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系譜に見る息長氏
更新 2012.10.7 

系譜に見る息長氏目次
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歴史書の息長氏 日子坐王系の
息長系図
倭建命
(やまとたける)
系の息長系図
上宮記と日本書紀
の息長系図
継体・敏達期の
息長系図と
応神~欽明天皇家系図
息長系譜の信憑性   実在が立証される
息長氏
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関連頁 目次 
攝河の地に
息長川は存在せず
 
 伎人郷(くれひとのさと)
息長伝説の信憑性
万葉歌4458息長川の詠み人
馬国人
 
伝承地の息長氏 

万葉集と大伴家持の生涯 
孝謙天皇難波宮行幸と
河内六寺
 

 付け替えられた大和川
(長瀬川を訪ねて)
 伝承地の息長氏  平野川探訪
万葉集巻二十編纂の謎  喜連の息長伝説の論拠
「北村某の家記」
リンクのペ-ジ 
息長川論争の
発端論文の全容
 
平野川関連河川
(空港北濠・大正川・今川・駒川
・空港放水路・平野川分水路)
 


 「記紀」に見る息長氏
古代豪族の中でも息長氏ほど謎の多い氏族は珍しいのではないでしょうか。先ず出自が不明で史家の間でも諸説があり未だ定説はないようです。渡来人説・鍛冶族説・皇室の湯人説・応神、允恭朝には后妃を出し、天武朝の「八種の姓(やくさのかばね)には皇親氏族として「真人(まひと)」を賜姓され、「古事記」「日本書記」の中に神功皇后伝承や自己系譜を持ちこみ、これらの編纂に介入した等々の説も枚挙に暇がないほどありますが、中央政界に於いて頭角を現すこともなく、皇親氏族として特別優遇された実績もなく、史書に見る限り実に影の薄い氏族なのですが、息長氏を除外しては古代史を語れません。「古事記」には息長氏についての記述にかなりのペ-ジを割いて比較的詳細に述べていて、記事を追って行くと息長系図が作成出来ますが、矛盾に満ちた箇所が随所にあり、これが歴史的事実とは考えられません。また「古事記偽書説」もあり無視出来ない存在ですが私は序文は兎も角、本文についての偽書説には疑問を持っています。万葉集巻2-90の題詞と巻13-3263の左註に「古事記曰」の注記があり万葉集の編纂時期には既に「古事記」は完成していたことになり、万葉集の編纂時期についても諸説あり定説はありませんが、万葉学者によると全二十巻は大別して二部に分かれて編纂されており大伴家持一人で編纂されたものでなく、一巻から十六巻の一部と十七巻から二十巻の二部に構成、編纂されているとされ、一部の編纂は家持はじめ複数の人達で天平十六年(745)頃から始まったといわれます。
巻2-90の題詞に「古事記曰」の記述があるのは745年には「古事記」が完成していたことを立証している事になります因みに「古事記」の完成は和銅五年(712)といわれますが立証史料はなく、前述の万葉集の記述によって知るのみです。
また「日本書紀」の開化期の息長氏の記述はなく「古事記」で息長氏を辿ると開化期の日子坐王(ひこいますのみこ)を祖とする息長系図。景行期の倭建命(やまとたけるのみこと)を祖とする息長系図。敏達・継体期の息長真手王系図と三系統があり、ほかに上宮記逸文に息長系譜の一部が見られます。「日本書紀」の完成は続日本紀(720)養老四年五月二十一日条に『舎人親王が天武天皇の勅をうけ編纂していた「日本書紀」が完成し紀三十巻と系図一巻を奏上した』ことが記されていますが、この系図一巻については伝わっておらず、その内容も紛失した時期も逸文もなく、全く不明です故、現在伝わっている「日本書紀」を完本とはいえません。また、「日本書紀」の氏族系譜の記述が簡潔なのは系譜一巻が付随していたので、本文に於いて詳細な記述がなくとも系図一巻を見れば判るようになっていたという説もあります。
「古事記」「日本書紀」は現在我が国に伝わる最古の歴史書なのですが、そこに記されている記述がそのまま歴史的事実かというと特に五世紀以前については疑問が山積しています。今回の息長氏の再考察でも疑問や矛盾点が続出しますが私には、これを紐解く智識はありせんので疑問・矛盾はそのままに記しています。
「日本書紀」継体期巻末に継体天皇の崩年の疑義についの記述中に『後勘校者知之也』(のちにかんがえむひとしらむ)と意味深長な記述があり、欽明期にも『…帝王本紀(すめらみことのふみ)に沢山古い名があり、撰集する人も、しばしば遷(うつ)り変わることがあった様で、後人が習い読む時、意をもって削り改めた。伝え写すことが多くて、つい入り乱れることも多かった。前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。いま古今を考え調べて、真実の姿に戻した。容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを注記した。他のところもこれと同じである』という記述にあるように矛盾や異説のあるところには日本書紀編集者が、異説も取り入れ紹介して、真実探求の糧にしている編集方針は立派だが、天皇家系譜を万世一系にするため紀年を挿入した為に矛盾や謎が多く発生してしまったのではないでしょうか。後世調べ考える人が真実を明らかにするであろうと記して、矛盾と謎の解明を後者に託したが一千五百年を経た今日まで文字史料のない六世紀以前の数々の矛盾と謎の歴史は解明されていません。
古事記
天武天皇の詔で朕聞(われきく)諸家の?(もた)る帝紀と本辞と既に正実に違(たが)い。多く虚といわれていますが偽を加ふと、今の時に当たりて、その失(あやまり)を改めずは、いまだ幾年(いくとせ)を経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。故惟(かれこ)れ帝紀を撰録し、旧辞(くじ)を討覈(たうかく)して、偽(いつわり)を削り実(まこと)を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)とのりたまひき。という詔により稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)し太安麻呂(おおのやすまろ)が撰録した。帝皇日継(すめらみつぎのひつぎ)を主体に先代旧辞(さきつよのふること)が記されています。(712)和銅五年、全三巻を完成撰上していて、その内容は歴代天皇の出生・后妃子女の名・事績・治世年数・山陵等、皇室・皇親氏族関係を主体に神話・伝説・歌物語等を記しています。上つ巻は天地のはじめ(神代時代)。中つ巻は神武天皇から応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇までの全三巻で完成は(712)和銅五年。
日本書紀 
(681)天武天皇十年条、川嶋皇子・忍壁皇子らに帝紀・上古諸事(じょうこのしょじ)を記し校定を命じられる(714)和銅七年条、元明天皇が紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂らに国史を撰修させた。
(720)養老四年条、舎人親王から「日本紀」三十巻・系図一巻が元正天皇に奏上された。
「日本書紀」は漢文で記され中国・朝鮮史書からの引用も多く、中・朝の人達にも読めるように配慮された編集になっており、特徴として内容記事に紀年と月日が付けられており、神代の巻には紀年記述はありませんが、紀元前六百六十年の神武天皇即位から編年体制の編纂がおこなわれています。暦や文字の無い時代しかも『書紀」編纂時から千三百四十年も前の出来事にたいして、どうやって干支年や月日を挿入できたのか? という疑問が起きこの「紀年」や天皇の「宝算」が逆に記事の疑惑を呼ぶことになっています。
「日本書紀」の編者は神武天皇が即位した年から年数を数える紀年法を作成しています。それは中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいているといわれており、讖緯(しんい)年説では辛酉(しんゆう)の年に革命が起こるとしており、とくに十干十二支が二十一順する千二百六十年ごとに大革命が起こるとされていて、そこで、神武天皇即位の年代を決めるときには、(601)推古天皇九年の辛酉(しんゆう)の年を基準とし、そこから1260年さかのぼって、紀元前660年の辛酉の年が採用されたのだといわれています。干支紀年法は古代中国で考案された十干十二支の組み合わせによる紀年法で六十年で同じ干支が繰り返すため、干支名だけでは、それが何度目の干支なのかわからないという不便さもありますが、元号などの紀年法と組み合わせることで我が国でも用いられました。「日本書紀」の完成は(720)養老四年、全三十巻・系図一巻が撰上されています。内容は天地開闢から持統天皇まで。系図一巻については紛失され、その内容も伝わっておらず全く不明です。  
上宮記 
 編者は不詳。上・中・下の3巻から成る。七世紀頃(660年代頃)に成立したと推定され「日本書紀」や「古事記」よりも成立が古いといわれ、鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、「釈日本紀」・「聖徳太子平氏伝雑勘文(しょうとくたいしへいしでんざっかんもん)」に逸文を残すのみです。ここに引用した『釈日本紀』巻十三の継体天皇の出自系譜は「上宮記曰く、一に云ふ……」の形で「書紀」に引用されています。書名の「上宮」は聖徳太子の伝記とする説、上宮王家に伝来した史書とする説などがあるが真相は不明です。
当ペ-ジに引用しました「古事記」の現代語訳は(株)角川書店発行の新訂 
「古事記」武田祐吉訳註・中村啓信補訂解説を「日本書紀(上)」は(株)講談社発行の全現代語訳「日本書紀(上)」宇治谷孟訳を引用させていただきました。
引用部分は「息長系譜」に関連する部分のみです故前後の記述が抜けているので解りづらい点がありますがご容赦ください。全編についてお知りになりたい方は購入されるか図書館をご利用されると良い思います。
古代の天皇は和風諡号(わふうしごう)で表されています。今日私達が目にする「明治天皇」「昭和天皇」という漢字二字の天皇名は漢風諡号(かんぷうしごう)で奈良時代天平宝字年間(757~765)に淡海三船(おうみのみふね)という人が作ったもので、この時に初代神倭伊波礼毗古命(かむやまといわれひこのみこと)まで遡及して神武天皇としたものです。以後今日まで天皇名は漢字二字の漢風諡号と定められています。中には三字の天皇名もありますがその場合は必ず「後」の文字がつき、それ以前に同名の天皇がおられますので「後白河天皇」「後醍醐天皇」等となります。
「古事記」「日本書紀」はいずれも西暦720年以前に完成していますので、天皇名も漢風諡号でなく和風諡号で記載されています。この和風諡号についても全て正しかというと、やはり疑問があります。
文字史料が無い時代の稚日本根子日子彦大日日(わかやまとねこひこおおひひ)等の和風諡号が「記紀」編纂時まで正しく口伝で伝わったのか疑問です。また、天皇号は何時頃成立したのか定かではありませんが六世紀末~七世紀頃といわれています。それ以前は「王」「大王」と呼ばれていたようです。下の表は息長系譜関連の天皇の 漢風諡号と和風諡号を参考資料として表にしました。天皇の在位期間・治世年数は「書紀」の紀年です。宝算の()内の数字は「記」から抽出しました。   
代  漢風諡号 古事記(和風諡号) 日本書紀(和風諡号) 在位期間 在位
年数
宝算 
開化  若倭根子日子大毗毗命
(わかやまとねこおほびびのみこと)
若倭根子日子大毗毗天皇
(わかやまとねこひこおおびひのすめらみこと) 
前157~前98   60  111
(63)
10  崇神  御真木入日子印恵命
(みまきいりひこいにえのみこと)
御間城入彦五十瓊殖天皇 
(みまきいりひこいにえのすめらみこと) 
前97~前30   68  120
(168)
11  垂仁  伊久米伊理毗古伊佐知命
(いくめいりびこいさちのみこと) 
活目入彦五十狭茅天皇
(いくめいりびこいりびこいさちのすめらみこと) 
前29~70   99  140
(153) 
12  景行  大帯日子淤斯呂和気天皇
(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)
大足彦忍代別天皇
(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)  
71~130   60  106
(137) 
13  成務  若帯日子天皇
(わかたらしひこのすめらみこと)
稚足彦天皇 
(わかたらしひこのすめらみこと) 
131~190  60  107
(95)
14  仲哀  帯中津日子天皇
(たらしなかつひこの)すめらみこと)
足仲彦天皇 
(たらしなかつひこのすめらみこと)
192~200  9  52
(52) 
-  神功皇后  息長帯日売命
(おきながたらしひめのみこと)
気長足姫尊 
(おきながたらしひめのみこと) 
201~270   69  100
(100) 
15  応神  品陀和気命
(ほむだわけのみこと) 
誉田天皇 
(ほむたのすめらみこと)
270~310   41  110
(130) 
16  仁徳  大雀命
(おほさざきのみこと)
大鷦鷯天皇
(おおさざきのすめらみこと) 
313~399  87 
(83) 
本文中「古事記」は「記」・「日本書紀」は「書紀」・「日本後紀」は「後紀」と略記しました。
「王」「大王」については「おう」「すめらみこと」「みこ」等の呼び名があるため「ルビ」を付けていません。また、文中で[例]古事記=日子坐王 日本書紀=彦坐王と同一人物でも字体の違いのあるもの随所にありますが読みはほぼ同じです。

