「記紀」にみる  息長系譜の形成者達
米原市能登瀬(まいばらしのとせ)の天野川(旧息長川)に架かる息長橋で此の橋を渡った正面が息長氏の祖神を祀って創建されたと云われる、山津照神社ですが祭神は何故か国常立尊(くにとこたちのみこと)です。神社の前を左へゆきますと息長郵便局・息長小学校等・息長氏関連の塚の越古墳が存在し往古の息長郷の名残を感じさせます。また神社境内に前方後円墳があり、明治十五年の神社参道拡幅工事に際して発見され、家形石棺を納めた横穴式石室の存在が明らかになったもので、出土品から古墳時代後期の六世紀中葉頃の築造と推定され、神功皇后の父の息長宿禰王(弥生時代)の墓とする説もありましたが時代が違いすぎます。

         下の目次をクリックしていただくと当該ページへ移動します。

万葉歌
大伴家持の生涯
 攝河の地に
息長川は存在せず
 付替えられた大和川 
 平野川探訪 
万葉の息長川番外編
馬国人
万葉歌20-4458の詠み人
 伎人郷(くれひとのさと)
喜連の息長伝説の信憑性
   
日本古代史の考察で先ず始めに遭遇するのが、我が国最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」の二書です。この二書とも天武十年(681)に編纂が始まり、「古事記」は稗田阿礼(ひえだのあれい) が語り伝え「帝紀」 「旧辞」を太安万
(おおのやすまろ)が書き記して天地開闢から33代推古天皇までを全三卷に纏めて和銅五年(712)43代元明天皇に撰上されたと云われますが、「続日本紀」には「古事記」の撰上記述は無く、序文は太安萬侶の名を騙り後世に書かれたとする説が根強く存在します。亦「古事記」偽書説も存在します。
「日本書紀」は天武十年(681)に天武天皇の詔により川島皇子・忍壁皇子らによって編纂が始まり天地開闢から41代持統天皇までを記述され、養老四年(720)に全三十卷と系図一巻を舎人親王が奏上したと云われています。しかし系図一巻については伝わっておらず、その内容も紛失した時期も不明、逸文もなく、全く不明で、現在伝わっている「日本書紀」を完本とはいえません。亦、「日本書紀」の氏族系譜が文字系譜で簡潔なのは系譜一巻が付随していたので本文に於いて詳細な記述がなくとも系図一巻を見れば判るようになっていたという説もあります。「古事記」「日本書紀」ともに帝紀(ていき)・帝王日継(ていおうひつぎ)・旧辞(きゅうじ)・諸豪族の系譜等を参考に編纂されたようですが干支・天皇の宝算・治世年・古来の伝承等の多くに相違があります。此の両書に記されている記述がそのまま歴史的事実かというと疑問が在り特に五世紀以前については疑問と謎が山積して
おり、是れが我が国最古の歴史書かと目を疑う程です。「記紀」は同じ文献を元にして編纂されたと推定されたと思われますが、その原書となったのは帝紀と旧辞で帝紀は天皇の名・宮の所在・皇后・皇子女・天皇の事績・墓所・皇位継承の次第を記したもの。旧辞は各氏族の伝承・祭祀・系譜等を印したもので、これらの書は何時頃出来たのか我が国では何時頃から文字を使い始めたのか魏志倭人伝の正始元年(240)に倭王が使いをよこし表文を奉ったと記され、宗の文帝の元嘉2年(425)に倭国王の讃という者が表を奉り方物を献じたとあり
是れが事実なら、この時代に倭国王が中国王と書簡の交換をしていた事になり、中国との交渉に多少とも文字が使われていた事になります。この頃の文字使用は恐らく渡来人が代筆していたものと思われ7、8世紀のヤマト政権の筆録の職掌の史(ふひと)が帰化人の子孫であり、帰化人が文字を我が国に定着させ「書紀」の編纂にもこれらの帰化人が携わったようです。「書紀」は漢文で^編纂され中国・朝鮮史書からの引用も多く、中国・朝鮮の人達にも読めるように配慮された編集になっており、特徴として内容記事に紀年が付けられており、神代の巻には紀年記述はありませんが、紀元前六百六十年の神武天皇即位から編年体制の編纂がおこなわれています。暦や文字の無い時代しかも「日本書紀編纂時から千年も前の出来事にたいして、どうやって干支年や月日を挿入できたのか? という疑問が起き、この「紀年」や天皇の「宝算」が逆に記事の疑惑を呼ぶことになっていると思います。「書紀」の編者は初代神武天皇が即位した年から年数を数える紀年法を作成しており、それは中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいているといわれており、讖緯(しんい)年説では辛酉(しんゆう)の年に革命が起こるとしており、とくに十干十二支が二十一順する一千二百六十年ごとに大革命が起こるとされていて、そこで、神武天皇即位の年代を決めるときには、33代推古天皇九年(601)の辛酉(しんゆう)の年を基準とし、そこから一千二百六十年さかのぼって、紀元前六百六十年の辛酉の年が採用されたのだといわれています。しかし推古九年(601)年には大革命や特筆する様な事件は起きてなく、これは「書紀」の編者が神功皇后と魏志の卑弥呼を習合させるために中国の讖緯(しんい)説の利用で神功摂政元年を西暦二百一年に合致させ神功皇后を「三国志魏志東夷伝倭人条」の倭王、卑弥呼に比定させるために、此の紀年法を利用したのでしょう。西暦と日本歴に差異が生じたのは「書記」の編者が年代を伝えていない我が国の古伝承や旧辞にこの様な紀年法を用いたため初代神武天皇の即位日を推古天皇九年(601)の辛酉の年から一千二百六十年遡った紀元前六百六十年に設定した為、「書紀」の随所に年代矛盾が生じる事になります。其の為、古代天皇の年令に矛盾が生じたり、欠史八代と言われる時代が出現する事になります。我が国の古代史を語る上で欠くことが出来ないのが息長氏(おきながし)です、息長氏についての考察を進めるには「日本書紀」には14代仲哀天皇期に息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)の記述が突然現れるまで息長氏に関する記述は皆無の為、前半を「古事記」の記述に頼らざるを得ません。そこで「古事記」の記述にある息長氏の考察を後半は「日本書紀」の記述を交えて考察を進めてまいります。 

左「日本書紀」写本
右「古事記」写本
いずれも原本は伝わっておらず現在あるのは全て写本です。

 息長系譜の形成者達の目次 ご覧になる箇所をクリックして下さい
弥生人の寿命 初期息長系譜の形成者  ヤマトタケル命系
息長系譜の形成者

南山城の息長氏に
関する衝撃的な報道
神功皇后伝承の虚実を探る 広開土王碑文の証言 若沼毛二俣王
系譜の信憑性
継体天皇の出自と息長氏
 辛国息長大目命伝承 継体朝以降の息長氏 実在が実証される
息長氏族の人達

 息長系譜の形成者のまとめ

本文中の略称について
「古事記」は「記」。「日本書紀」は「書紀」の略称を使用し、双方の書を記す場合は「記紀」を使用します。人名については出来うる限り、ふり仮名をつけましたがペ-ジ中に復数回登場する場合は省略しています。
紀年は「書紀」の紀年で記しています。一部で推定紀年を使用していますがその場合は注記しています。
  ※()内は「書紀」紀年を西暦年に換算したものを記しています。
「記紀」「風土記」等に記されている古文書の漢字で入力しても皆さんがご覧になるときにはに変換される漢字があるため、出来うる限り原字のまま表記する様、努力しましたがマ-クのままの箇所もあるかと思いますがご容赦ください。現韓国の国名については記述の内容から古代の国名「朝鮮」を使用しています。
古代の「天皇」の呼称については不明で天皇の名が現在の様な漢風諡号で記されるのは飛鳥時代の40代天武天皇(673~686)時代からと云われ、それ以前は「王」「大王」と呼称されていたのではと言われますが、確たる文献史料もなく5世紀以前は「伝承」の時代で、その伝承も数十数百年も正しく伝承されて来た保証などない為、現代使用されている7世紀に淡海三船(おうみのみふね)によって造られたといわれる天皇の「漢風諡号」を使用しました。
(但し一部では和風諡号も併用しています。)
六世紀までは文字史料が皆無の時代であり、当時の日本の状況は中国史料により断片的に知るのみです。最もよく知られているのが「三国志魏志東夷伝倭人条」で通称「魏志倭人伝」でこの書により西暦二百年当時の日本の様相が断片的に知ることが出来るのみです。この倭人伝で伝えられる倭人の名は卑弥呼(ひみこ)・壱与(いよ・とよ)・難升米(なしめ)等であり、「記紀」に記される弥生期の倭人の名とは随分違っています。六世紀以前の人々が、使っていた倭人語とは 亦、倭人の文化や風習が六世紀まで正確に伝承されたのか 等の疑問があり、文字史料の無い時代の記述の矛盾や謎も山積し考察過程に於いて、その矛盾や謎を解明し解決策を見いだす能力は俄考古学ファンの私には無く、唯考察過程における疑問・謎を提起するのみです。
亦、本文の中では天皇の称号を用いていますが、天皇号が用いられたのは40代天武天皇時代からと云われます
それまでの統治者はどう呼ばれていたか不明ですが「大王」の呼称が通説の様ですが、本文中では便宜上一般的な天皇の漢風諡を使用しました。「記」の息長氏記述は日子坐王(ひこいますのみこ)系の息長水依比売(おきながみずよりひめ)と袁祁都(をけつ)比売の二系統に12代景行天皇の皇子、倭建命(やまとたけるのみこと)系の息長氏が加わり、更に15代応神天皇期には若沼毛二俣王系の息長氏が入り9代開化期に始まる息長氏の形成者達は実に複雑で多くの不自然さ・疑問・謎を含んでいます。開化期に日子坐王が実母の妹、袁祁都比売(をけつひめ)と異世代婚して出来る二系統と12代景行天皇の皇子、小碓命(をうすのみこと/後のヤマトタケル命)系の息長氏が習合して一体化されます。此の二系統の息長氏が全て開化期と景行期に文字系譜で記述され「記」には紀年記述が無い為それぞれが何時の時代の人か解らず、異世代婚も多く混迷し、「記紀」によるこの時代の天皇の寿命が不自然に長く、9開化天皇から15代応神天皇に至るまで八代の天皇の寿命の合計が「記」は九百三十年(神功皇后100歳含む)と異常に長く、開化期・景行期に記される息長系譜の形成者の人達を、此の天皇の年代にあわせると常軌を逸した寿命になる為、此の時代の人の平均寿命を調べて見たのが下記資料です。
弥生人の寿命
時代
縄文 31.1歳 31.3歳
弥生 30.0歳 29.2歳
古墳 30.5歳 34.5歳
室町 35.8歳 36.7歳
江戸 43.9歳 40.9歳
左はは縄文時代から江戸時代の日本人の平均寿命を古代人骨より推定したもの1967年に発表された「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」に基づくものです。各地から出土した人骨の古人類学に基づく推定死亡年齢から 平均余命を出す研究もなされています。日本各地から出土した満15歳以上の人骨(推定満15歳未満の人骨は誤差が多いので除去)の平均死亡年齢を左表のようにして抽出しています。亦、縄文・弥生時代の天皇の寿命が100歳を超えたのは事実とする説もあり「魏志倭人伝」の記述の中に「その人々(倭 人)は長寿で百
のことも八、九十歳になることもある」其の習俗では国の大人(首長)たちは皆四、五人の妻を持つ。下戸(一般民)でも或いは二、三人の妻を持つものがいる。婦人は淫せず。嫉妬することもない。盗みをせず訴訟も少ない。法を犯すものがいると、軽い場合にはその妻子を没収し、重い場合はにはその家族や一族全員を没収する。尊卑にはそれぞれ序列があり互いによく服従する。亦、「魏略には、「その俗、正歳四節(春夏秋冬)を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為すのみこの記述を以て春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を一年として数えていた、と云う「一年二歳論」を唱える説もあります。通称「魏志倭人伝」と呼ばれていますが、正式名は「三国志魏志東夷伝倭人条」でこの三国志は複数の歴史書・文献等から必要事項を抽出し西晋の陳寿(ちんじゅ)という人が3世紀後半に編纂した本なので、陳寿自身が倭国の状況を見聞したものでは無いため、その内容には矛盾や誇張もあると想われ、それが今日まで延々と邪馬壹国論争が続いて、なを結論が出ない原因ではないでしょうか。右に記載した倭人伝の倭人の寿命に関する記「其の人の寿考、或いは百年、或い八、九十年。その俗、国の大人、皆四五婦。下戸は或いは二三婦。婦人は淫せず。嫉妬せず。盗みをせず。訴訟は少なし。以下略「倭地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)。屋室有り、父母兄弟、臥息(がそく)処を異にす。朱丹を以て其の身体に塗る」「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」ともあるので、自国の気候と比べて温暖な地と黥面や朱丹を塗った人々を見て年令を見誤ったのでは。いずれにしても縄文・弥生人の寿命を「一年二歳論」や「寿考或いは百年、或いは八、九十年。」とは考え難い思考だと考えられます。
「記紀」の系譜記述は文字系譜で開化期の日子坐王系(ひこいますのみこ)・景行期の倭建系命(やまとたけるのみこと)系・応神期の若沼毛二俣王系譜と全て文字系譜でそれぞれ開化・景行・応神期に一括して記されているため、それぞれの人物が何時の時代の人か解りにくく、亦「書紀」では紀年が記されているものの「辛酉(しんゆう)革命説」を基に初代神武天皇の即位年を紀元前660年として起算している為、「記」の年代とも相違しますが初代神武から33推古天皇まで天皇の名前・代数は「記紀」共一致しているが年令・生没年は異なり、息長系譜の形成者の人達の活動期等が解りにくく、「書紀」では息長氏の記述は「神功皇后」までなく「記」の記述のみなので9開化から14仲哀期までの記述は全て「記」の記述に基づくものです。(一部「書紀」記事も有り)
初期息長系譜の形成者
本文は表題「「記紀」に見る息長氏族の形成者」故「記」の記述に基づき息長氏の始祖の開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいますのみこ)の誕生から記します。開化天皇は旦波(たにわ/丹波)の大県主(たにはのおおあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)が女(むすめ)竹野比売(たけのひめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)一柱。また庶母(ままはは)伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)に娶ひて生みませる御子、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10崇神天皇)次に御真津比売命(みまつひめのみこと)二柱。亦、丸迩臣(わにのおみ)が祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売(おけつひめ)に娶ひて生みませる御子は日子坐王(ひこいますのみこ)一柱。また葛城垂見宿祢(かつらぎのたるみのすくね)が女(むすめ)、?比売(わしひめ)に娶ひて生みませる御子、建豊波豆羅和気王(たけとよはずらわけのみこ)一柱。此の天皇の御子等、併せて五柱。 ①は代数を表す   下は日子坐王の御子系譜。 日子坐王には四人の妃と十五人の御子がいます。その中で息長水依比売(おきながみずよりひめ)と実母の妹、袁祁都比売(をけつひめ)と異世代婚(叔母と甥)します。水依比売と袁祁都比売(おけつひめ)の二系統が直接、息長氏と関連する系譜です。 日子坐王と四人の妃との間に生まれた御子達は下表参照。
日子坐王が天之御影神(あめのみかげのかみ)の女(むすめ)息長水依比売(おきながみずよりひめ)に娶(めと)ひて生める子、丹波の比古多々?美知宇斯斯王・水穂之真若比売(みずほのまわかひめ)・神大根王(かむおほねのみこ)・水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)・御井津比売(みいつひめ)の五柱。丹波の比古多々?美知宇斯斯王は丹波之河上之摩須朗女(た
はのかはかみのますのいらつめ)と婚姻して生める子、氷羽州比売(ひばすひめ)・真砥野比売(まとのひめ)・弟比売(おとひめ)・朝廷庭別別王(みかどわけのみこ)の四柱。氷羽州比売は11垂仁天皇の皇后となり生みませる皇子、印色之入日子命(いにしきのいりひのみこ)・大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと/12景行天皇)・大中津日子命(おほなかつひこのみこと)・倭比売(やまとひめ)・若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱。此の美知宇斯斯王の弟、水之穂真若王は近淡海(ちか
つあふみ)の安直(やすのあたひ)が祖。神大根王は三野の国の本巣国の造(もとすのくにのみやつこ)、長幡部連(ながはたべのむらじ)が祖。此処での「記紀」の記事相違は「記」では丹波道主王は息長水依比売の御子ですが「書紀」では丹波道主・狭穂日子・狭穂比売が彦坐王(ひこいますのみこ)の御子になっている。息長水依比売は天御影神の女(むすめ)と「記」は記しますが天御影神とは天照大御神(あまてらすおほみかみ)が素戔嗚命(すさのをのみこと)と誓約の際に天照大御神の玉から生まれた男神五柱の中の第三子の天津日子根命(あまつひこねのみこと)で、その子が天之御影神で天照大御神の孫になります。息長水依比売は開化天皇の皇子,日子坐王(ひこいますのみこ)に娶(めと)ひたとあり、神話の天之御影神の娘とするには時代が離れすぎます。亦、天之御影神を祀る 滋賀県の三上神社由緒にも息長水依比売についての記述は無く、神話では天之御影神は針間荒田道主日女命(はりまのあらたみちぬしひめのみこと)を娶(めと)って意富伊我都命(おおいかつのみこと)を生んだとされます。天之御影神は金工鍛冶の祖神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と習合されていおり、此の神は孝霊天皇の時代に近江の三上山の山頂に降臨したのが御上神社創建の始まりとされます。それでは息長水依比売の出生と云うと何等のてがかりもなく不明です。一説に依ると息長水依比売は天之御影命を奉斎する三上氏の祖、国忍富命(くにおしとみのみこと)の女(むすめ)で三上氏から息長氏に養女に出されたとの説もありますが、息長水依比売より前に息長姓の氏族は存在しません故、養女云々の話は根拠のない説話の類いです。息長水依比売の出自は定かではありませんが、系譜は 注目に値する系譜ですが 「記」も何故か息長水依比売の記述は簡略な記述になっています。「系譜の書」である「記」らしからぬ記述です。垂仁天皇の皇后となった日葉酢媛(ひばすひめ/「記」では氷羽州比売・日婆?比売)は三柱の皇子と二柱の皇女を生まれます。第二子の皇子をば大足彦尊(おほたらしひこのみこと)で後の12景行天皇です。系譜によると息長水依比売の孫娘が皇室に嫁ぎ、水依比売は11垂仁天皇の外曾母となります。しかし「記紀」共に此の息長水依比売系譜を伝えず、「書紀」は丹波道主の記述のみで、景行天皇について大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/景行)は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/垂仁)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)ともうす。丹波道主王の女なり。活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年二十一とあり。
「書紀」は景行天皇崩御時の年百六歳と記します。是では即位時四十七歳となり、立太子した垂仁三十七年には未だ生まれていないことになる。亦、立太子時の年令二十一とすると即位時は八十四歳で崩御時は百四十三歳になる。因みに「記」は崩御時の年令を百三十七歳とする。
「記」の水依比売系?美知宇斯王の子が比婆?比売・真砥野比売・弟比売・朝廷別王の三女一男ですが垂仁期では比婆?比売・弟比売・歌凝比売(ウタゴリヒメ)・円野比売の四女に変わっています。
亦、崇神期の四道将軍派遣記述では「記」は日子坐王を丹波へ派遣としていますが「書紀」は丹波道主王が丹波へ派遣されていますが道主の名は頭に丹波が付くので、丹波が彼の勢力地であったと推察され、自分の勢力地に道主王が派遣される事は理解し難い事です。「書紀」垂仁期一伝には丹波道主王は彦湯隅王(ひこゆむすみのみこ)の子と云う。と記されます。
 
