が多い。胆津(いつ)を遣わして白猪田部(しらいのたべ)の丁者(よほろ)の籍をあらためて調べ確定させよ』といわれた。夏4月、胆津(いつ)は白猪田部(しらいのたべ)の丁者(よほろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。記述があり、この記述が我が国に於ける戸籍の初見です。
白猪胆津(しらいのいつ) 生没年不詳6世紀中ごろの官吏。百済系渡来人で白猪氏の祖といわれる。吉備地方の白猪屯倉(みやけ)の田部(たべ/農民)に丁籍(ていせき/戸籍)の不備のため賦課をまぬかれる者がおおく,欽明天皇30年(569)胆津が派遣され正確な戸籍の作成に成功。白猪史(ふひと)の氏姓(うじかばね)をあたえられ,田令(たづかい/屯倉の管理者)に任命された。
丁者(よほろ)21歳~60歳までの男子(正丁)。
しかし全国的な戸籍となると(670)天智天皇9年、(かのえうま)の年に作られた、庚午年籍(こうごねんじゃく)が最古の戸籍です。次に(690)持統4年に庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成されていますが、いずれも現存しません。現存する最古の戸籍は正倉院にある大宝二年(702)御野国加毛郡半布里戸籍(みののくにかもぐんはにゅうりこせき)と福岡県太宰府市の国分松本遺跡で出土した7世紀末の戸籍木簡です。 
現存する最古の戸籍 御野国加毛郡半布里戸籍  戸籍木簡

奈良時代の農民の税負担
税の種類   品目 負担内容 
租  稲   水田1段あたり稲2束2把(収量の約3%)
庸(よう)    布・米等   正丁(せいてい・21~60歳の男子)1人に布2丈6尺
 次丁(じてい・61~65歳の男子)は2分の1
 中男(ちゅうなん・17~20歳の男子)は免除  ※706年以降は半額となる
調  絹・布等 
米・塩・水産物
鉄・鍬・銭
 絹は正丁1人に付8尺5寸/布は2丈6尺
 次丁は2分の1/中男は4分の1
 雑徭(ぞうよう)  労働力の徴発    正丁1人年間60日以下/次丁は30日以下/ 中男は15日以下
中男作物   繊維製品・食品   中男の労働によって各種の産物を調達
公出挙  稲   利率3~5割で農民に稲を貸し付ける。
仕丁  労働力の徴発   50戸から2人で1年間の労働
兵役  労働力の徴発   1戸から1人の割合、地方の軍団で軍事訓練

推定「伎人郷」の集落形態
7~8世紀代の戸籍保存期間は30年です。当時紙は貴重品であり、不要となった公文書などの裏面が再利用され、その中には戸籍や計帳、正税帳等もあり廃棄されたこれらの公文書の一部が東大寺写経所の帳簿として再利用され、さらにその中の一部が正倉院に納められたことにより今日まで残ったもので御野国(美濃国)・下総国・豊前国の戸籍の一部、断簡が正倉院文書として現存しています。条里制・戸籍・班田法等から「伎人郷」の集落形態を推理すると当時は散村形態であり一郷戸の人数を下総国葛飾郡大嶋郷を標準に算出すると次のようになります。
   一郷戸27人×50郷戸とすると1350人 
   一郷戸の建物数7戸×50郷=350戸  
「伎人郷」の人口1350人・房戸数350戸が散村形態で展開されていたと推定すると当時の地形から勘案して「伎人郷」の位置の推定が非常に難しくなります。段丘上の喜連東遺跡、段丘下の現喜連・西喜
連と平野郷町の一部を「伎人郷」推定地に当てても、平野川の氾濫原を考慮するとこの狭い地域に350戸の堀立柱住居が散村形態で存在し得たのだろうかという疑問があります。「河内国伎人郷」と万葉集にあるのは磯歯津路(しはつのみち)を超えた河内国の瓜破台地にも「伎人郷」と呼ばれる集落が存在したのだろうか?。「伎人郷」の位置を推定する資料は『馬国人の家』と『伎人堤』です。万葉集(上左写真)にある馬国人の家で催された歌宴で大伴家持が詠んだ4457の歌で推理すると
 上写真 吉野ヶ里遺跡に復元された堀立柱住居です。この様な住居が散村形態で350戸程度で一郷を なしていたいたと推定されます。
  『住吉(すみのえ)の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野の草な刈りそね』
【歌意】住吉の浜松の根が地の底にずっと延びているように、心の底深く思いを寄せて私が見る小野、この小野の草は刈らずにそのままにしておいておくれ。
小野を憧れの人に擬(なぞら)えた恋歌仕立ての作。主賓の立場での詠みで、主人国人の家の環境をほめて謝意を示すのが本意とみられる。
諸注は単に主人馬国人の家からの眺望をほめた挨拶の歌とのみ解するが、第三句の下
延ふの語は対人的な場合に限って用いられることから見て、寓意があるかも知れない。[歌意解説は万葉学者の方の記述からの転載]
この歌詞から察すると馬国人の家は高台の見晴らしの良い所にあったようで喜連東遺跡か瓜破台地の西端近くと考えられ下の図に国人の家があったと推測される地を三ヶ所(ABC)あげてみましたが、これが馬国人の家跡と立証する資料はありません。
A=喜連東遺跡(現東喜連町)で1989~1991の発掘調査で飛鳥~奈良時代の建物群・柵  ・溝等が検出され次の様な発掘調査報告がされています 
KR89-2      ※大阪市文化財研究所発掘調査報告(旧大阪市文化財協会)より転載
飛鳥~奈良時代の遺構として柵と溝を伴う19棟もの建物群が検出されており、瓜破遺跡の柵と溝を伴う飛鳥時代の建物群の廃絶と軌を一にして出現しており、長原遺跡の水田経営を含んだ長吉台地東部の開発を考える上で興味深い資料となった。同調査では平安~室町時代にも多くの井戸のほか柱穴群・土壙・溝などを確認している。
後世の撹乱により遺構の遺存状態は必ずしも良好とはいえないが、建物群は北側に柵を設け、東北西の3面は溝により区画されている。建物群の中心的な位置をしめるのは東西10間、南北2間という非常に長大な建物である。この建物の南側を空閑地とし、周囲に小型~中型の建物を配する。建物の中には3間×3間の倉庫と思われる総柱建物があることも注目される。この遺跡から瓦が出土していること、長大な建物とその南の空閑地の存在、建物群の周囲に柵、溝を設けていることから、この建物群は周囲の遺跡の中で極めて特異な平面配置をもつものであり、官衙もしくは豪族居館と考えることができよう。ただ、主殿、後殿や脇殿といったような整然とした建物配置がなく、倉庫群なども見られないことから、後者の可能性が高いように思われる。
 
B=瓜破台地の北端にあたります(現喜連町の中心部)この地域は新旧住宅の密集地で当面の発掘調査は望めず、今この地に立っても約1260年前の地形・環境を想像す  ることも難しい状態です。
C=ABが攝津国に属するがは国境線になる磯歯津路の南になり河内国なり万葉集  に記された『河内国伎人郷』になります。
以上の3地点が眺望のよい馬国人の家があったと推定される候補地になりますが
地点は長吉台地上で喜連東遺跡内で上記のように発掘調査済み地域になります。
地点は呉(クレ)が訛って喜連になったといわれる地域で現喜連町の中心地に近い所です。「伎人堤」を古東除川左岸または平野川左岸に存在したであろう堤防とするならば
の長吉台地かの瓜破台地上に馬国人の家を比定し当時の喜連・平野地域を「伎人郷」に比定出来るのですが近世以前の当地域の文献資料が皆無で有り、万葉集の『河内国伎人郷』が単なる大伴家持の誤筆であるとも考えられず無視しえ無い存在です。
=地点に国人の家が存在したとすれば「伎人堤」についての合理的な説明が少し難しくなるように思われます。喜連地域同様7~8世紀の瓜破地域の文献資料も皆無で当時の状況は不明ですが万葉集に記された『河内国伎人郷』には該当します。
 
また、伎人郷と推定される現喜連・平野郷地域は奈良時代には河内国渋川郡に所属していた説もありますが、その根拠は百済郡の南端が磯歯津路に接していたというものです。確かに現東住吉区には左図に見られる様に近年まで北百済・南百済町の町名が存在しており、往古の百済郡の領域が磯歯津路まで及んでいたという説にも一理あるように思われますが、この説ですと攝津と河内の川堤の争いといわれる「続日本紀」「日本三代実録」
の記述にある「伎人堤」についての合理的な説明ができなくなり
ますし、推定伎人郷が何時河内国渋川郡から住吉郡の所属となったのか、その過程を示す何等の資料もなく百済郡が河内国交野郡へ移った後の文書には元の百済郡と記されたものや欠郡と記されたものもあります。上図の破線の攝河の国境は古代から昭和30年の瓜破・長原・加美地域の大阪市編入
まで連綿と国・郡・府境として続いてきています。こうした往古からの国・郡境は近年になると府県郡町村境となり容易に変更されるものではありません。往古の百済郡の領域については現大阪市生野区を中心とする地域であることしかわかりません。この郡は他の郡のような条里呼称はなく東部・西部・南部という三つの部(郷)で構成されており小郡であったといわれています。「四天王寺御手印縁起」の敬田院四至の記述に『敬田院、東西捌町、南北北陸町、東百済郡堺、南堀河、西荒陵岸、北三条中小路』とあるのが唯一百済郡堺を記した文献史料で研究者の間でも百済郡の領域について種々論議されていますが定説はありません。「伎人郷」の位置推定については私考ですが現平野区平野郷町・喜連、東住吉区杭全・今川・駒川・中野・鷹合の各町域を推測しています。桑津については百済郡・住吉郡・田辺郷との境界線にあたり行政所属の判定は難しく推定しかねます。現喜連町・平野郷町・今川・駒川・湯里・鷹合地域が「伎人郷」と私は憶測していますが万葉集の「河内国伎人郷」の記述も無視できず、百済郡の領域問題、喜連東遺跡・南住吉遺跡の発掘調査で「磯歯津路」の遺構が検出されないのも「磯歯津路」の存在について疑問符がつきまといます。奈良時代の攝津国住吉郡と河内国丹比郡の国境は磯歯津路であることを前提に「伎人郷」の領域を憶測していますので、この前提条件が狂うと白紙の状態に戻り再思考を迫られることになります。
上の絵図は大阪市史の付図の上に私説奈良時代の住吉郡6郷の推定位置を挿入してみました。難波大道以東の住吉郡領域を田辺郷と伎人郷とし、その後田辺郷、伎人郷を廃し杭全郷が成立(年代不明)したと憶測しています。当時の伎人郷の中心は長吉台地上の喜連東遺跡であったと考えられます。
年次不明の文書で「百済郡南部郷戸主正六位下竹志麻呂戸口」に見える百済郡ですが、この郡の成立過程も定かではなく文献史料に百済郡の名が見えるのは天平年間(729~746)なのでこの時期か、それ以前に郡の成立があったのではと推定されています。また、この郡には条里制ではなく東部・西部・南部郷という独自構成になっています。近年まで東住吉区に南、北百済町が存在し往古の百済郡南限は磯歯津路(長居公園通り)であったとする説もありますが、この地域が百済郡南部郷と比定できる資料は皆無です。若しこの説が事実とすると百済郡南部郷以東の摂津国住吉郡に所属していたとされる「伎人郷」が河内国に所属していたという説も一理あるように思われますが、「続日本紀」750年伎人堤の決壊。862年、河内・攝津両国の伎人堤の争い。堤名の記述はないが741年・806年の河内・攝津両国の河堤の争い。に対する合理的な説明が出来なくなります。「伎人堤」の所在地については現在不明ですが推定されるのは「伎人郷」の北方である平野川(河内川)か古東除川筋に築かれた堤防であると憶測しています。
百済郡は「続紀」(750)天平勝宝二年、伎人・茨田堤等所々で決壊とする洪水記述があり淀川・大和川水系が同時決壊して河内平野一帯が浸水被害をうけた記録があり、この摂河の地を襲う洪水も度々で百済郡も甚大な損害を受け百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)はこの度重なる水害に百済郡を捨て河内国交野郡への移転を朝廷に願い出ています。朝廷ではこれを許し敬福を俄に河内守に任じています。この時に移転した百済寺跡と百済王神社が大阪府枚方市中宮西之町の小高い丘の上にあります。難波の百済郡の成立年代・郡域等については資料不足で学会にも定説は無いのが現状です。ただ、百済尼寺の一部が堂ヶ芝の発掘調査で確認されているので難波大道(朱雀大路)が百済郡の西限ではとの説が現実視されていますが東、西、南部の郡域は不明ですが現在の生野区・東住吉区・天王寺区にまたがる地域の一部ではと推測されています。
「伎人郷」を私見では古墳~飛鳥時代の渡来系職能集団が居住した集落と推定し、奈良時代にはその子孫が居住しており一般集落(農耕従事)になっていたと推定しましたが推定「伎人郷」では班田農地面積(推定)から見て農耕集落か職能集落であったか決めかねる面があります。   
百済寺跡(枚方市中宮町)   百済王神社  百済寺東塔址   百済寺の発掘調査  

