「記紀」神話と息長系譜の謎
目次



日本の古代史の研究・考察で先ず始めに遭遇するのが、我が国最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」の記述の信憑性と紀年問題です。考古学者の研究や中国・朝鮮史書と照合すると、記されている史実や年代に多くの矛盾があることがわかります。年代について「記」は一部に干支のみで記されています、「書紀」は編年体制と干支が使用されています。そして「記紀」ともに天武天皇の命で編纂が始まり帝紀(ていき)・帝王日継(ていおうひつぎ)・旧辞(きゅうじ)・諸豪族の系譜等を参考に編纂されたようですが干支・天皇の宝算・治世年・古来の伝承等に多くの食い違いがあり、記述の信頼性を損ねています。「古事記」「日本書紀」に記されている記述がそのまま歴史的事実かというと疑問が在り特に五世紀以前については疑問が山積しています。「日本書紀」の完成は続日本紀養老四年(720)五月二十一日条に『舎人親王が天武天皇の勅をうけ編纂していた「日本書紀」が完成し紀三十巻と系図一巻を奏上した』ことが記されていますが、この系図一巻については伝わっておらず、その内容も紛失した時期も不明、逸文もなく、全く不明です故、現在伝わっている「日本書紀」を完本とはいえません。また、「日本書紀」の氏族系譜の記述が簡潔なのは系譜一巻が付随していたので、本文に於いて詳細な記述がなくとも系図一巻を見れば判るようになっていたという説もあります。
「古事記」の編纂については「序文」にある太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ)の記述にある企画・成立の記述と和銅五年(712)正月二十八日に元明天皇に奏上した。記述を信じるしか他に「古事記」の編纂・完成を伝える文献史料は存在しません。
今回の息長氏の再考察でも疑問や矛盾点が続出しますが私には、この謎を解明する能力はありせんので疑問・矛盾はそのままに記しています。古代豪族の中でも息長氏ほど謎の多い氏族は珍しいのではないでしょうか。先ず出自が不明で史家の間でも諸説があり渡来人説・鍛冶族説・皇室の湯人説等がありますが未だ定説はないようです。仲哀・応神・允恭朝には后妃を出し、天武朝の「八種の姓(やくさのかばね)には皇親氏族として「真人(まひと)」を賜姓され、「古事記」「日本書記」の中に神功皇后伝承や自己系譜を持ちこみ、これらの編纂に介入した等々の説も枚挙に暇がないほどありますが、中央政界に於いて頭角を現すこともなく、皇親氏族として特別優遇された実績もなく、史書に見る限り実に影の薄い氏族なのですが、息長氏を除外しては古代史を語れません。「古事記」には息長氏についての記述にかなりのペ-ジを割いて比較的詳細に述べられていて、記事を追って行くと息長系図が作成出来ますが、矛盾に満ちた箇所が随所にあり、これが歴史的事実とは考えられません。 息長氏といえば近江国坂田郡を本貫地とする豪族で天皇の后妃を輩出した天皇家の外戚氏族ですが、9代開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいますのみこ)を祖とする系譜から14代仲哀天皇皇后の息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)・12景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコトを祖とする系譜から息長田別王(おきながたわけのみこ)の孫娘の息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)が応神天皇妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)を生み、この系譜が近江国坂田郡の息長氏の祖となります。以後100年間ほど息長氏の消息が途絶えた後、30代敏達天皇の皇后として息長真手王の系譜が登場します。古事記では、この三系譜が記されており次ぎに息長氏が史料に見えるのは息長の名を持つ34代舒明天皇(息長足日広額天皇/おきなかがたらしひひろぬかのすめらみこと)の殯(もがり)で日嗣を奏した息長山田公がいますが、この人の官位、事績等は全く不明、次に「続日本紀」(711)和銅四年四月七日条、従四位下の息長真人老(おきながのまひとおゆ)に従四位上を授けた。という続日本紀の記述が信頼出来る文献史料上に現れる最初の息長氏であり史料上に見る息長性の人物で最高位に叙された人です。このあと7~8世紀代に文献史料に残る息長氏族の人の最高官位は従五位上止まりで平安時代にかけては画師、鋳物師の息長氏が見られますが衰退の一路を辿り、やがて文献史料上からも消えてゆきます。また「日本書紀」の開化期・景行期には息長氏の記述はなく、14代仲哀天皇期になり立后した気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと/後の神功皇后)が登場します。「書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と記され仲哀天皇崩御後の「書紀」は異例中の異例扱いだ天皇以上に神功皇后の事績を卷九の一巻を費やして記述していますが、矛盾と誇張に満ちた記述で皇后の実像と虚像の判別も難しいのが現実です。また、息長氏が擁立したと云われる26代継体天皇期の巻末に天皇の崩年の疑義についの記述中に『後勘校者知之也(のちにかんがえむひとしらむ知る)』と意味深長な記述があり、これは「書紀」編纂者の一人が、記したものですが、記述の疑義を指摘したもので当時の編集責任者も実におおらかなものです。また欽明期にも『…帝王本紀(すめらみことのふみ)に沢山古い名があり、撰集する人も、しばしば入れ替わることがあった様で、後人が習い読む時、意をもって削り改めた。伝え写すことが多くて、つい入り乱れることも多かった。前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。いま古今を考え調べて、真実の姿に戻した。容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを注記した。他のところもこれと同じである』という記述にあるように矛盾や異説のあるところには日本書紀編集者が、「一に曰く」として異説も取り入れ紹介して、真実探求の糧にしている編集方針は立派だと思いますが、天皇家系譜を万世一系にするため紀年を挿入した為に矛盾や謎が多く発生してしまったのではないでしょうか。後世調べ考える人が真実を明らかにするであろうと記して、矛盾と謎の解明を後世に託した形ですが、四世紀までの文字史料は皆無で、この当時の倭国(日本)の事情を知る史料は中国の「三国志」第30巻烏丸鮮?東夷伝倭人条(魏志倭人伝)と高句麗の広開土王碑文のみで、外国史料に頼るほかないのですが魏志倭人伝にしても著者の陳寿(ちんじゅ)本人が倭国を見聞したものでは無く、魚拳(ぎょかん)の「魏略」や王沈(おうしん)の「魏書」を参考にし、中でも正始元年と八年に倭国に来た帯方郡使の報告書を最も重視して記した可能性が高いと云われています。「魏志倭人伝」の正式名は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」『第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』の略称で倭人状は約二千文字程てすが原本は伝わっておらず現在のものは写本であり100%正しく伝わっている保証はありません。また広開土王碑文の倭国関連碑文と魏志倭人伝の内容にしても異論が多く、いずれも衆人が納得するようなものではなく邪馬台国の所在地や卑弥呼の人物像や広開土王碑文は謎のままです。四世紀以前の日本古代史は全く謎の世紀で、実証出来る史料は皆無で今後古墳や遺跡の発掘調査で何処まで解明出来るのか待つしかないようです。
日本の古代文献史料
書名 成立 編纂者 卷数 内容
古事記 和銅五年(712) 太安万侶・稗田阿礼 全3卷 稗田阿礼(ひえだのあれ)が語り伝えた「帝紀」「旧辞」を太安万侶(おおのやすまろ)がまとめる。
日本書紀 養老4年(720) 舎人親王他 全30卷 神代より神武天皇~41持統天皇までの40代
続日本紀 延暦16年(797) 菅野真道他 全40卷 42文武天皇~50桓武天皇までの9代
日本後紀 承和7年(840) 藤原緒嗣他 全10巻 50桓武天皇~53淳和天皇までの4代
続日本後紀 貞観11年(869) 藤原良房他 全20卷 54仁明天皇の1代
日本文徳天皇実録 元慶2年(878) 藤原基経他 全10巻 55代文徳天皇の1代
日本三代実録 延喜元年(901) 藤原時平他 全50卷 56清和天皇~58光孝天皇の3代
「古事記」は40天武天皇の詔で朕聞(われき)く「諸家(もろもろのいえ)?(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と既に正実(まこと)に違(たが)い。多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ」といへり。今の時に当たり、その失(あやまり)を改めずは、幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、その旨滅(むねほろ)びなむとす。これすなはち邦家(くにいえ)の経緯(たてぬき)、王化(みおもぶけ)の鴻基(おほきもとい)なり。故惟(かれこ)れ帝紀(すめらみことのふみ)を撰(えら)び録(しる)し、旧辞(ふるきことば)を討(もとめ)(あなぐ)して、偽(いつわ)りを削り実(まこと)を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)とのりたまひき。時に舎人(とねり)有り。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)。年は是れ廿八。人と為り聡明(さと)くして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す。阿礼に詔語(みことのり)して、帝皇(すめらみこと)の日継(ひつぎ)と先代(さきつよ)の旧辞(ふるきことば)とを誦(よ)み習(なら)はしめたまふ。然れども 、運(とき)移り世異(よこと)なり、其の事を行ひたまはず。』天武天皇の在世中に「古事記」は完成しなかったが(712)和銅五年に全三巻を完成、44元正天皇に撰上したといわれています。その内容は歴代天皇の后妃子女の名・事績・治世年数・山陵等、皇室・皇親氏族関係を主体に神話・伝説・歌物語等を記しており、一部の天皇については立太子年・崩年・年令を干支で記しています。上つ巻は天地のはじめ(神代時代)。中つ巻は神武天皇から応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇までを収録する三巻構成になっています。
「日本書紀」は(681)10天武天皇十年条、川嶋皇子・忍壁皇子らに帝紀・上古諸事(じょうこのしょじ)を記し校定を命じられる(714)和銅七年条、43元明天皇が紀清人(きのきよひと)、三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らに国史を撰修させた。(720)養老四年条、舎人親王から「日本紀」三十巻・系図一巻が44元正天皇に奏上されました。
「日本書紀」は漢文で記され中国・朝鮮史書からの引用も多く、中・朝の人達にも読めるように配慮された編集になっており、特徴として内容記事に紀年が付けられており、神代の巻には紀年記述はありませんが、紀元前六百六十年の神武天皇即位から編年体制の編纂がおこなわれています。暦や文字の無い時代しかも『書紀編纂時から千三百四十年も前の出来事にたいして、どうやって干支年や月日を挿入できたのか? という疑問が起きこの「紀年」や天皇の「宝算」が逆に記事の疑惑を呼ぶことになっていると思います。
「日本書紀」の編者は1神武天皇が即位した年から年数を数える紀年法を作成しており、それは中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいているといわれており、讖緯(しんい)年説では辛酉(しんゆう)の年に革命が起こるとしており、とくに十干十二支が二十一順する千二百六十年ごとに大革命が起こるとされていて、そこで、神武天皇即位の年代を決めるときには、33推古天皇九(601)年の辛酉(しんゆう)の年を基準とし、そこから1260年さかのぼって、紀元前660年の辛酉の年が採用されたのだといわれています。干支紀年法は古代中国で考案された十干十二支の組み合わせによる紀年法で六十年で同じ干支が繰り返すため、干支名だけでは、それが何度目の干支なのかわからないという不便さもありますが、元号などの紀年法と組み合わせることで我が国でも用いられたといわれています。「日本書紀」の完成は養老四年(720)、全三十巻・系図一巻が撰上されています。内容は天地開闢から41持統天皇まで。系図一巻については紛失され、その内容も伝わっておらず全く不明です。
日本書紀の記述は神代に始まり41持統天皇十一年(697)までの出来事を編年体制で記しているので初代神武天皇の即位の「辛酉(しんゆう)」の年から「紀年」が始まっており、この年が「日本書記」の紀年元年になります。その為今年は西暦では2017年ですが「日本書記」の紀年では2677年になります。西暦と日本暦に660年もの差異が生じたのは「日本書紀」の編纂者が年代を伝えていない古伝を中国史書にならって暦年月日を入れようと中国古代の「讖緯説(しんいせつ)」による「辛酉革命説」を採用し初代神武天皇の即位日を推古天皇九年(601)の辛酉の年から一千二百六十年遡って紀元前660年に設定したという説が現在の考古学会の定説になっています。其の為古代天皇の年令に矛盾が生じたり、欠史8代と言われる時代が出現する事になります。
また「日本書紀」では本文の後に注の形で「一書に曰く(あるにいわく)」として多くの異伝を書き留めています。
本文と異なる異伝も併記するという編纂方針を採っています。
※ 本文中の紀年は全て「日本書紀」記載のものを用いました。天皇名の前の数字は代です。
  韓国については文中「朝鮮」の呼称を使用させていただきます。
  「古事記」は「記」。「日本書紀」は「書紀」の略称を使用します。
  人名については出来うる限り、ふり仮名をつけましたがペ-ジ中に復数回登場する場合は省略していま
す。 
古事記 日本書紀
六国史とは古代日本の律令国家が編纂した「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後期」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の六つの正史のことです。
『続日本紀』六国史の第二。全40巻。文武元年(697)から延暦10年(791)までの「日本書紀」と同じ編年体の正史ですが、途中で編集担当者が変った様で,前半の20巻は菅野真道(すがののまみち)ら,後半の20巻は藤原継縄(つぐただ)らによって編纂されています。「日本書紀」の様に中国に国威を誇示しようとする意図がないため,詔勅などを正規の漢文に直さず宣命体(せんみょうたい)のまま載せるなど,文飾や誇張記事が少ない奈良時代の史料です。
※宣命体(せんみょうたい) 宣命を書き記した文体。抽象的な語句を連ね、対句を多用し、荘重な感じをもつ。また、仏語漢語も用いるが、全体に国文的な要素が強い。また、その表記様式。(三省堂大辞林より)
『日本後紀』六国史の第三。全40巻。現存するのは10巻。819年編集開始、840年に藤原冬嗣(ふゆつぐ)・藤原緒嗣(おつぐ)らによって完成。792年から833年の間の史実を漢文・編年体で記述しています。
『続日本後紀』六国史の第四。平安前期の勅撰の史書。全20巻。藤原良房(よしふさ)・藤原良相(よしすけ)・伴善男(とものよしお)らにより清和11年(869)年撰進。54仁明天皇在位18年間(833~850)を編年体で記しています。
『日本文禄天皇実録』六国史の第五。全10巻。55文徳天皇の代である嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間の記録。編年体と漢文で記されています。六国史の中で最も期間が短く政治記述が少なく下級貴族の人物伝が多いのが特徴という、これは従前の国史が官人の卒伝を四位までとしたのに比し五位にまで拡大していることによると云われます。「弘仁文化」から「貞観文化」への過渡期を詳述し六国史の中ではもっとも人間臭い伝記を収めています。編纂者は56清和天皇が貞観13年(871)に藤原基経(もとつね)、南淵年名(みなみふちのとしな)、都良香(みやこのよしか)、 大江音人(おおえのおとんど)らに編纂を命じられた。
『日本三代実録』六国史の第六。全50巻。『文徳実録』に続く勅撰の歴史書。56清和天皇(858~876)、57陽成天皇(876~884)、58光孝天皇(884~887)、三天皇の時代30年を収めた編年体の実録。59宇多天皇の勅を奉じて、藤原時平(ときひら)、菅原道真(すがわらのみちざね)、大蔵善行(おおくらのよしゆき)らが編纂を開始したが、同天皇の譲位で一時停滞しますが、60醍醐天皇の勅で復活し、延期元年(901)に完成しています。六国史のなかでもっとも分量が多く、記述が詳細になり、記述の正確性を増し、政治・法制に関する記事が多いのが特色です。現存の本書は完本ではなく、50巻のうち、巻によりかなりの脱漏があるといわれ、それを『類従国史』『日本紀略』『扶桑(ふそう)略記』などによって補っていると云われています。
 
8代 孝元天皇 (前214~158) 弥生時代
(剣池島上陵/つるぎのいけのしまのえのみささぎ)伝孝元陵
此の天皇、穂積臣等(ほづみのおみら)の祖(おや)、内色許男命(うつしこをのみこと)の妹、内色許売命(うつしこめのみこと)に娶(めと)ひて、生みませる御子、大?古命(おほびこのみこと)次に少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)次に若倭根子比子大??(わかやまとねこひこおほびびのみこと/開化天皇)の三柱。また内色許男命の女(むすめ)伊迦賀色許売命に娶(めと)ひて生みませる御子、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)また河内(かふち)の青玉が女(むすめ)、名は波迩夜?(はにやすびめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、建波迩夜?古命(たけはにやすびこのみこと)一柱。此の天皇の御子并(あは)せて五柱。此の天皇崩御、御年五拾七歳、御陵は劒の池の中の崗の上に在り。
9代 開化天皇 (前158~前98) 弥生時代
                
(春日率川坂上陵/かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)伝開化陵
古事記 9代 開化天皇 若倭根子日子大毗々 わかやまとねこひこおほびびのみこと
日本書紀 9代 開化天皇 稚日本根子彦日日天皇 わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと
「記」は父は8代孝元天皇、母は内色許売命(うつしこめのみこと)で若倭根子日子大毗々命の同母兄弟に大古命(おほびこのみこと)、少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)がいる。
「書紀」は父孝元天皇、母は、欝色謎命(うつしこめのみこと)、稚日本根子彦日日命は孝元二十二年に立太子、年十六。同母兄弟に大彦命(おほびこのみこと)、倭迹々姫命(やまとととひめのみこと)の二柱。

「記」此の天皇、旦波(たには)の大県主(おほあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)が女(むすめ)、竹野比売(たかのひめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、比古由牟美命(ひこゆむすみのみこと)一柱。また庶母(ままはは)伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)に娶(めと)ひて生みませる御子、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)・御真津比売命(みまつひめのみこと)二柱。
伊迦賀色許売命は8代孝元天皇の妃として比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでおり、内色許売命(うつしこめのみこと)を母とする開化天皇にとって伊迦賀色許売命は庶母(ままはは)にあたります。 
また丸迩臣(わにのおみ)が祖(おや)、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)に娶(めと)ひて生みませる御子、日子坐王(ひこいますのみこ)一柱。また葛城垂見宿禰(かつらぎのたるみのすくね)が女(むすめ)比売(わしひめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、建豊波羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)一柱。此の天皇の御子達五柱。男王四、女王一。 ※建豊波羅和気王は「書紀」には記載されていません。
伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は8代孝元天皇の妃で、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)一柱を生んでいます。よって開化天皇にとっては庶母(ままはは)になり異世代婚になります。
因みにこの比古布都押之信命
(ひこふつおしのまことのみことみこと)と山下影日売(やましたかげひめ)との間に生まれたのが建内宿禰(たけのうちすくね)だと「記」は記しています。
開化天皇と意祁都比売命(おけつひめ)の間に生まれたのが日子坐王(ひこいますのみこ)で異腹の兄弟に御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)、建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)がいます。  
この建豊波豆羅和気王は「記」にのみ記載が在る王です。
また、日子坐王は山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)、亦の名、苅端戸弁(かりはたとべ)に娶(めと)ひて生める子、大俣王(おほまたのみこ)、小俣王(をまたのみこ)、志夫美宿祢王(しぶみのすくねのみこ)の三柱。また春日の建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)が女(むすめ)名は沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)に娶(めと)ひて生める子、沙本子王(さほびこのみこ)、袁耶本王(をざほのみこ)、沙本売命(さほびめのみこと)またの名、佐波遅比売(さはぢひめ)、室古王(むろびこのみこ)四柱。
※ 沙本売命は伊久米天皇(11代垂仁天皇)の皇后となる。
  「書紀」開化期記述
稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/9開化天皇)は、大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと/8孝元天皇)の第二子なり。母をば鬱色謎命(うつしこめのみこと)と申す。穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖(とおつおや)鬱色雄命(うつしをのみこと)の妹なり。大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以(も)て皇太子(ひつぎのみこ)となりたまふ。年十六。
冬十一月の辛未(かのとひつじ)の朔午(ついたちうまのひ)に、太子、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
六年の春、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)をたてて皇后とする。これは庶母(ままも)なり、異世代婚。
皇后は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのみこと/崇神天皇)を生まれます。是より先に天皇は丹波竹野比売を妃(みめ)として彦湯産命(ひこゆみすみのみこと)を生む。次ぎの妃、和珥臣(わにのおみ)の遠祖姥津命(とおつおやははつのみこと)の妹、姥津媛(ははつひめ)は彦坐王(ひこいますのみこ)を生む。二十八年の春、御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと/10崇神天皇)を立てて皇太子としたまふ。年十九。
六十年夏四月、天皇崩りましぬ。冬十月、春日率川坂本陵(かすがのいざかわさかもとのみささぎ)に葬りまつる。一に曰く坂上陵。時に年百十五といふ。開化期には彦坐王(ひこいますのみこ)の生誕記述のみで息長氏関連記述は全くありません。
■孝元天皇二十二年(BC193)春正月十四日条、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおほひひのみこと/9開化天皇)をたてて皇太子としたまふ。年十六。この記述から計算すると開化崩御は六十年(BC98)なので百十一歳になる。「記」は六十三歳崩御と記す。
「欠史8代」2代綏靖天皇から9代開化天皇まで8代の天皇の事績や物語は皆無で系譜と山陵のみの記述である為、実在が疑問視され「欠史8代」と云われています。しかし8代の天皇実在説もあり、これらの天皇の宮と御陵が「書紀」に明記されており陵が実在しているので8代の天皇は実在していると言うのがこの説の根拠です。但し現代の多くの考古学者は天皇陵の被葬者は不明だとする説が有力です。
■天皇は后として旦波大県主(たにはのおほあがたぬし)由碁理(ゆごり)の女(むすめ)竹野比売(たかのひめ)を娶っています。この比売の出身地は丹後半島の竹野と推定され、この地は竹野比売の父由碁理が県主(あがたぬし)であり、息長水依比売の子、丹波比古多多?美知能宇斯王や崇神期には日子坐王が旦波国にまつろはぬ玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討伐に赴く記述があり、山代の大筒木真若王も丹波の阿治佐波?(あぢさわみびめ)、迦迩米雷王は丹波の遠津臣(とおつおみ)の女(むすめ)とそれぞれ婚姻しており、また、この地は朝鮮半島から渡来して来た天之日矛(あめのひほこ)や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の勢力圏であり、大和の大王家の丹波・丹後への進出はあったのか。或る説によると日子坐王とは天之日矛の孫の多遅摩斐泥(たぢまのひね)の事であると云う、多遅摩斐泥は「古事記」のみに見られれ「日本書記」には其の名はありません。
■姥津媛(ははつひめ)と「記」の意祁都比売命(おけつひめ)は表記は違うが同一人とかんがえられます。但し「記」では狭穂彦王・狭穂姫は日子坐王が沙本之大闇見戸売(さとのおおくらみとめ)を娶り生まれた子と記しており大きく相違します。
異世代婚について、古代大陸の遊牧民や騎馬民族には夫が死亡した後、残された妻が亡夫の兄弟や子と再婚する風習があった様だが弥生期の日本にその様な風習が伝来していたかは疑問です。



古事記 日本書紀
比古由牟湏美命(ひこゆむすみのみこと) ① 竹野比売の子 開化期  伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 開化天皇皇后
御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) ① 庶母伊迦賀色許売命の子 上同 ① 御間城五十瓊殖命
(みまきいりひこいにえのみこと)
丹波竹野媛の子
日子坐王(ひこいますのみこ) ① 意祁都比売命 上同 ① 彦坐王(ひこいますのみこ) 姥津媛の子
丹波之上比古多々美知宇斯王 
(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)
② 息長水依比売の子 崇神期
水穂之真若王(みずほのまわかのみこ) ②  上 同 上同
神大根王(かむおおねのみこ) ②  上 同 上同
水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ) ②  上 同 上同
御井津比売(みいつひめ) ②  上 同 上同
山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ) ② 袁祁都比売の子 上同
比古意(ひこおすのみこ) ② 上 同 上同
伊理泥王(いりねのみこ) ② 上 同 上同
比婆比売命(ひばすひめのみこと) ③ 丹波之上比古多々湏美知宇斯王の子 垂仁期
真砥野比売命(まとのひめのみこと) ③ 上 同 上同
弟比売命(おとひめのみこと) ③ 上 同 上同
朝庭別王(みかどわけのみこ) ③ 上 同 上同
迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ) ③ 山代大筒木真若王の子 上同
息長宿禰王(おきながすくねのみこ) ④ 迦迩米雷王の子 景行期
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) ⑤ 息長宿禰王の子 上同
虚空津比売命(そらつひめのみこと) ⑤ 上 同 上同
息長日子王(おきながひこのみこ) ⑤ 上 同 上同
大多牟坂王(おほたむさかのみこ) ⑤ 上 同 上同
上表は9代開化天皇期に記されている「記」の息長系譜に関連する人達ですが、日子坐王五代の孫まで全て開化期に記載され、次に日子坐王系の息長水依比売の娘が垂仁天皇の后と妃になる記述が有り、14代仲哀天皇期に
息長帯比売の立后するまで、開化期に記されている息長系の人達の記述はなく山代大筒木真若王や迦迩米雷王
・息長宿禰王の年代、事績等も不明です故、取り敢えず「日子坐王」を祖とする息長氏の関連人物を(日本書紀には記載なし)抽出して表にして天皇の一代を表①の人物と同年代として、それぞれに年代を割り振った見ました。但し記述中に矛盾が生じる箇所があります。「記」には紀年の記載がなく、「書紀」は編年体記述になっていて初代神武天皇元年を紀元前660年に設定しているため中国・朝鮮との年紀が会わず、また記載されている人物の事績や出現期古墳の築造年代等ともズレがあり、上表のように五代に亘る人達が開化期に一挙に記載されているため、それぞれの人達の活動年代が不明で「記紀」に記載される時期に矛盾が生じています。「書紀」紀年の修正には学者間でも諸説があり非常に難しい問題です。諸先生方の修正論を参考にして「書紀」紀年の謎を素人なりに考察してみたのが下表です。

天皇 元年干支(西暦) 没年干支(西暦) 在位 紀没年令 即位時の
年令
「記」
没年干支
没年令
9 開化 甲申 (前157) 開化60癸未(前98) 60 115 55
10 崇神 甲申 (前97) 崇神68辛卯(前30) 68 120 52 戊寅(318) 168
11 垂仁 壬辰 (前29) 垂仁99庚午(70) 99 140 41
12 景行 辛未 (71) 景行60庚午(130) 60 106 46
13 成務 辛未 (131) 成務60庚午(190) 60 107 47 乙卯(355) 95
14 仲哀 壬申 (192) 仲哀9 辛達(200) 9 52 43
神功 辛巳 (201) 摂政69己丑(269) 69 100 壬戌 100
15 応神 庚寅 (270) 応神41庚午(312) 41 110 69 甲午(394) 130
上表は息長系譜に関連する年代の天皇の9開化天皇から15応神天皇までの元年干支・没年干支・在位年数・寿命・即位時年令と「記」に記載のある天皇の没年干支と歿年令を表にしたもの。()内の数字は西暦年です。
この表に見られる様に7代中(神功皇后を除く)6代のの天皇の寿命が何れも100歳を超え、従って即位年令も40代以上という当時としては超高齢の即位年令です。「書紀」記述によると開化・垂仁・景行・仲哀・応神天皇は即位後に皇后・妃を迎えそれぞれ御子を生ませています。この様な超高齢出産が可能であったのか、弥生・古墳時代の人の平均寿命は40~45歳位とする説があります。
日子坐王(ひこいますのみこ)を祖とする息長系譜
日子坐王(ひこいますのみこ)、天之御影神(あめのみかげのかみ)の娘、息長水依比売(おきながみずよりひめ)の母は不祥です。天之御影神とは日本神話の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子(天照大神の孫)で鍛冶の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一神といわれ忌火(いみび)の神とされます。この天之御影神は孝霊天皇(前290~前215)の時代に、三上山の山頂に降臨し、それを御上祝(みかみのはふり)が三上山を神体として祀ったのに始まるといわれています。この御上祝とは近江国野洲郡に勢力をもち近江国東部を支配した国造(くにのみやつこ)で安国造(やすのくに のみやつこ)と同一神といわれ忌火(いみび)の神とされます。
安国造の祖は日子坐王三世の孫にあたる水穂真若王(みずほのまわかのみこ/近つ淡海の安直の祖(ちかつあふみのやすのあたひのそせん)で近つ淡海国造(あふみのくにのみやつこ)と同系です。この国造制と県主(あがたぬし)制の成立時期について学者間に見解の相違がありますが、六世紀頃と云われています。其の制度が開化期に記載されていることは後世の挿入疑惑があります。
息長水依比売は日子坐王との間に丹波の比古多々湏美知宇斯王(たにはのひこたたすみちうしのみこ)、水之穂真若王(みずのほまわかのみこ)、神大根王(かむおほねのみこ)、水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)の五柱の子を生みます。此の御子達は息長系譜には繋がりまんが、丹波比古多多美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)は丹波之河上之摩郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)との間に比婆比売命(ひばすひめのみこと)、真砥野比売命(まとのひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、朝庭別王(みかどわけのみこと)の四柱の子を生みます。



上表は「記紀」の記述から9開化天皇期の皇子「日子坐王」を祖とする息長氏の関連人物を(日本書紀には記載なし)抽出して表にしたものです①は祖の日子坐王を初代とた代数です。5代までを全て開化期に記載しているため、それぞれの年代が解りづらいですが
天皇の一代を表①の人物と同年代として、それぞれに年代を割り振った見ました。但し記述中に矛盾が生じる箇所があります。「記」には紀年の記載がなく、「書紀」には紀元前660年から編年記述になっていますが、この紀年が7世紀位まで信憑性がないために生ずるものです。
「記」開化天皇と旦波の大県主(たにはのおほあがたぬし)由碁理(ゆごり)が娘、竹野比売との間に生まれたのが比古由牟湏美命。庶母伊迦賀色許売命(ままははいかがしこめのみこと)との間に生まれたのが御真木入日子印恵命(10崇神天皇)です。丸迩臣(わにのおみ)が祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれたのが日子坐王。日子坐王と近淡海(ちかつおふみ)の御上(みかみ)の祝(はふり)が以(も)ちいつく、天之御
影神(あめのみかげのかみ)の娘、息長水依比売(おきながみずよりひめ)との間に生まれたのが上表の②丹波之上比古多々美知宇斯王他4人です。日子坐王が母の妹、袁祁都比売命(をけつひめ)と異世代婚して生まれたのが②山代大筒木真若王他2人の御子です。ここまでが日子坐王の子達で2代目になります。②丹波之上比古多々湏美知宇斯王が丹波の河上之摩郎女(かわかみのますのいらつめ)との間に比婆比売命他3人を生みます。
②山代大筒木真若王は弟伊理泥王の娘、丹波之阿治佐波(たにはのあぢさはびめ)と異世代婚して迦迩米雷王を生み、この王、丹波の遠津臣(とほつおみ)の娘高材比売(たかぎ/たかくい)との間に④息長宿禰王(おきながすくねのみこ)を生みます。息長宿禰王は新羅の王子と云う天之日矛(あめのひほこ)の末裔、葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)との間に息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)を生みます。また宿禰王は、河俣稲依比売(かはまたいなよりひめ)との間に大多牟坂王(おほたむさかのみこ)を生みます。この4人が日子坐王5代の孫に当たります。これは「記」独自の息長系譜で「書紀」にはありません。
  『息長水依比売の系譜』
天之御影神の娘に何故、息長姓が付くのか疑問です。一説によると天之御影神が坂田郡の息長氏の女の許に妻問いして生んだ娘が息長水依比売である。しかし天之御影神が降臨したのは孝霊天皇の時代で紀元前とする説と矛盾します。また息長水依比売は天之御影神の娘と記しますが、天之御影神を祀る三上氏の祖である国忍富命(くにおしとみのみこと)の娘とする説も有ります。国忍富命とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の子孫で父は鳥鳴海神(とりなるみのかみ),母は日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)の間に生まれた神です。


比婆比売命(ひばすひめのみこと)は11垂仁天皇の后となり 印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)、大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと/12景行天皇)、大中津日子命(おほなかつひこのみこと)、倭比売命(やまとひめのみこと)、若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱の御子を生んでいます。
比婆須比売は後に11垂仁天皇の皇后、沙本売命(さほびめのみこと)が兄、沙本古命の反逆事件に巻き込まれ死の直前に後の后として丹波之比古多多智宇斯王の娘を推挙しています



息長水依比売の孫娘である氷羽州比売命は11垂仁天皇の皇后となり、12景行天皇を生み天皇の母方の祖は息長水依比売で須美知能宇斯王は天皇家の外戚となっています。
    ※大中津日子命 「書紀」垂仁期では大中姫命と記され女性名で記されていますが此処では男性名になっている
「書紀」では彦坐王(ひこいますのみこ)の出生は「記」同様ですが王の婚姻者名は不明で狭穂彦王(さほひこのみこ)、狭穂姫、丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の三柱が彦坐王の子と記されます。

  


息長氏鍛冶族説の実証史料
息長氏に関わる伝承では息長の名の由来は「鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす時の、息を長く引く状態からつけられた鍛冶族の名であると云う説もあり、奈良時代から平安時代にかけて息長姓の鋳物師の名が文献史料に見られるので息長鍛冶族説も一理ある様です。下記は息長氏鍛冶族説を裏付ける史料です。
息長氏鍛冶族説について、それを補強する物証が発見されています。昭58年(1983)に静岡県袋井市で出土した参河国渥美郡東紀里岡寺の梵鐘銘文に鋳造者として息長法修・息長定房の名がある梵鐘が発見された時の調査報告書があります。その時の調査報告書をご覧になる方は下記をクリックしてご覧下さい。

昭58年(1983)に静岡県袋井市で出土した参河国渥美郡東紀里岡寺の梵鐘銘文に鋳造者として息長法修・息長定房の名がある梵鐘が発見された時の調査報告書へ

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上写真は鋳銅者として息長法修・息長定房の名のある平治二年(1161)銘の梵鐘。 次の文はこの梵鐘の銘文の一部の転載です。『参河国渥美郡東?哩岡寺 高松院によって施入された釣鐘一口を、天皇の了解のもとに、左衛門尉藤原師光を奉行として、平治元年(1159)八月十三日 に?哩岡寺へ賜った。ただし賜った釣鐘は、大勧進僧2人と小勧進僧1人が推進役となり、近隣の施主に助成を広く募り、出資しあった銅を下賜された釣鐘に加えて、翌年(1160)正月三日に鋳造した。製作にあたったのは藤原満長や息長法修、定房らの鋳物師と大勧進僧永意、小勧進僧行観と勝意である』 ※この時の天皇は78二条天皇
なお、息長法修、定房については他にその名を見ることは無く、その出自は不明ですが鋳物師の息長姓を名乗る人物が息長氏の本貫地である近江の坂田郡息長郷か、或いは息長水依比売系の鍛冶系統の息長氏かその出自については何等史料がなく解りませんが鍛冶系統の息長氏が存在したことは事実である事が判明しました
「書紀」では彦坐王(ひこいますのみこ)の生誕記述のみで息長氏関連記述は、14仲哀天皇期まで一切ありません。
開化六年春正月二十四日条、皇后、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、御間城五十五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのみこと/10崇神天皇)を生まれます。是より先に天皇、丹波竹野媛(たにはのたけのひめ)との間に産湯隅命(ひこゆみすみのみこと)を生まれます。次に姥津媛(ははつひめ)との間に彦坐王(ひこいますのみこ)を生まれます。
「書紀」の崇神期の四道将軍派遣記述では丹波道主王(たにはのみちのぬしのみこ)が丹波へ派遣されていますが、
垂仁期の「書紀」一伝では道主王を産湯隅命の子としています。
「記」では丹波に派遣されているのは父の日子坐王(ひこいますのみこ)です。また比古多多須美知能宇斯王の娘についての記述が「記」垂仁期にもありますが開化期と名前が異なっています。垂仁天皇が

丹波比古多々須美知能宇斯王の女(むすめ)比婆比売命(ひばすひめのみこと)・弟比売命(おとひめのみこと)・歌凝比売命(うたごりひめのみこと)・円野比売命(まどのひめのみこと)の四人を天皇喚(め)し上げたまふ。然(しか)あれども比婆比売命・弟比売命の二名を留(とど)めて歌凝比売命と円野比売命は、いたく凶醜(みにく)さに因(よ)り、本(もと)つ主(あるじ)に返し送りたまふ。という記述があります。開化期の系図にあるように須美知能宇斯王の御子は三女一男が垂仁期には四女に変わっています。


丹波比古多々須美知能宇斯王の女(むすめ)比婆比売命(ひばすひめのみこと)ですが11垂仁天皇期の記述では氷羽州比売命に表記が変わっています。前皇后、沙穂姫(さほひめ)の推挙で立后した日葉酢媛(ひばすひめ)は五柱の皇子を生みます。印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこ)・大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしおしろわけのみこ)・大中津日子命(おほなかつひこのみこと)・倭比売命(やまとひめのみこと)若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱。 ※大中津日子命「書紀」では大中姫命と女性名になっています。大帯日子淤斯呂和気命は12景行天皇になられます。 
氷羽州比売命は息長水依比売の孫にあたりますから、息長系の初の皇后となり、12景行天皇の母で天皇家の外戚となります。
古事記 日本書紀
氷羽州比売命(ひばすひめのみこと) 垂仁天皇皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと) 垂仁天皇皇后
印色之入日子命(いにしきのいりひのみこと) 氷羽州比売命の子 五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと) 日葉酢媛の子
大帯日子淤斯呂和気命
(おおたらしひこおしろわけのみこと)
 上同 大足彦尊(おほたらしひこのみこと)   上 同
大中津日子命(おほなかつひこのみこと)
      上同 大中姫命(おほなかつひこのみこと)   上 同
倭比売命(やまとひめのみこと)       上同 倭姫尊(やまとひめのみこと)   上 同
若木入日子命(わかきのいりひこのみこと)       上同 稚城瓊入彦命(わかきにいりびこのみこと)   上 同


