息長系譜と「記紀」の矛盾と謎


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 息長系譜と「記紀」の矛盾と謎
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辛国息長大姫大目命伝承 弥生人の寿命 崇神天皇に纏わる謎 「記紀」の
天孫降臨神話
息長氏の始祖系譜
古代に玄海灘
を越えた人々
行燈山古墳は
崇神天皇陵か?
朝鮮半島の
始祖降臨神話
息長水依比売の系譜 暦と文字伝来の謎 初期ヤマト政権の
大王墓は?
スサノヲと
牛頭天王の習合
現在の仁徳陵を今
古代工法で造ると
纏向遺跡と纏向古墳群 天日矛と都怒我阿羅斯等
渡来伝承の類似
ヤマトタケルを祖とする
息長系譜 
天皇陵の治定と祭祀
に関する質問と答弁書
素戔嗚尊と
大国主命の出自
「播磨国風土記」の
アメノヒホコ
スサノヲは朝鮮半島
の神か?
比売碁曾の神
(アカルヒメ伝承)
神功皇后

万葉の息長川関連ペ-ジ目次
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平野川探訪 摂河の地に息長川は存在せず 伎人郷と息長伝説の信憑性
伝承地に見る息長氏 万葉歌息長川の詠み人
馬国人
息長川論争
孝謙天皇?波宮行幸と河内六寺 付け替えられた大和川 万葉集巻二十編纂の謎
TOP万葉の息長川 万葉歌と大伴家持の生涯
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仮題  古代王権の謎
日本の古代史の研究・考察で先ず始めに遭遇するのが、我が国最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」の記述の信憑性と紀年問題です。考古学者の研究や中国・朝鮮史書と照合すると、記されている史実や年代に多くの矛盾があることがわかります。年代について「古事記」は一部に干支のみで記されています、「日本書紀」は編年体制と干支が使用されています。そして「記紀」ともに天武天皇の命で編纂が始まり帝紀(ていき)・帝王日継(ていおうひつぎ)・旧辞(きゅうじ)・諸豪族の系譜等を参考に編纂されたようですが干支・天皇の宝算・治世年・古来の伝承等に多くの食い違いがあり、記述の信頼性を損ねています。「古事記」「日本書紀」に記されている記述がそのまま歴史的事実かというと疑問が在り特に五世紀以前については疑問が山積しています。「日本書紀」の完成は続日本紀養老四年(720)五月二十一日条に『舎人親王が天武天皇の勅をうけ編纂していた「日本書紀」が完成し紀三十巻と系図一巻を奏上した』ことが記されていますが、この系図一巻については伝わっておらず、その内容も紛失した時期も不明、逸文もなく、全く不明です故、現在伝わっている「日本書紀」を完本とはいえません。また、「日本書紀」の氏族系譜の記述が簡潔なのは系譜一巻が付随していたので、本文に於いて詳細な記述がなくとも系図一巻を見れば判るようになっていたという説もあります。
「日本書紀」は漢文で記され中国・朝鮮史書からの引用も多く、中国・朝鮮の人達にも読めるように配慮された編集になっており、特徴として内容記事に紀年が付けられており、神代の巻には紀年記述はありませんが、紀元前六百六十年の神武天皇即位から編年体制の編纂がおこなわれています。暦や文字の無い時代しかも『書紀編纂時から千三百四十年も前の出来事にたいして、どうやって干支年や月日を挿入できたのか? という疑問が起きこの「紀年」や天皇の「宝算」が逆に記事の疑惑を呼ぶことになっていると思います。
「書紀」の編者は1神武天皇が即位した年から年数を数える紀年法を作成しており、それは中国の讖緯説(しんいせつ)に基づいているといわれており、讖緯(しんい)年説では辛酉(しんゆう)の年に革命が起こるとしており、とくに十干十二支が二十一順する千二百六十年ごとに大革命が起こるとされていて、そこで、神武天皇即位の年代を決めるときには、33代推古天皇九(601)年の辛酉(しんゆう)の年を基準とし、そこから1260年さかのぼって、紀元前660年の辛酉の年が採用されたのだといわれています。干支紀年法は古代中国で考案された十干十二支の組み合わせによる紀年法で六十年で同じ干支が繰り返すため、干支名だけでは、それが何度目の干支なのかわからないという不便さもありますが、元号などの紀年法と組み合わせることで我が国でも用いられたといわれています。内容は天地開闢から41代持統天皇十一年(697)までの出来事を編年体制で記しているので初代神武天皇の即位の「辛酉(しんゆう)」の年から「紀年」が始まっており、この年が「日本書記」の紀年元年になります。その為今年は西暦では2020年ですが「日本書記」の紀年では2680年になります。西暦と日本暦に差異が生じたのは「日本書紀」の編纂者が年代を伝えていない古伝を中国史書にならって暦年月日を入れようと中国古代の「讖緯説(しんいせつ)」による「辛酉革命説」を採用し初代神武天皇の即位日を推古天皇九年(601)の辛酉の年から一千二百六十年遡って紀元前660年に設定したという説が現在の考古学会の定説になっています。其の為古代天皇の年令に矛盾が生じたり、欠史8代と言われる時代が出現する事になります。また「日本書紀」では本文の後に注の形で「一書に曰く(あるにいわく)」として多くの異伝を書き留めています。本文と異なる異伝も併記するという編纂方針を採っています。こうした紀年問題も33代推古天皇時代にはほぼ解消され「続日本紀」の記述になると次第に信憑性も増します。
古事記 日本書紀
「古事記」は40代天武天皇の詔で朕聞(われき)く「諸家(もろもろのいえ)?(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と既に正実(まこと)に違(たが)い。多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ」といへり。今の時に当たり、その失(あやまり)を改めずは、幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、その旨滅(むねほろ)びなむとす。これすなはち邦家(くにいえ)の経緯(たてぬき)、王化(みおもぶけ)の鴻基(おほきもとい)なり。故惟(かれこ)れ帝紀(すめらみことのふみ)を撰(えら)び録(しる)し、旧辞(ふるきことば)を討(もとめ)(あなぐ)して、偽(いつわ)りを削り実(まこと)を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)とのりたまひき。時に舎人(とねり)有り。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)。年は是れ廿八。人と為り聡明(さと)くして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す。阿礼に詔語(みことのり)して、帝皇(すめらみこと)の日継(ひつぎ)と先代(さきつよ)の旧辞(ふるきことば)とを誦(よ)み習(なら)はしめたまふ。然れども 、運(とき)移り世異(よこと)なり、其の事を行ひたまはず。』天武天皇の在世中に「古事記」は完成しなかったが和銅五年(712)に全三巻を完成、44代元正天皇に撰上したといわれています。その内容は歴代天皇の后妃子女の名・事績・治世年数・山陵等、皇室・皇親氏族関係を主体に神話・伝説・歌物語等を記しており、一部の天皇については立太子年・崩年・年令を干支で記しています。上つ巻は天地のはじめ(神代時代)。中つ巻は神武天皇から応神天皇まで。下つ巻は仁徳天皇から推古天皇までを収録する三巻構成になっています。「古事記」の記述は天皇中心で宮の所在地・后妃・皇子女・天皇と主な皇子女の事績・天皇の崩年干支(一部記されていない)・陵等を詳細に記しています。息長氏族の名なども列挙されているので、系図の作成も出来ますが年紀が記されていない為、各人の時代割り振りは推理に頼らざるを得ません。
文中の紀年は全て「日本書紀」記載のものを用いました。天皇名の前の数字は代です。
韓国については古文献に基づき「朝鮮」の呼称を使用させていただきます。
「古事記」は「記」。「日本書紀」は「書紀」の略称を使用します。
人名については出来うる限り、ふり仮名をつけましたがペ-ジ中に復数回登場する場合は省略しています。
「記紀」「風土記」等に記されている古文書の漢字で入力してもに変換される漢字があるため、出来うる限り原字のまま表記するため努力しましたがマ-クのままの箇所もあるかと思いますがご容赦ください。
 