 ※本文中で六国史を下記のように略しています。
       「日本書紀」
=「書紀」、 「続日本紀」=「続紀」、 「日本後紀」=「後紀」 、「続日本後紀」=「続後紀」
     「日本三代実録」=「三代実録」、「日本文徳天皇実録」=「文徳天皇実録」、 「日本三代実録」=「三代実録」    ※ 「古事記」=「記」  
 ★本文中の(?)の箇所は当用漢字以外の漢字を使用したためアップロ-ドの際文字か正しく表示しなかったものです。 
 
只今「日子坐王系の息長系譜」更新中でご迷惑をお掛けいたしております
(三月頃までの予定です)

    弥生時代(紀元前300年~西暦300年)   9代開化天皇期(前158~前98)に見る息長氏の出自

神武天皇から応神天皇に至る間の天皇の年令や事績に不自然なものがあり、欠史八代といわれるなど信憑性の疑われる部分もあるが、真実と偽作を実証する史料もなく、したがって弥生時代の年代についても人それぞれに考え方が異なると思います。私の独断と偏見で発掘遺跡の出土物や水稲農耕の伝来から弥生時代初期を紀元前300年。中国史書後漢書にある「建武中元二年(西暦57)倭の奴国貢を奉じて朝賀す…」の記述、この時光武帝から奴国王に与えられた金印が近世に出土している。また、「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述等から弥生晩期を西暦300年頃と推定しました。「記紀」による息長氏の出自伝承もこの弥生時代に始まります故まず「記紀」の記述から息長氏の考察をはじめて見たいと思います。
古事記 (真福寺本)  日本書紀 平安時代末の写本 
古事記開化天皇項の訳文 
上より続く  
日子坐王系譜に見る息長氏始祖
「記」の記述では8代孝元天皇(大倭根子日子玖琉命/おおやまとねこひこくるのみこと)と穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖である内色許男命(うつしこおのみこと)が妹の内色許売(うつしこめ)のあいだに生まれたのが大毗毗命(おほびびのみこと)、少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)、若倭根子日子大毗毗命(わかやまとねこひこおほびびのみこと/9代開化天皇)です。開化天皇の后については記されておらず旦波(たにわ)の大県主(おおあがたぬし)、由碁理(ゆごり)が女(むすめ)竹野比売と婚姻して比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)をまた庶母伊迦賀色許売命(みままははいかがしこめのみこと)は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)と御真津比売(みまつひめ)を生んでいます。和邇臣(わにのおみ)の祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)が妹、祁都比売(おけつひめ)は日子坐王を生み、葛城垂水宿禰(かつらぎのたるみのすくね)が女(むすめ)、鸇比売(わしひめ)は建豊波豆羅和気(たけとよはづらわけ)王を生み天皇には四人の妃と五人の皇子(男王4・女王1)がいますが、伊迦賀色許売命は8代孝元天皇の妃で比古布都押信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでいます。9代開化天皇は孝元天皇と内色許売命(うつしこめのみこと)が生みませる子なので天皇は庶母(ままはは)と異世代婚して10代崇神天皇を生んだという不自然な設定にな
っています。開化期の叙述では三男である日子坐王の四人の婚姻者、息長水依比売(おきながみずよりひめ)・山代荏津比売(やましろのえなつひめ)沙本大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)袁祁都比売(をけつひめ)の四人と、その子女十五人の記述で占められ天皇の事績等は記されておらず、この系譜でみると息長水依比売が史書に記される初代の息長姓の人物ですが天の御影神の子とされており、その神の子がなぜ息長姓を持つのか
天の御影神は日本神話に出てくる鍛冶の神であり、孝霊天皇(前290~前215)の頃、近江の三上山の山頂の盤座(いわくら)に降臨したとされ、天照大神(あまてらすおおみかみ)の八尺勾玉(やさかのまがたま)より生まれた天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子が天之御影命(あめのみかげのみこと)で、 滋賀県野洲市の御上神社の祭神で天目一箇神(あめのまひとつのかみ/鍛冶之神)と同一神とされ、忌火(いみび)の神といわれ、降臨した天の御影神を御上祝(みかみのはふり)の祖がこの地に祀ったといわれています。また、天の御影神は天日矛(あめのひほこ)が渡来して来た時の隋神という説もあります。
日子坐王と息長水依比売の婚姻で丹波比古多多須美知能宇斯(たにはのひこたたすみちのうし)王、水穂真若(みずほのまわか)王、神大根(かむおほね)王、水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)の五人が生まれ長男の丹波比古多多須美知能宇斯王は、その名に丹波(たには)が付くので丹波地方の国造であったと思われるが、10代崇神天皇期の四道将軍派遣記述では日子坐王は『旦波(たには)国に遣わされて玖賀耳の御笠を殺らしめた』と記されており比古多多須美知能宇斯王は丹波国を治めきれず父である日子坐王の救援を受けたたのでしょうか
「記」を参照した開化期の息長系図 
息長水依比売系譜の丹波比古多多須美知能宇斯(たにわのひこたたすみちのうし)王は丹波の河上摩須朗女(かわかみのますのいらつめ)と婚姻して比婆須比売(ひばすひめ)、真砥野比売(まとのひめ)、弟比売(おとひめ)、、朝庭別(みかどわけ)王の四人を生んでいます。垂仁天皇期(前29~70)には『この天皇、旦波(たにわ)の比古多多須美知能宇斯王の女(むすめ)、氷羽州比売(ひばすひめ)に娶(めと)いて生みませる御子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)、次ぎに大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしおしろわけのみこと/景行天皇)、次ぎに大中津日子命、倭(やまと)比売命、若木入日子命の五柱を生む。』とあり開化期の「比婆須比売」が垂仁期では「氷羽州比売」に変わっていが、比古多多須美知能宇斯王の女とあるので比婆須比売と同一人であることが解りますが、氷羽州比売(比婆須比売)が垂仁天皇の后になり五人の子をもうけるのは異世代婚にしても年令的に矛盾がありすぎます。

左図
開化天皇・崇神天皇の系譜

右図
日本書紀の開化天皇・崇神天皇系譜





下右は日本書紀の開化天皇記述 
「書紀」の記述では開化天皇は孝元天皇の次男で母は穂積臣(ほつみのおみ)の妹、欝色謎命(うつしこめのみこと)で孝元天皇二十二年(前193)に十六才で立太子しているので生誕は孝元天皇六年(前209)となる。
開化天皇六年(前152)伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を皇后として御間城入彦五十瓊天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと/10代崇神天皇)を生まれています。これより先に天皇は丹波竹野媛(たにわのたけのひめ)
を妃とされ彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を生まれた。また和珥臣
(わにのおみ)の先祖姥津命(ははつのみこと)の妹姥津媛(ははつひめ)は彦坐王(ひこいますのみこ)を生まれている。開化天皇二十八年(前130)一月五日に御間城入彦尊を皇太子とされた。年十九。六十年夏四月九日、天皇崩御。
「書紀」の開化期の記述は以上のような簡潔な内容で彦坐王についても生誕記事のみです。崇神期の四道将軍派遣記述では丹波平定の将軍は彦坐王の子である丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)と記されており、書紀の道主命は彦坐王の子ですが、一説では彦湯産隅(ひこ
 