伎人堤
『万葉の息長川』を考察する中で唯一史料があるのが『伎人堤』で「続日本紀」「日本三代実録」(750)天平勝宝2年5月24日と(862)貞観4年3月4日に堤の決壊と攝河の伎人堤の争い記事が見られますが、この時代の史書の記事は簡略すぎて場所の特定はおろか、推定の手懸かりすら掴めませんが「伎人堤」の名から伎人郷を洪水から防護する堤であったと推定され、当時の国境線から推定すると攝河の河川国境は平野川(河内川)になります。8世紀当時の平野川は大和川本流といわれ川幅約200mの大川で氾濫の都度その流路は変遷し河内国渋川郡との間で川堤の境界が争われたのが「伎人堤」の争いであったと推定されます。『六国史』に下表のような記述がありますが簡潔すぎて場所の特定には至りません。 
西暦  和暦  洪水記録  出典 
741  天平13年4月22日   従四位上の巨勢朝臣奈?麻呂・従四位下の藤原朝臣仲麻呂・従五位下の民忌寸大楫(たみのいみきおおかじ)・外従五位下の陽候史真身(やこのふひとまみ)らを遣わして、河内国と摂津国が河の堤の帰属を争っている場所を検べさせた。  続日本紀 
750 天平勝宝2年5月24日  中山寺が雷火にあい、塔、歩廊のすべてを焼失した。
京中ににわか雨が降り、川の水が溢れ出た。また、河内の伎人堤・茨田堤などが所々決壊した。
続日本紀 
762  天平宝字6年6月21日  河内国の長瀬堤が決壊した、単功22200余人を動員して修造させた。  続日本紀  
770  宝亀元年7月22日  河内国の志紀郡・渋川群・茨田群などの堤を修繕した。単功は3万余人であった。  続日本紀  
770  宝亀3年8月18日  この月は、一日から雨が降り続き、大風も加わった。
河内国の茨田堤が6ヵ所、渋川堤が11ヵ所、志紀郡の堤防5ヵ所がいずれも決壊した。 
続日本紀  
785  延暦4年9月10日  河内国が次の様に言上した。「洪水で水が溢れ、人民は流されて、船に乗ったり堤防の上に仮住まいしたりしています。食料が欠乏し、苦しみはまことに大変なものであります」と。そこで使者を遣わして見回らせるとともに、物を恵み与えた。  続日本紀  
785  延暦4年10月27日  河内国の堤防で30ヵ所決壊した。単功30万7千余人に食料を支給し修築させた。  続日本紀  
788  延暦7年3月16日  中宮大夫・従四位上で民部大輔・摂津大夫を兼任する和気朝臣清麻呂が次のように言上した。「河内・摂津両国の境に川を堀り堤を築きたいと思います。荒陵(あらはか)の南から河内川(平野川)を西方に導いて海に通じさせます。そうすれば肥沃な土地がますます広がり、開墾することができます」そこで清麻呂を遣わしてその事業を担当させ、延べ23万余人に食料を支給して、事業に従事させた。  続日本紀  
806  大同元年10月17日  河内・摂津両国の境となる堤を決定する。 
 [大同元年十月丁丑]定河内・摂津両国堤。
日本後紀  
811  弘仁2年4月11日  天皇が次のように勅した。河内国の税分銭300貫を3年間の期限をつけて出挙し、その利息を堤防を修造する費用に充てよ。また、河内国は課丁が少なく、役務に動員しようとしても人手不足となっている。散位・位子や、式部省で任官待ちをしている留省の徒らで散位や式部省に出仕せず郷里に居る者を、3年間を限り河内国の雑任に起用し、勤務の日数・実績により成績を考課して報告せよ。また、国司の俸料である公廨稲(くげとう)の利息を割いて堤防修造に当たる堤所(ていしょ)の食料に充当し、公廨稲の代替分は都合のつく諸国で支給して、3年後に元に戻せ。 日本後紀 
812  弘仁3年7月26日  山城・摂津・河内三国に新銭各230貫を賜った。三国ではそれを出挙して、利銭を堤防補修の財源とすることにした。  日本後紀 
832  天長9年8月20日  大雨となり、大風が吹いた。河内・摂津両国では氾濫して、堤防が決壊した。  日本後紀 
848  嘉祥元年8月5日  4日から降りだした雨の勢いは井戸を?倒させたように激しく降り続きあたり一面洪水となり人・畜が流され河陽橋(かやばし)は壊れてわずか六間分が残り、宇治橋は傾き、茨田堤は随所で破壊した。故老は皆、大同元年の洪水に倍し、4~5尺になった、と語った。  続日本後紀 
848  嘉祥元年9月19日  本日、左中弁従四位下藤原朝臣嗣宗(つぐむね)・治部少輔従五位下藤原朝臣直世・外従五位下山代宿禰氏益(やましろのすくねうじます)および六位の判官四人・主典四人を遣わして、茨田堤の築造に当たらせることにした。。 続日本後紀 
862  貞観4年3月4日   河内・摂津両国の伎人堤の争いを検校する。 
 ※下の日本三代実録記述参照
日本三代実録 
870  貞観12年7月2日  検河内国水害堤使を任命する。
  ※下の日本三代実録記述参照
日本三代実録 
870  貞観12年7月5日  築河内国堤使を任命する。 
  ※下の日本三代実録記述参照
日本三代実録 
870  貞観12年7月20日  僧侶を河内国へ派遣し、築堤状況を視察させる。
遣大僧都法眼和上位慧達。従儀師傳灯満位僧徳貞。将導師薬師寺別当傳灯大法師常全。西寺権別当傳灯法師位道隆。元興寺僧傳灯法師位玄宗等於河内国。労視築堤。
日本三代実録  
870  貞観12年7月22日  朝使を神社に派遣して築堤の事を祈らせる。
是日。遣朝使築河内国堤。恐成功未畢重有水害也。由是奉幣大和国三歳神。大和神。広瀬神。龍田神祈無雨。以河内水源出自大和国也。 
日本三代実録
875  貞観17年2月9日  築河内国堤使を任命する。 
正五位下守右中弁兼行丹波権守橘朝臣三夏為築河内国堤使長官云々 
日本三代実録 
上表は六国史の攝河両国における8~9世紀の洪水・堤防決壊・攝河の国境となる堤防の紛争の記事です。表中(750)天平勝宝2年5月24日、(862)貞観4年3月4日の記事には『伎人堤』と明記されています。(741)天平13年4月22日、(806)大同元年10月17日の記事には「河内・摂津両国の境となる河堤」とのみ記され堤名はありませんが、750年、862年と同じく『伎人堤』の境界争いと推定されますが、いずれの記述もこの内容では場所の特定は出来ません。研究者のあいだでも種々の見解があり定説となる論拠がなく、『伎人堤』は『伎人郷』の行政所属とともに現時点では謎のままです。
こうした度々の洪水による破堤は記録から見ても淀川・大和川水系の河川の同時洪水によるもので、北河内から摂津国の東部地域一帯に被害が及んでいます。また、8~9世紀頃は大和川の本流は現八尾市植松付近から分岐する平野川(河内川)であり、当時の川幅約200mが発掘調査で確認されており、土地条件図でも見られるように現平野郷町付近で古東除川と合流出水時の氾濫原となっているのが読み取れます。洪水記録からみると淀川の茨田の堤の決壊で淀川水系の河川が氾濫するとともに、大和川水系の河川も氾濫渋川・長瀬・志紀・伎人の各堤も次々と破堤しています。近年では明治18年の洪水が往昔の洪水と様相が一致します。8世紀当時の『伎人堤』の位置推定では、この堤防は『伎人郷』の北東乃至北からの水防堤であったと考えられ、平野川或いは古東除川の堤防であったと推定するのが妥当かと思われますが、一つ大きな疑問があります。8世紀当時の地形から見ると私考『伎人郷』は「喜連東遺跡」を中心として南限は磯歯津路、東限を現186号線の出戸南から平野川に至る区間、北限は平野川(現平野馬場町付近まで)、西限は狭山西除川付近の範囲が『伎人郷』と憶測しています。しかし摂津国住吉郡に所属する「伎人郷」は非常に狭く、ここに奈良時代の散村形態の一郷が存立しえたのだろか? 現喜連(江戸期の中・西喜連村)の8世紀当時は一部標高4~5mの地もあるものの大半は0~1m程度の低湿地で人の住む居住区は限定され大半は耕地として利用されていたと考えられますが、奈良時代から平安前期まで一世紀以上にわたり摂河両国の河堤による境界争いが続いており国記に記され、中央政府から調停に上級官人を派遣するほどの境界争いでありながら場所を特定できる資料はなく『伎人堤』と明記されているのは天平勝宝二年と大同元年のみです。 
(870)貞観17年7月2~5日の堤使任命記事   (862)貞観4年3月4日の伎人堤の記   
 上図は喜連の等高線図 
    (大阪文化財協会発掘調査報告より転載加筆)
 左図は土地条件図
C古東除川  D平安時代に付け替えられた東除川
※上の2図は大阪文化財研究所発掘調査報告よりの転載で一部加筆しています。
私は8世紀当時の「伎人堤」想定地として上左図の長吉台地下の古東除川(C)左岸から同川の平野川流入地点
(ウ付近)にかけて築堤されていたのが「伎人堤」と想定していますが、この自説にも現在推定資料のみで合理的な説明が出来ないことを痛感しています。先ず八世紀時代の瓜破・長吉台地下一帯の発掘調査は行われて居らず実態が把握できず、従って平野川の流路、氾濫原等の詳細も現時点では推定の域を出ないこと。
「伎人郷」の文献史料が万葉集のみで郷の成立時期については天平勝宝八年以前としか表現できず、奈良時代の伎人郷に居住する渡来人(呉人)達は一時滞留なのか?、既に帰化した人々であったのか?、農業従事者か、それとも技術者集団であったのか不明ですが、集落形態については前述の下総国葛飾郡(かつしかぐん)大嶋郷と大きく違うことはないと考えられます故当時の「伎人郷」でも前述のように建物数350戸、人口1350人と仮定。伎人郷の住民が口分田の班給対象と仮定するとかなり広範囲の郷面積が必要となります。私は奈良時代の「伎人郷」を喜連東遺跡を中心として一部台地下の低地を含むと考えていましたが、この考えの再考をせまられることになりました。現平野郷町や隣接する喜連町及び喜連西町一帯の奈良時代の地形環境の詳細を知る必要がありますが現在では人口密集地である当地の発掘調査も期待薄で当面はその実態を知る手がかりは望めません。また、和名抄によると摂津国は十三郡七十八郷で住吉郡は住道・大羅(おおよさみ)・?全(くまた)・榎津(えなつ)・餘戸(あまるべ)の五郷、餘戸(あまるべ)については里(郷)の編成の時に五十戸に満たなかった戸を編成させたとする説と山間部など里(郷)の編成が困難な地域に編成させたとする説がありますが、住吉郡の場合は五十戸に満たなかった戸を編成させた説が妥当と思われますが、この餘戸の所在については不明です。
また、万葉集にある(756)天平八年の「河内国伎人郷馬国人之家」と(1330)元徳二年の堀江秀清請文案に「輔房(基宗伯父、河内国キレノ住人)」の文書が磯歯津路国境説に疑問を投げかけます。元徳二年といえば鎌倉時代でこの時代まで河内国キレ(喜連)と呼ばれているのにも疑問がありますが、反論史料もないのが現実です。
私は喜連東遺跡を「伎人郷」と推定しましたが、この推論も今回の再考察で再考を迫られることになり、「伎人郷」の所在・行政所属でも合理的な説明が出来ず反省しています。改めて古代史の謎の多さと、問題点の実証の難しさに直面している現状です。
今後も『伎人堤』『伎人郷』についての種々の論議があるでしょうが、いずれの説が正しいのかについての学問的な判断は難しいでしょう。伎人堤は息長川の堤防であるとの説もありますが喜連の近辺に息長川が存在することに否定的な私はこの説には賛同いたしかねます。堤は集落や田畑を洪水被害から防ぐ為のものであり「伎人堤」が必ずしも「息長川」の堤防である必要はないのです。当時の築堤技術からみて平野川と古東除川が平行して北西に流路をとっている伎人郷の北部では隣接する渋川郡賀見郷との堤防間は500~800mの距離があり洪水毎に流路の蛇行が変わり、これが紛争の原因になっていたと憶測しています。
現在地下鉄喜連瓜破駅前に上左写真の「伎人?と河津境の由来」を記した碑があり、ここが往古の「伎人堤」との誤解を与えかねません。ここに存在したのは上右図(大阪市史より転載)にある囲堤の跡です。この図で見ると平野郷・喜連村という二つの集落が共同で低湿地の集落と農地を洪水から守るために築いたと思われるが平野と喜連の境界に平等堤があり、この堤は平野が平等院領で在ったときに築堤されたものと伝えられます。平野郷が四周を堤防で囲っているのも同時代の築堤でこれは水害防禦の為のみでなく、その領地を明確ならしめる為でもあったのであろう。堤防外の中野村は出作または加納と称するもので、本荘成立後に附加された土地ではなかろうか。(平野郷町誌より)
喜連村の囲堤については村誌にも記載がなく他にも資料がないので推定の手懸かりもありませんが、参考資料として平野郷町誌(昭和六年発行)の平等提と今川に関する記事を転載いたします。
『平等堤は喜連村と領有を争ったことがある。(1674)延宝二年洪水の時喜連村から領有なりと訴へ敗訴となり、同六年九鬼和泉守が新検地の際、境目を定られんことを願い出たが、論争地なるの故にや定めるにいたらず、元禄四年五月二十八日天道川(西除川)堤防決壊して喜連村へ流れ出たので、平野郷中から出て此堤防を防禦したので、又喜連村からその領有であると訴え出た。此に対し平野荘から主張したところは平等院領時代に用悪水不完全で郷内常に苦しんだから、平等院の下知で此堤を築き、領内の細き井路を堀ひろげて川とし、今川と称し、隣村の悪水を今川に落し、喜連村の悪水も平野領内に落ちぬようにした。又此堤は公儀普請場で修理には杭木土俵を下附され、平野の郷民で修理した。即ち堤防の領有は平野に属するものであるとあった。此時又判決がなかったのであらう、九年に平野から喜連村代官大岡喜右衛門に境目の分木を打つことを願い出た。此訴訟に対し隣村西瓜破村與惣兵衛・住道村徳兵衛・湯谷島村佐兵衛・北田辺村長左衛門の四人仲裁に入り喜連村が堤防切崩したる分は旧に復することにし、堤長千九十二間三尺杭木数百三十八本を打ち、其上に石を置き、間尺を詳細にした地図を製して両村及び仲裁人に一枚づつ保有することにした。此は同年八月十七日のことであった。明治十八年六月の洪水で、平野郷及び四ヶ村関係の堤防八ヶ所破損した。その後堤防は管理等の等閑になって旧態が存せぬやうになった。現時(昭和初期)堤防の形態あるものは百済堤、平等堤である』既存の川を改修して「今川」と名付けたとあります。
平等提の築堤時期についての資料はなく不明ですが、一説によると平安末期頃になると武士の台頭で各地で領地争いが頻発。そのため領界画定と水害防止を兼ねて杭全荘地域でも囲い提・平等提が築かれたということです。その時期についての資料はなく平安末期から室町時代という説があります。平野郷町の環濠や土塁についても開削や築塁時期についての文献史料はなく15世紀後半から16世紀頃と推定されているようです。
左図は(1719)享保4年の五十間樋から畑川を通じて喜連西池への灌漑用水供給の水利絵図で磯歯津路(現長居公園通り)の囲堤に沿って井路川があり、西池の除口からの悪水は湯里で今川に放流されていました。従って磯歯津路(しはつみち)沿いの流路は五十間樋から西瓜破村を経由して喜連西池に至る井路川であり、堤防は囲堤です。平野・喜連を襲った洪水は「続日本紀」「日本三代実録」の記述にあるように淀川・大和川の氾濫で茨田(まんだ)・長瀬・志紀・渋川堤の破堤で伎人堤も破堤しており北東や北からの押し寄せる洪水を防禦するものですから奈良時代には平野川筋が大和川の本流と云われており川幅200mの大川なので、平野川か、出戸から北北西に流れて平野川に合流していた古東除川の左岸堤防を伎人堤に比定するのが順当ではないかと考えられます。また、今川の人工河川説や開削された大溝説等もありますが、8~9世紀にかけて古市大溝が東除川から平野川(河内川)に接続されており、この大溝は段丘面の灌漑のみならず運河説もあります。運河説は
兎も角こうした河川水路が存在するのに低湿地を流れる今川を拡幅開削して大溝にするなどあり得ない話です。近世以前の喜連・平野の用水路については当ホ-ムペ-ジ『攝河の地に息長川は存在せず』をご覧ください。 
赤留比売伝承と楯原神社
赤留比売の出自を「古事記」では新羅の国に一つの沼あり、阿具沼という。この沼の辺に、ある賤(いや)しき女昼寝したり、ここに日の耀(ひかり)(にじ)ごと、その陰上(ほと)に指したるを、またある賤(いや)しき夫(おとこ)、恒にその女人の行(わざ)を伺ひき。かれこの女人、その昼寝したりし時より、妊身(はら)みて、赤玉をうみぬ。……』この卵から生まれたのが赤留比売で「卵生神話」の一種で朝鮮半島には、この種の神話が多くあるようです。赤留比売は後に新羅の王子、天の日矛(あめのひほこ)の妻になりますが、日矛が心奢(おご)りて赤留比売を罵(ののし)るので「私は貴方の妻になるべき女ではない御祖(みおや)のいる国に行く」と言って小舟に乗って逃げ渡って難波に留まります。これは難波の比売碁曾の社においでになる赤留比売という神です。というのが「古事記」が記す赤留比売の大要で難波の上陸地や上陸後の消息についての記述はありません。
           ※ 古事記では阿加流比売と記されています。
「日本書記」では大加羅国(おおからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話で誕生過程の大筋は古事記とほぼ同じですが、卵ではなく白い石になっています。石は美しい娘となり、阿羅斯等が娘を犯そうとしたが、娘に逃げられ追ってゆくと日本国にはいり難波に至って比売語曾社の神となった。また豊国の国前郡(くにさきごおり)に入り比売語曾社の神となり二ヶ所に祀られている。日本書記では赤留比売の名は見られず比売語曾社の神であり、天日槍とは関連性がなく別個の話となっています。
「風土記攝津国逸文」にも赤留比売神と思われる神についての記述があります。『攝津国の風土記に曰(い)わく、比売島の松原。古(いにし)へ、軽島の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)のみ世、新羅の国に女神あり、其の夫(を)を遁去(のが)れて来て、暫く筑紫国の伊波比(いはひ)の比売島に住めりき。乃(すなは)ち曰(い)ひしく、「この島は、猶是遠(なほこれとほ)からず。若し此の島に居ば、男の神尋(と)め来なむ」といひて、乃ち更(また)、遷(うつ)り来て、遂に此の島に停(とど)まりき。故(かれ)、本(もと)住める地(ところ)の名を取りて、島の號(な)と為(な)せり。』
この攝津国の比売島とは大阪市西淀川区姫島町の姫島神社で祭神は阿迦留姫命、住吉大神ですが古代の難波の地形から勘案すると奈良時代の姫島(比売島)は海中であったので比売島とは古代の大阪湾にあったといわれる八十島のひとつかと思われます。
また、筑紫国の伊波比(いはひ)の比売島とは大分県東国東郡姫島にある比売碁曾社であると考えられます。
「古事記」「日本書記」「攝津国風土記逸文」と三書三様に内容が少しづつ違いますが赤留比売が最終的には難波に落ち着いた点では一致しています。新羅の卵生神話から生まれた赤留比売が何故日本を「御祖の国」として渡来して来るのか、住吉大社の子神になり呉人の里(伎人郷)に鎮座するのか? これも謎です。伎人郷が何時誕生して、いかなる渡来系の人が居住していたのか、赤留比売伝承から推測すると伎人郷は新羅系の人達が居住しており、その人達の産土神として赤留比売が祀られていたのではと思われますが「松葉大記」によると赤留比売は下照比売のことであると記されてます。
 境内社の住吉社と金比羅宮 拝殿と本殿   式内赤留比売神社  
通称の三十歩大明神と刻まれた手水槽  境内の稲荷社  境内の天満宮(天神社) 
上写真は現在平野区平野東の平野公園内にある赤留比売神社。神社の由緒説明には明治三十年に郷内の背戸口町から移された天満宮・琴平神社と共に大正三年に杭全神社の境外末社になったと記されています。また、三十歩社の名は俗説によると室町時代の応永年間に干魃があり、僧の覚証が雨乞いのため、法華経三十部を読経し霊験を得た故事によるといわれ、当時の境内地の広さが三十歩であったとの伝聞から三十歩社と呼ばれるようになったようです。
「住吉松葉大記」によると攝津国に延喜式神名帳に記載の神社は大二十六座・小四十九座あり、住吉郡に大十座小十二座があり、大十座とは住吉本殿四座、依羅(よさみ) 四座、中臣須牟地一座、生根一座合わせて十座。小十二座とは大海(おおわたつみ)神社二座草津大歳、神須牟地、楯原、須牟地曾禰、止杼侶支比売(とどろきひめ)赤留比売天水分豊浦(あまのみこまりとゆら)、努能太比売(ぬのたひめ)多米(ため)、船玉の各神社となっています。小十二座の中で茶色文字の八社については解説がありますが、あとの四社については何ら記載事項がありません。また、赤留比売神社の記事は内容が通説と異なり、また元禄年間に記された「松葉大記」には赤留比売を祀る神社はなく三百歩神社(現赤留比売神社か)のみが存在していたと記されています。
また、下記によると「今按ずるに、此の神社今何れの社とも知れ難し」と赤留比売を祀る神社が所在不明と記されており、三百歩神社の祭神は玉依姫であると記しています。松葉大記は近世の元禄期に記された書物ですが、この時代に赤留比売を祀る社が所在不明とは? 下記の赤留比売神社の文末※印の箇所には攝陽群談を引用して平野三十歩社は住吉の末社也、延喜式住吉の郡赤留比売命の神社是也云々、と記しているので(1698)元禄11年に編纂を開始(1701)同14年に刊行された摂津地誌「攝陽群談」(下の写真)で見ると三十歩社即ち赤留比売神社と記されて場所は平野荘にありと記され熊野権現社(杭全神社)の境内社の様な記述になっています。杭全(くまた)神社は熊野権現社・牛頭天王社と記されており明治になってから杭全神社と改称された神社由緒と合致します。 
 「住吉松葉大記」の三百歩神社の記事   「住吉松葉大記」の赤留比売神社記事 
上写真は攝陽群談
「住吉松葉大記」によると赤留比売とは下照比売のことであると記されています。「古事記」にみる赤留比売は朝鮮半島新羅国の王子、天の日矛の妻で下照比売とは日本神話の中に登場する人物で大国主神(おおくにぬしのかみ)と多紀理毘売命(たきりひめのみこと)の娘で、天若日子(あめのわかひこ)と結婚。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、下照比売の泣く声が高天原まで届きその声を聞
高津神社の境内末社比売許曾神社
いた…… と記され、「日本書紀」では天若日子(あめのわかひこ)の妻は記されて居らず、夷振(ひなぶり)を詠んだ者の名として下照比売の名が記されているのみです。
   ※「夷振(ひなぶり)」とは上代の歌曲の名称。
赤留比売と下照比売に共通するものは何もなく、どうして日本神話の神と新羅の神が取り違えられたり、同一視されるのか理解に苦しむところです。「住吉松葉大記」「攝陽群談」には下照比売神社は西成郡西高津町にありと記されており、現大阪市中央区にある高津神社(祭神仁徳天皇)の境内末社比売許曾社のことであろうと思われます。 
上写真攝陽群談下照比売神社記事  下写真比売許曽社の記事 
攝陽群談の編纂時(元禄11年)には三十歩社(赤留比売神社)として平野郷内にあったことがわかりますが神社の創建年代を知る手懸かりがなく、喜連の楯原神社由来(下写真)をみても楯原社が兵火に罹り今の所に遷座し字十五の龍王社の祭神が赤留比売で楯原社の祭神に転じたと記されています。龍王社とは雨乞い祈願の神であり赤留比売と雨乞い祈願と、どの様な関係があるのか? 平野郷の赤留比売神社が三十歩社と呼ばれるようになったのは応永年間(1394~1428)の干魃で僧の覚証が雨乞いに法華経三十部を読経し霊験を得た為といわれていますが、この時期の赤留比売社の所在を知る資料はなく楯原神社由来にも「元和年間(1615~24)更に付近の天神社を合祀…」とあるのみで元和以前の神社歴についての記載は無く「昔は字楯原にあって」とのみ記されており字十五の龍王社の祭神赤留比売が楯原神社の祭神に転じた年代も不詳です。
「赤留比売」についても「記紀」の乏しい資料では難波へ上陸以後の消息については全く不詳で、この説話は雲をつかむような話で、赤留比売の前夫である「天の日矛」については比売の後を追い渡来して但馬国出石に定住するまでの詳細が語られているのとは
対照的です。また、天の日矛の話は「古事記」では垂仁天皇期(前29~70)・「日本書紀」では応神天皇期(270~310)・播摩国風土記では「日本神話」の神、天日槍命として記載されており、説話もそれぞれ異なり記述の信頼性にも疑問がありますが、「新撰姓氏録」には「日本書紀」記載の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の子孫とする三氏が見られます。
   左京 諸蕃  任那  大市首 首   出自任那国人都怒賀阿羅斯止也    
   左京 諸蕃  任那  清水首 首   出自任那国人都怒何阿羅志止也
   大和国 諸蕃 任那  辟田首 首   出自任那国主都奴加阿羅志等也
楯原神社は数度の遷座をしていますが、いずれも遷座年月の記載・祭神の合祀・移動等が複雑で理解し難いことが多く、由緒ある式内社であるが再度の戦禍で神社資料の焼失等も考えられるが、私は近世初頭の如願地境内(字十五?)に遷座した折に何らかの複雑な裏事情があったのでは無いかと憶測していまが資料がなく数度に渉る遷座と戦禍で神社伝来の資料も灰燼にきしたものと思われます。