日本の古代文献史料
書名 成立 編纂者 卷数 内容
古事記 和銅五年(712) 太安万侶・稗田阿礼 全3卷 稗田阿礼(ひえだのあれ)が語り伝えた「帝紀」「旧辞」を太安万侶(おおのやすまろ)がまとめる。
日本書紀 養老4年(720) 舎人親王他 全30卷 神代より神武天皇~41持統天皇までの40代
続日本紀 延暦16年(797) 菅野真道他 全40卷 42文武天皇~50桓武天皇までの9代
日本後紀 承和7年(840) 藤原緒嗣他 全10巻 50桓武天皇~53淳和天皇までの4代
続日本後紀 貞観11年(869) 藤原良房他 全20卷 54仁明天皇の1代
日本文徳天皇実録 元慶2年(878) 藤原基経他 全10巻 55代文徳天皇の1代
日本三代実録 延喜元年(901) 藤原時平他 全50卷 56清和天皇~58光孝天皇の3代
参考にした中国・朝鮮史料
魏志倭人伝・宗書倭国伝・百済本記・広開土王碑文等
六国史とは古代日本の律令国家が編纂した「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後期」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の六つの正史のことです。
『続日本紀』六国史の第二。全40巻。文武元年(697)から延暦10年(791)までの「日本書紀」と同じ編年体の正史ですが、途中で編集担当者が変った様で,前半の20巻は菅野真道(すがののまみち)ら,後半の20巻は藤原継縄(ふじはらのつぐただ)等によって編纂されています。「日本書紀」の様に中国に国威を誇示しようとする意図がないため,詔勅などを正規の漢文に直さず宣命体(せんみょうたい)のまま載せるなど,文飾や誇張記事が少ない奈良時代の史料です。
※宣命体(せんみょうたい) 宣命を書き記した文体。抽象的な語句を連ね、対句を多用し、荘重な感じをもつ。また、仏語漢語も用いるが、全体に国文的な要素が強い。また、その表記様式。(三省堂大辞林より)
『日本後紀』六国史の第三。全40巻。現存するのは10巻。819年編集開始、840年に藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ)・藤原緒嗣(ふじはらのおつぐ)らによって完成。792年から833年の間の史実を漢文・編年体で記述しています
『続日本後紀』六国史の第四。平安前期の勅撰の史書。全20巻。藤原良房(ふじはらのよしふさ)・藤原良相(ふじはらのよしすけ)・伴善男(とものよしお)らにより清和11年(869)年撰進。54仁明天皇在位18年間(833~850)を編年体で記しています。
『日本文禄天皇実録』六国史の第五。全10巻。55文徳天皇の代である嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間の記録。編年体と漢文で記されています。六国史の中で最も期間が短く政治記述が少なく下級貴族の人物伝が多いのが特徴といわれます。これは従前の国史が官人の卒伝を四位までとしたのに比し五位にまで拡大していることによると云われます。「弘仁文化」から「貞観文化」への過渡期を詳述し六国史の中ではもっとも人間臭い伝記を収めています。編纂者は56清和天皇が貞観13年(871)に藤原基経(ふじはらのもとつね)、南淵年名(みなみふちのとしな)、都良香(みやこのよしか)、 大江音人(おおえのおとんど)らに編纂を命じられたもの。
『日本三代実録』六国史の第六。全50巻。『文徳実録』に続く勅撰の歴史書。56清和天皇(858~876)、57陽成天皇(876~884)、58光孝天皇(884~887)、三天皇の時代30年を収めた編年体の実録。59宇多天皇の勅を奉じて、藤原時平(ふじはらのときひら)、菅原道真(すがわらのみちざね)、大蔵善行(おおくらのよしゆき)らが編纂を開始したが、同天皇の譲位で一時停滞しますが、60醍醐天皇の勅で復活し、延期元年(901)に完成しています。六国史のなかでもっとも分量が多く、記述が詳細になり、記述の正確性を増し、政治・法制に関する記事が多いのが特色です。現存の本書は完本ではなく、50巻のうち、巻によりかなりの脱漏があるといわれ、それを『類従国史』『日本紀略』『扶桑(ふそう)略記』などによって補っていると云われています。
息長系譜に関連のある8代孝元天皇から15代応神天皇までを記述しましたが息長系譜に関連の無い天皇の治世期間は記述していません。記載している紀年は「日本書紀」の紀年です。出来うる限り「記紀」「風土記」記載の漢字の使用をしましたが一部に当用漢字を使用した箇所があります。
9開化~15応神天皇の崩年干支・治世・立太子一覧
古事記 日本書紀
天皇 崩年干支(西暦) 歿年令 治世 崩年干支(西暦) 歿年令 即位前の立太子時の年と年令
9 開化天皇 63 60 60年癸未(前98) 115 孝元22戊申(前193)年16
10 崇�濺傾� 戊寅(318)  ※258/378 168 68 68年辛卯(前30) 120 開化28辛亥(前130)年19
11 垂仁天皇 153 99 99年庚午(70) 140 崇��48辛未(前50)年年24
12 景行天皇 137 60 60年庚午(130) 106 垂仁37年戊辰(8)年21
13 成務天皇 乙卯(355)  ※295/415 95 60 60年庚午(190) 107 景行46年丙辰(116)年24
14 仲哀天皇 壬戌(362)  ※302/422 52 9 9年庚辰(200) 52 成務48年戊午(178)年31
摂政 神功皇后 100 69 69年己丑(269) 100
15 応神天皇 甲午(394)  ※333/454 130 41 41年庚午(310) 110 摂政3年癸未(203)年3
上の表は「記」に崩年干支の記されている天皇と「書紀」の天皇の崩年干支の対照表です。()内は西暦年、紀年の前は紀元前の事。古事記には紀年が記されず天皇の崩年干支の記されているのは応神以前は上記四天皇のみです。また干支で記されているので例えば崇�濺傾弔両豺臺蠧�(つちのえとら)なので何年の戊寅か推測する問題が生じます。考古学界では
西暦318年説が定説になりつつあるようなので西暦318年としました。同様の論理で成務・仲哀・応神の崩年の推定年も記しています。参考までに崩年推定年の前後の年を青字で記しています。

上表の立太子時の年令から生ずる疑問(「書紀」の記事を参照)
9開化天皇、孝元22年に立太子時の年令が16歳なら崩御時の年令は111歳になります。
10崇�濺傾帖���28年の立太子時の年令が19歳なら崩御時の年令は119歳になります。
11垂仁天皇、崇��48年の立太子時の年令が24歳なら崩御時の年令は143歳になります。
12景行天皇、垂仁37年の立太子時の年令が21歳なら崩御時の年令は143歳になります。
「書紀」は崩御時の年106歳(130)と記しますが、是が正しいなら生年は垂仁53年(24)になり立太子時の垂仁37年(8)にはまだ景行天皇は生まれていません。そして立太子時の年令が21歳なら即位は84歳になり崩御時の年令が143歳になります。
13成務天皇、景行46年の立太子時の年令が24歳なら崩御時の年令は98歳になります。
14仲哀天皇、成務48年の立太子時の年令が31歳なら崩御時の年令は53歳になります。
13成務崩年が西暦190年(辛午)で14仲哀元年(壬申)なので、その間の辛未年が空位となります。空位の1年についての記述
は有りません。
 上表は「記紀」ともに紀年を西暦に変えています。「記」はいずれも記載の干支を西暦にしましたが推定です。但し「書紀」は書紀紀年を基に西暦に変えています。

此の表で判る様に古代の天皇は14仲哀天皇以外は常識では考えられない長命です。弥生時代の人の寿命は平均30~35歳と云う説も有ります。平均寿命35歳(推定)から見ると即位時の年令が、いずれも現実離れしているのが解ります。上表で見ると即位年令が40~50代になり即位後に后を娶(めと)り皇子女を設けている天皇もあり記述に疑問があります。また立太子制度は七世紀以後に出来たという説も有りますが、中国の歴史書「宗書」や「南斉書」に記される「倭の五王」の中に「世子興」と記された箇所があり、是で見ると400年代に倭には「皇太子(ひつぎのみこ)」という世継制度が存在したと考える事も出来ます。初代神武天皇~15応神天皇までの皇位相続は父子の間で行われていますが、16仁徳天皇以後は皇位を巡り権力闘争が激しくなる為、早期に皇位継承者を決める様になったとも考えられます。
10代 崇神天皇期 (前97~前30)弥生時代
左 行燈山古墳(伝崇神天皇陵)・右 崇神天皇の瑞籬(みずがき)宮跡

古事記 10代   御真木入日子印恵命   みまきいりひこいにえのみこと
日本書紀 10代   御間城入彦五十瓊殖天皇   みまきいりびこいええのすめらみこと
「記紀」に記される9代以前の天皇と10崇�濺傾弔箸力�鳩鷲茲傍震笋�△蠅泙垢�∋誉さ�蘰�房尊澆靴紳膕Δ版Г瓩觜邑迭惻圓諒�眤燭�▲筌泪伐Ω△僚藺絏Δ塙佑┐訐發�㍊呂任后�靴�祁膸鉾�紊粒訃覯δ��蘓鮨静傾弔忙呂泙觧偉慍δ�悗硫δ�鯊慇發盧���減澆靴泙后��澆領�ゲδ�眦銈簑舂κ顕修魑杣�靴針牟綵�療詫莊呂凌傭��豼�靴謄筌泪伐δ�瀘�癲⊆拉和羚颪�薀筌泪箸旅訛欧悗寮�∩犠傔眦銈�△蠅泙后�靴�靴い困譴寮發蘯他攣卜舛�覆�簑�琉茲鮟个覆い茲Δ任后�
 「記」の崇�濺傾諜Ⅸ�
「記」に記す此の天皇、木の國造(きいのくにのみやつこ)の荒河刀弁(あらかわとべ)の娘の遠津年魚目々微比売(とおつあゆめまくわしひめ)を娶(めと)り生まれた御子は豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)次に豊鍬入日売命(とよすきいりひめのみこと)の二柱。また、尾張連(おわりのむらじ)の祖先の意富阿麻比売(おほあまひめ)を娶(めと)り生まれた御子は大入杵命(おほいりきねのみこ)次に八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)次に沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)次に十市之入日売命(とてちのいりひめのみこと)の四柱。また、大?古命(おおびこのみこと)の娘、御真津比売命(みまつひめのみこと)を娶(めと)り生まれた御子は伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと/11垂仁天皇)次に伊耶能真若命(いざのまわかのみこと)次に国片比売命(くにかたひめのみこと)次に千々都久和比売命(ちぢつくわひめのみこと)次に伊賀比売命(いがひめのみこと)次に倭日子命(やまとひこのみこと)の六柱。此の天皇の御子達合わせて十二人。
崇�濺傾弔慮翅紊鳳嵒詑�(えやみさわ)に起こり、人民尽(おほみたからつ)きなむとす。天皇愁歎(うれ)へたまひて、神牀(かむとこ)に坐(いま)す夜に御夢に顕(あらは)れて曰(の)りたまはく「是(こ)は我が御心ぞ。故意富多々泥古(かれおほたたねこ)を以(も)ちて我が前を祭らしめたまはば、神の気起(けお)こらず。国も安平(やすら)かにあらむ」とのりたまふ。 ※神牀(かむとこ)神意を知るため心身を清め寝る床。
是を以ち、駅使(はゆまづかい/はやうま)を四方に班(あか)ち、河内の美努(みの)村に其の人を見得(みえ)て貢進
(たてまつ)る。天皇問い賜はく、「汝は誰が子ぞ」答えて「僕(やつかれ)は大物主大神(おほものぬしのおほかみ) 、陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)」活玉依?(いくたまよりびめ)に娶(あ)ひて生める子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、建甕遣命(たけみかつのみこと)の子、僕(やつかれ)意富多々泥古(おほたたねこ)」と白(まを)す。是に天皇いたく歓びて詔(の)りたまはく「天(あめ)の下平(したたひ)らぎ、人民(おほみたから)栄えなむ」とのりたまひ、意富多々泥古を以ち、神主として、御諸山(みもろやま/三輪山)に、意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまふ。また伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せ、天の八十(あめのやそ)びらかを作り、天つ神(あまつかみ)・地つ祗(くにつかみ)の社(やしろ)を定め奉(まつ)りたまふ。また宇陀の墨坂神(すみさかのかみ)に赤色の楯・矛を祭り、また大坂の神に墨色(くろいろ)の楯・矛を祭り、また坂の御尾(みを)の神と河の瀬の神に悉く遺忘(わす)るること無くして幣帛(みてぐら)を奉(たてまつ)りたまひき。此れに因りて?(え)の気悉(けことごと)く息(や)み、国家安(くにいえやす)らかに平(たひ)らかなり。
※天の八十(あめのやそ)びらか 見込みが内側に斜面状の器。
 宇陀の墨坂神
(すみさかのかみ)奈良県宇陀市に墨坂神社有り、伊勢街道で大和との交通の要衝の道祖神か?。
 大坂の神 奈良県香芝市穴虫に大坂山口神社有り、穴虫峠は大和と河内との交通の要衝地。
 赤色の楯・矛 中国では赤色は魔性の侵入を防ぐ呪力をもつ色とされる。大坂の神は同じ目的で黒色を使っている。