「記」 開化天皇期 息長水依比売系譜  「記」 孝元天皇系譜 
左図(開化天皇期)
「記」の息長水依比売系譜
丹波比古多多須美知能宇斯王の女(むすめ)比婆須比売は11代垂仁天皇の妃となり大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと)を生んでいます。この命が12代景行天皇です。
右図
「記」の孝元天皇系図
内色許男(うつしこを)命の妹内色許売(うつしこめ)。
内色許男命の女(むすめ)伊迦賀色許売命(いかがしこめ)と記されているので叔母と姪が孝元天皇の后と妃になっています。
9代開化天皇は庶母(ままはは)と異世代婚して10代崇神天皇が生まれたことになります。
比婆須比売は開化天皇の皇子、日子坐王と息長水依比売の間に生まれた丹波比古多多須美知能宇斯(たにはのひこたたすみちのうし)王の長女であり「記」9代開化期(前157~前98)に生誕記述があり、次代の10代崇神期(前97~前30)には丹波比古多多須美知能宇斯王と比婆須比売の記述はなく、次の11代垂仁期(前29~70)に垂仁天皇の后になり印色入日古命(いにしきいりひこのみこと)、大帯日子淤斯呂和気命(おおたらしおしろわけのみこと)、大中津日子命(おおなかつひこのみこと)、倭比売(やまとひめ)、若木入日子命(わかきのいりひこのみこと)の五人を生んだと記されている。
開化期に生まれた比婆須比売(氷羽州比売)の生年は不明ですが開化天皇の115歳・崇神天皇120歳・垂仁天皇140歳が「書紀」による三天皇の宝算です。また垂仁天皇の最初の后は沙本毗比売(さほひめ)で兄沙本毗古(さほびこ)王の叛乱で后も亡くなられた後に開化期に生まれた比婆須比売
(氷羽州比売)が立后され五人の子女を生んだという記述は記述は極めて不自然であり年令的にとんでもない矛盾があります。また「書紀」には開化期の彦坐王(日子坐王)の記述はなく崇神九年九月九日条に『丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)を丹波に遣わされた』とあり系図で見るとこの丹波道主命は彦坐王の子になっていて「記」と違っていますが考古学者の間では比古多多須美知能宇斯王と同一人物だとう説が強い様です。また、開化天皇は欠史八代に数えられる天皇であり「記」でも日子坐王の記述以外に天皇の事績についての記述は無く「書紀」には日子坐王関係の記述も天皇の事績についても一切無く僅か数行の記述のみです。
『記紀』のこうした異世代婚と矛盾に満ちた記述をどう理解すればよいのか 
 御上神社 祭神 天之御影命
滋賀県野洲市三上  
 開化天皇
春日率川(いざかわ)坂本陵 
兵庫県龍野市にある
阿宗神社 祭神 息長日子王
「記紀」開化期に記載されている主な息長始祖関連人物  
(古事記)  古事記  日本書紀 
日子坐王  王が娶った四名の女性と十五人の子の詳細記述あり   彦坐王 生誕記述のみ 
息長水依比売  天の御影神の娘、日子坐王との間に四人の子あり   記載なし
丹波比古多多須美知能
宇斯王 
息長水依比売の子・丹波河上摩須朗女と婚姻四人の子あり  丹波道主王(姥津媛の子)と彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと/丹波竹野媛の子)の記述があり、この二王は「記」の比古多多須美知能宇斯王と同一人物とする説あり。
山代大筒木真若王  袁祁都比売の子で山城南部の地名が付いているので山城国綴喜郡に定住していたものと推定。   記載なし
丹波能阿治佐波毗売  大筒木真若王の弟伊理根王の娘で叔父の大筒木真若王と異世代婚して迦邇米雷王を生む。  記載なし
迦邇米雷王  大筒木真若王の子、丹波之遠津臣の娘、高材比売と婚姻して息長宿禰王が生まれる。   記載なし
息長宿禰王  天日矛六代の孫葛城高額比売と婚姻三人の子をもうける。   記載なし
息長帯比売  息長宿禰王の娘 仲哀天皇の皇后(神功皇后)となり応神天皇を生む。  気長足姫尊で記述されるも父母についての記述なし。 
息長日子王  息長宿禰王の子 吉備の品遅君(ほむちのきみ)・針間の阿宗君(はりまのあそのきみ)の祖   記載なし
天日矛  新羅国王の子、妻の阿加流比売(アカルヒメ)のあとを追い渡来してきた記述が応神期にあり。 垂仁3年(前27)3月に新羅の王子天日槍が7点の宝物を携えて播磨国へやって来た。 

山代(やましろ)国綴喜郡の息長伝承  
息長山 観音寺(普賢寺)
京田辺市普賢寺下大門   
 観音寺
由緒説明板 
朱智神社 祭神 迦邇米雷王
京都府京田辺市    
「記」は日子坐王が母の妹、袁祁都比売(をけつひめ)と異世代婚して山代大筒木真若(やましろのおほつつきまわか)王、比古意須(ひこおす)王、伊理根(いりね)王を生み、伊理根王の娘、丹波能阿治佐波毗売(たにはのあぢさわひめ)が叔父の大筒木真若王と異世代婚して迦邇米雷(かにめいかづち)王を生みます。この王、丹波之遠津臣(たにはのとおつおみ)の娘、高材比売(たかきひめ)と婚姻して息長宿禰(おきながすくね)王が生まれ、この王が新羅国王の子、天日矛(あめのひほこ)の子孫、多遅摩比那良岐(たぢまのひならき)の娘、葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子(おきながひこ)王を生みます。息長帯比売は14代仲哀天皇の皇后(神功皇后)・息長日子王は吉備の品遅君、針間(播磨)の阿宗(あそ)君が祖なりと記しています。この系統が後に息長本流系譜に繋がります。
山代大筒木真若王は、その名から山城国綴喜郡に定住したと思われます。大筒木真若王と迦邇米雷王が居住していたのは山代(山城)の綴喜郡筒城朱智長岡荘周辺であったと考えられ(1441)嘉吉元年の奈良興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)』という史料に 「号息長山」という山号が記されていて、近くの天王山高ヶ峰に迦邇米雷王を祭神とする朱智神社があり、この地に古代息長氏の居住を覗わせる史料となっています。また、ここは息長氏出身ではといわれる26代継体天皇の筒城宮の所在地伝承もあり、日子坐王と婚姻した山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)は綴喜郡江津(えのつ)郷の出身といわれています。
開化期の日子坐王系譜で丹波の名の付く人物が多く大和政権の皇族と丹波の豪族との婚姻が注目されます。
息長宿禰王については息長氏の本貫地である現滋賀県米原市能登瀬に居住していた。同地にある息長古墳群の一角である山津照神社にある前方後円墳が息長宿禰王の墓という説もありますが、この古墳の築造は発掘調査で6世紀と判明息長宿禰王とは年代が違い被葬者は不明です。
滋賀県米原市能登瀬の
山津照神社 
山津照神社古墳  調査時の山津照神社古墳 
絵図

息長帯比売(神功皇后)の母方の祖 天日矛渡来伝承
上「記」の天日矛の記述 左は天日矛系譜

息長帯比売(神功皇后)の母方の祖が新羅国王の子、天之日矛(あめのひほこ)であるという伝承による系譜ですが、「記」では天日矛が日本に渡来してきたのは妻のアカルヒメが日矛に愛想つかしして「わが祖(みおや)の国に行く」と云って日本に来たので追いかけてきたと記していますが、記述の冒頭ではではアカルヒメの誕生から日矛の妻になるまでを語っており、アカルヒメは新羅生まれの新羅人で日本を祖(みおや)の国呼ばわりや多遅摩毛理(たじまもり)の記述を垂仁期に日矛渡来記述を「また昔新羅の国主の子…」としていますが応神期に記載するのは年代に矛盾がありすぎます。垂仁天皇の命を受け多遅摩毛理が時じくの香の木の実を求めて10年の歳月をかけて常世国へ行ったとあるので旅立ったのは少なくとも垂仁89年(西暦60年)以前と考えられ、多遅摩毛理が日矛四代の孫であることを勘案すれば8代孝元天皇(前214~前158)の頃が日矛の渡来時期になります。それを四百数十年後の応神期に天之日矛渡来記述を記したのは何故か
『攝津国風土記』逸文にも天日矛の妻が朝鮮半島から遁れ渡来して来た記述があり『比売島(ひめしま)の松原、古(いにしえ)へ軽島の豊阿伎羅(とよのあきら)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇のみ世、新羅国に女神あり 、その夫を遁去(のが)れ来
て、暫く筑紫の国の伊波比(いはひ)の比売島(ひめしま)に住めりき。即ち曰(のたま)ひしく、この島は、猶是遠からず。若しこの島に居ば、男の神尋来なむ」と云ひて乃(すなは)ち更(また)、遷り来て、遂に此の島に停(とど)まりき。故(かれ)、本住(もとす)める地(ところ)の名を取りて、島の名となせり。
アカルヒメの生誕記述は詳細に記されていますが、倭国(にほん)へ遁れたと言う記述のみでその後のアカルヒメの消息については何ら語られていませんが北九州から瀬戸内・難波の上陸地点まで所々に姫島の地名や比売語曽神社があります。(下の写真参考)この他山口県須佐町・福岡県前原町・岡山県総社市に姫島の地名や比売碁曽神社があり、いずれも祭神はアカルヒメです。
また、播磨国風土記・古語拾遺(こごしゅうい)にも『又新羅皇子(シラギノキミノミコ)、海檜槍来帰(アマノヒボコモウデキタル)。今、在但馬国(イマタジマノクニニアリ)、出石郡一(イヅシコホリニ)』と天日矛の記述があります。
いずれも天日矛の渡来時期について記載がなく不明ですが日矛の渡来ル-トは「記」「攝津国風土記」とも朝鮮半島から北九州、瀬戸内海経由となっていますが、何故難波への上陸を遮られたのか又但馬国出石へ辿りつくまでの行程についてはそれぞれの説とも大同小異ですが若干の違があります。
天日矛については新羅国王子や大伽耶(おおかや)国王子説があるが、天日矛とは個人名ではなく族名であるとの説もあり新羅・伽耶諸国・多羅等の製鉄・硬質土器生産技術者集団を日矛族と呼んだともいわれるが確証はない。渡来ル-トも九州-瀬戸内と日本海ル-トとして朝鮮半島南部から丹後半島から若狭湾・敦賀への渡来もあったらしい。これら日矛族の渡来は一世紀頃と推定され筑前国糸島半島に伊都国(いとのくにく)を建国し
大分県姫島村の比売語曽社  大阪市西淀川区の姫嶋神社  大阪市生野区の比売語曽神社  大阪市平野区の赤留比売神社 
これら日矛族の渡来は一世紀頃と推定され筑前国糸島半島に伊都国(いとのくにく)を建国し西暦107年には後漢に朝貢していたといわれる。12代景行天皇期の110年頃には瀬戸内の島伝いに難波を目指したが入れず近江から但馬へ入り出石に定住したという説。近江国では吾名邑に入って暫く住んだと記されており、その折に従人の一部が吾名邑に定着したのが息長氏の祖であるという説もあり、また、日矛族の一部は豊前国にも移動し香春(かはる)で香春山の銅鉱を開発したといわれ同地の香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)、忍骨命(おしほねのみこと)、豊比売命(とよひめのみこと)の三座で神社由緒には
一の岳~辛国息長大姫大目命。二の岳~忍骨命、三の岳~豊比売命、当神社は前記三柱の神を奉斎せる宮祠(ぐうし)にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せられ、各神霊を香春岳上頂三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年(709)に、一之岳の南麓に一社を築き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる。延喜式神名帳に在る、豊前一の宮六座の内の三座なり。 第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土(韓)の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎭座し、香春三所大明神と称し崇め奉りしなり。
また、

 
天日槍が暫住した伝承地
滋賀県米原市顔戸(息長氏本貫地)  
福岡県田川郡香春町
香春(かわら)神社  
 

上は「書紀」の天日槍系譜と記述 









 弥生時代(紀元前300年~西暦300年)  12代景行天皇期(西暦71年~130)に見る息長氏の出自
 
 




出石神社 祭神 天日槍命・出石八前大神
兵庫県豊岡市出石町宮内 
赤留比売神社 祭神 赤留比売命
大阪市平野区東2 
 息長帯比売像(神功皇后) 息長山観音寺 
京田辺市普賢寺下
城楯列古墳群の五社神墳
 伝神功皇后陵
   