楯原神社初代鎮座地の推測
 
上写真左は楯原神社南門・中は拝殿で奥ノ本殿は一間社流造りで2011年大阪市の有形文化財(建造物)に指定されています。右は境内社の神寶十種之宮です。 
一説によると楯原神社の創建は崇神天皇時代(前87~前30)といわれるが、信じ難い年代です。当社の創建年代・創建時の祭神・所在地すべて不詳というのが真相です。また、神社由緒も複雑で理解しずらいものです。それというのも十四世紀(鎌倉期)以降、祭神・由緒をいじり過ぎて、このような状態になったのではないかと私は憶測しています。『式内社調査報告』には次の様に記されています。南北朝時代(1339~1382)に北軍の兵火に罹り焼失したそうで(1481)文明十三年に現代の地近くに社殿を造営字楯原の元の神地より遷座し、その後(1493)明応二年に改築したが元和年間(1615~1623)暴風雨で破損したので新たに現在地に社殿を営み遷座するに至った。また先の社地には、字十五の竜王社を合祀し、別社殿を建てて奥之宮と称していたが、これも元和の兵火(大坂夏の陣)で焼失した。竜王社は、三十歩神社の赤留比売(あかるひめ)命の分霊を喜連村十五に奉齋していたもので、同年間に附近なる天神社を合祀して天満宮と呼び菅原道真を併祀したが、何時しか楯原社の本来の祭神は忘れられて、菅原道真のみを祭神とし、楯原の名は別殿奥之宮に移り、竜王社の祭神赤留比売命が楯原神社の祭神と誤認せらるに至った。この為明治五年、本来の楯原神社である天神社は社格を得ず、別殿の楯原神社が村社になって両社併立の形となった。然るに明治三十九年神社合併の議起こるに及んで、村社東西神社、及び無格社春日神社とともに天神社に合併することになり、明治四十年九月十二日合祀祭を行う。東西神社はもと八坂神社と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれたが、嘉永年間(1848~1854)忍坂大中女命(おしさかのおおなかひめ)を祀る媛天神を合祀して東西神社と改称したものである。媛天神はもと字山王の西にあったが、元禄の頃に八坂神社境内に遷したものといふ。東西神社と称するのは、氏子地が東西喜連に跨る故であった。しかし、かくては由緒深い楯原の名を没することになるので、明治四十三年十二月九日、天神社・東西神社・春日神社の三社を楯原神社に合祀し、今日に及ぶものである。明治四十年一月には神饌幣帛料供進社に指定せられ、喜連全域を氏子地としたが、東喜連氏子の要望により、昭和二十六年、東西神社・春日神社の両社を八坂神社として、元の東喜連に分離遷祀した。』以上式内社調査報告より
  ※東西神社とは現喜連東にある八坂神社のこと。
   天神社・龍王社は如願寺に祀られていた神社か?。
現在の式内社調査報告には『神社本庁非加盟のため詳細につきましては当神社にお尋ねください』と記載されています。
 また、『大阪夏の陣(1615)の兵火にかかって社殿焼失、現在地(字寺町)に遷座。(元和年間の暴風雨により社殿崩壊という説も有り。)近世初頭頃(1600年代)付近の天神社を合祀して菅原道真を併祀したことから、天神社あるいは天満社と呼ばれるようになり、本来の祭神名が忘れられ、そのなかでアカルヒメを祀る竜王社(奥の宮)に楯原神社の名が移り、アカルヒメが楯原神社の祭神になる。明治5年(1872)本来の楯原神社である天神社は社格を得られず、奥の宮が楯原神社と誤認されたまま村社に列し、両社並立の形となった。明治40年(1907)の神社整理を機に、奥の宮と付近の八坂神社および春日神社を合祀して五座相殿社とし、社名を由緒ある楯原神社に復した。昭和26年、旧氏子の要請により八坂・春日の両社を分離して元の東喜連の地に戻し現在に至る。』という説もあります。 
平野区の公式ペ-ジには次のように述べられています。『喜連西北端の旧字楯原(現喜連西1丁目)にあったが、兵火・台風などの被災で文明13年春現在地付近に移ったとされる。延喜式(867)神名帳記載の古社。明治以後の祭神は武甕槌大神と大国主大神。平成23年大阪市文化財の指定を受けた奥殿の氏神天神社は大坂夏の陣後真っ先に再建された元和年間の築造で、喜連で最古の建物である。明治37年環濠浚えの時広住塚前で発見された「息長眞若中媛」標柱が境内最奥に移されている。昭和59年旧社地近辺の今川に古地名を顕彰して楯原橋(大阪市「歴史の橋」第1号)が架けられている』
 上左 今川に架かる楯原橋    右 南北朝時代に河内国楯原里で戦禍に追われ攝津国喜連村の一郭に遷座した現喜連西の地  楯原社遷座後字楯原となった? 


子神
座摩神(二前。一名為婆照神(きばてりのかみ)
中臣住道神(須牟地)
住道神
須牟地曾禰神
住道神
 件の住道神達は八前なり。天平元年十一月七日
 託宣に依り移徒(うつ)りて、河内国丹比郡の
 楯原里に坐(いま)す。故(かれ)、住道里の住道神
 と號(なづ)く。
 
 ※託宣に依り楯原里に移す神は八前とあります
   が六前の神しか記載されていない。


  上写真の住吉大社「神代記」の記述に『件(くだん)の住道神達は八前なり…。』と記されていますが六前の神しか記載されていなく、住道神は重複?か。楯原里へ移した理由、後日元の鎮座地に戻した事も何ら記載がなく不詳です。住吉大社関連小十二座に入る楯原神社についても「神代記」「松葉大記」にも何らの記述もなく、住吉大社と楯原神社の関係も不詳です。
現在喜連に鎮座する楯原神社の創建の地はこの河内国丹比郡楯原里であったと私は推測しています。 
楯原神社の由緒には「楯原神社は延喜式内の神社で位置は旧喜連村の寺町にある昔は字楯原にあって……」と当初から喜連村に鎮座していたように記されていますが、多くの神社の名称は地名に由来するのは式内社をはじめ各地の氏神神社の例を見ても明らかです。
楯原神社喜連への鎮座地の字楯原は現在の西喜連にあり近世までは低湿地であり古文書にも水損場と記され平野川の植松分岐点が閉め切られるまでは平野川・西除川の氾濫原であった所です。その後も低湿地であったことは近年の村誌・東成郡誌にも記されており、往古から喜連の産土神であるならこのような低湿地に村民が勧請することは考えられないと思います。十四世紀の南北朝時代を記す「花営三代記」
(1371)応安4年11月5日条に「暁。河州宇利和利(瓜破)城寄手南方勢引退云々」とあり、この時南朝方の河内領内における最後の砦であった宇利和利城に於いて南朝方と幕府方が激突する瓜破合戦があり、南朝方の主力湯浅勢がこの合戦で大敗し、敗走する南朝方を追い現松原市北部一帯も戦禍に巻込まれこの時に丹治比郡楯原里も焦土となり楯原神社も前記の西喜連の地に遷座したものと私は推測しています。 
【この条里図2図は松原市史の条里図より転載(一部加筆)です】
上左図は赤枠内が河内国丹比郡の楯原里。大和川は後年の宝永元年(1704)に付替えられた新川です。
右図は左図の楯原里の拡大図です。住吉神代記にある託宣に依り八前(記載は六前)の神を移したとある楯原里はこの図にある所であり、当地が楯原神社の創建された地であると私は考えています。  
 左図
 A=河内国丹比郡楯原里
   からの遷座地字楯原。
 
 =Aの西喜連から喜連村    内に遷座し暴風と大   坂夏の陣の戦禍に遭   い現在地に落ち着い   たという。
 私は楯原神社創建の地は  河内国丹比郡の楯原であ  ると考えています。この  地で応安四年の瓜破合戦  の戦禍に巻き込まれて    の攝津国住吉郡西喜連に  遷座してきたと推定して  います。  
(1481)文明十三年現社地近くに遷座、元和年閒(1615-24)暴風雨で社殿壊れ亦(1615)大坂夏の陣で社殿焼失した後、現社地に遷座現在に至っているといった伝承があります。数回の遷座の事の真相は兎も角、河内国丹比郡楯原里で戦禍に追われ西喜連に遷座した1390年代には長吉台地上の喜連東には墳墓堂や寺院が建立され集落の中心は台地下に開発された平野や喜連集落に移りつつあったと思われます。そして(1330)元徳二年の堀江秀清請文の「輔房、基宗伯父、河内国キレの住人」に見られる様に鎌倉期に至って「キレ」の地名の初出資料が見られますが「河内国キレ」について何故河内国かの謎を解く資料がこの堀江秀清請文の記述のある『東大寺宝珠院伝来文書』や『太平記』に見られる悪党平野将監入道、堀江秀清の縁戚者輔房左衛門三郎が河内国キレや若江の住人であり平野・キレ・若江と地名との関連性から、これらの文書の解読から中世の平野・喜連に関する新らしい発見を期待しています。
また、楯原神社を喜連に勧請したのは馬国人だという説もありますが、馬国人は大伴家持等を招いて歌宴を開いた天平勝宝八年前後の数年間伎人郷に在住したと考えられますが、資料では天平8年(736)には中宮舎人として藤原麻呂邸に出向(二条大路出土木簡)、天平10年(738)には平城京で東の史生として勤務いるのが官人歴名(正倉院文書)で、その後天平勝宝8年(756)に伎人郷(万葉集)に、天平宝字8年(764)には平城京右京(続日本紀)に居住し外従五位を授かった、ことが史料により判明しており楯原神社が楯原里から西喜連に遷座した年代から見て馬国人との関連は考えられません。
河内国丹比郡楯原里から遷座してきた楯原社が喜連の中心ではなく西端の低湿地に置かれたのは、当時の喜連には渡来系集落以来の赤留比売を祀った社があったためではないかと推測しています。字十五の龍王社・天神社とは如願寺境内にあった社ではないか?、そこに西喜連から楯原神社が遷座してきて龍王社・天神社に楯原社を合祀したのか、楯原社が龍王社を合祀したのか不明ですが、楯原社を西喜連から現在地に移すには複雑な事情が介在していた様に見受けられますが現時点では資料がなく憶測のみです。
(1868)明治元年、政府は今までの神仏習合を禁止し神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させる神仏分離令を太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などで全国に布告しています。この神仏分離令に基づき従来楯原神社を管理していた如願寺から神勤職を新たに設けるに際して、曖昧になっていた祭神を確定する必要に迫られ村の有力者が住吉大社に相談したり右往左往するする様子が明治3年の文書に記されているのが関西大学所蔵の『摂津国住吉郡喜連村文書』に見られます。下記をクリックしていただきますと先ず(1784)天明4年の喜連村明細帳他の文書と訳文があり末尾の「五神社」に明治2年・3年の神社関係文書3通が記載されていますのでご覧下さい