開化天皇陵 奈良市油阪町にある春日率川宮
(かすがのいざかわのみや) 
天御影神が降臨したと云う三上山
近江富士とも呼ばれている
滋賀県野洲市三上 御上神社 
祭神 天之御影神
京丹後市久美浜町新町の式内神谷神社 祭神 丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)  神社本殿には見事な彫刻が施され京都府指定文化財になっています。崇神天皇期の四道将軍派遣で丹波に派遣された丹波道主命の佩刀との伝承がある神剣「国見剣」(くにみのつるぎ)を神魂(かみのみたま)として祀りしているそうです。次の写真は丹波道主の墓伝承のある雲部車塚(うんべくるまつか)古墳で兵庫県篠山市東本荘にあり、宮内庁の陵墓参考地に指定されています。  「記」では旦波国に派遣されたのは日子坐王と記されます。    
    ※ 右端の神谷神社由緒はクリクックしていただくと拡大します。
山代(やましろ)国の息長氏
日子坐王は実母の妹、袁祁都比売命(をけつひめのみこと)と近親異世代婚で生まれたのが山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、比古?意王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)三柱。山代大筒木真若王は同母弟の伊理泥王(いりねのみこ)の女(むすめ)丹波の阿治佐波比売(たにはのあじさはひめ)と異世代婚して、迦迩米雷王(かにめいかずちのみこ)を生む。この王、丹波の遠津臣(とおつおみ)が女(むすめ)高杙比売(たかくいひめ)と婚姻して息長宿祢王(おきながすくねのみこ)を生む。息長宿祢王、新羅国(しらぎのくに)の王子、天之日矛(あめのひほこ)の末裔の葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)を娶り息長帯比売命(おきながたらしひめ)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱を生む。
■長帯比売(おきながたらしひめ/14仲哀天皇皇后)
■息長日子王王は吉備の品遅君(きびのほむちのきみ)・針間阿宗君(はりまのあそのきみ)が祖。
ここでの注目は丹波・山代(やましろ)・葛城・といった地名のつく人物が登場する事です。 開化天皇の都は春日の伊耶河宮(いざかわのみや/奈良市率川)であり御子達もここで生まれ育ったものと思われますが御子達の居住地については一切記述がないので不明です。日子坐王と妃の丸邇(わに)系の袁祁都比売(をけつひめ)の間に生まれた山代大筒木真若王(やましろのおおつつきま
京田辺市 息長山 観音寺(普賢寺)  朱智神社  祭神 迦邇米雷王  継体天皇筒木の宮跡 
わかのみこ)・比古意須王(ひこおすのみこ)・伊理泥王(いりねのみこ)の三柱の御子は息長本流に?がる系譜ですが山城国に居住するに至った経緯の記述が無く山代(やましろ)の字句から山城国と推察するのみです。
山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)とその子、迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)は其の名がいずれも土地名から、また朱智神社の祭神として迦迩米雷王が祭られ、息長系の継体天皇の筒木宮伝承などから現京田辺市の辺りに迦迩米雷王の子、息長宿祢王が居住しており、新羅の王子、天之日鉾(あめのひほこ)の末裔である葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)との間に息長帯比売(おきながたらしひめ後の14仲哀天皇の皇后亦の名神功皇后)・虚空津比売(そらつひめ)・息長日子王(おきながひこのみこ)を生み、虚空津比売についてはその後の記述なく、息長日子王は吉備の品遅君(きびのほむちのきみ・針間阿宗君之祖)と記されています。9開化期から14仲哀期までの息長氏の系譜記述は「記」独特のもので「書紀」には何故か息長氏の記述は皆無です。
下写真は兵庫県たつの市誉田町に鎮座する阿宗神社(あそうじんじゃ)、主祭神は神功皇后、配祀神は応神天皇、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)です。本来なら「記」に針間阿宗の君の祖と記される息長日子王が主祭神に成るのが順当と思うのですが何故か日子王は末座になっています。神社由来に依ると29欽明天皇32年に、宇佐八幡宮より勧請されて立岡山に鎮座した式内社が、鎌倉期に広山の現在地へ遷座。江戸期には弘山八幡宮と称され、旧阿宗神社は次第に寂れ、明治初年まで太子町の斑鳩寺の別当持ちの神社で、神職は不在の神社であったが弘山の八幡宮が明治期に阿宗神社へ改称されたそうです。
また配神の玉依姫命とは固有名詞では無く神霊の憑(よ)りつく巫女(みこ)の名で「記」は玉依毘売命・「書紀」は玉依姫尊と記しており、神功皇后が即ち玉依姫尊ではと私は考えています。
上写真は兵庫県竜野市誉田町に鎮座する阿宗神社で息長宿禰王の子息長日子王(針間阿宗の君)を祀る。参道は車の通行が多いのか鳥居には防護柵が、拝殿の飾り瓦がひときわ目をひきました。神社由緒では主祭神は神功皇后で配祀神が応神天皇・玉依姫・息長日子王となっており、本来、日子王が主祭神であるべきなのに
下の写真は阿宗神社を訪れた時に「書紀」推古14年秋7月条に聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんきょう)・法華経を講じられた時に天皇は大変感動され播磨国の水田100町歩を太子に贈られ、太子はこれで播磨に斑鳩寺を建立されたという斑鳩寺をも訪ねました。写真左から仁王門・聖徳殿・1565年室町時代後期建立の三重塔の他、広大な境内に講堂・鐘付き堂等もあり各地に聖徳太子建立寺院と称する寺院がありますが歴史的に立証される太子建立寺院に接して感動しました。
また当寺の別当職が明治期まで阿宗神社の維持管理をしていた様です。
山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、その名のとおり現京田辺市普賢寺(ふけんじ)付近に定住したらしく、十一面観音で有名な普賢寺の裏山は「息長山」と呼ばれており、近くには朱智(すち)神社(祭神迦迩米雷王)や継体天皇の筒木宮跡もあり息長氏に縁の地であることを覗わせます。この普賢寺に伝わる「補略録」があり『普賢寺補略録曰、天平十六年(744)甲申(きのえさる)年勅願。良弁僧正再造開基。号息長山。大御堂本尊。丈六観世音。小御堂本尊。普賢菩薩。光仁天皇宝亀九戊午(つちのえうま)(778)。五重大塔造立。以下略この補略録最後の箇所に『朱智天王神。右寺鎮守。在同郷西之山上。祭所。山代大筒城真若王之児。迦邇米雷王命(かにめいかづちのみこ)。』と記されており、この地が古代息長氏と関わりのあることを覗わせます。迦邇米雷王を祀る朱智神社の朱智ですが、朝鮮半島に由来する名だそうで、大加耶(おおかや)国の始祖王の名が内珍朱智()という名であり、大国の君主は「臣智」といい首長を意味する言葉であった様です。すると朱智天王神は朝鮮系の神で当地には朝鮮半島からの渡来人が移住していた様です。
開化天皇和風諡号 「記」 若倭根子日子大日日(わかやまとねこひこおほびびのみこと)
        「書紀」 稚日本根子彦日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)
上は「記」の開化天皇系譜です。此の天皇、旦波(たには)の大県主(おほあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)が女(むすめ)、竹野比売(たかのひめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、比古由牟美命(ひこゆむすみのみこと)一柱。また庶母(ままはは)伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)に娶(めと)ひて生みませる御子、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)・御真津比売命(みまつひめのみこと)二柱。
伊迦賀色許売命は8代孝元天皇の妃として比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでおり、内色許売命(うつしこめのみこと)を母とする開化天皇にとって伊迦賀色許売命は庶母(ままはは)にあたります。 
また丸迩臣(わにのおみ)が祖(おや)、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)に娶(めと)ひて生みませる御子、日子坐王(ひこいますのみこ)一柱。また葛城垂見宿禰(かつらぎのたるみのすくね)が女(むすめ)比売(わしひめ)に娶(めと)ひて生みませる御子、建豊波羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)一柱。此の天皇の御子達五柱。男王四、女王一。 ※建豊波羅和気王は「書紀」には記載されていません。
伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)は8代孝元天皇の妃で、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)一柱を生んでいます。よって開化天皇にとっては庶母(ままはは)になり異世代婚になります。
因みにこの比古布都押之信命
(ひこふつおしのまことのみことみこと)と山下影日売(やましたかげひめ)との間に生まれたのが建内宿禰(たけのうちすくね)だと「記」は記しています。
開化天皇と意祁都比売命(おけつひめ)の間に生まれたのが日子坐王(ひこいますのみこ)で異腹の兄弟に御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと/10代崇神天皇)、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)、建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)がいます。  
この建豊波豆羅和気王は「記」にのみ記載が在る王です。
また、日子坐王は山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)、亦の名、苅端戸弁(かりはたとべ)に娶(めと)ひて生める子、大俣王(おほまたのみこ)、小俣王(をまたのみこ)、志夫美宿祢王(しぶみのすくねのみこ)の三柱。また春日の建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)が女(むすめ)名は沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)に娶(めと)ひて生める子、沙本子王(さほびこのみこ)、袁耶本王(をざほのみこ)、沙本売命(さほびめのみこと)またの名、佐波遅比売(さはぢひめ)、室古王(むろびこのみこ)四柱。
※ 沙本売命は伊久米天皇(11代垂仁天皇)の皇后となる。
  「書紀」開化期記述
稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/9開化天皇)は、大日本根子彦国牽天皇(おほやまとねこひこくにくるのすめらみこと/8孝元天皇)の第二子なり。母をば鬱色謎命(うつしこめのみこと)と申す。穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖(とおつおや)鬱色雄命(うつしをのみこと)の妹なり。大日本根子彦国牽天皇の二十二年の春正月を以(も)て皇太子(ひつぎのみこ)となりたまふ。年十六。
冬十一月の辛未(かのとひつじ)の朔午(ついたちうまのひ)に、太子、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。
六年の春、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)をたてて皇后とする。これは庶母(ままも)なり、異世代婚。
皇后は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのみこと/崇神天皇)を生まれます。是より先に天皇は丹波竹野比売を妃(みめ)として彦湯産命(ひこゆみすみのみこと)を生む。次ぎの妃、和珥臣(わにのおみ)の遠祖姥津命(とおつおやははつのみこと)の妹、姥津媛(ははつひめ)は彦坐王(ひこいますのみこ)を生む。二十八年の春、御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと/10崇神天皇)を立てて皇太子としたまふ。年十九。
六十年夏四月、天皇崩りましぬ。冬十月、春日率川坂本陵(かすがのいざかわさかもとのみささぎ)に葬りまつる。一に曰く坂上陵。時に年百十五といふ。開化期には彦坐王(ひこいますのみこ)の生誕記述のみで息長氏関連記述は全くありません。
■孝元天皇二十二年(BC193)春正月十四日条、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおほひひのみこと/9開化天皇)をたてて皇太子としたまふ。年十六。この記述から計算すると開化崩御は六十年(BC98)なので百十一歳になる。「記」は六十三歳崩御と記す。
「欠史8代」2代綏靖天皇から9代開化天皇まで8代の天皇の事績や物語は皆無で系譜と山陵のみの記述である為、実在が疑問視され「欠史8代」と云われています。しかし8代の天皇実在説もあり、これらの天皇の宮と御陵が「書紀」に明記されており陵が実在しているので8代の天皇は実在していると言うのがこの説の根拠です。但し現代の多くの考古学者は天皇陵の被葬者は不明だとする説が有力です。
■天皇は后として旦波大県主(たにはのおほあがたぬし)由碁理(ゆごり)の女(むすめ)竹野比売(たかのひめ)を娶っています。この比売の出身地は丹後半島の竹野と推定され、この地は竹野比売の父由碁理が県主(あがたぬし)であり、息長水依比売の子、丹波比古多多?美知能宇斯王や崇神期には日子坐王が旦波国にまつろはぬ玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討伐に赴く記述があり、山代の大筒木真若王も丹波の阿治佐波?(あぢさわみびめ)、迦迩米雷王は丹波の遠津臣(とおつおみ)の女(むすめ)とそれぞれ婚姻しており、また、この地は朝鮮半島から渡来して来た天之日矛(あめのひほこ)や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の勢力圏であり、大和の大王家の丹波・丹後への進出はあったのか。或る説によると日子坐王とは天之日矛の孫の多遅摩斐泥(たぢまのひね)の事であると云う、多遅摩斐泥は「古事記」のみに見られれ「日本書記」には其の名はありません。
■姥津媛(ははつひめ)と「記」の意祁都比売命(おけつひめ)は表記は違うが同一人とかんがえられます。但し「記」では狭穂彦王・狭穂姫は日子坐王が沙本之大闇見戸売(さとのおおくらみとめ)を娶り生まれた子と記しており大きく相違します。
異世代婚について、古代大陸の遊牧民や騎馬民族には夫が死亡した後、残された妻が亡夫の兄弟や子と再婚する風習があった様だが弥生期の日本にその様な風習が伝来していたかは疑問です。
古事記 日本書紀
比古由牟湏美命(ひこゆむすみのみこと) ① 竹野比売の子  伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 開化天皇皇后
御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) ① 庶母伊迦賀色許売命の子 ① 御間城五十瓊殖命
(みまきいりひこいにえのみこと)
丹波竹野媛の子
日子坐王(ひこいますのみこ) ① 意祁都比売命 ① 彦坐王(ひこいますのみこ) 姥津媛の子
丹波之上比古多々美知宇斯王 
(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)
② 息長水依比売の子
水穂之真若王(みずほのまわかのみこ) ②  上 同
神大根王(かむおおねのみこ) ②  上 同
水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ) ②  上 同
御井津比売(みいつひめ) ②  上 同
山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ) ② 袁祁都比売の子
比古意(ひこおすのみこ) ② 上 同
伊理泥王(いりねのみこ) ② 上 同
比婆比売命(ひばすひめのみこと) ③ 丹波之上比古多々湏美知宇斯王の子
真砥野比売命(まとのひめのみこと) ③ 上 同
弟比売命(おとひめのみこと) ③ 上 同
朝庭別王(みかどわけのみこ) ③ 上 同
迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ) ③ 山代大筒木真若王の子
息長宿禰王(おきながすくねのみこ) ④ 迦迩米雷王の子
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) ⑤ 息長宿禰王の子
虚空津比売命(そらつひめのみこと) ⑤ 上 同
息長日子王(おきながひこのみこ) ⑤ 上 同
大多牟坂王(おほたむさかのみこ) ⑤ 上 同

天皇   崩年 (西暦) 崩御時年令 即位年令 治世
9  開化天皇  開化60年 (前98)  120 60 60
10  崇神天皇  崇神68年 (前30)  115 47 68
11  垂仁天皇  垂仁99年 (70)  140 41 99
12  景行天皇  景行60年 ()  106 46 60
13  成務天皇  成務60年 ()  107 47 60
14  仲哀天皇  仲哀9年 ()   52 43 9
神功皇后(息長帯比売)  摂政69年 ()  100 31 69
15  応神天皇  応神41年 ()  110 69 41

上表は「記紀」の記述から9開化天皇期の皇子「日子坐王」を祖とする息長氏の関連人物を(日本書紀には記載なし)抽出して表にしたものです①は祖の日子坐王を初代とた代数です。5代までを全て開化期に記載しているため、それぞれの年代が解りづらいですが天皇の一代を①の一代と同じと理解して下さい。但し記述中に矛盾が生じる箇所があります。「記」には紀年の記載がなく、「書紀」には紀元前660年から編年記述になっていますが、この紀年が7世紀位まで信憑性がないために生ずるものです。
「記」開化天皇と旦波の大県主(たにはのおほあがたぬし)由碁理(ゆごり)が娘、竹野比売との間に生まれたのが比古由牟湏美命。庶母伊迦賀色許売命(ままははいかがしこめのみこと)との間に生まれたのが御真木入日子印恵命(10崇神天皇)です。丸迩臣(わにのおみ)が祖、日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)の妹、意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれたのが日子坐王。日子坐王と近淡海(ちかつおふみ)の御上(みかみ)の祝(はふり)が以(も)ちいつく、天之御
影神(あめのみかげのかみ)の娘、息長水依比売(おきながみずよりひめ)との間に生まれたのが上表の②丹波之上比古多々美知宇斯王他4人です。日子坐王が母の妹、袁祁都比売命(をけつひめ)と異世代婚して生まれたのが②山代大筒木真若王他2人の御子です。ここまでが日子坐王の子達で2代目になります。②丹波之上比古多々湏美知宇斯王が丹波の河上之摩郎女(かわかみのますのいらつめ)との間に比婆比売命他3人を生みます。
②山代大筒木真若王は弟伊理泥王の娘、丹波之阿治佐波(たにはのあぢさはびめ)と異世代婚して迦迩米雷王を生み、この王、丹波の遠津臣(とほつおみ)の娘高材比売(たかぎ/たかくい)との間に④息長宿禰王(おきながすくねのみこ)を生みます。息長宿禰王は新羅の王子と云う天之日矛(あめのひほこ)の末裔、葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)との間に息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)を生みます。また宿禰王は、河俣稲依比売(かはまたいなよりひめ)との間に大多牟坂王(おほたむさかのみこ)を生みます。この4人が日子坐王5代の孫に当たります。これは「記」独自の息長系譜で「書紀」にはありません。
日子坐王(ひこいますのみこ)を祖とする息長系譜
天之御影神(あめのみかげのかみ)の娘、息長水依比売(おきながみずよりひめ)の母は不祥です。天之御影神とは日本神話の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子(天照大神の孫)で鍛冶の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一神といわれ忌火(いみび)の神とされます。この天之御影神は孝霊天皇(前290~前215)の時代に、三上山の山頂に降臨し、それを御上祝(みかみのはふり)が三上山を神体として祀ったのに始まるといわれています。この御上祝とは近江国野洲郡に勢力をもち近江国東部を支配した国造(くにのみやつこ)で安国造(やすのくに のみやつこ)と同一神といわれ忌火(いみび)の神とされます。
安国造の祖は日子坐王三世の孫にあたる水穂真若王(みずほのまわかのみこ/近つ淡海の安直の祖(ちかつあふみのやすのあたひのそせん)で近つ淡海国造(あふみのくにのみやつこ)と同系です。この国造制と県主(あがたぬし)制の成立時期について学者間に見解の相違がありますが、六世紀頃と云われています。其の制度が開化期に記載されていることは後世の挿入疑惑があります。この
  『息長水依比売の系譜』
天之御影神の娘に何故、息長姓が付くのか疑問です。一説によると天之御影神が坂田郡の息長氏の女の許に妻問いして生んだ娘が息長水依比売である。しかし天之御影神が降臨したのは孝霊天皇の時代で紀元前とする説と矛盾します。また息長水依比売は天之御影神の娘と記しますが、天之御影神を祀る三上氏の祖である国忍富命(くにおしとみのみこと)の娘とする説も有ります。国忍富命とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の子孫で父は鳥鳴海神(とりなるみのかみ),母は日名照額田毘道男伊許知邇神(ひなてるぬかたびちおいこちにのかみ)の間に生まれた神です。
息長水依比売は日子坐王との間に丹波の比古多々湏美知宇斯王(たにはのひこたたすみちうしのみこ)、水之穂真若王(みずのほまわかのみこ)、神大根王(かむおほねのみこ)、水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)の五柱の子を生みます。此の御子達は息長系譜には繋がりまんが、丹波比古多多美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)は丹波之河上之摩郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)との間に比婆比売命(ひばすひめのみこと)、真砥野比売命(まとのひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、朝庭別王(みかどわけのみこと)の四柱の子を生みます。
比婆比売命(ひばすひめのみこと)は11垂仁天皇の后となり 印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)、大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと/12景行天皇)、大中津日子命(おほなかつひこのみこと)、倭比売命(やまとひめのみこと)、若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱の御子を生んでいます。
比婆須比売は後に11垂仁天皇の皇后、沙本売命(さほびめのみこと)が兄、沙本古命の反逆事件に巻き込まれ死の直前に後の后として丹波之比古多多智宇斯王の娘を推挙しています



息長水依比売の孫娘である氷羽州比売命は11垂仁天皇の皇后となり、12景行天皇を生み天皇の母方の祖は息長水依比売で須美知能宇斯王は天皇家の外戚となっています。
    ※大中津日子命 「書紀」垂仁期では大中姫命と記され女性名で記されていますが此処では男性名になっている
「書紀」では彦坐王(ひこいますのみこ)の出生は「記」同様ですが王の婚姻者名は不明で狭穂彦王(さほひこのみこ)、狭穂姫、丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の三柱が彦坐王の子と記されます。

  


息長氏鍛冶族説の実証史料
息長氏に関わる伝承では息長の名の由来は「鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす時の、息を長く引く状態からつけられた鍛冶族の名であると云う説もあり、奈良時代から平安時代にかけて息長姓の鋳物師の名が文献史料に見られるので息長鍛冶族説も一理ある様です。下記は息長氏鍛冶族説を裏付ける史料です。
息長氏鍛冶族説について、それを補強する物証が発見されています。昭58年(1983)に静岡県袋井市で出土した参河国渥美郡東紀里岡寺の梵鐘銘文に鋳造者として息長法修・息長定房の名がある梵鐘が発見された時の調査報告書があります。その時の調査報告書をご覧になる方は下記をクリックしてご覧下さい。

昭58年(1983)に静岡県袋井市で出土した参河国渥美郡東紀里岡寺の梵鐘銘文に鋳造者として息長法修・息長定房の名がある梵鐘が発見された時の調査報告書へ

ペ-ジの左右の▲印をクリックで消していただくとペ-ジが大きくなり見やすくなります
上写真は鋳銅者として息長法修・息長定房の名のある平治二年(1161)銘の梵鐘。 次の文はこの梵鐘の銘文の一部の転載です。『参河国渥美郡東?哩岡寺 高松院によって施入された釣鐘一口を、天皇の了解のもとに、左衛門尉藤原師光を奉行として、平治元年(1159)八月十三日 に?哩岡寺へ賜った。ただし賜った釣鐘は、大勧進僧2人と小勧進僧1人が推進役となり、近隣の施主に助成を広く募り、出資しあった銅を下賜された釣鐘に加えて、翌年(1160)正月三日に鋳造した。製作にあたったのは藤原満長や息長法修、定房らの鋳物師と大勧進僧永意、小勧進僧行観と勝意である』 ※この時の天皇は78二条天皇
なお、息長法修、定房については他にその名を見ることは無く、その出自は不明ですが鋳物師の息長姓を名乗る人物が息長氏の本貫地である近江の坂田郡息長郷か、或いは息長水依比売系の鍛冶系統の息長氏かその出自については何等史料がなく解りませんが鍛冶系統の息長氏が存在したことは事実である事が判明しました
「書紀」では彦坐王(ひこいますのみこ)の生誕記述のみで息長氏関連記述は、14仲哀天皇期まで一切ありません。
開化六年春正月二十四日条、皇后、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、御間城五十五十瓊殖命(みまきいりびこいにえのみこと/10崇神天皇)を生まれます。是より先に天皇、丹波竹野媛(たにはのたけのひめ)との間に産湯隅命(ひこゆみすみのみこと)を生まれます。次に姥津媛(ははつひめ)との間に彦坐王(ひこいますのみこ)を生まれます。
「書紀」の崇神期の四道将軍派遣記述では丹波道主王(たにはのみちのぬしのみこ)が丹波へ派遣されていますが、
垂仁期の「書紀」一伝では道主王を産湯隅命の子としています。
「記」では丹波に派遣されているのは父の日子坐王(ひこいますのみこ)です。また比古多多須美知能宇斯王の娘についての記述が「記」垂仁期にもありますが開化期と名前が異なっています。垂仁天皇が

丹波比古多々須美知能宇斯王の女(むすめ)比婆比売命(ひばすひめのみこと)・弟比売命(おとひめのみこと)・歌凝比売命(うたごりひめのみこと)・円野比売命(まどのひめのみこと)の四人を天皇喚(め)し上げたまふ。然(しか)あれども比婆比売命・弟比売命の二名を留(とど)めて歌凝比売命と円野比売命は、いたく凶醜(みにく)さに因(よ)り、本(もと)つ主(あるじ)に返し送りたまふ。という記述があります。開化期の系図にあるように須美知能宇斯王の御子は三女一男が垂仁期には四女に変わっています。


丹波比古多々須美知能宇斯王の女(むすめ)比婆比売命(ひばすひめのみこと)ですが11垂仁天皇期の記述では氷羽州比売命に表記が変わっています。前皇后、沙穂姫(さほひめ)の推挙で立后した日葉酢媛(ひばすひめ)は五柱の皇子を生みます。印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこ)・大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしおしろわけのみこ)・大中津日子命(おほなかつひこのみこと)・倭比売命(やまとひめのみこと)若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱。 ※大中津日子命「書紀」では大中姫命と女性名になっています。大帯日子淤斯呂和気命は12景行天皇になられます。 
氷羽州比売命は息長水依比売の孫にあたりますから、息長系の初の皇后となり、12景行天皇の母で天皇家の外戚となります。
古事記 日本書紀
氷羽州比売命(ひばすひめのみこと) 垂仁天皇皇后 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと) 垂仁天皇皇后
印色之入日子命(いにしきのいりひのみこと) 氷羽州比売命の子 五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと) 日葉酢媛の子
大帯日子淤斯呂和気命
(おおたらしひこおしろわけのみこと)
 上同 大足彦尊(おほたらしひこのみこと)   上 同
大中津日子命(おほなかつひこのみこと)
      上同 大中姫命(おほなかつひこのみこと)   上 同
倭比売命(やまとひめのみこと)       上同 倭姫尊(やまとひめのみこと)   上 同
若木入日子命(わかきのいりひこのみこと)       上同 稚城瓊入彦命(わかきにいりびこのみこと)   上 同


開化天皇陵 奈良市油阪町にある春日率川宮
(かすがのいざかわのみや) 
天御影神が降臨したと云う三上山
近江富士とも呼ばれている
滋賀県野洲市三上 御上神社 
祭神 天之御影神
京丹後市久美浜町新町の式内神谷神社 祭神 丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)  神社本殿には見事な彫刻が施され京都府指定文化財になっています。崇神天皇期の四道将軍派遣で丹波に派遣された丹波道主命の佩刀との伝承がある神剣「国見剣」(くにみのつるぎ)を神魂(かみのみたま)として祀りしているそうです。次の写真は丹波道主の墓伝承のある雲部車塚(うんべくるまつか)古墳で兵庫県篠山市東本荘にあり、宮内庁の陵墓参考地に指定されています。  「記」では旦波国に派遣されたのは日子坐王と記されます。    
    ※ 右端の神谷神社由緒はクリクックしていただくと拡大します。
山代(やましろ)国の息長氏
日子坐王は実母の妹、袁祁都比売命(をけつひめのみこと)と近親異世代婚で生まれたのが山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、比古?意王(ひこおすのみこ)、伊理泥王(いりねのみこ)三柱。山代大筒木真若王は同母弟の伊理泥王(いりねのみこ)の女(むすめ)丹波の阿治佐波比売(たにはのあじさはひめ)と異世代婚して、迦迩米雷王(かにめいかずちのみこ)を生む。この王、丹波の遠津臣(とおつおみ)が女(むすめ)高杙比売(たかくいひめ)と婚姻して息長宿祢王(おきながすくねのみこ)を生む。息長宿祢王、新羅国(しらぎのくに)の王子、天之日矛(あめのひほこ)の末裔の葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)を娶り息長帯比売命(おきながたらしひめ)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱を生む。
■長帯比売(おきながたらしひめ/14仲哀天皇皇后)
■息長日子王王は吉備の品遅君(きびのほむちのきみ)・針間阿宗君(はりまのあそのきみ)が祖。
ここでの注目は丹波・山代(やましろ)・葛城・といった地名のつく人物が登場する事です。 開化天皇の都は春日の伊耶河宮(いざかわのみや/奈良市率川)であり御子達もここで生まれ育ったものと思われますが御子達の居住地については一切記述がないので不明です。日子坐王と妃の丸邇(わに)系の袁祁都比売(をけつひめ)の間に生まれた山代大筒木真若王(やましろのおおつつきま
京田辺市 息長山 観音寺(普賢寺)  朱智神社  祭神 迦邇米雷王  継体天皇筒木の宮跡 
わかのみこ)・比古意須王(ひこおすのみこ)・伊理泥王(いりねのみこ)の三柱の御子は息長本流に?がる系譜ですが山城国に居住するに至った経緯の記述が無く山代(やましろ)の字句から山城国と推察するのみです。
山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)とその子、迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)は其の名がいずれも土地名から、また朱智神社の祭神として迦迩米雷王が祭られ、息長系の継体天皇の筒木宮伝承などから現京田辺市の辺りに迦迩米雷王の子、息長宿祢王が居住しており、新羅の王子、天之日鉾(あめのひほこ)の末裔である葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)との間に息長帯比売(おきながたらしひめ後の14仲哀天皇の皇后亦の名神功皇后)・虚空津比売(そらつひめ)・息長日子王(おきながひこのみこ)を生み、虚空津比売についてはその後の記述なく、息長日子王は吉備の品遅君(きびのほむちのきみ・針間阿宗君之祖)と記されています。9開化期から14仲哀期までの息長氏の系譜記述は「記」独特のもので「書紀」には何故か息長氏の記述は皆無です。
下写真は兵庫県たつの市誉田町に鎮座する阿宗神社(あそうじんじゃ)、主祭神は神功皇后、配祀神は応神天皇、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)です。本来なら「記」に針間阿宗の君の祖と記される息長日子王が主祭神に成るのが順当と思うのですが何故か日子王は末座になっています。神社由来に依ると29欽明天皇32年に、宇佐八幡宮より勧請されて立岡山に鎮座した式内社が、鎌倉期に広山の現在地へ遷座。江戸期には弘山八幡宮と称され、旧阿宗神社は次第に寂れ、明治初年まで太子町の斑鳩寺の別当持ちの神社で、神職は不在の神社であったが弘山の八幡宮が明治期に阿宗神社へ改称されたそうです。
また配神の玉依姫命とは固有名詞では無く神霊の憑(よ)りつく巫女(みこ)の名で「記」は玉依毘売命・「書紀」は玉依姫尊と記しており、神功皇后が即ち玉依姫尊ではと私は考えています。
上写真は兵庫県竜野市誉田町に鎮座する阿宗神社で息長宿禰王の子息長日子王(針間阿宗の君)を祀る。参道は車の通行が多いのか鳥居には防護柵が、拝殿の飾り瓦がひときわ目をひきました。神社由緒では主祭神は神功皇后で配祀神が応神天皇・玉依姫・息長日子王となっており、本来、日子王が主祭神であるべきなのに
下の写真は阿宗神社を訪れた時に「書紀」推古14年秋7月条に聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんきょう)・法華経を講じられた時に天皇は大変感動され播磨国の水田100町歩を太子に贈られ、太子はこれで播磨に斑鳩寺を建立されたという斑鳩寺をも訪ねました。写真左から仁王門・聖徳殿・1565年室町時代後期建立の三重塔の他、広大な境内に講堂・鐘付き堂等もあり各地に聖徳太子建立寺院と称する寺院がありますが歴史的に立証される太子建立寺院に接して感動しました。
また当寺の別当職が明治期まで阿宗神社の維持管理をしていた様です。
山代大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)は、その名のとおり現京田辺市普賢寺(ふけんじ)付近に定住したらしく、十一面観音で有名な普賢寺の裏山は「息長山」と呼ばれており、近くには朱智(すち)神社(祭神迦迩米雷王)や継体天皇の筒木宮跡もあり息長氏に縁の地であることを覗わせます。この普賢寺に伝わる「補略録」があり『普賢寺補略録曰、天平十六年(744)甲申(きのえさる)年勅願。良弁僧正再造開基。号息長山。大御堂本尊。丈六観世音。小御堂本尊。普賢菩薩。光仁天皇宝亀九戊午(つちのえうま)(778)。五重大塔造立。以下略この補略録最後の箇所に『朱智天王神。右寺鎮守。在同郷西之山上。祭所。山代大筒城真若王之児。迦邇米雷王命(かにめいかづちのみこ)。』と記されており、この地が古代息長氏と関わりのあることを覗わせます。迦邇米雷王を祀る朱智神社の朱智ですが、朝鮮半島に由来する名だそうで、大加耶(おおかや)国の始祖王の名が内珍朱智()という名であり、大国の君主は「臣智」といい首長を意味する言葉であった様です。すると朱智天王神は朝鮮系の神で当地には朝鮮半島からの渡来人が移住していた様です。
26代継体天皇は樟葉宮(くずはのみや)で即位し、山背(やましろ)の筒木、弟国(おとくに)と遷都し大和入りまでに二十年の歳月を要したと云うのが通説になっています。しかしこうした通説が生まれるのは継体天皇が息長氏系の天皇と言われる事と関係があるとの説とは無関係ではなさそうです。継体天皇の生誕から越前への移住、樟葉での即位から山背を経て大和へ落ち着くまでのコ-スから推察できるのは大和東北部から山城南部を勢力圏とする和珥(わに)氏と母方に和珥氏を持つ日子坐王の子、大筒木真若王(山城息長の祖)等の後裔氏族に支えられ乎富等王(おおほどのみこ/継体天皇)の即位から大和入りして名実ともに大王として君臨するに到った背景です。この継体王朝が現天皇家の祖であるとの説が有力です。こうした伝承と普賢寺補略録から日子坐王の子、山代大筒木真若王が南山代(みなみやましろ)、その子迦邇米雷王命(かにめいかづちのみこ)や息長宿祢王以下の南山背に於ける息長氏の存続については何等の記述もなく不明です。因みに日子坐の墓は岐阜県岐阜市岩田西にあります。墓地に隣接して式内社の伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)があり、この神社の祭神は日子坐王・八爪入日子命(やつめいりひこのみこと)です。日子坐王は晩年八爪入日子命のもとに身を寄せこの地で亡くなったという説があります。明治8年、宮内省によりここにあった自然石が日子坐命の墓に治定されたそうです。また、日子坐王は崇神天皇の御代に丹波国に派遣され、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまふ。と記されているので玖賀耳之御笠とは大和政権に従わぬ反徒であったのでしょう。しかし丹波・丹後は天之日矛(あめのひほこ)の勢力圏である所から日子坐王と天之日矛は同一人物ではとの説もあります。
息長水依比売(おきながみずよりひめ)の子、美知能宇斯王(みちのうしのみこ)は丹波の河上之摩?郎女(かわかみのますのいらつめ)を娶っており丹波に定着していたものと考えられます。
また息長宿祢王、河俣稲依?(かわまたいなよりひめ)に娶(めと)ひて生める子、大多牟坂王(おおたむさかのみこ)此の王は多遅摩国造が祖なり。
「書紀」29欽明天皇二十六年夏五月の条に高麗人(こまびと)頭霧耶陛(づむりやへ)等、筑紫に投化(まうき)て、山背国(やましろのくに)に置(はべ)り。今の畝原(うねはら)・奈羅(なら)・山村の高麗人の先祖なり。と記されており畝原は(相楽郡山城町)・奈羅は(綴喜郡田辺町)・山村は(相楽郡精華町)と推定され、狛造(こまのみやつこ)の一族はこの地に氏寺として高麗寺を建立しており、その寺跡が1938年(昭和13年)の発掘調査で飛鳥寺の創建瓦と同笵の軒丸瓦が出土。また欽明三十一年条には暴風雨で遭難して越国(福井県)に漂着した高麗の使臣を「山背(やましろ)の相楽郡(さがらのこおり)に館(むろつみ)を建て厚く相資(あいたす)け養(やしな)へ」と天皇が詔しており、この地の高麗系氏族の勢力が窺えます。また、「新撰姓氏録」には次のような高句麗系氏族が見られます。  
本貫 種別 種族名 氏族名 始祖
右京 諸蕃 高麗 狛首 出自高麗国主夫連王也
山城国 諸蕃 高麗 狛造 出自高麗国主夫連王也
河内国 諸蕃 高麗 大狛連 出自高麗国溢士福貴王
河内国 諸蕃 高麗 大狛連 出自高麗国人伊利斯沙礼斯也
河内国 未定雑姓 狛人 高麗国須牟祁王之後也
河内国 未定雑姓 狛染部 高麗国須牟祁王之後也
河内国から山背国にかけて多数の高麗人が移住しており山城国相楽郡大狛郷(おおこまのさと)、下狛郷(しもこまのさと)や河内国大県郡巨麻郷(おおがたぐんこまのさと)・河内国若江郡巨麻郷(わかえぐんこまのさと)の地名があります。山背国の場合は息長氏の領域と一部重複しますが、山背(やましろ)の息長氏については、その後の記述がなく、消息不明ですが普賢寺補略録や朱智神社が現存しているのは息長宿禰王の子
孫がこの地に定住していたからと思われます。
日子坐王系の息長系譜は「記」のみに記述されるものですが、謎と疑問や矛盾に満ちたもので、記述すべてを歴史的事実として信じる事は出来ませんが「息長」と云う氏族が古代に実在したことは事実の様ですが、息長氏については渡来氏族・鍛冶族・皇室の湯人説等があり、その本貫地は北近江の坂田郡であることは事実ですが南山城・大和の忍坂(桜井市)にも定住していた痕跡があり、これらが全て北近江を本貫とする息長氏であったか疑問のあるところです。「記」は応神天皇と息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)の御子、若沼毛二俣王(わかぬけのふたまたのみこ)の子、大郎子(おほいらつこ)が北近江坂田郡の息長の祖と記します。また「記」の記す息長氏の記述から見ても系譜中に息長姓の人と他姓の人が混在しているのも異様です。また息長水依比売は天御影神の女(むすめ)とあり、この神は天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子(天照大神の孫)で鍛冶の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一神とされ、日本第二の忌火(いむび)の神とされます。 
   ※忌火(いむび) 火鑽(ひきり)でおこした清浄な火で供物の煮炊きなど神事に用います。
この水依比売の系譜が次代に?がるのは美知能宇斯王のみですが息長系譜には直接?がることはありません。
「書紀」には丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)と記され崇神十年には四道将軍の一人として丹波平定に派遣されます。「記」では丹波平定に派遣されるのは日子坐王(丹波道主命の父)で高志道(こしのみち/北陸)へは大?古命
(おほびこのみこと)を東の十二道には大?古命の子、建沼河別命(たけぬなかはわけのみこと)を派遣。「書紀」は四道に派遣としますが「記」は三道となっています。
 
古代に海峡を越えた人々
「漢書」地理志燕(ちりしえん)地条に楽浪の海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う記述があります。下左図は紀元前100年頃のの古朝鮮時代の半島で前漢の武帝が朝鮮半島の西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、紀元前108年に朝鮮半島に楽浪(らくろう)・真番(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の四郡を設置し、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配します。その後真番郡・臨屯郡・玄菟郡は廃されますが、西暦204年には朝鮮半島に新たに帯方(たいほう)郡が置かれ楽浪郡との二郡は西暦313年まで存続します
三韓時代(2世紀~3世紀)の朝鮮半島で西暦346年頃に百済国が西暦356年頃に新羅国が建国されます。因みに高句麗の建国は伝説上では紀元前37年頃と云われます。西暦105年頃に高句麗は?(れい)を支配下に置き209年頃には北満から朝鮮半島に遷都し高句麗の騎馬民族が半島を南下するようになると、その機動力と戦闘力に圧倒された南朝鮮の国々の人々が戦禍に追われて倭国に新天地を求めて渡来して来るようになります。その反面紀元前~三世紀にかけて中国が設置した漢四郡の漢人が中国王朝の政治・文化的影響を朝鮮半島にもたらし、やがて高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与したと云われています。

朝鮮半島から日本列島への移住は縄文時代~7世紀迄続き、其の期間の移住者の数は把握することは出来ませんが、縄文時代の日本の人口については遺跡・集落遺構等から10万から30万で当時の食糧事情から縄文人の平均寿命は25歳前後ではと推定する説があります。これはあくまで推測で弥生から古墳時代にかけて、どのくらいの渡来人が倭国(日本)に来たのか全く判りません。また朝鮮半島から日本列島への移住も縄文時代から始まり稲作文化をもたらしたのも半島から移住して来た渡来人と云われています。
古朝鮮(紀元前)の朝鮮半島 漢武帝前108年に漢4郡を設置 3韓時代(2世紀~)
上左図の衛氏朝鮮は中国の燕を出自とする中国人亡命者である衛満(えいまん)が朝鮮半島北部に建国した国で衛満朝鮮ともいわれ、この衛氏朝鮮は三代衛右渠(えいゆうきょ)の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされます。その後に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島を四郡を通じて統治します。  上中図は漢が設置した四郡図。  上右は三韓時代の図で、馬韓・弁韓・辰韓の朝鮮半島南部に存在した言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる国を「三韓」と呼んで、三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味だそうです。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属しています。
下左図は二世紀頃、北の高句麗の騎馬集団が半島を南下して南鮮の諸国を圧迫し、領土を拡張した四世紀初頭
下中図は四世紀末頃で国名の下の()内の数字は建国と滅亡年を表示。
下右図は任那の変遷図。
「記紀」は古代の朝鮮半島記述に「新羅」の名を記すことが多く、また反新羅記述も多く見られます。上記に見られる様に新羅の建国は西暦356年ですゆえ、垂仁期のアメノヒホコの渡来記述に「新羅の王子」とか任那人蘇那曷叱智(そなかしち)・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の帰国に際して天皇が与えた赤絹を新羅人に奪われ、それが基で二国間が不和になった記述がありますが、この当時新羅国は未だ存在せず、こうした反新羅の風潮は
親日国であつた百済が新羅と争った660の戦闘に日本から援軍を送りましたが663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本・百済連合軍は新羅・唐の連合軍に完敗し、ここに百済は滅亡し多くの百済王室縁者や氏族・民衆が大勢日本列島に亡命してきます。当時の先進国であつた百済の亡命者がヤマト政権に採用され律令国家の設立に寄与したと云われ、「書紀」編纂事業にも多数の亡命百済人が携わった様で、こうしたことから反新羅感情が「書紀」編纂に表れたと云う説もあります。
皇別 神別 諸蕃
左京 104 82 72 258
右京 78 65 102 245
山城 25 45 22 92
大和 19 44 26 89
摂津 30 45 29 104
河内 46 63 55 164
和泉 33 60 20 113
335 404 326 1015
左図は九世紀に編纂された「新撰姓氏録」で畿内に居住する氏族1182氏の名を記載して「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、その出自を明らかにしています。その内、渡来系の「諸蕃」が326氏で、その内訳は「漢163氏」、「百済104氏」、「高句麗41氏」、「新羅9氏」、「任那9氏」、この他無所属117氏が有り、渡来系の占める比率は34.4%になります。但し、この数字には九世紀以前に帰化した氏族や畿内在住の一般民衆は含まれて
いませんので実数はもっと大きな数字になると考えられます。現在の日本人の大多数の祖先は渡来人であると云っても過言ではないようです。因みに上表の河内国は14郡76郷・和泉国が3郡24郷なので他の国に比し一郷当たりの諸蕃氏族の数が群を抜いているのが解ります。今日本各地に百済・新羅・高麗等の郡郷や寺社があるのは、これら渡来人が自分達の祖国から持って来た神仏を祀ったもの、亦居住先で在住民が信仰していた神仏と合祀したものです。これらの渡来人がもたらした水稲栽培・文字・仏教・製銅・製鉄・須恵器・土木技術等は古代文明の開花に大きく貢献しました。当時の有名渡来人として鞍作鳥(くらつくりのとり)・征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・秦氏(はたし)・漢氏(あやし)・高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・行基・最澄の他、百済王氏(くだらのこにきし)等の朝鮮王族もいます。当時の朝鮮半島からの渡来人は先進国の文明人だったのです。
後の推古朝に遣隋使が派遣され倭国と隋(581~618)の間に遣隋使・その後遣唐使が派遣されるようになり先進文明の摂取先が中国に変わります。従来は中国文化・先進技術のほとんどが朝鮮半島経由で日本に伝わって来たのですが、遣隋使や遣唐使の派遣で中国との往来が始まり先進文化が直接摂取出来るように成ると、当時の朝鮮が中国の属国的地位にあることから日本側に朝鮮蔑視の傾向が顕著になってきます。

中国の後漢書によると建武中元二年(西暦57年)に後漢に朝貢して光武帝より印綬を受け、その時受けた金印が江戸時代天明4年(1784)に水田の耕作中の農民が巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中にあるのを発見したといわれます。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥(かめいなんめい)は「後漢書」に記述のある金印とはこれのことであると同定したといわれます。大正3年(1914)、九州帝国大学の中山平次郎教授が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定しました。昭和48年(1973)及び昭和49年(1974)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されています。この金印は昭和29年(1954)文化財保護法に基づく国宝に指定されいます。
上左写真 筑前国那珂郡志賀島村の百姓甚兵衛が水田の溝を改修中に発見した金印出土地。  中写真出土した純金の印で「漢委奴國王」の文字が刻まれている。  右写真スマホと単3乾電池と比較していただくと金印の大きさが解ります。 
この金印が後漢書に記される西暦57年に「倭の奴国、後漢に朝貢し光武帝より印綬を受ける」この金印が天明4年(1784)4月に百姓甚兵衛により偶然発見され、庄屋の進めで金印を口上書(下右)とともに郡代役所へ届出ることになった。その時の口上書と発見場所の絵図が下の写真です。  
更に後漢の安帝、永初元年(西暦107年)には倭国王の請見記述があり「倭国王師升(すいしょう)ら、後漢安帝に生口(奴隷)160人を献ず」と記されており、卑弥呼の邪馬台国以前に倭人は前漢や後漢に使者を派遣していますが、彼等はどの様なル-トで中国まで行き、また言葉の壁をどの様に克服したのか、大きな謎ですがそれを解く手懸かりは一切無く永遠の謎です。西暦57年に倭人が中国へ行ったとは凄い事です朝鮮半島沿岸沿いに海路をとったのか、玄界灘を渡り朝鮮半島を陸路で行ったのか?、いずれにしても至難の技です。しかも西暦107年の倭国王帥升(すいしょう)ら、は160人もの生口(奴隷)を連れての中国への渡航で有り、どの様な船で総勢何百人の渡航だったのか。この2例が文献史料に残る日本人の海外渡航の初見史料です。
西暦57年・107年に倭人が中国に渡来している事実があるということは中国・朝鮮半島からも倭国に渡来して来た人々が存在し、この人達の中に中国王朝への朝貢を斡旋したものと考えられます。
上写真 左は1988年(昭和63年)に大阪市平野区長原遺跡の五世紀初頭の築造と推定される高廻り1・2号墳から出土した船型埴輪です。奥高廻り1号墳・手前2号墳から出土。