上写真  左御上神社           三上山(近江富士とも呼ばれる)        御上神社の楼門
御上神社の創建は孝霊天皇(前290~215)の時代に天之御影神が三上山の山頂に降臨し、それを御上祝(ほふり)が三上山を神体として祀ったのに始まると云われ、養老2年(718)に藤原不比等によって遥拝所のあった三上山麓の現在地に社殿が建立されたと云われます。亦、三上山麓の発掘調査で24個の銅鐸が発見されており、三上山周辺では古来から祭祀が行われていたと考えられています。
「記」日子坐王は、開化天皇が丸迩(わに)氏の祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹意祁都比売(おけつひめ)を娶(めと)ひて生んだ皇子で丸迩(わに)氏との結びつきが強く丸迩(わに)氏の御子と云っても過言ではなく、日子坐王が実母の妹、袁祁都比売(をけつひめ)と姨と甥の異世代で、丸迩(わに)氏の腹に生まれた日子坐王が丸迩 氏の娘と異常な異世代婚して生まれるのが山代の大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)、比古意(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)の三柱。丸迩氏の出自については二世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説があります。亦、ワニ氏は奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持ち、現天理市和爾(わに)町・櫟本(いちのもと)町付近(旧大和国添上郡和邇と添下郡)から奈良の春日までの地域一帯を本貫地とし、木津川沿いに山代から勢力圏を広げていったと云われます。日子坐王の二柱の御子は南山背(みなみやましろ)に居住したものと推測されます。大筒木真若王は同母弟の伊理泥王の女(むすめ)、丹波の阿治佐波?売(たにはのあぢさはびめ)と異世代婚(叔父と姪)して生まれるのが迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)此の王、丹波の遠津臣(たにはのとほつおみ)が女(むすめ)、高杙比売(たかくいひめ)に娶(めと)ひて生める子、息長宿祢王(おきながすくねのみこ)此の王、新羅王の子と云う天日矛(アメノヒホコ)七世の孫、葛城の高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)に娶(めと)ひて生める子、息長帯比売(おきながたらしひめ)・虚空津比比売(そらつひめ)・息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱。また宿祢王は、河俣稲依?(かはまたのいなよりびめ)に娶(めと)ひて大多牟坂王(おほたむさかのみこ)が生まれます。大多牟坂王は多遅摩(たぢま)の国造(くにのみやつこ)が祖なりと記されています。この系譜の疑問は日子坐王四代の孫として誕生する息長宿祢王から何故で息長を名乗る子が生まれるのか。祖父・父も和迩(わに)系である子が何故「息長」なのか
上写真左 和邇下神社 中 神社は古墳上に鎮座する説明板 右 和邇下古墳ワニ氏関連の古墳と推定されるが被葬者不明丸迩氏は和邇とも記され5世紀~6世紀にかけて大和国添上郡和邇(現天理市和邇町櫟本(いちのもと)付近を本貫地として山城・近江・丹波・丹後・北陸地方に勢力を伸ばしたと云われています。亦、和邇氏の出自は5代孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしのみこと)とされますが、朝鮮系の渡来鍛冶集団とする説や、漁労・航海術に優れた海人族であったとする説もありますが定説はありません。
そして宿祢王は新羅系の葛城高額比売と婚姻しているのはのは宿祢王と天之日矛(アメノヒホコ)系の人達との関係はどうして出来たのか?。亦、天之日矛の本拠は但馬で、葛城高額比売は遠く離れた大和の葛城に居住しているのは、古代の葛城にも多くの渡来人が居住しており、その関係で天之日矛系の人も但馬から葛城に移住した人もある様です。息長宿祢王は葛城高額比売に娶ひて息長帯比売(おきながたらしひめ)・虚空津比売(そらつひめ)・息長日子王(おきながひこのみこ/此の王は吉備品遅君(きびほむちのきみ)・針間阿宗君の祖)の三柱が生まれます。息長帯比売は14仲哀天皇の后となり亦の名神功皇后(じんぐうこうごう)となります。また宿祢王は、河俣稲依?(かはまたのいなよりびめ)に娶(めと)ひて大多牟坂王(おほたむさかのみこ)が生まれます。大多牟坂王は多遅摩(たぢま)の国造(くにのみやつこ)が祖なり。と記されています。山代之大筒木真若王その子迦邇米雷王は何れも南山代(みなみやましろ)の土地に由?の名ですが、迦邇米雷王が丹波の高杙比売(たかくいひめ)を娶り生まれた子が何故、息長姓なのか。宿祢王の父や祖父の定住地である山代(やましろ)国綴喜(つづき)郡と推定されますが、此の地に宿祢王に関する何等の伝承もなく息長姓と共に定住地も謎です。息長宿禰王の定住地について北近江の坂田郡とする説がありますが、亦、近江国坂田郡にある山津照神社古墳が息長宿禰王の古墳という伝承が有りましたが、明治15年の神社社殿の移築工事中に古墳後円部から横穴石室を発見、石室内の出土品から、築造年代は6世紀中頃と推定され息長宿禰王とは年代がかけ離れており被葬者不明となっています。また延喜式神名帳の坂田郡五座の一つで神功皇后戦勝祈願復員の時にお礼として建立したと伝えられる日撫(ひなで)神社があり祭神は息長宿祢王・応神天皇・少毘古名命(すくなひこなのみこと)としますが息長宿祢王が此の地に定住した根拠にはなりません。亦、近江の坂田郡が息長氏の本貫地となるのは応神期の若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)の子、大朗子(意富々等王おほほどのみこ)が北近江の坂田郡へ行ってからですから年代も違います。
上写真 左から近江国坂田郡(現米原市能登瀬)旧息長郷にある山津照神社古墳で此の地は息長氏の本貫地として日子坐王三世の孫息息長宿禰王の陵墓と云う伝承が有りました。1994年には京都大学が調査した結果6世紀中頃の築造とされ息長宿禰王とは年代がが違いますが、此の地が息長氏の本貫地であり、息長氏関連の首長墓と推定されますが被葬者名の特定は出来ませんでした。 中写真は明治15年(1882)神社工事の際、古墳発見時の記録画です。右図は1994年の調査時に作成された古墳の調査図。
日子坐王系の息長氏形成者は十一人中息長姓の人が四人。宿祢王と天之日矛七代の後裔、葛城高額比売の婚姻にも疑義があります。ヒホコの渡来年月も定かではなく、「書紀」の記す垂仁期の渡来が正しいとすると七代目の孫娘が景行期の人、宿祢王との婚姻は有り得ないことです。宿祢王の子の息長帯比売は14仲哀天皇の皇后となります。虚空津比売については何等の記述もなく、息長日子王は吉備の品遅(ほむち)の君・針間の阿宗(あそ)の君と記されます。吉備に日子王の足跡は見いだせ無かったが播磨(兵庫県たつの市)に阿宗神社があるとの事で訪れました。兵庫県たつの市誉田町広山にある式内社であるが、神社の創建由緒・時期等は不明で現在の主祭神は神功皇后(息長帯比売)配祀神は応神天皇・玉依姫命・息長日子王。主神転倒で本来なら主神であるべき息長日子王は配祀神の末にかろうじて其の名を留めるのみ日子王は系譜に針間の阿宗(あそ)の君と記されるも何等の事績等も伝わらず阿宗神社の配祀神の末端に其の名を留めるのみ。応神天皇が其の名を連ねるのは解るが玉依姫命が配神とは理解にくるしみます。当神社は明治初年の神仏分離令までは隣町の斑鳩(いかるが)寺の別当が管理していたそうです。隣町の斑鳩寺と聞いて「書紀、推古天皇」の項に聖徳太子が天皇に法華経のお話をされ天皇は、大変慶ばれ播磨国揖保の郡に水田百町を賜った記述の記憶があり、その時太子が立てられた寺院かと訪ねてみると正に、その寺院でした。往古には、七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べていたそうですが中世の戦乱により焼失し、天文10年(1541)再建されたそうです。写真の様に堂々とした立派な寺院でした。太子生誕地の大和の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだライン延長上に此の斑鳩寺が位置しているとの伝承があります。この寺院にも阿宗神社のことを知る人もいなく日子王についは不明です。
兵庫県たつの市誉田広山にある阿宗神社 主祭神 神功皇后(息長帯比売) 配祀神 応神天皇・玉依姫・息長日子王 兵庫県揖保郡太子町鵤にある聖徳太子建立の斑鳩寺
山代大筒木真若王の子、迦邇米雷王の名も木津川を挟んだ対岸の相楽郡蟹幡(かむはた)郷で「蟹の恩がえし」で知られた蟹満寺(かにまんじ)があり、この地名に由来したものとの伝承があります。考古学者の塚口義信氏の研究により現京田辺市普賢寺小田垣内にある十一面観音で有名な普賢寺(ふけんじ)が有り、此の寺の裏山を「息長山」と呼ばれてた時代があり、息長氏の南山城居住を窺わせる資料として「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」があり、その中に中世文書ですが嘉吉元年(1441)に記された「普賢寺補略録」が在り『朱智天神神 右寺鎮守。在郷西之山上祭所。山代大筒城真若王之児。迦邇米雷王命相殿。素戔嗚命。号大宝天王。新宮天王。在多々良村』の文書にある朱智神社は京都府京田辺市天王高ケ峰にあり祭神は迦爾米雷王を主神として建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと/牛頭天王)天照国照彦火明命(あまてらくにてるひこほあかりのみこと)の三柱が祀られています。 天照国照彦火明命(あめのほあかりのみこと)とは天孫降臨の際に登場する神で天忍穂耳命(あめりおしほみみのみこと)と万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)の間に生まれ、邇々芸命(ににぎのみこと)の兄にあたる神で、此の神が何故、朱智神社に配神されているのか疑問です。亦、神社境内に「牛頭天王」と刻まれた石灯籠があり牛頭天王=建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)との習合神であり、本殿内には木彫りの牛頭天王像があり、神社由緒によると仁徳天皇の六十九年(381)に、社殿を建てて、朱智天王(しゅちてんのう)祇園御霊会(ぎおんみたまえ)は貞観十一年(869)に牛頭天王を勧請したのが京都の八坂神社の起源とされますが牛頭天王の勧請元が朱智神社とわ、そのことから朱智神社は元祇園社と呼ばれていたそうで、祇園祭に際しては 朱智神社の氏子が奉じた榊を天王区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷(さかきうつし)」という行事がありその榊を受けて山鉾巡行を始めたと言い伝えられています。とありますが、京都祇園の八坂神社には朱智神社からの「榊遷」の伝承は伝わっていない様です。祇園社の創建に関しては諸説があり定説は無い様です。八坂神社の名称や素戔嗚尊を祭神として
から神社ではなく寺とみなされていたためと見られます。八坂神社の由緒によると斉明天皇二年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したこに始まるという。伊利之の来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神(いそたけるのかみ)とともに高天原から降臨した地が新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、「記紀」にも記されてます。亦、天長六年(829)に紀百継(きのももつぐ)に、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされて子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円 (ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いています。右記の「八坂郷鎮座大神之記」によると八坂郷に牛頭天王が祀られたのは斉明天皇(656)以後のことになります。朱智神社の由緒では創建時の  ※上は八坂郷鎮座大神之記    祭神は迦邇米雷王で50桓武天皇(806)時代に牛頭天王(ごずてんおう)その後、清和天皇858~876)の時代に牛頭天王・ススサノヲ命を京都の八坂郷の祇園社に移したと記されていますが、神社に伝来する牛頭天王像や牛頭天王の石灯籠の建立時期が読み取り困難である等から神社創建当時の祭神については牛頭天王(スサノヲ)説が有力と推察されます。迦迩米雷王の合祀年月は不明ですが、かなり後年の事と思われます。亦、北近江の息長の祖は若沼毛二俣王の子、大朗子(おほいらつこ/意富々杼王おほほどのみこ)とされますが、王は応神天皇の孫にあたり17履中天皇時代の人になり,「記」には意富々杼王が息長君・酒人君・波多君等の祖と記されています。此の地域の姉川流域に坂田古墳群があり下がって天野川(旧息長川)流域に息長古墳群が散在します。これらの古墳群について近年調査・研究がが進展し築造年代が坂田古墳群は4世紀頃とされ。息長古墳群では伝若野毛二俣王憤とされる垣籠古墳(かいがごめこふん)は明治15年、35年に前方部が開墾され竪穴石室には朱がひかれ、人骨・乳文鏡・剣・勾玉等の出土品から古墳の築造年代は5世紀初頭と推定。そのほか山津照神社古墳・塚の越古墳等が6世紀代で坂田古墳群より約一世紀遅れている。息長古墳群については山津照神社古墳・塚の越古墳で見られる副葬品や金・銅製装身具や馬具等の装身具は朝鮮半島との交流を窺わせる。これらから見て意富々杼王が北近江の息長・坂田氏等の開祖説に疑問があります。
右「書紀」系譜での疑問は垂仁期に狭穂彦王は反逆事件を起こし垂仁皇后の妹の狭穂姫をも無理に事件に巻き込み天皇の鎮圧軍に攻められ稲城に焼死します。
後の皇后に丹波道王の女、日葉州姫を入内させますが丹
波道主王は反逆者、狭穂彦王の弟です。いくら古代といえども反逆者の弟の女(むすめ)を皇后に迎えるなど有り得ない事です。
上左系譜は「書紀」の彦坐王(ひこいますのみこ)系譜。開化天皇、庶母伊香色謎命(ままははいかがしこめのみこと)を皇后に立て御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと/10崇神天皇)を生む。次に天皇は和迩(わに)氏の娘、姥津姫(ははつひめ)を娶(めと)り①彦坐王(ひこいますのみこ)が生まれ、彦坐王は婚姻者不祥で狭穂彦王・狭穂姫・丹波道主王の三柱の御子を生みます。亦、是より先丹波の竹野媛を娶り彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生む。右の系譜は「記」の日子坐王系譜。庶母伊香色謎命(ままははいかがしこめのみこと)は8孝元天皇に娶ひて比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでいます。9開化天皇は伊香色謎命を立てて皇后とします。開化にとって庶母になります。 「書紀」の丹波道主王は「記」の丹波之比古多多?美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)と同一人物と思われますが「書紀」では彦坐王の子になっています。  「書紀」の姥津媛は「記」の意祁都比売と同一人物で彦坐王を生み「書紀」の丹波道主王と「記」の丹波比古多々須美知宇斯王も同一人物ですが「記紀」で出生が大きく相違します。
上系譜は左は崇神期に天皇に反逆事件を起こした武埴安彦の系譜。彼は8孝元天皇の皇子です。その皇子が10崇神天皇の御代に反逆事件を起こすなど不自然です。
「書紀」によると、崇神天皇10年(前88)に所謂四道将軍派遣を行い「書紀」によると北陸へ大彦命(おおひこのみこと)
東海へ武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・西之道へ吉備津彦命(きびつひこのみこと)・丹波へ丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)を派遣します。「記」も同じく各道への派遣記述がありますが西之道には派遣が無く丹波へは日子坐王(ひこいますのみこ)を遣わし、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまふ、とありこの時代の「丹波国」は丹後国、但馬国を含みます。派遣は三道で「書紀」との違が目立ちます。
北陸 東海 西之道 丹波
「書紀」 大彦命 武渟川別 吉備津彦 丹波道主
「記」 大?古命 建沼河別 日子坐王
崇神天皇と日子坐王は異母兄弟になります。此処でも「記紀」で説話の内容は違うが王族による国家平定説話で初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆したものでまた、是と重複しますが8孝元天皇
の皇子、武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反事件があり大彦命は北陸道行きを中断して和迩臣が祖、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)と共に武埴安彦の謀反鎮圧に山代(やましろ)の木津川を挟んで対陣し武埴安彦は日子国夫玖命の放った矢に当たり死ぬと「記紀」は記すが、京都府精華町に戦闘で敗れた武埴安彦命が斬首された場所と伝わる旧跡があります。この戦闘が行われた地域は日子坐王系息長氏の大筒木真若王や山代之荏名津比売(苅幡戸弁)の居住地でもあり此の謀反事件に無関係では居られなかったと思われるが何等の記述もなく、亦、此の木津川を挟む、さして広くもない地域に和迩氏や大筒木真若王や荏名津氏さらに武埴安彦等の有力者が割拠してい
たのだろうか。この地域から木津川を挟んだ対岸に三世紀末の築造の前方後円墳の椿井大塚山古墳があり昭和28年(1953)国鉄奈良線の拡幅工事の時に偶然にも竪穴石室が発見され、その後の発掘調査で石室内から40面近い中国鏡が出土、その内32面が「三角縁神獣鏡」で考古学会の注目を集めました。そのほか多量の鉄製品と武具・武器・農耕具・漁具等の大量の埋葬品が出土し、これらの出土品から被葬者は此の木津川沿岸一帯の支配者であったと推定され
ます。古墳は古代の山背(やましろ)古道の一部で此の狭い地域に幾人もの有力氏族が割拠したのであろうか。此の古墳の被葬者は不明ですが、古代の此の地は日本海側から琵琶湖・淀川・木津川をえてヤマト政権の本拠地である三輪・纏向への重要な物資の輸送ル-トである此の地を支配していたのが当古墳の主であったと推定しています。此の椿井大塚山古墳の被葬者については10崇神天皇という説もあります。崇神期に活動期を迎える日子坐王系の息長氏族は二世の人達ですが「記紀」に記されるのは日子坐王と丹波道主王のみです。「書紀」崇神六十八年(前30)冬十二月五日天皇崩(かむあが)りましぬ。時に年百二十歳。「記」は天皇、御年百六十八歳、戊寅(つちのえとら)の年の十二月崩(かむあが)りましぬ。(干支注記の初出)「記紀」で享年、崩年も異なります。「記」の戊寅年(つちのえとらとし)を多くの考古学者は西暦318年と推定しています。日子坐王は晩年三野国(美濃国)の国造(くにのみやつこ)に赴任した神大根王(かむおほねのみこ)の許に身を寄せ其処で亡くなったと云われ宮内庁の管理する墓がある。亦、日子坐王は丹波・丹後地方に居住し、此の地で亡くなったとの説もあります。
岐阜市岩田西にある伝日子坐王墓 日子坐王の墓 日子坐王の墓内には自然石があるのみ
  上の写真は岐阜にある日子坐王の墓地伝承地で宮内庁が管理している。
下の写真は兵庫県丹波篠山市東本荘の雲部車塚(うんべくるまつか)古墳で地元では日子坐王・丹波道主王の古墳と云う伝承があり、宮内庁が陵墓参考地として管理しています。道主王は名の頭に丹波が付き居住地が丹波で有ったと思われ、日子坐王は崇神期に四道将軍の派遣で丹波国に遣わされ玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまふ。と「記」は記すので私は日子坐王が其の後の丹波の支配者となったと推定しています。丹波は日子坐王系の息長氏とも繋がりのある地域です。古代の鉄の産地としても知られており「記」の記述では息長氏の婚姻先として丹波・丹後が復数回登場します。亦、天之日矛は但馬に居住し、その地の俣尾が女(むすめ)前津見と婚姻しています。但馬・丹後・丹波は古代の鉄の産地であり此処を制したのは日子坐王か天之日矛か
上写真左 伝日子坐王墓とされる雲部車塚古墳    中 古墳出土の石棺図      右 日子坐王を祀る網野神社
雲部車塚古墳の被葬者は不明ですが、宮内庁により雲部陵墓参考地として日子坐王・丹波道主王の陵墓参考地に治定されています。
中写真の石棺は明治29年(1896)に古墳の発掘調査が行われた時の石棺図。この竪穴式石室が後円部中央でなく南寄りに位置することから、埋葬施設が複数あった可能性が指摘されています。
左写真は網野神社この神社の祭神は日子坐王。亦、丹後半島の伝承である浦島伝説の水江浦嶋子神(みずのえのうらしまこのかみ)と住吉大神も合祀されています。
『郎女』(いらつめ)の用語が随所に出て来ますが、その意味について辞書を引きましたが何れも不明。
古代 若い女性を親しんで呼んだ語とでも推測しましたが
「書紀」の一節を引用 景行二年(720)春三月の丙寅(ひのえとら)の朔戊辰(ついたちつちのえたつ)に播磨稲日大朗姫(はりまのいなびのおおいらつめ) 一に云わく稲日稚朗姫(いなびのわきのいらつめ)と云う。郎姫、此をば異?咩(いらつめ)と云う 「古語辞典」に上代語 女性を敬愛して呼ぶ語とありました。
ヤマトタケル命系息長系譜の形成者
「書紀」12代景行天は11垂仁天皇の第三子なり。母の后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。垂仁天皇の三十七年に立ちて皇太子と為りたまふ。時に年二十一。 垂仁2年の春三月に播磨稲日大朗姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて后とす。后は二柱の男を生まれます第一に大碓命(おうすのみこと)次に小碓命(をうすのみこと/亦の名日本武尊ヤマトタケルのみこと)と曰(まう)化す。二人は一日
にして同じ胞(え)にして双(ふたご)に生まれませり。「記」景行天皇、吉備臣が祖、若健吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間伊那?能大朗女(はりまのいなびのおほいらつめ)に娶ひて生みませる御子、櫛角別王くしつのわけのみこ)(・大碓命(おほうすのみこ)・小碓命(をうすのみこ)・倭根子命(やまとねこのみこと)・神櫛王(かむくしのみこ)の五柱。※小碓命の別名倭健命(ヤマトタケル命) 「記」では開化期から景行期までの日子坐王系息長系譜に新たにヤマトタケル系の息長氏が加わります。ヤマトタケル命は垂仁天皇の女(むすめ)、布多遅能伊理?売(ふたぢのいりびめ)にも娶(めと)ひて生まれませる御子、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)一柱。また其の海に入れる弟橘比売(おとたちばなひめ)に娶ひて生まれませる御子、若健王(わかたけのみこ)一柱。一妻(あるみめ/名不祥)に娶(めと)ひて生まれたのが息長田別王(おきながたわけのみこ)、此の王、がヤマトタケル命系息長氏の祖になります。此の王も婚姻者不祥で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、此の王も婚姻者不祥で飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)・息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)・・弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁ももしきいろべ)の三柱の女性が生まれます。長女の飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)は弟橘比売の子、若健王(わかたけのみこ)と異世代婚し、息長真若中比売は15応神天皇の妃となり若野毛二俣王を生み、其の王が母の妹、弟比売(百師木伊呂弁/モモシキマワカ)と異世代婚(日子坐王と同じ形の姨と甥)して生まれるのが大朗子(おほいらつこ/意富々杼王おほほどのみこ)・忍坂之大中津比売(おさかのおほなかつひめ)・田井之中比売(たいのなかひめ)・田宮之中比売(たみやのなかひめ)・藤原之琴節朗女(ふじはらのことふしのいらつめ)・取売王(とりめのみこ)・沙禰王(さねのみこ)の七柱。長男の意富々杼王(おおほのみこ)三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖と記されます。「上宮記曰一伝(うえみやきいわくいちでん)」系譜によると、此の意富々等王(おおほどのみこ)
乎非王(おひのみこ)-汗斯王(うしのみこ)-乎
富等大公王(おほどのおおきみ/継体天皇)と繋がっています。 忍坂之大中津比売は19允恭天皇の皇后になり安康・雄略の二天皇他七柱の皇子女を生む。藤原之琴節朗女は允恭記天皇の妃となります。「記紀」の系譜記述を読んでいると異世代婚が多くそれも一世代ぐらいなら未だしも数世代離れた異世代婚になると唖然とします。亦、実に不可解や謎に満ちた記述もあり、これらが到底歴史的事実とは思えません。息長系譜の大部分が応神以前にありこれらの記述が我が国最古の歴史書かと 目を疑いたくなります。
亦、景行天皇については「非実在説」が存在します。景行天皇の事績の大部分が「記紀」の記事によるとヤマトタケル命の熊襲・蝦夷の征討説話であり天皇自身の事績は少なく、天皇が宮都とした志賀高穴穂宮は考古学的には実在に疑問があり、天皇の実在と其の子ヤマトタケル命の実在にも疑問があるという事になります。吾が国の五世紀以前の歴史については文字資料もなく全くの口承伝承の時代で、発掘調査による出土遺物・建物跡等により当時を推察する以外に方法は無く、「記紀」の矛盾と・謎・不可解な記述を参考に
発掘調査により当時を推察するしかありません。下のヤマトがタケル命の系譜にも謎と疑問が山積しています。此処でもヤマトタケルと一妻の子が何故、「息長」なのでしょうか、そして婚姻者不祥で生まれた息長田別王の子が杙俣長日子王で、此の王も婚姻者不祥で三人の娘が生まれ、其の一人が息長真若中比売と「息長」性です。此の息長真若中比売が応神天皇の后となり若沼毛二俣王が生まれ、此の王が母、息長真若中比売の妹弟比売亦の名百師木伊呂弁(ももしきいろべ)と婚姻(異世代婚)して大朗子(おおいらっこ/意富々杼王(おほほどのみこ))他六人の御子が生まれて、意富々杼王が北近江の息長氏の祖になります。  
下系図の名前のあたまに①ついているのは初代からの代数です。ヤマトタケルとその妃達を初代として順に代数をいれています。
■ヤマトタケル命が出生不祥の一妻(あるみめ)に娶ひて生まれたのが息長田別王(おきながわけのみこ)でヤマトタケル命系の御子二世になるとともに同系息長氏の始祖でもあり、此の王、婚姻者不祥でで生まれたのが、杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)で三世にな杼り、此の王も婚姻者不祥で四世に飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)・息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)・弟比売(おとひめ/亦の名ももしきいろべ)の三人の御子が生まれ、此の三柱の比売達は倭健命から四代目に当たり此の倭建命の記述を追って作成したのが右記の系譜ですが年代矛盾を来たす不可解な系譜になります。亦、「系譜の書」と云われる「記」に一妻・息長田別王・杙俣長日子王の出生・婚姻者不祥とはまた三代にわたって出生・婚姻者不祥で子のみ氏名記載とは実に不可解です。一妻の子の名から息長氏の女性であることが推定できるという考古学者もいますが「記」の編纂者が氏名不祥としているからには編纂時点においても解らなかったのでしょう。
■次ののヤマトタケル命をめぐる系譜も実に不可解な系譜です。からはのヤマトタケル命から数えての世代数です。倭建命四代の孫、飯野真黒比売が弟橘比売の子で二世の孫、若健王(わかたけのみこ)と異世代婚して須売伊呂大中津日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)を生み、此の王、淡海之柴野入杵(あふみのしばのいりき)が女、柴野比売と婚姻して生まれるのがヤマトタケルから六代目に当たる詞具呂比売(かぐろひめ)
生まれ、此の比売が倭建命の父の12景行天皇と異世婚すると云う、実に不可解な出来事が発生して生まれたのが大江王(大枝王)一柱。此の王、庶妹(ままいもうと)の銀王(しろがねのみこ)と婚姻して大名方王(おほながたのみこ)・大中比売の二柱を生む。 此の大中比売は14仲哀
庶妹、銀王とは男名のようですが女性で景行天皇の皇女なので異母妹になる。  天皇の妃となり香坂王(こうさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)二柱の皇子を生む。亦、14仲哀天皇は息長帯比売(おきながたらしひめ)を皇后として品夜和気命(ほむやわけのみこと)・大鞆和気命(おほともわけのみこと)二柱の皇子を生む。大鞆和気命亦の名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)ともうし後の15応神天皇で香坂王・忍熊王は年の離れた異母兄弟になる。応神天天皇は息長真若中比売を妃として若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)が生まれ、此の王、実母の妹、百師木伊呂弁と異世代婚(姨と甥の)して大朗子(意富々杼王/おほほどの
みこ)・忍坂大中津比売(おさかのおほなかつひめ)他五柱の御子を生み、大朗子(意富々杼王)は息長の君、坂田酒人君、三国の君等の祖と記されるので北近江の息長氏の祖と推測される。忍坂大中津比売は19允恭天皇の皇后となり20安康・21雄略天皇他七柱の皇子女を生み、允恭天皇の崩御後も生存していた記録が「書紀」雄略二年十月条に記される。
■景行天皇と迦具漏比売の間に生まれた大江王の女(むすめ)大中比売が仲哀天皇の妃大中比売、迦具漏比売の系譜なら大中比売はヤマトタケルの6代目になりヤマトタケル系、仲哀天皇の妃になるのはとうてい無理があります。ところが、景行天皇から数えると自然になるのです。ヤマトタケルは景行天皇の皇子ですから、仲哀天皇も大中比売もともに景行天皇の孫となり、世代は一致します。すると、迦具漏比売の系譜がおかしい、ということになります。「記」のこの系譜にはかなりいろんな人物が挿入されておかしくなっていると考えられます。
■「記」では応神天皇の妃に迦具漏比売(カグロヒメ)が現れるのも同じで、たださえ不可解な景行期の迦具漏比売と応神期のカグロヒメは同一人かそれとも別人かこのふたりのカグロヒメは「記」だけに登場し「書紀」には見られません。是と同じ現象が8開化期と11垂仁期の山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)亦の名苅幡戸弁(かりはたとべ)にもありました。この場合も「書紀」には無く「記」にのみに有る現象でした。
  下左図は「記」の応神期の迦具濾比売が記載された系譜。「書紀」にはこの系譜は無い。 
■「記」は大中比売の父は景行天皇と詞具呂比売との異世代婚により生まれた大枝王(大江王)としますが「書紀」は大中姫の父を仲哀天皇の叔父の彦人大兄(ひこひとおおえ)としていますが「記」は大江王で「書紀」では彦人大兄はヤマトタケル命の兄弟ですから景行天皇の皇子ですが書紀に彦人大兄の名はありません。「記」では日子人之大兄王(ひこひとおおえのみこ)は景行天皇と妃、伊那毘能若朗女(いなびのわかいらつめ)の御子に日子人之大兄(ひこひとのおおえ)が生まれ真若王(まわかのみこ)と云う同母兄がいます。
■ヤマトタケルの系譜の息長田別王(おきながたわけのみこ)の系譜は「記」独自のもので「書紀」は息長田別王から詞具呂比売までの記述はありません。一妻の出生不祥、
其の子、息長田別王、次の杙俣長日子王と二代続きで
婚姻者不祥、一妻の出生も不祥とは系譜の書と云われる
「記」にしては実に不可解な記述です。
    右は常陸国風土記の倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)の記述。
■「書紀」は彦坐王(ひこいますのみこ)の婚姻者不明で狭穂日子王(さほひこのみこ)・狭穂姫(さほひめ)・丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の三柱の御子が生まれたと記します。垂仁期には一伝に丹波道主王は彦湯産隅命の子
(開化天皇=丹波竹野媛の子)である可能性があるとも記します。亦、狭穂日子王妹の狭穂姫は11代垂仁天皇の皇后になります。皇后の兄狭穂彦王が垂仁天皇に反逆事件を起こし皇后をも巻き込み、討伐軍に敗れ死去します。狭穂姫は死の直前に天皇に自分亡き後の皇后として道主王の娘の日葉酢媛(ひばすひめ)を推挙します。末弟の丹波道主王は此の事件には無関係であった様ですが、天皇はこの言葉を入れ十五年(前15)秋八月、日葉酢媛を立てて皇后とされます。亦その妹三人をも妃として迎えいれます。丹波道主王は反逆者、狭穂彦王の末弟です、事件に無関係といえ反逆人の弟の女(むすめ)を后妃として迎え入れる様なことがあったのでしょうか記」では③比婆?比売・③氷羽州比売の表記になります
■「書紀」にヤマトタケル命の生年は記されていませんが景行27年(97)10月条に「日本武尊を遣わし熊襲を撃たしむ。時に年十六」と記されており逆算するとヤマトタケルの生年はは景行11年(81)となります。亦、倭建命の崩年は景行四十三年(113)「伊勢国能褒野(のぼの)に崩(かむがり)ましぬ年30」とあり、景行二十七年(97)に16歳なら崩年時の年令は32歳になる。
 ()内は「書紀」紀年を西暦に換算したもの
■「書紀」仲哀天皇の出生記述にもありえない矛盾があります。仲哀天皇の崩年は「書紀」は仲哀九年(200)の春二月に、熊曽討伐から帰った天皇が忽に痛身(やみ)たまふこと有りて明日(あくるひ)に崩(かむあが)りましぬ。時に年五十二とあります。崩御年から逆算すると生年は成務天皇十九年(149)となり、父ヤマトタケルの歿年が景行四十三年(113)ですから父の死後三十六年目に誕生するという年代矛盾が生じます。(成務と仲哀の間に一年の空位がある)。
■ヤマトタケルは実名では無く「大和の首長」を意味する称号と云われます。「大和の首長」と云えば大和朝廷の主権者である天皇ですが常陸国風土記では「倭健天皇(やまとたけるのすめらみこと)」妃の弟橘比売を大后弟橘比売命(おほきさきたちばなひめのみこと)を皇后扱いです。景行期からヤマトタケルの記述を除けば天皇の事績は乏しくヤマトタケルが皇子ではなく天皇であったとの説もあります。 
風土記の編纂は奈良時代(八世紀)初期の官撰の地誌で43元明天皇(707~715)の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、風土記を編纂させ、地方統治の指針とした様です。「続日本紀」の和銅6年(713)5月の条が風土記編纂の官命である様です。しかしこの時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解(げ)」と呼ばれていたようです。記すべき内容として次の五つが挙げられています。 国郡郷の名・産物・地の肥沃の状態・地名の起源・伝えられている旧聞異事。
 南山城の息長氏に関する衝撃的報道
世間がコロナ騒動で騒がしい最中に南山城の息長氏に関する衝撃的な報道が新聞紙上に発表され驚かされました。京都府木津川市山城町(旧山城国椿井村)の旧家である椿井家の古文書があり、その中に「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」「朱智牛頭天王宮流紀疏(しゅちごずてんおうりゅうきそ)」を含む数百点の「古文書が偽書だと研究者により断定されました。その詳細について私は未だ知りませんが、新聞の伝えるところによると椿井政隆(つばいまさたか/1770~1837)が、依頼者の家系や地域の由緒がこうあって欲しいと云う願望に基づいて文書や絵図の偽作を椿井政隆に依頼し、彼はその土地にある伝承の裏付け史料を作成することにより伝承を歴史的事実に作り上げたようです。それが明治初期の椿井家の没落により、これらの偽作古文書が世間に拡散し、なかには市町村史や歴史学者等に歴史事実として取り上げられた様です。前述の「興福寺官務牒疏・朱智牛頭天王宮流紀疏」の内容如何によっては、「記」記載の南山城に居住したとされる山代之大筒木真若王とその子、迦邇米雷王や息長宿禰王・息長帯比売の記述も根底から覆ることになります。