阿宗神社 祭神 息長日子王兵庫県龍野市誉田町 

 
「日子坐王系の息長系譜」更新中です今暫くお待ちください。

倭建命(やまとたける)系の息長系図
倭建命(やまとたける)系の息長系図
 上写真左と中は伝景行天皇の纒向日代宮跡。右は伝ヤマトタケル陵(古市白鳥陵)
倭建命(日本武尊)の実在性
この系譜は12代景行天皇(大帯日子淤斯呂和気・おおたらしひこおしろわけ)の皇子、倭建命(やまとたけるのみこと)を祖とする息長系譜です。「記」によると
『大帯日子淤斯呂和気天皇、纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に坐しまして、天の下治らしめしき。この天皇、吉備臣の祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)針間伊那?大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶いて、生みませる御子、櫛角別(くしつわけ)王、大碓命(おうすのみこと)、小碓命(をうすのみこと)またの名は倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭根子命(やまとねこのみこと)、神櫛(かむくし)王の五柱。また八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)の女、八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)を娶して、生みませる御子、若帯日子命(わかたらしひこのみこと)-中略-凡そこの大帯日子天皇の御子等、録(しる)せるは二十一柱。入れ記さざるは五十九柱。併せて八十柱。の中に、若帯日子命(13代成務天皇)と倭建命(やまとたけるのみこと)、亦五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)この三柱は、太子(ひつぎのみこ)の名を負いたまひ、其れより餘(ほか)の七十七王は、悉に国々の国造(くにのみやつこ)、亦和気(わけ)、及稲置(いなぎ)、県主(あがたぬし)に別け賜ひき。かれ若帯日子命は、天の下治らしめしき。小碓命は、東西の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人どもを平(ことむ)けたまひき。……』

倭建命の西征では熊曾建(くまそたける)が『信(まこと)に然(しか)らむ、西の方に吾二人を除きては、建(たけ)く強(こは)く人無し。然れども大倭国(おおやまとのくに)に、吾二人にまして建(たけ)き男は坐(いま)しけり。ここを以ちて吾、御名を献(たてまつ)らむ。今より後、倭建(やまとたける)の御子と称(たた)へまをさむ』いひ以後小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称するようになった。と「記紀」は記述しています。
倭建命の系譜では11代垂仁天皇(伊久米伊理?古伊左知/いくめいりびこいさち)の女、布多遅伊理?売(ふたぢのいりひめ)娶いて帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)を生んでいます。この天皇の記述も后妃と皇子の記事が数行のみで沙庭(さにわ/占い)で神の託宣を疑い天皇が死に至るところ等は神功皇后の項に記述されており、また天皇の出生についても疑義があり仲哀と息長帯比売(神功皇后)については、矛盾に満ちた記述で構成されており、とても歴史的事実とは信じ難い内容になっています。また、倭建命は他五人の妃にも娶いて各一人の子をもうけています。弟橘比売(おとたちばなひめ)に娶いて若建(わかたけ)王、布多遅比売(ふたぢひめ)に娶いて稲依別(いなよりわけ)王、大吉備建比売(おおきびのたけひめ)に娶いて建貝児(たけかいこ)王、山代玖玖麻毛理比売(やましろのくくもりひめ)に娶いて足鏡別(あしかがみわけ)王、一妻(あるみめ)に娶いて息長田別(おきながたわけ)王の五人で、いずれも仲哀天皇の異母兄弟になり、稲依別王は犬上の君、建部の君が祖なり。建貝児王は讃岐の綾の君、伊勢の別、麻佐の首、宮首の別の祖なり。足鏡別王は鎌倉の別、小津の石代の別、漁田の別が祖なり。と「記」は記していますがこの三王については子孫の記述もなく天皇の異母兄弟としては異例のあつかいです。また、息長田別王を生んだ妃のみが珍しく妃の名前を伝えず一妻(あるみめ)と記されており、この王の名も「記」にのみ記されて「書紀」や「上宮記」には見えない名です。この一妻については息長氏系の女性とする説もありますが関連史料がなく不明です。
倭建命を祖とする、この息長系譜が息長氏の本流系譜になるのですが、この系譜でも息長姓の人は息長田別王と息長真若中つ比売の二人のみです。しかも別王の母の名は不詳、別王の姓のみ何故、息長ではなく息長田なのか? そして別王の婚姻者も不詳で生まれた子が杙俣長日子(くひまたながひこ)王、この王の婚姻者も不詳だが飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)、息長真若中津比売、弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁)の三人の子をもうけています。長女の飯野真黒比売は若建王と異世代婚して須売伊呂大中津日子(すめいろおおなかつひこ)王を生み、この王淡海(おうみ)の柴野入杵(しばのいりき)が女、柴野比売(しばのひめ)を娶いて迦具漏比売(かぐろひめ)を生み、この比売が曽祖父の景行天皇の妃になり大江王を生む、という実に複雑で矛盾に満ちた系譜になっています。
倭建命と帯中津日子命(14代仲哀天皇)は親子なのですが、ここにも大きな矛盾があります。「記」では倭建命の生没年は不明ですが、「書紀」仲哀天皇の即位の項に『足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は日本武尊の第二子である。母の后を両道入姫命(ふたじのいりひめのみこと)という。垂仁天皇の女である。天皇は容姿端正で身丈は十尺あった。成務天皇の四十八年に皇太子となられた。時に年三十一』と記されているので、成務四十八年(178)の立太子年令から逆算すると仲哀天皇は(成務十七年(147))生まれとなります。父である倭建命の生没年も「記」で求めることは出来ず、「書紀」では『景行二年(72)三月三日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)を皇后とされた。后は二人の男子を生まれた。第一を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二を小碓皇子(をうすのみこ)という、その大碓皇子と小碓皇子は一日に同じ胞(えな)に双生児として生まれられた」と記しているので推定生年は景行三年(73)~五年(75)頃と推定できます。ただ、これでは仲哀の項の立太子年齢から逆算した生年とは大きく食い違いがでます。没年については年月の記述はなく、東征に出発したのは景行四十年(110)秋七月十六日、とあり日付のない日本武尊東征、病没記述があり古市邑の白鳥陵の記述があり、この年は天皇が皇位につかれて四十三年である。と記されているので没年は景行四十二・三年(112~113)と推定されます。これで見ると仲哀天皇は父の死後三十四・五年経過しての誕生という矛盾さです。また仲哀天皇の没年は「記」には記載がなく、「書紀」では仲哀九年二月六日となっています。また品陀和気命(ほむだわけのみこと/応神天皇)の誕生についても「記」では新羅遠征から還った神功皇后が「筑紫の国に渡りましてぞ、その御子は生まれましつる。」との記事のみで年月日の記載なし。「書紀」では『仲哀九年十二月十四日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。』という簡潔な記事になっています。
「記」の記述では『また、この品陀(ほむだ)の天皇の御子若野毛二俣の王、その母の弟(妹)百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、またの名は弟日売真若比売の命に取(あ)ひて生みませる子、大郎子(おほいらつこ)、またの名は意富富杼(おほほど)王次に忍坂大中津比売命、次に田井中比売、次に田宮中比売、次に藤原琴節郎女、次に取売(とりめ)王、次に沙禰(さね)王の七柱。かれ意富富杼王は、三国の君、波多の君、息長の坂の君、筑紫の米多(めた)の君、酒人の君、山道の君、布勢の君等が祖なり。また根鳥の王、庶妹三腹(ままいもみはら)の郎女(いらつめ)に娶ひて生みませる子、中日子の王、次に伊和島の王の二柱。また、堅石(かたしは)の王の子は、久奴(くぬ)の王なり。およそこの品陀の天皇。御年壱百参拾歳(ももぢまりみそぢ)。甲午の年九月九日に崩(かむあが)りたまひき。御陵は、川内(河内)の惠我の裳伏(もふし)の岡にあり。』と記されています。
この応神天皇と息長真若中比売との間に若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)が生まれ、この王が息長真若中津比売の妹である弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁)と異世代婚し七人の子を生み長男、大郎子(おほいらつこ)亦の名、意富富杼王(おほほどのみこ)が近江息長の祖になり、長女の忍坂大中つ比売は19代允恭天皇(412~453)の皇后に、二女、三女の田井中比売・田宮中比売についての消息記述はなく、允恭朝の初期に『太后の弟田井中比売の御名代として、河部を定めたまひき。』と記されています。
「書紀」では応神天皇の妃河派仲彦(かわまたなかつひこ)の女弟姫(おとひめ)は、稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)を生んだ。と記すのみで二派皇子の婚姻者やその子についての記述はありません。「記」でも二俣王の七人の子女の内、田宮中比売、取売(とりめ)王、沙禰(さね)王については名を記すのみでその消息については何等の記述もありません。また 応神の出生についても疑問があり「記紀」の出生記述は前述のとおりですが「記」には仲哀天皇は息長帯比売命に娶ひたまひき。この太后の生みませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おおともわけのみこと)亦の名品陀和気命(ほむだわけのみこと)。二柱。「書紀」では仲哀天皇二年一月十一日条、天皇は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とされた。-中略-大酒主(おおさかぬし)の女、弟媛(おとひめ)を娶とって、誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生んだ。とあり誉田天皇(応神)の事についての記述は無く、巻九の気長足姫尊の項に九年(仲哀9年?)十二月十四日条、『後の応神天皇を筑紫で産まれた。』と応神誕生記述がある。
仲哀九年は西暦200年になりますので、この年から六十九年間、神功皇后の摂政期間が続き応神の即位は270年となり七十歳での即位で治世期間が四十一年有り、その没年は「記」には『御年百三十歳、甲午(きのえうま)の年九月九日に崩(かむあが)りたまひき。御陵は、川内(河内)の恵賀の裳伏(もふし)の岡にあり。』と記しています。
「書紀」は『四十一年春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。時に御年百十歳。一説では大隅宮でお亡くなりになったともいう。』とあり「記紀」で大きな違いがあります。「記」の没年甲午(こうご)年は334年。「紀」の四十一年は310年で庚午(かのえうま)で二十四年もの差が生じてきます。「記紀」の記述には他にもこうした紀年の差が多くあり、また応神・仁徳同一人物説等もあります。
上の写真は息長氏の本貫地である北近江坂田郡(現米原市能登瀬)地域を訪ねたときのものです。 
上左から山津照神社で祭神は国常立尊(くにのとこたちのみこと)創建年代不明、式内社で(851)仁寿元年に正六位(866)正四位の神階を授与されている。次は山津照神社本殿。次は米原市能登瀬を流れる天野川(旧息長川)。次は塚の越古墳は息長古墳群の中の一つで全く原型を留めない古墳ですが、築造時期は山津照神社古墳より古いといわれています。
下段左から人塚山古墳。次は日撫神社、創建年代不明、祭神少彦名命・息長宿禰・応神天皇延喜式内坂田五社のひとつ。次は顔戸(がんど)地区にある天日槍(あめのひほこ)がこの地に暫住したという伝承地。次は同地にある息長宿禰王が帯比売(神功皇后)を抱いている像。 
倭建命の子、帯中津日子命は14代仲哀天皇で他の四名の異母兄弟の内三名はそれぞれ地方に派遣されますが、息長田別王については地方への派遣記事・居住地についても何等記事がなく、父景行天皇の宮が纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮(桜井市穴師)になるので倭建命もこの地から東征に出征しているので別王の居住地も日代の宮周辺と推定されます。息長田別王の子に杙俣長日子王がいますが親子共婚姻者不明で杙俣長日子王は三人の娘をもうけます。長女の飯野真黒比売は若建王と異世代婚、須売伊呂大中津日子(すめいろおおなかつひこ)王を生み、この王が淡海(おうみ)の柴野入杵(しばのいりき)が女柴野比売に娶いて生んだのが迦具漏比売(かぐろひめ)でこの比売が大帯日子の天皇(景行天皇)に娶ひて生まれたのが大江王。この大帯日子の天皇が迦具漏比売を娶るなどとんでもない異世代婚で到底この記事を信じることは出来ません。
また、「記」では品陀和気命(応神)が迦具漏比売を娶いて生みませる御子として川原田郎女(かわはらだのいらつめ)、玉郎女(たまのいらつめ)、忍坂大中つ比売(おしさかのおほなかつひめ)、登富志郎女(とほしのいらつめ)、迦多遅(かたぢ)王の五人を生んでいます。
この迦具漏比売は景行期の迦具漏比売と同名で忍坂大中つ比売も同名の比売が若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王の子で後に允恭皇后になる忍坂大中つ比売(をさかのおほなかつひめ)がおり、迦具漏比売は同年代、忍坂大中つ比売は系図では一世代違いになるものの「記」には、この同名の比売についての説明もなく不可解のままです。
品陀和気命(応神天皇)と迦具漏比売の間に生まれた忍坂大中つ比売と四人の子女達は若沼毛二俣王と異母兄妹になるわけですが、その後の消息についての記述はなく、この二人の迦具漏比売と忍坂大中つ比売は「記」にのみ登場する謎めいた人物です。
若沼毛二俣王の七人の子女についても大郎子は近江息長の祖、忍坂大中つ比売、藤原琴節郎女は允恭天皇の后妃になった記述はありますが他の四名についての記述はありません。
 御名代(みなしろ)
大化の改新以前の皇族の私有部民(べみん)。諸国の国造(くにのみやつこ)の民から割いて設け、皇族名を付した。子代(こしろ)とともに皇族の経済源となった。
 刑部(おさかべ)
皇子や皇后に部(領地)と部民(領民)を与え、その部に皇族の住居や宮の名をつけた名代・子代(なしろ・こしろ)とした。 
河部(かはべ)
允恭天皇の皇妃忍坂之大中津比売の妹田井中比売の名代部といわれる。「書紀」にはには河部設置の伝承はみられない。
杙俣長日子王の次女息長真若中つ比売が品陀和気命(ほむだわけのみこと/応神天皇)の妃となり若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王を生み、この王は百師木伊呂弁(ももしきいろべ)と異世代婚して七人の子女を生みます。
「記」応神期の記述にまたこの品陀の天皇の御子、若沼毛二俣王、その母の弟、百師木伊呂弁(ももしきいろべ)、またの名は弟日売真若比売(おとひめまわかひめ)命に取ひて生みませる御子、大郎子(おほいらつこ)、またの名は意富富杼(おほほど)王、次に忍坂大中津比売(おさかのおほなかつひめ)命、次に田井中比売(たいのなかひめ)、次に田宮中比売(たみやのなかひめ)、次に藤原琴節郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)、次に取売(とりめ)王、次に沙禰(さね)王の七柱。』これで見ると百師木伊呂弁と弟日売真若比売は同一人ということになり甥と叔母の異世代婚で七人の子女を生んでいます。長男の意富富杼(おほほど)(大郎子おほいらつこ)が近江坂田郡に赴き息長系氏族の祖となったと「記」は記しています。意富富杼王は三国の君、波多(はた)の君、息長坂の君、筑紫の米多(めた)の君、酒人(さかひと)の君、山道(やまじ)の君、布勢(ふせ)の君が祖なり。と記され、長女の忍坂大中津比売(をさかのおおなかつひめ)が19代允恭天皇の皇后に四女の藤原琴節郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)が允恭の妃になっていますが、父の若沼毛二俣王は15代応神天皇と母は応神妃の息長真若中津比売で両親とも200年~269年の神功摂政時代の生まれとなります。其の推定生年は220年~230年の間となります。「書紀」では允恭天皇(412~453)の皇后です。これも驚くべき異世代婚になります。しかも皇后は木梨軽(きなしのかる)王、長田大郎女(ながたのおおいらつめ)、境黒子(さかいのくろこ)王、穴穂命(あなほのみこと/20安康天皇)、軽大郎女(かるのおおいらつめ)、またの名は衣通郎女(そとほしのいらつめ)、八?白日子(やつりのしろひこ)王、大長谷命(おおはつせのみこと/21雄略天皇)、橘大郎女(たちばなのおほいらつめ)、酒見郎女(さかみのいらつめ)、男王五柱、女四柱の九柱の御子をもうけています。
允恭天皇が衣通郎女を宮中に召そうとした時、皇后は母に随(したが)ひて、近江の坂田にありこの言葉が大和の息長氏と近江の息長氏を結ぶ唯一の言質となつています。また、この天皇の治世に氏・姓を糾(ただ)す盟神探湯(くがたち)の記述があり允恭天皇四年九月九日条、上古、国がよく治っていた時は、人民も所を得て、氏姓が誤ることもなかった。いま自分が践祚(せんそ)して四年であるが、上下相争って百姓も安らかでない。誤って自分の姓(かばね)を失う者もある。あるいは故意に高い氏(うじ)を詐称する者がある。よく治まらないのはこういうことによる。自分は微力といえども、この誤りを正さねばならぬ。群臣らはよく議定せよ。群臣百寮および諸(もろもろ)の国造らは皆それぞれに「帝の後裔であるとか、天孫降臨に供奉して天降ったもの」とかいう。しかし開闢(かいびゃく)以来万世を重ね、一つの氏から多数の氏姓が生まれ、その実(まこと)を知り難い。それで諸(もろもろ)の氏姓(うじかばね)のひとたちは斎戒沐浴(さいかいもくよく)し盟神探湯(くがたち)により証明すべきであるこの記述によっても当時すでに諸氏のもつ祖先伝承が、かなり乱れていたことがわかります。
盟神探湯(くがたち)伝承のある甘樫坐(あまかしにます)神社 