中写真は東殿塚古墳から出土した埴輪の外洋船。

左写真は平成元年(1989)に大阪市が市制100週年を記念して2号墳出土の埴輪の古代船を忠実に復元して大阪から韓国の釜山までの700Kmを実際に航海し古墳時代の倭国と朝鮮半島の人々の往来を再現する企画を立案、平成元年(1989)に大阪市が市制100週年を記念して、この埴輪の古代船を忠実に復元して大阪から韓国の釜山までの700Kmを航海する企画をたて、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現し「なみはや」と名付け大阪から韓国の釜山までの700Kmを実際に航海し古墳時代の朝鮮半島から倭国への渡来体験を試みるべく大阪市大の漕艇部員8名が漕ぎ手を務め、大阪港を漕ぎ出しましたが安定が悪く、そのうえなかなか進まず50cmの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうになり、到底海上を進むことは無理なので船を安定させるための重りを船底に乗せ曳舟で瀬戸内海から玄界灘を越えて韓国釜山港に入って大阪市大の漕艇部員8名が再び漕
ぎ玄界灘を渡って来たかのように振る舞ってもらったそうです。左は2004年(平成16年)の毎日新聞記事で大阪四條畷の蔀屋(しとみや)北遺跡から古墳時代の準構造船の木材の一部が出土した記事です。高廻り1号墳出土の埴輪によく似た形をしています。弥生時代の倭国から後漢に渡った記録として中国の「後漢書」に建武中元2年(西暦57年)に「倭の奴国後漢に朝貢し光武帝より印綬を受けた」、また、倭国王帥升(すいしょう)等後漢の永初元年(西暦107年)安帝に「生口(せいこう/奴隷)160人を献じ謁見を請う」と云う記述があり、是が倭国が外国に使者を送った最古の記述ですが、どうして渡海し、どのようなコ-スで中国入りしたのか?。当時の中国へ行くには朝鮮半島にわたり、半島沿岸沿いに北上するか、南朝鮮に上陸して陸地を北上したものと推測されますが、それにしても西暦107年の使節団は生口160人も伴い総勢300人程度の人数であったと思われ、どの様にして玄界灘を越えて中国まで行ったのか また当時の造船記述や航海術は 言葉の問題は全て謎です。その後、西暦200年代には邪馬台国や女王卑弥呼の記述が中国史書「魏志倭人伝」に見られますが、この時でも帯方郡までどの様なコ-スをとったのか、その詳細は不明です。
左図は南朝の梁(りょう)の元定蕭繹(しようえき在位552~554)が即位前に自ら画いた「職貢図」で「倭国は帯方の東南の大海中に在り。山島に依って居る。-中略-木綿を以て首に貼る。衣は横幅にして縫う無く、ただ結ぶ」と記しています。どうやら「魏志倭人伝」の文を参照していると思われます。中図は朝鮮3国の使者が皆履き物を履いているが倭国使のみが裸足です。まさか裸足で中国まで数千里の旅が出来るとは思えないが、当時の倭国は朝鮮3国に競べて後進国で
あった事は事実であった。
上写真左は南朝の梁(りょう)の蕭繹(しょうえき/即位して元帝となる)が刺史(しし)として荊州(けいしゅう)にいた539年頃,当時の外国人使節の貢献(ぐけん)のさまを描いた職貢図(しょくこうず)で職貢とは中央政府におさめられる貢ぎものの意で「梁職貢図」に描かれた倭人像は、六世紀前半の原画を十一世紀後半に模写したものだそうで、倭人の肖像画としては最古のものです。六世紀といえば、日本史では倭の五王の時代になります。これは筆者が「魏志倭人伝」の記述を参照に想像して画いたものという説もあります。高句麗・新羅・百済使が礼服で靴をはいているのに対して倭国使は一枚の布を身体に巻いて裸足というみすぼらしい姿に画かれています。まさにこれは魏志倭人伝の記述で『其の風俗、淫(みだ)れず。男子は皆、露?(ろけい)し、木綿を以て頭に招(しば)り、其の衣は横幅(おうふく)、但(ただ)、結束して相連(あいつら)ね、略(ほぼ)、縫うこと無し。婦人は被髪屈?(ひはつくっけい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きぬきて之(これ)を衣(き)る』 という「魏志倭人伝」の記述を参考にした想像画の様です。六世紀に日本の使者が裸足で一枚の布を身体に捲いたままの姿で中国に行ったなど到底考えられません。
大陸や朝鮮半島から来た人を「帰化人」「渡来人」といった呼び方があり、どちらも異国から来た人なのに、どう違うのか?。「記」には「帰化人」という記述は無く「書紀」にのみある表現です。こうした呼び名は渡来も帰化も同じだと思うのですが、敢えて言うならば居住地に定着し永住した人々が帰化人でしょう。
10代 崇神天皇期(前97~前30) 弥生時代
左 行燈山古墳(伝崇神天皇陵)・右 崇神天皇の瑞籬(みずがき)宮跡
古事記 10代 崇神天皇 御真木入日子印恵命   みまきいりひこいにえのみこと
日本書紀 上同 上同 御間城入彦五十瓊殖天皇   みまきいりひこいにえのすめらみこと
古代天皇で「初国知(はつくにし)らしし天皇(すめらみこと)」 と呼ばれる天皇が二人います。一人は初代神武天皇で、2代綏靖(すいぜい)から9開化(かいか)までの天皇は実在しないと云われる欠史八代の天皇が続き、10代崇神天皇です。この天皇、磯城(しき)水垣宮にヤマトの国を治めたと云われ、「記」は「役病多(えやみさは)に起こり、人民(おおみたから)尽きなむとす」と記し、そんな折、天皇の夢枕に大物主(おおものぬし)大神があらわれ、「是は我が御心ぞ。故(かれ)意富多多泥古(おほたたねこ)を以ちて我が前を祭らしめたまはば、神の気(け)起こらず、国も安らかにあらむ」と告げます。河内の美努邑(みののむら)に其の人を見つけて連れ来たる。天皇「汝は誰が子ぞ」と問われると答えて曰わく「僕(やつかれ)は大物主大神、陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依(いくたまよりびめ)に娶(あ)ひて生める子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)の子、建甕遣命(たけみかつのみこと)の子、意富多多泥古(おほたたねこ)」 と白(まを)す。天皇いたく歓びて意富多多泥古を神主として御諸山(みもろやま/三輪山)に意富美和之大神(おほみわのおおかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまふと疾病はやみ、国は平らかになった。と





「書紀」 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと/崇神)は稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/開化)の第二子なり。母をば伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と曰(まう)す。物部氏の遠祖綜麻杵(とおつおやおほへそき)の女(むすめ)なり。天皇、年十九歳にして、立ちて皇太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。
崇神五年条に「国の内に疫病(えのやまいおおく)多くして、民死亡(おおみたからまか)れる者有りて且つ大半(なかばにす)ぎなむとす」と記しています。


十年九月九日条に大彦命(おほひこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦(きびつひこ)をもて西道に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波に、それぞれ遣わし「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃(すなは)ち兵(いくさ)を挙げて伐(う)て」とのたまふ。四道に派遣した将軍達は帰還して天の下は平和になり、人民は富栄えたので、この御代を初国所知之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)と云う。
六十五年秋七月、任那国(みまなのくに)、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして、朝貢(みつぎたてまつ)らしむ。任那は筑紫国を去ること二千余里。北、海(はたのかた、わた)を隔(へだ)てて鶏林(しらき/新羅)の西南に在り。
任那の国名を崇神天皇の和風諡号ミマキイリヒコに付会する為に、ここに記載されたものか?。垂仁二年に蘇那曷叱知の帰国記述あり。
天皇、践祚(あまつひつぎしろしめ/即位)しての六十八年(前30)の冬十二月の戊申(つちのえさる)の朔壬子(ついたちみずのえねのひ/五日)に、崩(かむあが)りましぬ。時に年百二十歳。
「書紀」化二十八年正月条に年十九で立太子の記述があるので、これによると崩御時は百十九歳になる。
「記」天皇、御歳壱百陸拾捌歳(みとしももあまりむそちあまりやつ/168歳)戊寅(つちのえとら)の年の十二月崩(かむあが)りましぬ。御陵は、山辺の道の勾(まがり)の崗(おか)の上に在り。
「記」では初の天皇崩年干支が記されています。この戊寅(つちのえとら)年が西暦何年にあたるのか考古学者の間では、これを西暦318年とする説が有力です。ちなみに干支は十干と十二支の組み合わせなので六十年で一巡するので崇神崩年の戊寅年は198年(仲哀7年)・258年(神功摂政58年)・318年(仁徳6年)のいずれかになります。「書紀」は崇神の崩年を崇神六十八年(前30)辛卯(かのとう)としていますので「記」の西暦318年との差は348年になります。
「記」は崇神天皇の在位年数を記さず、崩年を戊寅年(つちのえとら/ぼいん)年の十二月。年百六十八歳と記しています。干支注記の初記述です。因みに、この崇神崩年に該当する戊寅年とは西暦198/258/318年が該当しますが、現在、崇神陵と宮内庁が指定する「行燈山古墳」の築造年代は考古学的には4世紀後半といわれており、「書紀」紀年によると16代仁徳天皇(313~399)の時代になり、崇神天皇崩年は258年説と318年説があり、318年説を採用すると四世紀初頭築造とされる「行燈山古墳/伝崇神陵」とほぼ一致するのですが、但し古墳の被葬者が崇神天皇であればの話です。天皇の名と被葬者が明らかに一致するのは天智天皇陵と天武・持統天皇陵ぐらいと云われていますので、それ以外の天皇陵については信憑性は薄く考古学界では天皇陵を天皇名ではなく古墳名で呼んでいます。
「書紀」は崇神天皇の在位年数を六十八年として【即位は前九十七年(元年甲申きのえさる)~前三十年(六十八年辛卯かのとう)】と記して、天皇、践祚(あまつひつぎしろしめ)しての六十八年の冬十二月の戊申(つちのえさる)の朔日壬子(ついたちみずのえねのひ/五日)に崩(かむあが)りましぬ。時に年百二十歳。と記します。
 開化二十八年正月条に御間城入彦尊(後の崇神天皇)を立てて皇太子としたまふ。年19とあるので崩年時は   119歳になります。
「初国知(はつくにし)らしし天皇(すめらみこと)」と云われるのが神武と崇神の二柱の天皇ですが実在の初代天皇は崇神であるとの説が有力です。それでは三世紀に出現した初代ヤマト王朝の起源はと云うと紀元前七世紀に
九州の日向の地から東遷してヤマトに入り初代天皇として即位した神武天皇は神話上の人物で実在した人では無いとの説もあります。神武天皇を架空の人とするなら、ヤマト王朝の発祥地を九州に求めるのは正しいのかと云った疑問が浮かびます。「記紀」は何故、天皇家発祥の地を九州としたのでしょう。初代崇神天皇の宮殿は「記紀」共に師木(しき)の水垣の宮と記しています。また、ヤマト王朝の初代王、崇神の和風諡号である「記」の御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、「書紀」の御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと)の名から崇神天皇は朝鮮半島の「任那(みまな)」から来た征服王朝の初代大王と云う説もあります。考古学者の間でも諸説があり、三世紀にヤマトに起こった古墳文化は北九州の青銅器文化や甕棺・箱式石棺文化と密接なつながりがあり、甕棺墓地の主副葬品であった鏡・玉・剣はその後、豪族の墳墓からも副葬品として見られる様になり、やがて天皇家の三種神器に発展することになります。

古事記 日本書紀
天皇 崩年干支 西暦 宝算 生年(西暦) 紀との差 崩年干支 西暦 宝算 生年
(西暦)
治世 即位時
年令
9 開化天皇 63 255 癸未年4月9日 前98 115 前17 57 58
10 崇神天皇 戊寅12月 318 168 150 408 辛卯12月5日 前30 120 前90 68 52
11 垂仁天皇 153 庚午年7月1日 70 140 前70 99 41
12 景行天皇 137 庚午年11月7日 130 106 24 60 70
13 成務天皇 乙卯3月15日 355 95 260 165 庚午年6月11日 190 107 83 60 47
14 仲哀天皇 壬戌6月11日 362 52 148 148 庚申年2月6日 200 52 148 9 42
神功皇后 431 100 169 162 己丑4月17日 269 100 169 69 31
15 応神天皇 甲午9月9日 394 130 264 84 庚午年2月15日 310 110 200 41 69


漢風諡号 和風諡号(読み) 「古事記」和風諡号    「日本書紀」和風諡号  
孝元天皇  オオヤマトネコヒコクニクル  大倭根子日子国玖琉命   大日本根子彦国牽   
9 開化天皇  ワカヤマトネコヒコオオヒビ   若倭根子日子大毘毘命   稚日本根子彦大日日 
10 崇神天皇  ミマキイリヒコイニエ     御真木入日子印恵命    御間城入彦五十瓊殖 
11 垂仁天皇  イクメイイリヒコイサチ     伊久米伊理古伊佐知命   活目入彦五十狭茅  
12 景行天皇  オオタラシヒコオシロワケ    大帯日子淤斯呂和気天皇   大足彦忍代別     
13 成務天皇  ワカタラシヒコ         若帯日子天皇        稚足彦        
14 仲哀天皇  タラシナカツヒコ        帯中日子天皇      足仲彦       
神功皇后  オキナガタラシヒメノミコト   息長帯比売命      気長足姫尊     
15 応神天皇  ホムタワケ           品陀和気命         誉田別        
上表は8代孝元天皇か15代応神天皇までの和風諡号です。右の様に漢字で表した場合「記紀」に表記の違いがありますが読みはいずれも同じです。漢字は「記紀」編纂時の八世紀に編纂者が選んだ表記方法でしょう。
和風諡号の読みは古代から口承伝承で伝わったものと云われていますが初代神武天皇の神倭伊波礼古命(カムヤマトイハレビコノミコト)から文字で記録出来る様になったと云われる五世紀まで一千数百年もの間、天皇の名が口承伝承で正しく伝わったなど到底信じられません。漢風諡号は天皇崩御後に生前の功績を讃えて贈られていますが、「記紀」記載の漢風諡号は奈良時代の漢学者で大学頭(だいがくのかみ)・文章博士(もんじょうはかせ)の淡海三船(おうみのみふね[養老6年(722)~延暦4年(785)])が神武天皇から元正天皇までの全天皇と神功皇后の漢風諡号を一括撰進しています。「神武天皇から天武天皇までの「和風諡号」は実際の意味は「諡号」ではなく慣習的に和風諡号といっているだけで実態は不明だそうです。「続日本紀」大宝3年(703)12月17日、持統天皇の火葬の際に「日本根子天之広野日女(オオヤマトネコアメノヒロノノヒメノミコト)」と奉ったことが記されており、これが史料上初めての和風諡号です。それ以前のものは諡号だとは記されてなく口承伝承で伝わったものと云われます。初代神武天皇から15応神天皇までは14仲哀天皇を除けば全て父子相続になっています。しかし応神以後の天皇の皇位継承は八世紀までは皇位継承の争いは複雑な権力闘争がからみ応神以前の様な単純な皇位の父子継承は見られません。応神以前の天皇で神話的で実在の疑われる天皇も多くあり、古代天皇は象徴的な存在ではなく、最高の権力者であり、また皇子女の数も多く順調に父子継続とはゆかなかったのでは、また和風諡号は本名と美称で成立していると云われます

41持統天皇以前の和風諡号も7~8世紀頃に作成された可能性が高いと推測されます。








ヤマト王権の成立時期と前方後円墳の出現
西暦 倭国の出来事(これは西暦57年~318年までの倭国の歴史を主に中国文献より抽出したものです。) 出典
57 近畿で銅鐸・方形周溝墓の出現。北九州で支石墓・甕棺墓・青銅製武器形祭器の銅矛・銅剣・銅戈の生産が始まる。
倭の奴国王、後漢に朝貢して光武帝より印綬を受ける。
発掘調査
後漢書
107 石器から鉄器への転換期
倭国王師升ら、後漢安帝に生口160人を献ず。この頃伊都国を盟主とする倭国成立か。倭、弁韓・辰韓の鉄を輸入。
後漢書
148 北部九州で甕棺墓から土壙墓・石棺墓への転換期
倭国大いに乱れ長く主なし。倭の諸国はともに、卑弥呼を共立して盟主とする。
後漢書・魏志
160 倭国大乱(160~180)。 後漢書
180 この頃、卑弥呼倭国女王に共立。 魏志
239 邪馬台国女王卑弥呼、大夫難升米、次使都市牛利らを帯方郡に遣使。魏の明帝に朝貢、郡大守瀏夏、使者を魏都洛陽に送る。此の時女王、男女生口10人、班布2匹2丈を明帝に献じる。明帝卑弥呼を親魏倭王とし金印紫綬を授け、錦・刀・銅鏡百枚等を賜る。 魏志
240 帯方郡太守弓が梯儁らに詔書・印綬をもたせて倭国に遣わし、倭王に詔をもたらし錦・刀・鏡等を賜る。倭王その使者に託して上表し詔恩に答謝する。 魏志
243 この頃纏向型前方後円墳の纏向勝山・纏向矢塚古墳の築造始まる。
倭王、大夫伊声耆・掖邪狗ら8人を魏に遣わし生口・倭綿・緜衣など献上。使者、率善中郎将の印綬を受ける
魏志
245 邪馬台国女王卑弥呼、狗奴(くぬ)国と戦う。魏の少帝、倭の難升米に黄幢を賜い帯方郡
に付して仮綬させる。
魏志
248 この頃、卑弥呼死去。宗女、壹与(いよ)が女王となり安定回復。
265 纏向石塚・纏向ホケノ山古墳の築造。
魏滅び、西晋王朝起こる。
266 この頃近畿・吉備に大型前方後円墳が築造される。
女王壹与、西晋の武帝に貢献する。
魏志
280 ヤマトに前方後円墳の築造が出現。この頃ヤマト王権の誕生か
三角縁神獣鏡の製作始まる。    
西晋が呉を滅ぼし天下統一。
古墳築造年代から
308 奈良盆地の東南部に大王墓・大型前方後円墳の築造が始まる。
313 高句麗、楽浪郡を併合、帯方郡滅亡。 三国史記
318 崇神天皇、御歳168歳、戊寅の年の十一月崩御。この年を西暦318年とする説が有力。
古代天皇の平均在位年数を20年、平均寿命40年と仮定すると崇神生誕は278年、崩年時年令40歳となる。(私の推測)
「書紀」紀年では崇神崩年(崇神68年140歳)から逆算すると生誕は紀元前170年になる。
古事記
私案

日本書紀
上表は中国史料・朝鮮三国史記と発掘調査史料から西暦57年~10崇神期までの主な倭国(日本)の出来事を表にして見ました。史料の大半は「後漢書」「魏志倭人伝」からです。しかし我が国最古の歴史書である「記紀」には魏志にある「邪馬台国」の記述は一切は一切なく、神功皇后期に一部が引用されるのみです。それも「卑弥呼」を神功皇后にに見立てる為の引用です。魏志の「邪馬台国」は日本の古代史には欠かせない史料だと私は考えています。「記紀」同様に魏志倭人伝の記述が全て正しいとは思えませんが、少なくとも「神話」よりは信憑性があると考えています。卑弥呼の後継者について「魏志」は「卑弥呼の宗女壹與(いよ)、年十三なるを立てて王と為す。国中、遂に定まる。政等(せいら)、檄(げき)を以て壹與を告諭(こくゆ)す。壹與、倭の大夫率善中郎将(たいふそつぜんちゅうろうしょう)の掖邪狗(えきやく)等二十人を遣わして、政等の還るを送らしむ。因って臺(だい)に詣(いた)り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢す。」と記されており、帰国する魏の使者を送る為に掖邪狗(えきやく)等二十人を遣わしたと有るので卑弥呼の死後から遠くない頃と推定されます。その後266年(泰始元年)に壹與は西晋の武帝に


古墳の築造年代について学会の発表は世紀で、初頭・中葉・後期で行われる事が多く、一世紀とは100年と思うものの改めて「三世紀初頭て西暦何年」て問われると、答えに窮する事が屡々です。本文でも古墳の築造年代に三世紀中葉と記した場合の西暦年代を割り出す参考にと下記に年代表を作りましたが、是は私がこのHP作成の年代参考にしたもので、正確度については保証の限りではありません。
白色部分は西暦年号を主体にした世紀。 右の黄緑部分は「書紀」紀年で時代・世紀・天皇と世紀年代です。
世紀 時代 西暦 時代 世紀 天皇 「書紀」の紀年
紀元前 縄文~弥生 紀元前100年~1年 縄文 紀元前 1神武~6孝安 紀元前660~前291
一世紀 弥生 西暦0年~100年 弥生 紀元前 7孝霊~11垂仁 紀元前290~西暦70
二世紀 弥生 西暦101年~200年 弥生 一世紀 12景行 西暦71~西暦130
三世紀 古墳 西暦201年~300年 古墳 二世紀 13成務~14仲哀 西暦131~西暦200
四世紀 古墳 西暦301年~400年 古墳 二世紀 神功皇后 西暦201~西暦269
五世紀 古墳 西暦401年~500年 古墳 三世紀
「書紀」記述の崇神天皇は紀元前97年~紀元前68年に在位した第10代の「初肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言われ実在した初代天皇と云う説が有力ですが、実在したとすると「書紀」は天皇の崩年を崇神六十八年(紀元前30年)の冬十二月の戊申(つちのえさる)の朔壬子(ついたちみずのえねのひ/五日)に崩(かむがり)ましぬ。時に年百二十歳。明年(くるつとし)の秋八月の甲辰(きのえたつ)の朔甲寅(きのえとら/十一日)に、山辺道上陵(やまのべのみちのうえのみささぎ)に葬(はふ)りまつる。と記しています。「記」は天皇御年百六十八歳、戊寅(つちのえとら)の年の十二月崩りましぬ。御陵は山辺道の勾(まがり)の崗(おか)の上に在り。この崇神崩年の戊寅年は西暦何年にあたるのか 考古学者の間でも異論がありますが、西暦318年説が有力な様です。
伝崇神天皇陵に比定されている奈良県天理市柳本にある行燈山(あんどんやま)古墳の築造年代については四世紀前半頃(古墳時代前期)と推定されています。「書紀」では崇神天皇の治世は紀元前97~前30ですが、「記」の崇神崩年戊寅(つちのえとら)年に該当するのは御陵の築造年代から推定すると西暦258年(神功摂政58年)・198年(仲哀7年)・318年(仁徳6年)になります。 ()内は「書紀」の紀年です
「記」の天皇の崩年干支は「註記崩年干支」といわれ、即ち本文の脇に記したものなので編纂当時に記されたものか、後年の「記」編纂時に加筆されたものか判断が難しく人によって意見の別れるところですが、我が国に暦が入って来たのは33推古天皇(592~628)の時代と云われていますので、此の崇神崩年干支は後年に加筆されたものと考えられ、その信憑性に疑問があります。崇神天皇は師木水垣(しきみずかき)の宮で天下を治め、山辺道の勾(まがり)の崗に葬られています。奈良県天理市柳本町にある行燈山古墳が宮内庁により崇神天皇陵に治定されおり、昭和50年(1975)に宮内庁書陵部による外堤・渡堤・後円部墳丘裾部での発掘調査が実施されているほか平成29年(2017)学会立ち入り調査が実施されていて出土埴輪・銅板(1864の修復時)から古墳時代前期後半の4世紀前半頃(320頃)の築造と推定されています。「記」の崇神天皇の崩年を戊寅(つちのえとら)年を西暦258年説を採ると卑弥呼(ひみこ)の年代と重なり、邪馬台国ヤマト説は成立しなくなります。崇神陵とされる行燈山古墳の被葬者について、寛政九年~享和元年(1797~1801)蒲生君平が『山陵志』で景行天皇陵に比定しており、安政2
(1855)景行天皇陵に治定されています。また元治元年(1864)九月~慶応元年(1865)四月にかけて柳本藩による修陵が行われその際、後円部南側から銅板が出土しているが現在所在不明ですが拓本が残っており、拓本によれば銅板は長方形で、長辺70cm・短辺53.8cmで片面には内行花文鏡に似た文様が、他面には田の字形の文様があったそうです。しかし此の古墳の来歴を調べると次の様な事が解ります。 寛政9年~享和元年(1797~1801)蒲生君平(がもうくんぺい)が「山陵志」で景行天皇陵に比定。
安政2年(1855)景行天皇陵に治定。
元治元年(1864)9月~慶応元年(1865)4月、柳本藩による修陵。
慶応元年(1865)に崇神天皇陵に治定変更。
慶応3年(1867)谷森善臣(たにもりよしおみ)が『山陵考』で崇神天皇陵に比定して現在に至っています。
慶応元年に景行天皇陵から崇神天皇陵に変更された根拠について平成二十二年(2010)に衆議院で質問書が提出され宮内庁より答弁書が提出されていますので当該箇所のみ下記に転載しました。
   谷森善臣(たにもりよしおみ/1818~1911)幕末から明治にかけての国学者。
衆議院質問本文
平成二十二年十一月十八日提出  質問第一七七号
『陵墓の治定と祭祀に関する再質問主意書』 ※質問(一)から(七)は省略
(八)奈良県天理市の行燈山古墳は宮内庁によって「崇神天皇陵」に、同じく天理市の渋谷向山古墳は「景行天皇陵」に治定され現在に至っている。現在の治定が行われるまでは、行燈山古墳は景行天皇陵、渋谷向山古墳は崇神天皇陵として扱われていたと思うが、どのような検討を経て現在の治定に至ったのか、詳細を示されたい。また、その検討過程は何に記述されているのか。記録物の名称と、記述の全文を明らかにされたい。
(九)本年八月四日に提出した質問主意書(以下、前々回質問主意書と略)に対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)で、行燈山古墳と渋谷向山古墳の治定の時期はどちらも文久年間と示されているが、この治定が行われるまで行燈山古墳では景行天皇が埋葬されているものとして、渋谷向山古墳では崇神天皇が埋葬されているものとして祭祀が行われていたのか。
また、その祭祀は「皇室の伝統に基づくものとして古くから行われているもの」(二〇〇九年七月九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六五七号))だったのか。

『答弁本文』

平成二十二年十一月二十六日受領  答弁第一七七号
内閣衆質一七六第一七七号
平成二十二年十一月二十六日
内閣総理大臣 菅 直人
衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対し、別紙答弁書を送付する。
(八)について
お尋ねの「崇神天皇陵」及び「景行天皇陵」については、江戸時代の国学者谷森善臣が「延喜式」の記載に基づき考証した結果を踏まえ、文久年間に現在地に治定されたものと承知している。
なお、谷森善臣は、陵墓等の考証に関する成果について「文久山陵考」を著しており、これは「勤王文庫第参編」に収録されている。
(九)について
崇神天皇山辺道勾岡上陵及び景行天皇山辺道上陵が現在地に治定される以前のこれらの陵の状況については、承知していない。 
下は江戸時代の国学者谷森善臣の「勤王文庫第参編」の記述の現代語訳(大正10年発刊国立国会図書館藏)からの転載
築造年代 古墳名称 墳形 墳丘長径
古墳時代前期 渋谷向山古墳(伝景行陵) 前方後円墳 310
行燈山古墳(伝景行陵) 240
箸墓古墳(被葬者不明) 275
メスリ山古墳(被葬者不明) 230
桜井茶臼山古墳(被葬者不明) 207
西殿塚古墳(伝手白香皇女陵) 234
佐紀陵山古墳(伝氷羽州比売) 208
椿井大塚山古墳(被葬者不明) 175
上の表は古墳時代前期築造の王墓亦は首長墓と推定される前方後円墳で椿井大塚山古墳(京都府木津川市)佐紀陵山古墳(奈良市山陵町)以外は奈良県天理市・桜井市にある古墳で、ヤマト王権成立と関連性のある古墳と推定されますがメスリ山・桜井茶臼山古墳以外は発掘調査が行われていません。佐紀陵山古墳は大正4年(1915)に大がかりな盗掘を受け、翌年に宮内省が、復旧工事を行い石室付近と出土遺物に関するかなり詳細な調査と記録の作成が宮内省に保存されているようです。
その後犯人が検挙され盗難にあった遺物は回収されたそうですが、この盗掘犯人は他の古墳の盗掘もおこなっており回収遺物の出所の判別が困難であったようです。
椿井大塚山古墳古墳は破壊がひどく、本来の規模については未だよく分かっていないそうです。
上記の『陵墓の治定と祭祀に関する再質問主意書』は平成22年11月28日に衆議院に提出、同年11月26日に答弁弁書が出されています。その前年平成21年7月9日にも『陵墓に指定された古墳の実態に関する再質問主意書』が提出され、同年7月17日に答弁弁書が出されています。質問者はいずれも衆議院議員吉井英勝氏です。関心のある方は下記をクリックしてご覧下さい。

  陵墓に指定された古墳の実態に関する再質問主意書

  陵墓指定された古墳の実態に関する再質問にかんする答弁書
上写真 左椿井大塚山古墳破壊がひどく古墳の説明板が無ければ古墳とは解らない前方部に当たるのが立木の下になりJR奈良線の線路が残存古墳の下を通っています。その向こうに木津川が流れ前方の山並みが南山城の息長氏の伝承地と継体天皇の筒木宮跡のある所になります。  中は桜井市纏向(まきむく)の箸墓古墳周壕調査箇所図。  右は佐紀古盾列古墳群の地図矢印が氷羽州比売陵、左は成務陵、近鉄京都線の向こうの五社神古墳は神功皇后(オキナガタラシヒメ)陵。ここは奈良県と京都府の境界付近になり地図の上部が京田辺市になり山城の息長氏伝承地になり伝オキナガタラシヒメ生誕地になります。
椿井大塚山古墳 箸墓古墳
ヤマト王権の初期大王墓と推定される巨大古墳として箸墓古墳・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳・行燈山古墳(伝崇神陵)・渋谷向山古墳(伝景行陵)・西殿塚古墳(衾田(ふすまだ)墓/伝手白香皇女陵)・が挙げられます。
三輪山麓の纒向遺跡は、ヤマト政権発祥の地として、また邪馬台国東の候補地として有名な遺跡です。三世紀に巨大な集落が出現し、そこに巨大な前方後円墳の箸墓古墳が築造されます。この古墳の周囲には纒向石塚古墳・矢塚古墳・東田大塚古墳・勝山古墳・ホケノ山古墳等の出現期古墳があり、大型建物跡も出土し我が国最初の「都市」ヤマト政権の「都宮」遺跡ではとする説があります。2009年(平成21年)には国立歴史民俗博物館の研究グル-プが、この古墳の築造年代を西暦240~260年頃とする研究成果を発表され、これが正しいとするなら卑弥呼死去年とほぼ一致することになります。
しかし、此の古墳の被葬者は不明で築造年代についても考古学者により、かなりの年代差があり、未発掘の現状では推理の域を出ないのが現状です。現代は宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として7孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓に治定されています。また、この墓は「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。昼は大坂山の石を運んで。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」と云う伝承もあります。
 
纏向勝山古墳 3世紀中葉以前の築造 墳丘長 110m
纏向矢塚古墳 3世紀中葉以前の築造 墳丘長 96m
纏向石塚古墳  3世紀初頭の築造 墳丘長 96m
纏向東田大塚古墳 3世紀中葉以前の築造 墳丘長 110m
ホケノ山古墳 3世紀中葉以前の築造 墳丘長 80m
和風諡号 漢風諡号 「記」 治世 漢風諡号 「書紀」 治世
9 開化 ワカヤマトネコヒコオオビヒ 若倭根子日子大? 稚日本根子彦大日日 60
10 崇神 ミマキイリヒコイニエ 御間木入日子印恵 御間城五十入彦瓊殖 68
111 垂仁 イクメイリビコイサチ 伊久米伊理?古伊佐知 活目入彦五十狭茅 99
12 景行 オオタラシヒコオシロワケ 大帯日子淤斯呂和気 大足彦忍代別 60
13 成務 ワカタラシヒコ 若帯日子 稚足彦 60
14 仲哀 タラシナカツヒコ 帯中日子 足仲彦 9
神功 オキナガタラシヒメ 息長帯比売 気長足姫 69
15 応神 ホムダワケ 品陀和気 誉田 41







纏向勝山古墳 纏向矢塚古墳 纏向石塚古墳
纏向矢塚古墳説明板 纏向東田大塚古墳 矢塚古墳墳丘墓の石積が残存
 上写真左 桜井茶臼山古墳発掘調査時の毎日新聞報道記事。
 上写真右 桜井茶臼山古墳発掘調査時銅鏡記事。
三角縁神獣鏡 26面・内行花文鏡(国産) 10面
内行花文鏡(舶載) 9面・半肉彫神獣鏡 5面
画文帯/斜縁/四乳神獣鏡 16面・だ龍鏡 4面
環状乳神獣鏡 4面・細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面・単き鏡 1面・盤龍鏡 1面 
これら81面の銅鏡全て粉々に粉砕されて副葬されています。
卑弥呼が魏から下賜されたと云われる三角縁神獣鏡が最多。
メスリ山古墳は奈良県桜井市高田にある前方後円墳で4世紀前半の王墓ではないかと言われています。古墳からは巨大円筒埴輪と鉄製武器類が出土していますが「記紀」「延喜式」などに陵墓としての伝承がありませんが墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品なから此の古墳の被葬者は大王級の首長墳墓であると考えられます。墳丘長224m、後円部径128m、高さ19m、後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室は盗掘により遺物は無かったそうですが、横にあった副石室は未盗掘で、玉杖のほか、膨大な量の各種武器・農工具類などが納められており、副葬品専用の施設と考えられています。
桜井茶臼山古墳は古墳時代前期の前方後円墳のもっとも典型的なもので、桜井市の南東部に広がる鳥見山(とみやま)から北へ延びる尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれています。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から伊勢へ抜ける忍坂(おっさか)街道を見下ろす位置に築かれています。 この立地をあわせて、日本古代史を考えるうえで貴重な古墳です。この古墳の存在が知られるようになったのは、戦後しばらくたってからだそうで、雑木林に覆われて、単なる丘陵にしか見えず自然丘陵を利用して築造されたものです。墳丘長207m、前方部が細長く、全体が柄鏡(えかがみ)形をした古墳です。墳丘に埴輪が無く、段築面には葺石が施されており周囲には陪塚が見られず、古墳の埋葬施設は後円部の頂上には、高さ2m弱と推定される一辺9.75×12.5m の貼り石のある矩形壇が知られており、その壇の裾周りに二重口縁の壺形土器が巡らされていました。さらに、その下に長さ6.7mの長大な木棺を納めた竪穴石室があり、既に盗掘を受けていましたが、なを副葬品が発見されています。後円部には複数の柱穴があり、被葬者を安置した石室の真上に多数の丸太で囲まれた上の新聞写真の様な場があり、死者を弔う祭祀場と考えられます。また、此の古墳から81面もの各種銅鏡が出土していますが、完形品は無く全て1~2cm程度の破片で、何故粉砕した銅鏡を副葬したのか。これに類似した副葬品の埋葬古墳が福岡市西区の一部を含めた旧糸島郡内の古代伊都国の平原(ひらばる)遺跡の弥生時代後期中頃まで王墓が確認出来る遺跡の1号墳に副葬された42面の鏡の大半が棺外にあり、しかも副葬以前に破砕している特異な墳墓ですが直径46.5cmの超大型?製鏡の同笵鏡4面と舶載方格規矩鏡35面のうちに六種14面の同笵鏡をもつことから、弥生終末の王墓の可能性があるようです。この平原1号墳の破砕鏡と桜井茶臼山出土の破砕鏡の副葬形式が類似しており、また、この古墳の外に北九州の宗像三神を祭っている宗像神社があり、この古墳の被葬者と平原遺跡の王墓被葬者との関連に関心がありますが、現時点ではそれに関する何等の史料もなく不明ですが、ヤマト王朝の始祖王の解明には欠かせない考古史料が纏向・磐余の古墳群と北九州の平原古墳群に眠っているのですが、その全容解明には天皇陵・陵墓参考地の壁が有り現状では無理なようです。
桜井茶臼山古墳の築造年代は出土品から四世紀初頭(320~340頃)と推定されています。石室は幅約1.2m、高さ約1.7mで、壁は幅30~40cmの板状の石を積み重ねており、天井は12枚の巨石で塞がれています。石室全体には水銀朱が塗られており、埋葬者の権力の大きさを物語っています。また副葬品では銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類がセットになって出土しています。その中でも銅鏡は完形品はなく全て粉砕されており、その中に「是」とみられる文字が書かれていたものがあり、三次元計測によって群馬県蟹沢古墳で出土した正始元年(魏の年号である正始元年は西歴240年)の銘文を持つ三角縁神獣鏡と一致したと発表されています。これは卑弥呼が魏に派遣した使節が魏の皇帝から下賜された銅鏡100枚を持ち帰った年の年号です。正始元年(240)銘の鏡は兵庫県森尾古墳・山口県の竹島家老屋敷古墳からも出土しています。また景初4年銘(240)のある鏡も福知山市の広峯15号墳他からも出土していますが、景初4年という年号は存在しないのですが、この年号のある三角縁神獣鏡が我が国では出土しています。景初3年(239)に魏では皇帝が崩御したので翌年から正始元年と改元されていて景初4年の年号は存在しません。存在しない年号銘の鏡が出土するのも不可解な謎です。貼り石のある矩形壇が知られており、その壇の裾周りに二重口縁の壺形土器が巡らされていました。さらに、その下に長さ6.7mの長大な木棺を納めた竪穴石室があり、既に盗掘を受けていましたが、なを副葬品が発見されています。後円部には複数の柱穴があり、被葬者を安置した石室の真上に多数の丸太で囲まれた左新聞写真の様な場があり、死者を弔う祭祀場と考えられます。
上写真 左から桜井茶臼山古墳の2013年(H25)の発掘調査時の石室の蓋石。 中 石室内部、石室の中はすべて、天井石に至るまで、多量の朱で塗られていました。 右 後円部の空濠の外に鎮座する式内宗像神社、北部九州系の神社が大和にあるのは何故? 古墳の被葬者と共に注目に値するところで邪馬台国東遷説を彷彿とさせます。 
下左 は古墳から出土した碧玉(へきぎょく)の玉杖。この他に銅鏡の破片が多数出土していますが完形の物は一枚もなく全て破壊されており、何故破壊して副葬したのか? 銅鏡の破片の中に「是」の文字のある(下中写真)物があり、三次元計測により正始元年(240)の魏の年号を持つ三角縁神獣鏡と一致したそうで、魏皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚のうちの一つであるとする説もあります。  下右は三輪山南麓にある崇神天皇の宮跡伝承地。
西殿塚古墳(衾田墓ふすまだはか)は奈良県天理市中山町にある古墳で形状は前方後円墳。第26代継体天皇皇后の手白香皇女(てしらかのひめみ)この陵に治定されています。しかし此の古墳の築造年代は3世紀後半頃の築造と推定されており、手白香皇女の「書紀」による想定年代は六世紀であり年代的に違い過ぎます。因みに此の古墳が、手白香皇女の陵に治定されたのは明治九年(1876)です。手白香皇女の陵について、「記紀」に記載は無く「延喜式」諸寮には遠墓の「衾田(ふすまだ)墓」と記載され、守戸は無く山辺道勾岡上陵(崇神陵)の陵戸が兼守すると規定されています。手白香皇女の真陵に関しては、西山塚古墳の築造が六世紀頃と手白香皇女の想定年代と合致するので、此の古墳を手白香皇女陵とする説が有力です。西殿塚古墳の真の被葬者については、卑弥呼の後継者である台与(とよ)とする説や崇神天皇とする説がありますが、他の古墳同様被葬者不明です。
発掘調査により被葬者が判明するのは、極稀で例えば昭和五十四年(1979)に奈良市此瀬町の茶畑から「古事記」の著者と云われる太安万侶(おおのやすまろ)の墓が発見され火葬された骨や墓誌が出土。墓誌の銘文は『左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳』太安万侶が左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等で養老7年7月6日に歿した旨が記されています。古墳から被葬者の墓誌が出ることは本当に稀な事です。多くは盗掘被害にあっており墓誌も被害に遭っているためとも考えられます。ヤマト王朝の初代大王墓も此処に列挙した古墳に葬られていると考えられますが、残念ながら現状ではヤマト政権の初代王墓がいずれの古墳か特定できる手懸かりは現在のところ皆無です。
私考ですが崇神自身が朝鮮半島から渡来して来て東遷してヤマトに入った征服王朝ではなく、崇神の数代前の祖が北九州からヤマト入りして、当時のヤマトの在地豪族や渡来系氏族の連合政権を設立、いまの近畿地方を勢力範囲とする政権が存在しており、其の連合政権の首長に選ばれた崇神が畿内以外に勢力圏を拡大して大和政権の基礎を築いた大王であった故に「初国知(はつくにし)らしし大王」の尊称を得たと推測しています。
万葉集では「大王」「王」と記され傍訓には「おほきみ」とあり、万葉仮名では「於保吉美(おほきみ)」と記されています。 天皇号の成立年代については様々な説がありますが、推古朝説と天武朝説の両説に集約されるようです。
天皇号の使用については唐の第三代皇帝高宗は上元元年(674)に皇帝の称号を「天皇」に、皇后の称号を「天后」に、変更しています。我が国では40天武天皇(673~686)が初めて天皇称号を使用したと云われます。ただし在位中のいつから天皇号を使用してたのかは明らかでなく諸説があり、33推古天皇から使用していたとの説もあります。文献史料では大宝元年(701)に制定された大宝律令(たいほうりつりょう)で天皇号が法制化されています。「記紀」原本では天皇名は和風諡号で記されていたと考察されます。

和風諡号 漢風諡号 「記」 治世 漢風諡号 「書紀」 治世
9 開化 ワカヤマトネコヒコオオビヒ 若倭根子日子大? 稚日本根子彦大日日 60
10 崇神 ミマキイリヒコイニエ 御間木入日子印恵 御間城五十入彦瓊殖 68
111 垂仁 イクメイリビコイサチ 伊久米伊理?古伊佐知 活目入彦五十狭茅 99
12 景行 オオタラシヒコオシロワケ 大帯日子淤斯呂和気 大足彦忍代別 60
13 成務 ワカタラシヒコ 若帯日子 稚足彦 60
14 仲哀 タラシナカツヒコ 帯中日子 足仲彦 9
神功 オキナガタラシヒメ 息長帯比売 気長足姫 69
15 応神 ホムダワケ 品陀和気 誉田 41