挿入 2022年11月28日 更に衝撃的な情報に接し山城の息長氏について再考察する必要を感じております。
下記の『椿井文書と息長氏』は南山城の息長氏について衝撃的な情報を提供しています。
椿井政隆は、自身が作成した偽書・「椿井文書」において、現在の米原市で朝妻川と呼ばれていた川に「息長川」の名称を与え、「朝嬬皇女墳」を世継村に、「星川稚宮皇子墳」を朝妻川の対岸の朝妻村に「設置」した。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、椿井は七夕伝説を作り出そうとしたのであり、湖北の七夕伝承は椿井文書由来のものであると云はれる。また、椿井は京都府京田辺市の観音寺を「中世までは普賢寺あるいは普賢教法寺と称していた」ことにし、また「朱智神社をその鎮守である」とし、さらに寺に「息長山」の山号を与えた。そして、「息長」や「朱智」という苗字の侍を祖とする系図を量産した。ここに息長という名詞が登場するのは、椿井政隆が若い頃に近江国膳所藩で活動しており、その時に得た息長氏の知識を踏まえているからである。これは、逆に「南山城に息長氏が存在したという伝承が存在しなかった」ことを表している。
-日本最大級の偽文書-『椿井文書』馬部隆弘著に偽文書の詳細が記されています。 
神功皇后(息長帯比売)伝承の虚実を探る
仲哀天皇は帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)穴門の豊浦宮(あなとのとゆらのみや)と筑紫の訶志比宮
(かしひのみや)に坐(いま)して天之下治らしめしき。此の天皇、大江王が女(むすめ)大中津比売に娶(めと)ひて生みませる御子、香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の二柱。また息長帯比売(おきながたらしひめ/皇后)に娶ひて生まれませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと(おほともわけのみこと)亦の名は品和気命(ほむだわけのみこと)の二柱。此の太子(ひつぎのみこ)の御名、大鞆和気命と負はせる所以(ゆえ)は初め、生まれし時に鞆の如き完(しし)御腕(みただむき)になりぬ。其の御名に付けまつる。是を以ち腹の中に坐して国を知りたまふ。
皇后は今はじめて身ごもっておられる。その御子が国を得られるだろう」といわれた。天皇ははなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てなくて帰って来た。九年春二月五日、 天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に年五十二。 辛辰西暦200年 乃ち神のお言葉を採用されなかったので早くなくなられた。 
「記」仲哀天皇、御年五十二歳。壬戌歳(みずのえいぬのとし)六月十一日に崩りましぬ。 ※ 壬戌歳は西暦362年
「書紀」九年(200)三月一日、皇后は自ら神主となり、武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみいかつのおみ)をよんで、審神者(さにわ)をされた。幣帛を多く積んで請うていわれるのに、「天皇に教えられたのはどこの神でしょう。その御名を知りたいのですが」と申された。七日七夜に至って「日向国(ひむかのくに)の橘の水底にいて海藻のように若々しく生命に満ちている神-名は表筒男(うわつつのお)・中筒男・底筒男(住吉三神)」の神がいる」神の言葉を聞いて教えのままに祀った。皇后の腹に坐す御子はいずれの子か」と聞く答えたまはく「男子なり」とさらに、今まさに西方の国を求めようと皇后がお思いならば、天神・地神また山神と河・海の諸神ことごとくに供え物を奉りお祭りし、我が住吉の神の御霊を、西征の船上に鎮座させて、真木の灰を瓢箪に入れ、また箸と木の葉の皿をたくさん作り、すべてを大海に散らし浮かべて渡海するがよい」とおっしやった。時に皇后の開胎(うみづき)に当たれり。皇后即ち石をとりて腰に挿(さしはさ)すみて、祈りたまひて曰(まうしたまはく、「事終えて還らむ日に、此処に生まれたまへ」と申したまふ。冬十月三日、鰐浦から出発された。
「記」九年(200)冬十月三日、皇后、対馬の和珥(わにのつ)より新羅征討に発(た)ちたまふ。
「記紀」時に風の神は風を起こし、海の神は波を挙げて、海中の大魚はすべて寄り集まって,船の進行を助け、舵櫂(かじかい)を労(つか)わずして新羅に到る。そのとき船をのせた波が新羅の国中にまで及んだ。即ち知る、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の悉くに助けたまふか。新羅王、国を建てしより以来、未だ海水の国中に上る事聞かず。「けだし天運尽きて国、海とならむとするか」是れに戦戦慄慄(おじわなな)きて「新羅王、吾聞く東の方に神国あり、日本と云う亦聖王(ひじりのきみ)あり天皇と云う。豈兵(あにへい)を挙げて防ぐべけむや」といひて、厝身無所(せむすべなし)新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降る。新羅王、自ら降(くだ)るを殺すは不詳(さがな)しとのたまひて、其の縛(ゆはひつな)を解きて飼部(みまかひ)としたまふ。皇后、新羅の王の門に矛を立て後世の印(しるし)としたまふ。其の矛、今なお新羅の王の門に立てり。新羅王、波沙麻錦(ハサムキム)
即ち微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を以て人質として仍(よ)りて金・銀・彩色・綾・羅(うすはた)・絹等八十艘の船に載せ て皇后の船に従わせる。新羅王是れより毎年八十艘の調(みつぎ)を日本国に貢(たてまつ)る。右の地図は200年時代の朝鮮半島  「書紀」では神功皇后の新羅征討は仲哀九年(200)と記されますが倭(日本)の200年代は邪馬壹国の卑弥呼の時代で朝鮮半島南部には馬韓(バカン)・弁韓(ベンカン)・辰韓(シンカン)の3つの小国の連合体があり、新羅は未だ誕生していません。半島東部には濊貊(ワイハク)・黄海側には楽浪(ラクロウ)・帯方(タイホウ)の二郡、遼東半島には公孫氏が、現代の北朝鮮から中国東北部(満州)の南部にかけての地域に存在したのが高句麗がそれぞれ勢力圏を維持しているのが二百年代の朝鮮半島です。公孫氏とは189年後漢の地方官だった公孫度(コウソンタク)が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、236年、魏の皇帝曹叡(ソウエイ)から上洛を求められた際、公孫淵(コウソンフチ)は反旗を翻し本格的に支配体制を確立します。238年、太尉司馬懿(シバイ)の討伐を受けて国都襄平(じょうへい)に包囲されて降伏し、一族ともども処刑されたために公孫氏の勢力は消滅しています。卑弥呼による魏への遣使が239年まで、途絶えており、公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されていることから、公孫氏が倭の遣使が中国本土へ朝貢する道を遮っていた可能性が考えられ、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もあるのでは。 「記紀」では、神功皇后の随船潮浪(ふななみ)遠く国の中に及ぶとしていますが、下図は西暦356年の新羅建国以後の新羅王都金城の所在地地図です。
神功皇后が新羅侵攻をしたとするなら356年の建国以後になります。慶州◎処が王都金城のある処で付近は山地で海岸から渓谷ぞいの甘浦街道を約30Km進むことになります。「書紀」では「随船潮浪(ふななみ)」遠く国の中に満ち及ぶ、とあるがこれは誇張であり、いかに大潮でも王都まで海水が押し寄せることはなく、此の王都を包囲するには少なくとも数千の軍勢と武器・食料が必要ですが、それだけの人員・物資を当時九州から輸送出来たか疑問です。特に冬の玄海灘を当時の船で、これだけの人や物を運ぶのは不可能と云われます。亦、神功皇后の新羅征討を事実とするなら皇后の活躍年代を西暦300年末から400年始めに置き換える必要があります。しかし神功皇后の活躍年代を300年末から400年換置きえても大和朝廷は16仁徳・17履中の天皇時代です。此の時代初頭に朝鮮半島に大量の兵や武器・糧食を輸送することは到底不可能です。大和政権が外地へ派兵出来る様になるのは26継体天皇(507~531)が九州の磐井の乱を鎮圧して後の事でしょう。
息長帯比売(神功皇后)の実在性については、多くの歴史学者が否定しています。それは説話がお伽噺的で、説話の年代や話の内容が到底事実とは認めがたいものだと云うのが、その理由です。また同時代の金石文や中国・朝鮮の文献資料等に神功皇后の事が記されていたりしたら実在が認められますが、そういった史料も無く「記紀」の記事のみでは裏付け史料がなく実在は認め難いとするのがその理由です。
   参考史料 (下記史料と神功皇后の新羅征討記事を比較して頂くと記事の史実性のないことが解ります)
      中国 魏建国 西暦216年  蜀建国 西暦221年  呉建国 西暦222年 
      邪馬壹国 卑弥呼の共立 西暦238年頃  卑弥呼死去 240年頃
      神功皇后(息長帯比売)生年不祥 西暦200年(和暦仲哀9年庚辰)に新羅征討
対馬海峡は海流も強く縄文・弥生時代に朝鮮半島南部と九州北岸に住む人々がどのような船で海峡を渡ったのか謎です。古代でも対馬海峡の海と共に生きた人々は、いつなら海を渡れるかは経験の上で知っていたのでし
ょう。気象・海流・季節・日照時間これらを熟知して海峡を行き来していたのが、海人族といわれた人達です。倭国の海人族としては宗像(むなかた)氏・海部氏が有力だが、他に津守氏・和邇氏も元は海人族だったとする説もあります。宗像氏は伝承によると有力海人族として宗像大社を報じ九州北部から玄海灘全域を支配した海洋豪族であったと云われます。右図の様に日本海には対馬海流と北からのリマン海流があり海人族の助けを借りても無事目的地に到達するのは難しかった様です。朝鮮半島東部(新羅)から出港すると倭国の出雲から能登半島の間に漂着する事も多かった様です。何10艘もの船が船団を組んで玄海灘を渡り、全船無事に朝鮮半島に着く事など海人族の助けを借りても不可能だったでしょう。古代から日朝間では人の行き来はあったのですが、渡航方法は不明です。ここに古代船を復元して玄海灘を実験航海した2件の記録があります。1件は大阪から韓国釜山まで昭和63年(1988)大阪市平野区長原古墳群の「高廻(たかまわり)2号墳」から出土した舟形埴輪をもとに古代船を復元大阪-韓国釜山間で航海実験されました。当時の船にはスギかクスノキが使われ様ですが、現在ではスギ・クスノキの巨木は無く米国オレゴン州の山から伐り出されたダグラスモミ。「ベイマツ」と呼ばれる木材で直径2.6mの巨木を使って、舟形埴輪を10倍の大きさにし、古代船を研究する神戸商船大学の教授が設計し、岡山県の船大工に建造を依頼、全長12m、幅1.92m、高さ3m、重量約5トン、の古代船を復元「なみはや」と命名して平成元年(1989)5月末完成。5世紀当時の渡海を再現するために、大阪港から韓国・釜山までの約700kmの実験航海を開始しましたが、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、その上なかなか進まず。少し波がでるとバランスが崩れ危なく、喫水が浅いため実際に海に浮かべて漕いでみますと、安定が悪く、大学のボート部の学生さんに漕いでもらいました8人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいている感覚は無く殆ど進まず、韓国まで引き舟で行き、釜山港外で学生が赤いたすきの衣装に着替えて大阪から漕いで来たかの様に振る舞ってもらい何とか実験航海を終えたそうです。発掘で出土した埴輪の古代船と実際に使用していた船とは違うようで、当時どのような舟で一隻に何人ていど乗船できたのか全く不明で古代から6世紀頃にかけ日朝間を頻繁に往来していた航海法はまったく史料がなく不明です。
 出土した古代船埴輪
 復元建造完成
上写真  左から2番目出土埴輪の船を十倍に拡大し完成し「なみはや」と命名。 次の写真大阪港で完成
次の写真、釜山港外て赤い衣服に着替えて日本から漕いで来た様にふるまう。  
今一つの古代船による実験航海は九州から大阪で、モデルとなった船は宮崎県西都市・西都原(さいとばる)古墳群169号墳(5世紀後半)から出土した船型埴輪で,神戸商船大学の松木名誉教授が基本設計。黒田藩御用船大工の家系をひく和船大工の棟梁・松田又一氏の助言のもと,福岡市志賀島の藤田造船所が建造しました。原木は樹齢約500年のアメリカ・オレゴン州産の通称ベイマツ,最大直径約1.5mです。国内では1本原木が入手困難であるため,このベイマツを二本接合して一隻の古代船に復元しました。平成16年(2004)6月に建造着手,同年10月に完成。名称を公募し,「海王」に決定しました。

