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更新日 2012.10.7 |
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馬飼いの成立 | 新撰姓氏録に見る武生宿祢 | 馬国人の史料 |
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馬国人名記載の出土木簡 | 貴族の馬所有について | 福井県史通史編より (馬氏武生連賜姓関連記述) |
万葉歌20-4458の歌詞の 解釈について |
源氏物語の契る息長川 | 「続日本紀」に見る武生連 |
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万葉の息長川 | 伎人郷(くれひとのさと)と 息長伝説の信憑性 |
![]() 息長系譜と「記紀」の 矛盾と謎 |
万葉集と 大伴家持の生涯 |
攝河の地に 息長川は存在せず |
孝謙天皇難波宮行幸と 河内六寺 |
万葉集巻二十編纂の謎 | 伝承地に見る息長氏 | ![]() (長瀬川を訪ねて) |
平野川探訪 | 平野川関連河川 (空港北濠・大正川・空港放水路・ 今川・駒川・平野川分水路) |
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馬飼部とは馬の飼育を職業とする渡来人(帰化人)の部(べ)です。日本は四世紀後半に騎馬民族の高句麗と戦った経験から馬の飼育の必要を感じ朝鮮半島からの渡来人に馬を飼育させたようで、これが馬飼部でその成立は五世紀前半か、もう少し遡るかも知れないと言われています。これら馬の飼育にあたる渡来人を主に畿内に定着させ馬の飼育にあたらせたといわれています。また律令制下では馬飼いの職は飼部と呼ばれる特別指定された家があたり、身分としては良民ではあるが、職掌を固定されていたため卑賤視されていたようです。これは継体天皇擁立時に男大迹(おおど/即位前の継体)が馬飼荒籠について『世に貴賎を論ずることなくただその心だけを重んずべきである』と語った言葉に当時の馬飼のおかれていた立場があらわされています。七~八世紀になるとますます馬の必要性が高まると共に馬飼いの地位も向上していったようです。王仁の後裔氏族として書首(ふみのおびと)・蔵首(くらのおびと)・馬首(うまのおびと)があり河内国古市郡古市郷を本貫地として住吉津や難波津に揚がる朝鮮半島や大陸からの物資を明日香や藤原京に運ぶのに馬氏が輸送を蔵氏が中継地の古市で一時保管を書氏がこれら物資の記録とそれぞれが分担していたものと思われます。明日香・藤原京時代は竹内街道が主要ル-トで平城遷都後も大量輸送には同ル-トが使用されたものと思われます。また「書紀」の記述の中で馬に関する伝承で有名なのが雄略天皇九年秋七月一日条の「月夜の埴輪馬」の記述です。 田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)が娘の出産祝に娘婿である古市郡の書首加竜(ふみのおびとかりゅう)の家を訪ねて帰途誉田陵(応神陵)の下で駿馬(しゅんめ)に乗った人と出会い自分の馬と取り替え帰宅、翌朝見てみると昨夜取り替えた駿馬が土馬に変わっており昨夜の誉田陵にゆくと伯孫の馬が陵に並んでいる土馬の間にいるのを見て持参した土馬と取り替えて元の伯孫の馬を持ち帰るというものです。 この話に出てくる娘婿の書首加竜(ふみのおびとかりゅう)の始祖は王仁であり古市郷で陸送物資の一時保管の職業についていたと思われます。また、応神天皇の命で王仁を迎えに行った上毛野君(かみつけのきみ)の先祖の荒田別(あらたのわけ)は田辺史伯孫の先祖でもあり、この伯孫の変え馬の話は河内国と馬匹文化の中から生まれた口承伝承だと思われます。さらに継体朝になると、継体擁立に功績のあった河内馬飼首荒駕籠(かわちうまかいのおびとあらご)が登場します。「書紀」によると(507)継体天皇元年正月六日条、臣(おみ)・連(むらじ)らが、君命を受けた節(しるし)の旗をもって御輿を備え、三国にお迎えに行った。兵士が囲み守り、容儀いかめしく先払いして到着すると、男大迹(おおどの)天皇は、ゆったりと常のごとく床几にかけておられた。侍臣を整列させ、すでに天子の風格がおありになった。節をもった使たちは、これを見て 畏まり、天皇を仰いで命を捧げて忠誠を尽くそうと願った。けれども天皇は心の中でなお疑いを抱かれて、すぐには承知されなかった。たまたま河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらご)をご存知であった。彼は使いを差上げて、詳しく大臣・大連らがお迎えしょうとしている本意をお伝えした。使いは二日三晩留まっていて、ついに天皇は発たれることになった。そして嘆息(たんそく)して「よかった、馬飼首(うまかいのおびと)」よ。もしお前が使いを送って知らせてくれることがなかったら、私は天下の笑い者になるところだった。『世に貴賎を論ずることなくただその心だけを重んずべきである』というのは、思うに荒籠のようなものをいうのであろう、といわれ皇位につかれてから厚く荒籠を寵愛された。 (529)継体天皇二十三年四月条。