上表は欠史八代といわれる天皇の和風諡号と崩御時の「記紀」に記されている年令。「記」には干支の記事なし、()内は崩年時の年令。「書紀」()内は崩年時の年令、干支・紀元前の年次ですが「書紀」独自の紀元前年次です。
「記紀」では初代、神武天皇の後の2代綏靖(すいぜい)天皇から9代開化天皇までの8代の天皇の事績が記されていないのと、神武天皇の即位年を紀元前660年に設定したため、実在の疑われる天皇名を皇統譜に挿入する必要に迫られ、架空の天皇名を創作挿入したのが後世に「闕史(けつし)史時代」と云われる要因となり、またこの時代の天皇はいずれも父子相続になっていますが、ヤマト政権の誕生は10崇神天皇が初代と云われそれ以前のヤマトの王権についての実態は不明であり、また和風諡号についても文字史料の無い時代の名が数百年もの間正しく伝承されたのが不自然であり、ヤマトタラシヒコ・ヤマトネコ等の名は後世的で「書紀」編纂時に付けられたという説が有力です。
また、「記」の構成は全三巻で上つ巻は「神代」で神話時代。中つ巻は「神武天皇から応神天皇まで」。下つ巻は「仁徳天皇から推古天皇」まで、しかし仁賢天皇から推古天皇までの記述は簡略で事績の記述はほとんどありませんが、是は「記紀」の記述は神代から応神期までは、著しく記述内容に相違がありますが仁徳期以後の記述は年を追う毎に相違と紀年も一致するようになり推古期に到りほぼ一致するため「記」の記述が簡略になったのではと推測されています。また「記」の中つ卷が応神天皇で終わっているのは応神期までの記述は神話の続きであり、史料が無く伝承・物語の時代であると暗示している様に思われるのですが。
欠史八代として2綏靖~9開化までを実在しない天皇で初代神武天皇も神話の中の人というのが多くの考古学者の間で通説化されているのが現状です。またこの時代の天皇は父子関係になっていますが、

崇神は朝鮮半島から渡来した征服王朝の王でヤマト王朝の初代王か それともヤマト王朝の初代王は在地豪族から選出されたのか 九州から東遷して来た渡来系種族とヤマト在地種族の連合政権か
2001年(平成13年)の天皇誕生日の外国記者団とのインタビューで陛下は「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べられ天皇家が百済王家の血を引いている事実を認める発言をされています。また九月の私的旅行では埼玉県の高麗神社を訪れておられます。こうした陛下の言動に対して、とやかく云う人達もいますが朝鮮半島から日本列島への移住は縄文時代~7世紀迄続き、其の期間の移住者の数は把握することは出来ませんが、これらの渡来人を倭王権は日本各地に分散居住させています。九世紀に編纂された「新撰姓氏録」には畿内に居住する氏族約1182氏の名を記載して「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、その出自を明らかにしています。その内、渡来系の「諸蕃」が326氏で、その内訳は「漢」163氏、百済104氏、高句麗41氏、新羅9氏、任那9氏、この他無所属117氏が有り、渡来系の占める比率は34.4%になります。但し、この数字には九世紀以前に帰化した氏族や畿内在住の一般民衆は含まれていませんので実数はもっと大きな数字になると考えられます。現在の日本人の大多数の祖先は渡来人であると云っても過言ではないようです。
桓武天皇の生母は高野新笠(たかのにいがさ)で49光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王を生んでいます。桓武天皇の即位後、皇太夫人となり、薨去(延暦8)後に皇太后、延暦25年(806)には太皇太后を追贈されています。諡号は天高知日之姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)です。高野新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されています。
これは史実として認めるには異論が多く問題がありますが14仲哀天皇の皇后、息長帯比売(神功皇后)の祖も新羅の王子、天之日矛(あめのひほこ)ですから、15応神天皇も渡来系の血統が入っている事になります。この他
皇室関係では天孫降臨・神武東征・ヤマト王権の成立等、天皇家の歴史について私共は正しい史実を知りません。また史実を知ろうにも史料が存在しないため、現在では「記紀」や考古学者の論文や著書と中国や朝鮮の資料に頼らざるを得ないのですが、「魏志倭人伝」「宋書倭国伝」高句麗の「広開土王碑文」「七支刀」「江田船山古墳出土太刀銘文」等の金石文(きんせきぶん)の解読よって知る方法もありますが、これらの金石文の解読も学者の方々により、それぞれの解読方法があり、いまだ統一見解がない状況なので五世紀以前の日本史は全く謎の世紀です。また根強く残る伝承、倭国(わこく/日本)の大王家(天皇)は朝鮮半島から渡来して来たと云う。此の伝承については「記紀」の神話伝承にも其れを示唆させる記述があります。それは素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天孫降臨神話伝承です。  
日本神話の神々の出自は?
「記」では速?佐之男命(はやすさのをのみこと)・「書紀」は素戔嗚尊(すさのをのみこと)と記されています。
「記紀」により名の記し方が違いますので、この項では「スサノヲ」と片仮名で記します。
スサノオ神話については「記紀」で記述は異なり「記」は高天原を追放されたスサノヲは出雲国の肥河上(ひのかわかみ)の鳥髪(とりかみ)に天降りし其の地で八岐大蛇(やまたのおろち)退治をし、大蛇の尾から都牟羽(つむは/意不明)の太刀を取り出しアマテラスに献上します。是が後の草薙の劒です。スサノヲは此の地に宮を造り住み、櫛名田比売(くしなだひめ)を娶(めと)り生みませる神は八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)。また大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)神大市比売(かむおおいちひめ)に娶(めと)ひて生みませる子、大年神(おおとしのかみ)、次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の二柱。兄八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)、木花流比売(このはなちるひめ)に娶(めと)ひて生みませる子布波能母遅久奴?奴神(ふはのもじくみのすぬのかみ)。に娶(めと)ひて生める子此神淤迦美神(おかみのかみ)の女(むすめ)、日河比売(ひかわひめ)に娶(めと)ひて生める子、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)。此の神、天之都度閇泥神(あめのつどへちねのかみ)に娶(めと)ひて生める子、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)此の神、布怒豆怒神(ふのづののかみ)の女、布帝耳神(ふてみみのかみ)に娶(めと)ひて生める子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)。此の神刺国大神(さしくにおほのかみ)の女、刺国若比売(さしくにわかひめ)に娶(めと)ひて生める子、大国主神(おおくにぬしのかみ)。亦の名大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)と謂ひ、亦の名は葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)と謂ひ、亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)と謂ひ、亦の名は宇都志国玉神(うづしくにたまのかみ)とと謂ひ、并(あは)せて五つの名有り。とスサノヲの系譜を記します。
「書紀」本文ではスサノヲの為行(しわざ)、甚(はなは)だ無状(あづきな)し。とありスサノヲの粗暴に心を痛めた姉の天照大神は天岩戸に隠れてしまい神の国、高天原が混乱した為、八百万(やおよろず)の神々が協議の結果、スサノヲに千位置戸(ちくらおきと)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて高天原から追放します。高天原を
追われたスサノヲは「書紀」神代上第八段の一書に曰わく(あるふみにいわく)の記述によると(要点のみで他省略)
一書第一、スサノヲ天より出雲国の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。八岐大蛇(やまたのおろち)退治で大蛇の尾を裂くと一つの劒あり、これが所謂草薙劒(くさなぎのつるぎ)もとの名ハ天叢雲劒(あまのむらくものつるぎ)
一書第二スサノヲ安芸国の可愛(え)の川上に降到(いた)ります。ここでも八岐大蛇退治で出雲と同じく大蛇の尾から草薙劒が出ます。此の劒、今尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)に在(ま)す。即ち熱田の祝部(はふり)の掌(つかさどる)神是(これ)なり。
一書第三、スサノヲ乃ち蛇の韓鋤(からさひ)の劒を以て、頭を斬り腹を斬る。其の尾を斬りたまふ時に、劒の刃、少し欠けたり。尾を裂き看(みそなは)せば一つの劒有り。名付けて草薙剣と為(い)ふ。此の劒は昔スサノオの許に在り。今は尾張国に在り。スサノオの蛇を斬りたまへる劒は、今吉備の神部(かむとものお)の許(ところ)に在り。出雲の簸(ひ)の川上の山是なり。
※ 韓鋤(からさひ) 韓から伝来した小刀の意。
吉備の神部
(かむとものお)  備前国赤坂郡の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社。祭神は明治まではスサノヲが八岐 大蛇を斬ったったときの剣の布都御魂(十握劒とつかのつるぎ)であったが現在はスサノヲ尊が祭神。この十握剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたと云う。
一書第四、天照大御神の弟、「素戔嗚尊(すさのをのみこと)の所行無状(しわざあづき)し。故(かれ)諸の神(もろも
ろのかみたち)
、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂に逐(やら)ふ。この時素戔嗚尊其の子五十猛神(いたけるのかみ)を師(ひき)いて、新羅国に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰(のたま)はく、「此の地(くに)は吾居(われを)らまく欲(ほり)せじ」とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて、出雲国の簸(ひ)の川上に所在(あ)る……」。
一書第五、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の曰(のたま)はく「韓郷(からくに)の嶋には、是金銀有(これこがねしろがねあ)り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国に、浮宝有(うくたからあ)らずは、未だ佳(よ)からじ」とのたまひて、乃ち髭(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉(すぎのき)に成る。又、胸の毛を抜きて散(あか)つ。是、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉の毛は樟(くす)に成る。已(すで)にして其の用いるべきものを定む。-中略-素戔嗚尊の子を、号(なず)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。次に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡て此の三神、亦能(またよ )く木種(こだね)を分布す。即ち紀伊國に渡し奉(まつ)る。然(しこう)して後に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居まして、遂に根国(ねのくに)に入りましき」通常、根の国と黄泉の国は同じものと考えられています。しかし本文と第一~第三が出雲での八岐大蛇(やまたのおろち)退治の話で第四・五が新羅に天降った話なので「熊成峰」の所在地についても新羅説では朝鮮古語では川を「ナリ」と云うことから文字で記すと「熊川」になり忠清南道公州(コンジュ)の熊川か慶尚南道の熊川に比定する説。日本国内では紀州の熊野または出雲の鰐淵山(わにふちやま)とする説があります。
「韓郷(からくに)の嶋には金銀があるが、我が子の治める国に、この財宝を運ぶ船がなければ、それは良くないだろうと、自分の体毛を次々に抜いて樹木に変えて、樹木の種類ごとに用途を指定する。杉と樟は船に、檜は御殿の建築用に、槇(まき)は民草の墓所の棺にせよとのたまふ。時にスサノヲ尊の子を五十猛命(いたけるのみこと)と曰す。妹大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、次に柧津姫命(つまつひめのみこと)この三柱の神、亦能(またよく)く木種(こだね)を分布する。即ち紀伊国に渡し奉る。然る後にスサノヲ、熊成峯(くまなりのたけ)に居まして、遂に根の国に入りましき。
「書紀」のスサノヲの記述ではスサノヲは子の三柱の神を紀伊国に渡した後に熊成峯に居たとあるので朝鮮半島の熊成峯であろうと思われます。
スサノヲが高天原を追われ新羅の曾尸茂梨(そしもり)に降ったり、韓郷(からくに)の嶋には金銀があるといった
話は「書紀」にのみ語られる話で「記」には無く、「記紀」にはこの様に説話の内容が大きく違うものが随所にあります。
※千座置戸座(ちくらおきと)は祓物を差出す高い場所、千座はそ数の多いこと、置戸は物を置く台。
曽尸茂梨(そしもり)については諸説がありに韓国慶尚北道高霊に昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山がありその山は高霊の現加耶山である。古代には「牛の頭の山」と呼ばれ「牛の頭」は朝鮮語のよみで「ソシモリ」と云うそうです。加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという。さらに白雲里には「高天原」という地名まであるそうです。
 韓郷
(からくに)の嶋には、是金銀有(これこがねしろがねあ)り。仲哀・神功皇后・継体・顕宗期にも金銀彩色・海表金銀之国・金銀蕃国等の記述がありますが、是は鉄・銅とその加工技術を表すものとと思われます
熊成峯
(くまなりのたけ)通釈クマナリ・クマナス・ワニナリ等とと読むこともでき、紀伊・出雲にもクマノの地名が有り、朝鮮にはクマナリがあります。
高天原から追放されたスサノオは子のイタケルと新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降臨した。
新羅の曽尸茂梨(そしもり)とは何処なのか? 
国内説 曽尸茂梨は熊曾、筑紫の曾及び紫をとって曾紫すなわち曽尸としたもので、茂梨はすなわち森、森は叢で、村の意味である。
朝鮮半島説
ソウル説 尸は助詞で、曽尸茂梨の曽茂梨とは新羅の原号であった徐羅伐[ソラブル]すなわち「ソの国のフル」の意で、現代語のソウル(首都)の事である。
春川説 曽尸茂梨とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。牛頭天王(ごずてんのう)とスサノオが記紀編纂の頃には習合しつつあったとすると有力な説となる。
高霊説 高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという。その山は高霊の現加耶山である。古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうで「牛の頭」 は韓国語のよみで「ソシモリ」と云う。
 ★スサノヲは自分の体毛を抜いて樹木に変え、其の樹木で船を造ると云う。
樹木の種を持っていたのはイタケルで彼は其の種を朝鮮には播かずに日本全国に播いた。スサノオが自分の体毛を抜いて樹木にしたのは何処で? 第四では新羅から出雲へ渡る時は埴土(はに/粘土)で舟を造っていたが、今回は新羅の財宝を運ぶ為に杉や樟で舟を造るので、スサノオは朝鮮半島にいたことになる。
 ★最後は熊成峯に居て根の国(黄泉の国)へ旅立つ。
この熊成峯についも諸説があります。クマナリではなくクマナスで紀伊の熊野か出雲の鰐淵山(わにふちやま)説。
朝鮮語の古語では川をナリと云うことからクマナリは熊川で、今の忠淸南道公州(ちゅうせいなんどうこうしゅう)の熊川。または、慶尚南道(けいしょうなんどう)の熊川とする説があります。
左の系譜でスサノヲと神大市比売(かむおほいちひめ)の間に生まれた大年神(おほとしかみ)この神はスサノヲの御子達の中でも特別活躍する神でもないのに「記」は
大年神の系譜を何故特別記載しているのでしょう
大年神が神活須毘神(かむいくすび)神の娘、伊怒比売(いのひめ)を娶(めと)り生んだ御子が大国御魂神(おほくにみたまのかみ)、韓神(からのかみ)、曾富理神(そほりのかみ)、白日神(しらひのかみ)、聖神(ひじりのかみ)の併せて五柱です。大年神の「とし」とは古代では穀物の実り、収穫期間を表した言葉で、豊かな実りをもたらす神の意で穀物神です。この系譜に朝鮮半島の神が日本神話に組み込まれているのは、やはりスサノヲと朝鮮半島の関連からなのかとの推測をうみます。
韓神(からのかみ)・曾富理神(そほりのかみ)は朝鮮国の神の意。朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神で「延喜式」神名帳には,宮内省にいます神として園神,韓神の名が記されています。この二柱の神は延喜(901~923)以前から平安京の宮内省に祭られていた神で帝王を守らんとの神託により他所に移さずに宮内省に祭ることになったという伝承があります。
どうして平城京や平安京の宮内省に祭られる様になったのか、その由来はこの神は延喜(901~923)以前から宮内省に鎮座していたが,遷都の際に他所へ遷そうとしたところ,自分はずっとここで帝王を護りたいというこの神の託宣があったので宮内省に祭ることになったと云われています。
奈良市漢国町に漢国神社(かんごうじんじゃ)が鎮座しており祭神は園神(そのかみ)として大物主命(おおものぬしのみこと)、韓神(からかみ)として大己貴命(おおなむち 
みこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る神社で推古天皇元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が園神を祀ったのに始まると伝えます。
※大物主命・大己貴命はいずれも大国主命の別名です。
その後、貞観元年(859)に平安京内の宮内省に祭神を勧請し、皇室の守護神となった伝承をもち、養老元(717)には藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀
上写真
  奈良市の漢国神社

右図
  平安京内の園韓神社の位置
したといわれます。園神社・韓神社は平安京の宮中の宮内省に応仁の乱頃まで鎮座しており、平安時代には例祭として園韓神祭(そのからかみのまつり)を年2回行う規定で、朝廷から重要視されていましたが応仁の乱以後は廃絶したそうです。以前は春日率川(いざかわ)園韓(そのからかみ)神社でしたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」に神社名が変わったそうです。
韓神の少彦名命(すくなひこなのみこと)が天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って波の彼方より出雲に来て大己貴命(おおなむちのみこと/大国主命)の国造りに参加した神です。また常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・酒造等多様な性質を持った神でもあり、波の彼方から来たと云う事は朝鮮半島から来たと推測されます。朝鮮半島から倭国(日本)への渡来ル-トは縄文・弥生時代初期までは朝鮮半島東岸から対馬海流に乗って出雲から丹後・若狭・越前の日本海沿岸に渡来するル-トが多かった様です。弥生中期から古墳時代になり造船技術や航海術の進歩で北九州から瀬戸内海が倭国と朝鮮半島との主要航路になり、四世紀なると倭の五王が413年から478年の間に九回貢朝していますが、どの様なコ-スで中国へ渡ったのか不明です。直接中国へ渡航したのは推古朝(592~628)の西暦600年の遣隋使が初めです。
海峡を越えた人々
古朝鮮(紀元前)の朝鮮半島 漢武帝前108年に漢4郡を設置 3韓時代(2世紀~)


蟾津江(ソムジンガン)

これらの渡来人を倭王権は日本各地に分散居住させています。四世紀から五世紀には渡来人の上陸地が北九州から難波津に変わったことも有り近畿地方に定住する渡来人が増え都が平安京になる九世紀には京都を本貫地とする渡来氏族が多くなっています。
皇別 神別 諸蕃
左京 104 82 72 258
右京 78 65 102 245
山城 25 45 22 92
大和 19 44 26 89
摂津 30 45 29 104
河内 46 63 55 164
和泉 33 60 20 113
335 404 326 1015
左図は九世紀に編纂された「新撰姓氏録」で畿内に居住する氏族1182氏の名を記載して「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、その出自を明らかにしています。その内、渡来系の「諸蕃」が326氏で、その内訳は「漢163氏」、「百済104氏」、「高句麗41氏」、「新羅9氏」、「任那9氏」、この他無所属117氏が有り、渡来系の占める比率は34.4%になります。但し、この数字には九世紀以前に帰化した氏族や畿内在住の一般民衆は含まれて
 いませんので実数はもっと大きな数字になると考えられます。現在の日本人の大多数の祖先は渡来人であると云っても過言ではないようです。因みに上表の河内国は14郡76郷・和泉国が3郡24郷なので他の国に比し一郷当たりの諸蕃氏族の数が群を抜いているのが解ります。今日本各地に百済・新羅・高麗等の郡郷や寺社があるのは、これら渡来人が自分達の祖国から持って来た神仏を祀ったもの、亦居住先で在住民が信仰していた神仏と合祀したものです。これらの渡来人がもたらした水稲栽培・文字・仏教・製銅・製鉄・須恵器・土木技術等は古代文明の開花に大きく貢献しました。当時の有名渡来人として鞍作鳥(くらつくりのとり)・征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・秦氏(はたし)・漢氏(あやし)・高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・行基・最澄の他、百済王氏(くだらのこにきし)等の朝鮮王族もいます。当時の朝鮮半島からの渡来人は先進国の文明人だったのです。後の推古朝に遣隋使が派遣され倭国と隋(581~618)の間に遣隋使・その後遣唐使が派遣されるようになり先進文明の摂取先が中国に変わります。中国の後漢書によると建武中元二年(西暦57年)に後漢に朝貢して光武帝より印綬を受け、その時受けた金印が江戸時代天明4年(1784)に水田の耕作中に巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中にあるのを発見したといわれます。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は「後漢書」に記述のある金印とはこれのことであると同定したといわれます。大正3年(1914)、九州帝国大学の中山平次郎教授が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定しました。昭和48年(1973)及び昭和49年(1974)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されています。この金印は昭和29年(1954)文化財保護法に基づく国宝に指定されいます。
 更に後漢の安帝、永初元年(西暦107年)には倭国王の請見記述があり「倭国王師升(すいしょう)ら、後漢安帝に生口(奴隷)160人を献ず」と記されており、卑弥呼の邪馬台国以前に倭人は前漢や後漢に使者を派遣していますが、彼等はどの様なル-トで中国まで行き、また言葉の壁をどの様に克服したのか、大きな謎ですがそれを解く手懸かりは一切無く永遠の謎です。西暦57年に倭人が中国へ行ったとは凄い事です朝鮮半島沿岸沿いに海路をとったのか、玄界灘を渡り朝鮮半島を陸路で行ったのか?、いずれにしても至難の技です。しかも西暦107年の倭国王帥升(すいしょう)ら、は160人もの生口(奴隷)を連れての中国への渡航で有り、どの様な船で総勢何百人の渡航だったのか。この2例が文献史料に残る日本人の海外渡航の初見史料です。
西暦57年・107年に倭人が中国に渡来している事実があるということは中国・朝鮮半島からも倭国に渡来して来た人々が存在し中国王朝への朝貢を斡旋したものと考えられます。





 上の職貢図(しょくこうず)は職貢は中央政府におさめられるみつぎものの意で梁(りょう)の蕭繹(しょうえき/即位して元帝となる)が刺史(しし)として荊州(けいしゅう)にいた539年頃,当時の外国人使節の貢献(ぐけん)のさまを筆録したものと云われる。「梁職貢図」に描かれた倭人像は、六世紀前半の原画を十一世紀後半に模写したものだそうで、日本人の肖像画としては最古のものです。六世紀といえば、日本史では倭の五王の時代になります。これは筆者が「魏志倭人伝」の記述を参照に想像して画いたものという説もあります。高句麗・新羅・百済使が礼服で靴をはいているのに対して倭国使は一枚の布を身体に巻いて裸足というみすぼらしい姿に画かれています。まさにこれは魏志倭人伝の記述で『其の風俗、淫(みだ)れず。男子は皆、露?(ろけい)し、木綿を以て頭に招(しば)り、其の衣は横幅(おうふく)、但(ただ)、結束して相連(あいつら)ね、略(ほぼ)、縫うこと無し。婦人は被髪屈?(ひはつくっけい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きぬきて之(これ)を衣(き)る』 という「魏志倭人伝」の記述をそのまま画いた様です。









日本神話と朝鮮神話
「記紀」の天孫降臨神話
 「記」の天孫降臨記述
天孫降臨(てんそんこうりん)とは天照大神(あまてらすおおみかみ)は地上界を吾が子の太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に治めさせたいと願い高皇産霊命(たかみむすびのみこと/高木神)とともに、色々な手を使い出雲国の大穴牟遅神(おおあなむぢ/大国主の別名)に出雲国の国譲りを迫り、最終的には大穴牟遅神と事代主神(ことしろぬしのかみ)の父子は出雲国を天照大神に譲渡します。天照大神と高木神は日本列島を統治させるため地上界に御子の天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと/天照大神の御子)を派遣しようとしていた時に天之忍穂耳命に子が生まれます。名は天迩岐志国天津日高日子番能迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)で天照大神の孫にあたります。この迩迩芸命(ににぎのみこと)を地上界に遣わすことになり、天照大神は八尺の勾玉(やさかのまがたま)・鏡・草那芸劒(くさなぎのつるぎ)に常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからをのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副(そ)へて詔(の)りたまはく「此の鏡はもはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝むが如く、いつき奉(まつ)れ。次に思金神は、前(さき)の事を取り持ちて政(まつりごと)を為(な)せ」とのりたまふ。」此の二柱の神は、さくくしろ伊?受能宮(いすずのみや/五十鈴の意)を拝み祭る。次に登由宇気神(とゆうけのかみ)此は外宮(とつみや)の度合(わたらひ)に坐(いま)す神ぞ。 登由宇気神(とゆうけのかみ)は穀物神・度合(わたらひ)は地名。
次に天石戸別神(ふめのいはとわけのかみ)亦の名は豊石窓神(とよいはとのかみ/皇居の門の神)此の神は御門(みかど)の神なり。次に手力男神(たぢからをのかみ)は、佐那々県(さなながた/三重県多気町辺の地名)に坐(いま)す。
尓して天津日子番迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔(の)りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重(やえ)たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天の浮き橋にうきじまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のくじふるたけに天降り坐(ま)しき。是(ここ)に詔(のり)たまはく『此地は韓国
(からくに)
に向かひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まぎとお)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故此地(ここ)はいたく吉(よ)き地(ところ)
と詔(の)りたまひて、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)す。これが「記」の天孫降臨記述のあらましです。 
 ※ 「くじふるたけ」は霊峰の意、古代朝鮮語の「亀旨峰(クジポン)」と同語か
  笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まぎとお)りて 鹿児島県南さつま市笠狭町の野間岬と言われます。
通説では天孫降臨の地は、南九州の霧島連峰の高千穂峰・宮崎県高千穂町の二処に降臨の伝承があります。この他に「記」の記述から北九州説もありますが、いずれも神話の中の話で確証がなく、いずれが真の降臨地か定説はありませんが「記」の記述から推測すると「筑紫の日向国(宮崎県)」では韓国(からくに)に向かひあわず、これはやはり北九州地域ではないかと推測されます。また福岡市西区から筑前深江へ向かう四十九号線の飯盛山の裾に日向峠があります。峠の背後には飯盛山(382m)、高祖山(416m)があり、この山の山頂から博多湾を望むと「此地は韓国(からくに)に向かひ、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり」と云う形容に当てはまり、飯盛山の裾には室見川の支流で日向川があり「笠紗(かささ)の御前(みさき)」を糸島半島に求める説もあります。亦天孫降臨の伝説の発祥地とし、天孫降臨はヤマト王権が朝鮮半島から北九州への上陸を意味すると云う説もあります。
  「書紀」の天孫降臨記述
「書紀」本文は筑紫の日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほたけ)に天降(あまくだ)ります。「襲」は熊襲の「そ」と推測され九州南部を指し、通説にある九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが一山である高千穂峰であると思われます。此の地は韓国(からくに)には向き合いませんが高千穂峰の西に韓国岳(からくにたけ)があります。
また「一書(あるふみ)に曰(い)わく」として四つの異説を載せており、その中には本文と大きく異なるものもあります。
「本文」では高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(すめみま、あまつひこひこほのににぎのみこと)に覆(おほ)ひて、天降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいわくら)を離(おしはな)ち、また天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわけ)て、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわき)て、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峰(たかちほのみね)に天降(くだ)ります。既(すで)にして皇孫(すめみま)の遊行(いでま)す状(かたち)は、?日(くしひ)の二上(ふたかみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて、吾田(あた)の長屋の笠狭崎(かささのさき)に到ります。
  「一書(あるふみ)に曰(い)わく」では
     9段第一は筑紫の日向の高千穂の?触峯(ふるのたけ)
     9段第二は日向の?日(くしひ)の高千穂峯(たかちほのたけ)
     9段第四は日向の襲(そ)の高千穂の?(くしひ)の二上(ふたかみ)の峯。
     9段第六は日向の襲(そ)の高千穂の添山(そほりやま)の峯。
本文・九段第一・第二では場所の特定は出来ません。第五・第六では「襲(そ)」の高千穂とあるので南九州であろうと推定出来ます。天孫降臨の地、南九州説に宮崎県高千穂町と南九州の霧島連峰の高千穂峰とする二説がありますが、この場合「襲(そ)の高千穂」とありますから霧島連峰の高千穂峰と考えられます。
※真床追衾 真は美称。床追は床臥と同義。衾は伏す裳(も)、赤児を包む衣装。
 浮渚在平処(うきじまりたひら)浮島があって磯にお立ちになっての意。 膂宍(そしし) 荒れ果てて痩せた不毛 の地の意。
 膂宍(そしし)の空国(むなくに) 荒れてやせた不毛の地。
 頓丘(ひたを) ずっと丘続きの所を通っての意。
 国覓(くにま)ぎ 良い国を求めて。
 吾田(あた)の長屋 不明 (宮崎の高千穂に降臨なら薩摩国川辺郡の長屋山)
 
笠狭崎(かささのさき) 不明 (上同薩摩半島西岸吹上浜の
天孫降臨の地について南九州説・北九州説等が有りますが、全ては神話の世界の話であり全て霧の彼方にあり、幾ら議論をしても結論の出る事は永遠にないと私は思います。それは実証する史料が無いのですから想像の世界になります。故に私共が「記紀」や中国・朝鮮の文献史料を見て自分で推理・推察する以外にないのですから考察する人により出る結論は違ってくる筈です。私の様な素人考えでは天照大神や高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は天孫を降臨さす前に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を葦原
中国(あしはらなかつくに)に遣わし、大己貴神(おほあなむちのかみ/大国主神の別名)と子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に「高皇産霊尊、皇孫を降し、此の地に君臨したまはむとするにあたりて我らを遣わし、駈除(はら)ひ平定(しづ)めしむ。汝が意何如(こころいかに)」と問い葦原中国を献上させるのですから天孫の降臨は葦原中国(出雲国)に降るべきだと考えます。または初代王権確立の地であるヤマトの三輪山に降臨するのが順当ではと想われますが「記」は「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」。「書紀」は本文と第一・二・四・六の書に於いて異なる天降り場所が記されています。 
   「書紀」一書(あるふみ)に曰(い)わくでは
     9段第一は  筑紫の日向(ひむか)の高千穂の?触峯(ふるのたけ)
     9段第二は  日向の櫛日(くしひ)の高千穂峯(たかちほのたけ)
     9段第四は  日向の襲(そ)の高千穂の?(くしひ)の二上(ふたかみ)の峯。
     9段第六は  日向の襲(そ)の高千穂の添山(そほりやま)の峯。
本文・九段第一・第二では場所の特定は出来ません。第五・第六では「襲(そ)」の高千穂とあるので南九州であろうと推定出来ます。天孫降臨の地、南九州説に宮崎県高千穂町と南九州の霧島連峰の高千穂峰とする二説がありますが、この場合「襲(そ)の高千穂」とありますから霧島連峰の高千穂峰と考えられます。また第六の高千穂の添山(そほりやま)の峯を「曽褒里能邪麻(そほりのやま)」として朝鮮語では都を「ソホリ」と云い、高句麗。百済には五部など五を単位とする組織が多く、
天孫降臨でも五伴緒(いつともを)神とは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従った天児屋命(あまのこやねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)・天鈿女命(あまのうずめのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の五神を従え


天孫降臨の年代は不明ですが紀元前後と推定すると「筑紫国」や「日向(ひゅうが/ひむか)」と云う地が有ったか不明ですが文献史料上「日向国」が誕生したのは「続日本紀」によると七世紀の律令制(701)成立後で日向国の領域は現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を含む広域に渡っていたが和銅6年(713)日向国の領域として(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡)の5郡を日向国としています。また「日向の襲(そ)」とは熊襲の「襲」であろうと解釈しますが熊襲が「記紀」の記述に現れるのは天孫降臨の時期から数百年も後のことです紀元前後の鹿児島県・宮崎県が、どう呼ばれていたか不明です。



朝鮮半島の降臨神話
日本神話は天孫が高天原から神(人間)が降臨しますが、朝鮮神話は「三国史記」(1145)や12世紀末の「三国遺事」などの古典による文献神話と、口伝神話の二種類があります。文献神話としては始祖の山上降下、日の御子(みこ)信仰、日光感生による卵生神話等があり、天から卵が降りてきて人が生まれる卵生神話で日本神話とは人と卵の違はあるが、いずれも山頂に降臨しており類似性のある神話です。朝鮮の檀君(だんくん)神話では、「天の神がその子に三つの天符印(てんぷいん)を授け、三千の徒衆を従えて太白山の頂上にある神檀樹(しんだんじゅ)のもとに天降って朝鮮を開いた」と云う話です。
 ※ 天符印とは鏡・劒・鈴でこれが日本に伝わって「三種の神器」の原形になったとの説もあります。 
新羅の赫居世(カクキョセイ/日本よみ)神話は「雷光が射(さ)した地面に白馬が跪(ひざまず)いていた、人々が其処へ往くと白馬は天に昇り、大きな紫色の卵があった。其の卵を割ると中から容姿端麗な男の子が出てきた。身体から光彩を放ち、天地が揺れ動き、陽と月ことさらに清明であったので、その子を赫居世(カクキョセイ)と名付けた。また、位号を居西干(コソガン)といい、以後は王の尊称として使われる様になった。



下の写真の上右二枚は韓国慶尚南道金海市亀山洞にある亀旨峰(クジポン)と呼ばれる小さな峰で伽耶の始祖である首露王(シュロオウ)が天から降りてきた伝承のある所です。「聖なる亀旨峯(クジポン)で酋長達の集会が開かれていた時に、天から紫の縄が垂れてきたので、縄の元をたぐると紅い布に包まれた金の合子(ごうす)があり、開いて見ると日のような黄金の卵が六箇出てきた。この卵を衾(しとね)の上に置くと、身の丈九尺の一人の男子と化し即位して伽耶国の首露王となった。残りの五箇の卵もそれぞれ男子と化し五伽耶の主となった。」ま
た「記紀」には素戔嗚尊(すさのおのみこと)が高天原を追放され天降ったのが新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)だと記されています。素戔嗚尊は新羅の曽尸茂梨が気に入らなかった様で「この地は吾居(おら)らまく欲(ほり)せじ」と云い埴土(はに)で舟を作り出雲へ渡る。また素戔嗚尊の曰わく「韓郷(からくに)の嶋には、是金銀有り若使(たとい)吾が児の所御(しら)す国に、浮く宝有らずば、末(いま)だ佳(よ)からじ」とのたまふ。その後素戔嗚尊は熊成峯(くまなりのみね)にいて、とうとう根の国に入ったと云う。
  ※根の国 「記」では「根之堅州国(ねのかたすのくに)」、「書紀」は「根の国」と記し異界即ち死の世界。
「書紀」本文では「天孫降臨」の地を「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯に天降ります」と記しますが、一に曰わく(あるにいわく)の第一書では「日向の高千穂の?蝕峯(くじふるのたけ)、第二書では「日向の?(くしひ)の高千穂峯」、第四書では「高千穂の?日の二上峯(ふたかみのみね)」、第六書では「日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」と記されており、「記紀」の編纂者はヤマト王朝の崇神が御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とするなら何故皇祖神は遠く離れた九州の地に天降ったのか降臨地はヤマトの三輪山でよかったのでは、」
代 高句麗歴代王名 前&読み 在位(期間)
1 東明聖王(トンミョンソンワン)とうめいせいおう B.C.37-B.C.19(19)
2 瑠璃明王(ユリミョンワン)るりめいおう B.C.19-18(38)
3 太武神王(テムシンワン)たいぶしんおう 18-44(64)
4 閔中王(ミンジュンワン)びんちゅうおう 44-48(5)
5 慕本王(モボンワン)ぼほんおう 48-53(6)
6 太祖王(テジョデワン)たいそだいおう 53-146(94)
7 次大王(チャデワン)じだいおう 146-165(20)
8 新大王(シンデワン)しんだいおう 165-179(15)
9 故国川王(コグッチョンワン)ここくせんおう 179-197(19)
10 山上王(サンサンワン)さんじょうおう 197-227(31)
11 東川王(トンチョンワン)とうせんおう 227-248(22)
12 中川王(チュンチョンワン)ちゅうせんおう 248-270(23)
13 西川王(ソチョンワン)せいせんおう 270-292(23)
14 烽上王(ポンサンワン)ほうじょうおう 292-300(9)
15 美川王(ミチョンワン)びせんおう 300-331(32)
16 故国原王(コググォンワン)ここくげんおう 331-371(41)
17 小獣林王(ソスリムワン)しょうじゅうりんおう 371-384(14)
18 故国壌王(コグギャンワン)ここくじょうおう 384-391(8)
19 広開土王(クァンゲトデワン)こうかいどおう 391-412(22)
代 百済歴代王名 前&読み 在位(期間)
1 温祚王(オンジョワン)おんそおう B.C.18-28(46)
2 多婁王(タルワン)たるおう 28-77(50)
3 己婁王(キルワン)こるおう 77-128(52)
4 蓋婁王(ケルワン)がいるおう 128-166(39)
5 肖古王(チョゴワン)しょうこおう 166-214(49)
6 仇首王(クスワン)きゅうしゅおう 214-234(21)
7 沙伴王(サバンワン)さはんおう 234-同年
8 古爾王(コイワン)こにおう 234-286(53)
9 責稽王(チェッキェワン)せきけいおう 286-298(13)
10 汾西王(プンソワン)ふんせいおう 298-304(6)
11 比流王(ピリュワン)ひりゅうおう 304-344(41)
12 契王(キェワン)けいおう 344-346(3)
13 近肖古王(クンチョゴワン)きんしょうこおう 346-375(30)
14 近仇首王(クングスワン)きんきゅうしゅおう 375-384(10)
15 枕流王(チムニュワン)ちんりゅうおう 384-385(2)
16 辰斯王(チンサワン)しんしおう 385-392(8)
17 阿華王(アシンワン)あしんおう 392-405(14)
代 新羅歴代王 名前&読み 在位(期間)
1 赫居世居西干(ヒョッコセ・ゴソガン)かくきょせいきょせいかん B.C.57-4(61)
2 南解次次雄(ナメ・チャチャウン)なんかいじじゆう 4-24(21)
3 儒理王尼師今(ユリイ・サグム)じゅりにしきん 24-57(34)
4 脱解尼師今(タルヘ・イサグム)だっかいにしきん 57-80(24)
5 娑婆尼師今(パサ・イサグム)ばさにしきん 80-112(33) 波沙寝錦
6 祇摩尼師今(チマ・イサグム)ぎまにしきん 112-134(23)
7 逸聖尼師今(イルソン・イサグム)いつせいにしきん 134-154(21)
8 阿達羅尼師今(アダルラ・イサグム)あだつらにしきん 154-184(31)
9 伐休尼師今(ボルヒュ・イサグム)ばっきゅうにしきん 184-196(13)
10 奈解尼師今(ネヘ・イサグム)なかいにしきん 196-230(35)
11 助賁尼師今(チョブン・イサグム)じょふんにしきん 230-247(18)
12 沾解尼師今(チョムヘ・イサグム)てんかいにしきん 247-261(15)
13 味鄒尼師今(ミチュ・イサグム)みすうにしきん 262-284(23)
14 儒礼尼師今(ユリェ・イサグム)じゅれいにしきん 284-298(15)
15 基臨尼師今(キリム・イサグム)きりんにしきん 298-310(13)
16 訖解尼師今(フルヘ・イサグム)きっかいにしきん 310-356(47)
17 奈勿尼師今(ネムル・イサグム)なこつにしきん 356-402(47)
駕洛(本加耶・金官伽?)
0. 加耶世主正見母主
1. 首露王(太祖・悩窒青裔・正見母主三子)
2. 居登王(道王)
3. 麻品王(成王)
4. 居叱弥王(徳王)
5. 伊尸品王(明王)
6. 坐知王(神王)
  卒知
  湯倍
7. 吹希王(恵王)
8. ?知王(荘王)
9. 鉗知王(粛王)
10. 仇衡王(譲王、世宗)
  金武力、新羅角干
  金舒玄、新羅角干
  金?信、新羅角干
駕洛(から)とは朝鮮古代の国名で別名は伽耶をはじめ加耶,伽?,加良,駕洛,任那などありますが、いずれも同じ国名を異なる漢字で表記したものです。6世紀中ごろまでに百済・新羅に併合されます。「書紀」に記述される任那(みな)の地にあたります。






韓国の高天原故地碑
下の写真は韓国慶尚北道高霊(コリョン)郡の加耶大学校内にある「高天原故地」の碑で、日本神話の天津神(あまつかみ/てんじん)が住む高天原はここであるとハングル文字と日本語で記されています。この碑の建立者は加耶大学の李慶煕(イ・チョンハン)総長で、この人の説によると高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した。東国與地勝覧(とうごくよちしょうらん)に書かれている伽耶の天神夷毘訶(テンジンエビス)の次男伊珍阿(イジナギ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿はイザナミである。任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は「主人の国」や「母なる国」を意味する。また高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルのことである。というのが李慶煕総長の主張で写真の様に大伽耶の初代王伊珍阿と其の父母、天照大神、素戔嗚尊の祭祀が盛大に行われています。この説は韓国の学界でも正式に認められたものではなく異説視されているそうです。因みに李慶煕氏は韓国のサムスン財閥の二代目会長を勤めた人です。
上写真左 韓国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある高天原故地の石碑。 上左は亀旨峰(クジボン)は慶尚南道金海市亀山洞にある峰と言うより丘で伽耶の始祖王首露(しゅろ)が天から降りてきた伝承のある所です。  上右は頂上にある支石墓という古墳の墓石だそうです。  下写真は高天原故地の祭祀で左から「天神夷?訶(てんじんえびす)・「正見母主(せいみぼしゅ)」・「伊珍阿(いじんあし/大伽耶の初代王)」。天神夷?訶と正見母主は伊珍阿?の父母です。それに続くのが天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、5人の御魂を祭る祭祀が行われています。
左上写真は韓国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑で日本神話の天津神が住む高天原は、ここであるとハングル文字と日本語で記されています。加耶大学の李慶煕総長の話によると高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、韓国の高霊郡で誕生した。また東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷?訶(てんじんえびす)の次男伊珍阿(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿?はイザナミである。任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は「主人の国」や「母なる国」を意味するそうです。高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指すそうです。こうした李総長の思考により大学の敷地内に「高天原故地」という記念碑が建立され写真の様な祭祀が行われています。日本の学者のなかにも李総長の主
張に賛同される方もおられる様ですが、この地を高天原であったと云う考古学的物証はありません。
「記」の崇神崩年、戊寅(つちのえとら/推定年258)の年を正しいとするなら卑弥呼・壹与の時代と重なり、邪馬台国と崇神のヤマト王国が狭いヤマトに並立することは考えられません。また崇神期には疫病が大流行し天皇憂(うれ)えておられた時、夢のお告げ有り意富多多泥古(おほたたねこ)を探して大物主神(おほものぬしのかみ)を祭れば病の気も治まり国も安らかになるとのことで、意富多多泥古を探し出し神主として、御諸山(みむろやま/三輪山)に大物主神を祭るとお告げ通り疫病も治まり国も平(たひ)らかになった。
左のスサノヲの系譜でみると大物主神はスサノヲ六代の孫であり、この大物主神と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との御子、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)が神武天皇の皇后になったと「記紀」は記していますので
いずれも紀元前の神話時代の説話になるのではないでしょうか。崇神の崩年が西暦258年でヤマト政権の初代王とすると崇神以前のヤマトは群雄割拠していて崇神がこれらの小王国を従えて畿内に初めての王朝を成立させたのか
300年前後に築造されたヤマトの前方後円墳や幾多の古墳群の築造に動員された人数は 崇神王朝の統治範囲は
当時の畿内の人口は等多くの謎があります。