 出土した古代船埴輪  完成した古代船「海王と命名」  「海王」試験航海 石棺を曳航する「海王」 
上写真左から到達した今城塚塚で修羅で運ぶ石棺。 次ぎ今城塚博物館に搬入されたピンク石石棺。
右写真2枚奈良県橿原市の植山古墳の発掘調査で出土した阿蘇ピンク石石棺は奈良県までも運ばれていた。此の古墳は終末期の古墳で平成12年(2000)に橿原市教育委員会により発掘調査された。磯長谷古墳群中の山田高塚古墳(伝推古天皇陵)へ改葬される前の、推古天皇とその子竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと云われている。阿蘇ピンク石石棺が使われている。 大王のひつぎ実験航海では、当時の古代船「海王」を復元し、7トンもある阿蘇ピンク石「馬門石(まかどいし)」の石棺を1000kmも離れた大和の地や大阪高槻市に、なぜ?どうやって?どのような経路を通って?運ばれたのか、この古代史上の謎を解明すべく、考古学、古代史、海事史研究者が参加する実験航海が行われました。
古代船「海王」は、平成17年(2005)7月24日に宇土市を出航、34日目の8月26日、最終目的地の大阪南港に到着しました。総航行距離は10006キロ。なぜ、大王のひつぎに、九州の「馬門石(まかどいし)」が使われたのか?近畿でとれる石ではなく、わざわざ赤い石を熊本から運んで来た理由は何か?運搬手段は?またどうして九州熊本に馬門石がある事が解ったのか?阿蘇ピンク石製の石棺は、なぜか九州の古墳にわ使用されず、岡山、大阪、奈良、滋賀の4府県に計14基の古墳に使用され、うち12基は近畿に集中し、2基だけが岡山にある。岡山市の巨大古墳「造山古墳と「築山古墳」でなぜ近畿と岡山だけで、石棺産出元の九州では使用しないのか?謎。
広開土王碑文の証言 
朝鮮の最古の歴史書である「三国史記」倭人伝、新羅本紀は紀元前50年条か
ら「倭人、兵を行(つら)ねて、辺を犯さんと欲す。始祖の神徳あるを聞きて、乃ち還ると記す」と記している。「三国史記」とは高麗17代仁宗の命を受けて金富軾(キンフショク)が編纂した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書で朝鮮半島に現存する最古の歴史書です。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。その内容は新羅の比重が大きく、編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多く、中国の史書において登場する高句麗の建国(紀元前37年)に対して新羅の建国を紀元前57年とするなど、この史書の記事には信憑性が問われると云われます。亦、200年代にも倭兵が新羅に侵入した記事が多くあります。
●倭人、境を犯す。伊伐飡利音を遣わし、兵を率いて之を拒ましむ。(208年4月条)  ●倭人、俄に至りて金城を囲む。王、親(みずか)ら出でて戦う。賊
潰走す。軽騎を遣わして之を追撃せしむ。殺獲するもの一千余級なり。(232
年4月条)  金城は新羅の王城慶州市慶州面九黄里南古塁 
「書紀」神功皇后新羅征討の200年には「三国史記」新羅本紀には記述なく208
・232年に●印の記述があるが倭人とのみで指揮した将軍の名は無し。
200年代前半の倭人の朝鮮半島侵攻は歴史的に見て信じ難いことである。
倭人の半島侵攻についての記事で信憑性のある初見記事は現在の中華人民 
共和国吉林省通化市集安市に現存する高句麗の第19代の王である「好太王碑」です。広開土王碑といったほうが通りが良いかも。この碑文は四世紀末から五世紀初頭の朝鮮半島史や古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料です。此の碑の次の碑文が倭人が新羅の王都である金城を包囲したと云う事実記事であると推察されます。 
■百残・新羅は旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに倭は、辛卯(かのとう)の年を以て来たりて海を渡り、百残・□□・新羅を破り以て臣民と為す。 (辛卯年条/391) 百残は百済。
■九年(399)百残、誓い違えて、倭と和通す。(九年己亥条/つちのとい)
■王、平穣に巡下す。而ち新羅、使を遣わして、王に白(もう)して云く倭人其の国境に満ちて、城池を潰破し、奴客を以て民と為せり。王に帰して命を請うと。(前と同399) 
十年(400)庚子(かのとね)、歩騎五万を遣わして、往きて新羅を救わ教む。男居城従り、新羅城に至るまで倭、其の中に満つ。(十年庚子条)
■官兵、方に至り、倭賊、悉く退く。(前と同) 
※ 歩騎五万は誇張か  高句麗の新羅への救援に対応する記事は「三国史記」なぞに
はみえない。
 