また此の御世に将軍の派遣記述があり大?古命(おおびこのみこと/8孝元天皇の皇子)を高志道(こしのみち/北陸)に遣わし、其の子、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)は東の方十二道に遣わして、其のまつろはぬ人等を和平(ことけけやは)さしむ。また日子坐王(ひこいますのみこ)は、旦波国(たにはのくに)に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしたまふと、三道に派遣します。大?古命が高志道に向かう途次に山代(やましろ)の幣羅坂(へらさか)で少女の歌から建波迩安王(たけはにやすのみこ)に謀反の兆しありと察し還り天皇に報告、天皇は丸迩臣(わにのおみ)の祖、日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)と大?古命に建波迩安王の討伐を命じる。尓(しか)して天下太平(あめのしたたひ)らかに、人民富(おほみたからと)み栄えゆ。是に初めて男の弓端の調(ゆはずのみつぎ)、女の手末の調(をみなのたなすえのみみつぎ)を貢(たてまつ)らしめたまふ。故其の御世を称(たた)へて、「初国知(はつくにし)らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」と謂ふ。また此の御世に、依網池・軽の酒折池を作る。天皇、御歳壱百陸拾捌歳(みとしももあまりむそちあまりやつ/168)戊寅(つちのえとら)の年の十二月崩りましぬ。御陵は、山辺道の勾(まがり)の崗(おか)の上に在り。
※建波迩安王 8孝元天皇の皇子で大?古命とは異母兄弟になり、崇�濺傾弔僚派磴砲覆襦�
 男の弓端の調・女の手末の調 男が弓の狩猟で得た獣皮等・女の手作業による織物、糸等で貢納税
(古代の税)
 此の御世に始めて人民に税制が設けられた事を記す。

 此処で始めて天皇の崩年干支を記す。
 「書紀」の崇�濺傾椎��  ()内の数字は書紀の紀年を西暦に換算したものです
「書紀」崇�濺傾弔漏�重傾弔梁萋鷸劼覆蝓J譴魄帽畤�飜�(いかがしこめのみこと)と曰(まう)す。物部氏(もののべし)の遠祖(とおつおや)麻杵(おほへそき)の女(むすめ)なり。天皇、年十九歳にして皇太子に為りたまふ。
開化天皇10年(前148) 誕生。
開化天皇28年(前130) 1月、皇太子に立てられる。
崇神天皇元年(前97)  1月、春正月十三日、皇太子、御間城入彦五十瓊殖命(みまきいりひこいにえのみこと)即位
           2月、御間城姫(みまきひめ)を立てて皇后とする。是より先に后、活目入彦五十狭茅天皇            (いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)、彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)、           国方姫命(くにかたひめのみこと)、千千衝倭姫(ちちつくやまとひめのみこと)、倭彦命(や            まとひこのみこと)、五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)を生まれます。又妃紀伊国(ま            たのみめ、きのくに)の荒河戸畔(あらかわとべ)の女(むすめ)、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあ            ゆめまくはしひめ)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、豊入姫命(とよすきいりひめ            のみこと)を生む。次妃(つぎのみめ)尾張大海媛(をはりのおほしあまひめ)、八坂入彦命             (やさかのいりひこのみこと)、渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)、十市瓊入姫命             (とをちにいりひめのみこと)を生む。
崇神天皇5年(前93)  疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
崇神天皇6年(前92)   疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を            皇居の外に移した。
崇神天皇7年(前91)  2月、天皇、今朕が世において災厄が多い事は何故か、神祇に占うと神明倭迹々日百襲           姫命(かみやまととひももそひめのみこと)に乗り移り託宣する。「天皇、何ぞ国の治(をさ            ま)らざること憂ふる。若し能く我を敬(うやま)ひ祭らば、必ず当(まさ)に自平(たひら)           ぎなむ」と。「かく教(のたま)ふ神はいずれの神ぞ」と聞くと「我は倭国の域(さかい)の内           に居る神、名を大物主神と謂ふ」この教えのままに祭れども災厄の収まる気配なし。天           皇、沐浴斎戒して「願わくば夢の中に教えて神恩をたれたまえ」と願うと、夢に一人の           貴人が現れ「天皇、何を憂えます、国の治ら無いのは、吾が意(こころ)ぞ、若し吾が児           大田田根子(おほたたねこ)に吾を祭らせれば立ちどころに災厄は収まる。亦、海外の国           も自づから帰服してくる」と託宣する。
           11月、夢の通りに大田田根子を大物主神の神主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)           を倭大国魂神の神主としたところ、疫病は終息し五穀豊穣となる。
崇神天皇10年(前88)  9月、四道将軍派遣、大彦命(おほひこのみこと)を北陸・武渟川別(たけぬなかわわけ)を           東海・吉備津彦(きびつひこ)を西道・丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)を丹波に派           遣。大彦命が和珥坂(わにさか)で少女の歌を不審に思い、引き返し天皇に報告、是に天           皇の姑倭迹迹日百襲姫(みをばヤマトトトヒモモソヒメ)命、聡明(さと)く叡智(さか)しく           して、能く未然(ゆくさきのこと)を識りたまへり。乃ち其の歌の怪(しるまし)を知りて           天皇に武埴安彦の叛乱を察知し天皇に助言する。ヤマトモモソ姫は7代孝霊天皇
            (前290~前215)の皇女なので10代崇神天皇(前97から前30)の御代には、かなりの老齢にな            っている筈ですが更にこの後、ヤマトトモモソヒメと大物主神との神婚物語が三輪山           伝説となり箸墓を「ヤマトトトヒモモソヒメ」の墓とする説が生まれます。武埴安彦の           叛乱鎮圧。
崇神天皇12年(前86)  9月、戸口を調査し、男の弓端の調(ゆはずのみつぎ)、女の手末の調(をみなのたなすえの            みみつぎ)の課役を科す。天下平穏となり、天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみ            こと)」と称えられます。
崇神天皇48年(前50)  4月、活目命(いくめのみこと)を皇太子とした。
崇神天皇60年(前38)  7月、天皇、出雲大神の宮に蔵(をさ)む、神宝を見欲(みまほ)しとのたまふ。飯入根(い             いいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根(いずものふりね)が飯入根を謀殺するが            天皇、吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を遣わし出雲振根を誅殺させる。
崇神天皇65年(前33)    7月、任那国が蘇那曷叱知(ソナカシチ)を遣わして朝貢した。
崇神天皇68年(前30)   12月、天皇崩御。68年の冬12月の戊申(つちのうさる)の朔壬子(ついたちみづのえねのひ             )に、崩(かむが)りましぬ。時に年120歳。
垂仁天皇元年(前29)   10月、山邊道勾岡上陵に葬られた。

※神明倭迹日百襲姫命(かみやまとととびももそひめのみこと)は7孝霊天皇の皇女で孝霊2年条に生誕記事あり、8孝元天皇治世57年、9開化天皇治世60年で崇�滷掲�某牲釮�蠅靴禿傾弔鳳嵒造鈴�(しづ)め方を教えたと記すが此の時の百襲姫の年令は推定170歳位になる、尚崇��10年9月条、では百襲姫が大物主神の妻となるも神の正体を知るや箸で(ほと)を撞き自殺し大市(おほいち)に葬られ、その墓を名付けて箸墓と云う三輪山伝説があります。
丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)は「記」によると9開化天皇の皇子、日子坐王と息長水依比売との子の丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)の事。
依網池(よさみいけ)大阪市住吉区。軽の酒折(さかをりのいけ)奈良県橿原市。「書紀」では河内の狭山池(さやまいけ)、苅坂池(かりさかいけ)、反折池(さかおりいけ)。一に云わく天皇桑間宮(くはまのみや)に居まして、是の三つの池を造ると云う。桑間宮は住吉の粉浜の事か 「書紀」の崇神天皇六十二年に「冬十月、依網池を造る」とあり、応神天皇十三年に天皇が「水渟(たま)る依網池に……」と詠んだ歌があり、既に依網池が存在しているように思われますが、依網池の築造は推古十五年(607)の造池記述が亦推古天皇15年にも「依網池を造る」記述があり、崇�漾Ρ�栖釮梁っ啜Ⅸ劼砲和ず邉Ⅸ劼竜刃任�燦釮任后�泙振校鈎咾�19882002までの平成の大改修の際の調査により 狭山池最初の樋菅木材が年輪年代測
法により伐採されたのが616年(推古24年)と判定された結果があり池の築造は伐採後の10~15年後位と推測されています。依網池は、狭山池から流れる西除川の河水などを集水して水源としていますので7世紀初頭頃の造池と思われます。