是月、遣安羅(あら)使近江毛野臣(おうみけぬのおみ)の従者として河内母樹馬飼首御狩(かふちのおものきのうまかいのおびとみかり)の記述。 (530)継体天皇二十四年九月条。遣安羅使近江毛野臣帰朝報告で河内母樹馬飼首御狩(かふちのおものきのうまかいのおびとみかり)記述。 (683)天武天皇十二年九月二日条。倭馬飼造(やまとのうまかいのみやつこ)。川内馬飼造(かわちのうまかいのみやつこ)に姓(かばね)を賜わって連とした。 (683)天武天皇十二年十月五日条。娑羅羅馬飼造(さららのうまかいみやつこ)。菟野馬飼造(うののうまかいのみやつこ)。が連(むらじ)の賜姓を授かった記述。 これらの馬飼いはすべて河内国讃良郡を本貫地とする氏族で五世紀から六世紀前半にかけて讃良郡を中心に活躍した馬飼部で天武朝以後河内国讃良郡を本貫とする、これらの馬飼いの記述は「記紀」に見られなくなり、同じ河内でも南部の古市を本貫とする河内の馬飼い、大和の馬飼いが登場します。本項で取上げているのは八世紀に伎人郷に居住していた河内国古市郡を本貫地とする河内の馬飼氏族の首長と思われる馬史国人で娑羅羅馬飼・菟野馬飼とは全く別系統の馬飼いです。 |
新撰姓氏録に見る武生宿禰(馬氏) |
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本貫 | 種別 | 細分 | 氏族名 | 姓 | 同祖関係 | 始 祖 |
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左京 | 諸蕃 | 漢 | 文宿禰 | 宿禰 | 出自漢高皇帝之後鸞王也 | |
左京 | 諸蕃 | 漢 | 文忌寸 | 忌寸 | 文宿祢同祖 | 宇尓古首之後也 |
左京 | 諸蕃 | 漢 | 武生宿禰 | 宿禰 | 文宿祢同祖 | 王仁孫阿浪古首之後也 |
左京 | 諸蕃 | 漢 | 桜野首 | 首 | 武生宿祢同祖 | 阿浪古首之後也 |
馬国人を新撰姓氏録で見ると上のように王仁(わに)の後裔氏族となっています。新撰姓氏録は(815)弘仁六年の完成なので馬氏は武生宿禰で記載されています。新撰姓氏録では、それぞれの出自により「皇別」「神別」「諸蕃」に分類されていて、馬氏は渡来系氏族で(765)天平神護元年に武生連を賜姓。(791)延暦十年には宿禰を賜姓されているので新撰姓氏録には武生宿禰で記載されおり、新撰姓氏録の「諸蕃」の内容は「漢系」が163氏・「百済系」が104氏・「高句麗系」が41氏・「新羅系」が9氏・「任那系」が9氏となり、他に無所属の氏族が117氏います。 武生宿禰は『文宿禰同祖・王仁孫阿浪古首(わにのまごあびこのおびと)之後也』と記されているので馬国人の本貫地は河内国古市郡で王仁の後裔氏族であることがわかります。 『続紀』(765)天平神護元年九月十八日条に『河内国古市郡の人、正七位下の馬?登夷人(うまのひとえみし)と右京の人、正八位下の馬?登中成らに姓を厚見連(あつみのむらじ)と賜った』記述があるが新撰姓氏録に厚見連の記載はなく、同年十二月に国人と益人ら四十四人が武生連を賜姓されており厚見連とは同族であると思われるものの、それを実証する資料もなく何故同じ本貫地の馬氏でありながら厚見と武生に賜姓が分かれたのか不明である。また、(791)延暦十年四月八日条、『左大史・正六位上の文忌寸最弟(ふみのいみきいやおと)と播磨少目(はりまのしょうもく)正八位武生連真象(まかた)らが「文忌寸らには、もともと二つの家系があり東文(やまとのあや)氏は直(あたい)と称し、西文(かわちのあや)氏は首(おびと)と称して久しく相並んで書記文筆の仕事を行ってきました。いま、東文氏は一族を上げて宿禰の姓に登りましたが、河内文は賜姓の恩恵に漏れて、今もなお忌寸の姓におちこんだままです。最弟(いやおと)らは幸いに、平和な良い時代に巡りあわせています。この時に詳しく事情を察していただかなければ、後世になってからどのような道理を述べたところで、甲斐のないことでありましょう。そこで東文氏と同じく栄えある姓を賜わって、永く子孫のために配慮を残せるように、伏してお願い申し上げます」』と奏上した。桓武天皇は勅して、本来の詳しい系譜を求められた。そこで最弟らは次のように言上した。『漢の高帝の後裔を鸞(らん)といい鸞の子孫の王狗(おうく)の時、百済の国に転住しました。百済の久素王の時に、日本の朝廷が使者を遣わして文人を召し求めましたので、久素王(くすおう)は王狗の孫の王仁を貢上しました。これが文氏・武生氏らの祖先です』と。ここにおいて、最弟・真象ら八人に宿禰の姓を賜った。と「続紀」には記されており左大史、正六位上の文忌寸最弟・播磨少目、正八位上の武生連真象が宿禰賜姓の申請者になっており本貫地の武生連一族からの申請でなく、なぜ地方官吏である両名が賜姓を願い出たのかこの点も不明です。 |
※「 【大史(だいし)・少目(しょうもく)】律令制において神祇官・太政官(弁官局)に設置された大史・少史の総称。四等官の4番目である主典(さかん)に相当する。左大史、官位相当は正六位上・ 少目、相当官位は従八位下 |