■倭、満ち、倭潰ゆ。(前と同)
■十四年(404)甲辰(きのえたつ)、而ち倭、は不軌にも帯方界に侵入す。(十四年甲辰条)■倭寇、潰敗し、斬殺するもの無数なり。(前と同) 
■倭寇、潰敗し、斬殺するもの無数なり。(前と同) 
以上が広開土王碑文です。碑文によると甲寅(きのえとら)(414)九月廿九日乙酉(きのととり、に建立。「好大王碑」の四面には1802文字が漢文で刻まれていて、その
上 広開土王碑   うち約200字は風化等で判読不能となっており、欠損部の解釈については様々な説があります。元々は野ざらしであったが、碑文によると甲寅(きのえとら)(414)九月廿九日乙酉(きのととり、に建立。
20世紀に屋根が設けられ、21世紀に入ってからは劣化を防ぐために碑の周辺をガラスで囲んでいます。最初の百残・□□の箇所は碑文が欠けていて
判読不能の箇所。これ以前にも倭人と新羅の小競り合いはあったでしょうが、大規模な衝突は初めてであろうと 思われます。此の時に新羅城下に満ちあふれた倭兵は神功皇后の新羅征討兵か、大和政権の派兵か、それとも九州豪族の派兵かいずれもでしょう。大和政権下の派兵ならば16仁徳~17
広開土王碑の拓本「任那加羅」の文字の初出 中(313~405)この時代になり海外派兵は、此の時代の大和政権には無理でしょう。九州豪族の連合でも数千人の兵を海峡を越えて派兵する事など到底出来るものでないでしょう
。派兵する事など到底出来るものでないでしょう。作家の司馬遼太郎氏は「街道をゆく韓のくに紀行2」で「日本列島」にまだ日本国家が成立していないころから盛んに倭人が金官伽耶へ往来し、なかには住みついてしまっている者もあり、それよりもさらに数多くの駕洛(から)国の人が日本地域にやってきて住みつき、耕地をひらいた」と述べています。伽耶とは朝鮮半島南岸の釜山付近の洛東江沿岸の慶尚南道から北道にかけての地域です。この地域が西暦一世紀~六世紀にかけて伽耶国(加羅・籠洛)のあった地域と云われます。「書紀」では任那と呼ばれ「日本府」が設けられていたといわれます。中国の史書や広開土王碑文にも「任那加羅」と名前が出てきます。
亦、朝鮮の民間伝承でも「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」と云われ、古代に
は駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれて倭というのは必ずしも日本人を指すものではなく、古代のある時期までは南朝鮮の沿岸地方から北九州を含めた地方の諸族の呼称であった」と云われています。当時の此の地方は高句麗・百済の争いが絶えず、亦、百済と新羅の紛争もあり隣接する伽耶(かや)諸国も此の紛争に巻き込まれ新羅に侵入之に在鮮倭人が主力であったので新羅側では倭人が侵入してきたと思ったのでしょう。或いは百済も之に加わっていたのかも新羅の首都に倭兵が溢れたというのはこういう事だと推測されます。之では兵も武器・兵糧の問題も解決します。日朝間には共同の文化圏が自然形成されていて、お互いに自由に往来しいたようだが釜山から倭国の北九州まで近い様ですが玄海灘には対馬海流と朝鮮半島東側には北からのリマン海流があり誰でもが船さえ出せば日朝両国を自由に往来出来る訳では無く、此の二つの海流を乗り切るには海人族の力を借り無ければ無理だったようです。作家の司馬遼太郎氏は「街道をゆく韓のくに紀行2」で「日本列島にまだ日本国家が成立していないころから盛んに倭人が金官伽倻へ往来し、なかには住みついてしまっている者もあり、それよりもさらに数多くの駕洛国の人が日本地域にやってきて住みつき、耕地をひらいた」と述べています。亦、朝鮮の民間伝承でも「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」と云われ、古代には駕洛国だけが、他の韓人とはちがった風俗をもっていたともいわれて倭というのは必ずしも日本人指すものではなく、古代のある時期までは南朝鮮の沿岸地方から北九州を含めた地方の諸族の呼称であった」と云われています。当時の此の地方は高句麗・百済の争いが絶えず、亦、百済と新羅の紛争もあり隣接する伽耶諸国も此の紛争に巻き込まれ新羅に侵入之に在鮮倭人が主力であったので新羅側では倭人が侵入してきたと思ったのでしょう。或いは百済も之に加わっていたのかも新羅の首都に倭兵が溢れたというのはこういう事だと推測されます。之では兵も武器・兵糧の補給にも事欠かないでしょう。大和政権が朝鮮半島に進出出来るのは26継体天皇が九州の磐井の乱を鎮圧して後の事でしょう。それまでは朝鮮半島南部は九州豪族連合の交易の独占場であったのでは、これらの話から300年~400年初頭の倭人が新羅の金城下を埋め尽くしたというのは在南鮮倭人と
伽耶諸国の兵に百済の兵も加わったものでなかったかと想定します。「三国史記」新羅本紀の研究をしている日本の考古学者言によると新羅本紀には、多くの新羅・倭国間の外交や倭人・倭兵の新羅侵入記事等、古代の日朝関係に関わる内容を含んでいますが、他の史料と符合しない記事が多く亦、造作をおもわせるものもあり、倭関係記事の大半は造作されたもので信憑性に欠け  る史料的に利用出来るものは四世紀後半の奈勿尼師今(ナモツニシキン・356~401)の頃からの記事で、それ以前になるとまったくの伝説時代である。助賁尼師今(ジョフンニシキン・230~246)以前の伝説時代における倭関係記事が何時頃成立したのか? 伝説時代の史実とは考えにくい倭人・倭兵の記事は「三国史記」が編纂されるにあたり、その時代を埋めるために付け加えられた可能性があるとの事です。
今一つ「記紀」で息長帯比売(神功皇后)の出自に於いて父母の系譜に相違のあることも大きな疑問です。息長帯比売については「書紀」は「記」より詳細な史料で編集しているが帯比売の出自については「息長帯比売は開化天皇の曾孫、気長宿祢王(おきながすくねのみこ)の女(むすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。」とだけの紹介で、是では母系の葛城高額媛の出自がわからないし、父系の気長宿祢王についても開化天皇から曾孫の宿祢王に至る系譜の説明も全く無く母方は兎も角、父方については省略しなければいけない理由は何もない。皇后の母方の葛城高額姫が新羅の王子と云う天日槍(アメノヒホコ)系であることを明らかにするのは好ましくなかったからか「記紀」編纂の七世紀は六百六十三年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本と百済の連合軍が新羅・唐の連合軍に大敗し多くの百済の官民が日本に逃れてきており彼等が朝廷の「書紀」編纂にも携わっており反新羅感情が非常に強かった事も多分に影響しているのでしょう。息長帯比売の所伝を詳細に伝える「記」の記述と「書紀」の所伝の相違を解明することは息長帯比売(神功皇后)伝承の実態解明には欠かせない考察課題であると考えます。 