喜連文書のペ-ジが開きましたら上写真右矢印のところを150%に縮小していただくと見やすくなります。左矢印の番号を下記に合わせていただくとそれぞれの文書と解説をご覧いただけます。    
 74=(1784)天明4年、西喜連村明細帳
 79=(1674)延宝2年、乍恐御訴訟申上候文書
 80=(1675)延宝3年、定申百姓中間一札之事
 81=(1704)宝永元年申8月、用水文書(因みにこの文書は大和川付替工事中のもの)
 84=(1818)文化15年、村役人
 86=(1870)明治3年、楯原神社関係文書(神仏分離による祭神・神勤等)
関西大学所蔵 攝津国住吉郡喜連村文書へのリンク
前記の喜連村文書の他に『攝津国住吉郡喜連村佐々木家文書』3015点も同じく関西大学に所蔵されており、纏まって現存する喜連村近世史料としてはこれ以外にないのではないかと思われる貴重なものです。その中にも下記の楯原神社関係の史料があります。
[宮座御廃止御布令御請印形]
庚午五月廿九日、大阪府より中喜連村惣右衛門他百十二名
乍恐口上[当村立会氏神之儀ニ付]
明治三午年八月三日、中喜連村庄屋英之助他三名より古河御藩御役所宛
乍恐奉差上候諸帳面数書[御宮関係]
明治三年午八月六日攝州住吉郡中喜連村庄屋英之助他三名より古河御藩御役所宛
[天神社他]
明治三年午年九月十八日、中喜連村庄屋英之助他三名より大阪府御裁判所宛
乍恐口上[当村立会氏神之儀ニ付]
明治三年九月廿日中喜連村庄屋英之助他三名より大阪府廳御裁判所宛
神社御取調書上帳[中喜連村]
明治三午年十一月攝州住吉郡中喜連村庄屋佐々木英之助他五名より大阪府廳御裁判所宛
神社御取調書上帳[喜連村]
明治五壬申年三月攝州住吉郡中喜連村庄屋佐々木才三郎他十一名より大阪府御廳   

楯原神社の配祀神神宝十種宮の疑問
 
上は楯原神社境内社神寶十種之宮の説明板です。右は楯原神社境内の神寶十種の宮。石上神宮が返還を求めたとされる、十種之神寶とは石上神宮が天正元年、織田信長に焼討ちされたおりに所在不明となった神寶でその後豊臣秀吉により生玉社に納められたが幕末に再び所在不明となり古道具屋の店頭にあったが喜連の小林某なる人が買い求め後増池氏より楯原社に奉納されたという。
石上神宮の由緒によると祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。配神として布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)十種神寶に宿る神霊。布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。五十瓊敷命(いにしきのみこと)ほか三柱です。        
布都御魂剣は武甕槌(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武天皇が熊野において危機に陥った時に、高倉下(たかくらじ)がこの剣を天皇に捧げ危機を救った。その後宇摩志麻治命(うましまじのみこと/物部氏の祖)が宮中で祀っていたが崇神天皇の勅命で伊香色雄命(いかがしこおのみこと)天理の現在地で「石上大神」として奉齋したのが崇神天皇七年で石上神宮の創建年といわれています。
十種神宝(とくさのかんだから)とは石上神宮には十種祓詞(とくさのはらえことば/祝詞)が伝承され、十種神寶とはこの口伝伝承のみで当初から実在しなかったのではないかと私は思っています。
この十種祓詞(とくさのはらえことば)によると饒速日命(にぎはやひのみこと)が天孫降臨し倭(やまと)国山辺郡石上郷布留山(禁足地)の麓に鎮座し元来本殿はなく、拝殿からその背後の布留山を遙拝し、この禁足地には主祭神は饒速日命ではなく命が持ち降って来た「記紀」神話にみえる霊剣・布都御魂(ふつのみたま)が安置されていると伝えられてきました。戦国時代には、織田軍によって社頭は破却され、一千石といわれた神領も没収され衰微していたのは事実のようです。
(1874)明治七年、に当時大宮司だった管政友(かんまさとも)が明治政府の許可を経て、拝殿背後の布留山(禁足地)の発掘調査を行い、地表から約40cm下に瓦が敷き詰められており、その下さらに40cmの所に一間四方に礫が敷いてあり、そこから4世紀後半の剣や矛、勾玉、管玉が出土しています。この時出土した剣(布都御魂剣)は形状は内反りの片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いて、全長は約85cm位といわれています。明治十一年の再発掘でもでも刀剣が出土し、この刀は天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ/布都斯魂剣)といわれており、発掘調査で出土した神宝を奉斎するため(1913)大正2年に本殿を建造し本殿内陣に奉安され、御神体として祀られているそうです。また、当神宮には中国の東晋の(369)太和四年に、百済王が倭王に献じた七支刀(ななつのさやのたち)も納められており国宝に指定されています。
石上神宮楼門   石上神宮拝殿   境内に放飼いの鶏  
七支刀は、中国で製造され弥生時代に日本に渡来した祭具であり、天理市の石上神宮に保存されているといわれていた伝説の刀だが、明治初期に当時の石上神宮の大宮司であった 菅政友(1824~1897年)によって発見され金象嵌銘文が61字記されているいますが鉄刀であるため錆がひどく一部判読不能で未だに銘文の解読は難しいようです。
石上神宮には十種祓詞(とくさのはらえことば/祝詞)が伝承され、それによると『高天原に神留(かんづま)り坐(ま)す、皇親神漏岐神漏美命(かむろぎかむろみのみこと)(も)ちて 皇神等の鋳顕(あらは)し給ふ。十種の瑞宝(みずのたから)を饒速日命(にぎはやひのみこと)に授け給ひ、天つ御祖神(みおや)は言誨(おし)へ詔(たま)り給(い)はく、汝(いまし)命この瑞宝(みずのたから)を以ちて豊葦原の中国(なかつくに)に天降り坐して、御倉棚に鎮め 置きて、蒼生(あをひとくさ)の病疾(やまい)の事あらば、この十種の瑞宝(みづのたから)を以ちて一二三四五六七八九十(ひふみよ…)と唱へつつ布瑠部由良由良(ふるへゆらゆら)と布瑠部(ふるべ)かく為(な)しては死人(まかりしひと)も生反(いきかえ)らむと、言誨(ことをし)へ給ひし随(まに)まに饒速日命(にぎはやひのみこと)は天磐船(あめのいはふね)に乗りて河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降り坐(ま)し給ひしを、その後大和国山辺郡布留(やまのべのこおりふる)の高庭なる石上神宮(いそのかみのかみのみや)に遷し鎮め斎(いつ)き奉(まつ)り、代代其(よよそ)が 瑞宝(みづのたから)の御教言(みをしへこと)を蒼生(あをひとくさ)の為に 布瑠部(ふるべ)の神辞(かみごと)と仕へ奉(まつ)れり。故(かれ)この瑞宝(みづのたから)とは瀛津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるがへしのたま)・道反玉(ちがへしのたま)・蛇比礼(へみのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種を布留御魂神(ふるのみたまのかみ)と尊(たつとみみ)(うや)まひ斎(いつ)き奉(たてまつ)ることの由縁(よし)を平(たひら)けく安らけく聞こし食(め)して蒼生(あをひとくさ)の上に罹(かか)れる災害(わざわひ)また諸諸(もろもろ)の病疾(やまひ)をも布留比(ふるい)除け祓(はら)ひ却(や)り給ひ、寿命(いのち)長く五十橿(いかし)八桑枝(やぐはえ)の如く立栄(たちさか)えしめ 常磐(ときは)に堅磐(かきは)に守り幸(さきは)へ給へと恐(かしこ)み恐(かしこ)み白(まお)す』
この口伝伝承である十種祓詞(とくさのはらえことば/祝詞)が十種の神寶といわれるものではないかと思います。従って古道具屋や骨董屋の店頭に出回る様なものではありません。

伎人郷から杭全郷へ
中世の喜連についても古代同様極めて資料が少なく、和名抄や他の文献にも「伎人郷」「喜連」は見当たらず、その中から推測・憶測するしかないのが現状です。
中世の喜連については文字史料がなく「万葉集」にある『河内国伎人郷』についても過去に、何故「河内国」なのか?、について論じられていますが、いずれも合理的な論拠はなく次の様に述べられています。
本村は往古河内国の内なりしが、後摂津国住吉郡に入れり。杭全郷の内にして、喜連村と呼び元和六年分かれて東喜連・中喜連・西喜連三ヶ村となり……
貞観四年の頃には己に所属曖昧となりて、遂に摂津国に属したるものなるべし。
昔は河内国に属して、万葉に河内国伎人郷とある処なるを、久禮を訛て喜連とは云なり。
いま東住吉区に入る喜連町は呉の転訛で、雄略期十四年に見える呉坂の地という。この辺はもと河内国澁川郡(万葉集)、のち摂津国に入り(摂津志)住吉郡、或いは百済郡にも入ったと思う。
(756)天平勝宝8年、万葉集に『河内国伎人郷』と記されて(931~938)承平年間に完成した和名類聚抄に『伎人郷』の記載はなく推定伎人郷地域は『住吉郡杭全郷』と記されており、この間に『伎人郷』の地名は消滅したことになりますが、この間の地名変更に関する資料はなく私説として田辺郷(正倉院文書に見る)と伎人郷地域が杭全郷になったと憶測しましたが、何等裏付け資料も存在しません。
また、源有義を祖とする石川源氏系の杭全氏が杭全庄の開拓を行ったが、15世紀頃(1400年代)から坂上行松を祖とする平野氏と庶流七家が宗家の坂上氏を支え、荘園の自治に携わったとする説もあります。下に奈良時代以降の平野・喜連地域の主な出来事を表にして見ました。

平野・喜連地域(杭全郷)の変遷

西暦 和暦  社会 
701    大宝律令施行 国の下に郡・里を置き、里は五十戸を以て一里とする。
710~794     喜連東遺跡で集落跡検出。成本廃寺・瓜破廃寺の創建?
715  霊亀1  「里」の呼称が「郷」に改められ、国郡里制は国郡郷里制に改変される。
740  天平?  「里」が廃され国郡郷制に改められ五十戸をもって「郷」とする。
756  天平勝宝8  大伴家持・池主、伎人郷の馬国人の家で歌宴を開く。
823   行仁14  坂上広野、朝廷より杭全郷を拝領する(伝承)。平野の開発者を広野とする説と当道とする説もあ る。また、広野の子峯雄が平野の開発に当たり平野殿と呼ばれたという説もある。
862   貞観4  坂上広野麻呂の子当道(まさみち)地主神を祀り杭全神社を創建する。
 3.4 河内・攝津両国の伎人堤の争いを検校する。(日本三代実録) 
867  貞観9   3.9 坂上当道、任地陸奥で死去。
1046   寛徳3  和名類聚抄に攝津国住吉郡杭全郷の記載がある。
1151 仁平1   仁平1と同3年に藤原頼長の春日詣でにあたり蒭・屯倉を杭全荘が負担したことが「台記別記」に
 記されており、この当時杭全郷が攝関家領になっていたことがわかる。また、攝関家の春日詣に 際して杭全荘の秣蒭勤仕は(1062)康平5年の定文が例となっていることから、それ以前に攝関家  の荘園になっていたことがわかる。
1192   建久1  杭全神社に1190建久元年に熊野本宮の証誠(しょうじょう)大権現、1321元亨元年に熊野三所権現 が勧請されたとの伝承もある。
1220   承久2  坂上成安=森氏として西脇地区。坂上利則=三上氏として流地区。坂上利國=土橋氏として市  地区。坂上安国=辻葩氏として瀬戸地区。坂上安宗=西村氏として馬場地区をそれぞれ支配す  る。
1281  弘安4   平等院寺官の訴状から、平野は攝関家を本家年、平等院を領家とする荘園であったことが判明。
1304  嘉元2   「住吉郡平野庄」初見文書(大徳寺文書) 
1330  元徳2   「輔房〈基宗伯父、河内国キレノ住人」喜連の初見文書(堀江秀清請文案)
 平野将監入道に関する文書(東大寺宝珠院)もあり彼の出自に関して杭全氏・末吉氏・河内源氏の 出身説等があるも定かならず。
1464  寛正5   坂上増利の孫の代から末吉氏と改名。
1467  応仁1   応仁の乱で平野・喜連周辺が戦場となる。
1483  文明15  畠山政長、正覚寺に本陣を構える。
1513  永正10   杭全神社第2・3殿建立される(棟札あり)。第一殿の建立年は不明。大坂の陣で全焼する。
1559  永禄3   三好長慶と安見直正の戦いで長慶は喜連・杭全に布陣する。
1614  慶長19   大坂冬の陣で末吉吉康、徳川方に協力。豊臣方の放火で平野郷全焼。
1615  元和1   大坂夏の陣で徳川方藤堂高虎の放火で平野郷再び焼亡する。
1618  元和4   元和4年~寛永2年にかけて杭全神社再建する。
伎人郷がいつ誕生して、いつ杭全郷に変わったのか?坂上広野が朝廷より杭全郷を拝領したといわれるのが(823)行仁14年といわれるが、平野の開発はいつから始まったのか、(1220)承久2年坂上一族による七名家の支配が始まったといわれるが鎌倉時代の平野将監入道やキレの人、植村輔房・基宗(木礼成心と同一人物か?)等が悪党として活躍した時代の平野・キレの支配者や坂上一族についての資料がなく全く不明です。
私考するに平野・喜連ともに中世~戦国時代にかけて数度の戦禍にあい焼土と化しているので奈良時代以降近世初頭までの資料が灰塵と化したのが原因ではないかと考えています。
近世・近年の喜連村
近世の喜連を知る史料として関西大学所蔵の「攝津国住吉郡中喜連村佐々木家文書」三千十五点があります。その全てに整理番号が付けられ、標題・作成年月日・差出人・宛名人等が記載された文書目録が作成されていますが私はこうした崩し字で書かれた古文書が読めないので、今回は同大学文学部古文書室所蔵の摂津国住吉郡喜連村文書(津田秀夫文庫所蔵38点)と東成郡誌及び喜連村誌から近世・近年の喜連村の様子を窺い見ました。喜連村文書については旧蔵者不明ですが、西喜連村の庄屋か年寄と見られ(1674)延宝二年から(1829)文政十二年の文書と明治初期の文書が三点あり全て全訳されています故、その内の数点を下記に紹介します。近世の喜連を知る貴重な文献史料で総てを解読できれば江戸期の喜連村の全貌もある程度明らかになるでしょう。 
 左写真 喜連旧環濠北側の北口地蔵堂          中・右写真 喜連に現存する古民家

      関西大学所蔵 攝津国住吉郡喜連村文書に見る近世喜連
関西大学には下記に紹介する喜連村文書の他に大学図書館古文書室所蔵「攝津国住吉郡中喜連村佐々木家文書」3015点もあり近世の喜連を知る貴重な文献史料です。
下記をクリックしていただくと①天明4年の西喜連村明細帳、②喜連3ヶ村の税負担について西喜連村の異議訴え、③村の用水確保について(馬池・五十間樋)、④村役人について、⑤楯原神社関連(神仏習合禁止令の混乱)文書と訳文がご覧になれます。
関西大学所蔵     
攝津国住吉郡喜連村文書へのリンク
天明4年(1784)の西喜連村明細帳によると喜連三ヶ村の高は1740石余、人数は810人余、かまどは190軒余、牛15疋、こやしは一反に銀7~80匁と記されています。他に寺社の除地、喜連三ヶ村の家数、用水溜池、用水取樋などが記され、綿作と稲作の比は6分と4分である。農閑期は男はなわ俵造り、女はもめん織りに従事していたこと、また、西喜連村内の住民について、庄屋3人、年寄4人とある。寺社は上人屋敷一ヶ所、道場屋敷五ヶ所、氏神牛頭天王宮、春日大明神宮、氏神天神宮と記されています。また、三ヶ村領域は東西18町(1.962m) 南北6町(654m)と記されいます。
次の「定申百姓中間一札之事」では西喜連村は水損場の田畑を所持する百姓が多く迷惑しているので水損・日損の年の内検に庄屋・年寄に本郷百姓を立合わせ、損亡の引き方帳をきめ、年貢を持ち合いで上納し、不作の百姓も存続できるようにする。毎年の引き方内検や免割り、諸役掛り銀は村役が相談してきめ、本郷百姓や出作百姓の異議をたしかめた上で上納する。以上の事を本郷百姓と出作百姓が立合い相談の上取決めたので、延宝三年八月に連判状を作成している。連判は年寄八名、小百姓十七名、肩書き付百十三名になっています。
また、村内除地として観音堂と天神社が記載されていますが伝説の息長氏関連の塚・墳墓等の除地はないようです。
(1931)昭和6年の喜連地番地図 