【伴造(とものみやつこ)】とは、連(むらじ)とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。伴造には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)など代表的な帰化氏族がある。 【馬寮(めりょう)】大宝律令(701年)で左馬寮・右馬寮が設置された。当初は頭(左馬頭・右馬頭)を長としていたが、(711)和銅四年に馬の軍事的な重要性から従五位下葛木王(後の橘諸兄)が令外官である馬寮監(めりょうげん)に任じられて左右馬寮を統括した。馬寮官は非常設で後に左右それぞれに設置されている。 |
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西淋寺山門 | 西淋寺本堂 | 塔礎石 | 塔礎石に彫られた「刹」の字 |
上の写真は羽曳野市古市2にある西淋寺で書氏・馬氏・蔵氏ら王仁を始祖とする人たちの氏寺で寺伝によると百済から渡来した王仁(わに)の子孫である西文(かわちのふみ)が、六世紀中頃(欽明朝)に建てた寺で「西琳寺縁起」に「当寺日本最初之大伽藍也」と記されています。今では住宅街のなかの小寺院ですが創建当時は方一町の規模を持つ法起寺式の大伽藍であったといわれ竹内街道に面していたといわれている。上右の写真は搭礎石で花崗岩質の石で一辺の長さ3.4m、高さ1.8mで刹柱の座は四隅に添柱座を設けています。上右端写真は底面中央に古式字体で「刹」の字が掘られており、恐らくこの当時に於いては最大規模の搭心礎です。この搭礎石をみても当時の西文氏一族の勢力、財力のほどがうかがわれます。近年の発掘調査によっても、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置が推定されています。安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により七堂伽藍の全てを喪失今ではわずかに巨大塔礎石に往時の面影を偲ぶのみです。 |
馬国人の史料 |
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西暦・ 和暦 | 馬国人関連資料 | 出典 |
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(736) 天平8年8月 |
平城京左京三条二坊の路肩に掘られた濠状土坑から出土した、二条大路木簡の中から馬国人名のある木簡が出土している。 | 二条大路出土木簡 |
(738) 天平十年(?) |
「少初位下馬史国人」官位と馬国人名が記載された文書(断簡)が正倉院文書にある。年月の記載はないが「恐ラク天平十年ノモノナルベシ」とのそへ書きあり。 | 正倉院文書 (断簡) |
(756) 天平勝宝8年3月7日 |
河内国伎人郷馬国人之家 宴歌三首 | 万葉集巻20 |
(764) 天平宝字8年10月26日 |
従六位上の馬?登国人に外従五位下を授けた。 | 続日本紀 |
(765) 天平神護元年12月5日 |
右京の人、外従五位下の馬?登国人・河内国古市郡の人で正六位上の 馬?益人ら四十四人に姓を武生連と賜った。 | 続日本紀 |
馬国人の公式史料としては上記の五点しか存在せず、天平八年の物と推定される二条大路出土木簡で国人は中宮舎人(ちゅうぐうとねり)として兵部卿藤原麻呂邸に出向勤務していたことが判明しました。これが国人に関する初見史料であり舎人は律令制初期においては中務省所属で左右の大舎人寮が設定されており大舎人は内舎人と対になっており、天皇に供奉して宿直や様々な雑用をこなしている。東宮舎人は皇太子の身辺の雑用や警護をする。
馬国人が所属した中宮舎人は中宮(皇后・皇太后・太皇太后)の身辺警護・雑用に従事。 大舎人・東宮舎人・中宮舎人の定員に不足が生じたときは六位以下の位子からも補われた。ほかに律令制で、親王・内親王に与えられ、その護衛や雑役を務めた令外官的な舎人も存在し帳内・資人と呼ばれています。舎人の職務は宿直・護衛・事務の他、雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んでおり、律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。国人は中宮舎人として採用されたのは異例ではないかと思われ、時の権力者である藤原一門の舎人になり多くのコネをつくる機会に恵まれることは国人の将来にとって必ず役立つことでしょう。 この時の中宮は文武天皇夫人(ぶにん)で藤原不比等の女(むすめ)宮子であり(701)大宝元年に首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)を生み藤原氏が天皇家外戚として権勢を振るう基礎となったが出産後宮子は心的障害で首皇子(後の聖武天皇)ともあう機会がなく、(737)天平九年にやっと平癒わが子の聖武天皇と三十六年ぶりに対面したという。天皇の皇后である光明子は宮子の異母妹になり、麻呂は異母弟になる。大勢の中宮舎人が異母弟の麻呂邸に出向していたのも宮子が長年病床についていて中宮舎人に余剰があったためであろう。 |