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上宮記と日本書紀の息長系図
上宮記と日本書紀の息長系図
上左は『上宮記に曰く、一に云う、凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)、弟比売麻和加(おとひめまわか)に娶ひて生める児、若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)、母母思己麻和加中比売(ももしきまわかなかひめ)に娶りひて生める児、大郎子(おほいらつこ)・亦の名意富富等王(おほほどのみこ)、妹践坂大中比弥王(ほむさかのおほなかつひめみこ)、妹田宮中比弥(たみやのなかひめ)、弟布遅波良己等布斯郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)、四人なり、此の意富富等王、中斯知命(なかしちのみこと)に娶ひて生める児、乎非王(おひのみこ)、久留比売命(くるひめのみこと)に娶ひて生める児、?斯王(うしのみこ)、布利比弥命(ふりひめのみこと)に娶ひましき。?斯王、弥乎国(みおのくに)高嶋宮に坐(ま)します時、此の布利比売命の甚美(いとうるは)しき女(をみな)なりといふことを聞(きか)して、人を遣(まだ)して三国の坂井県(さかいのあがた)より召上げて、娶ひて生みませるは、伊波礼宮(いわれのみや)に天の下治(しろ)しめしし乎富等大公王(をほどのおほきみ)なり。父の?斯王、崩去(かむさ)りまして後、王の母、布利比売命の言曰(のりたま)はく、「我独(ひと)り王子を持ち抱きて、親族部(うがらども)なき国にあり。唯我独(ただわれひと)りにては養育奉らむこと難(むずか)し」と云ひ、ここに祖(みおや)の在(い)ます三国に将(い)て下り去(ゆ)き、田加牟久(たかむく)村に坐(ま)さしめき。』という上宮記から作成した継体天皇の出自系図ですが?俣那加都比古(くひまたなかつひこ)の婚姻者は上宮記でも不明ですが、この王の子、飯野真黒比売・息長真若中津比売・弟比売の三人。「記」では息長真若中津比売が応神天皇妃になりますが、「書紀」「上宮記」では弟比売が応神天皇妃であると記しています。「記」記述にある息長真若中つ比売は「書紀」「上宮記」に見られないのはなぜ? この件についても考察しましたが合理的な回答を見出すことは出来ませんでした。
「上宮記」は乎富等大公王(をほどのおほきみ/26継体天皇)の系譜で、この天皇は息長氏が擁立した天皇と言う説のある天皇です故、「記」の倭建命の息長系譜と関連があり比較してみると上宮記系図では?俣那加都比古(くひまたなかつひこ)の女(むすめ)弟比売麻和加(おとひめまわか)が凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/15応神)に娶ひて若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)を生み、この王が母母恩己麻和加中比売(ももしきまわかなかつひめ)を娶り大郎子(おほいらつこ)、践坂大中比弥王(ほむさかのおほなかつひめのみこ)、田宮中比弥(たみやのなかつひめ)、布遅波良己等布斯郎女(ふぢはらのことふしのいらつめ)の四人の子女を生んでいます。「記」との相違点は息長真若中つ比売・田井中比売・取売王・沙禰王の名がないことです。いま一つの注目点は15代応神天皇を凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)・11代垂仁天皇を伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおほきみ)26代継体天皇を乎富等大公王(をほどのおほきみ)と記載していることから、応神は王(みこ)で垂仁・継体には大王・大公王(おほきみ)の称号がついており、応神は即位していないという説や実在せずとの説もあります、即位していれば王ではなく大公王・大王の称号が付いている筈というのがその論拠です。応神架空人物説は神功皇后(息長帯比売)を後世に作為挿入したというものです。「記」では若沼毛二俣王の母は息長真若中つ比売ですが「書紀」と「上宮記」では妹の弟比売麻和加になっており、「上宮記」では二俣王の子も四人になっています。「書紀」では允恭皇后の忍坂大中姫命と妹で允恭妃となった弟姫(衣通郎女ことおしのいらつめ)の二人以外の人物の記述はありません。また、この系譜には息長姓の人物はゼロです。
上右の系図は「書紀」の息長系図で稚野毛二俣皇子の母は「上宮記」と同じく弟姫です。また、この皇子の子は忍坂大中姫命と弟姫(衣通郎女)の二人になっています。
「記」「上宮記」「書紀」系譜の内容が異なりますが異世代婚、息長姓の人が「上宮記」「書紀」系譜では見られません。しかし、いずれの系譜も若野毛二俣王の子までで一旦終わります。この時期は230~260年と推測され、次の仁徳・履中・反正(313~410)の約一世紀間途切れて412年允恭期になり、忍坂大中津比売が允恭天皇皇后として登場します。系譜が正しいとするならば、この比売は百歳以上になっています。
「記」によると『弟男浅津間若子宿禰王(をあさづまわくごのすくねのみこ)遠つ飛鳥の宮にましまして、天の下治らしめしき。この天皇、意富本杼(おほほど)の王が妹、忍坂大中津比売に娶ひて、生みませる御子、木梨軽(きなしかる)王、次に長田大郎女(ながたのおほいらつめ)、次に境墨日子(さかいのくろひこ)王、次に穴穂命(あなほのみこと)、次に軽大郎女(かるのおおいらつめ)、またの名は衣通郎女(そとほしのいらつめ)御名を衣通の王と負わせる所以は、その身の光衣より通し出づればなり。次に八?(やつり)白日子王、次に大長谷命(おほはつせのみこと)、次に橘大郎女、次に酒見郎女(さかみのいらつめ)。九柱。男王五、女王四.この九王の中に、穴穂命(安康天皇)は、天の下治らしめしき。次に大長谷命(雄略天皇)も、天の下治らしめしき』とあり、忍坂大中津比売は九人もの子を生んでいます。また、『大后の御名代(みなしろ)として、刑部(おさかべ)を定め、大后の弟田井中津比売の御名代として、河部(かはべ)を定めたまひき。』とあり田井中津比売に河部を定めた記述があります。
忍坂大中津比売の九人の子女の中で20代安康・21代雄略と二人の天皇の母として「書紀」によると雄略期まで皇太后として健在であったことがわかりまが忍坂大中津比売は応神天皇の孫娘にあたるので、その推定生年は200年代後半になり雄略期(457~479)には少なくとも200歳ちかくになる矛盾が生じます。また、「田井中津比売に河部を定めた」とありますが大后の妹というだけで部を与えた記事にも疑問があります。
名代(なしろ)とは大化以前の皇室私有民で天皇・皇后・皇子らの宮を維持するための費用を貢進する部民制度で刑部(おさかべ)も名代と同じでその分布は畿内に留まらず当時の大和朝廷の支配地域全体に分布しています。中でも有名なのは允恭天皇のとき,皇后忍坂大中比売のために設けられた大和忍坂宮で,刑部は現桜井市忍坂にあったといわれ息長氏が宮廷にいれた后妃のために経営したもので忍坂部といわれる宮です。また、ここは息長系の継体天皇も一時期ここに居住された伝承もあり、和歌山県橋本市の隅田八幡神社の人物画像鏡の金石文に「癸未(みずのとひつじ)八月日十六王年□弟王在位意紫沙加宮(おしさか)……」この文中の□不明箇所を「男」とし「男弟王(おおどのきみ)」が意紫沙加宮(おしさか)として、この男弟王(おおどのきみ)とは「書記」の「男大迹王(おおどきみ)」即ち継体天皇だとする説もあり、継体は息長氏が擁立した天皇であり即位前の一時期息長氏が管理する忍坂に居住していたとする説ですが、これを立証する史料はなく真偽の程は不明ですが唯一「息長足日広額天皇(おきながたらしひろぬかのすめらみこと)」の名をもつ舒明天皇の御陵が忍坂にあり、忍坂宮の存在は、あながち伝承のみではないようにも思われます。これとよく似た伝承のあるのが、やはり息長一族の杙俣長日子(くひまたながひこ)王で、この王が伎人郷に居住しておりその名の杙俣が訛って杭全(くまた)になった。田井中津比売は河内国志紀郡の田井中郷に居住して、その地名を名乗っていた等の説もありますが、これに伴う2次3次資料もなく全く信憑性のない話のようです。
「記紀」「上宮記」に見える息長系譜の主な登場人物を下記の表にしてみました。「上宮記」は継体天皇の系譜を表しているので息長に関する記述は?俣那加都比古(くひまたなかつひこ)から若野毛二俣王の子女まで。()内は父にあたる人 ★印は息長姓を持つ人
 古事記   日本書紀 上宮記 
 日子坐王(9開化天皇)  彦坐王(9開化天皇)  
★息長水依比売(天日影神)    
 山代大筒木真若王(日子坐王)    
 迦邇米雷王(山代大筒木真若王)    
★息長宿禰王(迦邇米雷王)    
★息長帯比売(息長宿禰王)  気長足姫尊(息長宿禰王)  
★息長日子王(息長宿禰王)     
 小碓命(12景行天皇)
  亦の名 倭建命
 小碓尊(12景行天皇)
  亦の名 日本武尊
 