(1737)元文2年の絵図に描かれた喜連です。  大正期の喜連 
この環濠内に中喜連村・西喜連村が収まっていたとすると、両村はかなり入組んでいたことになります。近年の地図(下の地図)でも環濠外に村がはみだしていた形跡は見受けられず、環濠というより灌漑水路に囲まれている感じです。   右は 
(1935)昭和十年の喜連地番地図 A楯原神社 B如願寺 C中高野街道 D中野町で今川に合流する用排水路(一部地図には鳴門川と記されたもの有り)  枠内は小字地名(大正十四年喜連村誌参照) 
上に参考資料として1931年と1935年作成の喜連地番地図を転載しましたが環濠位置については全く同一です。(1737)元文2年の絵図・大正期の地図でも環濠位置は変わらないようです。地番地図では環濠外の人家の様相は不明ですが、元文2年絵図・大正期の地図では環濠外に人家の存在は見当たりません。ただ、元文絵図では東喜連村の位置が中喜連村の下になっていますが、大正期地図の東喜連村位置が正解です。
元文2年絵図・大正・昭和(地番地図)の地図の環濠内の面積は、あまり変わらないように思われますが元文2年絵図には『攝州住吉郡杭田?、喜連之郷、家数弐千軒、高弐千五百石余』と記されています。絵図で見ると環濠外に人家は無いようですが、この環濠内に人家が弐千軒もあったとは信じ難く、環濠外にも人家が散在していたのでしょうか?信じ難い数字です。
(1784)天明4年の西喜連村明細帳によると家数154軒 高757石6升7合となっていて
喜連3ヶ村の村高1690石になっています。
喜連の近世文書でも国郡の所属はまちまちで「万葉集」にある『河内国伎人郷』の所属・所在についても種々論じられていますが、いずれも合理的な論拠はなく次の様に述べられています。
『往古河内国の内なりしが、後摂津国住吉郡に入れり。』
『貞観四年の頃には己に所属曖昧となりて、遂に摂津国に属したるものなるべし。昔は河内国に属して、万葉に河内国伎人郷とある処なるを、久禮を訛て喜連とは云なり。』
『いま東住吉区(昭和48年まで)に入る喜連町は呉の転訛で、雄略期十四年に見える呉坂の地という。この辺はもと河内国澁川郡(万葉集)、のち摂津国に入り(摂津志)住吉郡、或いは百済郡にも入ったと思う。』
『伎人郷』の位置、また文献資料の存在する『伎人堤』においてもその所在は不明というのが現状であり、現状での『伎人郷・堤』の考察は喜連・瓜破・長原遺跡における発掘調査や古代の復元地形図等から推測するのみです
しかし(1330)元徳二年の堀江秀清請文案の「輔房、基宗伯父、河内国」という「喜連」の初見文書があり、1330年といえば14世紀で96代後醍醐天皇の時代になり、(1371)応安四年の「瓜破」の初見文書には『河州宇利和利』とあり「瓜破」は河内国の所属であることが記されており、この時代には磯歯津路を国境として摂津・河内両国の境界は固定していたと考えられるのに当時の喜連が磯歯津路の北に位置していたならば何故「河内国キレ」なのかという疑問にも合理的な説明資料がなく解明が進まないのが現状です。
「続日本紀」の(741)天平十三年~(832)天長九年までの洪水記録記事をみても伎人堤決壊・洪水の後に起こる河堤の境界争い等の記事によっても、幾度もの洪水がこの低地を襲っていたことがわかります。近世の喜連三ヵ村が何時成立したか資料がなく定かではありませんが、隣接する平野郷の成立から推測するのが妥当とおもわれるものの、平野郷が所属したと思われる杭全郷の成立時期も定かではなく、平野郷の開発者といわれる坂上広野麻呂の没年(828)天長五年、広野麻呂の妹で長宝寺の建立者といわれる春子の没年から推定して平野の開発は(834)承和元年頃から始まったのではと思いますが開発が本格的に始動するのはさらに後年ではないかと推測されます。(862)貞観四年に伎人堤の境界紛争の記述が三代実録にあり(870)貞観十二年には「検河内国水害堤使任命」「築河内国堤使任命」記述、(875)貞観十七年に再び「築河内国堤使任命」記述があることからこの時に大和川の植松分岐地点を締切り流路を久宝寺川(長瀬川)に切替えたと思われます。川幅200mで大和川の本流といわれた平野川もこの治水策で縮小し洪水の規模もそれなりに小さくなったでしょう。坂上家が杭全郷の開発に取組んだのは、この頃からと思われ一説によると広野麻呂の子、当道(まさみち)が開発に当たったといわれますが当道の卒伝記述が三代実録にあり、これで見ると当道は承和年間に内舎人となり、左兵衛・左衛門の両府の大尉(たいじょう)を経て、(855)斉衡(さいこう)二年正六位上から従五位下に昇叙、右衛門佐に任ぜられており、左近衛少将を経て(858)天安二年に備前権介(びぜんのごんのすけ)次いで備前介を兼ねる。また、同年には右近衛少将の藤原有貞とともに、馬寮(めりょう)の官人や近衛を率いて、京にいる群盗の追捕を行っています。(859)貞観元年、陸奥守・鎮守府将軍に任官、さらに常陸權介も兼ね、従五位上に叙せられています。翌(860)貞観二年、上総介を兼ね、その後は任国に留まり、(867)貞観九年死去。享年五十五歳。とあるので当道自身が平野の開発に携わる事はできなかったと思われます。中世の平野庄で坂上氏の後裔とされる平野氏は、当道の系統ではなく、広野の子である峯雄の流れを汲む坂上行松が継いだとされる説もあります。いずれにせよ平野の開発は平野川が「築河内国堤使」により植松の分流地点が締め切られた後の800年代末から900年代初頭に平野の開発が始まったのではないでしょうか。坂上氏が託宣を受け、牛頭(ごず)天王(現杭全神社)を勧請したのもこの頃ではないかと思います。また、「平野庄」が藤原頼道の知行所となり、平等院に寄進されたのが永承年間(1046~53)頃といわれており、杭全郷の文献史料の初見が藤原頼長日記の「台記別記」(1151)仁平元年八月十日に頼長が春日詣での費用として「杭全秣(まぐさ)五十束、芻(まぐさ)五十束」を供出するよう命じた記事が杭全郷(平野郷)の初見のようです。
日本三代実録の坂上当道(當道)の卒伝記述
土地条件図を基に古代の地形・河川流路を表したのが右図です。現大和川は18世紀に付替えられたもので8世紀当時はAの流路が大和川の本流で現平野郷町付近で古東除川が合流しここが氾濫原となっていたことが、この図から読みとれます。因みに坂上氏による平野の開発は定かではないが9世紀末頃と推定されます。
喜連東遺跡は喜連東1丁目の一部まで発掘調査が進んでいますが、以北は人口密集地で今の処発掘調査は望めません。川辺付近で標高は12m推定磯歯津路辺から喜連東遺跡付近で標高7~8m近世の喜連村付近が~5m、現喜連西付近は平野川や狭山西除川・古東除川の氾濫原であり低湿地で近年まで農耕地であったが現在は高層住宅街に変貌しています。八世紀当時の大和川は八尾市植松で太子堂へ太子堂から北北西に進路をとっていたのが奈良時代の平野川で、この流路が当時の大和川の本流といわれ発掘調査で川幅約200mが確認されています。上右図の土地条件図で古代の河川変遷や地形がわかります。 
現在「伎人郷」の位置や規模等についても推察の域を出ない状況で、伎人郷を近世の現平野区喜連町と思われている方が多いのですが、近世の喜連は東喜連・中喜連・西喜連の三村に分かれており奈良時代の現喜連町は下図に見られるように東と南を低位段丘に囲まれ北に河内川(平野川)、東から北西にかけて古東除川、西に狭山西除川があり淀川水系と大和川水系の河川が連動して度々氾濫、瓜破台地には東から馬池谷・東谷・西谷と三つの解析谷があり古墳時代まで流路が存在し現長居公園通が谷から平地への開口部にあたり馬池谷の東側には長吉台地上を古東除川が流れ台地北端で沖積低地を北北西に進路をとり現平野郷町付近で平野川に合流しており、この合流地点付近が氾濫原であったことを土地条件図で知ることが出来ます。また、近世喜連村の西方を狭山西除川が南北に流れており、狭山西除川は狭山池の西除口から北流し生野区舎利寺で平野川に合流しており、降雨時には、これらの河川も一斉に氾濫したものと思われます。飛鳥時代の西谷や馬池谷の洪水で大量の土砂が流れ出すのと、平野川の氾濫で奈良時代の平野地域には大規模な自然堤防が形成され、また、近世喜連町付近も平野川の氾濫と西谷や馬池谷の洪水で流出する土砂で小規模な自然堤防状になっているのが、下図で知ることが出来ます。飛鳥時代以前の現喜連の集落は馬池谷や西谷の洪水で跡形もなく消滅したことでしょう。この飛鳥時代の大洪水は沖積低地にあったであろう集落には壊滅的な被害を与えましたが反面上流から大量の土砂を低地に流入させ農耕地を増やすこともしたと考えられます。 
上図は土地条件図により平野川や東除川により出来た自然堤防と現平野郷町付近が氾濫原であったことがわかります。近世の喜連村の位置にも小規模な自然堤防が出現しておりその形態から、平野川の氾濫で流町方向から南下してくる土砂と西谷・馬池から排出される土砂で出来たものと考えられます。 下右図も土地条件図で地形と古代の河川と、中世・近世の河川・氾濫原・自然堤防等をわかりやすく表示されています。 
住吉郡の初見史料は平城京跡出土木簡で(表)無位田辺史広調進続労銭伍佰文(裏)摂津国住吉郡神亀五年九月五日勘錦織秋庭と記されているもので、(733)天平五年の右京計帳にも住吉郡田辺郷戸主正七位上田辺史真立の名が見られます。この住吉郡田辺郷も「和名抄」には記載されていない郷ですが現在東住吉区に北田辺、田辺、南田辺。住吉区に西田辺の地名が存在し、この辺りではないかと思われますが古代の田辺郷との繋がりは不明です。下は『伎人郷』を取り巻く地域の古文書による国郡郷名を調べたものです。竹渕・賀美(加美)・三宅の各郷名は現在も実在しますが、百済郡南部郷の所在地については不明です。

上の図4は宝暦三年三月八日に森幸安が描いた「難波古図」で往古の難波はこの様な景観であったのではという想像絵図として彼が描いたものか、あるいは依頼主の求めに応じて描いたものか不明ですが。左の識語は百済郡の領域にかんして幸安の思考を述べたもの。右図はその想像図でこの絵図には近世喜連村の北を流れる川が喜連川として描かれ「名所息長川」と記されていますがここに描かれている喜連の地を東西に流れる「喜連川」なる川は実在せず、幸安の幻想で百済郡の郡域についても東部郷(平野・中野村)・南部郷(南・北田辺村)・西部郷(東生郡の一部・阿部野村)として平野川を百済川・喜連川(息長川)を河内川に比定、四天王寺の南を流れ大阪湾に流入させています。これは延暦年の和気清麻呂の治水工事が完成していたらこうなったという仮定のもとに描いたと思われます。幸安の想像図であるので参考資料にはならず、

東成郡誌・喜連村誌に見る喜連村
ここに掲載した喜連村の概況は喜連村誌及び東成郡誌よりの抜粋記事です。
[喜連村誌(大正14年)