この時の中宮は文武天皇夫人(ぶにん)で藤原不比等の女(むすめ)宮子であり(701)大宝元年に首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)を生み藤原氏が天皇家外戚として権勢を振るう基礎となったが出産後宮子は心的障害で首皇子とも会う機会が無く(737)天平九年にやっと平癒わが子の聖武天皇と三十六年ぶりに対面したという。聖武天皇の皇后光明皇后は宮子の異母妹になり、麻呂は異母弟になる。大勢の中宮舎人が異母弟の麻呂邸に出向していたのも宮子が病床についていて舎人に余剰がしょうじていたからか? 宮子と聖武天皇の対面を「続紀」は(737)天平九年十二月二十七日『この日、皇太夫人の藤原宮子が皇后宮に赴いて、僧正の玄zム(げんぼう)法師を引見した。天皇もまた皇后宮に行幸した。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、永らく常人らしい行動をとっていなかったためである。夫人は天皇を出産以来、まだ我が子である天皇に会ったことがなかった。……』と記している。 |
馬国人名記載の出土木簡 |
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左平城宮二条大路出土木簡 表裏に墨書があり裏面に馬国人名が見える(木簡墨書の主旨は本文参照) 赤矢印が馬国人名 右は長屋王家木簡出土地の告知板 下写真 左現在の二条大路跡 長屋王家に隣接するSD5300・5310・5315から出土したのが二条大路出土木簡(藤原麻呂邸跡) 右は当時の発掘状況 |
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(1988)昭和63年、平城京二条大路の発掘調査が行われ南側の溝(写真7のSD5100)から三万八千点、向いの二条二坊五坪の(写真7のSD5300・5310)から三万六千点もの木簡が出土した。 SD5300・5310から出土した木簡の中の写真1の木簡により、この三万六千点もの木簡の出所が藤原麻呂邸からのものであることが判明。出土した木簡の中に馬国人名のある木簡が出ています。この木簡は(736)天平八年八月に中宮職から兵部省卿宅の政所(まんどころ)に宛てた「移(い)」の公文書木簡だそうです。差し出しの中宮職大属(だいさかん)で少進(しょうしん)の名が省かれているのは、それだけで通用した両組織間の親密な関係を示すものだそうで、この時の中宮職は聖武天皇の母である藤原宮子のための事務を執る所で宮子は藤原不比等の娘で、聖武天皇の皇后光明子の異母姉です。また、兵部卿は宮子の異母弟の、藤原四子の末子の麻呂(まろ)です。したがってこの「移」の公文書は姉弟の機関で授受するものなので差し出し名を省略しているようです。表から裏に19人の舎人(とねり)の名が列記してあり、彼らの1年間の勤務評定に必要な考文銭一人当たり三文と成遷(銭)六文、それに「官の仰せ給う知識銭」を一文ずつ、すぐに送ってきなさいという督促で考文銭の考文とは毎年の勤務評定を記す文書で、その手数料として評定を受ける本人から徴収するのが考文銭で六年分の考を積み重ねることにより位階昇進の対象とされ、この書類作成にかかる手数料だそうです。また、この二条大路出土木簡で請求している「官仰給知識銭人別一文」ですが、これは造寺・造仏などに協力する寄付金のことですから本来は自主的なもののはずですが、ここでは強制的に各人に一文ずつ割り当てています。この木簡は宛先の兵部卿宅で廃棄されたものと考えられています。こうした中宮(藤原宮子)と兵部卿の密接した関係からも、左京二条二坊の邸宅は、天平初年に兵部卿であった藤原麻呂の邸宅と推定されています。なお、人名に付せられた合点は、各人からの考文銭の徴収チェックではないかと思われます。また、馬国人はこの天平八年当時中宮舎人として藤原麻呂邸に派遣勤務していた事が判明します。しかし翌天平九年には九州で流行した天然痘が平城京にも蔓延し未曾有の大災厄をもたらし多くの死者をだしており、藤原武智麻呂はじめ藤原四兄弟をはじめ政府中軸や貴族の多くが亡くなり国人が勤務していた兵部卿の藤原麻呂もこの時に死亡しています。天平十年の国人は正倉院文書(断簡)により東の史生(ししょう)として勤務しており「少初位下(しょうしょい)」の官位も得ているのは、天平八年の木簡にあった考文銭を納め昇任試験に合格し少初位下の官位を得たものでしょう。藤原麻呂の死去後、元の中宮舎人に帰ることなく東史生(ししょう)として採用され官人としてスタ-トしています。因みに「史生」とは律令制において官司の四等官の下に置かれた職員で官司の書記官に相当し、公文書を作成して四等官の署名を得ることを職掌とし、書算や法令に通じた者から雑任として式部省によって判補され、奈良時代には舎人になることは律令官人として仕官する者が通る重要なコースであり、下級官人の養成機関的な役割を担っていたようです。交替勤務を行う内分番と同じ方法で昇進し、六年(八年説も有)ごとに評価され、大過なければ叙位を受けています。史生は官司ごとに定員が定められ庸・調・雑徭が免除されています。 |
養老令による官位表 (四位以下には上下あり) |
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正一位 従一位 |
正二位 従二位 |
正三位 従三位 |
正四位 従四位 |
正五位 従五位 |