★息長田別王(倭建命)    
 杙俣長日子王(息長田別王)  河派仲彦(一)  ?俣那加都比古
★息長真若中つ比売(杙俣長日子王)    
 弟比売(杙俣長日子王)
  亦の名 百師木伊呂弁
 弟姫(河派仲彦)  弟比売麻和加(?俣那加都比古)
 若沼毛二俣王
 (15応神天皇/品陀和気)
 稚野毛二派皇子
  (15応神天皇/誉田天皇)
 若野毛二俣王(凡牟都和希王)
大郎子/息長坂君(若沼毛二俣王)
  亦の名 意富富杼王
   大郎子 亦の名 意富富杼王
    (若野毛二俣王)
 忍坂大中津比売(若沼毛二俣王)  忍坂大中姫命  践坂大中弥王(若野毛二俣王)
 田井中津比売(若沼毛二俣王)    
 田宮中比売(若沼毛二俣王)    田宮中比弥(若野毛二俣王)
 藤原琴節郎女(若沼毛二俣王)  弟姫  亦の名 衣通郎姫  布遅波良己等布斯郎女
  (若野毛二俣王)
 取売王 (若沼毛二俣王)    
 沙禰王 (若沼毛二俣王)    
★息長真手王(出自不明)     
上表で見られるように「記」では息長氏族が詳しく記載されていますが「書紀」の記載は簡略すぎて息長系図の作成は出来ません。但し気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)に関しては巻九を全て気長足姫尊の事績記述にあて天皇なみの扱いになっています。息長系譜は開化期の「日子坐王系」・景行期の「倭建命系」・継体期の「息長真手王系」 の三系統になりますが息長姓を名乗る人物は僅か八名しか記載されていないという他には見られない系譜です。古代の豪族の系図をみても例えば大伴氏ですが、天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、天忍日命の曾孫、道臣命(みちのおみのみこと)の七世の孫にあたる武日命(たけひのみこと)が大伴氏を賜姓され以来代々大伴姓を名乗っています。葛城・蘇我・物部氏等も同じで、息長氏のように一族の系譜に他姓を持つ人が入るのは異例中の異例です。
また、若野毛二俣王の父である応神の和風諡号の読み方で「記」では『品陀和気(ほむだわけ)』「書紀」では『誉田天皇(ほむたのすめらみこと)』と読み、「上宮記」では『凡牟都和希王(ほむつわけのみこ)』で「都」は「つ」と読むべきであるとの説があり、また、「上宮記」系譜に11代垂仁を『伊久牟利比古大王(いくむりひこのおほきみ)26代継体を『乎富等大公王(をほどのおほきみ)』と記しているが15代応神を『几牟都和希王(ほむつわけのみこ)』と記しており、几牟都和希王は応神とは別人物だという説もあり、「記紀」の応神の出生記述の疑問、 応神・仁徳同一人物説・「書記」に応神の墳墓記述がない等から応神の実在性に疑問を持つ説もあります。私も14代仲哀天皇の出生に疑問を持ち、息長帯比売の記述は後代述作物語であると考えていますので、応神天皇に関しては実在性に疑問をもっています。「記」では上つ巻・中つ巻・下つ巻の三巻に纏めて編纂され上つ巻は神話の世界。中つ巻は初代神武天皇から15代応神天皇まで。下つ巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までに編纂されています。この中で注目されるのは中つ巻で15代の天皇の名に神の名がつく天皇が三人、皇后が一人おられます。初代神武・10代崇神・15代応神天皇と神功皇后です。勿論この天皇の漢風諡号は奈良時代に付けられたものですが、「記紀」編纂中でもあり、編纂者から何等かの関与があったのか、或いは「記紀」編纂に影響を与えたものか、その辺の事情は資料がなく不明です。また、初代天皇は神武ではなく10代崇神天皇とする説や2代綏靖天皇から9代開化天皇までの実在を否定する欠史八代説が史学界にあり、当然それに反論する説もあり文字文化もなく、発掘調査による出土遺物では遺物の年代推定はできても、この時代の天皇の実在可否までの判定は出来ません。これは私の素人憶測ですが「記紀」の編纂者の間でも縄文・弥生時代に関しては何等の資料もなく口承伝承も雲をつかむ様な状態で、しかも建国の歴史を紀元前660年に設定されては困り果てたことでしょう。天皇の漢風諡号の作成者といわれる淡海三船(おうみのみふね)15代応神天皇までに三人の天皇と一人の皇后に神の名をつけたのは、この時代はまだ神話の世界であることを暗示したのでは、「記」の編纂者の太安万侶(おおのやすまろ)も中つ巻を神武~応神までとし神話の世界と見ていたのではないでしょうか。
継体・敏達期の息長系図と応神~欽明・天皇家系図 
上右は15代応神天皇から29代欽明天皇までの系譜です。この間で息長氏出身の后妃は15代応神妃の息長真若中比売(「書紀」弟姫。「上宮記」弟比売麻和加)19代允恭皇后の忍坂大中津比売〈「書紀」押坂、「上宮記」践坂(ほむさか)〉26代継体妃の麻組郎女です。   
次に「古事記」に息長氏が登場するのは継体期になって突如「息長真手王」が登場しますが、この真手王の出自が全く不明なのです。継体天皇もまた出自不明で応神五世の孫といわれていますが定かではなく、息長系とか、継体擁立には息長氏が関わった等の説が多くありますが、私にはどの説が正論なのか判りません。息長真手王の女(むすめ)、麻組郎女(おみのいらつめ)・比呂比売(ひろひめ)の二人がおり、麻組郎女は継体の妃で佐佐宣郎女(ささげのひめみこ・書紀では荳角皇女)を生みます。比呂比売は敏達天皇の皇后として忍坂日子太子(おさかのひこひとひつぎのみこと)を生んでこの系統が息長の和風諡号をもつ舒明天皇に繋がっています。ここでの疑問は息長真手王の出自が全く不明であり麻組郎女と比呂比売は姉妹であるが、比呂比売は書紀によると敏達天皇の皇后として(575)敏達五年正月に立后したものの、同年十一月に亡くなっていますが、敏達天皇との間に忍坂日子人太子他に二女を生んでいますので立后前から敏達の妃であったのか? また、継体天皇の生年は西暦450年、一方敏達天皇の生年は西暦538年であり、 継体期(507~531)に姉妹であった麻組郎女・比呂比売の二人が麻組郎女が継体の妃となり、その妹、比呂比売は575年に敏達の皇后となっていて、この年代差は信じ難い話です。
「書紀」によると敏達四年(575)春一月九日条、息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。一男二女を生んだ。第一が押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおおえのみこ)またの名は、麻呂古王(まろこのみこ)という-第二が逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)、第三が菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)という。
「書紀」敏達四年冬十一月、皇后広姫が薨じられた。
敏達五年(576)春三月十日条、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)を立てて皇后とした。 (この姫尊(ひめみこ)は後の推古天皇)
米原市村居田に伝息長広姫稜が光運寺の裏にあります。現在の陵墓は明治二十八年に石柵を作り整備されたもの。(1696)元禄九年に光運寺本堂改築時に石槨と石棺が発見されており、古図によると石棺は四基の縄掛突起をもつ家形石棺であり、付近から出土した埴輪は五世紀末のものと考えられ、古図の家形石棺の様式から考えられる年代と一致し、六世紀の広姫とは年代が合わない。六世紀の前方後円墳は米原市能登瀬・新庄地域にある息長古墳群のみであり、もし広姫稜が北近江に築造されたとするなら、この息長古墳群の中ではないかと思われます。因みに滋賀県米原市村居田に敏達皇后息長広姫の陵墓伝承のある村居田古墳があります。この息長陵といわれる息長広姫陵について滋賀県文化財保護協会の辻川哲郎氏の『村居田古墳の再検討』と題した研究論文がありますので下記をクリックしてご覧ください。
村居田古墳の再検討  
※ クリックしていただくと[紀要 第19号]の文字が出るので下へ移動していただくと本文が出てきます。
 息長足日広額天皇(舒明天皇)
 奈良県桜井市の忍坂内陵
 伝息長広姫稜
米原市村居田
 伝忍坂日子人太子陵
奈良県北葛城郡広陵町
息長氏が自己の系譜を「記紀」に定着させたのが敏達期から忍(押)坂日子人太子・舒明期であるとする説を唱える学者の方が多く近年この説が通説となっています。
また敏達天皇と比呂比売の間に生まれた忍坂日子人太子は異母妹の糠代比売王(ぬかでのひめみこ)と婚姻して田村皇子(舒明天皇)を生んでいます。この忍坂日子人太子については皇位継承者であったが非蘇我系であったため、皇位につけず忍坂部等の独立した財政基盤を有し、水派宮(みまたのみや、奈良県河合町)を営んでいたという説もあります。この王伝来の部は皇祖大兄御名入部(みなしろべ)と呼ばれ、太子の子である田村皇子(舒明天皇)や孫の中大兄皇子(天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納されたと「書紀」に記されています。忍坂日子人太子の系統が大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの基盤があったからだと言われています。
また、舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)でこれは息長氏が田村皇子(舒明天皇)の湯人(養育者)であったことに由来するといわれていますが真偽のほどは不明です。この舒明天皇が宝女王(たからのひめみこ)を皇后として葛城皇子(かつらぎのみこ/中大兄皇子)・間人皇女(はしひとのひめみこ/孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(おほあまのみこ/天武天皇)を生みます。この時期の息長氏は天皇家に后妃を入れ皇室との密接な関係を築き天武朝には八色の姓(やくさのかばね)で真人賜姓を得るなど皇親氏族として絶好調の時期を迎えていますが政治の表舞台には登場せず、舒明天皇の殯宮に息長山田公が「日嗣(ひつぎ)」を誅していますが、この息長山田公の舒明朝における地位・事績等史料がなく不明です。
持統朝~元明朝に息長真人老(おゆ)が従四位上まで上がっているのが息長氏族として文献史料に見る最高位で奈良時代以降(715~)の息長一族は従五位またはそれ以下の中下級官人です。一部に云われているような「記紀」編纂に息長氏が介入しているという説もありますが、そのような地位にいたと思われる有力な人材は見あたりません。
 ※ 御名入部(みなしろべ)とは一定の役割をもってヤマト王権に奉仕することを義務づけられた大王直属の集団であり、『官職要解』には、「王族の功業を後世に伝えるために置かれた部民」と記されています。「書紀」によると(646)大化二年の「改新の詔」で廃止されています。
息長真人老の事績
息長真人老  (続日本紀による)
   (692)持統6年11月8日、 直広肆(じきこうし)遣新羅使息長真人老
   (705)慶雲2年4月22日、 任従四位下息長真人老任右大弁
   (708)和銅元年3月13日、 任従四位下息長真人老任兵部卿 
          9月4日、 任従四位下息長真人老任左京太夫
   (711)和銅4年4月7日、 授従四位下息長真人老を任従四位上を授けた。
   (712)和銅5年10月20日、 従四位上息長真人老が卒した。 