吾人の郷土を愛するは其の至情に出づ然るに大阪市の膨張は遂に大正十四年四月一日を以て本村編入に確定せり、茲に於いて喜連村誌を編纂し村の消滅を惜むと共に編入を意義あらしめ且つ大に史蹟を開明し地方文化の状況を後日にのこさん為、村当局ここに見る所あり村誌編纂を託せらる今や□村誌成る□か蕪辞□題して其の責を塞ぐ。
              大正十四年三月三十一日   編纂委員
本村は往古河内国の内なりしが後摂津国になり住吉郡に入れり喜連村と呼び東喜連・中喜連・西喜連・の三ヶ村となり来りしも明治五年三月、合併せられて喜連村と称する事となれり。同二十二年四月一日、町村制の施行に際し独立して一村を為し同二十九年四月一日、東成郡に属す。 旧西喜連に南町、北町、西町、金元町。中喜連に馬場町、東町、寺町の名あり。東喜連の南に川村といへるあり大阪府誌の記述によれば古事記伝には住吉の東一里許に喜連村と云あり河内の堺なり昔は河内に属して万葉に河内国伎人郷とある處なるを久禮を訛て喜連とは云なり。孝謙紀三代実録などに伎人堤とあるも此処の事なりとせり伎人は呉人なり其伎人を久禮と訓ぜるは蓋し呉人の本朝に帰化せるものの才伎を以て当代に称せられたるに依れり思ふに此の地は投化したる呉人の居りし所にして唐下、呉堂等の字の存せるは之に因めるの称なるべし。伎人堤は今の今川堤をいへるものにして中河内郡矢田村大字住道より来たり本地の西端を北流し北百濟村大字桑津を経て東成郡生野村大字舎利寺の字河原に至りて平野川に入れり、現時は一小流に過ぎざれども往時にありては水勢の滔々たる大河なりしなるべし本地に来りて息長川の称あり、摂津志に其の紀せる如く今の川脈は古の川脈と異れるものあるならん。此の地は平野郷町の南に接して西は住吉、東は河内国に連なる所にあれは往時に於ては交通上の要地た□□なるべし。東北より西より南の一辺に繞りて濠渠の跡とも見るべき井路を存し部落の人家は中央にありて小渠更に是を四繞せり即ち喜連城のありし所にして廃城の後に至り散在せし各部落の此に移転聚團せものなりといふ。城は畠山、三好両氏必争の所にして(1532)天文元年には細川氏綱此に拠り玉井源秀之を輔けしが同十二年遂に畠山氏の為めに陥れられ去りて泉州に退き□で桃井氏之が城主となり後復た平井氏の拠る所となりしが同氏滅びて廃城となれり。本地は(1615)元和元年間より徳川氏代官の支配たりしも(1704)宝永元年に至り東西喜連の西村は水谷美濃守の采地となり中喜連村は依然として徳川代官の支配たりしが東西喜連村は中根摂津守の采地に転じ(1711)正徳三年、本多中務大輔忠民の領地に移り(1760)宝暦十年、大阪城代の役知に移り同十三年、土井大炊頭利里の領地となり石高、西喜連七百五十七石六升七合。東喜連三百七石参斗八升は同氏世襲して大炊頭利興に至り明治二年六月上地せり。依て古河藩の支配となり同四年七月十四日、古河県に属し同年十一月十五日、印旛県の当分管轄に転じ同月二十日更に大阪府の管轄となる。又徳川代官の支配地中喜連村の六百七十六石二斗五升は同代官継承して内海多次郎に至り(1868)明治元年の初め新に御料となりて同二年大阪裁判所司農局の支配に移り同五月二日大阪府司農局に改まり同七年北司農局に属し同二年正月二十日、摂津県の管轄に移り同年八月二日、兵庫県の管轄に転し翌九月十九日、大阪府の管轄となり、是に於いて三村とも同一管治に帰せり而して同府区画の制定あるに及び同五年五月、住吉郡第一区五番組に入り同八年四月三十日、第七大区一小区五番組に改まり同十年九月十八日,番組廃せられて単に第七大区一小区となり同十一年二月十日住吉郡役所部内となり同月二十一日第二分画に属し同十三年七月二日一村独立し同十七年七月一日第二十戸長役場の管理区域に入りて同二十二年四月一日町村制施行。大正十四年四月一日大阪市に編入せらるに至れり。
大阪府全志第九項喜連村の冒頭(大正11年)  ガリ版刷りの喜連村誌の冒頭(大正14年) 
[位置及廣袤]
郡の東南端に位し、東は中河内郡長吉村に連なり、西は東成郡南百済村に、南は中河内郡瓜破村に接し、北は東成郡平野郷町に隣す。廣さ東西二十三町、南北九町、面積0.1057方里あり。地形長方形をなす。
 [地勢]
本村土地高低は大体に於いて東より西に傾斜し、中央以西は沼澤に富む。地味は第四紀層にして、土壌薄黒色を帯び肥沃にして稲たかきび及び桑茶の栽培に適す。
 [區劃]
本村は町村制施行前の一村と現今の一村と同一区域なるを以て大字の制なし。小字
田地名左の如し。
 ※ 二十六の小字名と地番を記す(掲載略)
 [戸口]
喜連村戸口表(1)
年度  戸数 本籍人口  出寄留者  入寄留者  現住者 
大正4年  320  男 1.059  女 1.005  男 129 女 123  男 37  女 20  男 967  女 902 
大正5年  320  男 1.082  女 1.006  男 146  女 117  男 32  女 15  男 967  女 904 
 大正6年 326  男 1.092  女  985  男 138  女 125  男 39  女 27  男 993  女 887 
喜連村戸口表(2)
 年度 出生   死亡 婚姻  離婚 
男  女  計  女  計  普通 入夫  婿養子  計 
大正4年  -  22  -  32  26  58  16  50  75 
大正5年  38  59  59  30  26  56  22  52  78 
大正6年  44  68  68  24  22  46  17  42  66  - 
 [交通]
本村に於ける縣道は二絛あり。軌道は通過する者なし。縣道は中高野街道古市街道なり。里道は両縣道と人家との間を連絡するもの、及び南百済村中河内郡瓜破村に通するもの等数絛ありと雖も、特に記するに足らず。
 [道路]
中高野街道(縣道)本村の中央を南北に通過し、字鎭平より馬場先に至る。村内の延長九町幅二間あり。古市街道(縣道)本村の東端中河内郡長吉村との境界を為し、字喜連地より岸本に至る。村内の延長八町半幅二間あり。両道とも平坦にして坂路なし。大阪市に来往する自転車荷車の交通は比較的頻繁なれども、人馬の往来閑なり。
 [橋梁] 
橋梁は府費支辨に属する三橋の他に橋梁と目すべきものなし。三橋とも中高野街道に在り。架川の川名なし。
松山橋 上喜連民家の北端に在り。長さ六尺、幅十六尺。元は板橋なりしが明治四十四年石橋に改修する。
馬場先橋 上喜連人家の南端に在り。長さ六尺五寸、幅十六尺。元は板橋なりしが明治四十三年石造に改修す。
出口橋 同上北に在り。長さ幅松山橋に同じ。元は板橋なりしが明治四十二年石造に改修す。
 [通信] 
平野郷町郵便局に属す。村内に郵便投入凾一箇あり。集配度数一日二回なり。電話は
警察用一箇あるのみ。
 [水利] 
本村の灌漑は畑川及溜池に由る。
(水系)畑川大和川畔五十間樋に起り、中河内郡長吉村・瓜破村を通過して本村に及ぶ。延長九千六百九十五間、幅一間乃至三尺なり。灌漑用と共に悪水排除を兼ぬ。蒙利地区は喜連村一圓にして面積百三十九町四反五畝二十三歩なり、普通水利組合を組織せざれども、管理者を置き、村長を以て之に當らしめ、別に水利委員二名を置く。
大正七年度経費は六百七十圓を要したり。経費の賦課は水利協議費として反別割を以て地主より徴収す。
五十間樋は大和川の右岸中河内郡長吉村に在り。元来本村の田畠は狭山池の末流によりて灌漑せられたりしが、宝永元年、新大和川成りて水道遮断せられしかば、里人旱乾を憂えたり。時に喜連村は東西中の三村に分たる。西の荘屋増池彌右衛門は大和川を引て灌漑の用に供せんと欲し、東中の二荘屋に謀りしが、三村領主異なりしかば、議容易に纏りがたし。彌右衛門殊に力を調停に盡し、事漸く決し、八月功竣れり。樋長さ六十九間、堤外五十間あり、故に俗に五十間樋と称す。又別に向樋あり、大和川の水渇れし時の為に堀川の水を引く。明治十六年四月、戸長服部儀左衛門、議員と謀りて樋を改修せり。同三十三年七月、増池等三人の為に、時の村長小林善範等発起となりて、如願寺境内に灌漑長閘紀功之?を建設せり。
如願寺境内の灌漑長閘紀功之?  (1723)享保八年の灌漑水路図 
 [池沼] 
本村の池沼表の如し
池水は五十間樋より南池に引き西・北両池に通せしむ、灌漑の用に充つ。維持費は村費より支弁せり池魚等は入札法によりて毎年競売せり。入札金高大正五年度百七十圓
六年度不詳、七年度参百圓、八年度五百圓なり。
名称  所在地  形状  面積  水深水質 水草  魚類 
西池  池ノ浦 2336  長方形  八町九歩  五尺淡水  菰  鯰・鰻・鯉・鮒・泥鰌等 
北池  土井ノ内 2335  冠形  上同  一丈淡水  菱  鯰・鰻・鯉・鮒・泥鰌等 
南池  山王 2337  方形  上同  七尺淡水  菱  鰻・鯉・鮒・泥鰌等 
 [官公衙] 
喜連村役場 一番地に在り。現在吏員は村長、収入役各一名、書記二名計四名なり(大正七年)。 喜連村巡査駐在所同番地にあり。平野警察署分署に属し、本村一圓を管轄区域とす。駐在巡査一名設置年月詳ならず。
 [沿革]
元和六年、本村を分ちて三村とす。東喜連村、中喜連村、西喜連村なり。中喜連村は幕府之を直轄し、東西の両村は寛永六年、水谷信濃守に給与す。爾来領主屡々交送して土井家領となり、明治維新の後は続いて古河藩治に属せり。明治五年三月東西中の称を廃して一村とす。同年、大阪府第七大区第一区(第五番組)に属せらる。同十二年、同一区域を以て一村戸長役場を置く。十七年今の南百済村の旧各村との聯合戸長役場に属す。二十二年旧に復し、一村を以て町村制を実施せられたり。
  (歴代村長名略す)
村會 議員数一級二級各六名計十二名なり、有権者は衆議院以下左表の如し。
  (議員選挙有権者表略す)
財政 本村の財政は累年経費膨張すること、他町村の例に同じ。明治三十五年以後、総村税額及一戸負担額を挙ぐれば下表の如し。
年度  戸数  総村税額 一戸負担額    年度  戸数  総村税額  一戸負担額 
明治三十五年  296  2.168  7325   大正元年  322  3.664  8273 
明治三十八年  300  1.652    5.510   大正三年  322  3.268   10.149 
明治四十一年  300   2.064     6.880   大正五年  320  3.204   10.013 
明治四十三年  300  3.704    12.347   大正七年  325  3.814   11.735 
旧幕時代の村高は一千六百九十石にして、内訳は西喜連村七百二十石、中喜連村・東喜連村は各六百七十石なり。その納租税率は東西両喜連は田は五つ一分、畑は三つ八分、中喜連は田畑平均七つなり。(石高を十分して前記の率を乗したるものを税額とす)納税の方法は土井領は今の平野郷の陣屋に扶持米に要する分を収め、其余分は金子を以て代納せり。幕府の直領に属する地は、税率土井領よりも高し。大阪なる鈴木の代官所に納め、更に此より江戸に廻送せり。貢米の他に御用金あり、身分に応じて徴収せらる。又助郷あり、大名参勤交代及其他の用として人足に召集せられ、或はその雑用として金員を徴収せられたり。明治時代となりて地租制度制定せられて、租税額は減少したりと雖も、其他の雑税は大に増加せり。
本村基本財産は現金を以て之を積立て保管は郵便貯金に由る毎年村経済の関係上多少の増加あり明治三十五年以後累年の額を挙ぐれば次表の如し。

喜連村基本財産表
年度   全額    年度  全額    年度   全額
明治三十五年  272343    明治 四十一年  668811    大正三年  876311 
同 三十六年  272.343    同 四十二年  788.811    同 四年  1.086.311 
同 三十七年  342.289    同 四十三年  750.000    同 五年  1.131.192 
同 三十八年  419.147    同 四十四年  226.311    同 六年  1.276.192 
同 三十九年  469.238    大正元年  426.311       
同 四十年  547.126    大正二年  656.311       
  [衛生]
未だ水道の布設なく、凡て堀井を用ふ。井戸の水深は一間乃至二間にして、水質は大正三年九月調査成績によれば計二百三十五個の内、良好のものなく、濾過して飲料に適するもの四十三個、煮沸して適するもの一個、飲料不適のもの百九十一個なり。
隔離病舎 平野郷町田邊町南北百済村と本村と五ヶ町村の組合を以て平野郷町に設置す。同町絛参照すべし。本村負担額と八種伝染病統計を挙ぐれば次の如し。
年度  負担額  患者    年度  負担額  患者 
パラ
チフス
 腸
チフス
 ジフテリア  赤痢  計 パラ
チフス

チフス
ジフテリア   赤痢 計 
大正元年 51   大正四年  97円 
同 二年 30   同 五年  24円   0 
同 三年 51 0   同 六年  35円 
衛生組合 明治三十一年六月十七日、喜連村衛生組合規約を定めて組合を組織せり。同三十四年六月及大正三年十月規約を改正す。役員は組長一名、副組長一名、評議員二十三名、書記一名を置く。組合員は平時にありては諸般の衛生に注意し、清潔状態を維持すべく、伝染病発生したる場合はその伝播を防ぎ、且撲滅に努むべきものとす。目下会費を徴せず、又村費の補助を受けず、寄付金を以て経費に充つ。事務所は村役場内に置く。本村に於ける衛生関係の営業者は医師二人、産婆一人、按摩四人(大正七年末現在)とす。
 [消防]
消防組は明治四十年十一月始めて組織する所にして其後消防器具一切を備へ附け以て今日に至る。近年は一月四日、恒例として平野郷田邊両町と聯合出初式を行ひ、春秋二回挙行演習をなす。又防水事業に従事することあり。役員は村会議員中より組頭一名を選出し、外に小頭一名消防手三十名あり。経費として村費の支出の年額は九十九圓なり。現在用具は旗1、高張提灯1、弓張提灯5、腕用喞筒及其所属具1、梯子1、鳶口2にして之をば村役場内に置く。
 [兵事]省略
 [教育]
喜連尋常小学校喜連村一番地に在り。明治五年十月の創立にして喜連小学校と称し一時法性寺の堂宇を以て教室に充てたり。その後(年月不詳)現今の敷地に三十余坪の校舎を建築す。同年四月、単級とし、同二十七年四月二学級、同三十五年四月三学級編制とし、同三十九年四月裁縫科を設置。同四十一年四月小学校令の改正に拠り、義務年限延長の為、児童数頓に増加したるも、校舎狭隘なるを以て、同四十一年限り五学年の教授を平野尋常小学校に委託し、直に校舎の改築を企画し、同四十二年三月竣工す。即ち現今の校舎是なり。同年度より四学級、大正六年四月より五学級編成となす。現今も五学年六学年は合級教授をなしつゝあり。校地は五百六十五坪、校舎百二十二坪七合五勺。職員五名なり。学区域は本村一圓にして、生徒の就学出席歩合は次の如し。
年度  児童数  就学歩合  出席百分比 
男  女  女  計  女  計 
明治三十六年  74  55  88.82  70.73  80.45  89.76  92.13  90.12 
同 三十九年  82  51  92.86  87.63  89.73  90.31  90.41  90.31 
同 四十二年  119  76  98.16  85.71   92.91  92.49  87.86  90.61 
同 四十五年  116  89  97.35 89.26  93.2  89.91  82.05  86.49 
大正二年  113  93  93.88  88.55  91.37  87.86  80.31  84.70 
同 四年  115  90  91.36  85.71  88.81  89.93  84.19  87.17 
同 七年  131  104  98.83  99.38  99.06  89.67  93.45  91.30 
喜連村教育會 創立年月詳ならず。事務所は村役場内に置く。會長副會長は村民中より之を選挙す。會事業としては毎月一回小学校内に於いて教育談話會を開くのみ、別に記すべきものなし。別に村教育會組合なるものを設け、教育會は組合内の教育普及上進を謀れり。組合員は現在村民中戸主を以てし、十戸乃至二十戸を以て一組とし、全村を二十三組に分ち、役員は組長副組長各一名、小組長二十三名を置く。組合會は新学年度前に一回開會するものとせり。
 [社会事業]
喜連村青年団 大正四年十月の創設なり。義務教育を了へたる者、及之と同年齢以上の男子二十歳未満を以て正団員とす。健全なる国民、善良なる公民としての素養を得せしむるを以て目的とし、団員修養の為めに講話會講習會を開き、殖産興業に係る共同作業及び共同事業の率先実行を実施しつゝあり。會長は村長を以てし、経費は村費及寄付を以て支辨す。事務所は村役場内に置く。
 [米騒動]
大正七年八月、米価暴騰に際し、一部村民の寄付を以て窮民の為に米廉売を開始したりしたが十三日平野郷町に暴動起こり。十五日本村に傳播して、同夜十一時半頃、暴動等本村巡査駐在所に押し寄せ、その他二三家を襲撃せり。是上流社会の寄付の、他町村に比して僅少なりとして不平を抱きしと、一方には小作米納期に際して年々地主と小作人との間に紛擾を醸したりしたが、大正六年度の小作米納率を決定すべく委員を選びしに、其選に當りしものは小作人の為に利ならざりしとて、一般人より嫉視されたる為、此機を利用して平素の鬱憤を晴さんと企てたるに因れるものにして、暴動は最初他地方の者ならんと推察されしが、却て村民なりしは遺憾なりとす。
 [産業]
本村は純農村なり、故に工業商業に関しては記すに足るものなし。教育に於ても農業本位にして博物教材を重要視し、農業実習の機會を多くし、講習會其他に於ても農業上の知識を與ふることに努めつゝあり。住民の職業別を見るに次の如し。
年度  農業 工業   商業 年度   農業 工業  商業  年度   農業 工業   商業
大正四年   249 10   9 大正五年  249   10  9 大正六年   243  11  10
農業 大正六年度に於ける農戸は専業百八十三戸、兼業六十戸とす。農會は明治三十一年三月の創立にして。會長副會長各一名、評議員五名、幹事一名を置き、経費は村費を以て支辨す。
民有地地目別反別次の如し(大正□年末現在)
種別  田  畑  山林  原野  宅地 
筆数 
面積
1反歩最高見込価格
同見込平均価格
本村民所有ノ筆数
同 面積
本村民外所有ノ筆数
同 面積
2.441 
13.79607
700
500
2.247
12.49101
194
1.30506
47 
14926
500円
400
47
149畝16


 4
2028
300
300
4
2028

 1
221
300
300
1
221

92
87226 
坪 10
  7
285
85322
7
2004
本村主要農産物の近年に於ける作付反別と、その産額の概算を挙ぐれば次の如し 
主要農産物作付反別年産額概算表
種別  作付反別   年産額   種別  作付反別   年産額    種別  作付反別   年産額  
米  138 3.450    蠶豆  11 230    茄子  1  2.000 
麦   528   732    菜種  1   8   馬鈴薯  3 14.000 
大豆  1 27    蘿蔔  2  14.000貫         
小豆  0.1町  1    牛蒡  1  1000         
農民の住宅と耕地との距離は五町以内の者最多数を占む。?一町以内の者三十戸、三町以内の者九十三戸、五町以内の者百十五戸、十町以内の者五戸とす。施肥は油粕豆粕排糞尿を用ふ。農民が労働の供給は他村に於けるが如く、一般に不足の傾向にあり。彼等が耕作田畑の反別は従業者四百二十七人(内男三九〇女三七)にして耕地二百四十町歩(内訳本村領百四十町歩、近村領百町歩)の概算なれば、一人宛耕地は五反六畝余に当れり。
農業労働日数は定休日二十八日、臨時休日約七日とす、其他事故休業を通算すれば約
八十五日となり、差引労働日数は二百八十日位なり。被雇労働者は日出より日没まで労働し、夏期に於いて五月十五日より八月三十一日迄正午より午後二時に至るを午睡時間とせり。賃銭は次第に昂騰して、日給大正四年には六拾銭、五年には七拾銭、六年には八拾銭のもの七年には一圓参拾銭となれり。小作慣例は年期に定めなし、小作料は明治四十四年に改正したるもの、田畑とも一反歩に付玄米にて一等地は一石六斗、二等地は一石四斗五升、三等地は一石二斗三升、四等地は一石乃至一石一斗、等外地は八斗又は九斗とす。庄屋時代の小作料については凶年の際は各庄屋より領主に願い出で、領主より実地検見の上、年貢米の引方を定め、その引方通り地主より小作人に小作米の減額を為したりしかば、甞て紛擾なかりき。明治五年頃より同四十三年に至るまで、毎年小作人より地主に対して不作を口実として減額を請求し、地主は之を
認めず、紛擾絶えざりしが、凶年には一村一部落の為に村長調停の労を採れり。明治四十四年に至り、従来の紛擾一掃の目的にて、従来の額より一反歩につき玄米二斗づつを減して、豊凶に拘わらず収納すべきことに協定せり。其額前記の如し。以来紛擾漸く減少せり。小作人の過不足については、一般の例に漏れず不足の傾向にあり。
農家の流通資金は各自の資本に拠れども、小農にあっては村内の大農より信用融通を
受く。最多額にて五拾圓なり。その信用に対しては殆ど証書の差し入れもなし。その返却方法は労働の供給にして、元利とも現金を以てするもの少なし。本村に於ける農家の収入を見るに大正七年度を標準として大要次の如し。
  大農家の収支決算 
大農二町歩の耕作者 内訳一町歩二毛作・一町歩一毛作
  収入  支出  差引残  摘要 
1.250 - 1.250   玄米50石、田2町歩収穫米1反歩2石5斗 石25円
60  - 1.310   藁一千貫 2町歩藁代及俵藁1丁歩代
10  - 1.320   畦豆1石代
- 120  1.200   油粕肥料代及運搬費 1毛作1町歩 2毛作1町歩分代
- 100  1.100   田2町歩公課
- 73  1.027   牛1頭飼育料
- 10  1.017円   米麦種子代
- 840  177   雇人840円 一人につき1円
- 50  127   農具修理代 2町歩1反に付2円50銭
324  451   麦18石代 1町歩収穫麦1反に付1石八斗 1石に付18円
- 110  341  自家親子5人大人4人1日4合 小児3人1日2合 米4石4斗
- 100  241   農具買入及建物修繕費
- 241   1年中一切需要費