二人の「ハックニシラススメラミコト」
「書紀」は神武天皇の和風諡号は神倭伊波礼?古(カムヤマトイハレビコ)ですが「初駆天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の美称で記します。ところが今一人「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」の美称を持つのが10代
崇神天皇です。天皇の和風諡号は御真木入日子印恵(ミマキイリヒコイニエ)で、こうした長い名の和風諡号が文字の無い時代から「書紀」編纂時の7世紀まで語り継がれて来たのだろうか。「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の40代天武天皇または41代持統天皇の時代とするのが現代の通説の様です。




次の「書紀」一伝は垂仁期のものですが本文と異なり崇神天皇の皇祖神の祭祀や出自に疑問を抱かせる記述であり、「書紀」がこの様な記述を併載するのは書紀編纂時の七世紀頃に既に崇神天皇の出自に関する疑義があり、異伝として記載したものでは。 「記紀」の記述で崇神天皇の出自を見ても母(庶母)に疑義があります。「記」の記述では『若倭根子日子大?々命(わかやまとねこひこおほびびのみこと/開化天皇)は庶母(ままはは)伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)に娶ひて生ませる御子、御間木入日子印恵命(みまきいりひこひにえのみこと/10崇�濺傾�)次に御間津比売命(みまつひめのみこと)二柱。』
書紀は『七年春二月、稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/開化)は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を立てて皇后とする。是は庶母(ままはは)なり。皇后は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこひにえのみこと/崇�濺傾�)を生まれます。』「記紀」記述内容は同じです。
イカガシコメノミコトを是は庶母(ままはは)と記すのは、イカガシコメノミコトは8孝元天皇の妃で比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでいます。次の9開化天皇は庶母を皇后に迎えたことになります。イカガシコメノミコトは8孝元、9開化の親子二代の后になって開化天皇との間に10崇�濺傾弔鮴犬鵑任い泙后��濺傾弔砲箸辰討亙譴任睛④蠢鎚譴任發△襪箸いΔ海箸砲覆蝓⊃�呼颪は辰任后�
垂仁25年3月条、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離(はな)ちまつりて倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮(しづ)め坐(ま)させむ処を求めて菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。更に還りて近江国に入りて、東美濃を巡りて伊勢国に到る。時に天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰(のたま)はく「是の神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居(を)らむと欲(おも)ふ」とのたまふ。故(かれ)大神の教の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いはいのみや)を五十鈴川の川上に興(た)つ。是を磯宮
(いそのみや)と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。
※大国魂神(やまとのおほくにたまのかみ) 本来は国玉神は其の国の経営に功のあった神の事であるが、此処では大国主命と大国魂神が同一視されているようです。
渟名城入姫命
(ぬなきのいりひめのみこと) 崇�濺傾弔旅捗��
磯堅城(しかたき) 石の堅固な城の意味か?
神籬(ひもろぎ) 神社や神棚以外の場所に於いて祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。右写真は六甲山頂にある天穂日命(あまのほひのみこと)の神籬。

菟田の筱幡(ささはた) 大和国宇陀郡榛原町に筱幡神社有り。
傍国
(かたくに) 大和中心とする見方からすると、伊勢はわきにある国になる。

「書紀」一に云はく  上記記述に続き「一(ある)云はく」として次の様に記されてています。
天皇、倭姫命(やまとひめのみこと/垂仁天皇皇女)を以て御杖(みつえ)として天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ。是を以て倭姫命、天照大神を以て、磯城の巌橿(しきのいつかし)の本(もと)に鎮(しづ)め坐(ま)せて祀る。然(しかう)して後に神の誨(をしえ)の随(まにま)に、丁巳(ひのとみ)の年の冬十月の甲子(きのえね)を取りて、伊勢国の渡遇宮(わたらいのみや)に遷(うつ)しまつる。是の時に倭大神、穂積臣(ほつみのおみ)の遠祖大水口宿禰(とほつおやおほみくちのすくね)に著(かか)りたまひて、誨(をし)へ曰(のたま)はく「太初(もとはじめ)の時に、期(ちぎ)りて曰(のたま)はく『天照大神は悉く天原(あまのはら)を治(しら)さむ。皇御孫命(すめみまのみこと)は、専(たくめ)に葦原中国(あしはらのなかつくに)の八十魂神(やそみたまのかみ)を治(しら)さむ。我は親(みづか)ら大地官(おほつちつかさ)を治(しら)さむ』とのたまふ。言巳(いふことすで)に訖(をは)りぬ。然るに先皇御間城天皇(さきのみかどみまきのすめらみこと/崇�濺傾�)、神祗(あまつかみくにつかみ)を祭祀(いはひまつ)りたまふと雖(いへど)も、微細(くは)しくは末(いま)だ其の源根(もと)を探りたまはずして、粗(おろそか)に枝葉(のちのよ)に留めたまへり。故(かれ)其の天皇命短(すめらみことみいのちみじか)し。是を以て、今汝御孫尊(いまいましみまのみこと)、先皇(さまのみかど)の不及(かけたること)を悔いて慎み祭(いは)ひまつりたまはば、汝尊(いましみこと)の寿命延長(いのちなが)く、復天下大平(またあめのしたたいら)がむ」とのたまふ。時に天皇、是の言(みこと)を聞(きこ)しめして、則ち中臣連(なかとみのむらじ)の祖探湯主(おやくかぬし)に仰(みことおほ)せて、卜(うらな)ふ。誰人(だれ)を以て大倭(おほやまと)大神を祭らしめむと。則ち渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)、卜(うら)に食(あ)へり。因りて渟名城稚姫命に命(みことおほ)せて、神地(かむところ)を穴磯邑(あなしのむら)に定め、大市(おほち)の長岡岬(ながおかのさき)を祠(いは)ひまつる。然るに是の渟名城稚姫命、既(すで)に身体悉(みみことごとく)に痩(やさか)み弱りて祭(いは)ひまつること能(あた)はず。是を以て、大倭直(おほやまとのあたひ)の祖長尾市宿禰(おやながをちのすくね)に命(みことおほ)せて、祭(まつ)らしむと云う。                     下写真尾上御陵(おべごりょう)は伝倭姫陵とされる古墳
この一伝は「書紀」にのみ記載され「記」には記されていません。
倭姫命 垂仁天皇の皇女。伊勢神宮の初代斎宮で景行期には東征する日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙劒を授けて送り出した伝承もある。

巌橿(いつかし) 神霊の憑代(よりしろ)となる神木。 
伊勢国の渡遇宮
(わたらいのみや)現伊勢神宮の内宮。

倭大神(やまとのおおかみ) 倭大国魂神のこと。  
皇御孫命
(すめみまのみこと) 代々の天皇のこと。

大地官(おほつちつかさ) 国魂即ち地主神のこと。
其の天皇命短(みいのちみじか)し。其の天皇(10崇�濺傾�)崇神天皇崩年は崇��68年で年120歳と記す本文の記述と相違する。
長尾市宿禰
(おやながをちのすくね) 垂仁3年条、倭直(やまとのあたひ)の祖、長尾市(ながをち)を播磨に遣わし天日槍(あめのひほこ)を尋問させる記述あり。
 
「書紀」紀年では崇�瀛��狼�義�30年辛卯(かのとう)年で「記」の推定崩年(西暦318年)と348年差となります。
「記」には紀年がなく、天皇の崩年も10代崇�濺傾弔能蕕瓩栃��鎧戮�④気譟�13成務・14仲哀・15応神と15代までの天皇で崩年干支の記されているのは、この4代のみです。これについても崩年干支の記されない天皇は実在しない。「記」の完成後に書き加えられた等の異論があります。
確かに日本に暦が伝来したのは「書紀」によると29代欽明天皇15年(554)二月条、易博士施徳王道良(やくのはかせせとくわうどうりょう)・暦博士固徳王保孫(こよみはかせとくわうほうそん)・医博士奈率王有陵陀(くすしのはかせうりょうだ)が百済から派遣された記述がありますが暦が実用化されたか否かは解りません。 
33代推古天皇十年(604)冬十月条、百済の僧観勒(かんろく)来けり。仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書、併せて遁甲方術(とんこうほうじゅつ)の書を貢(たてまつ)る。是の時に、書生(あみまなぶるひと)三四人を選びて、観勒に学び習はしむ。 また、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用(じゅんよう)して、時刻に十二支を配し、子(ね)を真夜中としたのは33代推古天皇十二年(604、甲子(きのえね)の年)の正月のことであったと云われます。41代持統天皇四年(690)十一月十一日条、詔(みことのり)を奉(うけたまは)りて始めて元嘉暦(げんかのこよみ)と儀鳳暦(ぎほうのこよみ)とを行ふ。と「書紀」には記されています。弥生・古墳時代に暦があったか無かったかは不明です。日を数えるために十干、月を数えるために十二支が使われていたと云われますが実態は不明です。こうした事から見ると「記」の崇�濺傾弔諒��「戊寅(つちのえとら)」の年にも疑問が生じます。
崇神天皇に纏わる謎
崇�濺傾弔砲�「初国知天皇(はつくにしらししすめらみこと)」の称号と実在した天皇という説と略奪王朝説等や大陸文化を吸収した北九州の渡来系の人達が東遷してヤマト王朝設立した説、邪馬台国からヤマトの豪族への政権禅譲説・朝鮮半島の任那国からの渡来説等の諸説があります。崇�濺傾弔�「記紀」によるとヤマト王朝、10代目の王で父は9開化天皇。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で物部氏の遠祖(とおつおや)大綜麻杵(おほへそき)の女(むすめ)です。今日多くの考古学者の方達は欠史八代として崇�濺傾聴柄阿領鯊綸傾弔韮佳繞渓�腺溝絣�修泙任療傾弔鮗尊澆靴覆づ傾弔箸靴瞳膸鉾�紊箸垢訐發�㍊呂任后�いΔ覆譴仆藺綽隻陲魏辰┐瞳膸剖綢紊箸垢詈��匹い隼廚Δ里任垢�燭�粒惻圓諒��呂匹�廚錣譴襪里任靴腓Δ�
天皇 和風諡号
1 神武 カムヤマトイハレヒコ
2 綏靖 カムヌナカハミミ
3 安寧 シキツヒコタマテミ
4 懿徳 オホヤマトヒコスキトモ
5 孝昭 ミマツヒコカエシネノ
6 孝安 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト
7 孝霊 オホヤマトネコヒコフトニ
8 孝元 オホヤマトネコヒコクル
9 開化 ワカヤマトネコヒコオホビビ
10 崇�� ミマキイリヒコイニエ
11 垂仁 イクメイリヒコイサチ
12 景行 オホタラシヒコオシロワケ
13 成務 ワカタラシヒコ
14 仲哀 タラシナカツヒコ
神功皇后 オキナガタラシヒメ
15 応神 ホムダワケ