 息長系譜の信憑性
この「記」から抽出した息長系譜は開化期の「日子坐王系」・景行期の「倭建命系」・継体期の「息長真手王系」の三系統に分かれ、この間約六百九十年間に息長姓の人物が八人しか登場しないことと、日子坐王系の系譜では山代大筒真若王(やましろのおおつつきまわか)-迦邇米雷王(かにめいかづち)と山背国綴喜郡(やましろのくにつづきぐん)と京都府南部の地名をもつ人の子が息長宿禰王であり、ここで突然息長姓の人物が登場し、葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのおう)を生んでいます。息長帯比売が応神天皇を生みこの天皇が景行期の「倭建命系」の息長田別(おきながたわけ)王が、杙俣長日子(くひまたながひこ)王を生みますが別王・長日子王ともに婚姻者不明です。また、別王は帯中津日子命(仲哀天皇)と異母兄弟になりますが別王の事績等についての記述は一切無く「記」にのみその名が見られるだけで、生没年・事績等は一切不明で実在が疑問視される人物です。息長系の人物で事績等が記されているのは息長帯比売命(神功皇后)・忍坂大中津比売・藤原琴節郎女の三人でいずれも女性です。男性たちはすべて事績の記載なく系譜に名を記すのみ。息長真若中比売が応神天皇の妃になることで開化期の「日子坐王系」と景行期の「倭建命系」の息長が結ばれ若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王から大郎子(おほいらつこ)亦の名意富富杼(おほほど)王、忍坂大中津比売(おさかのおほなかつひめ)、藤原琴節郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)ほか四人の子女を生み、意富富杼(おほほど)王が北近江に赴き息長・酒人・三国・波多・山道君等の祖になったと「記」は記しています。これらは全て神功摂政期の(201~269)の出来事で、応神天皇の生年は西暦201年1月1日とされていますから即位した西暦270年は六十九歳で崩年は西暦310年2月15日(紀年は書紀による)宝年110歳になります。「記」では品陀(ほむだ)天皇。御年壱佰参拾歳。甲午
(きのえうま)の年九月九日に崩(かむあが)りたまひき。とあり甲午(きのえうま)年は西暦394年になります。「記紀」で応神の没年について84年の差異が生じます。また、「記」では御陵は、川内(かふち)の恵賀の裳伏(もふし)の岡にあり。と記していますが「書紀」には四十一年(310)春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。時に御歳百十歳。一説では大隅宮でお亡くなりになったともいう。御陵に関しての記述はなく陵墓記述のない天皇は珍しい。「書紀」編者は何故応神の陵墓を記載しなかったのだろう。そして応神期で息長系譜は「記」から消えて次に19代允恭天皇期(412~453)になって突如復元します。それは神功摂政期(201~269)に誕生した忍坂大中津比売と妹の藤原琴節郎女が19代允恭天皇(412~453)の后妃になって登場する矛盾記述です。神功摂政期(201~269)でこの間に生まれた忍坂大中津比売と藤原琴節郎女が允恭天皇の后妃になるなど考えられないことで「記紀」編纂者はこのような矛盾記述をどのような考えの基に挿入したのでしょうか、しかも同じ矛盾記述が継体期にもあるのです。26代継体期(507~531)に先の允恭期以来途絶えていた息長系譜が突如復活して出自不明の息長真手王とその女(むすめ)麻績娘子(おくみのいらつめ)と妹、広姫(ひろひめ)が出現。姉の麻績娘は継体天皇の妃となり一女をもうけます。妹の広姫は30代敏達天皇(572~585)の皇后となり忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)、坂騰(さかのぼり)王、宇遅(うぢ)王を生みます。「書紀」によると敏達四年一月九日、敏達天皇は息長真手王の女広姫を立てて皇后とし一男二女をもうけます押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)、逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)、菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)の皇子女です。 敏達四年冬十一月、皇后広姫が薨じられたと記されています。広姫の姉の麻績娘子が継体天皇(507~531)の妃で「書記」によると継体元年(507)三月十四日に麻績娘子を妃に迎えたと記されて居るので当年十八歳と仮定すると妹広姫の仮定年齢は十六歳、敏達即位の
572年の広姫は八十歳ということになります。敏達天皇の推定生没年が538~585年とされていますから六十七歳年上の皇后を迎えたことになります。
「記」では息長真手王が女、麻組郎女(おくみのいらつめ)に娶いて、生みませる御子、
佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)一柱。敏達天皇の項では息長真手王が女、比呂比売命に娶いて、生みませる御子、忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)またの名は麻呂古王、次に坂騰(さかのぼり)王、次に宇遅(うぢ)王の三柱。
「記紀」ともに人名の字体の違いはありますが内容は大筋で一致しています。
息長系譜といわれる系譜にはこうした異世代婚が多く有り、矛盾記述や異世代婚そして途切れる系譜と不可解な問題が山積しており、この様な系譜を歴史的事実としては到底信じられません。史学界の論説によると息長氏が古代皇室の系譜作成に関与し息長氏を皇室系譜に結び付けたといわれています。しかし「記紀」編纂時期に息長氏が編纂に介入するほどの実力者を擁していたとは思えず、ましてや息長氏が自家系譜を皇室系譜に挿入させるなど全く不可能です。それでは天武朝に諸家の系譜提出を求められたときに息長氏はこのような矛盾に満ちた系譜を提出したのか? 否です出自については疑問のある系譜であったかも知れないが一応筋の通った系譜であったと思われます。「続紀」(693)持統天皇五年八月十三日、『十八の氏(大三輪・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ)・藤原・石川・巨勢(こせ)・膳部(かしわで)・春日・上毛野(かみつけの)・大伴・紀伊・平群(へぐり)・羽田・阿倍・佐伯・采女(うねめ)・穂積・阿曇(あずみ)に詔して、その先祖の墓記を上進させた。』記述があります。ということは天武朝に「続紀」には『帝紀および上古の諸事を記し校定させられた 』「記」には『朕聞きたまへらく、諸家の?(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違(たが)い、多く虚偽を加ふ。といへり。今の時に当たりて、その失(あやまち)を改めずは末だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす……』記されており、この時点で諸家の系譜の提出を求め「記紀」編纂の資料にしたが、持統天皇五年に十八氏に再提出をもとめたのは、天武朝に提出された系譜に不備があったためでしょう。十八氏のなかに息長氏の名がないのは息長氏提出の系譜は再提出を求める要がなかった、ということでしょう。しかし「記」記載の息長系譜には他氏には見られないような矛盾に満ちた系譜であるのは何故か? 「書紀」が撰上された時に系図一巻が付属していたが、伝わらず行方不明です。恐らく諸氏族提出の系譜は修正すべきものは修正して系図として記載されていたものと思われます。「記」に比較して「書紀」に息長氏の系譜記述が少ないのも付属系図一巻に息長系図が記載されていたからではないのでしょうか。
天武朝から「記」撰上の(712)和銅五年までに息長氏の人物といえば従四位上の息長真人老(おゆ)とその子で従五位下の子老(こおゆ)のみで、「続紀」和銅五年十月二十日、従四位上の息長真人老が卒した。この老が記録に残る息長氏としては最高位まで上がって人で、以後奈良時代の息長氏では720年代の息長真人麻呂の従五位上が最高です。
「記紀」編纂時期に中央政界において息長氏が皇室系譜に介入した形跡などは記録上に認められず、誰が何の目的で息長系譜を。このような矛盾に満ちた姿に改変したのか? また、「記紀」編纂に携わった人々もこのように改変された系譜を受け入れたのか疑問は尽きず、史学界にもおいても論議は尽きないが未だ確固たる定説がないのが現実です。