若野毛二俣王系譜の信憑性
「記」の系譜記述によると日子坐王系・ヤマトタケル系息長氏の系譜に多くの疑問や謎が有りましたが応神期の若野毛二俣王(わかのけふたまたおう)の系譜にも同様の不可解さがあります。考古学者の間ではヤマトタケル命の実在を危ぶむ説も多くあり、ヤマトタケル命と垂仁皇女の布多遅能伊理(ふたぢのいりびめ)の間に14仲哀天皇(148~200)が生まれ、天皇の生年から見ると父のヤマトタケル命が死去して三十六年後に誕生したことになり仲哀天皇の実在が危ぶまれます。ヤマトタケルと一妻(あるみめ出生不祥)との間に息長田別王(おきながたわけのみこ/生没年不詳)が生まれ、此の王と14仲哀天皇は異母兄弟にあたりますが、父の死後三十六年後に生まれた仲哀天皇と出生不祥の母と生没年不詳の息長田別王の異母兄弟では双方の実在に疑問が生じます。しかし杙俣長日子王と子の三姉妹については実在を信じないと若沼毛二俣王の存在が成り立たたない事になります。「記」では15
神天皇が息長真若中比売を娶り若沼毛二俣王が生まれます。此の王は姨(おば)の弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁ももしきいろべ)と異世代婚して七人の御子の御子が生まれ長子の大郎子(意富々杼王おおほどのみこ)が北近江の息長・坂田氏等の祖と記します。左の系譜は日子坐王系の系譜の14仲哀天皇の皇子の15応神天皇がヤマトタケル命系の息長帯比売と婚姻して若沼毛二俣王が誕生して日子坐王系とヤマトタケル命系息長系譜が一つに結ばれ、若沼毛二俣王が誕生し此の王が母の息長真若中比売の妹、弟姫(亦の名百師木伊呂弁ももしきいろべ)と異世代婚します。これは姨と甥の此の時代には有り得ない婚姻です。此の異世代婚により、下右の系図の様な大朗子(おほいらっこ[意富富杼王のがおほほどのみこ])・忍坂之大中津媛(おさかのおおなかつひめ)他五名の御子が生まれるのが「記」の記述です。是れに対して「書紀」と「上宮記曰一伝(うやみやきいわくいちで」下の系図中が「書紀」の系図で左端上宮記曰一系譜です。「上宮記曰一伝」系譜とは七世紀頃(推古朝)に成立したと推定される歴史書で、「記紀」よりも成立が古く鎌倉時代後期まで伝
存していたが、その後は散逸し「釈日本紀」・「『聖徳太子平氏伝雑勘文(しょうとくたいしへいしでんざっかんもん)」に逸文を残
すのみです。「記紀」「上宮記曰一伝」の人名は各々字体が異なりますが、「記」では杙俣長日子王の子、息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)15応神天皇に娶ひて生まれたのが若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)で妹の弟比売(亦の名百師木伊呂弁モモシキイロベ)は若沼毛二俣王と異世代婚して(下の左端「記」系譜参照) 七人の子を生みます。「書紀」「上宮記曰一伝」の系譜はクイマタナカツヒコの女(むすめ)オトヒメマワカは応神天皇に娶ひてワカノケフタマタノミコが生まれ、此のミコがモモシキイロベと婚姻して「書紀」ではオシサカオオナカヒメが生まれます。「上宮記曰一伝」でもモモシキイロベと婚姻して生まれたのは四人の御子です。「記」の七人と「上宮記曰一伝」の四人の相違は田井之中比売と取売王・沙禰王の三人が「上宮記」には見えないことと「息長」姓の人物
が見えないことです。
亦、「記」は応神の婚姻者は息長真若中比売ですが「書紀」と「上宮記」は応神に娶ふのは弟比売で杙俣長日子王の娘です。此の婚姻で生まれるのが若沼毛二俣王で是は三書一致します。若沼毛二俣王の婚姻者が百師木伊呂弁であることも一致しますが「記」の百師木伊呂弁は息長真若の妹で姨と甥の異世代婚になります。「書紀」と「上宮記」は百師木伊呂
弁の出生が記されず、息長姓の人物の登場はありません。「書紀」「上宮記一伝」での「モモシキイロベ」の出自は不明です。若沼毛二俣王と「百師木伊呂弁」の婚姻で生まれた御子は「記」では七名、「書紀」一名、「上宮記一伝」では四名とそれぞれ違ます。 上の系図参照 「記」の杙俣長日子王と「書紀」の河派仲彦(カワマタナカツヒコ)・「上宮記」の「くい俣那加比古」は同一人物で息長田別王の子ですから系譜上では此の系譜も息長系譜になります。此の三書に記載される忍坂(踐坂)大中津比売(生没年不詳)は「書紀」19允恭天皇二年二月に忍坂大中津比売を立て皇后とさます。亦,この日に皇后のために刑部(おしさかべ)を定められた。皇后は木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)20安康天皇・21雄略天皇他七人の皇子女を生まれた。天皇は夫であると同時に父方の従兄弟にもあたる。「書紀」雄略天皇2年(458)の条に忍坂大中津比売は皇太后としての生存記録が有りますが生没年は不明。若沼毛二俣王の居住地についは不明で、僅かに「書紀」允恭2年(413)春2月条によると初め皇后(オシサカオホナカツヒメ)は母(百師木伊呂弁)に随(したが)ひたまひて家に在(ま)しますときに闘鶏国造(つげのくにつくり)が側を通りかかり大中津比売に無礼なおこないがあった話もあり当時大中津比売、母子は大和忍坂に居住ていた様で、此処忍坂宮 は皇室の皇子女の養育所で息長氏が天皇家から管理を任されていたと云う伝承もあり、刑部(忍坂部)は此の宮を維持するための費用を貢進する部民で畿内や地方に刑部が設定されていた様で。 「書紀」記述によると允恭七年(418)には皇后大中津姫の妹が天皇に召された記述があり、時に弟姫母に随(したが)ひて、近江の坂田に在(はべ)りとあり、藤原琴節朗女(フジハラノコトフシノイラツメ/弟比売)は北近江の坂田郡の息長氏の本貫地に居住していたことになり、この時点では母のモモシキマワカナカツヒメ(「書紀」ももしきいろべ)も此処に移転していた事になります。隅田八幡宮の人物画像鏡の文字から継体天皇も当地に居た説もあります。息長の名を持つ34舒明天皇も此処で息長氏が湯人として養育した説もあり、亦この忍坂宮は大郎子(おほいらつこ)の妹、忍坂大中津比売の宮で北近江の息長氏の別業(別宅)で都に所用の折りに利用していた説、等の伝承がありますが宮の遺構などの発掘調査が行われて居ないので、その真偽は不明です。
上写真 左から忍坂坐生根神社は忍阪の氏神様として厚い信仰に支えられ今も忍阪の住民が毎日交代で御灯明をあげお守りしています。祭神は国造りや薬の神さんとして知られる少彦名命(すくなひこなのみこと)当社は本殿がなく背後の宮山(忍坂山の一部)をご神体としています。また拝殿に向かって左側には珍しい子持ち狛犬が。創祀年代は不詳。此の神社付近が古代の息長氏が管理していた「忍坂宮」の伝承地と云われる。 右の写真は忍坂集落(地元では、「おっさかと」と呼ばれてます)
忍坂坐生根神社の祭神が少彦名命というのも違和感がありますが隣の三輪神社の祭神が大国主と少彦名命であり、その関連か?。
継体天皇の出自と息長氏
応神朝以後「記紀」記述から全く消えていた「息長」が26継体天皇期(507~531)になり突然再登場します
息長真手王(おきながまてのみこ/出生生没年不詳)婚姻者不祥で麻組郎女(おくみのいらつめ・比呂比売(ひろひめ)二人の娘を連れて登場します。麻組郎女は継体天皇の妃となり佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)が生まれ、
この姫は伊勢大神の祠(まつり)に侍(はべ)らし、また妹の比呂比売は30敏達天皇の皇后となります。同一人物が祖父と孫とにその娘をめあわすなどということは先ずありえない事です。今迄の息長氏は皆親子の名が明記され一応出自が解りましたが息長真手王に関しては全く不明です。 「記」30敏達天皇、息長真手王が女、比呂比売に娶ひて生みませる御子、忍坂日子人太子(おしさかのひこひとひつぎのみこ/亦の名麻呂古王まろこのみこ)・坂騰王(さかのぼりのみこ)・宇遅王(うぢのみこ)の三柱。「書紀」敏達四年(510)春四月、息長真手王の女、広姫を立てて皇后とする。一男・二女を生めり。其の一を押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)と申す。其の二を逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)ともうす。其の三を菟道磯津貝皇女(うぢのしつかいのひめみこ)と申す。同年十一月、皇后広姫薨去する。
「書紀」によると皇后の広姫、敏達四年十一月に薨去記事あり、皇后在位六ヶ月で3児を生むという矛盾記述。「記」には此の記事なし。 広姫の陵墓は滋賀県長浜市村居田光運寺の裏にありこの陵は明治二十八年に石柵を設けて整備されている。元禄九年(1696)光運寺本堂改築のさい、石槨と石棺が出土しその際の古図によると石棺は四基の縄掛突起のある家形石棺が出土。石棺とともに宝冠・大刀・鏡が出土したが、出土品は光運寺隣接地の堀居氏の庭に埋納されたという明治7年(1874)5月に教部省により当地が息長陵に考証され、明治8年(1875)7月には掌丁付置が命じられたが、上述の経緯を踏まえて同年9月に遺物埋納地に円丘が築かれてそれが息長陵に定められた。そして明治10年(1877)年の兆域確定の際には、光運寺南側の皇后塚残丘は息長付属地と定められ、陵の参道に囲い込まれている。この皇后塚は古墳時代中期の五世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強い。天智天皇・天武天皇が「皇祖大兄」と位置づける押坂彦人大兄皇 子(おしさかひこひとおおえのみこ)を産んでおり現皇室の祖とする説もある。応神五世孫と云われる26継体天皇に付いて息長氏が擁立した天 上写真は広姫陵 皇という説もあります。今私共が見る、息長氏の系譜は「記」に記載される文字系譜のみで「書紀」には一部しか記載が無く後は「上宮記曰一伝」がありますが息長の名は無く継体に関すここには継体の父方として応神と弟比売和加(おとひめまわか)の子の若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)が母々思己麻和加中比売(ももしきまわかなかつひめ)と婚姻して大朗子(おおいらつこ/意富々等王おほほどのみこ) 踐坂大中比弥王(おしさかのおおなかつひめのみこ)・田宮中比売(たみやのなかひめ)・布遅浪良己等布斯郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)の四柱の御子を生みます。意富々等王(おほほどのみこ)が中斯知命(なかつしらのみこと/傍証が無く出自不明)と婚姻乎非王(おひのみこ)が生まれ此の王、久留比売命 (くるひめのみこと)と婚姻して汗斯王(うしのみこ)此の王、布利比売命(ふりひめのみこと)と婚姻して乎富等大公王(おほどのおおきみ/26継体天皇)が生まれます。此の系譜で応神五世の孫と云われる継体の父方の系譜が判明、母方の布利比売の系譜も祖の垂仁から七世が布利比売であることが判明しましたが「記紀」以前に完成していたと云われる「上宮記曰一伝」の此の系譜を「記紀」編纂者はなぜ「記紀」に取り入れなかっかという疑問があります。亦、「一伝」の系譜は文字の使用方が一定していないと言う指摘があり、いくつかの原史料から作成されたものと推定されます。皇統系譜についても、「上宮記曰一伝」において継体天皇の曾祖父とされる意富々杼王(おおふどのみこ)が「記」では息長氏の祖なっていお
り全く謎の多い系譜です。  「記」では応神期の若沼毛二俣王の子、大朗子(意富々杼王)が北近江の息長の祖と記す。
継体天皇の出自について応神皇統との血縁の無い地方豪族の新王朝の誕生とする説と「上宮記曰一伝」の所伝を信じて前王朝に繋がる正規の政権とする説の二説があります。「記」は継体天皇の出身地を近江とする記述については、応神天皇の子孫である袁本杼命(おほほどのみこと)を近江から迎え入れる、と記載が有り、「記」 武烈天皇、既に崩(かむがり)りまして、日続(ひつぎ) 知らすべき王(みこ) 無かりき。故、品太(ほむだ/応神)天皇の五世の孫、袁本杼命(おおどのみこと)を近つ淡海国(おうみのくに)より上りまさしめて、手白髪命(たしらかのひめみこ/武烈天皇の姉)に合わせて、天の下を授け奉りき。
「書紀」は応神を越前から迎え手白髪皇女と婚姻した後、都を樟葉・筒城・弟国を経て二十年後に大和の磐余(いわれ)に落ち着いたと記されている。「記」は此の様な流転記述は無く此処でも「記紀」の記述の違が見られます。天皇を畿外から迎える事自体が異例であり亦、応神五世の孫としながら、五世の系譜は「記紀」ともに記していません。 
「上宮記曰一伝」は継体天皇の出自系譜を詳細に記したもので、用字と文体から作成は大化前代または33推古朝前後とする説が有力です。「書紀」の母系出自は「上宮記曰一伝」に一致しており、上宮記の記述を参照したものかと思わせます。一方「記」はこの母系系譜は一切記していないのも疑問です。また「記紀」は何故継体は応神五世の孫と記しながら五世の系譜を記さないのか、謎の多い「記紀」の記述です。
 「人物画像鏡」の謎
和歌山県橋本市の隅田八幡神社に古代から伝わる「人物画像鏡」(国宝)があり、この鏡は製造年の干支・趣旨・鋳造者・受贈者が刻まれており、此の銘文の判読結果によっては継体王朝の真相が解る史料になります。
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」この48文字の解読についても幾多の論説があり定説はありませんが次の資料を参考にしました。癸未(みずのとひつじ)の年八月 日十(をし)大王の年、男弟(ふと)王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(しま)が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(わいじん)今州利(こむつり)の二人らを遣わして白(もう)上同(上質の銅)二百旱(かん)をもってこの鏡を作る。
 左上写真隅田八幡神社所蔵(国宝)の人物画像鏡 銘文の解読については癸未年(みずのとひつじの年)がいつに当たるかについて異説が多く定説は無いようですが、西暦503年(武烈5年)説が有力な様です。ほかに443年説があります。「503年説、諱(いなみ)に「斯麻(しま)」を持つ百済の武寧王(ぶねいおう・在位:502年~523年)とする解釈が有力です。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。男弟王(おおと)を継体天皇と解釈する。しかし「書紀」に見える「磐余玉穂宮」(526遷宮)の前に「忍坂宮」のある大和国に入っていたこととなり「書紀」記述と矛盾します。「記」の「袁本杼」は「ヲホド」であり、「男弟(ヲオト)か(ヲオト/ヲオド」とは一致しないので継体天皇とは別人物であるとする説もあり。」判読は学者により分かれ、未だ統一見解は無いようです。継体天皇の崩御年についても「記紀」に大きな違が生じています。
「書紀」二十五年(531)二月に天皇、病甚(やまいおも)し。丁未(ひのとひつじのひ)に天皇、磐余玉穂宮に崩
(かむあがり)ましぬ。時に年八十二。
「記」天皇の御寿命は四十三歳。丁未(ひのとひつじのひ/西暦527)の年の四月九日に崩御。と「記紀」により大きく異なります。
 継体朝以降の息長氏
 