崇神天皇は任那の王族出身か
上表に見られる様に10崇神天皇の崩年について「記紀」の間には二百八十六年の差があります。それは「書紀」は
紀年の挿入に際して

「記紀」の崩年干支・治世年数・宝算・年代差
古事記 日本書紀 記紀の年代差
天皇 崩年干支 治世 宝算 崩年干支 治世 宝算 宝算差 年代差
開化 63 癸未年(前98) 60 115
10 崇神 戊寅(318)12月 168 辛卯年(前30)12月5日 68 120 48 348
11 垂仁 153 庚午年(70)7月1日 99 140
12 景行 137 庚午年(130)11月7日 60 106
13 成務 乙卯(355)3月15日 95 庚午年(190)6月11日 107 12 165
14 仲哀 壬戌(362)6月11日 52 庚辰年(200)2月6日 9 52 0 162
神功 100 己丑年(269)4月17日 100
15 応神 甲午(394)9月9日 130 庚午年(310)2月15日 110 41 20 84
上の表 神話と「記紀」に見る息長系譜の謎に関係ある世代のみを抽出したものです。
「記」には上表の7代の天皇と息長帯比売(神功皇后)1代の治世年数は、紀年の記述が無いため算出出来ません。崩年干支も
ここに記載されているものだけで開化・垂仁・景行・神功皇后は崩年干支の記載はありません。
「記」の崩年干支は記述は干支のみの記載ゆえ()内の数字は推定の西暦年です。「書紀」は初期独特の和歴(例崇神68年冬12月の壬子の日に崩御)といった形で記載されていますので、西暦に換算して(前30年辛卯)として記載しています。
「書紀」崩年干支の()内の数字は書紀紀年を西暦に換算したものです。








ものの改めて「三世紀初頭て西暦何年」て問われると、答えに窮する事が屡々です。本文でも古墳の築造年代に三世紀中葉と記した場合の西暦年代を割り出す参考にと下記に年代表を作りましたが、是は私がこのHP作成の年代参考にしたもので、正確度については保証の限りではありません。
白色部分は西暦年号を主体にした世紀。 右の黄緑部分は「書紀」紀年で時代・世紀・天皇と世紀年代です。
世紀 時代 西暦 時代 世紀 天皇 「書紀」の紀年
紀元前 縄文~弥生 紀元前100年~1年 縄文 紀元前 1神武~6孝安 紀元前660~前291
一世紀 弥生 西暦0年~100年 弥生 紀元前 7孝霊~11垂仁 紀元前290~西暦70
二世紀 弥生 西暦101年~200年 弥生 一世紀 12景行 西暦71~西暦130
三世紀 古墳 西暦201年~300年 古墳 二世紀 13成務~14仲哀 西暦131~西暦200
四世紀 古墳 西暦301年~400年 古墳 二世紀 神功皇后 西暦201~西暦269
五世紀 古墳 西暦401年~500年 古墳 三世紀 15応神 西暦270~西暦310
 「書紀」によると神功皇后摂政期は六十九年にも及びます故、二世紀~三世紀になります。
西暦 「書紀」 紀年・記述 「記」 干支 魏志倭人伝記述と初期の巨大古墳築造年代 出典
BC97 崇神元年(甲申)即位 日本書紀
BC30 崇神68年(辛卯)崇神天皇崩御 日本書紀
57 倭の奴国王、後漢に朝貢して光武帝より印綬を貰う。 後漢書
107 倭国王帥升ら、後漢安帝に生口160人を献ず。この頃、倭、朝鮮(弁韓・辰韓)の鉄を輸入し始める。 後漢書
147 この頃、倭国で大乱が起こる。倭の諸国、邪馬台国女王卑弥呼を共立する。 魏志倭人伝
180 倭国大乱 147~89 後漢書
178~183  梁書
239 卑弥呼、帯方郡に遣使、魏の明帝、卑弥呼を親魏倭王とし金印紫綬を授ける。 魏志倭人伝
247 倭女王卑弥呼、狗奴国王と戦う。 魏志倭人伝
248 この頃、卑弥呼死去。宗女、壹与が女王となる。 魏志倭人伝
266 倭の女王壹与、晋に遣使。 魏志倭人伝
318 戊寅の年崇神天皇崩御 古事記
300年
前後
纏向箸墓・桜井茶臼山・椿井大塚山等、初期前方後円墳の築造。 発掘調査の出土品
から築造年を推定
「記」の崇神崩年、戊寅(つちのえとら/推定318年)の年を正しいとするなら卑弥呼・壹与の時代と重なり、邪馬台国と崇神のヤマト王国が狭いヤマトに並立することは考えられません。また崇神期には疫病が大流行し天皇憂(うれ)えておられた時、夢のお告げ有り意富多多泥古(おほたたねこ)を探して大物主神(おほものぬしのかみ)を祭れば病の気も治まり国も安らかになるとのことで、意富多多泥古を探し出し神主として、御諸山(みむろやま/三輪山)に大物主神を祭るとお告げ通り疫病も治まり国も平(たひ)らかになった。
左のスサノヲの系譜でみると大物主神はスサノヲ六代の孫であり、この大物主神と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との御子、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)が神武天皇の皇后になったと「記紀」は記していますので
いずれも紀元前の神話時代の説話になるのではないでしょうか。崇神の崩年が西暦258年でヤマト政権の初代王とすると崇神以前のヤマトは群雄割拠していて崇神が、これらの小王国を従えて畿内に初めての王朝を成立させたのか
300年前後に築造されたヤマトの前方後円墳や幾多の古墳群の築造に動員された人数は 崇神王朝の統治範囲は
当時の畿内の人口は等多くの謎があります。また天之日矛(あめのひほこ)の渡来時期について「記」はその昔・「書紀」
は垂仁三年・「風土記」は時期は記さず播磨国で葦原色許男神(あしはらしこをのかみ/大物主かみ)と土地争いをしているので神話時代。
崇神天皇は任那の王族出身か
上表に見られる様に10崇神天皇の崩年について「記紀」の間には二百八十六年の差があります。それは「書紀」は
紀年の挿入に際して
11代 垂仁天皇期(前29~西暦70)息長氏関連系譜
菅原伏見東陵(宝来山古墳) 伝垂仁天皇陵
垂仁天皇和風諡号 「記」 伊久米伊理?古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)
         「書紀」 活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこさちのすめらみこと
この天皇の御子達、男王十三柱、女王三柱。天皇、沙本?売命(さほびめのみこと)との間に品牟都和気命(ほむつわけのみこと)一柱。氷羽州比売命
(ひばすひめのみこと)とのあいだに印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)・大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと)・大中津日子命(おほなかつひこのみこと)・倭比売命(やまとひめのみこと)・若木入日子命(わかきいりひこのみこと)の五柱。沼羽田之入売命(ぬばたのいりびめのみこと)との間に沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)伊賀帯日子皇子(いがたらしひこのみこと)の二柱。阿耶美能伊理売命(あざみのいりびめのみこと)との間に伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)・阿耶美都比売命(あざみつひめのみこと)の二柱。迦
具夜比売命(かぐやひめ)との間に袁那弁王(をなべのみこと)一柱。苅羽田刀弁(かりはたとべ)との間に落別王(おちわけのみこ)・五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)・伊登志別王(いとしわけのみこ)三柱。弟苅羽田刀弁(おとかりはたとべ)との間に石衝別王(いはつくのわけのみこ)・石衝売命(いはつくびめのみこと)二柱。
11代垂仁天皇期の「記」には息長系譜に関する直接記述はありませんが、14代仲哀天皇の皇后、息長帯比売(おきながたらしひめ)の母方の祖である天之日矛(アメノヒホコ)の渡来記述があります。
アメノヒホコ伝承は「記紀」「播磨国風土記」「住吉大社神代記」「宇佐八幡御託宣集」にも記載されており、「記」は天之日矛、「書紀」「播磨国風土記」は天日槍と記されていますが読みは両書とも「アメノヒホコ」です。その渡来時期、目的については、それぞれの書により異なり、また「書紀」は独自の「アメノヒホコ」関連伝承として「意富加羅国(おほからのくに)の王の子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」の渡来伝承が垂仁二年条、に記されていますが、その内容は「記」のアメノヒホコの記述と類似したもので、アメノヒホコと都怒我阿羅斯等を同一人物とする習合説もあります。「記」の垂仁期には「アメノヒホコ」五代の孫であるタヂマモリの記述があり、本来ならタヂマモリの記述の前に祖であるアメノヒホコの記述があるべきですが、「記」の編者はなぜか、アメノヒホコ渡来伝承を15代応神天皇期に記述しています。
  「記」は田遅摩毛理「書紀」は田道間守と記して、読みはいずれも「タヂマモリ」です。
また「書紀」は「アメノヒホコ」記述に先立ち垂仁2年に任那人蘇那曷叱智(みまなひと・ソナカシチ)・意富加羅国
(おほからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の渡来伝承を記述しています。この伝承は「書紀」独自のものです。
「記」垂仁天皇崩御記述 此の天皇、御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野(みたちの)の中に在り。
「書紀」九十九年の秋七月の戊午
(つちのえうま)の朔日(ついたちのひ)に、天皇、纏向(まきむく)宮に崩(かむがり)ましぬ。時に御年百四十歳。冬十二月の癸卯(みずのとう)の朔壬子(みずえね10日)に菅原伏見陵に葬りまつる。
「書紀」景行天皇記述 垂仁天皇九十九年春二月に、活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)崩りましぬ。(垂仁期と景行期で崩御日の違)
          アメノヒホコとツヌガアラシトの渡来伝承
              天之日矛(天日槍) ・ 都怒我阿羅斯等
「記」では「天之日矛」、「書紀」「風土記」は天日槍と記し、読みは何れも「アメノヒホコ」です。一般には「アメノヒボコ」と記されていますが「矛」は「ホコ」、「槍」の読みは訓読みでは「ヤリ」音読みでは「ソウ」で「ボコ」とは読まないので私は「アメノヒホコ」の読みで通しています。
このアメノヒホコについて「記紀」「播磨国風土記」にその伝承記述が有り、「記」はヒボコの渡来を「昔新羅の国主(こにきし)の子有り。名は天之日矛(アメノヒホコ)と謂ふ。是(こ)の人参渡(まいわたり)り来つ」と記します。
「書紀」は垂三年春三月条で新羅の王(こきし)の子、天日槍(アメノヒホコ)来帰(まうけ)り。また一に曰わく(あるにいわく)として天日槍、艇(はしぶね)に乗りて播磨国に泊まりて宍粟邑(しさはのむら)に在り。と記します。
「播磨国風土記」では神代にアメノヒホコが韓国(からくに)から渡来して来た時に先住者の葦原志乎命(あしはらのしこをのみこと/大国主の別名)との間で激しい国土占居(こくどせんきょ)の争いの様相が語られています。
 [※ 「古事記」には葦原志挙乎命とは大国主命の別名とあります]
「書紀」は垂仁期にヒホコの渡来から曾孫の淸彦そして、五代の孫、タヂマモリの伝承記述をすべて垂仁期(前29~西暦70)に収録するという矛盾記述になっています。「タヂマモリ」記述が「記紀」共に垂仁期にあるので、是を基に五代遡るとアメノヒホコの渡来時期は7孝霊天皇期(前290~前215)が渡来時期になります。「書紀」の創作された紀年での垂仁天皇の治世は(前29~西暦70)なので垂仁三年は前27年(甲午)になります。この垂仁期の実年代についての史料はなく「記」の10崇神天皇の崩年が戊寅(つちのえとら)の年の十二月と記されており、この戊寅年を西暦318年とする説が有力ですので、これを参考にして垂仁期を算出すると垂仁三年は三世紀代前半になり、ヒホコの渡来時期とするには遅すぎる様に思われます

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「記紀」ともアメノヒホコを「新羅の王の子」とし「記」は逃げた妻の後を追っての渡来と記し、「書紀」本文では七種の宝物を持って来帰(もうけ/帰化)り。[一伝]では「日本国の聖皇(ひじりのきみ/崇神)を慕って播磨国へ渡来」。持参した宝物は八種で天皇の使者を通じて献上し播磨の宍粟邑(しさはのむら)と淡路島の出淺邑(いでさのむら)に住むことを許されたが、ヒホコは「臣(やつかれ)が住む処は、天恩を垂れ臣の情(こころ)の願(ねがは)しき地(ところ)を聴(ゆる)したまへ。」と懇願し天皇是を聴(ゆる)したまふ。ヒホコは菟道河(うぢかは/宇治川)を遡り北近江国の吾名邑(あなむら)に入り暫住する。また北近江より若狭国を経て西但馬国に到りて出嶋(いづし)の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多鳥(またを)と婚姻して但馬に定住しています。
この系譜の裔の葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)が息長宿祢王(おきながすくねのみこ)と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ)を生み、この比売が14仲哀天皇の皇后となり15応神期の息長系譜に?がります。
「記」はアメノヒホコ五代の孫、タヂマモリの記述を垂仁期に、アメノヒホコの渡来記述を応神期に『また昔新羅の国主(こにきし)の子有り名は天之日矛と謂ふ。是の人参渡(まいわた)り来つ。……』渡来の由来を記しています。(下記「記」の記述参照)
上 左「記」の垂仁期に記載の多遅摩毛理(たぢまもり)の記述。     右は応神期に記載されている天之日矛の渡来記述。
上写真 左 宝来山古墳(伝垂仁天皇陵)全景  中 壕中にある小島伝タジマモリの墓  右タジマモリ墓遙拝所跡
嘗ては小学校教科書にも載り忠臣タジマモリの墓とされ多くの参拝者が訪れたであろう遙拝所も今は訪れる人もなく荒れ果て閉鎖されている。一説によると古墳や溜め池の大きな壕には葺き石や堤が波による浸食を防ぐために壕中に小島が築かれていると云う。
「書紀」の天日槍系譜 「記」天之日矛と開化期の日子坐王を祖とする息長系譜
上 左は「書紀」のアメノヒホコ系図、「タヂマモリ」までの記載です。
右は「記」のアメノヒホコ系図。「多遅摩斐泥(タヂマノヒネ)」と多遅摩比多訶(タヂマノヒタカ)は「記」のみの伝承で「書紀」には記載されていません。また「記」は「タヂマモリ」「ヒタカ」「キヨヒコ」は兄弟ですが「書紀」では「キヨヒコ」と「タジマモリ」は親子関係になっています。
「記」は淸日子、当摩之咩斐(たぎまのめひ)に娶ひて酢鹿之諸男(すがのもろを)、菅竈由良度美(すがかまのゆらどみ)を生む。多遅摩比多訶(タヂマノヒタカ)は其の姪、由良度美と異世代婚して生まれたのが葛城高額比売(かつらぎたかぬかひめ)この比売、息長宿祢王と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)が生まれます。息長帯比売(おきながたらしひめ)が14代仲哀天皇皇后となり15代応神天皇が生まれ、息長氏が天皇家の外戚となり以後天皇家に后妃を入れる様になります。
右は「書紀」のツヌガアラシト記述で、一伝は崇神天皇を慕って渡来して来たが天皇崩御後だったので垂仁天皇に三年仕えて帰国しています。次の一伝ではアラシトの国での生活状態を記述しアラシトの所有していた牛の代金に白い石を貰って持ち帰り寝屋の中に置いていると美麗な童女に変身し喜んだアラシトが童女と交(まじ)わらんとしたが、童女は逃げて日本の豊国を経て難波に到り比売語曾の社の神と為ったと云う。
「書紀」垂仁二年、是歳(ことし)、任那人(みまなびと)蘇那曷叱智(ソナカシチ)天皇に帰国を申し出る。「先皇(さきのみかど)の御代に来朝して未だ還らざるか。」故(かれ)蘇那曷叱智に敦(あつ)く賞(たまひもの)す。赤絹百匹を持たせて任那の王に賜(つかわ)す。しかし帰途に新羅人にこれを奪われる。其の二つの国の怨(うらみ)、始めて此の時に起こる。
一に曰く(あるにいわく)、御間城天皇(みまきのすめらみこと/崇神天皇)の御代に額に角(つの)ある人が一つの船に乗って越国(こしのくに/福井県)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に渡来、故(かれ)其処を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と云う。自称意富加羅国(おほからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と云う。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)と名乗り、伝(つて)に日本国に聖皇(ひじりのきみ)(ま)すと聞(うけたまわ)りて帰化しに来た」と云う。崇神天皇崩御後であった故、活目天皇(いくめのすめらみこと/垂仁天皇)に仕えて三年が経過しツヌガアラシトが帰国することになり、天皇、「汝(いまし)道に迷わずして少し速く詣(もうでいた)れらましかば、先皇(さきのみかど)に仕へたてまつらまし。是を以て汝が本国の名を改めて、追いて御間城天皇(みまきのすめらみこと/崇神天皇)の御名を負(と)りて、汝の国の名にせよ」とのたまふ。そして赤織の絹を以て阿羅斯等(あらしと)に給ひて本国に返しつかわす。其の国を号(なづ)けて弥摩那国(みまなのくに)と謂ふは、この縁なり。アラシト給われる赤絹を、己が国の郡府(くら)に蔵(をさ)める。新羅人聞きて兵を起こして其の赤絹を奪いつ。是二(これふたつ)の国の相怨(うら)むる始めなりといふ。
※「書紀」記述では弥摩那(ミマナの名は)御間城天皇(みまきのすめらみこと/崇神天皇)のなによるとの説ですが、崇神天皇は任那から渡来してきてヤマト王朝の始祖となり出身地の地名からミマキイリヒコの名乗ったと云う説もあります。
更に一に曰くとしてツヌガアラシトが国にいた時の話が記される。(上記参照)



息長帯比売(神功皇后)の母系の祖は古代に渡来して来た新羅の王子、天之日矛(アメノヒホコ)で有るとの伝承説話が「記」に記載されていますが、「書紀」では渡来伝承のみで息長氏との関連について何等の記述もありません。また「風土記」「住吉大社神代記」「宇佐八幡御託宣集」にも民間伝承として記載されています。
アメノヒホコとは実在人物なのか?、物語上の架空人物なのか?と云う疑問があり
ます。現在の考古学者の多くはアメノヒホコと呼ばれたものは朝鮮半島からの渡来者達が信仰する海洋太陽神を祭祀する呪矛の事であろうと云われています。古代朝鮮に伝わる朱蒙(チュモン)神話や日光感精神話・卵生神話との関連が指摘されています。「記紀」編纂過程において渡来系氏族の末裔が天皇家の家系に入ることもあり「古代朝鮮神話」をそのまま記載することが躊躇(ちゅうちょ)され、アメノヒホコを新羅の王子として物語化したものとではないでしょうか。因みに「記紀」では朝鮮半島からの渡来者を「新羅」からと表示することが多い様ですが新羅の建国は西暦356年です。




アメノヒホコについては新羅王子や大伽耶(おおかや)王子説があるが、アメノヒホコとは個人名ではなく族名説もあり新羅・伽耶諸国・多羅等の製鉄・硬質土器生産技術者集団を日矛(ヒホコ)族と呼んだともいわれ、彼等が信仰していた日神を祭祀する用具の鏡と鉾から祭祀者をアメノヒホコと呼称したと云う説もあります。しかし「天之日矛(日槍)」「都怒我阿羅斯等」「阿加流比売」と云った名は朝鮮半島での名では無く、これは日本名です。
★考古学者の間でも「現実に生存していた人物ではない」「アメノヒホコとは太陽神を信仰する渡来人集団」「日神を祀る祭祀用具が天之日鉾」であると云う説が有力です。



※アラシトの逃げた童女が日本に来た経路は記されていませんが、アラシトは日本海側の笥飯浦に来て、しかも童女を探した形跡もないのは何故。アラシトのその後の消息については記述なく不明。
記」のアメノヒホコも難波上陸をアッサリと諦め但馬へ回航し、其の地の豪族の娘と結婚して但馬に定住しています。

左は日本書紀のツヌガアラシトの国にいた時の記述です。
古事記のアメノヒホコ記述にそっくりです。 更に一に曰わくとして、ツヌガアラシトが伽耶にいた頃の話が語られますが、「記」の天之日矛の話と類似した話で、逃げた童女の後を追い渡来したと云う。そしてアメノヒホコの逃げ来た妻と都怒我阿羅斯等から逃げて来た童女も難波に入り比売碁曾社(ひめごそのやしろ)の神になったと「記紀」は記しますがヒホコとアラシトから逃げて来ただけの二人の女性が日本の?波に入り習合して比売碁曾の神になった云う何とも理解し難い説話です。 (左の「書紀」記事参照)
また、アメノヒホコの妻は「吾が祖(みおや)の国へ行く」と云い新羅を出て?波へ渡来して居ますが、彼女の出生は朝鮮半島の卵生神話にある赤玉から生まれており、それが何故日本を祖(みおや)の国というのか。また、アラシトの逃げた童女も
難波に上陸していますが、アラシトは裏日本の敦賀に来て童女の消息を尋ねた形跡もなく「書紀」はその後のアラシトの日本に於ける消息も一切記述していないのは何故
「書紀」垂仁三年春三月、新羅の王の子アメノヒホコ来帰(まうけ)り将(も)て来(きた)る物は、羽太(はふと)の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇・出石(いずし)の小刀一口・出石の桙(ほこ)一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろぎ)一具の并(あわ)せて七物(ななくさ)あり。即ち但馬国に蔵(をさ)めて、常に神の物とす。また一に曰わくとしヒホコは渡来目的は日本国に聖皇(ひじりのきみ)居ますと聞(うけたまわり)己が国を弟知古(ちこ)に授けて自分は帰化すべくまいりましたと言う。播磨国宍粟邑(しそうのむら)と淡路島の出淺邑(いでさのむら)に住むことを許されたが「臣が住む処は天恩を賜り臣が情(こころ)の願しき地を赦したまへ」と懇願し赦され、ヒホコは菟道河(うぢかわ)を遡り、北近江の吾名邑(あなむら)に暫住する。近江国の鏡村の谷(はさま)の陶人(すえびと)は、アメノヒホコの従人(つかいひと)なり。その後ヒホコは若狭を経て西但馬国出石に到り定住し、出嶋(いづし/出石)の太耳(ふとみみ)の娘、麻多烏(またを)を娶り但馬諸助(たぢまのもろすく)を生む。諸助、但馬日楢杵(たぢまのひならぎ)を生む。日楢杵、淸彦(きよひこ)を生む。淸彦、田道間守(たぢまもり)を生む。「書紀」のアメノヒホコ記述は此処までで「記」のアメノヒホコ記述と比べると簡略なもので息長氏との関連についても一切記されていません。
左は古事記のアメノヒホコ記述





  右書紀の記述





播磨国風土記の一節
播磨国風土記のアメノヒホコ
「播磨国風土記」では神代にアメノヒホコが韓国(からくに)から渡来して来た時に先住者の葦原志乎命(あしはらのしこをのみこと/大国主の別名)との間で激しい国土占居(こくどせんきょ)の争いの様相が語られています。
 [※ 「古事記」には葦原志挙乎命とは大国主命の別名とあります]
揖保郡(いひぼのこおり)
粒丘(いいぼおか)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、天日槍命、韓国(からくに)より渡り来て、宇頭(うづ)の川底に到りて、宿處(やどり)を葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)に乞(こ)はししく、「汝(いまし)は国主たり。吾が宿らむ處を得まく欲(おも)ふ」とのりたまひき。志挙、即ち海中を許(ゆる)しましき。その時、客(まれびと)の神、剣を以ちて海水を掻きて宿りましき。主(あるじ)の神、即ち客(まれびと)の神の盛(さかり)なる行(しわざ)を畏(かしこ)みて、先に国を占めむと欲(おもは)して、巡り上(のぼ)りて、粒丘(いいぼおか)に到りて、?(いひを)したまひき。ここに、口より粒(いひぼ)落ちき。故(かれ)粒丘と号(なづ)く。其の丘の小石、皆能(みなよ)く粒(いひぼ)に似たり。又、杖を以ちて地(つち)に刺したまふに、即ち杖の處より寒泉湧(しみづわ)き出て、遂に南と北とに通(かよ)ひき。北は寒く、南は温(ぬく)し。
アメノヒホコが葦原志乎命に宿所を断られ劒で海水を掻き宿所を作った話は日本神話の国生み神話と類似しています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天之浮橋に立って矛で海掻き混ぜ、矛を上げると矛先から滴り落ちる海水が淤能碁呂島(おのころしま/淡路島)となる神話と類似しています。
宍禾郡(しさはのこおり)
ここでは天日槍と葦原志挙乎命の国占争いの途次に天日槍が村の名をつける説話と呪術的な国占の方法でそれぞれの勢力圏を決める説話がある。
宍禾(しさは)と名づく所以(ゆえ)は、伊和大神(いわのおおかみ)、国作り堅め了(を)へましし以後(のち)、山川谷尾を堺ひに、巡り行(い)でましし時、大きなる鹿、己が舌を出して、矢田の村に遇(あ)へりき。爾(ここ)
(の)りたまひしく、「矢は彼(そ)の舌にあり」とのりたまひき。故(かれ)宍禾郡(しさはのこおり)と號(なづ)
村の名を矢田村と號く。
奪谷(うばいたに)、葦原志挙乎命と天日槍命と二柱の神、此の谷を相奪(あいうば)ひたまひき。故(かれ)、奪谷(うばいたに)といふ。其の相奪(あいうば)ひし由(ゆえ)を以(も)ちて、形(かたち)(まが)れる葛(かづら)の如し
川音(かはと)の村。天日槍命、此の村に宿りまして、勅(の)りたまひしく、「川の音、甚高(いとたか)し」とのりたまひき、故、川音(かはと)の村といふ。この様に村名や地名を決める「庭酒(にはき)村・奪谷(うばいたに)・高家(たかや)の里・伊奈加(いなか)川」等を名付ける説話が続き、次に国占の話になる。
御方の里(みかたのさと)土は下の上なり。御形(みかた)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、葦原志挙乎命、天日槍
と黒土の志爾嵩(しにだけ)に到りまし、各、黒葛三條(おのおのもつづらみかた)を以(も)ちて、足に着けて投げたまひき。その時、葦原志挙乎命の黒葛(くろつづら)は一條(ひとかた)は但馬の気多郡(けたのこおり)に落ち、一條(ひとかた)は夜夫郡(やぶのこおり)に落ち、一條(ひとかた)は此の村に落ちき。故(かれ)三條(みかた)といふ。天日槍命の黒葛(くろつづら)は、皆、但馬国に落ちき。故(かれ)但馬の伊都志(いづし)の地を占めて在(いま)しき。(ある)ひといへらく、大神、形見(かたみ)として、御杖(みつえ)を此の村に植(た)てたまひき。故(かれ)御形(みかた)といふ。
ここでは伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神(おおなむちのかみ)の別称)は同神であると思わせる構成になっています。
天日槍(あめのひほこ) 風土記では神代に播磨国で国土占居の為に葦原志挙乎命(あしはらのしこをのみこと)と争った神として語られています。  
(いひを)したまひき
食事をする。    
宇頭(うづ)の川底 揖保川(いぼかわ)の河口。
海中を許(ゆる)しましき 土地を与えず、上陸を許さなかった。
南と北とに通(かよ)ひき。北は寒く、南は温(ぬく)湧き清水が南と北に流れて川となり、南北で水の温度が異なる
伊和の大神 葦原志挙乎命の別名か?     波加村 兵庫県中西部の現宍粟市(しそうし)波賀町 
御方の里(みかたのさと) 宍粟市(しそうし)波賀町の隣、揖保川上流の地。
黒土の志爾嵩(しにだけ) 兵庫県朝来市(あちごし)にある旧生野銅山の鉱物により土色が黒く変質いる事か? 此の鉱山の発見は大同二年(807)と言われるので「風土記」の完成は霊亀元年(715)頃と言われるので神代の黒土の志爾嵩の所在は不明
但馬の気多郡(けたのこおり) 兵庫県養父郡の北部。 夜夫郡(やぶのこおり) 養父郡の南部。
但馬の伊都志 兵庫県豊岡市出石、天日槍子孫の本貫地。
「書紀」本文は垂仁三年の春三月に、新羅の王の子天日槍(あめのひほこ)来帰(まうけ)り。将(も)て来る物は、羽太(はふと)の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の桙一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろぎ)一具、併せて七物(ななくさ)あり。則ち但馬国に蔵(をさ)めて、常に神の物とす。
即ち出石神社の神宝とし、これを出石の八前(やまえ)の大神と呼んだという伝承があります。
また「一に曰く」として天日槍、針間国(はりまのくに)の宍粟邑(しさはのむら)に渡来、天皇の使者に渡来の理由を聞かれ「僕(やっこ)は新羅国の主(こきし)の子なり。然(しか)れども日本国に聖皇(ひじりのきみ)いますと聞(うけたまわ)りて、則ち己が国を弟、知古(ちこ)に授けて化帰(まうけ)り」とまうす。仍(よ)りて貢献(たてまつる)る物は葉細(はほそ)の珠・足高の珠・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の珠・出石の刀子(かたな)・出石の槍・日鏡・熊の神籬・胆狭淺(いささ)の太刀、併せて八物あり。天皇ヒホコに詔(みことのり)して「播磨国の宍粟邑(しさはのむら)と淡路島の出淺邑(いでさりむら)とに汝(いまし)任意(こころのまま)に居(はべ)れ」とのたまふ。ヒホコ「臣(やつかれ)が住む処は、若し天恩(あめのめぐみ)を垂れて、臣が情(こころ)の願(ねがは)しき処を許したまはば臣親(みづか)ら諸国を巡りて臣が心に合えるを給はらむと欲(おも)ふ」と申し天皇、願いを許した給い、ヒホコは菟道河(うぢかわ)を遡り北近江の吾名邑(あなむら)に暫住し、此処より若狹国を経て西但馬国に到りて定住する。
垂仁八十八年の記述によると天皇が「朕聞(われ)聞く、新羅の王子天日槍、初めて来し時に、将(も)て来れる宝物、今但馬に有り。元(はじ)め国人の為に貴(たふと)びられて、則ち神宝と為れり。朕、其の宝物を見欲(みまほ)し」とのたまふ。即日に使者を遣わして、アメノヒホコの曾孫淸彦に詔して献(たてまつ)らしめたまふ。
しかし淸彦は出石の刀子のみは衣の下に隠して献上しなかったが天皇に見咎められ献上させられるが、此の刀子のみは淸彦の許へ戻り、さらに淡路島に移ったので島の人達が祠を建てこれを祀ったと云う。
■アメノヒホコが新羅国から持参した宝物の中に出石の刀子・出石の槍(この出石は地名と思われる)が新羅に出石という地名は無く、出石の名の付く刀子や槍を持参するのはおかしい。
■熊の神籬とは神霊を招き,祭祀の対象とするために設けられたもの。神体が顕われぬように覆い囲むもの。
■垂仁三年のアメノヒホコ渡来からヒホコ5代の孫タジマモリの記述が垂仁期一代に集約されているのも疑問。
「熊神籬くまのひもろぎ」については諸説あり、熊はで新羅言葉で熊(こむ)と云い「朝鮮の神聖な」という意味だそうです。また神籬(ひもろぎ)とは神祭りをするにあたり、神霊を招くための憑坐(よりまし)、依代(よりしろ)のことだそうです。左は纏向にヒモロギの小字名がありヒモロギの説明板がありましたので参考までに右は古代の女性が着用していた領巾(比礼)。

アメノヒホコが持参した宝物と物部氏の神宝の類似性
古事記  日本書紀  日本書紀  日本書紀  饒速日尊(にぎはやひのみこと)が降臨する時に天つ神が授けた物部氏の十種の神宝 
垂仁3年条本文  垂仁3年条(一に曰く) 垂仁88年条
珠2貫(たまふたつら)  羽太玉(はふとのたま)  葉細玉  羽太玉  生玉(いくたま) 
浪振比礼(なみふるひれ)  足高玉(あしたかのたま)  足高玉  足高玉  足玉(たるたま)  
浪切比礼(なみきるひれ)  鵜鹿鹿赤石玉
(うかかのあかとのたま) 
鵜鹿鹿赤石玉   鵜鹿鹿赤石玉 死反(しにかえし) 
風振比礼(かぜふるひれ)  出石小刀(いづしのかたな)  出石刀子  出石小刀   八握剣(やつかのつるぎ) 
風切比礼(かぜきるひれ)  出石鉾(いづしのほこ)  出石槍  日鏡   辺津鏡(へつかがみ) 
奥津鏡(おくつかがみ)  日鏡(ひかがみ)   日鏡 熊神籬(くまのひもろぎ) 瀛都鏡(おきつかがみ)  
辺津鏡(へつかがみ)  熊神籬(くまのひもろぎ)   熊神籬(くまのひもろぎ) -  道反(みちかえし)
-   - 胆狭浅大刀(いささのたち)  -   蛇比礼(おろちのひれ)  
-  -  -  -  蜂比礼(はちのひれ)
-  -  -   -   品物比礼(くさぐさのものひれ)  
8種  7種  8種  6種   10種
「記」の記す天之日矛が持参した八種の神宝と河内国の哮峰(いかるがのみね)に降臨した物部氏の祖、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)と類似しています。これらは航海に関するものと思われるものが多いのが特徴で古代の朝鮮半島と倭国を航海する際の安全を祈る呪具であったと推察されます。また「書紀」では「玉・鏡・剣」三種がセットになっているのが注目されます。日本神話では瓊瓊杵尊(にぎのみこと)の降臨の時、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が鏡・劒・珠を授け、これが三種の神器として皇位継承のシンボルとなっています。しかし北九州地域の弥生時代の族長の墳墓からも銅戈・鏡・玉が副葬品として出土しており、当時の権力者のシンボルであり、また呪術宗教の祭祀用具であったと考えられます。こうした族長集団の中から選ばれた大王家の継承シンボルとして伝承されたものでしょう。
「書紀」本文では垂仁三年条でヒホコが持参した宝物は七種でこれは但馬国に収めて神宝とした。また「一に曰わく」即ち別伝では先の七種に胆狭浅大刀(いささのたち) が加わり八種になっています。アメノヒホコが持参した宝物の内容や扱いについて「記紀」で随分ことなります。「書紀」本文は垂仁三年に。ヒホコが持ち来たった七種の宝物は但馬国に収めて常に神の物としたと記し、一伝では八種の宝物は天皇の使者に貢献したと記す。そして八十八年の条では

播磨に来たときに天皇に貢献したと本文は記します

ですが八種の内、珠と鏡は祭祀に用いる物、比礼(領巾)は航海で使用したと思われる呪術用と推察されます。アメノヒホコとは実在の人物ではなく朝鮮半島南部から渡来してきた人々が信仰していた太陽神の名であり、それを祀る祭祀用具が神宝であったと考えられます。また「玉・鏡・劒」が天皇家の「三種の神器」に類似しておりアメノヒホコと天皇家の関連を推察する説もあります。
内行花文鏡(平原遺跡出土) 銅戈(弥生時代・吉野ヶ里遺跡出土) 勾玉と菅玉の首飾り
上写真左2枚は物部氏の祖神邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が降臨した河内国の哮峰(いかるがのみね)と云われる大阪府交野市の磐船神社と神社の神体の天の磐船と呼ばれる船形の巨石で中に入る事が出来る。 邇芸速日命がアマテラスから託された十種神宝を納めた大和の石上神宮(天理市)。右はアメノヒホコ持参の八種の神宝を納めた出石神社。
朝鮮半島から移住して来た人が、その祖国から持ち込んで祀る渡来型の神や渡来地の在地神と混合して祀る神や在地の神に類する渡来神(蕃神)を同座して祀っている神社が今も各地に多くあります。



昔一人の人が艇 話が変わり垂仁三年春三月条のでは、天日槍ははじめ播磨に着き諸国を経て但馬に定着するが、此処でははじめから但馬に定着する。
垂仁三年春三月条では 天日槍は太耳が娘、麻多鳥(またを)と婚姻して諸助を生む。、ここでは天日槍は前津耳が娘、麻?能鳥(またのを)と婚姻して諸助を生む。父と娘の名が逆転している。 亦三年条では淸彦の父は日楢杵で祖父が諸助です。
都怒我阿羅斯等の説話は「書紀」にのみ記載されている伝承で、自称、意富加羅国(おほからこく)の王子と名乗る。この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知とを同一人物とする説もあり、またアメノヒホコと都怒我阿羅斯等の話も元は一つの説話であったものを「書紀」編纂時に二つに分けて記載したとする説もあります。しかし左図の様に此の但馬・丹後・若狹地方には式内社として白城神社(しろき)・信露貴彦(しろき)神社といった新羅系の神社も多く分布しており朝鮮半島南部から此の地方へ多くの人々がの渡来と定着があり、その彼らが祖神を祀ったものでしょう。宮津市には伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承があり「元伊勢根本宮」と言われる籠神社や「丹後国風土記」逸文には浦島太郎伝説の原型とされる「筒
川嶼子(つつかわしまこ)水江浦嶼子(みずのえのうらのしまこ)」の原話があり、古代から朝鮮半島からの渡来人がもたらす文化が広く浸透していた事が解ります。また弥生時代の朝鮮半島との交流は潮流や航海術・造船技術等から日本海ル-トが主で後年の船の大形化や航海術の進歩から瀬戸内海ル-トへと変わったものと考えられます。
「書紀」独自の伝承説話である垂仁二年条、蘇那曷叱智(みまなひとそなかしちまう)の赤絹を新羅人が奪う話があり他にも神功四十七年四月条、応神十四年是歳条にもあり、こうした新羅敵視の記述も「書紀」に多くあるのは編纂に携わった多くの百済亡命人に寄るものと云われています。また、「額に角ある人」都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の記述があり本文では日本国の聖皇(ひじりのきみ)の徳を慕っての渡来であり、一伝では、白い石から変化した美麗な童女の後を追っての渡来で、「記」の天之日矛の説話と同内容です。追った童女は難波に阿羅斯等は?波から遠く離れた裏日本の敦賀に、しかも渡来後童女の行方を捜した形跡なし、また天之日矛も難波入りを遮られた後、裏日本の多遅摩国(但馬)へ行き其の地の豪族の娘を娶って定住しており、夫と男から逃げて来て難波入りした、だけの女性が比売碁曾社の神となると云う何とも矛盾した話です。