実在が実証される息長氏
  氏   名 西暦 和暦 位階 出自 備       考
息長足日広額天皇
(舒明天皇)
西暦 629~641 「日本書記」 父 押阪彦人大兄皇子  母 糠手姫皇女
息長山田公 642 皇極元年12・1 「日本書記」   舒明の殯宮で「日嗣」を誅している
息長真人老 711 和銅4・4・7 従四位上 「続日本紀」
息長真人子老 702 大宝2・1・17 従五位下 「続日本紀」  息長真人老の子
息長真人臣足 714 和銅7・1・3 従五位下 「続日本紀」  719年 出雲守
息長真人麻呂 729 天平元・3・4 従五位上 「続日本紀」
息長真人名代 733 天平5・3・14 従五位下 「続日本紀」  738 備中守
息長真人孝子 743 天平15・7・12 「正倉院文書」  中宮職音声舎人から皇后職へ(女性)
息長丹生真人国嶋 762 天平宝字6・1・4 従五位下 「続日本紀」  常陸国部領防人使大目  
息長真人広庭 765 天平神護元・正 外従五位下 「続日本紀」  女性?
息長真人道足 766 天平神護2・11・5 従五位下 「続日本紀」  771年長門守 776年摂津山背検税使
息長真人清継 766 天平神護2・9・19 外従五位下 「続日本紀」
息長丹生真人大国 769 神護景雲3・4・24 正五位下 「続日本紀」  造宮少輔
息長真人黒麿 750 天平勝宝2・5・26 「正倉院文書」  大和国城下郡人 親族の借銭の保証人となる文書 
息長丹生真人広長 761 天平宝字5・11・27 「正倉院文書」  左京七条二坊戸主 752東大寺画師
息長丹生真人川守 757 天平勝宝9・4・7 「正倉院文書」  右京九条一坊戸主 759里人画師 年39 画師等歴名に記載
息長丹生真人犬甘 757 天平勝宝9・4・7 「正倉院文書」  右京九条四坊戸口 画師  年22   画師等歴名に記載
息長丹生真人常人 762 天平宝字6・7・12 「正倉院文書」  造石山寺所 (画師)  ★下に文書写真掲載
上表には奈良時代を中心に実在を証明出来る息長氏族から抽出してみました。712年の息長真人老卒後の氏族は中下級官人と画師・仏師・工人職業不明ですが大和国城下郡居住者で借金の保証人になっている人もいます。
左は「正倉院文書」の中にあるもので息長常人が母の病の看病の為、提出した休暇願いです。天平宝字六年(762)七月十二日の日付けがあります。この常人についての史料があり『正倉院文書』によれば,造東大寺司造仏所に属していた、仏工,画工の己智帯成(こちのおびなり)が天平宝字年間に石山寺の本尊である塑造(そぞう)の丈六観音像と6尺神王像2体の造立に携わった時に志斐公麻呂(しひのきみまろ)と息長常人とを指導して,塑像の制作並びに彩色を施した記録があります。
奈良時代の息長氏は官僚の他、絵師・佛師・鋳物師で活躍している人も多くいます前述の息長常人(仏工)・広長(画師)・人生(不明)・川守(画師)等です。
息長氏は鍛冶族として古代から繁栄した説もあり、(1983)昭58年に静岡県袋井市で出土した参河国渥美郡東紀里岡寺の梵鐘銘文に鋳造者として息長法修・息長定房の名があり、息長水依比売の父天之日影神・豊前国田川郡の辛国息長大姫大目命神社(新羅系銅産神)の2神が鍛冶神であ り息長鍛冶族説が真実味を帯びてきます。因みにこの岡寺の梵鐘は(1159)平治元年、二条天皇と中宮高松院?子(しゅし(よしこ)により施入、翌二年に完成しています。下に参考までに平安時代の諸氏の系譜集成、新撰姓氏録で(嵯峨天皇の勅命により、弘仁6年(815)成立。京畿の1182氏を、皇別・神別・諸蕃に分類し、各系譜を記したもの)息長氏の出自を確認したものです。
氏名 西歴   和暦  位階 出  典   備  考
息長真人真野売 747 天平19・12・22 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長真人忍麿 747 天平19・12・22 少初位上 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 近江国坂田郡長岡郷長解 
戸主秦富麻呂妻
息長といふ人 1020 寛仁4・11 「更級日記」 美濃から近江に入り宿泊
息長真人福麿 832 天長9・4・25 従七位上 「平安遺文」
坂田郡福擬大領
近江国坂田郡大原郷長解
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9 「平安遺文」 長岡郷戸主秦富麻呂妻
坂田酒人真人乙刀麻呂 年不詳 八世紀 「平城京二条大路
出土木簡」
庸米荷札  (上坂郷戸主)
坂田酒人真人新良貴 747 天平19・12・22 正八位上 「正倉院文書」 
坂田郡大領
近江国坂田郡司解婢売買券
坂田酒人真人広公 832 天長9・4・25 外従八位上 「平安遺文」 近江国坂田郡大原郷長解
坂田酒人真人公田狭 762 天平宝字6・8・18 「正倉院文書」
坂田郡上坂郷長
近江国坂田郡上坂郷長解
 

     『新撰姓氏録』氏族一覧(第一帙/皇別)
         息長関連氏族を抽出してみました。

 本貫 種別   氏族名  姓  同祖関係  始祖  記事
 左京  皇別  息長真人  真人   出自誉田天皇[謚応神]
皇子稚渟毛二俣王之後也 
 
 左京  皇別  山道真人   真人 息長真人同祖  稚渟毛二俣親王之後也   
 左京  皇別  坂田酒人真人  真人 息長真人同祖     
 左京  皇別  息長丹生真人  真人 息長真人同祖     
 左京  皇別 坂田宿禰   真人 息長真人同祖  応神皇子稚渟毛二派王之後也 天渟中原瀛真人天皇[謚天武。]御世。出家入道。法名信正。娶近江国人槻本公転戸女。生男石村。附母氏姓冒槻本公。男外従五位下老。男従五位上奈弖麻呂。次従五位下豊成。次豊人等。皇統弥照天皇[謚桓武。]延暦廿二年。賜宿祢姓。於是追陳父志。取祖父生長之地名。改槻本賜坂田宿祢。今上弘仁四年。同奈弖麻呂等。改賜朝臣姓也 
新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑で各氏族を皇別、神別、諸蕃に分類して、その祖先を記載しています。日本古代氏族の考察に欠かせない文献ですが現存の新撰姓氏録は、目録だけの抄記(抜き書き)であって、本文は残っていません。また、もとは五畿七道六十六ヶ国すべてに渡る膨大なものであったといわれていますが、現在残っているのは左京・右京と五畿内の分のみです。皇別氏族は、皇親(「真人」のカバネをもつ氏族)とそれ以外に分かれています。神別氏族は、「天神」「地祇」「天孫」に三分類されています(隼人系の氏族は天孫に分類される)。諸蕃氏族は「漢」「百済」「高麗」「新羅」「任那」に五分類されています。
下の表は日子坐王系(茶色)・倭建命系(青色)・息長真手王系(緑色)で備考を(赤色)で識別しました。日子坐王系の息長系譜は息長帯比売と仲哀天皇との間に品陀和気命(応神天皇)が生まれ、天皇と倭建命系の息長真若中比売(応神妃)の間に生まれた若沼毛二俣王で両系の息長系譜が一つの系譜に纏まり、この系譜が近江と大和の息長氏になり97年間の消息不明の後、19.允恭天皇期に忍坂大中比売・藤原琴節郎女が天皇の后妃として復活する矛盾があり、息長系譜は再び52年間不明となります。次に継体期に突如息長真手王と二人の女(むすめ)が出現、姉の麻組郎女(おくみのいらつめ)は継体天皇の妃に、妹の比呂比売は37年後に29.敏達天皇の皇后となり、忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)を生みこの太子が異母妹の糠代比売(ぬかでひめ)を娶り、舒明天皇(息長足日広額天皇)を生み、この系統が後の天智・天武天皇へと継承されて行きます。
西暦  天皇 「記紀」記載の息長氏 
前157~98  9.開化天皇  日子坐王・息長水依比売・山代大筒木真若王
前97~30  10.崇神天皇  迦邇米雷王・息長宿禰王・息長帯比売(神功皇后)・息長日子王
    ※ 息長帯比売(神功皇后)の母方系譜の祖天之日矛の渡来記述は「記」では応神期に年月不明、「書紀」では垂仁期に昔一人の人間が小舟に乗って但馬国へやってきた。と記され渡来年月は不明。息長帯比売の母、葛城高額比売は日矛から数えて6代目になります。垂仁天皇に仕えて常世国に「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」を求めにいった多遅麻毛理(たぢまもり)息長帯比売の母方の伯父に当たるわけですから年代に矛盾が生じます。
71~130  12.景行天皇  倭建命(やまとたける)・息長田別王・帯中津日子命(14.仲哀天皇)
131~190  13.成務天皇  杙俣長日子王・ 
192~200  14.仲哀天皇  息長帯比売(神功皇后)息長真若中比売・弟姫
201~269 
270~310
神功皇后摂政
15.応神天皇 
若沼毛二俣王・意富富杼(おほほど)王・忍坂大中津比売・田井中比売・
田宮中比売・藤原琴節郎女・取売王・沙禰王 
313~410     16.仁徳天皇~18.反正天皇の間97年間、息長氏の消息不明
412~453  19.允恭天皇  忍坂大中津比売・藤原琴節郎女 
454~506     20.安康天皇~25.武烈天皇の間52年間、息長氏の消息不明
507~531  26.継体天皇  息長真手王・麻組郎女・比呂比売 
534~571     27.安閑天皇~29.欽明天皇の間37年間、息長氏の消息不明
572~585  29.敏達天皇  比呂比売    忍坂日子人太子
「書紀」編纂に際してこのような矛盾に満ちた系譜(系図)を息長氏が提出したとは考えられず、何時、誰がこのように改変したのか? その目的は? そして改変に対する息長氏の対応は? 全てが謎です。この問題については今後時間をかけて考察してみたいと考えていますので、私説がまとまった段階でペ-ジ更新をしてゆきたいと思います。
息長系譜の日子坐王・倭建命(やまとたける)・息長真手王の三系統を考察しましたが前述したように古代の伎人郷(喜連)との関連性は見出すことは出来ませんでした。開化期の日子坐王系・景行期の倭健命系・継体期の息長真手王系系譜・奈良朝期の史料にみる息長氏を考察してきましたが、日子坐王系・倭健命系の系譜形成者は古事記に記載されているが、日本書紀では無視されている人物が多く、「記紀」共に同年代の編纂で帝記・旧辞等の主要史料は共通であったはずだし、太安万侶などは双方の編纂に関わっていた筈なのに、どうしてこうも記載人物・生没年・紀年等に大きな差違があるのか。継体天皇の擁立と息長氏の関係といった疑問が次々にわき出てくるものの、この複雑な系譜の中から実在を疑われる人物・系譜の作為箇所等を識別し息長氏の実像に迫ることも出来ず、我ながら不本意な考察に終ったことを反省しています。今後とも考察を続けて多くの疑問の中のひとつでも解明できればと考えております。
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