中農一町歩耕作者
自己所有地五反歩・他人の小作地五反歩  此内二毛作三反歩・一毛作七反歩
収入  支出  差引残  摘要 
625   玄米二十五石 田一町歩収穫米一石に付金二十五円
97  722   麦五石四斗代一反に付一石八斗収穫 三反歩一石金十八円
30円   肥料屎尿代一町歩 外白雑藁は肥料とす
25円   自己所有地田五反歩 公課一反に付き金五円
200   地主へ納むる小作米八石代一反一石六斗 一石二十五円
37   牛一頭 二人組合費七十三円の半額負担
5   種子代
25   農具修繕費一町歩代
146  自家食料玄米五石八斗一石金二十五円
家族大人三人1日一人四合・小人二人1日一人二合
20   食用麦 一石一斗 一日三合宛米と併食す
30   建物修繕費
182  22   一ヶ年需要費 一日金五十銭

小農五反歩耕作者
全部小作  二作米全部
収入  支出  差引残  摘要 
313   小作五反歩収穫米十二五斗石 一反に付き二石五斗 一石金二十五円
162   麦九石代 五反歩収穫一石八斗(一反に付) 一石に付十八円
15   藁五百貫代
6  496   麦藁百貫代
15   肥料屎尿五反歩代
25   耕地手借り及び耕賃五反歩 一反に付金五円
3   種子代
60   家賃一ヶ年代 一月に付金五円
200   地主へ納むる小作米八石代 一石に付二十五円 一反に付一石六斗
110   自家食料 玄米大人二人 小児一人 三石六斗五升
83   需要費 一ヶ年分 一日に付二十三銭
村内に於ける家畜家禽は、耕地用飼牛四十八頭、鶏及鶩八十九羽(大正七年八月現在)あり。 
工業・商業
村内の工業として産額の見るべきものあるなし。その種類も農具・薬種・清涼飲料・清酒・煙草盆・樽屋・提灯・畳・炭團等従来のままなり。新に興りしものには簾製造あり。最近数年間の従業戸数を示せば次の如し。
工業・商業
年度  大工  左官  鉄工  撚糸  桶職  畳職  防水布  簾  唐木職  計 
大正三年  15 
同 四年  21  30 
同 五年  18  31 
同 六年  17  30 
同 七年  17  31 
上の表中には兼業者をも収めたり、故に前表と合致せざるものあり。撚糸業者の如き全部兼業なり商業は全部小売業者なり、白米商人の取引法は農家より玄米を五日乃至一ヶ月間の延取引にて買受け、白米売上げ金を以て支払を為す。従って小資本にて経営せり。其他の商家もさして資本を要する程の営業を為すものなし。商業戸口は兼業とも次表の如し。 
商業戸数統計
     種類
年度  戸数  白米   古物商 金貸  菓子  乾物  貸物   売薬 清酒  呉服  雑 
大正三年 35  11  1
 同 五年 38  12  1
 同 五年 44  10  13   1
 同 六年 44  10  13   1
 同 七年 42  10   1
車両統計
年度   荷馬車 牛車  大車  小車  自転車    年度   荷馬車 牛車  大車  小車  自転車
大正元年  15  149  13    大正五年  16  249  26 
同 二年  13  164  12    同 六年  23  293  31 
同 三年  13  167  15    同 七年 23  389  40 
同 四年  13  169  19    同 八年  23  390  40 
 [神社及宗教] 
楯原神社(村社)西喜連無番地に鎮座す。明治四十年九月十二日許可、村内鎮座の無格社楯原神社、春日神社を村社天神社に合祀し、同日許可、村社八坂神社を境内社に合祀し、明治四十二年十二月九日許可を得て楯原神社と称す。旧村社天神社は菅原道真を祀り、相殿に天照皇大神、熊野大神を祀る。由緒詳ならず、明治五年雑社に列せられ、十二年十二月村社に列せらる。旧無格社楯原神社は式内の神社なり、俗に天神社と称せり、祭神は[攝津志][神社要録]等に不詳とあり、往古の社址は如願寺域なりと云う、延元の乱(1336)に兵火に罹り、文明十三年(1481)春仮社殿を造営し、明応二年(1493)三月正社殿に改造せり、元和年間(1615~24)暴風の為破損せるより、新に地を相して合祀前の地楯原神社(是より先きは天神社と称す)として崇祀し、社址は享保年間(1716~36)如願寺域とせり同寺は本宮の本願寺なり、本社の末社に雨乞祭りの奥宮及媛天神社あり、媛天神社は、元中喜連字山王に鎮座せり、祭神素戔鳥尊、明治五年村社に列せらる。旧無格社春日神社は亦東喜連に鎮座せり、祭神春日大神、末社に稲荷神社、祭神豊受媛神なり。以上の各末社も共に合祀せられたるなり。新楯原神社例祭は九月二日なり。境内官有地一反四畝十二歩。一村を氏子区域とす。
如願寺
喜連村二一八二番地に在り。眞言宗御室派仁和寺末に属す。霊峰山と称す。崇峻天皇元年(588)聖徳太子の創建にして、本尊正観音も亦太子作なりと傳ふ。弘仁十年(819)、弘法大師再建し、翌春落成す。此時弘法、不動明王毘沙門天の二像を彫り、聖観音の脇士とす。又旧称喜連寺を改めて如願寺と號す。其後幾多の歳月を経過して兵火震災に遭ひ、寺塔坊舎頽廃し、纔(わずか)に残る所のものは七間四面の霊場、本尊脇士、弥勒堂たりしと云ふ。現今の本堂五間四面及庫裏は享保三年(1718)僧實圓の再建する所なり。境内二畝官有地に属す、境外民有地七反歩あり。檀徒はなく、信徒五戸あり。
傳了寺
喜連村二二九六番地に在り。眞宗大谷派東本願寺末に属す。法輪山と號す。明応七年(1498)の創建にして開基は僧眞観なり。境内東西十二間七分南北十二間五分、面積六畝、民有地に属す。堂舎二棟、檀徒二十七戸。
如願寺  専念寺  法明寺 
寶圓寺 
喜連村百三十六番地に在り。眞宗大谷派本願寺末に属す。中野山と號す。寛永七年(1630)の創建にして僧寛能開基たり。寺域東西十二間八分、南北十五間一分、面積百九十四坪
境内所有地一町五反共に民有地なり。堂舎三棟、檀徒五十戸あり。
専稱寺
喜連村百三十五番地に在り。眞宗大谷派本願寺末に属す。空楽山と號す。開基及創立の年月詳ならず。寺域東西五間六分五厘、南北十七間、面積九十六坪、境外所有地三反、共に民有地なり。堂舎二棟、檀徒四十戸あり。
寶林寺
喜連村八十番地に在り。眞宗本派本願寺末に属す。南輪山と號す。開基及創立の年月詳ならず。寺域東西九間六分、南北十六間八分、面積百六十一坪民有地なり。堂舎二棟、檀徒二十五戸。
法性寺
喜連村二百五十三番地に在り。眞宗本派本願寺末に属す。十方山と號す。大永年間(1521~28)の創建にして、僧玄了開基たり。寺域東西五間五分五厘、南北十六間二分、面積三畝六分、民有地なり。堂舎三棟、檀徒三十戸あり。
教西寺
喜連村三百五十三番地に在り。眞宗本派本願寺末に属す。梅光山と號す。享保年間(1716~36)の創立なれども開基不詳。寺域東西十間九分、南北七間九分五厘、面積一反二十三歩、民有地に属す。堂舎二棟、檀徒十四戸。
専念寺
喜連村百九十七番屋敷に在り。融通念仏宗大念仏寺末なり。一向山と號す。慶長二年(1597)創立、僧道善開基たり。寺域東西十五間二分、南北十二間九分、面積百四十四坪四分民有地なり。堂舎二棟、檀徒三十八戸。
法明寺
喜連村千六十五番地に在り。融通念仏宗大念仏寺末に属す。遍照山南源院と称す。
本山第七世法明、正平二年(1347)四月、弟子興善に法席を譲り、当地に道場を開く。此時帰依の徒四十余戸、法明と協力して、同年十二月成る。本寺是なり。四年六月、法明遷化す。此に於て一宗末寺中の別道場とし世人は本山大念仏寺住持の隠室と呼ぶ。法明は本郡深江の人なり、俗性清原、道張と称す。弘安二年(1279)十月十日誕生、二十五歳の時高野山に登り、俊賢に師事し、解行兼備の後、両部の灌頂を傳へ、頗る顯密の淵源を究む。元享元年(1321)十一月十五日夜、石清水八幡宮の霊夢を感じ、切に良忍の遺風を慕ひ、平野郷に来詣して遂に本山第七世の傳燈師となる。一宗の法運を挽回し、専ら融通念仏の一門に依り、大に人天を化益す。故に宗門の中興と称す。遷化の年七十一歳なり。興善はまた本村の人なり、後本寺に隠栖す。正平十一年十二月二日、五十三歳にて入寂す。本尊は彌陀三尊画像(四尺五寸・二尺五寸)傳へ云ふ、春日明神筆と。後二絛院
嘉元元年(1303)、東大寺慶?より琳春に傳へ、琳より法明に相傳したるものなり。寺域東西十五間三分、南北十間五分、面積百六十坪六分、境外所有地三反五畝十四歩共に民有地なり。堂舎三棟、檀徒三十五戸あり。寶物には聖徳皇太子二八御縫像他九点あり。
妙法寺
喜連村二三二六番地に在り。曹洞宗永平寺末に属す。明和四年(1768)の創建にして、僧覚門開基たり境内東西九間、南北七間、面積六十三坪あり。明治十年(月日不詳)北河内郡
諸堤村大字諸口に移転せり。
天理教中河内教会喜連分教会
喜連三百十二番地に在り。明治四十一年八月十五日の創立なり。境内五畝八歩、建物は二棟あり。信徒数百二十五人なり。
 [舊蹟墳墓] 
伎人堤
 
喜連村は伎人の転訛なり。伎人郷は往古は河内国に属せり、万葉集に河内国伎人郷とあり。伎人堤は息長川の?塘なり。息長川の事は北百済村に其条あり[全文北百済村息長川絛参照]。続日本紀に天平勝宝二年五月、伎人、茨田等堤、往々決壊したる事を載せたるはこの堤なり。三代実録に貞観四年三月、摂津河内の国人、伎人堤を相争ふ事あり。是より先き古くは天平十三年四月、巨勢奈?麿、藤原仲麻呂其他を遣して攝津河内の河堤を争ふ所を検校せしめられ、又大同元年十月、攝河両国の堤を定められたり。是伎人堤の紛争に係る為なるべく、此堤は両国境に當りし故なるべし。堤の址今詳ならず。
東成郡誌北百済村(参照記事)
息長川  今川の舊河身なり。今川、舊河内川と称せり、河内丹北郡より流れて喜連村に入りて息長川と称せり。今の河身は、往古の流域と頗る異れるが為に、今川と称するなり。[万葉集]天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉二十四日戌申、太上天皇、皇太后、幸行於河内離宮経信々以壬子傳幸於難波宮也三月七日於河内国伎人郷馬史国人之家宴歌 にほ鳥の息長河は絶えぬとも君に語らむ言つきめやも 馬史国人
喜連城址
現存せる残塁は本村西部々落民家の周囲にありて、既に其形を失ひたれども、猶高二尺餘あり、残塁も処々に存し、大なるは幅二間、深さ数尺に及び、小なる所にては幅数尺、水深を有せざる処もあり。民家の建築物に利用されたるもの多ければ、注意せざれば判明せず。本城は元高屋城の属城にして、畠山三好闘争の地なりき。天文初年、細川氏綱之に拠り、玉井源秀之を輔けて、畠山氏に抗せしが、同十二年畠山氏の為に陥れられ、泉州に退きぬ。後桃井氏之に拠り、平井氏に及びたりしが、平井氏滅びて城廃せり。
西池
神功皇后征韓の途に上らるゝ時、楯原神社に参拝し給ひ、此地にて手を洗い給へりとの口?なり。
三王塚
本村字山王に在り、面積二十坪の小丘なり、東西凡五間、南北凡四間、周廻十九間あり。 往古此に山王権現鎮座せりと云ふ。其西一丁許の所に面積一坪餘の地あり。山王付属地として之に手を触れれば祟ありと称す。伝説に云ふ、此塚允恭天皇皇后忍坂大中姫の御陵なり。皇后を此に葬り奉り神霊を陵の西に鎮め祀る。これを媛天神社と称す。元亀時代に東喜連村社八坂神社境内北側の社殿に移し祀り。其旧址を天神と字す。皇后の此地に居給ひし宮居を忍坂の宮と称す、今に其旧地を忍坂と称す。上古此地に住居したるものを忍坂部と称す。文明時代に忍坂部、田井部、藤部三部を合わせて東喜連村を立てたりと。
広住塚
喜連村民家の西南隅に在り、東西五間餘、南北三間半、面積十餘坪あり。維新前には三畝歩許もありしが、今はかく僅少の地となれり。櫟及熊笹一面に繁茂せり。伝説に云、息長眞若中女命の御陵なり、凡四百年前迄は境域大にして、毎年大祭を行ひつゝありしが、何時の間にか民有となり今日の有様となりしなりと。(1586)天正十四年検地に反別一反二畝歩と改めたり。村民は災の神と称して笹一本折取るも祟ありとて恐れ居れり。息長眞若中女命は日本武尊の皇子息長田別王の子杭俣長日子王の女なり。仁徳天皇二年に薨去し給ふ。(1413)応永二十年六月、一千百年祭を仏式にて此に修め、丈餘の石塔を建設したりと、今其影だになし。
 [舊家] 
佐々木氏
当家先祖は宇多天皇第九皇子敦實親王より出で後胤佐々木三郎秀義北江州の領主となり、第12代の孫京極兵庫頭秀高に及べり。その後零落し母方朝倉治部大輔義景の臣服部隼人正重則に寄寓し服部姓を名乗る。七代の孫服部五郎兵衛源道恵の時、慶長元和年間、大阪陣に際し越前の手に属し、のち山城国綴喜郡普賢寺に潜居し尋で摂津国杭全庄喜連村に郷士として住居す。当代より四代前に本姓佐々木に複す。徳川三代将軍家光の時全国の系図を選擇して寛永諸家系図を編纂したる時その系譜を収録せり。明治七年士族の待遇を賜ひ当代に至る。
長橋家
祖先は河野対馬守通有にして文禄年間河野八郎通福の長男通秀、京都長橋局へ任官し、河野姓を長橋と改む。初代より当代まで三十二代なり。当家にては祖先傳来の矢を存し、祖先通有が所持せしものなりと傳へ居れり。尚庭園には廻り一丈六尺余の楠の大樹あり、凡そ七八百年を経過したる老樹なり。
近世喜連村余談 
(1704)宝永元年の大和川付替で河内国丹北郡城連寺村は村高470石906だったのが内311石273が新川の川床となり、80数軒あった村の戸数が40軒余りに減少しています。幕府は城連寺村に潰地の代替地として河内国渋川郡植松村旧長瀬川筋の7町9反2畝24歩を与えたが、城連寺村から2里以上も離れており、耕作に通えずこの代替地は東老原村ほか2村に譲渡しています。旧城連寺村領を流れる新大和川は大きく北側に張り出し弓なりの流路となっているので左岸の城連寺村側に河川敷が出来これに目をつけた公儀はこれを開発すべく請負人を募集したところ、大坂商人が落札反3両3分で落札。城連寺村では旧村地を大坂商人に支配されては後日の面倒の元になるので中喜連村庄屋の伝右衛門に頼んでこれを買い戻し、この流作地の東半分を伝右衛門に渡し西半分を村の耕作地としています。川中の流作地で出水した場合は収穫0になり、喜連村から飛び地になる悪条件にも関わらず援助の手を差し伸べています。 
 新大和川流作場を開発した中喜連村伝右衛門請所となった流作場絵図 
(1615)慶長二十年の大阪夏の陣で豊臣方の武将後藤基次は討死に際して自分と同じ元黒田家の家臣であった吉村武右衛門に首を徳川方に与えないよう遺言。武右衛門は、基次の首を深田に埋めて戦場を後にして、戦後に喜連村で帰農して「水井」姓を名乗ったといわれる。今柏原市の玉手山公園にある後藤又兵衛基次碑の横にある「吉村武右衛門之碑」は喜連に住む吉村武右衛門の末裔水井恒雄氏が(1979)昭和54年に建立されたことが平野区誌に記載されています。 
左写真は玉手山にある吉村武右衛門の碑、右奥は後藤又兵衛基次の碑。右は享保12年の河内国丹北郡城連寺村流作場検地帳で耕作者16名で反別3町4畝7歩、新田高15石2斗1升2合と記されています。 