前述したように崇�濺傾弔�「記紀」が記す出生にも疑問があります。以下に崇�濺傾弔亡悗垢覽震笋鯲鶺鵑靴討澆泙靴拭�
■1.崇神天皇出生の疑問
「記」の記述、開化天皇が庶母伊迦賀色許売命(ままははいかがしこめのみこと)と婚姻して御真木入日子印恵命(みまきいりひこひにえのみこと/崇��)を生む。
「書紀」の記述、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を皇后とし、御真城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)を生まれます。是は庶母(ままはは)なり。「記紀」ともに10崇神天皇の母を「庶母」と記します。それは左記系譜に見られる様に「イカガシコメノミコト」は8代孝元天皇に娶(めと)ひて比古布都押之信命(ひこふつおしのみこと)を生んでおり、次の9代開化天皇にも娶(めと)ひて10代崇�濺傾弔鮴犬澆泙后�召辰導�重傾弔砲箸辰討禄酳�(ままはは)に当たる伊迦賀色許売命と婚姻して10代崇�濺傾弔鮴犬鵑任い泙后�泙真鮨静傾弔砲箸辰�「イカガシコメノミコト」は母親であり祖母でもあり是はとんでもない異世代婚になります。
「記」は孝元天皇の歿年令を57歳。「書紀」は歿年令の記載は記されませんが在位年数を57年(前214~前158)としており、是で推測すると15歳で即位しても崩御は72歳となり、「イカガシコメノミコト」が孝元・開化と2代の天皇に娶ひて(「記」5人・「書紀」4人)の御子を生んだとは信じ難い話です。 この様な異世代婚が弥生時代に存在したのでしょうか
2.「書紀」垂仁25年の異伝について
「書紀」垂仁25年に「一に曰わく」の異伝を記載しているが「書紀」編纂時に既に崇�濺傾津詫荵畭伽發�減澆靴討い燭里任�と思わせる様な記述です。
垂仁25年条、『先皇(さきのみかど/崇��)天神地祇(あまつかみくにつかみ)を祭られたが、その祭祀方法の詳細を知らないままに祭った為、崇�濺傾弔話嗣燭世辰拭�戮筏④垢�「記紀」本文では「記」は168歳。「書紀」120歳と記され長命です。しかし「書紀」一伝には本文とは異なる記述「崇�濺傾弔賄型澄γ狼�(あまつかみ、くにつかみ)をお祀りしたが詳しく、お祀りする方法を調べず、適当にお祀りしたため災厄があり天皇も短命であった」と記すが、ヤマト王朝10代王ならば歴代王の祭祀にならってお祀りしているはずで祖神の祭祀方法を知らない筈は無い。亦、「記」によると崇神天皇の歿年令は168歳で古代天皇の中で最も長命です。「書紀」は120歳と記します。但し「記紀」の年令記述には疑問があるのも事実です。
亦、大国魂神(おほくにたまのかみ)を皇女の渟名城入姫(ぬなきのいりひめ/崇�濆捗�)に祭らせたが姫の髪抜け身体痩せ衰えて祭ること適わずとある。亦、天照大神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと/崇�濆捗�)につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせたが垂仁天皇25年3月10日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(やまとひめのみこと垂仁天皇皇女)に託された後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、最終に伊勢に辿りつき鎮座する事になります。この遍歴期間を数年とする説や80数年とする説もあります。
大国魂神は崇�濺傾弔塙捗�涙枳松詁�韻忘厂颪鳰�(もた)したが、天皇はひたすら大国魂神の鎮静化を図り皇祖神である天照大神を三輪山の地から離すのは何故。出雲の神である大国魂神がヤマトに鎮座し、皇祖神と云われる天照大神がヤマト政権の本拠地である三輪山に祀られるのが本来の姿ではないのでしょうか?
大神神社と書いて読みは「おおみわじんじゃ」。祭神は大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、配祀神は大己貴神
(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の二柱。何れも大物主大神と出雲国造りに従事した神です。
亦、「記紀神話」によると大国主神は少彦名神と共に出雲の国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために、国造り中ばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と困っていると、遥か向こうから海上を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)であり、神曰(かみい)わく「吾(われ)を大和国の東の山の上に祀れば国造りに協力する」と云う。この神が御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神であるという。この神を祀ったのが大神(おおみわ)神社と大和(おほやまと)神社であると云う。
※幸魂奇魂 「幸魂奇魂守給幸給(さきみたま くしみたま まもりたまえ さきはえたまえ)」は出雲大社の神語、即ち唱詞(となえことば)の事で大国主神は、「幸魂奇魂」の存在を知り、そして自分自身の中に潜む「幸魂奇魂」の霊力により「縁結びの神」になられた。出雲大社の解説より。
上写真 左三輪神社の大鳥居  中 三輪神社拝殿  三輪(みわ)神社、亦 [大神神社]と書いて「おおみわ神社」と呼ばれています。祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。 配神は大己貴神(おおむなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の二神。『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れとば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったといわれます。神話では三輪神社の祭神、大物主神は出雲の神である大国主の協力者になっているが「書紀」では大国主神の和魂(にぎたま)と記され、事代主(ことしろぬし)神と同じ大己貴(おおなむち)神の別名とも云われます。
右 日本酒の造り酒屋の軒先に吊るされた杉玉の風習は酒造りの神である大物主の神力が古来杉に宿ると云われる為だそうで、また新しく吊るされた杉玉は青々としているが、次第に茶色に変色して来て是が新酒の熟成具合を知る目安になるそうです。
3.崇�濱��δ��
崇�濺傾弔鯏詫莊狼廓鰐餌欧砲茲訐��δ�料弔箸垢訐發發△蝓⊃�濺傾弔力舵�觜罎�「ミマキイリヒコイニエ」であるところから「ミマキ」を朝鮮半島南部の「任那(ミマナ)」と関連付けして任那王族の一人が渡来して来て
北九州の伊都国に上陸東遷しヤマトに入り王朝を設立した。と言うのが崇�濱��δ�發任后K�「記紀」にはこの様な記述も有り「記」此の天皇の御代に、疫病(えやみ)(さは)に起こり人民(おほみたから)尽きなむと為(す)。「書紀」国内(くにのうち)に疫病多(えのやまひおほ)くして、民死亡(おほみたからまか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす。百姓流離(おほみたからさすら)へぬ。或いは背叛(そむ)くもの有り。この様な疫病が蔓延したのは崇�澆鬟蝓櫂澄櫃箸垢訶詫莉乎弔�牟綵��蘚豼�靴撞ζ發貌�辰燭箸④法∋�噌�泙譴燭發�、で其れまでの倭国に存在しない病原菌が持ち込まれ、免疫のない倭人の間に蔓延したとする説もあります。この説に対する反論もあり、崇�濺傾弔了�紊�「書紀」では紀元前97年~前30年としていますが、「記」は此の天皇の崩年を戊寅(つちのえとら)の年と記しており、これを西暦に換算すると258年・318年・378年の何れかに相当すると云うのが学会の見解であり、318年説を支持する説が多数で318年説が通説とされています。朝鮮側の史料では当時「伽耶(カヤ)」「加羅(カラ)」「金官(キンカン)」の国名が使われており、「任那(ミマナ)」の名は倭国で「任那日本府」等として使われていた様です。崇�濺傾弔砲禄仞犬�「書紀」一伝記述等の疑問はありますが、大陸や朝鮮半島からの征服王朝である確証もなく、「記紀」の記す「初国知(はつくにし)らしし天皇」としての確証もなく、この時代は全く謎の世紀です。
■4.行燈山古墳(伝崇�濺傾栂�)への疑問
崇�濺傾栂佑砲弔い�「記」は御陵は山辺道の勾(やまのべのみちのまがり)の崗
(をか)の上に在り。「書紀」山辺道上陵(やまのべのみちのへのみささぎ)に葬りまつる。 崇�濺傾栂佑脇猯標�畦�毀�椶砲△蠅泙�(左図参照)。現在の考古学会では天皇名を付けた古墳名は避け本来の古墳名を使用するべきと云われています。崇�濺傾栂佑蝋堙��(あんどんやま)古墳が本来の名です。
「記紀」では「山辺の道上稜・山辺道の勾の上と記しますが左図で判る様に 山辺の道(点線)の上では無く下にな
り山辺道の勾の崗の上陵に合致するのは大和古墳群の中では西殿塚古墳(衾田陵(ふすまだ)/伝手白香皇女タシラカノヒメミコの陵)です。西殿塚古墳は古墳時代前半の3世紀後半頃の築造と推定され、ヤマト王権の大王墓と推定されますが被葬者は不明です。現在は宮内庁により手白香皇女(たしらかのひめみこ/26継体天皇皇后)の陵に治定されています。しかし3世紀後半とされる築造年代と6世紀初頭の手白香皇后の年代では年代差が違い過ぎる事から卑弥呼か後継者の壹與(台与)とする説もあります。伝崇�瀘佑旅堙�蓋妬�蓮⊇佚敝覆�藐妬��總梓鋐緘召�4世紀前半頃の築造と推定されています。渋谷向山古墳(伝景行陵)とともに初期ヤマト王権の大王墓と推定されいますが被葬者は不明です。亦この行燈山古墳について次のような来歴があります。寛政9年~享和元年(1797~1801)蒲生君平が「山陵志」で安政
2年(1855)景行天皇陵に治定されます。元治元年(1864)柳本藩による修陵工事の際、銅板の出土。銅板は後円部南側から出土したもので現在は所在不明ですが拓本が残されていて、拓本によれば銅板は長方形で、長辺70cm・短辺53.8cm片面には内行花文鏡に似た文様を、他面には田の字形の文様があったと云われます。慶応元
(1865)崇神天皇陵に治定変更されます。慶応3年(1867)谷森善臣が「山陵考」で崇神天皇陵に比定した為、明治期、宮内省により崇神天皇陵に治定変更され現在に至っています。この陵墓の治定変更について平成22年11月18日の国会質問で取り上げられており詳細を転載していますのでご覧下さい。右の写真は行燈山古墳(崇�瀘�)の近くの長岳寺にある弥勒石棺佛(みろくせっかんぶつ)で、此の石棺佛は行燈山古墳の石室天井石を転用したと云う伝承がありますが、この古墳の盗掘については真偽不明です。
■7.崇�濺傾弔亮打�紊砲弔い董�
「書紀」の紀年は信じ難いので「記」に初めて記された崇神天皇の崩年干支「戊寅(つちのえとら)年」が西暦何年に当たるのか。亦「記」の記す崇�濺傾弔諒��鎧戮凌�畧④�
現在此の、「戊寅(つちのえとら)年」が何時に当たるのか諸説あり西暦258年・318年・378年説がありますが定説化されているのが西暦318年です。また弥生期の人の平均寿命は30~35年と云われており、これを基準にして崇�濺傾弔亮�燭�35年と仮定して歿年から逆算すると生年は西暦283年になり、200年代末から300年代初頭が崇�濺傾弔了�紊砲覆蠅泙垢�△海譴箸道卜舛亡陲鼎�發里任鰐気�「記」の崩年干支に基づき割り出したものです。今一つは、此の時代に干支という暦が存在したのかという疑問です。日本に暦が伝来したのは6世紀から7世紀頃といわれますが確定的なことは解らないのが現状です。欽明天皇15年(555)、日本側の求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日。推古天皇10年(602) 百済の僧観勒(かんろく)が来日、暦本などを献上。陽胡(やこの)玉陳(たまふる)が暦法を、大友村主(おおとものすくり)、高聡(こうそう)が天文・遁甲(とんこう)を習う。 奈良石神遺跡で持統天皇3年(689)の具中暦木簡が出土しているので、此の頃には政府内では実用されていた可能性があります。以上が「書紀」の記す暦伝来記述です。「記」の天皇の崩年干支は7世紀の編纂過程に於いて挿入された可能性があり信憑性に問題がある様です。
日本書紀 古事記