正六位 従六位 |
正七位 従七位 |
正八位 従八位 |
大初位 少初位 |
舎人の採用年齢について十八歳~二十一歳という説があり、貴族の子弟は二十一歳であったが、一般採用の場合の年齢についての定説はない。仮に二十歳採用説をとると馬国人が採用六年目で昇任試験に合格していたとすると(736)天平八年には二十七歳逆算すると生年は(709)和銅二年になり、平城京遷都の前年です。 下の表は馬国人の史料にもとづき算出した国人の年令と昇進・賜姓で765年の武生連賜姓後の消息史料は無く彼の晩年については不明です。また、武生連賜姓と引き換えに馬国人を越前に転属説や国人と越前国武生の関連性を指摘する説もありますが、奈良時代に越前国に武生の地名は存在せず、国人が越前国に転属したという記録はどこにも見当たりません。これは推測ですが国人は官位を望んだものの官職につくことは生涯望まなかったと思われます。なぜなら彼は河内国古市を本貫とする馬氏一族の首長的存在であり、若年の頃から都で時の権力者でもあった藤原一族の末弟麻呂邸に舎人として勤務し、その後史生として中央政界に残ったのも権力者とのコネつくりで、これが後々彼ら一族の経済活動に役立つと考えての根回しだったと思います。大伴家持との交流もこうした彼の経済活動とコネつくりの一環だったのでしょう。 |
この 「書紀」応神十五年秋八月六日条に百済王が良馬二匹を奉った、記述があり年紀について疑問があるものの馬や馬具・飼育法などが朝鮮半島から伝えられたことは事実であり、河内と大和が馬飼部の主たる居住地になっていた。大和政権に仕えて馬の飼養に従事した部曲(かきべ)が馬の需要が急激に増えだすと政府は馬の繁殖・飼育を令制下の左右馬寮(さゆうめりょう)に移しこれに従事する者を雑戸(ざっこ)として使用した。従来馬の繁殖・飼育を民間で行っていたのを馬の需要増と重要性から官に移行させてるとともに身分も従来の賤民から公民とした。 ※下は福井県史から武生連と越前武生の関連記述を抜粋したものです。 |
福井県史通史編より (馬氏武生連賜姓関連記述) |
前年宝亀二年六月二十七日に出羽国の賊地野代湊に来航した壱万福ら三二五人は常陸国に安置・供給され(東海道経由か)、十二月二十一日に入京する。そののち、帰国に際して、壱万福らを送る「送渤海客使」武生鳥守は宝亀三年九月ごろに出港するが、暴風にあい、能登国に漂着し福良津に安置される。この時、最初の出港地は不明であるが、越前国か能登国かと考えられ、いずれにしろ壱万福および武生鳥守らは越前国を通過したと思われる。なお送渤海使の武生鳥守は宝亀四年十月十三日に無事帰国し(時に正六位上、姓は連)、その後の天応元年(七八一)四月十五日、桓武天皇の即位叙位で外従五位下に叙されている。これ以外に武生鳥守に関する記事はないが、『続日本紀』天平神護元年(七六五)十二月五日条に右京の人外従五位下馬?登国人、河内国古市郡の人正六位上馬?登益人ら四四人に武生連の姓を賜わったとあり、『続日本紀』延暦十年(七九一)四月八日条と『新撰姓氏録』左京諸蕃上などによれば、武生氏は延暦十年に宿禰と改賜姓された百済系渡来人(王仁の後裔氏族)で、河内国古市郡が本拠地と考えられている。さて、武生氏というと、現在の武生市との関係が注目される。武生という地名は、『源氏物語』浮舟に「たとえ武生の国府にうつろい給うとも」、催馬楽(さいばら)に「みちのくち 武生の国府」とあるように、平安中期から院政期には認められる古い地名である(現在の武生の地名は明治以降の命名であり、国府があったことから、中世では長く府中とよばれた)。武生鳥守が正六位上から外従五位下に昇進していることなどから、畿内の豪族および官人とするよりは、越前国の国府があった現在の武生市周辺の郡司クラスの豪族出身、すなわち武生鳥守の本貫地(出身地)を越前国の国府があった武生市近辺に求められるかもしれない。しかし武生という地名が奈良時代までさかのぼるという確実な史料はほかにはなく、憶測の域を免れないことも事実である。その当否はともかく、渤海使を送る船に乗り大陸に渡った越前国出身の梶取や水手などが存在した可能性は十分ありうる。 |
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馬国人の昇進ぶりです。この当時は六年間大過なく勤めて昇任資格を取得して一階級昇任するのが通例です。国人の場合ですと外従五位に達するには八回の昇任試験があり四十八年の歳月を要します、それも大過なく勤めてのことで二十歳で勤め始めると順調に昇任しても外従五位に到達するには五十四年をようします。それを国人は二十六年で外従五位に到達しています。因みに二条大路出土木簡の馬国人名の左にある他田神護(ただじんご)が提出した解文が(762)天平宝字六年の「造石山寺写経所食物用帳」の裏に記載されているのが正倉院文書の中から発見されています。 この文書は下書きなので年月日は記されていませんが文中に『中宮舎人として、天平元年より始めて今に至る二十年』とあるので、(748)天平二十年に上司に提出した他田日奉部直神護解(おさだひまつりべのあたいじんごげ)です。解文(げぶみ)または申文(もうしぶみ)という下位の者から上位に差し出す上申書のことです。