「北村某の家記」と息長伝説
喜連には「北村某の家記」なる古文書が存在しているそうで、というのも私は実物を見たことがなく大正期の大阪府全志に掲載されたものを見ただけなので作成年代や伝来経緯についての詳細は存じませんが、この家記に由来すると思われる息長伝説がありまた、大正期から昭和初期の大阪市史等には「万葉集」卷20-4458の「にほとりの息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも」と詠んだ馬国人が当時伎人郷に居住していたことから、この「息長川」は喜連の西にある今川であるとする説が紹介され「今川=息長川」説が流布され考古学者の一部にも、この説を支持する動きもありましたが、昭和の後半頃より各地に於ける発掘調査等も活発に成り従来の歴史認識を変えるような発見も多く検出されはじめ古代歴史書の記述等も真実と創作記述の区別が徐々に明らかになってきています。「北村某の家記」に由来する喜連の息長伝説について「家記」を参照しながら解明してみますと次の様な結論に達しました。歴史とりわけ古代史に関心をお持ちの方でしたら、この「家記」をご覧になり、そこに記されている記述が矛盾に満ちた創作物語であるかお解りいただけると思います。
「北村某の家記」の全文が大阪府全志(大正十一年)に紹介されています故ここに転載しましたのでご覧下さい。
『邑に北村某あり、一卷の家記を藏し、太古より仁徳天皇の御宇迄は若沼毛二俣王・以後醍醐天皇の延喜十七年迄は息長眞若麻呂・以後小松天皇の応永十九年迄は北村治良麻呂の撰筆なりと傳へ、もと三卷なりしも、元和の兵火に罹りしかば、其の焼残を取纏め補綴せしものなりといふ。其の記する所を見るに、口?の傳ふる所に符合し、口?は此家記より出しにはあらざるかと思わしむ。而して其の記事の眞なるかは無論疑なき能はざれども、亦漫然口?を記するに優れるものあらん。故に今其の要を摘みて左に之を掲記すべし』と記して「北村某の家記」を掲載しています故下記をクリック
していただくとご覧いただけます。       
           北村某の家記へ クリックしていただくと開きます。
下記に「家記」を参照にして創作されたと推察される近世喜連村の息長伝説にまつわる字地と伝説内容を東成郡誌・喜連村誌(両誌とも大正年間発刊)記載記事から列挙してみました。 
伝承地名  (出典) 伝              説
「讃野皇山」 
(喜連村誌)
東喜連村の東南にあり東西五間、南北四間許なれど上は土饅頭の形を為して樹木なし、今は訛して山王塚と云ひ允恭天皇の皇后忍坂大中媛命の御陵なりと伝ふ。
「三王塚」
(東成郡誌)
本村字山王に在り、面積二十坪の小丘なり、東西凡五間、南北凡四間、周廻十九間あり。 往古此に山王権現鎮座せりと云ふ。其西一丁許の所に面積一坪餘の地あり。山王付属地として之に手を触れれば祟ありと称す。伝説に云ふ、此塚允恭天皇皇后忍坂大中姫の御陵なり。皇后を此に葬り奉り神霊を陵の西に鎮め祀る。これを媛天神社と称す。元亀時代に東喜連村社八坂神社境内北側の社殿に移し祀り。其旧址を天神と字す。皇后の此地に居給ひし宮居を忍坂の宮と称す、今に其旧地を忍坂と称す。上古此地に住居したるものを忍坂部と称す。文明時代に忍坂部、田井部、藤部三部を合わせて東喜連村を立てたりと。
「中筋塚」 
(喜連村誌)
東喜連村の南東にあり元は塚形をなせしも今は広さ半坪許の地に雑草叢生するのみ而し之を潰さんとせば直ちに腹痛を起こすとて手をふるゝ者なし沙禰王の墓なりしと伝ふ。
 ※ 沙禰王=息長沙禰王(若沼毛二俣王の末子、詳細は系譜に見る息長氏参照)
「廣住塚」 (喜連村誌) 字西町西口の字上田(あがりた)にあり南北三間、東西五間、高さ四尺許にして樹木雑生せり、応神天皇の妃息長真若中媛の墳なりと伝う。
「廣住塚」 
(東成郡誌)
喜連村民家の西南隅に在り、東西五間餘、南北三間半、面積十餘坪あり。維新前には三畝歩許もありしが、今はかく僅少の地となれり。櫟及熊笹一面に繁茂せり。伝説に云、息長眞若中女命の御陵なり、凡四百年前迄は境域大にして、毎年大祭を行ひつゝありしが、何時の間にか民有となり今日の有様となりしなりと。(1586)天正十四年検地に反別一反二畝歩と改めたり。村民は災の神と称して笹一本折取るも祟ありとて恐れ居れり。息長眞若中女命は日本武尊の皇子息長田別王の子杭俣長日子王の女なり。仁徳皇二年に薨去し給ふ。(1413)応永二十年六月、一千百年祭を仏式にて此に修め、丈餘の石塔を建設したりと、今其影だになし。
「浮山」 (喜連村誌) 西喜南町の土井之内に浮山といふ字地ありて竹藪を為せり、浮山は浮石山の略にして杭俣長日子王を葬りたる所なりと伝う。
「大塚」 (喜連村誌) 西喜連の西方約七、八町なる田圃中に大塚といへる字地あり周囲の田圃より小高く一町歩許なり建御雷命及び建大杼々命の大塚の跡なりと伝ふ。
「ツブレ池」 (喜連村誌) 字楯原にツブレ池あり池は神功皇后の楯原神社参拝ありしとき禊祓し給ひし所なるが後継体天皇の皇女都夫良郎姫の此の池の荒波に誘われて流れ給ひしより都夫良郎池と呼び後ツブレ池と称せるに至れりと伝ふ。 
「シシデン」 (喜連村誌) 西喜連の西南にシシデンといふ字地あり応神天皇の皇太子におはしますときに御し給ひし紫止殿の跡なりと伝ふ昔此の地を堀りて土器を得しことありといふ。
「西池」 (東成郡誌) 神功皇后征韓の途に上らるゝ時、楯原神社に参拝し給ひ此地にて手を洗ひ給へりとの口碑なり。
「喜連城址」 
(喜連村誌)
現存せる残塁は本村西部々落民家の周囲にありて、既に其形を失ひたれども、猶高二尺餘あり、残塁も処々に存し、大なるは幅二間、深さ数尺に及び、小なる所にては幅数尺、水深を有せざる処もあり。民家の建築物に利用されたるもの多ければ、注意せざれば判明せず。本城は元高屋城の属城にして、畠山三好闘争の地なりき。天文初年、細川氏綱之に拠り、玉井源秀之を輔けて、畠山氏に抗せしが、同十二年畠山氏の為に陥れられ、泉州に退きぬ。後桃井氏之に拠り、平井氏に及びたりしが、平井氏滅びて城廃せり。
「伎人堤」 
(東成郡誌)
喜連村は伎人の転訛なり。伎人郷は往古は河内国に属せり、万葉集に河内国伎人郷とあり。伎人堤は息長川の?塘なり。息長川の事は北百済村に其条あり。続日本紀に天平勝宝二年五月、伎人、茨田等堤、往々決壊したる事を載せたるはこの堤なり。三代実録に(862)貞観四年三月、摂津河内の国人、伎人堤を相争ふ事あり。-中略-この堤は両国境に當りし故なるべし。堤の址今詳ならず。
息長川の事は北百済村に
其条あり(東成郡誌) 
息長川、今川の舊河身なり。今川、舊河内川と称せり、河内丹北郡より流れて喜連村に入りて息長川と称せり。今の河身は、往古の流域と頗る異れるが為に、今川と称するなり。
「呉堤」 
北村某の家記
仁徳期に稲作の水害に罹ること打続きしが故に、此の呉人等を役用して堤を築けり、本郷より大地の西堤迄を呉堤といへるは此の由縁なり。(今此の地の字を唐下といふ、此の転称なりとぞ)
上 左・中写真は喜連西池の善法寺にある息長沙禰王の鎮魂碑。この寺は近年まで存在した喜連西池跡に建立されており、昭和30年代善法寺建立の際、住職の夢枕に古代当地の開拓者という息長沙禰王が出現したとかで、この碑が建立されたそうです。次の喜連東墓地にある息長田井中女命の碑建立者は発願者蔭福寺知興、喜連町有志とあり、善法寺の碑には開基住職川村智興とあり善法寺住職と同一人の建立と思われます。
『北村某の家記』に由来する『伝息長真若中つ比売陵』『伝忍坂大中津比売陵』ほか息長氏所縁の墳墓が喜連に存在するという大正期から昭和初期の大阪府全志・東成郡誌・喜連村誌の記述から近世・近年にかけての口承伝説です。
また万葉集(20-4458)の馬国人の詠み歌
鳰鳥(にほどり)の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽(ことつ)きめやも  古新未詳
この歌に詠みこまれた『息長川』を当時伎人郷在住の馬国人が遠く離れた北近江の川を詠み込むことは考えられない。当時の伎人郷の近辺を流れていた川に「息長川」と呼ばれる川が存在していたのだろうと推定。今川をその川に比定、これに府、市、郡、村誌等にも『今川=息長川』の記述があり一時期これが定説となっており因みに大阪府全志「摂津国東成郡」の記述では次のように述べられています。
今川は狭山池より発する西除川にして、河内国旧丹南郡の南野田・余部・太井を経て同八上郡大饗村を過ぎ、小寺村の界より同丹北郡の岡・高見・更池・向井経、高木村に至りて布忍(ぬのせ)川と呼ばれ、池内村を経、富田新田に出でて天道川と呼ばれ、当国旧住吉郡喜連村の西を流れて息長川の名を為し、桑津村の東に於いて依羅池(よさみいけ)より流れ来たれる巨麻川(こまかわ)を併せたるものなり。其の今川といへるに河道の古と頗る異れるより呼びし新名にして、旧名は河内川なりと摂津志には記せり。今川を入れたる平野川は更に流れて同郡猪飼野・新開荘を過ぎ、末は大和川に入れり。平野川を一に百済川といへるは、其の経過せる旧百済郡の名に因めるの古名にして、平野川といへるは後の名称なり。水源水路其れ此の如し、故に往時にありては、平時尚流水滔々たりしを以って、降雨溢水に際して被害の大なるものありしは、天平勝宝二年に伎人堤の決壊せしことの史上に身ゆるに徴して知らる、伎人堤は息長川の堤防をいへるなり。
この記事も「摂津志」の記述を参考にしているようで矛盾に満ちた記述で狭山西除川を息長川に比定しています。この伝説から古代「伎人郷」近くを流れていた平野川にも流域により「了意(りょうい)川」「百済川(くだら)」「河内(かわち)川」「竜華(りゅうげ)川」と呼ばれていました。また東除川も「針魚(はりを)川」「廿山(つづやま)川」と呼ばれていますが、それぞれの呼称には歴史と由来があります。喜連近辺を流れていた川に「息長川」の呼称をつけるにも理由があったと思われ私も前回の「万葉の息長川」の考察では喜連の息長伝説を「息長川」の由来と考えましたが、その後前回の考察を補強すべく再考察をはじめ、数々の疑問点に気付きました。前回の考察では先ず古代「伎人郷」近辺に「息長川」ありき、を前提に考察を進めたのが間違いの基でした。過去の出版物には今川即ち息長川説が強く、大阪府志・東成郡誌・喜連村誌による喜連村内の息長氏の墳墓伝説、伝息長真若中比売墳墓という広住塚、忍坂大中比売陵伝説の讃野皇山(山王塚)等、そして「北村某の家記」これは当初より疑義がありましたが、「息長川」ありきの先入観が強く失態を演じてしまいました。 
左写真
息長真若中比売の墳墓伝説のある広住塚で民間駐車場内の一角にある。


右写真 
この駐車場横にあった環濠清掃の折に出土したといわれる墓標で高さ約40㎝、程度の石柱にかろうじて息長真若中女まで読むことが出来ます。現在楯原神社境内に保存されています。
「伎人郷」を現喜連と推定しますと長吉台地や瓜破台地の下の沖積低地となり土地条件図に見られるような氾濫性の低湿地となります。このような由縁もない低湿地に応神妃であった息長真若中比売の墳墓を築造することは考えられず、古代天皇の生没年は不明の場合が多いのですが応神没年は「古事記」によると甲午(こうご)の年(394)九月九日。「日本書紀」では応神四十一年(310)春二月十五日になっていますが考古学界では古代天皇の崩年干支についての矛盾が指摘されており「書紀」の紀年について異論も多く例えば神功皇后の紀年が約百二十年程過去に繰り上がっていると本居宣長が指摘して以来この説が定説の様になっていますが、この説で計算しても、紀年の矛盾は解消せず、ここで紀年を百二十年繰り上げても応神元年は270年から390年になり、四世紀末~五世紀前半(古墳前期)となり「古事記」では宝算百三十歳、在位年数不明。「書紀」が宝算百十歳、在位年数四十一年なので即位は六十九歳になります。これから見ると近世喜連の低湿地に息長真若中つ比売の陵墓が築造されたとしても、それは古墳時代中期頃までと推測され、古墳後期~飛鳥時代の瓜破台地の馬池谷、東谷、西谷の頻発する洪水で跡形も無く崩壊しています。また伝忍坂大中津比売陵といわれる字地「山王」の一部についての発掘調査結果も「奈良時代の伎人郷」の項にある調査報告の通り、奈良時代~室町時代に至る建物跡や溝・井戸、KR99-1・KR00-1 では古墳時代中期の方墳2基と奈良~平安時代の掘立柱建物や溝・土壙を検出しています。また、字地「山王」の西側に当たるKR89-3で検出された室町時代の墳墓堂などは身分のある人の墓である可能性はあるものの年代に大きな相違もあり、允恭皇后陵とは程遠いものです。郡誌や村誌にあるその他の息長関連墳墓と言われるものも、歴史的に見てとても信じ難いものと言わざるを得ません。
広住塚は杙俣長日子王(くひまたながひこおう)の女(むすめ)で応神天皇の妃、息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)の墳墓であるとの伝説のある墳墓なのですが「日本書紀」によると 応神天皇は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)を母として(200)仲哀九年十二月に筑紫の蚊田(かだ)で天皇の第四子としてお生まれになったと記され神功皇后摂政三年(203)に立太子、皇后の摂政六十九年夏四月に皇后崩御され、翌270年に応神天皇即位。応神の即位時の年齢は七十歳になります。応神妃の息長真若中比売は生没年不詳ですが父の杙俣長日子王はともかく、祖父の息長田別王は実在が危ぶまれる人物であり、杙俣長日子王の杙俣と杭全に関連性を見出す説もありますが私は古代息長氏の実在は比定しませんが、出自や系図はいじりすぎて、現在「古事記」によって抽出できる息長系譜そのものが極めて信憑性の薄いものであり信じ難いものであることは「系譜に見る息長氏」で述べさせていただいた通りです。誰が何の目的でこのような矛盾に満ちた息長系譜を作成したのか全く謎ですが、こうした系譜をもってしても息長氏が古代の喜連に居住していた可能性はゼロです。また、現在では神功皇后(息長足比売)の実在を比定する学説が有力です。
それでは喜連の「息長伝説」とは何時頃から口承されだしたのか? これは私の独断と偏見による憶測ですが、「北村某の家記」と喜連の息長伝説は一体のもので、(1753)宝暦三年以前の(1735)享保二十年に発刊された「五畿内志」に刺激され、隣接する平野郷・熊野権現社(杭全神社)の発展にならい式内社である楯原神社と喜連村の村興しを意図して「北村某の家記」と喜連の息長伝説という創作物語が作られ、森幸安が「難波の古地図」他二図の「息長川」関連絵図を描き今川即ち息長川という伝説が完成したものではと憶測しています。(1704)宝永元年に大和川付替が行われ、西除川・東除川他狭山池からの灌漑水路が全て廃川、廃水路となり馬国人の万葉歌である『にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも』のとおり絶えた川の出現で格好の状況になったことも創作伝説を作成する動機になったと考えています。 

攝河の地に息長川は存在せず
   
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