燈山古墳は崇神天皇陵か?
崇�濺傾弔両豺�「記」に記されている『天皇、御歳壱百陸拾捌歳(みとしももちあまりむそちあまりやつ)、戊寅(つちのととら)の年の十二月崩(かむあが)りましぬ。御陵は、山辺道の勾(まがり)の崗の上に在り』の記述があり、これを手懸かりに考察をしますと崩御の年「戊寅(つちのととら)」について考古学者の方は西暦258年・318年・378年説があり318年説が有力な様です。陵墓に付いては奈良県天理市柳本町にある行灯山古墳(あんどんやまこふん)が宮内庁により崇神天皇の陵に治定されていて築造時期については四世紀前半頃(300~330)の築造と推定されています。当時の古墳の築造について生前から工事に着手していたのか崩御後の着手かにより、完成時期が大きく変わりますが、崇�瀛���318年とすると陵墓の完成時期と崇�瀛��北圭發�犬犬詬佑忙廚錣譴泙后�泙真�澳釮鳳嵒造領�圓�「人民尽(おおみたからつ)きなむとす」と「記紀」は記しており、人口が半減した中でヤマト地域には古墳時代出現期の古墳として纏向石塚古墳・黒塚古墳(天理市) があり距離的には少し離れますが椿井大塚山古墳(木津川市)があり、古墳時代前期の古墳として西殿塚古墳・行燈山古墳・渋谷向山古墳・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳・箸墓古墳があり、いずれも初期ヤマト政権の大王墓に相応しい立派な古墳でありますが、「記紀」の記述によると「国内に疫病が流行し、民死亡(おほみたからまか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす」とあり、この様な後で此れらの古墳の築造人員を何処から動員したのか。崇�濱�△寮�老�浪申茲泙乃擇鵑任い燭里�。3世紀~4世紀中葉にヤマト地方に作られた墳丘長150m以上の前方後円墳だけで7基、更に130~70m級の古墳か多く存在します。是らの築造に要した人員だけでも膨大な数になります。
研究者による古代の人口推計と、その根拠を記したものがありますので下記に一部を転載しました。
年(西暦) 推定人口 時期 遺跡数 推定人口 国名 郷数 725年 800年 900年
紀元元年  300.000 縄文中期(4300年前) 118 3.800 山城 78 85.700 219.600 185.000
紀元200年  700.000 縄文後期(3300年前) 183 4.400 大和 89 171.700 130.300 129.800
紀元300年  600.000 縄文晩期(2900年前) 88 2.100 河内 80 87.900 94.200 82.200
紀元400年 1.500.000 弥生時代(1800年前) 1934 108.000 和泉 24 26.400 26.700 33.100
紀元500年 2.000.000 摂津 78 85.700 12.800 90.800
合計 457.300 583.600 520.900
畿内周辺 503.000 596.300 715.100
上表左端・中は日本国の推定人口。右端は畿内と畿内周辺部の推定人口で地域別推定人口(鬼頭宏, 1996年)よりの転載です。中の遺跡数と推定人口では縄文中期の一遺跡あたりの人口は32人。縄文後期の一遺跡あたりの人口は24人。縄文晩期の一遺跡あたりの人口は約24人。弥生時代の一遺跡あたりの人口は約56人です。   
※畿内周辺=近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨、丹波の8ヶ国です。
上記数字は古田隆彦、三村尚、酒井均、山口正、鬼頭宏、羽賀博、各氏の研究者による古代の推定人口でその根拠は戸数、郡郷数、田積数、課丁数「律書残篇」、「和名類聚抄」、「拾芥抄」、「宋史日本伝」、出挙稲数(弘仁式・延喜式正税帳)、あるいは遺跡の数などを基にモデル計算されていま。上記、研究者による日本の推定人口をまとめたもので、これによると日本の人口が1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられます。亦、上表中の畿内の推定人口は小山修三氏(1978年,1984年)によって推定された縄文・弥生時代の地域別推定人口を、その推定の元となる遺跡数とともにまとめられたものです。
上記の日本国の推定人口では西暦300年代が60万人、400年代が1500万人です。725年代と云えば奈良時代初期にあたり、畿内及び周辺部を含めても人口は96万人です。3世紀~4世紀にかけてヤマト地域に築造された古墳だけでも下表の様に連続しており全長200mを超える巨大古墳が7基も存在します。これらの築造に要した人員を考えると上記の人口では到底無理と考えられますが、上表では300年~400年代の近畿周辺部を含む人口数が解りませんが725年代の人口から見て、多く見積もっても725年96万人の70%で67万人程度と考えますが、崇�澳釮砲�「国内(くにのうち)に疾疫多(えのやまひおお)くして、民死亡(おほみたからまか)れる者ありて且大半(なかばにす)ぎなむとす」とあり、これが事実とするとこの様な状況下で3世紀初頭から4世紀前半にかけて下表に見られる様に多くの古墳が築造されている事実とその時代の人口(推定)の比率をどう解釈すれば良いのか
下表は9開化天皇~15応神天皇の「記紀」に記される崩年と御陵の推定築造時期です。  
9~15代 「記紀」の天皇崩年と御陵の築造時期
代 天皇 宮所在地 御陵 陵長 「書紀」崩年  「記」崩年  御陵築造時期(推定)
9 開化 春日率川宮  春日率川坂上陵 墳丘長100m 紀元前58年         五世紀前半 (500~530)
10 崇�� 磯城瑞籬宮  山辺道勾岡上稜(行燈山古墳) 墳丘長242m 紀元前30年  西暦318  四世紀前半 (300~330)
11 垂仁 纏向珠城宮  菅原伏見東陵(宝来山古墳)    墳丘長227m 西暦70年     四世紀後半 (360~400)
12 景行 纏向日代宮  山邊道上陵(渋谷向山古墳) 墳丘長300m 西暦130年     四世紀後半 (360~400)
13 成務 志賀高穴穂宮  狹城盾列池後陵(佐紀石津山古墳) 墳丘長218m 西暦190年  西暦355  四世紀末頃 (380~420)
14 仲哀 穴門豊浦宮/筑紫橿日宮  惠我長野西陵(岡ミサンザイ古墳) 墳丘長245m 西暦200年  西暦362   五世紀末頃 (460~500)
神功皇后 稚桜宮  狭城盾列池上稜(五社神古墳) 墳丘長267m
西暦269年    四世紀末頃 (360~400)
15 応神 軽島豊明宮/大隅宮  惠我藻伏崗陵(誉田御廟山古墳) 墳丘長425m 西暦312年  西暦394   五世紀初頭 (400~430)
現在の仁徳陵を古代工法で造ると