渡来時期については「記」は「その昔」、「書紀」は垂仁三年春三月とし、「記紀」とも新羅の王子ですが「記」は逃げた妻の後を追っての渡来。「書紀」本文では七種の宝物を持って「日本国の聖皇(崇神)を慕っての渡来」。[一伝]では持参した宝物は八種で播磨へ渡来。また「書紀」一伝によると垂仁二年に額に角ある人が越国(越前)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に渡来、自称「意富加羅国(おほからのくに)の王子」都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と云う。「日本国に聖皇(ひじりのきみ)いますと聞き帰化しに来たと云う。」更に一伝有りこの人、国に居る時の話が「記」の天之日矛の話と類似した話で、逃げた童女の後を追い渡来したと云う。そして天之日矛の逃げ来た妻と都怒我阿羅斯等から逃げて来た童女も難波に入り比売碁曾社(ひめごそのやしろ)の神になった「阿加流比売」だと「記紀」は記すが、天之日矛の妻は「吾が祖(みおや)の国へ行く」と云い新羅を出て?波へ渡来して居ますが、彼女の出生は朝鮮半島の卵生神話にある赤玉から生まれており、それが何故日本を祖の国というのか 。そして日矛と阿羅斯等から逃げて来ただけの二人の女性が?波に入り習合して比売碁曾の神になった云う何とも理解し難い説話です。この天之日矛と都怒我阿羅斯等伝説には多くの謎や矛盾があります。また、「記」の天之日矛と「書紀」の都怒我阿羅斯等の二つの説話は「記」は卵生神話からと「書紀」は白い石から生まれたという女性の類似した話で元は一つの説話として口承伝承として伝わったものが「天之日矛」と都怒我阿羅斯等の話に分割されたと言われますが何故分割する必要があるのか。 また天日矛(天日槍)や阿加流比売といった名は日本名であり朝鮮名ではなく、「記紀」は何故日本名で記したのか、しかも渡来して来たという新羅の王子に天之日矛(天日槍)という「天」のつく最高の日本名を与えたのか。日本神話に見る神の中でも「天津」「天照」「天之」「天の」と付く神は極く特定の神のみに用いられるのみです。
者集団の祭祀を司る人物であったという説や、ヒホコの名は個人名ではなく、持参した品から朝鮮半島南部から渡来して来た人達が祭る神の名だとする説、祭祀に使用する祭器の名であるとする説もあり、こうした説が現代の通説になつています。また、「播磨国風土記」では神代時代にヒホコが播磨国に渡来した時に土着の神との土地争いがあり、その詳細が記述されています。
アメノヒホコとは架空の人物か、それとも実在した人物なのか?。架空の人物説では「アメノヒホコ」とは矛や銅鏡で太陽神を祀る朝鮮半島の民が弥生時代に波状的に北部九州に渡来して、鉄の先進文化をもたらした集団が信仰していた神であると云う説。実在説では(815)弘仁六年に編纂された「新撰姓氏録」にアメノヒホコとツヌガアラシトの子孫として次の6氏が記されており、また児島高徳(南北朝時代)、浮田秀家(戦国時代)、武林唯七(赤穂浪士)、井上靖(昭和の作家)も「アメノヒホコ」の子孫だと名乗っています。「記」の序文に「朕聞(われき)く「諸家(もろもろのいえ)?(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と既に正実(まこと)に違(たが)い。多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ」といへり。」とあるように、諸家の系譜などは権威付けの為○○天皇とか皇子の末裔とか、祖に公家や有名武将をあてる事が多いので特に先祖を応神朝以前の天皇家や皇子としている倭人や渡来系の人達では漢の皇帝とか朝鮮王家の末裔として「新撰姓氏録」に登録されているものも多くある様です。
 ★ 下図は「新撰姓氏録」から抜粋記事です。
本貫 種別 細分 氏族名 同祖関係 始祖
911 右京 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
987 摂津国 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
959 大和国 諸蕃 新羅 糸井造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命之後也
810 左京 諸蕃 任那 大市首 出自任那国人都怒賀阿羅斯止也
811 左京 諸蕃 任那 清水首 出自任那国人都怒何阿羅志止也
960 大和国 諸蕃 任那 辟田首 出自任那国主都奴加阿羅志等也
アメノヒホコと習合疑惑のあるツヌガアラシトは「書紀」にのみ記述のある人で、この人の記述は本文では無く「一に云はく」として10代崇神天皇時代に額に角おいたる人、越国(越前)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に泊まれり。故(かれ)其処を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と云う。「いずれの国のひとか」と問うと「意富加羅国(おほからのくに)の王の子」と名乗る。崇神天皇崩御後だったので垂仁天皇に三年間仕え、意富加羅国に帰国するに対して天皇はアラシトが慕った崇神天皇の名を汝の国の名とせよと云い、赤絹を授け帰す。アラシトき帰国後「弥摩那国(みまなこく)と改名した。天皇から下賜された赤絹は新羅兵に奪われる。
(663)天智2年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本、百済連合軍は新羅、唐の連合軍に敗れ百済は滅亡し多くの百済人が日本に亡命して来て、この人達が「書紀」編纂に携わったと云われており、それ故「書紀」は一貫して反新羅記述が多いと言われています。しかし「アメノヒホコ」は新羅の王子と「書紀」も記しますが「書紀」の「アメノヒホコ」記述に限っては「反新羅」記事は見られないのは何故でしょう。更に「一伝」はアラシトの国にいる時の話を記述していますが、是が「記」の「アメノヒホコ」説話とソックリなのです。こうした記述を見る限り「ヒホコ」
と「アラシト」は同一人物ではないかという説にも頷けます。
そして敦賀(角鹿/つぬが)の名付け親が「アラシト」であり、かれが角鹿に定着したのなら気比の大神は「都怒我阿羅斯等」であるべきでは。然し気比神宮の祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)・仲哀天皇・息長帯比売(神功皇后)を主祭神とし日本武尊(やまとたけるのみこと)・応神天皇・玉姫命(たまひめのみこと/息長虚津比売/帯比売の妹)・武内宿禰(たけのうちのすくね)この四柱を加え七柱を祭神としています。「気比宮社記」には当初の祭神は伊奢沙別命一柱であったが(702)大宝二年の社殿造営時に仲哀天皇と息長帯比売を本宮に合祀して日本武尊他三柱を周囲に配祀した様です。境内東側の裏参道に摂社の角鹿(つぬが)神社が鎮座して祭神は都怒賀阿羅斯等です。この神社は敦賀の地主神と云われ、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が主祭神して本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もあります。また、伊奢沙別命とはアメノヒホコの別名でありヒホコの持参した品の中に胆狭淺(いささ)の太刀があり、この太刀との関連性を指摘してイザサワケを天日槍にあてる説もあります。伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は御食津大神(みけつのおおかみ)とも呼ばれ食べ物を司る神です。食物の神が何故、息長関連の神を祀る神社の主神なのでしょう。
境内東側の裏参道に摂社の角鹿神社が鎮座して祭神は都怒賀阿羅斯等です。この神社は敦賀の地主神と云われ、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)主祭神して本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もあります。また、伊奢沙別命とはアメノヒホコの別名でありヒホコの持参した品の中に胆狭淺(いささ)の太刀があり、この太刀との関連性を指摘してイザサワケを天日槍にあてる説もあります。他に角鹿神社の祭神を角鹿国造祖(くにのみやつこのおや)の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もあり、建功狭日命(たけいさひのみこと)とは『先代旧事本紀』の『国造本紀』によると、成務天皇の時代、吉備臣の祖である若武彦命(わかたけひこのみこと)の孫、建功狭日命(たけいさひのみこと)を角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)に定めたとあり、『古事記』の孝霊天皇期に日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は角鹿海人直(つぬがのあまのあたひ)の祖と記されています。角鹿国造は越前国旧敦賀郡を支配した国造(くにのみやつこ)で現在も社家として存続しています。また、建功狭日命は都怒我阿羅斯等の20代の孫と云う説も有り、複雑すぎて史実と創作説話の区別が私の様な俄古代史ファンにはつきかねます。
  比売語曽の神 (アカルヒメ伝承)
アメノヒホコの逃げた妻もツヌガアラシトの逃げた童女(おとめ)も朝鮮半島から難波に渡来して来て比売碁曾社の神に祀られたと云う。アメノヒホコの妻について「記」は「阿加流比売」と名を記していますがツヌガアラシトの童女については名は不明。この二人の女性が申し合わせた様に難波に上陸して比売碁曾社の神に祀られるという奇妙な話が「記紀」「摂津国風土記」に記載されています。
左地図
豊国の比売語曾社のある大分県東国東郡姫島の位置。

右写真
姫島の比売語曾神社
「記」は新羅の王子、アメノヒホコが逃げた妻を追って難波に渡り来たが渡りの神に遮られ難波に入れなかった。「書紀」は意富加羅国(おほからのくに)の王の子ツヌガアラシト亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が逃げた童女(おとめ)を追って日本国まで来たが、童女(おとめ)は難波に到りて比売碁曾社の神と為る。亦は豊国の国前郡(みちのくちのくに)に至りりて、復(また)比売語社曾の神と為りぬ。並びに二処に祭(いは)ひまつられたまふと云ふ。また「摂津国風土記」では比賣島(ひめしま)の松原。古へ、軽島の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に御宇(あめのしたしろし)めしし天皇(応神天皇)の御代、新羅国に女神(ひめがみ)あり。其の夫を遁去(のが)れて来て、暫く筑紫国の伊波比(いはい)の比賣(地の名なり)に住めりき。乃ち曰ひしく「此の島は、猶是遠(なほこれとお)からず。若し此の島に居ば、男の神尋(かみと)め来なむ」といひて、乃ち更(また)、還り来て遂に此の島に停(とど)まりき。故(かれ)本住める地の名をば取りて島の号と為せり。
「記」はヒホコの逃げた妻の名を阿加流比売(あかるひめ)と記しています、アラシトの童女の名は不明。此の二人の女性が身を寄せたという難波の比売碁曾社は現代四社あり、 内二社の祭神が下照比売となっていますが、下照比売とは「記」は大国主神と多紀理毘売命(たきりひめのみこと)の娘で、阿遅金且高日子根神(あぢすきたかひこねかみ)の妹。「書紀」は大国主の娘。「先代旧事本紀」は大巳貴神(おほなむちのかみ/大国主)と田心姫命(たきりひめのみこと)の娘で、味金且高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の同母妹。と記されています。何故、アカルヒメと何の縁も由縁も無い下照比売が習合されるのか理解に苦しみます。
左写真 姫嶋神社 大阪市西淀川区祭神 阿迦留姫命。    中・右写真 比売古曾神社 大阪市中央区高津一丁目祭神 下照比売命。高津の比売古曽神社は元々当地に鎮座していた神社でしたが豊臣秀吉の大阪城築城に際して高津宮がこちらに移転してきて比売古曽社は軒を貸して母屋を取られ比売古曽神は移転して来た高津宮本殿の東側の奥にひっそりと建っています。祭神は下照比売で子授けの神と記されています。
左写真 比売許曽神社 大阪市東成区 祭神 下照比売を主祭神とし速素戔嗚命(はやすさのおのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、大小橋命(おほおばせのみこと)、大鷦鷯命(おほさざきのみこと)、橘豐日命(たちばなのとよひのみこと)を配祀する。
中写真 赤留比売神社 手水鉢 三十歩大明神と刻まれ降雨の神として郷民に親しまれた当時の名残。
右写真 赤留比売神社 大阪市平野区平野東  祭神 赤留比売(あかるひめ)創建年代不明。現代は杭全神社の境外摂社。
左図fは大阪遺跡(大阪文化財協会発刊)より転用一部加筆しています。(約2100年前の難波(なにわ)推定図)
①大阪市西淀川区の姫島神社。
②大阪市中央区高津一丁目の比売古曾神社。
③大阪市東成区の比売碁曾神社。
④大阪市平野区平野東の赤留比売神社。
以上の四社が大阪市内のアカルヒメ関連神社の所在地を記したのが左図です。「記紀」は?波の比売碁曾社の神と為る。と記しています、②③が比売碁曾社で何れも式内社ですが創建年代は不明です。②比売古曾神社は茅渟の海と言われた現大阪湾に面していたと思われ
③比売許曽神社は河内湾が汽水湖の河内湖に変わった
湖水に面しており、この二社が「記紀」記述のアカルヒ
メの上陸地点に相応しいと思われますが、いずれも祭神は下照比売で社名のみ比売古(許)曾神社となっています。「記」には新羅から来た阿加流比売が難波の比売碁曽の社に坐すと記し、「書紀」は意富加羅国(おほからのくに)から来た童女は豊国と難波の比売碁曾社の二処に祀られていると記します。
「延喜式神名帳」では下照比売を祭神とするのが比売許曽神社であると記し、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡にありと記しています。
の姫島神社のある西淀川区は古代は大阪湾内で淀川の河口でもあり地形も大きく変わり弥生時代に、この地に上陸したとするなら現吹田市以北になるのではと考えられます。
の比売古曾神社は高津神社の境内摂社ですが、元来当地は比売古曾神社の社地に高津神社が移転して来たようです。貞観8年(866)平安初期、清和天皇の勅命により仁徳天皇の難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀りましたが、天正11年(1583)に豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内
(現在地)に遷座され、比売古曽神社は地主神として摂社とされたそうですが、比売古曽神社の創建年代は不明ですが上町台地の西側にあたり古代の大阪湾に面した位置にあたります。
大阪市天王寺区小橋東之町に鎮座する比売碁曾神社はの比売古曾神社の約3km東で上町台地の東側にあたり古代の河内湾に面した位置になり、朝鮮半島から逃げて来た比売の上陸地点としては最も適した処になりますが二社とも祭神は下照比売(したてるひめ)で日本の女神です。下照比売とは大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘で天稚日子(あめのわかひこ)と婚姻した比売で、阿加流比売とは縁も由?もなく何故、下照比売が比売碁曾社の祭神なのか灼然としません。
の大阪市平野区の赤留比売神社は唯一赤留比売の名が付き祭神も新羅より渡来の女神、赤留比売命を祀る式内社ですが、近世までは俗称の三十歩神社の呼称の方が有名で赤留比売の名は忘れ去られていたのが「住吉松葉大記」や「摂陽群談」の記述見られます。三十歩神社の名は室町時代の応永年間(1394~1428年)干ばつのとき、法華経三十部を読誦したところ霊験あらたかであったので、三十部神社がなまったものと云われています。創建年代や住吉大社との由?の詳細は不明ですが、弥生から古墳時代に朝鮮半島の国々との外交施設として難波津に難波館(なにわのむろつみ)があり、この時に外客接伴のために中臣須牟地神社で醸した酒を赤留比売命神に献る形で外客に給せられていたと言われています。「住吉神代記」に赤留比売神と中臣須牟地神の名が記されていたのは天平時代の一時期に中臣須牟地神に赤留比売神が併祀されていたとも考えられます。
また、赤留比売神社の昔の鎮座地について平野流町の門外字中山であったが寛文2年(1662)に現在地に遷座し大正3年に郷社杭全神社に合併飛地境内末社となっています。また六月三十日の住吉大社の荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)には平野郷の坂上七名家よ9斎女を出し、桔梗の造花を捧げるのが慣例となつていた様で赤留比売社と住吉大社の密接な関連が覗われますが、現在はこの行事は途絶えているようです。
『大阪府神社史資料』村社比売許曽神社から
比売許曽神社(大阪市東成区東小橋町)明治五年村社に列せらる。古事記によれば、比売許曾神社の祭神は新羅國王之子天日矛の妻にして、竊(ひそか)に小船に乗り、吾祖之國(わがおやのくに)に行かんとて本邦に渡來し、難波に留まりしを祭れるなりとし,日本書紀には、之れを意富加羅國王之都怒我阿羅斯等(おほからのくにのおうのつぬがあらしと)の許にありし一童女(おとめ)とし、此童女逃れて遠く海に浮ぴ、遂に我國に入り、難波に至りて比売許曾社の神となると、延喜式神名帳には、摂津國東生郡比売許曾神社名神大月次、相嘗新嘗 四時祭式に下照比売社一座或號比売許曾社。臨時祭式に比売許曾神社一坐亦號下照比売とあり。三代實録に貞観元年正月摂津國下照比売女神授從四位下とあるも、比売許曾神社なりとせらる。斯(か)くの如く比売許曾神社は難波の古社、式内の名神なれども、早く荒廃して 其所在沿革詳(さだか)ならず。古代は姫島に鎭座せしものヽ如し。然るに、天明八年(1788)に或者が奮記神賓を発見したりと唱へ、之れに基きて、比売許曾神社の縁起を編纂し、當社を延喜式内の比売許曾神社に當てヽより、其名世に現はれたり。 されどその作れる縁起は固より假作にして信すぺきものにあらす。本社所藏文書に小橋村検地帳(慶長十二年十一月 十二日)闕郡東郡戸御検地帳(文録三年八月)並に南北朝時代の古文書を存せり。
上写真左から中臣須牟地神社の拝殿。 中写真 中臣須牟地神社前の難波館(にわのむろつみ)の外客接伴のための酒を醸したと云う遺跡、以前は注連縄が張ってあったのですが。  右写真は6月30日の夏越しの大祓神事(なつごしのおおはらいしんじ)に茅の輪くぐり無事に夏の暑 さを乗り越え、元気に何事もなく、無病息災を願う神事(開口(あぐち)神社)住吉大社関連神社。
上段右 赤矢印が住吉大社神代記の赤留比売神が記載されている箇所です。 左はその訳文。
下段は上記記載神社の所在地 「赤留比売命神 式内社 摂津国住吉郡にみゆ」とありますが初代鎮座地は不明とも云われています。
この住吉大社神代記とは住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文で天平三年(731)に作成されたと奥書がありますが考古学者の間には天平三年作成に異論があり、平安期の作成ではとの説も有りますが、いずれにしても貴重な史料であることに変わりはありません。その神代記冒頭に『件(クダン)の住道(スムチ)の神達は八前なり。 天平元年(729)十一月七日、託宣に依り移徒(ウツ)りて、河内国丹治比(タヂヒ)郡の楯原里(タテハラノサト)に坐(イマ)す。故(カレ)、住道里(スムチノサト)の住道神と號(ナヅ)く』と記されていますが、しかし此処に記されているのは座摩神二前・中臣須牟地神一前・住道神一前・須牟地曾禰神一前・住道神一前の六前で、住道神一前が重複していますので実際は五前になります。また赤留比売命神の下に中臣須牟地神・草津神が小さく記されていますが、これは赤留比売命神が中臣須牟地社に配神されていたものかと考えられますが、その詳細と託宣により八前の神が何故楯原の里に移されたのか、また何故五前しか記されていないのか不明です。住吉大社神代記に記載されている託宣により八前の神を移した「河内国丹治比郡楯原の里」について現在の楯原神社の所在地である大阪市平野区喜連(きれ)という説がありますが、私は楯原神社の由緒から楯原神社の創建時の
鎮座地は喜連ではなく神社の名称の楯原里であったと考えています。河内国丹治比郡楯原里について調べていたら石清水八幡宮の庄園矢田庄についての文書に延久四年(1072)九月十日付の太政官牒に楯原中里の地名があり石清水八幡宮の荘園矢田庄の墾田六町八反の所在を記したものです。『壱処 字矢田庄 丹北郡 墾田陸町捌段 壱条矢田部拾参坪伍段、篠原里参拾参坪陸段、北 参条駅家里拾玖陸段、 楯原中里里外捌坪壱町、同里弐拾玖坪壱町以下略』住吉大社神代記には「楯原里」、太政官牒には「楯原中里里外」と記され年代は違いますが、いずれも河内国丹比郡の同一場所と思われるので松原市史を調べてみると松原市史第一巻本文編律令制下の丹比地方「条里制」の項に楯原中里の詳細位置が記されていましたので上記に楯原里所在図を抜粋転載しています。今喜連にある楯原神社の初代鎮座地は、この「楯原里」ではないかと思います。楯原神社由緒にも南北朝時代(1339~1382)に北軍の兵火に罹り焼失とあり「花営三代記」(1371)応安四年十一月五日の記事に「暁。河州宇利和利(うりわり)城寄手南方勢引退云々」とあり南北朝のこの時期に瓜破・丹比郡地域で戦闘のあったことが判ります。楯原神社が北軍の兵火に罹り焼失したのも、この瓜破合戦の時でしょう。楯原里に鎮座していた楯原神社が戦火に追われ摂津国喜連村の一角に遷座して来たのが(1371)応安四年以後のことで(1481)文明十三年春仮社殿を建て(1493)明応二年三月正社殿完成。元和年間(1615~24)暴風雨で破損。享保年間(1716~36)に現在地に移ったといわれています。
上図は松原市史第一巻第二章条里制の項に記載されている楯原中里の位置を示した図です。この図ではBY里・CY里・DY里の三つが太政官牒に記されている北三条楯原里と里外になり、BY里(楯原中里里外)は現在の松原市天美北6.7丁目。CY里(北三条楯原中里)は天美北1.3丁目。DY里(楯原中里)は三宅西7・平野区瓜破南1丁目。に該当します。JZ里・KZ里は現大和川と左右両岸(瓜破・住道)の一部になります。 楯原神社の最初の鎮座地はDY里楯原中里と推察されます。この地で(1371)応安四年十一月五日の瓜破合戦の戦火でに追われ西喜連に遷座したものと思われます。この天平元年(729)の託宣による八前の神の遷座は住吉神の託宣と思われますが託宣理由は不明で、遷座した神は、何れも元の鎮座地に戻っていますが、その年月は不明です。
中臣須牟地神社 座摩神社 (摂津名所図会) 神須牟地神社
神代記に記されている4座のうち、中臣須牟地神・住道神(神須牟地社)の二社は東住吉区内に、須牟地曽祢神(堺市金岡神社合祀されている)三社の所在地は解りますが、最後の住道神は不明。ただ古代に中臣須牟地社の北の辺りに天神山と云う山が有り、そこに住道社なる社があったという言い伝えが有るが現代では、その山もなく位置も不明ですが、三社は式内社として現存しています。赤留比売神社(大阪市平野区)の由緒の詳細は全く不明で、現在地に遷座したのは、何時か、南北朝時代や大坂夏の陣などの戦禍も受けて下の「住吉松葉大記」にあるように江戸中期には赤留比売の名も忘れ去られ三百歩神社として存在していたようです。
アカルヒメについては「記紀」では、その記述は異なっていますが、説話の内容は同じです。女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという朝鮮の卵生神話であり、高句麗の始祖王の東明聖王(とうめいせいおう)・新羅の始祖王赫居世(かくきょせい)、伽耶(かや)諸国のひとつ金官国の始祖の首露王(しゅろおう)の出生譚などが天降った卵から人間が生まれたという卵生神話から発生しています。赤玉から生まれた「アカルヒメ」は即ち太陽の女神と云うことでしょう。「記」の編纂者はアカルヒメに「吾が祖の国に行かむ」と云わせて日本が太陽の神の国であり、太陽神の血脈に連なるのは日本だよと同じ太陽神を信仰する朝鮮諸国に思わせるための記述なのでしょう。究極のところ「アカルヒメ」については私の考察力の至らなさから何も解らなかったと云う事でした。 
上右から「住吉松葉大記」赤留比売命神社の記述。この記述によると「松葉大記」の記された元禄年間には阿加琉(赤留)比売を祀る神社が何処にあるのか不明だった様です。
中が「摂陽群談」巻十一の十六葉の記述です。  左端は「松葉大記」の三十歩社(赤留比売神社)の記述。
上に記される玉依姫とは神話で、海の神の娘。??草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり、四子を産んだ。末子が神武天皇。また豊姫とは息長帯比売の妹(記では虚空津比売)で息長宿禰王の子。この三百歩神社の記述は大分混乱しているようです。いずれにしても中世には赤留比売が何処に祀られているのか混乱していた様です。
「住吉松葉大記」とは江戸期に住吉大社の神職の家に生まれた梅園惟朝(うめぞのこれとも/生没年不詳)が神祇(じんぎ)史の基礎的研究をおこない元禄年間(1688-1704)に「住吉松葉大記」を編著した。『住吉松葉大記』は大阪府指定文化財として住吉大社・住吉文華館に展示公開されています。(参観は日曜のみ)
「摂陽群談」江戸時代に編纂された摂津国の地誌で伝承や古文献を参照に全十七巻から成り、第十一巻が神社部で完成は禄十四年(1701)。『大日本地誌大系』に収録されいて、作者は岡田溪志で江戸期の摂津地誌としては記述が最も詳しく記されています。現東成区の比売碁曾神社の祭神は下照比売を祀るとしており、阿加琉比売の上陸地を現高津神社の比売語曾社としていますが祭神はやはり下照比売で、この比売を阿加琉比売とも云うと記して居ます。しかし「記」の記述は天之日矛の逃げて難波の比売碁曾社に入ったのは「阿加琉比売」と記し、「書紀」の記述は都怒我阿羅斯等の逃げた童女については名を記していませんが記述の内容から「記」の阿加琉比売と同一人と考えられ「記紀」には下照比売の記述はなく難波に上陸して何故阿加琉比売が下照比売に変わるのか謎です。の摂陽群談の記述とは此の記述の事で「赤留比売神社とは、この社
なり」と記し住吉大社の末社と記していますが、この元禄年間には赤留比売社の名は忘れられ「三十歩社」として降雨の神として知られていたようです。現在住吉大社の第四宮には「息長帯比売(神功皇后)」が祀られていますが、6~7世紀頃に「神功皇后物語」が創作されるまでは「阿加流比売」が祀られ、「記紀」に「神功皇后物語」が挿入されると第四宮の祭神が「阿加流比売」から「神功皇后」に入れ替わったという説もありますが真偽を確かめる史料はありません。
12代 景行天皇期(71~130)の息長始祖系譜
渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん) 伝景行天皇陵
景行天皇和風諡号 「記」 大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)
         「書紀」 大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)
  「記」景行天皇記述
「記」は景行天皇の后妃と皇子女の記述から、天皇は吉備臣等(きびのおみら)が祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)針間伊那?能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)に娶(めあ)いて、生みませろ御子、櫛角別王(くしつのわけのみこ)、大碓命(おほうすのみこと)、小碓命(をうすのみこと)亦の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)、神櫛命(かむくしのみこ)の五柱。また、八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)の女、八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)に娶(めと)ひて生まれまする御子、若帯日子命(わかたらしひこのみこと/13成務天皇)、五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)、押別命(おしわけのみこと)、五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)の四柱。また、妾(みめ)の子、豊戸別王(とよとわけのみこ)、沼代郎女(ぬしろのいらつめ)、また妾の子、沼名木朗女(ぬなきのいらつめ)、香余理比売命(かよりひめのみこと)、若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ)、吉備兄日子王(きびのえひこのみこと)、高木比売命(たかきひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)。また、日向之美波迦斯?(ひむかのみはかしびめ)に娶ひて生みませる御子、豊国別王(とよくにわけのみこ)また、伊那?能大郎女の弟(おと)、伊那?能若郎女(わかいらつめ)に娶ひて生みませる御子、真若王(まわかのみこ)日子人之大兄王(ひこひとのおおえのみこ)また、倭建(ヤマトタケルノミコト)の曾孫、須売伊呂大中日子(すめいろおおなかつひこ)の女、詞具漏比売(かぐろひめ)に娶ひて生みませる御子、大枝王(おおえのみこ)。およそ此の天皇の御子達、録(しる)せるは廿一柱の王(みこ)入れ記(しる)さぬ五十九の王、并(あわ)せて八十柱の王の中に、若帯日子命(わかたらしひこのみこと)と倭建命(ヤマトタケルノミコト)、また五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)、此の三柱の王は太子(ひつぎのみこ)の名を負(お)ふ。其れより余(ほか)七十七柱の王は悉
(ことごと)
く国々の国造(くにのみやつこ)、またわけと稲置(いなき)、県主(あがたぬし)に別(わけ)賜ふ。
「記」は「后妃と皇子女」「倭建命(やまとたけのみこと)の西征・東征」「白鳥の陵」「倭建命の系譜」の四話が記されます。 此の大帯日子天皇(おほたらしひこのすめらみこと)、御年百三十七歳。御陵は山の辺の道の上に在り。
  「書紀」景行天皇記述
「書紀」卷第七は大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)と稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)の二代を記します。大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと/景行天皇)は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に立ちて皇太子と為(な)りたまふ。時に年二十一。 
        この年令、崩御の時106歳と記されるが矛盾があります。
景行天皇期の記述は「記紀」の間に大きな相違があり、「書紀」では熊襲討伐・国造・県主を設置した等、地方平定事業を天皇、自ら行った記述や12年7月条から19年条にかけて天皇の九州巡幸と熊襲征討の記述が比較的詳細に述べられているが、「記」は「后妃と皇子女」「倭建命(やまとたけのみこと)の西征・東征」「白鳥の陵」「倭建命の系譜」の四話が記されます。 此処では「書紀」の記述を年代順に追ってみます。
二年春三月三日、播磨稲日大朗姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とする。后二柱の皇子を生まれます。第一をば大碓皇子(おほうすのみこ)、第二をば小碓尊(をうすのみこと)と曰(まう)す。この二柱の皇子は一日に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生まれませり。この小碓尊(をうすのみこと)は、亦の名を日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と曰(まう)す。幼くして雄略(をを)しき気有(いきま)します。壮(をとこざかり)に及(いた)りて容貌魁偉(みかほすぐれたたは)し。身長一丈、力能(ちからよ)く鼎(かなえ)を扛(あ)げたまふ。一書に曰わく、皇后、三柱の男(ひこみこ)を生まれます。其の第三の皇子を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と曰(まう)す。
四年春二月十一日条、天皇の男女(ひこみこ・ひめみこ)前後併せて八十の子まします。然るに、日本武尊(やまとたけるのみこと)と稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)と五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)とを除きての外、七十余の子は皆国郡(みなくにぐに)に封(ことよ)させて各々(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。
十二年秋七月条、熊襲反(そむ)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。
八月十五日条、天皇、熊襲討伐のため筑紫に幸(いでま)す。
 十一月五日条、日向国に到りて、行宮(かりみや)を建てて居(ま)します。是を高屋宮と謂(まう)す。
十三夏五月年条、(ふつく)に襲国(そのくに)を平(む)けつ。因りて高屋宮に居しますこと、已に六年なり。
十九年秋九月二十日条、天皇、日向より帰りたまふ。
二十七年秋八月条、熊襲亦反(そむ)きて辺境を侵すこと止まず。
二十七年冬十月十三日条、日本武尊を遣わして、熊襲を撃たしむ。時に年十六。
 二年三月条ではこの年日本武尊が生まれたと記す。二十七年に日本武尊十六歳とすると景行十一年生まれとなる。
二十八年春二月条、日本武尊、天皇に熊襲を平(む)けたる状(かたち)を奏上。
四十年夏六月条、東の夷多(ひなさは)に叛(そむ)きて、辺境騒ぎ動(とよ)む。
東の夷多(ひなさは)所在不明。胆沢町(いさわちょう)岩手県南部の胆沢郡に属していた町のことか胆沢城築城に由来するという説などがあります。 ?
四十年冬十月二日条、日本武尊、蝦夷討伐に出立する。途中伊勢神宮参拝。叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)が草薙剣を日本武尊に授ける。
日本武尊、蝦夷征討の帰途、尾張氏の女(むすめ)宮簀媛(みやすひめ)を娶(めと)り留まる。胆吹山(いぶきやま)の荒ぶる神有るを聞きて退治にゆき負傷し、其の傷が原因で能褒野(のぼの)にて崩(かむさ)りましぬ。時に年三十。
天皇が日本武尊の死を悼み寝味甘(みものたてまつらむことあぢあひあま)からず。昼夜喉咽(ひるよるむせ)びて、泣き悲しみたまひて……伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化(な)りたまひて陵より出て、倭国(やまとのくに)を指して飛び琴弾原(ことひきのはら)に停(とどま)れり。依りて其の処に陵を造る。白鳥、更に飛びて河内に到りて旧市邑(ふるいちむら)に留まる。亦其の処に陵を造る。この三つの陵を号(なず)けて、白鳥陵と云う。是歳(このとし)、天皇践祚(すめらみことあまつひつぎしろしめしての)四十三年なり。
日本武尊の死去年月日は記されていないが記述の内容から景行43年と推測されるが、27年10月条に年16とあるので是が正しいとするなら43年の日本武尊の年令は32歳となる。
五十二年夏五月四日条、皇后播磨大郎姫(はりまのおほいらつめ)(かむさ)りましぬ。
同年秋七月七日条、八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)を立てて皇后とする。
五十八年春二月十一日条、天皇、近江国に幸(いでま)して、志賀に居(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三年。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。
六十年冬十一月七日条、天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百六歳。
「書紀」景行天皇年令の矛盾 天皇崩御時の年令106歳ならば、即位時は47歳となり、立太子した垂仁37年には未だ生まれていないことになります。垂仁天皇期冒頭に「大足彦忍代別天皇(景行天皇)」は、垂仁天皇の37年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年21。」とあるが、立太子時21歳ならば即位時84歳。崩御時は143歳となります。
伝景行天皇の高穴穂宮跡 右の伝纏向日代宮跡説明板 伝景行天皇纏向日代宮跡
 「記紀」に見る「ヤマトタケル命」
「記」によると天皇、三野(みの/美濃)の国造(くにのみやつこ)が祖、大根王の女(むすめ)、兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)二人の嬢子(おとめ)、其の容姿麗美(かたちうるは)しと聞こしめし、大碓命を遣わし喚(め)しあげ
たまふ。大碓命は召し上げずして己自(おのれみずか)ら二人の嬢子(おとめ)(ま)き、更に他(あた)し女人(をみな)を求め、天皇の求められた嬢子(おとめ)と詐(いつは)り貢上(たてまつ)る。是に天皇其の他(あた)し女(をみな)なることを知(し)らめて、恒(つね)に長き恨みを経(へ)しめ、また婚(ま)きたまはずて、恨みたまはずて。惚(なや)みたまふ。大碓命、兄比売(えひめ)に娶(めと)ひて生める子、押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのみこ)此は三野の宇泥?和和気(うねすわけ)が祖。また弟比売(おとひめ)に娶(めと)ひて生める子、押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのみこ)。此は牟冝都君(むげつのきみ)等が祖。
天皇が小碓命(をうすのみこと)に「どうしたことか、お前の兄は朝夕の食事に出てこない、お前がいって出て来る様に諭せ」と命じる。しかし五日立っても姿を見せないので、再度、小碓命に ただすと「早朝に厠(かはや)へ入る所を待ちかまえて握り掴んで手足をもぎとり薦(こも)に包んでなげ捨てました」と答えた為、天皇は小碓命の建(たけ)く荒き情(こころ)を惶(おそ)りて疎(うと)んじられ西の熊襲征討を命じる征討後、帰路に出雲国のまつろはぬ出雲建(いずもたける)をも征討し大和へ帰還する。天皇はその勇武を恐れてか再び東方十二道の荒ぶる神や従わない者どもの征討を命じる。休む間もなく、再び父天皇の命で今度は「東方十二道の荒ぶる神とまつろはぬ人等を言向(ことむ)け和平(やは)せ」との命で東征に向かう途次、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣(くさなぎのつるぎ)と御?(みふくろ)を授かった。「もし急(には)かなる事あらば?(こ)の?(ふくろ)の口を解きたまへ」とのりたまふ。相模国(さがみのくに/神奈川県)で賊の計略で、窮地におちいるが、叔母倭姫(やまとひめ)から授かった草薙劒で危うく難を逃れる。東征の帰途、霊力のある草薙劒を持たず伊吹の山神を討ち取りに出かけるが、山中で白猪(いろゐ)となって出現した山神が大氷雨を降らし、その氷雨と山神の毒気に当てられたヤマトタケルはヤマトへの帰途、伊勢国の能褒野(のぼの)で力尽き不慮の死を遂げるという悲劇的な英雄物語になっています。  草那芸劒(くさなぎのつるぎ)とは倭建命が相模国で賊の計略で草原に火を放たれ折り草を薙いで難を逃れた事から名付けられた劒で、元はスサノヲが八岐大蛇を退治した時に大蛇の尻尾から出た劒で天照大御神に献上し、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が天降る時に天照大御神が八尺の勾玉(やさかのまがたま)・鏡・劒の三種を与えたと云う。この時点で草那芸劒(くさなぎのつるぎ)と称するのは違和感がある。
右は「書紀」景行天皇の熊襲討伐の記述、熊襲梟帥(くまそたける)の二人の娘を懐柔して姉妹の姉に父殺しをさせた後、その罪を責め姉を断罪し、妹を火国造(ひのくにのみやつこ)に任ずると云う不条理なことを天皇が行った記述する。景行天皇期の記述は「記紀」の間に大きな相違があり、「書紀」では熊襲討伐・国造・県主を設置した等、地方平定事業を天皇、自ら行った記述や12年7月条から19年条にかけて天皇の九州巡幸と熊襲征討の記述が比較的詳細に述べられていますが、

 
羽曳野市 白鳥陵 (前の山古墳) 亀山市 白鳥陵 御所市 白鳥陵
三重県亀山市の白鳥陵、亀山市にある能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は前方後円墳で、実際の被葬者は不明ですが、宮内庁により「能褒野墓」として日本武尊の墓に治定されています。築造時期は4世紀末(古墳時代中期初頭)と推定されています。日本武尊の墓とするには年代に無理があります。
奈良県御所市の白鳥陵、「書紀」によれば白鳥となって能褒野陵から飛び立ち、大和国琴弾原(ことびきはら/奈良県御所市)にとどまり、そこに陵を造った


羽曳野市軽里にある白鳥陵、正式名は軽里大塚古墳(かるさとおほつかこふん)「記」は能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、そこに河内の白鳥陵を造ったと記し大和の白鳥陵の記述は無く、「書紀」によれば白鳥となって能褒野陵から飛び立ち、大和国琴弾原(ことびきはら/奈良県御所市)にとどまり、そこに陵を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑(ふるいちむら)にいき留まったので、そこにも陵を造ったと記しています。被葬者は不明で築造時期は五世紀後半と推定されています。やはり日本武尊を被葬者にするには無理があります。 ●「書紀」16仁徳天皇六十年冬十月条、白鳥陵の墓守目杵(めき/人名か?)忽ち白鹿に化りて走(に)ぐ。天皇、詔(みことのり)して曰(のたま)はく「是の陵、本より空(むな)し。故(かれ)其の陵守を除(や)めむと欲(おもほ)して、甫(はじ)めて役丁(えよほろ)に差せり。今是の怪者(しるまし)を見るに、甚(はなは)だ櫂(かしこ)し。陵守をな動(うごか)しそ」とのたまふ。「是の陵、本より空(むな)し。」ということは、既に仁徳天皇は軽里大塚古墳が空陵(から墓)であることを認識していたことになります。
墓守(陵守) 陵墓を守る者。百姓を陵守にした場合徭役(ようえき/国家によって人民に強制された労働)を免じていた。
倭建命(やまとたけるのみこと)を祖とする息長系譜

景行期の「倭建命(やまとたけるのみこと)系譜」は「書紀」には無く「記」独自のものです。倭建命は12景行天皇と針間伊那?能大朗女(はりまのいなびのおおいらつめ)との間に生まれた皇子で小碓命(をうすのみこと)亦の名を倭男具那命(やまとをぐなのみこと)と云う。異母兄弟に13成務天皇(若帯日子命わかたらしひこのみこと)がいます。
「倭建命」の名は命(みこと)が熊襲討伐に行った時に熊襲建(くまそたける)が伐たれ死の直前に「西の方に吾を除きて建(たけ)く強き人無し。然(しか)あれども大倭(おおやまと)国に、吾にまして建(たけ)き男は坐(いま)しけり。吾
(やつかれ)、御名を献(たてまつ)らむ。今より以後、倭建(やまとたける)と称(たた)ふべし」と云われ、それ以後に倭建(やまとたける)を名乗ったと云う。この倭建命(やまとたけるのみこと)、11垂仁天皇の皇女布多遅能伊理?売命(ふたぢのいりびめのみこと)と婚姻して帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)が生まれます。また弟橘比売との間に若建王(わかたけのみこ)が生まれ、次に布多遅比売(ふたぢひめ)との間に稲依別王(いなよりわけのみこ)、次に大吉備建比売(おおきびたけひめ)との間に建貝児命(たけかいこのみこ)が生まれ、次に玖玖
麻毛理比売(くくもりひめ)との間に足鏡別王(あしかがみわけのみこ)が生まれ、また一妻(あるみめ/名不祥)との間に息長田別王(おきながたわけのみこ)が生まれ、この倭建命の御子達併せて六柱。「記」の息長系譜では息長田別王の系譜が息長本流の系譜となりますが矛盾と謎が多く系譜の信憑性が問われます。
9開化天皇
(子)初代 御真木入日子印恵命(10崇神天皇)  日子坐王
比古由牟須美命
(孫)2代 山代大筒木真若王  比古意須王  伊理泥王
丹波比古多多須美知能宇斯王
(曾孫)3代 迦邇米雷王
(玄孫)4代 息長宿禰王
5代 息長帯比売  虚空津比売  息長日子王
12景行天皇
(子)初代 小碓命 弟橘比売 布多遅能伊理?
若帯日子命(13成務天皇)
(孫)2代 14仲哀天皇 息長帯比売(14仲哀天皇皇后) 
息長田別王 大中比売 香坂王 忍熊王 若建王  
(曾孫)3代 15応神天皇 杙俣長日子王 ?売伊呂大中日子王
(玄孫)4代 息長真若中比売 飯野真黒比売 弟比売 迦具漏比売
若沼毛二俣王
13成務天皇
14仲哀天皇 息長帯比売 
(子)初代 香坂王 忍熊王 品陀別王(15応神天皇)
15応神天皇 息長真若中姫(応神天皇妃)
(子)初代 若沼毛二俣王 弟比売(百師木伊呂弁/若沼毛二俣王と異世代婚)
(孫)2代 大朗子(意富々杼王) 忍坂之大中津比売 田井之中比売 田宮之中比売 藤原之琴節朗女 取売王 沙禰王
上左は「記」の倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜です。この系譜では縦の繋がりである父子関係は分かりますが倭建命(開化期)に始まる子・孫・玄孫(やしゃご)の横関係が分かり難いと思いますので上右に分類してみました。古代史の考察で困るのは「記紀」の紀年問題です。「書紀」は全て編年編集なので各天皇の即位元年から崩御の年まで記されていますが、









上は「記」に記される景行天皇の御子達で五代の孫までが全て開化期に記されており、「書紀」の紀年で見ますと四代目に当たる人達の時代は15応神天皇のじだいになりますが九代開化から15応神即位までの六代の天皇の治世期間は四百十八年になり御子達の年令に矛盾が生じます。一応、子・孫・玄孫に区分けしたのがこの表です。



左の倭建命の系譜には12景行天皇の皇子小碓命(倭建命)の子孫関係が分かりづらいので右に分別してみました
※小碓命(倭男具名命)を倭建命(やまとたけるのみこと)名で記します。 
倭建命と布多遅能伊理?売との間に帯中津日子(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)が生まれます。相模灘で入水した弟橘比売との間に若建王が生まれ、次に名不祥の一妻との間に息長田別王が生まれ、次に近淡海(ちかつあふみ)の安国造(やすのくにのみやつこ)が祖、意富多和気(おほたむわけ)の女(むすめ)布多遅比売との間に
稲依別王(いなよりわけのみこ)、また吉備の臣建日子王が妹、大吉備建比売(おおきびたけひめ)との間に建貝児王(たけかいこのみこ)が生まれ、次に山代(やましろ)の玖々麻毛理比売(くくまもりひめ)との間に足鏡別王(あしかがみわけのみこ)が生まれ、倭建命の御子達六柱。
12仲哀天皇は息長宿禰王の女(むすめ)息長帯比売を皇后に迎えて品陀別王(15応神天皇)が生まれます。これに先達、天皇、大中比売に娶(めと)ひて香坂王・忍熊王が生まれています。息長別王は婚姻者不祥で杙俣長日子王が生まれ、この王も婚姻者不祥で飯野真黒比売・息長真若中比売・弟比売(亦の名百師木伊呂弁(ももしきいろべ))
の三柱の子が生まれています。飯野真黒比売は若建王と異世代婚して?売伊呂大中日子王を生み、此の王淡海の柴野入杼(あふみのしばのいりき)の女(むすめ)柴野比売と婚姻して迦具漏比売を生みます。この迦具漏比売
が12景行天皇とあり得ない異世代婚して大枝王を生んだと記されています。息長真若中比売も15応神天皇と異世代婚して若沼毛二俣王を生み、此の王、叔母の弟比売(亦の名百師木伊呂弁(ももしきいろべ)と異世代婚して大朗子(意富々杼王)・忍坂之大中津比売(19允恭天皇皇后)・田井之中比売・田宮之中比売・藤原之琴節朗女・取売王・沙禰王の七柱の子を生んでいます。
「記」の系譜によれば大朗子(意富々杼王)について「三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖」と記され、息長氏の本貫地と云われる近江国坂田郡の息長関連氏族の祖は大朗子(意富々杼王)
となる。この意富々杼王の父は15応神天皇で母は