左の系譜は15応神朝以後「記紀」から消えていた「息長」が26継体朝になり再び姿を現します。息長真手王(おきながまてのみこ)生没年・婚姻者不詳で
麻組朗女(おくみのいらつめ)・比呂比売(ひろひめ)の二人の娘を連れて、麻組朗女は継体天皇に娶ひて生まれたのが佐々宜朗女(ささげのいらつめ)一人。
妹の比呂比売は「書紀」によると敏達天皇四年春1月9日、息長真手王の女、広姫を立てて皇后とした。一男二女を生む。押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのみこ/亦の名麻呂古皇子まろこのみこ)・逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)・菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)。同年冬十一月、広姫皇后薨去された。
翌五年春三月十日、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひのひめみこ/後の推古天皇)を立てて皇后とする。
「記紀」により継体の生年は西暦450年で敏達の生年は西暦538年であり。真手王の娘、姉妹が二人の天皇と娶ふなど随分矛盾した話である。亦比呂比売皇后が十一月薨去して翌年三月には次の皇后を迎えるとは考えられない。
敏達天皇と比呂比売(広姫)の御子に忍坂日子人太子(おしさかのひこひとのひつぎのみこ)がいて蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。忍坂部や丸子部といった忍坂日子人大兄伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼
ばれ、蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、非蘇我系の王位継承候補者として、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えない、忍坂日子人大兄と糠代比売(ぬかでひめ)の婚姻(異母兄弟)34舒明天皇が生まれます。皇位は34舒明-35皇極-(省略)38天智-39弘文-40天武と続きますので息長真手王-比呂比売の記事は矛盾がありますが信じない訳にはゆきません。
忍坂部や丸子部といった忍坂日子人皇子、伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も御子の34舒明天皇から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)に引き継がれて、大化の改新後に国家に返納されたと考えられ、日子人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明天皇即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われています。「延喜式」は忍坂日子人大兄の墓を広瀬郡の成相墓(ならいのはか)としているが,馬見古墳群中,全長17mの横穴式石室を持つ,径約60mの大形円墳の,牧野(ばくや)古墳(奈良県広陵町)に比定する説が有力です。「記」下巻は33推古天皇で終り34舒明天皇から「書紀」の記事のみになり歴代天皇で唯一息長の名を持つ34舒明天皇、和風諡号を息長足日弘額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)祖父が敏達天皇、父は押坂彦人大兄皇子(敏達皇子)、母は敏達と伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおぐま)の娘、菟名子夫人(うなこのおおとじ)と敏達の子の糠手姫皇女(あらてひめのみこ)です。
上写真 奈良県北葛城郡広陵町馬見北にある忍坂日子人太子陵とされる牧野(ばくや)古墳。昭和58年(1963)に奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査をおこなっています。 石室内は盗掘にあいめぼしい物は残ってなかったそうです。
上写真左から古墳開口部・石室は全長17m、玄室長さ7m、幅3.3m、高さ4.5mで飛鳥の石舞台古墳に匹敵する大きさです。 6世紀末の築造当時の姿を残しています。次は「刳抜家形石棺(くりぬきがたせっかん)」を裏側から見たところ毀され削りとられている。右端石舞台古墳に次ぐ大きさをな石室を持つ、古墳時代末𨛺の巨大古墳です。他に組み合わせの家形石棺1基があったそうですが盗掘により完全に破壊され、細片のみが確認されたそうです。
(あらてひめのひめみこ/田村皇女)で父押坂彦人大兄の異母妹になる。先代の推古天皇は、628年4月15日に崩御した時、継嗣を定めていなかった為、 蘇我蝦夷(そがのえみし)は群臣に諮ってその意見が田村皇子と山背大兄王 に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇です。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために 蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説があります。舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷が握っていた。舒明13年冬10月己丑(つちのとうし)の朔丁酉(ひのととり)に天皇百済宮に崩(かむあがり)りましぬ。百済宮所在地については広陵町と桜井市の吉備池廃寺跡が考えられますが、現在は吉備池廃寺跡が最も可能性が高いと考えられています。舒明天皇11年
広陵町の百済寺説明板 広陵町百済寺本堂 桜井市吉備池廃寺説明板
(639)に「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」と命じた記事があり、大宮と大寺は「百済川の側(ほとり)」に造られたという伝承から此の地が舒明天皇が創建した百済大宮と百済大寺の所在地を奈良県広陵町百済に比定する説は古くからあり、当地を百済大寺の旧地としていたが、創建の時期・経緯等は明らかでなく亦、当地における「百済」の地名が古代から存在した証拠がないこと、付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮の所在地が飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地中央部に位置するのは不自然であることなどから、桜井市吉備の吉備池廃寺跡の発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺跡が百済大寺であった可能性がきわめて高くなっています。
桜井市の吉備池廃寺跡百済宮説明板 吉備池廃寺の百済宮跡 広陵町の伝舒明天皇の百済宮推定地
舒明13年冬10月己丑(つちのとうし)の朔丁酉(ひのととり)に天皇、百済宮(くだらのみや)に崩(かむあがり)りましぬ。御陵は奈良県桜井市大字忍阪にある押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)に治定され上円下方墳。遺跡名は「段ノ塚古墳」で、下方部は一辺約105メートル、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされます。
一説によると舒明天皇も此処忍坂宮で息長氏を湯人(養育者)として養育されたといわれます。埋葬について、「書紀」では天皇、崩御翌年の皇極天皇元年(642)に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたが、皇極天皇2年(643)が「押坂陵」に改葬された。初葬地の滑谷岡の所在については不明です。
舒明天皇忍坂内陵上円下方墳(上部八角形) 舒明天皇忍坂陵図上円部の基礎は八角形 忍坂街道に立つ舒明天皇陵案内板
「記」の成立は西暦712年で全3巻。序文に始まり上つ巻・中つ巻・下つ巻の三巻で33推古天皇で終わります。上つ巻は神世・中つ巻は初代神武天皇~15応神天皇まで。下つ巻は16仁徳天皇~33推古天皇まで。「書紀」の成立は西暦720年で全30巻。巻1、2が神世。巻3神武天皇。巻4綏靖天皇~巻5崇神天皇。巻6垂仁天皇~巻13安康天皇。巻14雄略天皇~巻19欽明天皇。巻20敏達天皇~巻26斉明天皇。
巻27天智天皇~30持統天皇。「書紀」に息長氏の記述は9開化期の彦坐王の生誕記述のみで次ぎに12仲哀天皇と次の書記巻9でに気長足姫(おきながたらしひめ)の記述まで息長氏に関する記述はなく、「記」が33推古天皇で終了した後、息長系譜関連の34舒明天皇(息長足日広額天皇おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)の記述と40天武天皇期の八色の姓(やくさのかばね)で息長氏が真人姓を賜姓、41持統天皇期には遣新羅使に直広肆(じきこうし)として息長真人老(おきながのまひとおゆ)を遣わされた。書紀」も持統期で全三十巻終了。
辛国息長大目命伝承
辛国息長大目命(からくにおきながおおめのみこと)の伝承は「記紀」には無く「豊前国風土記」に記される内容からから見れば崇神期の様で「記」開化期の息長水依比売(おきながみずよりひめ)記述より一世代後のようで、息長姓の付く人物で崇神期に辛国(からくに/朝鮮半島)から渡来したとあり豊前国の風土記に曰わく、田河郡(たがわのこおり)。鹿春郷(かはるのさと)此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源(みなもと)は、郡の東北のかた、杉坂山より出(い)でて、直(すぐ)に正西(まにし)を指して流れ下りて、眞漏川(まろがわ)に湊(つど)ひ會(あ)えり。此の河の瀬清浄(せきよ)し。因りて淸河原の村と号(なづ)けき。今、鹿治(かはる)の郷と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。昔、新羅国の神、自(みづか)ら渡り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなは)ち、名づけて鹿春(かはる)の神と曰ふ。又、郷の北に峯あり。頂(いただき)に沼あり。周(めぐ)りわ?卅六歩ばかりなり。黄楊樹生(つげのきお)ひ、兼(また)、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)ならびに黄楊・龍骨等あり、第三の峯には龍骨あり。此の自(みづか)ら渡り到来(きた)新羅国の神とは福岡県田川郡香春町の香春(かわら)神社の祭神、辛国息長大目命(からくにおきながおおめのみこと)で神社由緒によると県社香春神社御由緒略として下記の記述があります。第一座、辛国息長大姫大目命 ・ 第二座、忍骨命(おしほねのみこと)・ 第三座、豊比売命(とよひめのみこと)。当神社は前記三柱の神を奉斎せる宮祠にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、各神霊を香春岳頂上三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年(1373)に、一之岳の南麓に一社を築き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる。延喜式神名帳に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。
第一座の辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷(ぶぜんのくにたかはぐんかはらのさと)の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座の忍骨命は、天津日大御神(天照大神)の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。第三座の豊比売命は、神武天皇外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎭座し、香春三所大明神と称し崇め奉りしなり。
香春社縁起」によると、辛国息長大姫大目命は新羅国から渡来してこの地に留まった神だとする伝承と新羅渡来の女神は比売語曽(ヒメコソ)だとする伝承もあり、「新羅神は比売許曽の神の垂迹(すいじゃく)で、摂津国東生郡の比売許曽神社と同体也」と記されており、新羅神とは辛国息長大姫大目命であり比売許曽(ヒメコソ)であり「アカルヒメ」であると云う事になりますが、是は一体どういう事なのでしょう
 ※垂迹(すいじゃく) 仏教用語で菩薩(ぼさつ)が人々を救うために仮に日本の神の姿で現れること。
辛国息長大姫大目命を息長帯比売(神功皇后)とする説や息長水依比売とする説もありますがいずれも合理的な説明がありません。
上写真 左香春三山右から一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳 中現在の香春三山一ノ岳。 右は香春神社で祭神は辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命。 
香春岳は昔より銅を産出した場所であり、新羅からの渡来人がその高度な技術で精製していたと云われ、 奈良東大寺の大仏造営でも、ここから搬出された銅が相当量使われたという。 平安時代には宇佐八幡宮に奉納する御神鏡を鋳造している。 近代ではセメント原料としての石灰の採掘が昭和10年から始まって一ノ岳は写真の様な無残な姿になった。現在は石灰石の採掘が行われ製紙原料として使われている。因みに最高峰は三ノ岳の標高509m。炭坑節の「一山 二山 三山 越え」の歌詞は香春岳の3峰がモデルという。
「日本三代実録」には、辛國息長大姫大目命と豊比売命を習合していますが、辛國息長大姫大目命は辛国(朝鮮半島)から渡来した金属精錬の女神で、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同じく精錬にかかわる巫女神と云われています。辛國息長大姫大目命は「崇神天皇の御代に帰座せられ」とあるので、神代に日本から辛国(朝鮮)に渡って崇神期に帰って来たのか。この時期に渡来して来たのか不明ですが、息長氏は渡来氏族との伝承もあり出自についても定かではありません。亦、香春神社の由緒には、「第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大神の御母にして……と記されますが、神武の外祖母とは神武の父、鵜葺草不合命(うかやふきあへずのみこと)を生んだ海神の娘、豊玉毘売(とよたまびめ)を指すものと思われますが豊玉売と豊比売命は何の関連性もありません。豊比売命は「記紀」には綿津見神の御子として「トヨタマヒメ」と表記されるのが神武の祖母に当たります。
実在が実証される息長氏族の人達
継体・敏達期の息長真手王記述で息長系譜の形成者の記事は途切れ、その後息長氏の人物が現れるのは「書紀」35皇極元年(642)十二月十四日の舒明天皇(息長足日広額天皇)の喪にさいして息長山田公日嗣(ひつぎ)を詞(しの)び奉るの記述がありますが、此の山田公についての記述は他に一切なく事績等についても不明です。
  日嗣(ひつぎ)故人を悔やみ悲しむ辞。
天武十三年(684)冬十月の条に、「詔(みことのり)して曰はく、更諸氏(またもろもろのうじ)の族姓を改めて、「八色の姓(やくさのかばね)」を作りて、天下の万姓(よろずのかばね)を混(まろか)す。天武天皇は従来の姓の秩序を廃止して、自分の望み通りの身分秩序を作ろうとしました。ちなみに、「天皇」の称号を初めて名乗ったのも天武天皇だと言われていますし、「日本」という国号を採用したのもこのころだという説が有力です。これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えようという狙いがあったようです。一つに曰く、真人(まひと)。二つに曰く、朝臣(あそみ)。三つに曰く、宿禰(すくね)。四つに曰く、忌寸(いみき)。五つに曰く、道師(みちのし)。六つに曰く、臣(おみ)。七に曰く、連(むらじ)。八に曰く、稲置(いなき)」とある。この日に十三氏に姓を賜ひて眞人と云う。息長氏はこの制度で最高の真人を賜姓され新鮮姓氏録には下記のように記されています。此の「八色の姓(やくさのかばね)」で最高の真人を賜姓された息長氏は中央政界において
   本貫 種別 氏族名  姓  同祖関係  始祖 
左京 皇別 息長真人  真人      出自誉田天皇[謚応神]皇子稚渟毛二俣王之後也
左京 皇別 山道真人  真人  息長真人同祖   稚渟毛二俣親王之後也
左京 皇別 坂田酒人真人   真人  息長真人同祖  
左京 皇別 八多真人  真人     出自謚応神皇子稚野毛二俣王也
華々しい活動をしたと思いきや、真人賜姓族で従五位以上になった人数で丹比真人氏が10人・当麻真人
氏が6人・路真人氏・猪名真人氏が3人で息長氏は2人で真人賜姓後の中央政界で特殊な位置を占めて活躍しているとは思われないのですが、何故息長氏が真人賜姓で首位に選ばれたのか、息長氏は真人賜姓氏族の中で
皇室に最も近く継体天皇と同祖の関係にあり、天武天皇の父は舒明天皇は(息長足日広額おきながたらしひひろぬか)の和風諡号を持ち、天皇の祖母が息長真手王の女(むすめ)であり、舒明殯宮における息長山田公の誄(しのび)の記事から舒明天皇は息長氏と特別な関係(息長氏は湯人であった)にあり、それが諡号に反映した様です。今迄考察して来た中で系譜の大半が「記」にのみ見えて「書紀」には見えない記事が多くありましたが息長系譜に対する「記紀」の記述は大きく相違します。此の相違が何故なのかは更に「記紀」を考察する必要があります。天武朝以降の息長氏の動向については文献史料から見て見ると下記の通りです。位階はその人物のが到達した最高位です。此の史料から解るように飛鳥・奈良時代以降の息長真人の一族は老以外はすべて従五位以下で、これでは真人族として中央政界で活躍したとは思えない。天武朝から「記」が撰上された和銅五年までの息長氏では「記」に登場するのは老と子老の二人のみです。このうち老は息長氏でただ一人従四位まで登っており中央政界での位置を見ると 下表左は息長氏族の人達が到達した最高位 
氏名  官位  任官時期  出典   息長氏族の中で唯一従四位上まで昇進した老の足跡
息長真人老  従四位上  和銅4.4   六国史     官位      任官時期      出典
息長真人子老  従五位下  大宝2.正月  六国史   直広肆遣新羅使  [持統6年(692)11月]  「書紀」 
息長真人臣足  従五位下  和銅7.正月  六国史   従四位下右大弁  [慶雲2年(705)4月]  [続紀](続日本紀 
息長真人麻呂  従五位上  天平元.3.  六国史   従四位下兵部卿  [和銅元年(708)3月]   [続紀] 
息長真人名代  従五位下  天平5.3  六国史   従四位下左京大夫 [和銅元年(708)9月]  [続紀]  
息長真人国嶋   従五位下  天平宝字6.正月  六国史   従四位上     [和銅4年(711)4月]   [続紀]  
息長真人大国  従五位下  神護慶雲3.4  六国史   従四位上 死去  [和銅5年(712)10月]   「続「記」
息長真人広庭  外従五位下  天平神護元.正  六国史   
息長連(真人)清継  外従五位  天平神護2.9  六国史   ※老以外の息長氏族のひとは全て従五位止まりです。
息長丹生真人文  従五位下  大同3.12  六国史   
息長真人浄主  従八位上  貞観5.2  六国史   
上表でご覧のように息長氏族のなかで老(おゆ)以外は全て従五位止まりです。天武期までも息長氏が政界において重要な役割を果たしていた痕跡はなく、老にしても生年は不明でその生涯で解るのは持統6年(692)~和銅5年(712))の任官記事のみで事績についての詳細は不明で、これでは息長氏の現実勢力がどの様なものであ
 氏族  従五位以上
 担った人数
 最高位qej
丹比真人  10  正二位(嶋)
当麻真人  6 直大壱(正四位上相当) 
(国見)
路真人   3 従四位下(大人) 
猪名真人   3 従四位下(石前) 
息長真人   2 従四位上(老) 
ったか解らない。息長氏の真人賜姓の理由は、継体擁立や忍坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)の母族など重視され、息長氏の出自によるものと考えられます。真人賜姓氏族の中での息長氏地位を見ても左表の様に従五位以上に登った人は丹比真人氏・当麻真人氏・路真人氏・猪名真人氏に次いで息長氏からは老と子息の子老の二人のみです。息長老が直広肆(ぢきこうし)遣新羅使になった持統6年(692)頃に政界の頂点にいたのは丹比真人嶋で右大臣正広参の位についていた。このあと大宝3年頃にかけて政界の重鎮が相次いで死去しているが中央政界に台頭して来たのは石上朝臣麻呂と藤原朝臣不比等であり、大宝2年(702)に息長子老(老の子)が従五位下を授けられている。老は上表の右の慶雲・和銅年にかけて兵部卿・左京大夫を得て和銅4年(711)4月に従四位上となり翌5年(712)10月に死去する。
以上の様に息長氏は真人賜姓で上位氏族として慶雲・和銅年間は息長老が政界に於いて活躍した時期で一時は真人賜姓族の筆頭であったが、丹比真人が死去した時のみで、すぐに石上朝臣麻呂と藤原朝臣不比等に追いつかれて、此の二人は大宝元年(701)には中納言から大納言正三位に昇任し慶雲元年(704)には石上朝臣麻呂が
従二位右大臣、藤原朝臣不比等が従二位に昇進している。息長老は右大弁従四位下で石上麻呂や藤原不比等には及ばない。
■舒明天皇の諡号は「おきながたらしひひろぬか」で、その殯宮(もがりのみや)とは、古代の葬送儀礼。死者を埋葬するまでの長期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的な変化を確認することで、死者の最終的な「死」を確認することでその柩を安置する場所を「殯宮(もがりのみや)」と云います。
  氏名       年紀       出身・身分     出典
息長真人真野売  天平19.12.22   上丹郷堅井国足戸□    正倉院文書
息長真人彌麿   天平19.12.22   寺使春宮舎人       正倉院文書
息長真人忍麿   天平19.12.22    証人          正倉院文書
息長刀自女    弘仁14.12.9    長岡郷戸主秦富麻呂妻  平安遺文
息長真人(某)   天長19.2.30    坂田郡副擬少領     平安遺文
息長といふ人   寛仁4.11      坂田郡人        更科日記
息長丹生真人広長 天平宝字5.11.27  左京七条二坊戸主    正倉院文書 
息長丹生真人川守 天平勝宝9.4.7   右京九条一坊戸主    正倉院文書
息長丹生真人人主 天平勝宝9.4.7   右京九条四坊戸主    正倉院文書
息長真人孝子   天平15.7.12    中宮職音声舎人     正倉院文書 
息長丹生真人常人 天平宝字6.7.12   造石山寺所(画師)    正倉院文書
息長丹生真人大国 神護慶雲元7.16   播磨員外介       続日本紀
息長画師     天平勝宝4.3.2   造東大寺司大仏光所画師 正倉院文書
息長真人首名   天平勝宝2.1.28  写書所経師        正倉院文書.
息長真人家女   天平勝宝2.5.26  大和国城下郡人      正倉院文書.
 上は
右息長常人の休暇願の訳文
上は正倉院文書・平安遺文等から一部だけ抽出した息長氏姓の人達です。この中の息長丹生真人常人「造石山寺所(画師)」とあり時期は天平宝字6年(762)とあるので47淳仁天皇の御代になり8世紀も中頃になり息長氏も此の時代になるとすっかり衰退して中央政界には数人の名が見えるのみです。
息長光保長徳元年(995)官位不明 筑摩御厨長で長保2(1000)まで在任していたことが知られます。最後は「更科日記」に見える寛仁4年(1020)4月11日の息長と云う人が美濃から近江に入り宿泊しています。これ以後息長姓の人の消息は平治2年(1160)の鋳物師の息長法後・定房が見られるのみです。
※正倉院文書とは、東大寺正倉院宝庫に保管されてきた文書です。東大寺写経所が作成した文書群が保管されます。この写経所文書を正倉院文書と呼んでいます。当時、紙は貴重品で、不要となった文書の裏面を帳簿に再利用していたことから。写経所文書の紙背文書の中には、戸籍や計帳、正税帳などの公文書が含まれていました。これらの帳簿類が正倉院中倉に収められた経緯は不明だそうですが、今日奈良時代の様相を知る貴重な文書です。「平安遺文」 とは歴史家の竹内理三氏が長年筆写されてきた史料を広く利用できるよう企画された史料集で古文書編、金石文編、題跋編、索引編の全15巻にまとめられています。   
昭和58年に静岡県袋井市岡崎地区の茶畑から偶然発見された、梵鐘に鋳造師の息長法後・定房の名がありました。銘文によると、三河国紇里岡寺(きりおかでら)現在の普門寺に懸けられていたもので、高松院(二条天皇の中宮)から賜った梵鐘である事がわかりました。
二条天皇(1158~1165)平安時代後半の天皇です。この時代に鋳造師の息長氏がいたのを始めて知りました。  
左写真
梵鐘出土跡に立つ
説明板