因に仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳の体積と築造に要した労働力について大林組が算出したものがありますので参考資料として下記に抜粋転載しましたので参考までにご覧ください。
大林組プロジェクトチーム「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」『季刊大林第20号 王陵』大林組 1985年より。
計画の前提条件
1.建設時期は現在1985年(S60)とし、仁徳天皇陵と全く同規模の墳墓を古代工法により再現する
2.建設の範囲は墳丘・2重濠までとし、3重目の濠や陪塚は含まない
3.工事は現代人が古代工法で行い、古代工法は古墳時代当時の土木工事に従う
4.建設場所は現在の陵の敷地とし、地表は雑草・灌木に覆われた洪積台地とする
5.客土材は陵の西側の土取り場より採取する。葺石は石津川から採取する
6.工事関係者の労働条件・労働賃金などは現在の社会に従う
施工条件
1.建設用工具は鉄製または木製のスキ、モッコ、コロを使用する。
2.労働者はピーク時で1日2000人とし、牛馬は使用しない。
3.作業時間は、1日8時間、ひと月25日間とする。
4.建設事務所は陵の敷地内、労務宿舎を客土採取場の中に置く。
その他前提条件
1.作業員数をピーク時で日当たり2000人と設定
2.伐開除根面積は36.86万平方メートル
3.墳丘土量140.5866万立方メートル、外濠掘削・盛土13.9万立方メートル、内濠掘削・4.盛土59.9万立方メートル、客土掘削・盛土74.2万立方メートル
4.葺石536.5万個(1.4万トン)
5.埴輪1.5万個
6.葺石運搬のための水路を掘削
7.埴輪の製造は工事見積もりに含まない
見積もりした工程別の施工期間
1.伐開除根・地山均し:3.3ヶ月
2.測量・地割・丁張りほか:2.3ヶ月
3.外濠掘削・盛土:11.4ヶ月
4.内濠掘削・盛土:46.1ヶ月
5.客土掘削・盛土:103ヶ月
6.葺石運搬用水路掘削:5.2ヶ月
7.葺石採取・設置:142ヶ月
8.埴輪設置:48ヶ月
9.石室工事:6ヶ月
10.運搬路撤去:6.1ヶ月
11.後片付け:3.2ヶ月
総工期:15年8ヶ月(並行工程があるため上記合計より短い見積もりした工程別の作業員数)
1.土掘削:67万人
2.土運搬:446万人
3.盛土:24.3万人
4.伐開除根、測量、排水工事その他:43.4万人
5.葺石採取と選別:8万人
6.葺石運搬:9万人
7.葺石設置:2.5万人
8.埴輪工程:埴輪製造の作業員については不確定要素が多く除外
9.施工管理:作業員10人に1人の世話役を配する労務編成を単位とし、ピラミッド型の階層構造になっていたと想定
総作業員数:680.7万人
総工費:796億円(1985年当時の貨幣価値)
初期ヤマト政権の大王墓は?
ヤマト政権の初期大王墓と推察されるのは桜井市から天理市にまたがる大和(おおやまと)古墳群と初瀬川の左岸にある鳥見山地区の桜井茶臼山・メスリ山古墳です。此の両古墳と箸墓古墳の築造年代については箸墓古墳が3世紀中頃で茶臼山・メスリ山の両古墳が4世紀初頭とされていますが、この3古墳についての築造年代差は、それほどの開きは無いとする説もあります。3世紀後半の築造とされる大和古墳群の箸墓古墳・西殿塚古墳(伝手白香皇女継体皇后陵)と4世紀前半築造とされる行燈山(あんどんやま)古墳(伝崇�濺傾栂�)に少し離れますが京都府木津川市山城町にある3世紀末築造の椿井大塚山古墳がヤマト政権の始祖王墓の候補と推定されますが、何れも盗掘を受けていたりして被葬者不明です
地域 古墳名 墳形 規模 築造時期(推定)
纏向古墳群 纏向石塚古墳 纏向型前方後円墳 全長96m 後円部径64m 3世紀初頭
上同 纏向勝山古墳 上に同 全長115m 後円部径70m 高さ7m 3世紀初頭
上同 纏向矢塚古墳 上に同 全長96m 後円部径64m 高さ5m 3世紀中頃以前
上同 纏向東田大塚 纏向型前方後円墳丘墓 全長120m 後円部径68m 高さ9m 3世紀後半
上同 ホケノ山古墳 纏向型前方後円墳 全長80m 後円部径55m 高さ8.5m 3世紀中頃
上同 箸墓古墳 前方後円墳 墳丘長278m 後円部径150m 高さ30m 3世紀中頃
鳥見山(磐余) 桜井茶臼山古墳 上に同 墳丘長207m 高さ23m 4世紀初頭
上同 メスリ山古墳 上に同 墳丘長224m 後円部径128m 高さ19m 4世紀初頭
柳本古墳群 渋谷向山古墳
(伝景行天皇陵)
上に同 墳丘長300m 後円部直径168m 高さ25m 4世紀後半
上同 行燈山古墳
(伝崇�濺傾栂�)
上に同 墳丘長242m 後円部高31m 4世紀前半
上同 西殿塚古墳
(伝手白香皇女継体皇后)
上に同 墳丘長約230m 後円部高16m 3世紀後半
黒塚古墳 墳丘長約130m 3世紀後半
中山大塚古墳 上に同 墳丘長130m 3世紀中頃
山代(やましろ) 椿井大塚山古墳 上に同 墳丘長175m 後円部経m 高さ20m 3世紀末
馬見古墳群 新山古墳 前方後方墳 墳丘長126m 4世紀前半
上同 巣山古墳 前方後方墳 墳丘長204m 後円部110m 高さ25m 4世紀中頃