その内容は『謹んで解し申し請ふ海上(うなかみ)郡大領司に仕へ奉らむ事 中宮舎人左京七条の人従八位下海上国造他田日奉部直神護我(が)下総国海上郡の大領司爾(に)仕へ奉らむ止(と)申故波(は)神護我(が)祖父小乙下忍(しょうおつげおし) 難波朝廷の少領司爾(に)仕へ奉り支(し)父追広し(ついこうし)宮麻呂 飛鳥朝廷の少領司爾(に)仕へ奉り支(し)。又外八位上を給り弓(て)藤原朝廷爾(に)仕へ奉り支(し)。兄外従六位下勲十二等国足(くにたり)、奈良朝廷の大領司爾(に)仕へ奉り支(し)。神護我(が)仕へ奉りし状(さま)は、故兵部卿従三位藤原卿の位分資人として、養老二年より始めて神亀五年に至る十一年、中宮舎人として、天平元年より始めて今に至る二十年、合わせて三十一歳なり、是を以って祖父、父、兄良我(らが)仕へ奉り祁留(ける)次爾(に)在る故爾(に)、海上郡の大領司爾(に)仕へ奉らむ止(と)申す。』 彼は(718)養老二年に中宮舎人として採用されているので、この解文を書いたのは五十歳で官位は従八位下ですから大過なく勤め順調に昇進しているのです。当時の位階制度では各位に上下があり一位階に進むのに十二年かかることになるので三十一年間大過なく勤めても従八位下で人生は既に初老の域に達しています。馬国人は通常ならば八十四年を要するところを二十六年間で外従五位下の位階を得ているので、その昇進の早さが際立ちます。これは聖武天皇の時代は相次ぐ遷都や東大寺の大仏建造・国分寺建立等で政府の財政難で人民からの寄付や物品寄付の額により官位を与えていたようで馬国人の場合この制度や培った人脈を最大限に利用したものと思われます。 一方他田神護は解文にあるように「他田日奉部直神護(おさだひまつりべのあたいじんご)」の名に見られるように「日奉部」古代太陽神祭祀に携わったもので「直」は「日奉部」を管理・指導した伴造(とものみやつこ)氏族だそうです。他田神護が解文に記しているように彼の実家は地方豪族で代々下総国北部で国造を勤める家柄の出身であり早くから藤原麻呂邸に勤め出世街道に乗ったにも関らず渡来系氏族出身の馬国人に遅れをとり、この解文提出の後彼が首尾よく故郷の大領の地位に就けたのか史料が無く不明です。 他田神護と馬国人を史料上から見た場合、生真面目で六年間の考過期間をただひたすらに大過なく過ごす神護と機転が利き要領抜群で権力者とのコネ造りに励み持てる財力をバックに精力的に活動する馬国人像が脳裏に浮かんでくるのですが。 |
万葉歌20-4458の歌詞の解釈について |
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次の馬国人資料は(756)天平勝宝八年の万葉集巻二十にある4457~4459の題詞 『天平勝宝八歳丙申(ひのえさる)二月朔乙酉(つきたちきのととり)二十四日戌申(つちのえさる)、太上天皇太皇大后幸行於河内離宮(かふちのとつみやにいでまし)、経信以二壬子(ふたよあまりみずのえね)伝幸於難波宮也(なにわのみやにでんこうしたまふ)。三月七日於河内国伎人郷馬国人之家宴歌三首』 同年三月七日に国人が大伴家持・池主を招いて催した歌宴の記事です。(738)天平十年に東史生の史料から十八年が経過しており、この時期なぜ国人は伎人郷に居住していたのか国人の詠んだ歌には散位寮散位馬史国人と記されており官位はあるが官職には就いていないという意味でしょう。この時の国人の年齢は推定四十七歳で働き盛りです。何時、何の為喜連に移住してきたのか史料が無く不明です。 大伴家持・池主を招いた歌宴では次の三首が披露されています。 20-4457 住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草刈そね 大伴家持 通釈 住吉の浜松の根の地に延びているように、人に知られず心で思って私が見る野の草を刈らないでほしい。馬国人の家からの眺望をほめた挨拶の歌。 語釈 下延へて 心ひそかに思う意 20-4458 にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 古新未詳 馬国人通釈 息長川の水は絶えてしまおうとも、君に語らう言葉が尽きる事がありましょ うか。 語釈 鳰鳥(にほとり)カイツブリともいう。水中に潜って息が長く続くのでオキナガ にかけたものでオキはイキの古形。 私説 私が初めて息長氏を知ったのは喜連西池のバス停前にある善法寺の「息長沙禰王顕彰碑」を見たときで「息長」を「いきなが」と読み、古代に「息長沙禰王」といった人物がいたのかという疑問であった。その後今川の歴史講演会等で「いきなが」でなく「おきなが」であり、古代史を学ぶものにとって「息長氏」は欠くことのできない氏族であることを知った次第です。「記」では「息長」ですが、「書紀」では「気長」であり、その他に「科長」「磯長」「級長」「師長」も全て「おきなが」と読めるようで、南河内郡太子町に式内科長神社(しながじんじゃ)が存在し、風の神である級長津彦命(しながつひこのみこと)・級長津姫命(しながつひめのみこと)を主祭神としています。日本神話に登場する神で風の神であり、「しな」は「息が長い」という意味で、古代人は、風は神の息から起きると考えており、暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになったといわれている。また、風の神であることから、航海安全の神ともされる。こうしたことから「式内社調査報告」では「科長-磯長-息長と転じ、当地が息長氏の祖である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と記しています。また、息長氏は鍛冶族であったという説もあり鍛冶と風の関連を指摘されています。息長水依比売の父天之御影大神は「記紀」に登場する製鉄・鍛治の神、天目一箇神(あめのまひとつねのみこと)と同一視されている神で近江国三上神社の祭神であり近江息長氏との関連が注目されるところです。また、息長川とは長命に縁がある言葉なので、いついつまでも末永く貴方とお付き合いが続きますように。この歌は元来恋歌であったものを家持への挨拶歌に転用したものともいわれています。当然歌宴の席上で主人の国人が場違いの「息長川」を詠みこんだ事は話題にあがったと思われます。国人からは「貴方様とは息の長い、にほ鳥やその住む川のように、いや例えその川がなくなろうとも、何時何時までもお付き合い願えますようにとの思いをこめたもので誰の歌か記憶はありませんが返歌として用いました」 もし国人が「私の家の近くに息長川と呼ばれる川があり、その川を詠みいれました」と答えていたら「古新未詳」の書き入れはなかったと私は考えています。また、国人は「息長川」の所在について知っていた可能性があります。彼は麻呂が亡くなる天平九年まで麻呂邸に書記として勤務していたことは二条大路出土木簡で証明済みです。この出土木簡の中に近江国坂田郡上坂田郷から藤原麻呂宛に米を送った時の荷札木簡が纏まって出土している事から上坂田郷は藤原麻呂の封戸(ふこ)である可能性も浮上しており、麻呂邸で書記として勤務していた国人は近江国坂田郡付近の事情に精通していた可能性もあり「息長川」の存在も知っていたものと思われます。しかし国人は、それを意識して詠み込んだものではなく、にほ鳥のように息長(いきなが)く、そして貴方様とのお付き合いもいついつまでも息長川の様に続きますようにとの思いをこめたもので、この場合の「息長川」は身近の川でも、遠く離れた北近江の川でもなく「息長い川のように」といった国人の思いを表したものと私は思います。また、当時の歌宴の仕来りとして宴の主催者が出席者の詠み歌を書きとめておいて、後日出席者全員に送ることになっていたようです。国人もこれに従い当日の歌宴で詠まれた歌を家持の許に送りその時、自分の詠み歌に古歌かどうか、いまだつまびらかになりません、と自ら書き込んだものと思われます。これを受け家持が「古新未詳」と筆録したのでしょう。この四字は現存する万葉集写本中、元暦校本・春日本にはありませんが、その他の写本にはあるので現存万葉集は全て写本であり脱字・誤記もあろうかと思われます。一部には『「万葉集」の禁書期間中に「4458」に対する政策的な改竄が行われ原典に「古新未詳」の四文字を注記させる……』とした説を強調される方もおられますが、そうしたことは律令制下における没官品にたいして100%有り得ないことです。また、なぜ馬国人の4458の歌に対して政策的な改竄をおこなう必要があるのか理解に苦しみます、これこそ今井啓一氏の言われる牽強附会(けんきょうふかい)ではないかと思います。 当時の律令下において没官品の取り扱いは刑部省所属の贓贖司(ぞうしょくし)が反逆人所有の財産および反逆縁坐者の調査とその没官を担当しており、「万葉集」については官撰集なみの取り扱いで厳重に官庫に保管されていたようで、「古新未詳」衍入(えんにゅう)についても「大伴家持」の項で述べていますので参照願います。 20-4459 葦刈に堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに 大伴池主 通釈 葦を刈に堀江を漕いでいる楫の音は宮中にいる大宮人が皆聞くまでに高く響 いて。 語釈 この歌は大原真人今城が、先日吟誦したものといわれる。その歌を池主が口 誦したものと思われる。 |
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近江国坂田郡上坂郷から藤原麻呂邸宛てに 送られてきた米の荷札木簡 |
近江国坂田郡上坂郷の位置現米原市村居田 直ぐ南に伝息長広姫(敏達皇后)陵がある。 |
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20-4462~4464 | 20-4459~4461 | 20-4457・58及題詞の一部 馬国人に朱書きでトキヒトとルビが |
※上写真は万葉集写本西本願寺本の4457から4464まで、4460~62の三首については作歌の日付はなく「右三首江邊作之」とあるので、江邊とは難波の掘江と推察され一日に聖武太上天皇が堀江に行幸されているので、その折の作かもしくは七日の国人家の歌宴の後の難波滞在中の作歌と思われる。4463・64の左注「右二首廿日大伴宿祢家持依興作之」とあり4464と左注の間に後の書きいれと見られる「今勘至干此歌聖武天皇御在生之時歌也仍彼叡覧之時此集?末歌可終於茲者?」と朱書きされており、私は恥ずかしながらこの文を解読することはできませんが、文字から憶測すると聖武天皇後在生のおりに、此の歌二首を叡覧に供して万葉集の終末歌にするつもりであった。「続紀」によると聖武天皇太上天皇が体調不良で平城京還幸のため難波を発ったのが四月十五日で崩御が五月二日であるから作歌の廿日は四月であるとは思えず、また叡覧に供することもなかったと思われるが、歌の配列を見ると四月二十日のようでもあり、家持が太上天皇の危篤状況のなかで依興によって作歌するなど考えられず4460~64までの五首の家持歌についても謎です。万葉集の家持歌にはどうして、こうも謎の部分が多いのでしょう。 |