次ぎ
梵鐘に鋳物師の名があり息長法後と定房とあり平治年
は平安時代も末期です。
 息長系譜と形成者のまとめ
「記紀」に見る息長系譜の形成者達を考察してきましたが、「記紀」については到底歴史的事実とは認め難い伝承です。かと云って全てを否定するのも、いかがなものかと思われます。此の時代にあったものかと疑われる異世代婚や年代を無視した婚姻や神功皇后のお伽噺のような新羅征討物語等で複雑怪奇になり本論の息長系譜が理解しがたいものになったようです故改めて「記紀」の息長系譜を簡略に述べたものを下記に記しました
左の1・2の系譜は日子坐王系と倭建命(ヤマトタケル)系の息長系譜で息長姓の最初の登場人物は息長水依比売ですが「記」のみで「書紀」には水依比売の記事はありません。また丹波比古多々須美知宇斯王は「記」では日子坐王と水依比売の子息ですが「書紀」では彦坐王(日子坐王)婚姻者不明で狭穂日子王・狭穂姫・丹波道主王の3名が彦坐王の子として記載されます。丹波道主王と丹波比古多々須美知宇斯王は同一人物です。
大筒木真若を祖父、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を父として生まれるのが息長宿祢王で
す。祖父、父共に南山城に縁の名であるのにのその御子が何故、息長姓でしょう。三代目が息長宿祢王(おきながすくねのみこ)になり、新羅王の子と云う天之日矛(あめのひほこ)七世の末裔、葛城高額姫(かつらぎのたかぬかひめ)と婚姻して生まれるのが息長帯比売(おきながたらしひめ)・虚空津比売・息長日子王の三御子が生まれます。此の息長宿祢王一家がどこに居住したのかも不明のまま、次ぎに成人した息長帯比売が「記紀」に現れるのは「書紀」の神功皇后の項で「気長足姫尊(おきながたらしひめ)は開化天皇の曾孫、気長宿祢王(おきながすくねのみこ)の女(むすめ)である。母を葛城高額姫(かつらぎのたかぬかひめ)と云う。仲哀天皇の2年に皇后となられた。」とあり、仲哀2年2月6日敦賀においでになって、行宮を建てておすまいになった。これを笥飯宮(けひのみや/敦賀)という。これでは宿祢王の子として生まれてから仲哀皇后となるまでの間の消息が不明。
日子坐王・ワニ系息長系譜十五人中で何故三人だけが息長姓なのかと云う疑問が生じる。日子坐王の婚姻者の袁祁都比売(をけつひめ)は王の母の妹で姨にあたります。姨と甥の異世代婚になり、大筒木真若王も姪との異世代婚になり、そのような婚姻が当時に存在したとは考え難く、亦息長水依比売の長男の大筒木真若王の娘の比婆須比売が11垂仁天皇の皇后となり12景行天皇を生み、景行の皇子がヤマトタケル命となる。この事情を「記」は詳しく記さない。
2.はヤマトタケル命系の息長系譜。ヤマトタケルが出生不明の一妻(あるみめ)を娶り息長田別王(おきながたわけのみこ)が婚姻者不祥で生まれ其の子杙俣長日子王も婚姻者不明で、飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)・息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)・弟比売(おとひめ・亦の名ももしきいろべ)の三姉妹がうます。此処でも、一人だけが息長姓という異常さです。此の系譜の不信なところは一妻出生不明で其の子の息長田別王が何故息長姓なのか。親子二代の婚姻者不明で三姉妹が生まれ、其の中の一人が息長姓であるのも謎。是れでは息長系譜出なく他姓の系譜に息長姓の御子が混じるといった系譜である。 
左系図15応神天皇がヤマトタケル系息長系の杙俣長日子王の娘、息長真若中比売を娶ひて若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ) が生まれ此の王が母の妹、弟比売(おとひめ亦の名ももしきいろべ)と異世代婚(姨と甥)して生まれた御子、大朗子(おほいらっこ/意富々杼王おほほどのみこ)・忍坂之大中比売(おしさかのおおなかつひめ)・藤原之琴節朗女(ふじはらのことふしのいらつめ)他四名の御子が生まれます。意富々杼王(おほほどのみこ)は息長坂君・波多君・酒人君・山道君等の祖と記されます。「記」の此の記述によれば意富々杼王が北近江の息長氏・酒人氏の祖になり、此の御子が中斯知命(なかしちのみこと/女性)を娶り此の血統が継体天皇に続くのですが中斯知命の出生も不明で謎の人物です。忍坂之
大中津比売は19允恭天皇の皇后となり九人の皇子女を生みます。其の中で穴穂皇子(あなほのみこ)20安康天皇・大皇子長谷(おおはつせ)21雄略天皇となります。藤原之琴節朗女(亦の名衣通朗女ことおしのいらつめ)も允恭天皇の妃となり藤原宮に住まいした。 此の記事の後。約一世紀の間、息長氏は「記紀」の記事から途絶えます 
は息長真手王(おきながまてのみこ)の系譜ですが、真手王が出自不明で麻組朗女(おくみのいらつめ)・比呂比売(ひろひめ)の二人の娘を連れて登場します。姉の麻組朗女は26継体天皇の妃となり佐々宜朗女(ささげのいらつめ)を生みます。「書紀」によれば、敏達天皇は4年(545)1月9日に息長真手王の娘、広姫を立てて皇后として1男2女を産みます。第1が忍坂日子人太子(おしさかのひとひとひつぎみこのみこ/亦の名麻呂古(まろこのみこ)次が坂登皇女(さかのぼりのひめみこ)・次が菟道磯津貝(うじのしつかいのひめみこ)です。皇后の広姫(比呂比売)は同年(545)11月に薨去されています。 「記」では坂登皇女・菟道磯津貝が男子になっている。
敏達期は年月の挿入が必要なので「書紀」で記述しました。息長真手王の出生不祥で娘の麻組朗女は26継体に嫁ぎ、妹の比呂比売(広姫)は30敏達に嫁ぐという常識では考えられない話です。亦、比呂比売は敏達皇后立后わずか10ヶ月で薨去。その間に忍坂日子人太子・坂騰王・宇遅王を生むという矛盾記述です。 継体期(507~531)・敏達期(572~587) 比呂比売は敏達4年1月皇后になり同年11月薨去している。
 息長氏の謎
息長氏は出自も出身地も不明です。「記」に於ける「息長」の文字の初出は開化期の息長水依比売(おきながみずよりひめ)です。天之御影神の女(むすめ)とありますが御影神は神世の人で年代が合わず水依比売の出生は不明です。
息長水依比売の記事は「書紀」にはありません。次の息長姓の人は豊前国風土記に見る「辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)」が新羅国から渡って来た神として福岡県田川郡香春町の香春(かはら)神社の祭神で「息長とは息が長い?」から発祥したな名で発祥の由来は、上古からの鍛冶に関する技術から生じたとみられます。実際、香春岳周辺は銅の採掘場でもあったが、そこに「辛国(韓国)」という名が冠されていることからも分かるように、香春の住民は、朝鮮半島南部からの渡来人で銅の採掘
や加工に、優れた技術を持っていたのでしょう。香春岳山頂にあった神社を和銅2年(709)に山頂の三社を現在地に移築したのが現在の香春神社。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表
する大神社だった。 写真上昭和初期の香春岳下は現代の香春岳石灰の採掘で一の岳は無残な姿になった
辛国息長大姫大目神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843)で、これは奈良の大神神社(859)、石上神宮(868)、大和神社(897)が正一位になった年よりはるかに早く、それだけ大和朝廷から重視されていたのでしょう。しかし此の「息長大姫大目命」に関しては香春神社の祭神と云う事以外は不明です。息長帯比売と同一人物という説や神功皇后のモデル説等もありますが「息長」の姓のみが同一のみで他は関連性なしの謎の人物です。次ぎの息長は開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいますのみこ)の御子、山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)の子、迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)其の子が、息長宿祢王(おきながすくねのみこ)此の王が新羅国王の子という天の日矛(あめのひほこ)の末裔の葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)と婚姻して、生まれたのが息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)他一女一男の三人です。日子坐王の子長男・次男は生まれた土地に縁の名前ですが三男が息長姓で生まれた南山城に何等の事績もなく、次ぎに現れるのは「書紀」の巻九に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は開化天皇の曾孫、気長宿祢の女である。母を葛城高額媛という。仲哀天皇二年に皇后となられた。
此の時の住まいは敦賀の笥飯宮(けひのみや)である。皇后の出身地は山城で説話の始まりは敦賀で仲哀天皇も同じく敦賀から始まる。皇后は誕生から立后して笥飯宮までの消息は不明。父の宿祢王の消息も一切不明。
宿祢王の山城出生説には疑義があるが、大筒木真若王と迦迩米雷王についても山城出生説を椿井文書に基づいて否定すべきか。 息長帯比売の実在説を否定すると応神の実在も怪しくなり
椿井文書と息長氏(転載)■
椿井政隆は、自身が作成した偽書・「椿井文書」において、現在の米原市で朝妻川と呼ばれていた川に「息長川」の名称を与え、「朝嬬皇女墳」を世継村に、「星川稚宮皇子墳」を朝妻川の対岸の朝妻村に「設置」した。朝妻川は天の川とも呼ばれていたので、椿井は七夕伝説を作り出そうとしたのであり、湖北の七夕伝承は椿井文書由来のものである。また、椿井は京都府京田辺市の観音寺を「中世までは普賢寺あるいは普賢教法寺と称していた」ことにし、また「朱智神社をその鎮守である」とし、さらに寺に「息長山」の山号を与えた。そして、「息長」や「朱智」という苗字の侍を祖とする系図を量産した。ここに息長という名詞が登場するのは、椿井政隆が若い頃に近江国膳所藩で活動しており、その時に得た息長氏の知識を踏まえているからである。これは、逆に「南山城に息長氏が存在したという伝承が存在しなかった」ことを表している。 
14仲哀天皇が娶るのが息長帯比売で、実在の疑われる帯比売と、これまた実父のヤマトタケルが死去して36年
目に誕生した仲哀では両者とも実在が危ぶまれるが、此の二方から15応神天皇は生まれていると「記紀」は記します。 ヤマトタケル命は出生不明の一妻(あるみめ)に娶ひて息長田別王(おきながたわけのみこ)この王の子が杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)で親子とも姓も違い婚姻者も不明で息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)が生まれ、応神が息長真若中比売を娶り若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)が生まれます。
また「記」はヤマトタケル命が出生不明の一妻(あるみめ)に娶ひて生まれたのが息長田別王(おきながたわけのみこ)此の王の子が、杙俣長日子王(くいまたなん゛ひこのみこ)の娘が息長真若中比売(おきながまわかなかひめ)で、応神天皇に娶ひて若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)が生まれ、此の王が母の妹、弟比売(亦の名百師木伊呂弁ももしきいろべ)と異世代婚して大朗子(おほいらつこ/意富々杼王おほほどのみこ)他6人の御子が生まれる。この意富々杼王(おほほどのみこ)が北近江の息長氏の祖です。此の記述によると北近江が息長氏の本貫地になるのは意富々杼王の時代で5世紀代になります。応神期いらい消息の途絶ていた息長氏が継体天皇期に復活します。出生不明の息長真手王(おきながまてのみこ)が麻組朗女(おくみのいらつめ)と比呂比売(ひろひめ)の二人の娘を連れて出現し姉の麻組朗女は継体の妃になり妹の比呂比売は敏達天皇の皇后となり34舒明天皇が生まれます。此の天皇の和風諡号が息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)で唯一息長の名をもつ天皇です。これが「記」の息長系譜で息長の名のつく人物は舒明天皇を含めて8名です。是れでは息長系譜の中に他姓がはまじっているのではなく、他姓の中に息長姓が混じっているので、是は何故という疑問がわきます。また此の息長系譜を見て異世代婚の多さ中でも叔母と甥の異世代婚が入り複雑怪奇です。この息長系譜を見て歴史的事実が記されているとは到底思う事は出来ないのですが、「記紀」に記される息長氏の真相は謎です。「続日本紀」に記される実在の息長氏でも息長老が従四位上まで昇任したのが最高位で他は全て従五位止まりで天武八姓で真人姓賜姓されたものの中央政界でも頭角を現さず奈良時代には政界から消え去る氏族です。しかし「記紀」では「息長」抜きでは史書が成り立たない存在で、「記紀」の記述の真実と潤色を見分けるのには、知識・労力・時間を要します。今の私にはこれらの全てに欠けており年齢的にも、真相解明を続けてゆくのは残念ながら無理です。
 

「記紀」に見る 息長系譜の形成者達関連 「天之日矛(あめのひほこ)」と阿加流比売(あかるひめ)伝承制作中
工事中