伊理泥王の娘の名には「丹波」が付き「高材比売」
は「丹波の遠津臣」の娘と記され二代続けて丹波から妻女を迎えていますが、是についての説明は記されていませんので推測するしかありませんが私には合理的な解説が出来ません。
息長宿禰王は祖の日子坐王の四代の孫に当たり娘の帯比売は五代の孫になります。天皇の代では13
成務天皇期になりまが、書紀の紀年ではこの間五代三百四十八年になります故一代の天皇期に息長氏族も一代を充てました。
因みに息長帯比売の没年を「書紀」は神功摂政六十九年、年百歳と記しますので逆算すると帯比売の生誕は書紀紀年の成務天皇三十九年(西暦169)にな

ります。夫君の仲哀天皇も崩御の年の仲哀九年(200)年五十二歳はから逆算すると生誕日は成務十八年(148)になり天皇と皇后の年令差は二十一歳になります。天皇、息長帯比売を后に迎えた仲哀二年には四十五歳で当時としては老年の域です。帯比売の立后は二十四歳となります。
11垂仁期には息長帯比売の母方の祖である新羅の王子と云う天之日矛(アメノヒホコ)の渡来記述が「書紀」にあります。このヒホコの渡来から五代の孫、田遅摩毛理(たぢまもり)までを全て垂仁期に集約して記述しているのも不自然です。またアメノヒホコ伝承も「記紀」で大きな相違のあり、何処までが史実で、何処からが創作物語なのか分別するのが大変難しく、とても合理的な説明が出来ません。左図でも日子坐王から息長帯比売までの息長系譜に登場する人物十一人中に息長姓の人物は三人のみである事にも疑問を抱きます。倭建命を祖とする息長系譜の一妻・息長田別王・杙俣長日子王と三代続きで婚姻者の名前が不明と云うのも不自然過ぎます。
異世代婚・息長系譜に他姓の者が多すぎる・書紀紀年の不自然・名前不詳等、他氏族と比較して疑問点が山積するのは何故か   





 「記」の記述に見る倭建命の生涯
天皇、詔りたまはく「西の方に熊襲建(くまそたける)二人有り。是れ伏(まつろ)はず、礼无(あやな)き人等ぞ。故其の人等を取れ」とのりたまひて、遣(つか)わしたまふ。ここでは倭建命の凶暴とも想える行動が記されている。かくして倭建命の熊襲(くまそ)討伐の為西征の帰途、出雲国に立ち寄り出雲建(いずもたける)も討伐し大和に帰還した。天皇はその勇武を恐れてか「東の方、十二道の荒ぶる神とまつろはぬ人等(ものぞも)を言向(ことむ)け和平(やは)せ」との天皇の命でこんどは、東征に旅立つ途次に伊勢神宮に立ち寄り叔母の倭比売命(やまとひめ)から草那芸劒(くさなぎのつるぎ)と御?(みふくろ)を賜り「もし急(には)かなる事有らば此の?の口を解きたまへ」とのりたまふ。


またヤマトタケルの生涯も「記」は父景行の命に従い南九州の熊襲征討に行き帰途、出雲へ廻り出雲遣(いずもたける)を討ち大和に帰還。休む間もなく、再び父王の命で今度は「東方十二道の荒ぶる神とまつろはぬ人等を言向(ことむ)け和平(やは)せ」との命で東征に旅立ち相模国(さがみのくに/神奈川県)で賊の計略により窮地におちいるが、叔母倭姫(やまとひめ)から授かった劒で危うく難を逃れた為、此の時以後この劒を「草薙劒」と云う。東征の帰途、霊力のある草薙劒を持たず伊吹の山神を討ち取りに出かけるが、霊力のある草薙劒を身辺から離したため不慮の死を遂げるという悲劇的な英雄伝承になっています。
「書紀」では景行十二年、秋七月に熊襲反(くまそそむき)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。とあり天皇自ら熊襲討伐に向かう。

  
左図は「記」の景行天皇関連系譜。倭建命(やまとたけるのみこと)を祖とする息長系譜が右に記載の倭建命と一妻(あるみめ/名不祥)との間に生まれた息長田別王(おきながたわけのみこ)此の王、婚姻者不祥で杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)を生む。此の王も婚姻者不祥で飯野真黒比売(いいのまぐろひめ)・息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)・弟比売(おとひめ)と三柱の御子を生む。
ヤマトタケル命には左系譜の様に布多遅能伊理?売命の他五人の妃が居ますが名が不祥というのは息長田別王の母のみです。
更に子の田別王と、その子杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)と三代続いて婚姻者の名が不祥と云うのは不自然過ぎます。また、日子坐王系息長系譜と共に息長系譜の中に他姓が入るのも他の氏族には見られない現象です。しかも祖母や母の素性の解らない息長真若中比売が15応神天皇の妃になり若沼毛二俣王(わかぬけのふたまたのみこ)を生んでいます。また田別王の孫娘の弟比売(おとひめ/亦の名モモシキイロベ)は姉の子、若沼毛二俣王と婚姻(異世代婚)して七人の御子を生んでいます。開化期の日子坐王系と景行期のヤマトタケル系息長系譜が合体します。このヤマトタケル命を祖とする系譜でも息長姓の人物は二名のみでこの様な事例は他では見られません。何故息長氏には他姓の人物や婚姻者不祥があるのか実に不自然で、この様な息長系譜に疑念を抱かざるを得ません。しかも「書紀」には仲哀二年春正月十一日条に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后とす。として突如、息長足姫尊を登場させます、此処まで息長氏に関する記述は全くありません。 タケル系息長系譜が合体します。このヤマトタケル命ありません。
  「書紀」景行天皇記述
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと/景行天皇)は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。
丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に立ちて皇太子と為(な)りたまふ。時に年二十一。 この年令、崩御の時106歳と記されるが矛盾がある。


二年春三月三日、播磨稲日大朗姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とする。后二柱の皇子を生まれます。第一をば大碓皇子(おほうすのみこ)、第二をば小碓尊(をうすのみこと/日本武尊)と曰(まう)す。-以下略-
天皇の男女(ひこみこひめみこ)八十(やそはしら)の子(みこ)まします。然るに日本武尊(やまとたけるのみこと)
稚足彦皇子(わかたらしひこのみこ)と五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)とを除きて外(ほか)、七十余の子は
皆国郡(くにぐに)に封(ことよ)させて、各(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。故(かれ)今の時に当たりて、諸国の別(わけ)と謂えるは即ちその別王(わけのみこ)の苗裔(みあなすえ)なり。苗裔(みあなすえ)とは子孫のこと
ヤマトタケル命の西征 熊襲討伐
「東の方十二道の荒ぶる神とまつろはぬ人達を言向(ことむ)け和平せ」との天皇の命で東征に赴く。途次 伊勢の大御神宮に参入(まいり)其の姨(おば)倭比売命(やまとひめのみこと)から「もし急(には)かなる事あらばこの袋の口を解きたまへ」と草薙劒を賜る。故(かれ)尾張国に到り国造(くにのみやつこ)が祖、美夜受比売(みやずひめ)の家に入り坐(ま)す。婚(ま)かむと思ほししかども、また還(かへ)り上(のぼ)らむ時に婚(ま)かむと思ほし、期(ちぎ)り定めて東の国に幸(い)でまし。相模国で其の国造(くにのみやつこ)に欺(あざむ)かれ草原に入った時に火を放たれた時、倭比売の給(たま)へる袋の口を開けて見たまへば火打ちあり、まづ其の刀で草を刈りはらい、其の火打ちで火を打ち、向かひ火を付けて焼き退(そ)け、還(かえ)り出て其の国造等(ども)を切り滅ぼし火をつけ焼きたまふ。故今に焼遺(やきつ/焼津)と云う。其処より走水(はしりみず/浦賀水道)の海を渡る時に、其の渡りの神、浪を興し、船を廻(めぐ)らし、進み渡らず。尓(しか)して其の后(きさき)名は弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)白(まを)さく「妾(やつこ)、御子に易(か)はりて海の中に入らむ。御子は遺(つか)はさえし政遂(まつりごとと)げ覆奏(かえりごとまを)すべし」とまをす。海に入らむとする時に菅畳(すがたたみ)八重・皮畳八重・?畳(きぬたたみ)八重を以ち波の上に敷きて、其の上に下り坐(いま)す。是に其の暴(あら)き浪自(なみおの)づから伏し、御船え進みき。

迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)はヤマトタケルの玄孫にあたり天皇との婚姻などあり得ないことです。 息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)、弟息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱。そして若建王が飯野真黒比売と異世代婚して売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)を生み、此の王、淡海(あふみ)の柴野入杵(しばのいりき)の娘、柴野比売(しばのひめ)と婚姻、迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を生む。12代景行天皇が此の迦具漏比売命とあり得ない異世代婚して大江王(おおえのみこ)が生まれ、此の王、庶妹銀王(ままいもしろがねのみこ)と婚姻、大名方王(おほながたのみこ)、大中比売(おほなかつひめ)の二柱を生む。この大中比売は14代仲哀天皇の妃となり香坂王(かごさかのみこ)、忍
熊王(おしくまのみこ)を生む。この大帯日子天皇(12代景行天皇)、御年百三十七歳。御陵は山の辺の道の上に在り

大中比売(おほなかつひめ)14代仲哀天皇に娶ひて香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)を生んでいます。この二王が後年息長帯比売(神功皇后)が幼少の品陀和気命(ほむだわけのみこと/15応神天皇)を連れて新羅征討から凱旋するのを瀬戸内に迎え撃つことになります。
庶妹銀王
(ままいも、しろがねのみこ)の記述ですが、庶妹とは異母妹、腹違いの妹を指すと思われますが景行期の記述で銀王
が登場するのは此の此処のみで銀王の庶妹に該当する人物が不明です。

一妻とは名不祥だが生まれた子が何故息長姓になるのか。そして息長田別王も婚姻者不詳で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、ここでは息長姓の父と名不祥の婚姻者との間に生まれた子が杙俣姓で、この王もやはり婚姻者不詳で息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を生んでいますが、何代にも渡り婚姻者の名も記さず、息長田別王以下五名の息長系譜に連なる人物が記載されますが息長姓を持つ人は2名のみです。杙俣長日子王の娘、息長真若中比売が15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)へと繋がり息長系譜の本流となるのですが応神朝に到る迄の息長系譜については謎と矛盾が多く合理的な説明が出来ません。







迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)はヤマトタケルの玄孫にあたり天皇との婚姻などあり得ない。
※大中比売(おほなかつひめ)14代仲哀天皇に娶ひて香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)を生んでいます。この二王が後年息長帯比売(神功皇后)が幼少の品陀和気命(ほむだわけのみこと/15応神天皇)を連れて新羅征討から凱旋するのを瀬戸内に迎え撃つことになります。
庶妹銀王(ままいも、しろがねのみこ)の記述ですが、庶妹とは異母妹、腹違いの妹を指すと思われますが景行期の記述で銀王
が登場するのは此の此処のみで銀王の庶妹に該当する人物が不明です。

一妻とは名不祥だが生まれた子が何故息長姓になるのか。そして息長田別王も婚姻者不詳で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、ここでは息長姓の父と名不祥の婚姻者との間に生まれた子が杙俣姓で、この王もやはり婚姻者不詳で息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を生んでいますが、何代にも渡り婚姻者の名も記さず、息長田別王以下五名の息長系譜に連なる人物が記載されますが息長姓を持つ人は2名のみです。杙俣長日子王の娘、息長真若中比売が15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)へと繋がり息長系譜の本流となるのですが応神朝に到る迄の息長系譜については謎と矛盾が多く合理的な説明が出来ません。


迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)はヤマトタケルの玄孫にあたり天皇との婚姻などあり得ない。
※大中比売(おほなかつひめ)14代仲哀天皇に娶ひて香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)を生んでいます。この二王が後年息長帯比売(神功皇后)が幼少の品陀和気命(ほむだわけのみこと/15応神天皇)を連れて新羅征討から凱旋するのを瀬戸内に迎え撃つことになります。
庶妹銀王
(ままいも、しろがねのみこ)の記述ですが、庶妹とは異母妹、腹違いの妹を指すと思われますが景行期の記述で銀王
が登場するのは此の此処のみで銀王の庶妹に該当する人物が不明です。

一妻とは名不祥だが生まれた子が何故息長姓になるのか。そして息長田別王も婚姻者不詳で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、ここでは息長姓の父と名不祥の婚姻者との間に生まれた子が杙俣姓で、この王もやはり婚姻者不詳で息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を生んでいますが、何代にも渡り婚姻者の名も記さず、息長田別王以下五名の息長系譜に連なる人物が記載されますが息長姓を持つ人は2名のみです。杙俣長日子王の娘、息長真若中比売が15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)へと繋がり息長系譜の本流となるのですが応神朝に到る迄の息長系譜については謎と矛盾が多く合理的な説明が出来ません。
迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)はヤマトタケルの玄孫にあたり天皇との婚姻などあり得ない。
※大中比売(おほなかつひめ)14代仲哀天皇に娶ひて香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)を生んでいます。この二王が後年息長帯比売(神功皇后)が幼少の品陀和気命(ほむだわけのみこと/15応神天皇)を連れて新羅征討から凱旋するのを瀬戸内に迎え撃つことになります。
庶妹銀王
(ままいも、しろがねのみこ)の記述ですが、庶妹とは異母妹、腹違いの妹を指すと思われますが景行期の記述で銀王
が登場するのは此の此処のみで銀王の庶妹に該当する人物が不明です。

一妻とは名不祥だが生まれた子が何故息長姓になるのか。そして息長田別王も婚姻者不詳で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、ここでは息長姓の父と名不祥の婚姻者との間に生まれた子が杙俣姓で、この王もやはり婚姻者不詳で息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を生んでいますが、何代にも渡り婚姻者の名も記さず、息長田別王以下五名の息長系譜に連なる人物が記載されますが息長姓を持つ人は2名のみです。杙俣長日子王の娘、息長真若中比売が15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)へと繋がり息長系譜の本流となるのですが応神朝に到る迄の息長系譜については謎と矛盾が多く合理的な説明が出来ません。

左図は「書紀」から抽出したヤマトタケルを祖とする息長系譜ですが、なぜか推古朝以前の「記紀」の記述は随所に大きく相違します。「書紀」は大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。
丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年二十一。
この立太子年令、天皇崩御年令壱百六歳と矛盾します
二年の春三月三日に、播磨稲日大郎姫(は
りまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とす。皇后二柱の男(ひこみこ)を生まれます。第一をば大碓命(おほうすのみこと)、第二をば小碓命(をうすのみこと)と曰(まう)す。一書に云はく皇后三柱の男(ひこみこ)を生まれます。其の第三を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と曰(まう)す。其の大碓皇子・小碓尊は一日に同じ胞(え)にして、双(ふたご)に生まれませり。天皇異(あやし)びたまひて、則ち碓(うす)に誥(たけ)びたまひき。因りて、其の二柱の王を号(なづ)けて、大碓・小碓とのたまふ。是の小碓尊(をうすのみこと)は、亦の名は日本童男(やまとをぐな)
また日本武尊(やまとたけるのみこと)と曰(もう)(わか)くして雄略(をを)しき気有(いきま)します。壮(をとこさかり)に及(いた)りて容貌魁偉(みかほすぐれたたは)し。身長一丈(みたけひとつえ)、力能(みちからよ)く鼎(かなへ)を扛(あ)げたまふ。
四年春二月、天皇、八坂入媛(やさかのいりひめ)を喚(め)して妃(みめ)として七男六女を生めり。第一を稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)、次が五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)以下略
この天皇の男(ひこみこ)、女(ひめみこ)、併(あわ)せて八十柱の子(みこ)まします。日本武尊、稚足彦天皇、五百城入彦皇子を除き残り七十余の御子は皆国郡(みなくにぐに)に封(ことよ)させて各(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。
十二年秋七月条、熊襲反(くまそそむき)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。天皇、親征の為、筑紫に幸(いでま)す。
十九年秋九月二十日条、天皇、日向より帰りたまふ。
二十七年秋八月条、熊襲亦反(そむ)きて辺境を侵すこと止まず。日本武尊を遣わして、熊襲を撃たしむ。時に年十六。
二十八年春二月条、日本武尊、天皇に熊襲を平(む)けたる状(かたち)を奏上。
四十年夏六月条、東の蝦夷(えみし)叛きて、辺境騒ぎ動(とよ)む。屡々人民(しばしばおほみたから)を略(かす)む四十年冬十月条、日本武尊蝦夷討伐発路(えみしとうばつにみちだち)したまふ。途中、伊勢神宮を参拝。倭姫命(やまとひめのみこと)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を日本武尊に授けてたまふ。
日本武尊、蝦夷の叛乱を平らげ帰途、近江の胆吹山(いぶきやま)の荒ぶる神を鎮める為、胆吹山に向かうも日本武尊、病に倒れ伊勢の能褒野(のぼの)で崩(かむさり)りましぬ。時に年三十。 
天皇、日本武尊の崩(かむさり)りましぬ事、聞(きこ)しめて寝(みねますこと)席安(みまとやす)からむや。食味甘(みものたてまつらむことあぢはひあま)からず。昼夜喉咽(ひるよるむせ)びて、泣き悲しびたまひて標?(みむねう)
ちてまふ。我が子小碓王、昔熊襲の叛きし……伊勢国の能褒野(のぼの)陵に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化(な)りてまひて、陵より出て倭国を指して飛びたまふ。則ち倭の琴弾原(ことひきのはらに)に停(とどま)れり。仍(よ)りて其の処に陵を造る。白鳥、更に飛びて河内に至りて、古市邑に留まる。亦其の処に陵を造る。時の人、是の三つの陵を号(なづ)けて、白鳥陵(しらとりのみささぎ)と云ふ。是歳、天皇践祚(すめらみことあまつひつぎしろしめしての)四十三年なり。
五十二年夏五月四日条、皇后播磨大郎姫薨(かむさ)りましぬ。
同年秋七月七日条、八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)を立てて皇后とする。
五十八年春二月十一日条、天皇、近江国に幸(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三年。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。
六十年冬十一月七日条、天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百六歳。  御陵の記述なし。
日本武尊の没年不明四十年冬十月出征とあるので死去は四十三年が正しいか?
景行二十七年冬十月条日本武尊の年十六とあるので四十三年には三十二歳。
垂仁三十七年(西暦8)春正月条 大足彦尊(景行)を立てて、皇太子としたまふ。
景行元年(西暦71)秋七月十一日条 太子、即天皇位(ひつぎのみこ、あまつひつぎしろしめす)因りて元(はじめ)を改(あらた)む。是年(ことし)、太歳辛未(かのとひつじ)。  ※改元
景行天皇年令の矛盾。景行天皇崩御を「書紀」記載の景行60年(西暦130)で年106歳とすると、即位時の年令は四十七歳となり、立太子の垂仁三十七年には未だ生まれていない。また垂仁三十七年の立太子時の年令二十一では即位時八十四歳、崩御は百四十三歳になります。
古代息長系譜の形成者について
13代 成務天皇期(131~190) 弥生時代
佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)伝成務天皇陵
成務天皇和風諡号 「記」 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
        「書紀」 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
「記」若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、近淡海(ちかつあふみ)の志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐(いま)して、天の下治らしめしき。此の天皇、穂積臣(ほつみのおみ)等が祖(おや)、建忍山垂根(たけおしやまたりね)が女(むすめ)、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)に娶(あ)ひて生みませる御子和訶奴気王(わかぬけのみこ)一柱。故(かれ)建内宿禰(たけのうちすくね)を大臣(おほおみ)として大国・小国の国造(くにのみやつこ)を定め賜ひ、また国々の堺と大県(おほあがた)・小県(をあがた)の県主(あがたぬし)を定め賜ふ。
天皇、御年、玖拾伍歳(九拾五歳)。乙卯(きのとう)の年三月十五日に崩(かむあが)りましぬ。御陵は、沙紀の多他那美(さきのたたなみ)に在(あ)り。    以上が「記」の成務期の全文です。
「書紀」成務天皇の記述は景行天皇の巻第七の卷末に簡潔な記述があるのみで、実在の疑われる天皇です。
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)は、大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)の第四子なり。母の后をば八坂入姫命(やさかのいりひめのみこと)と曰(まう)す。八坂入彦皇子
(やさかのいりひこのみこ)の女(むすめ)なり。大足彦天皇(景行天皇)の四十六年に、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。年二十四。
※成務六十年六月の条に崩御時の年百七歳と記されているので逆算すると立太子時の年令は三十三歳となる。
三年春正月条、武内宿禰(たけのうちすくね)を以(も)て、大臣(おほおみ)としたまふ。初め、天皇と武内宿禰と
同じ日に生まれませり。故(かれ)(こと)に寵(めぐ)みたまふこと有り。
五年秋九月条、諸国に令(のりごと)して、国郡(くにこおり)に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)
に稲置(いなき)を置(た)つ。並(ならび)に盾矛(たてほこ)を賜ひて表(しるし)とす。則(すなは)ち山河を隔(さか)ひて国県(くにあがた)を分(わか)ち、阡陌(たたさのみち よこさのみち)に隋(したが)ひて、邑里(むら)を定む。
因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこ)とす。山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰(い)ふ。
山の陰(きた)を背面(そとも)と曰(い)ふ。是を以て、百姓安(おほみたからやす)く居(す)みき。天下事無(あめのしたことな)し。
 ※この時期に、この様な行政区画の設定があったとは信じ難いです。 
四十八年春三月条、甥足仲彦尊(みをひたらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子としたまふ。
六十年夏六月十一日条、天皇崩(かむがり)りましぬ。時に年百七歳。 ※御陵についての記述無し。
※「記」では成務天皇と弟財郎女(おとたからのいらつめ)の間に和詞奴気王(わかぬけのみこが)一柱が生まれているが「書紀」では天皇に后妃は存在せず。天皇は生涯独身で過ごされた事になる。
※景行四十六年の成務立太子の時に二十四歳と記されているので、これが正しければ崩御は九十八歳になります。
※考古学者の中には在位年数や年令等が景行天皇に類似しており実在性に疑問を呈する方もおられるようです。
※ 佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)の実際の被葬者は不明ですが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されています。
「書紀」によると神功皇后(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)の狭城盾列後陵と間違えられた時期があり、843年(承和10年)、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されています。

「記」の14代仲哀天皇(192~200)と息長帯比売
岡ミサンザイ古墳 伝仲哀天皇陵
  仲哀天皇和風諡号 帯中日子命(たらしなかつひこのみこと)
    足仲日子尊  (上同)
左図
「書紀」仲哀天皇系譜
ヤマトタケル尊の第二子。母はフタヂノイリ姫。
(おくりな)は足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。容姿端正にして身長十尺、成務天皇四十八年に立太子。時に年三十一歳。成務四十八年は「書紀」紀年によると(西暦178・戊午)
「記」は天皇の事跡記述として[后妃と皇子女][天皇崩御と神託][神功皇后の新羅親征][応神天皇の聖誕][香坂王と忍熊王の反逆][気比大神][酒楽の歌]の七項で簡略に記述しています。
[后妃と皇子女]について此の天皇、大江王が女(むすめ)大中津比売命に娶ひて生みませる御子、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)の二柱。また息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)是れ太后(おほきさき)に娶ひて生まれませる御子品夜和気命(ほむやわけのみこと)次に大鞆和気命(おほともわけのみこと)またの名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)二柱。此の太子(ひつぎのみこ)の御名、大鞆和気命と負(お)ほせる所以(ゆえ)は、初め、生まれましし時に、鞆の如き完(とものごときしし)、御腕(みただむき)に生(な)りぬ。故(かれ)其の御名に着けまつる。是を以ち腹の中に坐(いま)して国を知りたまふ。
「書紀」では足仲彦天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子なり。母の皇后をば両道入姫命(ふたぢのいりひめのみこと)と曰(まう)す。活目入彦五十狭茅天皇(11垂仁天皇)の皇女なり。天皇、容姿端正(みかほきらぎら)し。身長十尺。稚足彦天皇(13成務天皇)の四十八年に、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。時に年三十一。稚足彦天皇、男無(ひこみこましまさず)。故(かれ)立ちて嗣(つぎ)としたまふ。
仲哀二年春正月十一日に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后とす。是より先に叔父、彦人大兄(ひこひとおほえ)が女(むすめ)大中姫(おほなかひめ)を娶(と)りて妃としたまふ。?坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生む。次に来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主(おやおほさかぬし)が女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶(と)りて誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。
二月六日、天皇、角鹿(つのが)に幸(いでま)す。笥飯宮(けひのみや)を建てて居(ま)はます。
三月十五日、天皇、南の国を巡行し紀伊國に到った時、熊襲、叛きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。天皇、熊襲を討たむと、紀伊の徳勤津(ところつ)より海路で穴戸(あなと)に幸(いでま)す。皇后に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「角鹿を発(た)ち穴戸にて逢ひたまへ」とのたまふ。
七月五日、皇后、豊浦津に泊まり、如意珠(にょいのたま)を海中より得る。
     ※如意珠 仏舎利から出たという宝玉で、これを持てば全ての願い事が叶うという。
八年春正月四日。筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の祖、五十迹(いとで)天皇の行(いでま)すを聞(うけたまわ)
りて、五百枝(いほえ)の賢木(さかき)
  


なります。逆算すると仲哀の生年は成務十七年(西暦147・丁亥)になります。仲哀の父ヤマトタケル尊の没年の年月日については記されていませんが景行四十年冬十月二日に東征に出発、七日に伊勢神宮に倭姫命(やまとひめのみこと)を訪ね草薙劒(くさなぎのつるぎ)を授かり東征を終え、帰途、「尾張の宮簀媛を娶りて淹(ひさ)しく留(とどま)りて月を踰(へ)ぬ。……」そして能褒野(のぼの)で没するまでを景行四十年の条に記しています。
「書紀」は尊の東征中の個々の事件を年時に記さず、東征開始を四十年(西暦110庚戌)、崩御を四十三年(西暦113癸丑)としています。仲哀の崩年が九年(西暦200庚辰)春二月六日に崩(かむあが)りましぬ。年五十二。と記されます。是で見ると仲哀は父の死後三十四年後のに生まれると云う矛盾が発生し実在が疑われます。

二月六日、天皇、角鹿(つぬが/敦賀)に幸(いでま)す。行宮(笥飯宮けひのみや)を建てて居(ま)します。
三月十五日、ここに皇后及び百寮(つかさつかさ)を留め、天皇二、三の卿大夫(まへつきみたち)と官人数百を伴い紀伊國の徳勤津宮(ところつみや)に居(ま)します。この時、熊襲叛きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。天皇、徳勤津宮より発(た)ちて海路穴門(あなと/山口県豊浦(とゆら))に幸(いでま)す。皇后に詔(みことのり)して「角鹿より発(た)ちたまひて穴門に逢ひたまへ」とのたまふ。??
秋九月五日、群臣に詔して、熊襲討伐を議(はか)らしめたまふ。時に神まして、皇后に託(かか)りて誨(をし)へまつりて曰(のたま)はく『天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂えたまふ。これ是、膂宍(そしし)の空国
(むなくに)ぞ。兵を挙げて伐つに足らむや。この国に愈(まさ)りて宝有る国、処女の眉引(おとめのまよびき)の如くにして、津に向へる国有り。眼炎(まかかやく)金・銀・彩色(うるわしきいろ)多に其の国に在り。是を??衾新羅国(たくふすましらぎのくに)と謂ふ。若(も)し能(よ)く吾を祭りたまはば曾(かつ)て刃を血らずして、其の国必ず自(おの)づから服(まつろいしたがい)ひなむ。また熊襲も為服(まつろ)いなむ。……』 天皇、神の言を聞(きこ)しめして、疑の情有(みこころま)します。高き丘に登りて遥かに大海を望るに、国も見えず。天皇、神に対(こた)へまつりて曰(のたま)はく、「朕(われ)、周望(みめぐら)すに、海のみ有りて国無し。豈(あに)、大虚(おほぞら)に国有らめや。誰ぞの神ぞ徒(いたづら)に朕を欺くや。復(また)、我が皇祖諸天皇等(みおやすめらみことたち)、尽(ことごとく)に神祇(あまつかみくにつかみ)を祭(いわいまつ)りたまふ。豈(あに)、遺(のこ)れる神有さむや」とのたまふ。時に神、亦皇后に託(かか)りて曰(のたま)はく、「天津水影(あまつみずかげ)の如く、押し伏せて我が見る国を、何ぞ国無しと謂(のたま)ひて、我が言を誹(そし)りたまふ。其れ汝王(いましみこと)、如此言(かくのたま)ひて、遂に信(う)けたまはずは、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎(はら)みませり。其の子獲(みこえ)たまふこと有らむ」とのたまふ。然(しか)るに、天皇、猶(なほ)し信(う)けたまはずして、強(あながち)に熊襲を撃ちたまふ。得勝(えか)ちたまはずして還(かえ)ります。
九年春二月五日、に天皇、忽(たちまち)に痛身(なや)みたまふこと有りて、明日(くるつひ)に、崩(かむがり)りましぬ。時に年五十二。即ち知りぬ、神の言(みこと)を用いたまはずして、早く崩(かむが)りましぬることを。
一に曰く、天皇、親ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩りましぬといふ。
おほよそ帯中津日子天皇、御年五拾弐歳。壬戌の年六月十一日崩(かむが)りましぬ。御陵は河内の恵賀の長江に在り
 栲衾(たくふすま) 楮こうぞなどの繊維で作った夜具。白いことから、「白」「新羅」にかかる。
  天津水影 天津は高天原の意、水に映る影の如く鮮明に自分が上から見下ろしているのに。
「記」では品夜和気命(ほむやわけのみこと)と記し、息長帯比売(おきながたらしひめ)の子とする。また大鞆和気命(品陀和気命
の二柱)の御子が生まれたと記す。「記紀」とも誉屋別皇子に着いての記述は無くその後の消息不明。

「記」では仲哀天皇の項に神功皇后の新羅親征・応神天皇の聖誕・香坂王、忍熊王の反逆・気比大神と仲哀天皇期と神功皇后期の全てが簡潔に語られています。此の天皇、穴戸の豊浦宮(あなとのとゆらみや)と筑紫の訶志比宮(つくしのかしひのみや)に坐(いま)して天の下治らしめしき。此の天皇、大江王(おおえのみこ)の女(むすめ)大中津比売(おおなかつひめ)に娶(めと)ひて香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)二柱の御子が生まれます。次に息長帯比売(おきながたらしひめ)に娶(めと)ひて生まれた御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おおともわけのみこと)、亦の名は品陀和気命(ほむだわけのみこと)二柱。此の太子の御名、大鞆和気命と負(お)ほせる所以(ゆえ)初め生まれし時に、鞆(とも)の如き完(しし)、御腕(みただむき)に生(な)りぬ。故(かれ)其の御名に着けまつる。是を以ち腹の中に坐(いま)して国を知りたまふ。
其の太后息長帯比売命は、当時神を帰(よ)せたまふ。天皇筑紫の詞志比宮(かしひのみや)に坐(いま)して熊曽国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴(みこと)を控え建内宿禰大臣(たけのうちすくねのおほおみ)沙庭(さにわ)に居、神の命(みこと)を請(こ)ふ。太后に帰(よ)りませる神、言教(ことをし)へ覚(さと)し詔(の)りたまはく、「西の方に国有り。金銀(くがねしろがね)を本(もと)とし目の輝く種々の珍しき宝、多(さは)に其の国に有り。吾今其の国を帰(よ)せ賜はむ」と託宣あり。天皇、答へ白(まを)したまはく「高き所に登り西の方を見れば、国は見えず、ただ大き海有り」とまうす。詐(いつは)りを為(す)る神と謂(おも)ひて、御琴を押し退(そ)け、弾きたまわず、黙(もだ)し坐(いま)す。尓(しか)して其の神いたく忿(いか)りて、詔(の)りたまはく「およそ?(こ)の天の下は、汝(いまし)の知らすべき国に非(あら)ず。汝は一道(ひとみち)に向かひたまへ」とのりたまふ。ここに建内宿禰大臣白(もを)さく「恐(かしこ)し、我が大君、なを其の大御琴をあそばせ」と申す。尓してやくやくに其の御琴を取り寄せてなまなまに弾き坐(いま)す。幾久(いくひさ)もあらずて御琴の音聞こえず。即ち火を挙げて見れば、既に天皇崩(かむあが)りましぬ。-中略- 国の大祓(おおはらへ)をして建内宿禰沙庭(さには)に居り、神の命を謂(こ)ふ。是に教へ覚(さと)したまふ状(さま)、つぶさに先の日の如く「およそ?(こ)の国は、汝(いまし)(みこと)の御腹に坐(いま)す御子の知らさむ国ぞ」とのりたまふ。建内宿禰白(まを)さく「恐(かしこ)し我が大神、其の神の腹に坐(いま)す御子は何(いづ)れの子か」と聞くと「男子(ひこみこ)なり」とのりたまふ。尓してつぶさに請(こ)いまつらく「今かく言教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲(ほ)し」とこふ。「是(こ)は天照大神の御心ぞ。また底筒男(そひつつのを)、中筒男(なかつつのを)、上筒男(うはつつのを)三柱の大神ぞ。此の時に其の三柱の大神の御名は顕(あらは)れぬ。今まことに其の国を求めむと思ほさば、天つ神地つ?(あまつかみ、くにつかみ)、また山の神と河・海の諸神(もろかみたち)に悉(ことごと)く幣帛(みてくら)奉り、我が御魂を船の上に坐(いま)せて、真木の灰を瓠(ひさご)に入れ、また箸とひらでを多(さは)に作り、みなみな大海に散らし浮けて、度(わた)るべし」とのりたまふ。 
豊浦宮山口県下関市長府豊浦町。   筑紫訶志比宮(つくしのかしひのみや)福岡市香椎
天皇崩御と神託皇后息長帯比売は神を依り憑かせる霊能者である。  沙庭神託を受ける祭の場。 神託を疑った天皇は神の怒りに触れ、此の国は汝が治めるる国ではない、汝はただ一つの道に向かい給えと崩御の預言をし、天皇は預言通り崩御する。  殯の宮(もがりのみや)遺体を安置し復活の儀礼をする場所。 国の大祓え国中の穢れ罪のすべてを祓い清める。  底筒男・中筒男・上筒男この三神は墨江(住吉)大神。
天皇 治世 和風諡号
12 景行天皇 71~130 オオタラシヒコオシロワケ
13 成務天皇 131~190 ワカタラシヒコ
14 仲哀天皇 191~200 タラシナカツヒコ
神功皇后 200~269 オキナガタラシヒメ
34 舒明天皇 629~641 オキナガタラシヒヒロヌカ
35 皇極天皇 642~645 アメトヨタカライカシヒタラシヒメ
仲哀天皇の諡号は「記紀」共に「タラシヒコナカツヒコのスメラミコト」でこのタラシヒコと云う名称は七世紀に用いられたもので12景行・13成務・14仲哀・神功皇后のタラシ・34舒明・35皇極天皇の称を持つ諡号は後世の七世紀に付けられた可能性があるとの説があります。
 「漢風諡号」と「和風諡号」
漢風諡号は奈良時代(700年代)に淡海三船(おうみのみふね)と云う人が初代神武から44代元正天皇までに「諡(おくりな)」として漢字二文字の「漢風諡号」を付けたのが始まりといわれます。
和風諡号(国風諡号とも云う)とは確実に和風諡号だとわかるのは「続日本紀」の大宝三年(703)十二月十七日条、従四位上の当麻真人智徳(たぎまのまひとちとこ)が、諸王・諸臣を率いて、太上天皇(持統)について誄(しのびごと)を奏上し、「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろののひめのみこと)と云う諡(いみな)を奉(たてまつ)り」この日、飛鳥の岡で火葬にした。この記述が「和風諡号」の初見史料です。従ってこれ以前のものは諱
(いみな)
なのか本名なのか解らないと言うのが真相です。神武から33代推古天皇迄一千二百年もの文字史料の無い時代に口承伝承で歴代天皇の長い名が正確に伝承されてきたとは、到底考えられません。これらの名は「記紀」編纂の八世紀に編纂者が考えたものと推測されます。
漢風
諡号
和風諡号 治世(書紀) 宝年(書紀)
1 神武  カムヤマトイワレヒコ 前660~前585
2 綏靖  カムヌナカワミミ 前581~前549
3 安寧  シキツヒコタマテミ 前549~前511
4 懿徳  オオヤマトヒコスキトモ 前510~前477
5 孝昭  ミマツヒコカエシネ 前475~前393
6 孝安 オオヤマトタラシヒコクニオシヒト 前392~前291
7 孝霊  オオヤマトネコヒコフトニ 前290~前215
8 孝元  オオヤマトネコヒコクニクル 前214~前158
9 開化  ワカヤマトネコヒコオオビビ 前158~前98
10 崇神  ミマキイリヒコイニエ 前97~前30
11 垂仁  イクメイリヒコイサチ 前29~99
12 景行  オオタラシヒコオシロワケ 71~130
13 成務  ワカタラシヒコ 131~190
14 仲哀  タラシナカツヒコ 192~200
神功皇后  オキナガタラシヒメ 200~269
15 応神  ホムツワケ 270~310
応神天皇の生誕の謎
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妊娠中の息長帯比売(神功皇后)は新羅親征の為出産を延ばすのに腰に石を巻いて出征する。帰還後筑紫の宇美
(うみ)で御子を出産。また新羅親征中腰に巻いていた石は筑紫の伊斗村(いとむら)に在る。また末羅県(まつらのあがた)の玉嶋里(たましまのさと)に到ったのが四月上旬だったので御裳(いふく)の糸を抜き取り飯粒を餌に鮎を釣られた。福岡県糸島市に新羅親征中腰に巻いた石を納めたと云う鎮懐石八幡宮(上の写真)があります。万葉集にこの石を詠んだ歌と鮎釣をした歌があります。
万葉集巻五
813 かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(かみのみこと) 韓国(からくに)を 向(たむ)け平らげ て 御心を 鎮めたまふと い取(と)らして 斎(いは)ひたまひし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐかねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かしたまひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さびいます 奇(く)し御魂 今のをつづに 貴(たふと)きろかむ 山上憶良
855 松浦川(まつらかは)川の 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹(いも)が 裳(も)の裾濡れぬ  大伴旅人
息長帯比売命 (気長足姫尊・神功皇后)
(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后像と狭城盾列池上陵(五社神古墳) 伝神功皇后陵
「記」では息長帯比売命・「書紀」では気長足姫尊・「風土記」では大帯日賣命、息長帯日賣命と記されていますが
読みは全て「おきながたらしひめのみこと」です。また「記」は息長帯比売命、是れ太后(おほきさき)に娶(めと)ひて生まれませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともむけのみこと)またの名は
品陀和気命(ほむだわけのみこと)二柱。
「書紀」は仲哀二年春正月十一日に、気長足姫尊を立てて皇后とす。是より先に、叔父彦人大兄(おとをぢひこひとのおほえ)が女(むすめ)大中姫(おほなかひめ)を娶りて妃としたまふ。?坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生む。次に来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主(おやおほさかぬし)が女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶りて誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。
※誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は「記」の品夜和気命と同一皇子か 但し「記」は息長帯比売命の子であるが「書紀」では皇后が新羅征討の帰還後の十二月十四日に誉田天皇(ほむたのすめらみこと/応神天皇)を筑紫に生まれたまふ。と記すので誉屋別皇子とは異母兄弟となり、「記」の記述とは違う。
14仲哀天皇の項に息長帯比売(神功皇后)の記述を「書紀」とは対象的な実に簡潔な記述で記されていますが、「書紀」では異例の特別扱いで卷第九を全て神功皇后の記述にあて他の天皇よりも上位のあつかいで卷末には「魏志倭人伝」の記述を引用して「卑弥呼」とは神功皇后の事だと思わしめる様な記述になっています。
この項では「書紀」の記述を参考にして構成しています。「書紀」は気長足姫尊(神功皇后)の記述に巻第九の全てを仲哀天皇亡きあとの新羅征討と摂政期の記述にあてています。皇后は亦大帯日売・大帯比売(おほたらしひめ)の名でも記されています。「書紀」巻第九、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の冒頭記事は次の様に記す
気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/開化天皇)の曾孫、気長宿祢王(おきながすくねのおほきみ)の女(みむすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/14仲哀天皇)の二年(193)に、立ちて皇后に為(な)りたまふ。幼(わか)くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかほよし)。父の王、異(あやし)びたまふ。
ここで初めて気長足姫命の父母の名を記しますが、父母の出自についての記述はありません。「記」では父気長宿祢王は日子坐王(ひこいますのみこ)系出身の初代息長姓の人で、母葛城高額媛は祖に新羅の王子、天日矛(あめのひほこ)の系統なのですが「書紀」はこの事は一切記載しません。垂仁期の天日槍の記述でも田道間守(たぢまもり)で打ち切っています。
神功皇后の実在性については比定的な意見が多いようです。先ず婚姻者の14仲哀天皇の出自が父日本武尊(やまとたけるのみこと)の没後三十数年後の出生という矛盾で実在が疑われること。また気長足姫尊についても実在を疑問視する説も多く、また「書紀」に見る神功皇后記述は、とても歴史的事実とは思えない内容です。香椎宮に於ける神託記述や皇后の船を大量の魚が動かした、豊浦の津では海中から潮の干満を操れる「如意珠(にょいのたま)」を拾ったとか、お伽噺的な話が多く「書紀」編纂者が何故この様な幼稚な三韓征伐の物語を作ったのか理解に苦しみます。次に神功皇后の新羅征討記述の一部を転載しましたのでご覧下さい。