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外のつく官位を外位(げい/がいい)、外のつかない官位を内位(ないい)と呼び、外位は主に地方豪族や郡司・軍毅・国博士・国医師などの地方の在庁官人に登用された者、また、蝦夷(えど)・隼人(はやと)などの有功者に与えられており(722)養老六年以後には辺境防衛や官寺造営のために私財を提供した者に対しても授けられています。 内位と外位の最大の違いは、内位は主に古来からの有力豪族に由来する中央貴族に与えられている。外位の五位の処遇が、同じ名称を持つ内位の五位に対して位田・位禄の半分と規定されていた。但し内位の五位以上には使用人を含め経済活動は禁じられていたが外位には平城京内の左・右の市場における経済活動が認められています。 令制下では馬の繁殖・飼育等は左右馬寮(さゆうめりょうに)に移菅されたものの実際にこれらの職務にあたるものは従来から馬の繁殖・飼育に携わってきた馬飼いの人々であり朝鮮半島からの種馬等の輸入にもこれらの人が携わっていたと思われ馬国人もこうした事業に関与していたことでしょう。(765)天平神護元年には一族四十四人と武生連を賜姓して名実ともに帰化人となり彼が生涯の願望としてきた事が成就して満足であったでしょう。これ以後馬国人の名を史料上に見ることは出来ませんが大和と河内を往来しながら経済活動を続けたことでしょう。 馬国人の五点の史料から憶測を交えながら彼の生涯を追ってみましたがいま一つ合理的な説明ができていない、物足りなさを感じています。 (765)天平神護元年の馬国人一族の武生連賜姓記述以降、国人の消息資料は見当たりませんが「続紀」に次の四点の史料が見られます。
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馬の国人に関する資料は乏しく平城京二条大路の出土木簡で(736)天平八年に中宮舎人として兵部卿であった藤原麻呂邸に仕えており、(738)天平十年には少初位下の官位を得て下級官僚として平城京で勤務しているのが正倉院文書の断簡でわかります。(756)天平勝宝八年には河内国伎人郷に居住しているのが万葉集で、(764)天平宝字八年従六位から外従五位に昇進(765)天平神護元年に武生連(たけふのむらじ)を賜姓されて渡来人系から帰化人となっています。この経歴で驚くのが国人の昇進スピ-ドです。738年に最下位の少初位下(しょうそいげ)から二十六年で外従五位下に昇進しています。養老令の位階制では臣下は少初位下から正一位まで三十階あり、各階に上下があるので正六位に至るまで十六階となる、律令制度における叙位は毎年の勤務評価を一定の年数(6年、(708)慶雲3年以降は4年)を重ねたうえで、昇進の是非と進階の場合に引き上げる階数を決定したようです。この制度で行くと(738)に少初位下であった国人が外従五位に到達するには順調に進階しても64年を要する計算になります。それを僅か26年で到達しています。これは国家に対する特別な貢献(国人の場合は金品の献上か)で位階を獲得したのではないかと憶測しています。これは(791)延暦十年の「続紀」の記述ですが 九月五日、陸奥国安積郡の大領・外正八位上の阿倍安積(あさか)朝臣継守に外従五位下を授けた。兵量を進上したからである。 正月二十五日、外正六位上の麻績連(おみのむらじ)広河に外従五位下を授けた。私物を献上したからである。 聖武朝は度々の遷都・大仏造営等で、桓武朝も遷都と蝦夷征討で国家財政は緊迫しておりこうした民からの金品献上にたいして位階を与えていたのでしょう。 馬氏は王仁の後裔氏族である西文氏(かわちのふみうじ)の一族であり文筆や出納などで朝廷に仕えており、その最盛期は五世紀ごろといわれており財政的にも豊かな氏族であり、国人は若年の頃から京に出て時の権力者に仕え将来のためにコネ作りをしていたと思われ官位は欲したが生涯官位につくことは望まず政商としての道を歩んだのではないでしょうか。しかしこれは私の憶測であって、彼の生涯で判明しているのは中宮舎人と東の史生として記録に残る僅か数年のみで、彼の人生の大半は全く不明のままです。伎人郷の家に家持を招いて宴を開いたおりも家持の歌に続いて古新未詳歌で即応するなど国人の教養と如才のなさを見ると政商の面影を感じるのですが。(764)天平宝字八年、外従五位下を授与され翌年には一族の人達と武生連を賜姓されて、彼の生涯の思いが全て達成されたことでしょう。その後「続紀」に官人として武生連姓の人が地方で活躍しているのが散見されますが、その基礎を築いたのが国人だったのです。 |
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