  上は明治11年(1878)発行の1円紙幣
仲哀9年冬10月3日、皇后和珥津(わにのつ)より発(た)ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起こし、陽候(うみのかみ)は浪を挙(あ)げて、海の中の大魚、悉く浮(うか)びて船を扶(たす)く。則ち大きなる風順(おいかぜ)に吹きて、帆船波(ほつむなみ)に隋(したが)ふ。?楫(かぢかい)を労(いたつ)かずして、便(すなは)ち新羅に到る。時に隋船潮浪(ふななみ)、遠く国の中に逮(みちおよ)ぶ。即ち知る天神地祗(あまつかみくにつかみ)の悉(ふつ 
く)に助けたまふか。新羅の王、是に言未だ戦戦慄慄(おぢわなな)きて?身無所(せむすべなし)。即ち諸人(もろもろのひと)を集(つど)へて曰(い)わく「新羅の国を建てしより以来(このかた)、未だ昔も海水の国に凌(のぼ)ることを聞かず。若(けだ)し天運尽きて、国、海と為(な)らむとするか」といふ。是の言未(こといま)だ訖(をは)らざる間に、船師(ふないくさ)海に満ち旌旗日(はたひ)に輝く。鼓吹声(つづみふえこえ)を起こして、山川悉(やまかわふつ)く振(ふる)ふ。新羅の王、遥に望(おせ)りて以為(おも)へらく、非常(おもひのほか)の兵(つはもの)、将(まさ)に己が国を滅(ほろぼ)さむとすと。?(お)ぢて志失(こころまど)ひぬ。乃今醒(いましさ)めて曰はく「吾聞く、東に神国有り。日本(やまと)と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)有り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(あにいくさ)を挙げて距(ふせ)くべけむや」といひて、即ち素旆(しろきはた)あげて自ら服(まつろ)ひぬ。素組(しろきくみ)して面縛(みづからとらは)る。図籍(しるしへふみた)を封(ゆひかた)めて、玉船
※図籍(しるしへふみた)を封(ゆひかた)めて土地の図面と人民の戸籍是を封印して使用不能とする事は支配権を譲る事になる
(みふね)の前に降(くだ)す。因(よ)りて、叩頭(の)みて曰(まう)さく、「今より以後、長く乾坤(あめつち)に与(ひと)しく、伏(したが)ひて飼部(まかい)と為(な)らむ。其れ船?(ふねかぢ)を乾(ほ)さずして、春秋に馬梳及(うまはたけおよ)び馬鞭(うまのむち)を献(たてまつ)らむ。復海(またわた)の遠きに煩(いたつ)かずして、年毎に男女(おとこをみな)の調(みつぎ)を貢(たてまつ)らむ」とまうす。則ち重ねて誓ひて曰(まう)さく、「東にいづる日の、更に西に出づるに非(あら)ずは、且阿利那礼河(またありなれがわ)の返(かへ)りて逆(さかしま)に流れ、河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)と為(な)るに及(いた)るを除(お)きて、殊に春秋の朝を闕(か)き、怠りて梳(くし)と鞭との貢(みつぎ)を廃(や)めば、天神地祇、共に討(つみな)へたまへ」とまうす。時に或(あるひと)の曰く、「新羅の王を誅(ろ)さむ」といふ。是に皇后曰(のたま)わく「初(はじ)め神の教えを承りて、将に金銀の国を授(う)けむとす。又三軍(またみたむろのいくさ)に号令(のりごと)して曰(い)ひしく、自(みづか)ら服(こ)はむをばな殺しそといひき。今既に財(たから)の国を獲(え)つ。亦人自(またひとおの)づから降(まつろ)ひ服(したが)いぬ。殺すは不祥(さがな)し」とのたまひて、乃ち其の縛(ゆはひつな)を解きて飼部(みまかい)としたまふ。遂に其の国の中に入りまして、重宝(たから)の府庫(くら)を封(ゆひかた)め、図籍文書(しるしのふみ)を収(とりをす)む。即ち皇后の所杖(つ)ける矛(みほこ)を以て、新羅の王の門に樹(た)て後葉(のちのよ)の印しとしたまふ。其の矛、今猶(なお)新羅の王の門に樹(た)てり。
※「新羅の国中に隋船潮浪(ふななみ)「新羅王が戦戦慄慄(おぢわなな)きて?身無所(せむすべなし)。」・「海水の国に凌(のぼ)ることを聞かず。」・新羅王の言葉の中に「神国・日本・聖王・天皇・神兵」があるなど潤色を加えたことで、新羅征討説話の信憑性に疑問を生じさせる結果になっています。
上写真 伝神功皇后の稚桜宮跡に建つ稚桜神社 左から入口の鳥居・神社本殿・神社裏から三輪方面を望む。
妊娠中の息長帯比売(神功皇后)は新羅親征の出陣時には臨月にあたっていた為、皇后は石を裳(も)の腰にはさんで出産を抑えて出陣、「適(たまたま)皇后の開胎(うむがつき)に当れり。皇后、則ち石を取りて腰に挿しはさみて祈りたまひて、事終えて還らむ日に茲土(ここ)に産まれたまへ」と申したまふ。其の石は今伊都県(いとのあがた)の道の辺(ほとり)に在り。この石を伝承では「鎮懐石(ちんかいせき)」と云っています。新羅遠征から帰った皇后は十二月十四日に筑紫で皇子を出産します。時の人其の産処(みうみのところ)を号(なづ)けて宇瀰(うみ)と曰(い)ふ。また新羅親征中腰に巻いていた石は筑紫の伊斗村(いとむら)に在る。また末羅県(まつらのあがた)の玉嶋里(たましまのさと)に到ったのが四月上旬だったので御裳(いふく)の糸を抜き取り飯粒を餌に鮎を釣られた。福岡県糸島市に新羅親征中腰に巻いた石を納めたと云う鎮懐石八幡宮(下の写真)があります。
神功皇后実在説を唱える方は万葉集巻五の八百十三に山上憶良(やまのうえおくら)の「鎮懐石八幡宮」と是にまつわる歌が記載されており、この歌が作られたのが天平元年(729)と古いことから神功皇后実在説の根拠になると云う説です。しかし「書紀」の完成は養老四年(720)で、この歌の詠まれたのは「書紀」完成後九年を経過しており神功皇后実在説の補強史料としては如何なものでしょう。
万葉集巻五の八百十三
かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(かみのみこと) 韓国(からくに)を 向(たむ)け平らげ て 御心を 鎮めたまふと い取(と)らして 斎(いは)ひたまひし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐかねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かしたまひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さびいます 奇(く)し御魂 今のをつづに 貴(たふと)きろかむ 山上憶良
855 松浦川(まつらかは)川の 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹(いも)が 裳(も)の裾濡れぬ  大伴旅人
上写真 左から福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮 祭神息長帯比売(神功皇后)と神功皇后が新羅親征に際して出産を延ばすため腰に捲いた石と云われる石と鎮懐石碑。 穴戸の豊浦宮跡に建つ忌宮(いみのみや)神社。(伝仲哀天皇の喪を行った所)
神功皇后(息長帯比売)懐妊と応神聖誕の謎
「記」の応神天皇生誕記述『皇后、其の政(まつりごと)いまだ竟(を)へぬ間に、懐妊(はら)みませるが、産れますに臨(のぞ)む。御腹を鎮(しづ)めたまはむとして石を取りて、御裳(みも)の腰に纏(ま)かして筑紫国に渡りたまひ、其の御子はあれ(ま)しぬ。其の御子の生まれましし地(ところ)に号(なず)けて、宇美(うみ)と謂ふ。
また其の御裳(みも)に纏(ま)かしし石は、筑紫国の伊斗村に在り。……』
「書記」は仲哀天皇の崩御日を仲哀九年二月六日とし記し、御子の生誕を同年十二月十四日、誉田天皇を筑紫に生まれたまふ。と記し応神天皇は14代仲哀天皇と皇后息長帯比売の皇子になりますが、この出生については考古学者や歴史愛好家の間にも疑問視する方も多く疑問符のついたままです。
「書記」は天皇の崩御日を仲哀九年二月六日とし記し、御子の生誕を同年十二月十四日、誉田天皇、筑紫に生まれたまふ。と記しているので皇后は天皇の死去した日に懐妊し十月十日目に分娩したことになり世間の通説通り正確な出産がかえって疑惑を招き武内宿禰(たけのうちのすくね)と皇后の密接な関係を疑う説、また、住吉大社神代記には『是(ここ)に皇后、大神と密事(むつびごと)あり』密事とは(俗に夫婦の密事を通はす事)という記述もあります。   ※右「神代記」記述と訳文
住吉神は三神であり、どの神と密事があったのかこの記述では不明です。また沙庭の場には天皇・皇后・建内宿禰の三人のみなので、皇后と宿禰の密事を疑う説や其のほか息長帯比売・応神母子の渡来人説がありますが、いずれも立証史料がなく想定の域を出ません。「記紀」記述では応神天皇の出自に疑問が有ることは事実です。
神功摂政十年春二月に、穴戸豊浦宮(あなとのとゆらのみや)で仲哀天皇の喪(みもがり)を収めて、皇子を連れて海路で難波に向かいますが腹違いの兄、香坂王と忍熊王が明石海峡で皇后と皇子の難波入りを妨害しますが、策を用いてこれを討ち、無事難波に入り皇子の誉田別(ほむたわけ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。
皇后は大和の磐余(いはれ)に若桜宮(わかさくらのみや)を造り摂政として六十九年間、誉田和気命(ほむだわけのみこと/応神天皇)の後見を務めたと云う。「書紀」の記述によると皇太后の摂政期間が六十九年間ならば応神天皇は六十九歳で即位したことになり、この様な長期間の摂政治世は極めて不自然です。
神功摂政十三年春二月八日、皇太后、武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて誉田和気命を角鹿(つぬが/敦賀)の笥飯(けひ)大神を参拝。太子、角鹿より帰りますと皇太后、觴(みさかづき)を挙げて太子を寿(さかほかい)して祝福それる。※太子の成人式
「記」は気比大神の記述では建内宿祢命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(ひつぎのみこ)に禊(みそぎ)せむとして、淡海(あふみ)と若狭国を経し時に、高志(こし)の前(みちのく)の角鹿(つぬが)に、仮宮を造りて坐(いま)せまつる。尓(しか)して其地(そこ)に坐(いま)す伊奢紗和気大神(いざさわけのおほかみ)が夜の夢に見えて云はく「吾が名を以(も)ち御子の御名に易(か)へまく欲(ほ)し」といふ。尓して言?(ことほ)き白(まを)さく「恐(かしこ)し命
(みこと)のまにまに、易(か)へ奉(まつ)らむ」とまをす。また其の神、詔(の)りたまはく、「明日の旦(あした)、浜に幸(い)でますべし。名を易(か)ふる幣(まひ)を献(たてまつ)らむ」とのりたまふ。故(かれ)其の旦(あさ)浜に幸行(い)でます時に、鼻毀(はなこほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依(よ)れり。是に御子、神に白(まを)さしめて云(の)りたまはく。「我に御食(みけ)の魚を給へり」とのりたまふ。故(かれ)また其の御名を称(たた)へて御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)く。故今に気比大神と謂ふ。また其の入鹿魚(いるか)の鼻の血?(くさ)し。故其の浦に号(なづ)けて血浦(ちうら)と謂ふ。今は都奴賀(つぬが)と謂ふ。
古代の天皇の寿命が異常に長いことから、「書紀」の紀年は疑問視されています。神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(しんい)説に基づくもので一元を六十年、二十一元一千二百六十年を一蔀(しとみ)とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書(いしょ)での辛酉革命(しんゆうかくめい)の思想によると云われています。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀(しとみ)のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされます。その為「書紀」の紀年と中国・朝鮮史書と年代の相違があり、次の「書紀」記載の百済国王の崩年・即位年記述もかなりの相違があります。また皇后摂政末年には後漢書の「魏志倭人伝」の記述も引用され邪馬台国の女王卑弥呼とは神功皇后の事であると思はしめる様な記述もあります。一体、神功皇后が実在の人物とするなら何時頃の人なのか
次の「書紀」記載の記述から神功皇后(気長足姫・息長帯比売)の年代を推測して見たいとおもいます。「書紀」紀年によると神功摂政元年は西暦200年にあたります。
神功摂政三十九年。この年、大歳己未(おおとしつちのとひつじ)。魏志に云はく、明帝の景初三年(239)六月、倭の女王、大夫難斗米(たいふなとめ)等を遣わして、郡に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献す。太守鄧夏(とうか)、吏(り)を遣わして将(い)て送りて京都(けいと)に詣(いた)らしむ。
   ※大夫難斗米 魏人伝には難斗米(なとめ)と記す。鄧夏も魏人伝には劉夏(りゅうか)と記す。
四十三年。魏志に云はく、正始四年(243)、倭王、復使大夫(つかいたいふ)伊声者(いせいき)・掖耶約(えきやこ)等八人を遣わし上献す。  ※伊声掖耶約  魏人伝には伊聲耆(イセキ)・掖邪拘(ヤヤコ)と記されています。
五十五年、百済の肖古(しょうこ)王薨(みち)せぬ。
※「書紀」には肖古(しょうこ)王とあるが百済13代以降の王名から推測して、ここは13代近肖古(きんしょうこ)王(346~375)と推測される、干支二運さげて西暦375年とすれば朝鮮史料と一致する。      
五十六年、百済の王子貴須(せしむくいす)立ちて王と為(な)る。
※近肖古王の子で百済14代王、近仇首王(きんきゅうしゅおう)(375~384) 
六十四年、百済国の貴須(くいす)王薨(みまか)りぬ。王子枕流(むとむる)王立ちて王と為(な)る。
※百済15代王、枕流(むとむる・ちんりゅう)王(384~385)
六十五年、百済の枕流(むとむる)王薨(みまか)りぬ。王子阿花(むあくえ)年若し。叔父(おとをぢ)辰斯(しんし)奪     いて立ちて王と為る。
※15代枕流王の没後その子阿花(あしんおう)年少の為、叔父の辰斯が王位を簒奪し16代王(385~392)となる。392年に辰斯(しんし)王の没後、阿花(あしんおう)が即位17代王(392~405)となる。「書紀」に辰斯王の記述無し。            六十六年。この年、晋の武帝の泰初二年(267)なり。晋の起居注(ききょちゅう)に云わく、武帝の泰初の二年十月に倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献(こうけん)せしむといふ。
※晋の武帝とは泰初元年(265)に魏の禅譲で皇帝になり太康11年(290)に没。卑弥呼は248年頃に亡くなっているので、此の時の倭女王とは壹与のことでしょう。訳(をさ)とは通訳。「書紀」編者は神功皇后の死をこの記事の後に設定しているのは66年の魏への使者も卑弥呼が送ったものと考えていたと思われます。
「書紀」は、ここに「魏志倭人伝」の記事を引用しながら、「邪馬台国」「卑弥呼」「壹与」の名は一切記載していないのは神功皇后を「卑弥呼」に比定する考慮の基に辛酉革命説を採用して「卑弥呼」の生存年代と神功皇后の摂政年代を併せたのではとの疑念を抱かせまが、55年~65年の百済王の没年・即位記述を挿入することにより魏志倭人伝との年代差の矛盾が露出することになり、「書紀」編者は何故この様な矛盾記述を挿入したのでしょう。
     百済王家系譜
5 肖古王(しょうこおう)166~214
6 仇首王(きゅうしゅおう)214~234
7 沙伴王(さはんおう)234
8 古爾王(こにおう)234~286
9 責稽王(せきけいおう)286~298
10 汾西王(ふんせいおう)298~304
11 比流王(ひりゅうおう)304~344
12 契王(けいおう)344~346
13 近肖古王(きんしょうこおう)346~375
14 近仇首王(きんきゅうしゅおう)375~384
15 枕流王(ちんりゅうおう)384~385
16 辰斯王(しんしおう)385~392
17 阿華王(あしんおう)392~40
左は百済王家5代肖古王(しょうこおう)から17代阿華王(あしんおう)
までの系譜を朝鮮の歴史書「三国志書」より抽出したものです。
代・王名・即位年・崩年の順です。

「記」には10崇神天皇から33推古天皇まで23代の天皇の内15代の天皇について崩年干支が記されています。下表は「記」の崩年干支が記されている10崇神から15応神までの干支から推定した西暦年と「書紀」の崩年記述の西暦換算を表にしたものです。10代から15代までの天皇が全て実在したと仮定すると11代垂仁から15応神まで
天皇 「記」崩年干支 西暦
(推定)
「書紀」崩年西暦 記紀の差
10 崇神天皇 戊寅年 318 紀元前30 348
13 成務天皇 乙卯年 355 190 165
14 仲哀天皇 壬戌年 362 200 162
神功皇后 辛酉年 記載なし 269
15 応神天皇 甲午年 394 310 84
5代の平均寿命は15.2歳となります。13成務・14仲哀・神功皇后を除外し11垂仁・12景行・15応神が実在したと仮定すると3代の平均寿命は38歳になりますが、これは仮定であって10代崇神から15代応神まで6代の天皇で
実在、非実在の選定は個々の歴史観により分かれるところで難しい選択ですが「記紀」記載の長命天皇の年令に付いては恐らく皆さん疑問をお持ちのことと思います。
西暦 倭国の出来事
148 倭国大乱(148~190)/204~220倭国大乱説もある。
卑弥呼共立。
239 明帝の景初三年、卑弥呼、大夫難斗米を魏に遣わす。
245 邪馬台国と狗奴国の争乱。
247 この頃、卑弥呼死す、
255 百済肖古王死去。             朝鮮三国史記出典の紀年西暦375年
256 百済の王子貴須立ちて王となる。
264 百済の枕流王死去・辰斯王立ちて王となる。 朝鮮三国史記出典の紀年西暦384年
265 魏滅び西晋起こる。
266 倭女王壹与、晋に遣使。
290 この頃ヤマト王朝成立か
313 高句麗、楽浪・帯方二郡を滅ぼす。
316 西晋滅び、五胡十六国時代始まる。
318 崇神天皇崩御。この頃大和南部に前方後円墳が築造される。









  住吉三神の生誕
皇祖神と言えば天照大神というのが通説ですが天孫降臨神話記述を詳しく見ると天照大神の誕生は黄泉国(よみのくに)から逃げ帰って来た伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が竺紫の日向(つくしのひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いをした時、-中略-水底に滌(すす)きたる時に生まれた神の名は、底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)。次に底筒之男命(そこつつのをのみこと)。中に滌(すす)きたる時に生まれた神の名は、中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)。次に中筒之男命(なかつつのをのみこと)。水の上に滌(すす)きたる時に生まれた神の名は、上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)。次に上筒之男神(うわつつのをのかみ)此の三柱の綿津見は阿曇連等(あづみのむらじら)が祖神(おやかみ)です。底、中、上筒之男の三柱は墨江(すみのえ/住吉)の三前の大神です。
  
古事記 日本書紀
天皇 崩年
干支
崩年
年令
在位
年数
崩年
年令
治世
9 開化 60 115 前157~前98
10 崇神 318 68 120 前97~前30
11 垂仁 99 140 前29~西暦70
12 景行 60 106 71~130
13 成務 355 60 107 131~190
14 仲哀 362 9 52 192~200
神功 69 100 201~269
15 応神 394 41 110 270~310





香坂王と忍熊王の叛乱 仲哀天皇が大江王(おおえのみこ)の娘、大中津比売(おほなかつひめ)に娶ひて生まれたのが香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)二柱。奈良市に押熊町が現存しており忍熊王由?の土地かと思われますが詳細については不明です。近くには秋篠寺や伝神功皇后陵の五社神(ごさし)古墳、神功町等があります。また押熊町には八幡龍王神社が在り祭神は息長帯比売、応神天皇、武内宿禰で神社の隣に香坂王、忍熊王の旧蹟地と云われる所がありますが一見したところ墓地らしき石塔があります。因みに香坂王は斗賀野(とがの)で戦の成否を占い中に猪に襲われ死に、忍熊王は伊佐比宿祢(いさひのすくね)を将軍として、また息長帯比売方は建振熊命(たけふるくまのみこと)を将軍として忍熊王と戦ったが建振熊命の計略にかかり敗れ琵琶湖に入水自殺したと「記」は記す。
六十九年夏四月十七日に皇太后、稚桜宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百歳
上写真左 香坂・忍熊王旧蹟地(奈良市押熊)         中と右  福井県敦賀市気比神宮(笥飯)鳥居と拝殿


「記」では14代仲哀天皇の項に「神功皇后の新羅親征」として数行の記述があるのみですが「書紀」では異例の特別扱いで卷第九を全て神功皇后の記述にあて他の天皇よりも上位のあつかいで卷末には「魏志倭人伝」の記述を引用して「卑弥呼」とは神功皇后の事だと思わしめる様な記述になっています。
此処では「書紀」巻九の記述を中心に皇后の
事績を紹介してゆきます。
先ず卷頭に気長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと)は、稚日本根子彦大日日天皇(9代開化天皇)の曾孫、気長宿禰王(おはながすくねのみこ)の女(むすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の二年に、立ちて皇后に為(な)りたまふ。幼くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかほよ)し。父の王、異(あやし)びたまふ、と記す。
この気長帯姫の息長姓について、13代成務天皇の都が近江志賀の高穴穂の宮であったことから仲哀天皇は同じ北近江(息長郷)
ら息長帯比売を皇后に迎えた。帯比売の息長は氏の本貫地の地名である。との説がありますが「記」の記述では応神期の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の子大朗子(おほいらつこ)が近江息長氏の祖と記しており、帯比売とは時代にズレがあり、また比売の父は南山城の出身であり、帯比売の北近江の息長氏出身説には無理があります。
九年春二月条、足仲彦天皇(仲哀)筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教
(おしえ)に従はずして早く崩りたまひしことを傷みたまひて、以為(おもほ)さく、祟(たた)る所の神を知りて、
財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。
九年三月条、皇后、吉日を選びて、斉宮(いほいのみや)に入りて、親(みずか)ら神主と為りたまふ。武内宿禰に
(みことのり)して琴を弾かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を召して、審神者(そにわ)にす。……請(ねぎまう)して曰(もう)さく、「先の日に天皇に教へたまひしは誰(いずれ)の神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、答えて曰(のたま)はく、「神風の伊勢国の百伝(ももつた)ふ度逢県(わたらいのあがた)の折鈴(きくすず)五十鈴宮(いすずのみや)に所居(いま)す神、名は撞賢木巌之御魂天疎向津媛命(つまさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」と。亦問いまうさく「是の神を除きて復(また)神有(いま)すや」と。答へて曰(のたま)はく、「幡荻穂(はたすすきほ)に出し吾や、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこおり)に所居る神有り」と問ひまうさく、「亦有(またいま)すや」と。答へて曰(のたま)はく、「天事代虚事代玉籤入彦巌之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろのかみ)有り」と。問いまうさく、「亦有すや」と。答へて曰(のたま)はく、「有ること無きこと知らず」と。是に審神者(そにわ)の曰さく、「今答へたまはずして更後(またのち)に言(のたま)ふこと有(ま)しますや」と。則ち対(こた)へて曰(のたま)はく、「日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのおど)の水底に所居(い)て、水葉も稚(わかやか)に出で居る神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのお)の神有(ま)す」と。問いまうさく、「亦有すや」
と。答へて曰(のたま)はく、「有ることとも無きこととも知らず」と。-(中略)-次に皇后は神託に従い財宝(たから)の国新羅征討説話の記述に為りますが、その内容はお伽噺的であり、作為的な物語で、とても歴史的事実とは程遠いものです故省略致します。よく「謎の世紀」と云われますが四世紀以前の文献史料は皆無で、この当時の倭国を覗い知る史料としては中国の「後漢書」の「東夷伝」に記されている「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使者自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝給うに印綬を以てす」 建武中元二年は西暦五十七年です。これが最古の史料で、この時に光武帝が倭奴国(かんのわのなのこくおう)に与えた金印が天明四年(1784)に福岡市志賀島で出土しています。また、「東夷伝」は永初元年(107)、倭国王帥升等、生口(せいこう/奴隷)百六十人を献じ、願いて見(まみ)えんことを請(こ)う」と記している。そして「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条、則ち「魏志倭人伝」に記されている「邪馬台国」記述の二千余字の文字から覗い知る倭国。神功皇后摂政五十二年(252)に百済から献上されたと伝わる七支刀(しちしとう)の剣身の棟に表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされいます。これら中国史料三点、百済史料一点の文字史料以外は皆無です。
 倭奴国(かんのわのなのくに)という読みについては異論も多くありますが是が正論という読み方は未だ無いようです。
審神者(そにわ)とは、ここでは皇后の神託を聞き、其の意味を解説する人。
幡荻穂(はたすすきほ)、はたの様になびくススキの穂の意。w
表・中・底筒男とは住吉三神で、その出自は日本神話によると伊邪那岐命(いだなぎのみこと)は死んだ妻を追って黄泉国(よみのくに)に行き、戻って来たあと、日向の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)で海に入って禊(みそぎ)を行ったときに水の底で、すすぐ時に生まれた神の名が底津綿津見神(そこつわたつみ)。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。次に水の中で、すすぐ時に生まれた神の名は中津綿津見神(なかわたつみのかみ)。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。
水の上で、すすぐ時に生まれた神の名は、上津綿津見神(うはつわたつみのかみ)。次に上筒男命(うはつつのをのみこと この神話記述によると綿津見の神と交互に生まれて来ています。綿津見の神は海の神です。 「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になるそうです。これでは綿津見の神と住吉三神は兄弟神になります。綿津見神を祀る神社と住吉三神を祀る神社は別になっているのは何故



















平安時代初期に作成された「新撰姓氏録」にはアメノヒホコとツヌガアラシトを祖とする氏族名が記載されており、これらの伝承説話が何処まで史実を反映しているのか 私の様な駆け出しの古代史ファンには判別が付きかねます。また、平安時代の古代氏族名鑑の「新撰姓氏録」にはアメノヒホコ・ツヌガアラシトの末裔氏族が記載されていますが、氏族の自主申告によるものと思われ信憑性については疑問があるとおもいます。 
下表は新撰姓氏録に記載されている息長氏の始祖ですが、これで見ると応神天皇と息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)の子、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)が始祖になっています。
アメノヒホコとツヌガアラシトを始祖とする氏族も6氏が記載されており、ヒホコ・アラシトも実在していたことになります。
※「新撰姓氏録」は畿内を本貫地とする諸氏族を皇別335氏・神別404氏・諸蕃326氏・無所属117氏の計1182氏が居住地毎に分類して記されています。完成は(815)弘仁六年七月二十日と記されています。
新撰姓氏録に見る息長氏の始祖
本貫 種別 氏族名 同祖関係 始祖 備考
1 左京 皇別 息長真人 真人 出自誉田天皇[謚応神。皇子稚渟毛二俣王之後也
2 左京 皇別 山道真人 真人 息長真人同祖 稚渟毛二俣親王之後也 日本紀合
3 左京 皇別 坂田酒人真人 真人 息長真人同祖
4 左京 皇別 八多真人 真人 息長真人同祖 出自謚応神皇子稚野毛二俣王也 日本紀合

本貫 種別 細分 氏族名 同祖関係 始祖
911 右京 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
987 摂津国 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
959 大和国 諸蕃 新羅 糸井造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命之後也
810 左京 諸蕃 任那 大市首 出自任那国人都怒賀阿羅斯止也
811 左京 諸蕃 任那 清水首 出自任那国人都怒何阿羅志止也
960 大和国 諸蕃 任那 辟田首 出自任那国主都奴加阿羅志等也








アメノヒホコの持参した神宝について「書紀」本文と八十八年条では七種、[下表では八十八年の※出石小刀は後でさしだしたもの]三年条では八種になっていて渡来時に献上したと記すのに、八十八年に天皇の詔で出石から持参して天覧にいれるのは不自然です。「記」に記載の八種は物部氏が石上神宮に奉斉した十種の神宝と類似しているのが気掛かりです。
上表では88條※出石小刀は後でさしだしたもの
 熊神籬(くまのひもろぎ)
熊は神のこと。神籬は神霊に変わって祀られるもの。古代では後世の神社の様なものは無く巨木や巨石を神の依り代として崇めた。

下表は息長関連氏族を推定年代順に仕分けして見ました。「書紀」の記述では息長系譜を作成するのは難しく、「記」の記述を参考にして系譜を作りましたが、異世代婚・年代矛盾・姓名の謎等が入り交じり、私のような素人では、その謎解きも出来ずギブアップ状態です。開化期の日子坐王を祖とする息長系譜では日子坐王から五代の孫息長帯比売まで全て開化期に記されていますが、これを一代毎に振り分けたのが下表です。五代の孫息長帯比売は14代仲哀天皇の皇后です。仲哀天皇は開化天皇から五代目の天皇ですが9開化天皇から13成務天皇までの治世年から見ると三百四十七年です。



息長系譜と関連皇統譜の疑問
「書紀」に息長氏が登場するのは巻第九「気長足姫尊」の項で、気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/9開化天皇)の曾孫、気長宿禰王(おきながすくねのおほきみ)の女(むすめ)なり。
母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。と記すのみで父の宿禰王・母の葛城高額媛の出自については記されず、気長宿禰王の祖父が開化天皇である事が分かるのみです。
 
新羅から渡来した神・息長大姫大目命は息長氏の祖か?




15代 応神天皇期(270~310)の息長系譜
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)伝応神天皇陵
此の天皇の皇子女達二十七王。男十二王・女王十五王ですが主な妃・皇子女以外はカットしています。
「記紀」は中日売命(なかつひめのみこと)を皇后として記す。応神期に異例の記述が二つありますその1は天皇の皇子である若沼毛二俣王(息長系譜)の系譜が応神期末尾に記されています。天皇の皇子の系譜は期首に記されるのが「記」の編纂方法です。その2は2~3世紀に渡来して来たと考えられる「天之日矛」の伝承がやはり応神期末尾に記されています。
「記」の記述。此の天皇、中日売命(なかつひめのみこと)に娶ひて生める御子、木荒田朗女(きのあらたのいらつめ)
大雀命(おほさだきのみこと/仁徳天皇)、根取王(ねとりのみこと)の三柱。矢河枝比売(やかわえひめ)に娶ひて生める御子、宇遅能和紀朗子(うぢのわきのいらつこ)、八田若朗女(やたのわかいらつめ)、女鳥王(めとりのみこ)の三柱。矢河枝比売の妹、袁那弁朗女(をなべのいらつめ)に娶ひて生める御子、宇遅之若朗女(うぢのわかいらつめ)一柱。また俣長日子王(くひまたながひこのみこ)が女(むすめ)息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)に娶ひて生める御子、若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)一柱。
※百師木伊呂弁、亦の名は弟真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)、息長真若中比売の妹で若沼毛二俣王との婚姻は近親異世代婚になります。
大朗子(おほいらつこ)亦の名、意富々杼王(おほほどのみこ)は三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖と記されており「上宮記」 逸文によると此の王の子孫が26代継体天皇で応神五世の孫になります。
三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君の五氏が天武期の真人賜姓十三氏の中に入っています。これで見ますと北近江・若狭・越前は息長氏の勢力圏であることが窺えます。
「記」の応神期の息長系譜
若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)其の母の妹、百師木伊呂弁(ももしきいろべ/弟日売真若比売命おとひめまわかひめのみこと)と異世代婚して生める子、大朗子(おほいらつこ)亦の名、意富々杼王(おほほどのみこ)・忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと)・田井之中比売(たいのなかつひめ)・田宮之中比売(たみやのなかつひめ)・藤原之琴節朗女(ふじはらのことふしのいろつめ)・取売王(とりめのみこ)・沙祢王(さねのみこ)。七柱の御子。
(かれ)意富々杼王は、三国君波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫の米多君、布勢君等が祖なり。
これら氏族の内、三国君波多君、息長坂君、酒人君、山道君は天武期の真人賜姓十三氏の中のに入る。
此の記述によると意富々杼王が北近江に定住して、琵琶湖北部から越前までを息長・酒人氏の勢力圏とした様である。
此の品陀(ほむだ/応神)天皇、御年百三十歳。甲午の年九月の九日崩(かむあが)りましぬ。御陵は川内の恵賀の
裳伏の崗に在り、


開化期から応神期に到る息長系譜の信憑性
息長名の由来について「水中に沈む海人の息長」「鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす時の、息を長く引く状態からつけられた鍛冶族の名」「此の称は尊称に出でて寿命長久の義」であるとか様々な説がありますが、私は息長氏は渡来系氏族で数系統に分かれて渡来、北九州から東遷し南山城に定着し木津川の輸送権を確保とた息長氏。今一つは日本海側に来着し但馬から若狭・北近江にかけての勢力圏を築き琵琶湖の湖上輸送権を確保しヤマトの息長と連携し天皇家に后妃を入れ外戚となった息長一族。また、豊前国の風土記に次の様な記述があります。
田河の郡(こおり)。鹿春郷(かはるのさと)郡の東北(うしとら)のかたにあり。此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源(みなもと)は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直(すぐ)に正西(まにし)を指して流れ下りて、真漏川(まろかわ)に湊(つど)ひ会(あ)へり。此の河の瀬清浄(せきよし)し。因(よ)りて淸河原の村と号(なづ)けき。今、鹿春(かはる)の郷と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。昔、新羅国の神,自(みづか)ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなは)ち、名づけて鹿春の神と曰(い)ふ。又、郷の北に峯あり。頂(いただき)に沼あり。周(めぐ)り卅六歩ばかりなり。黄楊樹(つげのき)(お)ひ、兼(また)、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)、并(なら)びに黄楊・龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり。
この鹿春郷に渡来して来た新羅国の神の名は「延喜神名帳」の田川郡の条によると辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほめのみこと)で、「息長大姫大目命」とは銅の産出地である当地に新羅国から渡来した金工鍛治族が信仰する宗教の巫女ではと推測しています。また当時の朝鮮半島の鉄の産地は伽耶(かや)国であり一・二世紀頃は洛東江流域で砂鉄が大量に採取され、また金海鉄山・高霊伽耶治炉鉄山から鉄を産出したことから鉄製武器や農器具の生産や鉄の輸出が盛んに行われ金官伽耶と呼ばれ金官は「かね(てつ)の国」を意味する言葉で息長大姫大目命も金官伽耶国からの渡来と推測しています。








26代 継体天皇(507~531)の息長系譜
左 宮内庁指定の継体天皇陵(太田茶臼山古墳)
        右 復元された今城塚古墳(考古学会ではこちらが継体天皇陵)

上宮記の系譜
上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ)は、7世紀頃に成立したと推定される歴史書と云われ「記紀」よりも成立が古く、鎌倉時代後期まで伝存していた様ですが、その後は散逸し、現代では『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみです。特に『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、「記紀」の欠を補う史料として研究上の価値が高いと言われています。
上左図の左端 応神期の息長系譜
右図は「上宮記」の継体天皇系譜
継体天皇は応神5世の孫と云われる。その関連が記されている。また息長系の天皇と云われる関連が解る系譜です。
上宮記系譜に「ふりがな」を付けていませんので下記の上宮記訳文を参照願います。

30代 敏達天皇期(572~585)の息長系譜
河内磯長中尾陵、太子西山古墳 伝敏達天皇陵



天皇関連 息長氏族関連
漢風
諡号
和風諡号 崩御 / 宝年 在位 古事記 日本書記
9 開化 「記」若倭根子日子大毘毘命
「紀」稚日本根子彦大日日天皇
「記」-/63歳
「紀」開化60.4.9/111歳
「記」63
「紀」60
御真木入日子印恵命(伊迦賀色許売命)
日子坐王(意祁都比売命)
丹波比古多多?美知能宇斯王(息長水依比売)
10 崇神 「記」御真木入日子印恵命
「紀」御間城入彦五十瓊殖天皇
「記」-/163歳
「紀」崇神68.12.5/119歳
「記」
「紀」68
天皇、日子坐王を旦波国へ派遣、玖賀耳之御笠を討伐させる。
山代大筒木真若王(袁祁都比売命)
11 垂仁 「記」伊久米伊理毘古伊佐知命
「紀」活目入彦五十狭茅天皇
「記」-/153歳
「紀」垂仁99.7./139歳
「記」
「紀」99
多遅摩毛理、常世国へ派遣、帰国時垂仁崩御
アカル比売?波へ渡来記述
迦迩米雷王(丹波阿治佐波毘売)
垂仁2.都怒我阿羅斯等渡来記述
垂仁3.天日槍渡来記述
比売碁曾神(アカル姫)渡来記述
12 景行 「記」大帯日子淤斯呂和気天皇
「紀」大足彦忍代別天皇
「記」-/137歳
景行60.11.7/143歳
「記」
「紀」60
息長宿禰王(高杙比売)
倭建命(針間伊那?能大郎女)
帯中津彦命(布多遅能伊理毘売命)
息長田別王(一妻)
13 成務 「記」若帯日子天皇 「記」乙卯年3.15/107歳 「記」
「紀」60
息長帯比売(葛城高額比売)
杙俣長日子王(不明)
14 仲哀 「記」帯中日子天皇
「紀」足仲彦天皇
「記」壬戌年6.11/52歳
「紀」仲哀9.2.6/52歳
「記」
「紀」9
飯野真黒比売 (母不明・父杙俣長日子王)
息長真若中比売(母不明・父杙俣長日子王)
弟姫     (母不明・父杙俣長日子王)  
新羅征討の帰還後、筑紫の宇美で応神出産。
気長足姫尊(父母記載ナシ)
仲哀9.12.14、誉田天皇筑紫の宇みで生まれる。
神功皇后摂政 「記」神功皇后(息長帯比売)
「紀」神功皇后(気長足姫尊)
「記」(崩御記載ナシ)
「紀」摂政69.4.17/100歳
「記」
「紀」69
15 応神 「記」品陀和気命
「紀」誉田天皇
「記」甲午年9.9./130歳
「紀」応神41.2.15/111歳
「記」
「紀」41
若沼毛二俣王(息長真若中比売)
大郎子[意富々杼王](百師木伊呂弁/弟比売)
忍坂之大中津比売 (百師木伊呂弁/弟比売)
田井之中比売(百師木伊呂弁/弟比売)
田宮之中比売(百師木伊呂弁/弟比売)
藤原之琴節朗女(百師木伊呂弁/弟比売)
取売王(百師木伊呂弁/弟比売)
沙禰王(百師木伊呂弁/弟比売)
天之日矛の渡来記述
河派仲彦(父母不明)
弟姫(父河派仲彦・母不明)
稚野毛二派皇子(弟姫)
忍坂大中姫命(百師木伊呂弁)



 日本書紀紀年(干支)   天皇   西暦
垂仁86年(丁巳) 垂仁天皇 57 倭奴国王、光武帝に朝貢、金印を授与される。
景行37年(丁未) 景行天皇 107 倭国王帥升ら、後漢安帝に朝貢、生口160人を献ず。この頃、弁韓の鉄を盛んに輸入。
仲哀元年(壬未) 仲哀天皇 192 この頃、纏向遺跡築造始まる。
神功摂政20年(庚子) 神功摂政 220 大和桜井、纏向石塚古墳(前方後円墳)の出現。
上同39年(己未) 上同 239 卑弥呼、大夫難升米を帯方郡に遣使し、魏の明帝に奉献を請う。明帝、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬与す。(景初3年)
上同40年(庚申) 上同 240 帯方郡太守弓遵、梯儁を遣わし、詔書・印綬を倭国にもたらす。(魏・正始元年)
上同43年(癸亥) 上同 243 倭王、魏少帝に遣使、朝貢す。(魏正始四年)
上同47年(丁卯) 上同 247 卑弥呼、儀に遣使し、狗奴国との交戦を伝える。
上同48年(戊辰) 上同 248 卑弥呼死す。
上同66年(丙寅) 上同 266 倭女王、(台与か)西晋に朝貢す。この頃、吉備古墳に円筒埴輪が出現。
応神11年(庚子) 応神天皇 280 西晋、呉を滅ぼし中国を統一する。箸墓古墳完成。この頃、三角縁神獣鏡の副葬が行われる。


天皇 皇子女(初代) 皇子女(2代) 三代 四代 五代 備考
9 開化
日子坐王
10崇神天皇
比古由牟須美命
山代大筒木真若王
比古意須王
伊理泥王
丹波比古多多須美知能

神功期の年代推定
書紀紀年
の西暦
仲哀期 8年 伊都県主(いとのあがたぬし)の祖五十迹手(いとて)天皇に鏡・玉・劒を奉献。 199
9年 皇后胎中の御子に神託して新羅征討に向かう。 200
神功期 元年 新羅征討を終え帰還。 201
3年 誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を皇太子に。 203
13年 皇太子誉田別皇子、角鹿笥飯大神(つぬがけひのおおかみ)を参拝する。 213
39年 「魏志倭人伝」景初3年条引用。 239
40年 魏志に曰く、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣わして、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。
43年 「魏志倭人伝」正始4年条引用。 243
52年 百済、七枝刀(ななつさやのたち)・七子鏡(ななつこのかがみ)等を貢献してくる。 252
55年 百済の肖古(ほうこ)王薨去。 255
56年 百済の王子貴須(くるす)、立ちて王となる。 256
64年 百済の国の貴須王薨去。王子、枕流(むとむる)王、立ちて王となる。 264
65年 百済の枕流王薨去。王子、阿花(むあくえ)年若し、叔父の辰斯(しんし)奪いて立ち王となる。 265
66年 この年、晋の武帝の泰初2年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初2年の10月に、倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献せしむという。 266
69年 夏4月の辛酉の朔丁丑に、皇太后、稚桜宮(わかさくらのみや)に崩りましぬ。
時に年一百歳。
269
応神期 即位前 一伝に曰わく、角鹿笥飯大神を参拝、大神と太子、名前を交換。大神を去来紗別神(いざさわけのかみ)と云う。太子を誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名づく。 270


出自 古事記
12景行天皇
(子)初代 小碓命 弟橘比売 布多遅能伊理?
(孫)2代 14仲哀天皇 息長帯比売 息長田別王 大中比売 
香坂王 忍熊王 若建王  
(曾孫)3代 15応神天皇 杙俣長日子王 ?売伊呂大中日子王
(玄孫)4代 息長真若中比売 飯野真黒比売 弟比売 迦具漏比売
若沼毛二俣王
5代 大枝王 大名方王
6代 大朗子(意富々杼王) 忍坂之大中津比売 田井之中比売 田宮之中比売 藤原之琴節朗女 取売王 沙禰王