箸墓伝説
武埴安彦(たけはにやす)の謀反を予言した後、倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと)は大物主神(おほものぬしのかみ)の妻となったが其の神、常に昼は見えず、夜のみ来るのでヤマトトトビモモソヒメが「君常に昼は見えたまはねば、分明(あきらか)に其の尊顔(みかほ)をみること得ず。願わくば暫留(しばしとどま)りたまへ。明旦(くるつあした)に美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を見たてまつらむ」と云うと大神対(こた)えて曰は(のたま)はく「言理灼然(ことわりいやちこ)なり。吾明旦(われくるつあした)に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居(おら)む。願わくば吾が形に驚きましそ」とのたまふ。 倭迹迹姫命、心の内に密(ひそ)かに異(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥(くしげ)を見れば、遂(まこと)に美麗しき小蛇(こをろち)有り。其の長さ太さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫ぶ。時に大神恥じて、忽ち人の形と化して、其の妻に謂(かた)りて曰わく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せむ」とのたまふ。仍(よ)りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山(みもろのやま/三輪山)に登ります。ここにヤマトトトビモモソヒメ仰ぎ見て、悔いて急居(つきう) 則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市(おほち)に葬りまつる。時人(ときのひと)其の墓を号(なづ)けて箸墓と謂ふ。この墓は日(ひる)は人作り、夜は神作る。大坂山の石を運(はこ)びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵(おほみたからあいつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。時人歌して曰わく、「大坂に継ぎ登れる石群(いしむら)を手逓伝(たごし)に越さば越してむかも」 因みに箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひめのみこと)の大市墓として宮内庁により治定されて国の史跡に指定されています。
 箸墓を卑弥呼の墓とする説もあります。
ヤマトトトビモモソヒメは神がかりして崇�濺傾弔紡臺�膺世鱆�詬佑剖気┐訊狃��塀�④�「箸墓=卑弥呼の墓説」の人達はヤマトトトビモモソヒメの巫女的要素を卑弥呼の「鬼道」と結びつけて卑弥呼は同一人物とします。魏志では卑弥呼の墓は「径百餘歩」と記され、円墳です。箸墓は全長280mの前方後円墳で、後円部の径は160mです。魏志に記載されている「里」や「歩」「方位」については諸説がありますが、魏・晋の当時の一里の正確な数値や「方位」の
検出方法は不明です。其れで魏志記載の陸行日数や水行日数から距離・方位を議論しても無駄ではと考えるのですが、この古墳の築造時期についても考古学者によって若干の異同がありますが、三世紀後半以降とする説が有力な様です。卑弥呼の死去は247年頃と考えられるので卑弥呼の墓とするには無理があるようです。亦卑弥呼の後継者「壹与(いよ)」や崇�瀘佑箸垢訐發睛④蠅泙后�
崇�濺傾弔諒��鎧�(戊寅年)が正しいとするならば、邪馬台国からヤマト政権への禅譲説は成立しないと考えられます。また箸墓古墳の卑弥呼亦は壹与の墳墓説にも疑問が生じます。「魏志」記述では『卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)を作る。径百餘歩、殉葬する者、奴婢百餘人。』とあり卑弥呼の墓の周囲には殉死した奴婢百餘人の陪冢が存在すると思われますが箸墓には其れが認められません。
箸墓古墳後円部は160mであり、近年の橿考研の調査で箸墓は当初から前方後円墳として築造されており、後円部だけを取り上げて卑弥呼の墳墓説や亦、殉葬?百餘人も埋葬した痕跡も無く卑弥呼の墳墓とする説は成り立たない様です。亦、奈良県立橿原考古学研究所が行った調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土しました。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定しています。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになります。さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具が出土していることも矛盾点です。
日本考古学協会など考古学、歴史学の研究者団体は2013年(H25)に宮内庁が陵墓として管理している箸墓古墳を立ち入り調査しています。宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めてで、箸墓古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もある古墳で、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されました。立ち入り調査をしたのは研究者16人。約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察しました。参加した日本考古学協会の学者によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見え「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と話していたそうです。
箸墓古墳図、調査箇所 箸墓古墳
箸墓古墳は纏向古墳群の盟主的古墳で出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳です。現在は宮内庁により大市墓(おおいちのはか)として7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓に治定されています。築造年代は研究者により異同があり3世紀中葉から4世紀前半とする説が多いようです。古墳の規模は全長280m、後円部径は155m、高さ30m、前方部長125m、前方部前面の幅は147m、高さ16m、前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されています。この時期には埴輪列はまだ存在していませんが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことが推定されます。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高いことが解ります。特殊器台や特殊壺などの出土から古墳時代初頭の三世紀後期から4世紀に築造された古墳であると考えられます。埋葬施設は不明ですが、墳丘の裾から玄武岩の板石が見つかっていることから竪穴式石室が作られていた可能性があるそうです。この石材は、大阪府柏原市の芝山の石であることが判明しており、従って箸墓伝説に記される大坂山(二上山)の石ではありません。
種々の特殊埴輪類が出土しており、また周壕の基底部から馬具(木製の輪鐙)が出土していることから、築造時期を4世紀中期以降の可能性もあるとのことです。日本考古学協会など考古学、歴史学の研究者団体は2013年(H25)に宮内庁が陵墓として管理している箸墓古墳を立ち入り調査しています。宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めてで、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されました。立ち入り調査をしたのは研究者16人。約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察しました。参加した日本考古学協会の学者によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見え「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と話していました。
メスリ山古墳は奈良県桜井市高田にある前方後円墳で築造時期は四世紀初頭と推定されています。1950(S25)に盗掘があったことが確認され、1959年(S34)に発掘調査が開始されました。古墳からは巨大円筒埴輪と鉄製武器類が出土していますが「記紀」「延喜式」などに陵墓としての伝承がありませんが墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品などから此の古墳の被葬者は大王級の首長墳墓であると考えられます。墳丘長224m、後円部径128m、高さ19m、後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室は盗掘により遺物は無かったそうですが、横にあった副石室は未盗掘で、大量の各種武器・農工具類などが納められており、夥しい数の武具や鉄斧、手鎌、鑿、やりがんな、錐、刀子、鋸等の農耕具。玉状に似た石製品が出土しています。この古墳は規模・埋葬品から見て大王墓と推察されますが陵墓としての伝承が無いため発掘調査が出来ましたが残念ながら被葬者は不明です
。後円部の頂には埴輪の囲いがしてあり、長辺約11.3m、短辺約4.8m、想定された高さ1mを下らない長方形の壇があり直径1mもの円筒埴輪は方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立ち、 前方部は2段築成で幅80m・高さ8m埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在します。器台型埴輪は、高さ2.4m、径1.3mの巨大さで朝顔形埴輪も出土しています。後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室が有り8枚の天井石で覆われていましたが盗掘によりほとんど遺物を残していない状態だったそうです。主石室の横にあった副石室は、長さ6m、幅70cm、高さ60~70cmで盗掘を免れており、竪穴式石室で武器ばかりが埋納されていて、武器庫であったと考えられており、212本の茎式鉄矛、これらの鉄矛は、約半数ずつ石室の両端に鋒(きつさき)を向け合った形にな
っており。いずれも長柄をつけていたと想像されます。集団戦に用いられる武器です。鉄剣形の槍先にした鉄矛は、朝鮮半島南部や北九州でも出土していて、当時の武器の中心の様です。236本の銅鏃(どうぞく)、50本の石鏃(せきぞく)、長さ182cm、弦も鉄製の鉄
弓1本、鉄剣、鉄刀、鉄斧、手鎌、鑿、やりがんな、錐、刀子、鋸などの農耕具等が出土しています。
 上写真左は銅鏃(どうぞく)・右は石鏃(せきぞく)
桜井茶臼山古墳は奈良県桜井市外山(とび)にある前方後円墳で奈良盆地東南部の箸墓古墳に続いて築造された巨大前方後円墳と云われ初瀬川左岸の磐余(いわれ)地区にあり自然丘陵を利用して築造されていたので雑木林に覆われて、単なる丘陵と認識されていて、昭和20年代初頭までは古墳と認められていませんでした。戦後の昭和24年の秋と翌25年の夏に発掘調査が行われています。2009年(H9)に60年ぶりに再発掘調査が行われた結果、尾根の末端を切断して築造された古墳であると判明しました。築造時期は4世紀初頭と推定され古墳時代前期の前方後円墳のもっとも典型的なもので、桜井市の南東部に広がる鳥見山(とみやま)から北へ延びる尾根を利用して、前方部を南に向けて築かれています。ちょうど三輪山の南の初瀬谷への入口に面した場所にあり、奈良盆地東南部から伊勢へ抜ける忍坂(おっさか)街道を見下ろす位置に築かれています。前方部が細長い、柄鏡式の形態をなしていて(下図参照)前方後円墳で全長207m、後円部径110m・高さ21.2m、前方部幅61m・高
さ11m後円部中央の竪穴式石室-全長6.75m・幅1.13m・高さ1・6m、天井石13枚で石室の中はすべて、天井石に至るまで、多量の朱で塗られており、過去に大規模な盗掘にあっていたにもかかわらず、出土品に玉杖・玉葉・勾玉・五輪形石製品等があり、中でも碧玉で造ってあった玉杖は、素晴らしいものであった様で一目見たもの皆一様にその美しさにうたれたと云われます。亦、後円部の頂に高さ2メートル弱、一辺9.75×12.5メートルの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器が壇の裾周りに巡らされているのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がなく、ます段築面には葺石が施されています。後円部の頂に高さ2m弱、一辺9.75×12.5mの貼石のある矩形壇があり、また方形に巡る有孔の壺形土器が壇の裾周りに巡らされて
いるのを別にすると、墳丘に埴輪を使用した痕跡がなく段築面には葺石が施されています。古墳の埋葬施設は後円部の頂上には、高さ2m弱と推定される一辺9.75×12.5m の貼り石のある矩形壇が作られており、その壇の裾周りに二重口縁の壺形土器が巡らされていました。さらに、その下に長さ6.7mの長大な木棺を納めた竪穴石室があり、既に盗掘を受けていましたが、なを副葬品が発見されています。後円部には複数の柱穴があり、被葬者を安置した石室の真上に多数の丸太で囲まれた下の新聞写真の様な場があり、死者を弔う祭祀場と考えられます。また、此の古墳から81面もの各種銅鏡が出土していますが、完形品は無く全て1~2cm程度の破片で、何故粉砕した銅鏡を副葬したのか謎です。桜井茶臼山古墳に類似した副葬品の埋葬古墳が福岡市西区の一部を含めた旧糸島郡内の古代、伊都国平原(ひらばる)遺跡の1号墓にもあります。
伊都国平原遺跡の一号墓は伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で、1965年(S40)に発見されました。 1号墓は14メートル×12メートルの四隅が丸い長方形でその中央に木棺が埋葬されていました。この墓は弥生時代終末期に造られたものと推定されています。副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉や
左写真は伊都国平原遺跡の一号墳跡 メノウ製管玉などの玉類が多数発見されています。銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚ありますが、これは日本最大の銅鏡です。しかも発見された銅鏡が全て割られていたということです。当時、銅鏡はとても貴重なものですから、普通なら丁寧に墓に納められるのですが、ここではバラバラに割られていました。なぜ貴重な銅鏡が割られていたのかは謎です。桜井茶臼山古墳の銅鏡も粉砕されて副葬されています。左写真の墳墓跡に白い柱が立っていますが
この柱の立っている場所には古代に直径70センチメートルの大柱が立てられていました。この柱は長さが20m
にも及ぶと推定される巨大なものだそうで、これは長野県の諏訪大社の御柱と同じ方法で立てられていたそうです。この大柱が何のために立てられたのかは、今のところは不明だそうですが大柱は王墓から見て東に位置するところから、日の出の方向を意識していると考えられ、太陽信仰に関係するものと見る説もあります。
 上写真左 桜井茶臼山古墳発掘調査時の毎日新聞報道記事。
 上写真右 桜井茶臼山古墳発掘調査時銅鏡記事。
銅鏡81面の内容は三角縁神獣鏡26面・内行花文鏡(国産)10面・内行花文鏡(舶載)9面・画文帯・斜縁・四乳神獣鏡16面・半肉彫神獣鏡5面・環状乳神獣鏡4面・龍鏡4面・細線獣帯鏡3面・方格規矩鏡2面・単き鏡1面・盤龍鏡1面の計81面
これら81面の銅鏡全て粉々に粉砕されて副葬されています。
卑弥呼が魏から100枚下賜されたと云われる三角縁神獣鏡が最多でした。
上左写真は桜井茶臼山古墳の石室の天井石     中・右写真は石室内部、石室の中はすべて、天井石に至るまで、多量の朱で塗られていました。木棺の一部が残存、木棺は樹齢千年以上の巨木で作られたと推定され長さは5mもあります。石室は盗掘を受けていましたが銅鏡の破片が多数、硬玉製勾玉、ガラス製品、鉄製剣や鏃、王杖、鍬形石等が出土。これらの出土品は北九州の弥生時代の古墳から出土する品と類似しています。

下左写真は石室への入り口。 中写真は銅鏡の破片の中に「是」の文字のある物があり、三次元計測により正始元年(240)の魏の年号を持つ三角縁神獣鏡と一致したそうで、魏皇帝から卑弥呼へ下賜された銅鏡100枚のうちの一つであるとする説もあります。
この古墳から銅鏡の破片が多数出土していますが完形の物は一枚もなく全て破壊されており、何故破壊して副葬したのか不明ですが「魏志倭人伝」に記される北九州の伊都国の平原遺跡の王墓である一号墓から出土した銅鏡も破壊して副葬されていました。 
左写真は古墳から出土した碧玉(へきぎょく)の王杖。
長さ60㎝王杖の頭に飾りがついていて、芯棒の部分には鉄がつかわれており、この古墳の被葬者が大王級の人物であることを覗わします。中写真神社参道から振り返ると正面に三輪山が望まれます。右写真は宗像神社の社号碑。
桜井茶臼山古墳で注目されるのが、この古墳の後円部の空濠の外に宗像(むなかた)神社が鎮座していることです。此処に北部九州系の神社が大和にあることは何故。この宗像神社は何時頃からの鎮座か
神社由緒を辿って見ると宗像神社は延喜式神明帳に記載されており893年の太政官符によると高階真人忠峯(たかしなまひとただみね)の解状では、筑前国宗像郡金崎の人たちが16人が、この神社の修理にかかわったという事実があり宗像大社との古くからの強いつながりがあつたことが解ります。高階忠峯は神社の祭祀を司ってきた高市皇子(たけちのみこ/天武天皇の皇子)の後裔で南北朝の争いの際に南朝に味方し戦い、当時鳥見山(とみやま)の中腹にあった宗像神社は、兵火で焼失し僅かに小祠だけが焼失から免れ、興福寺の支配下に入り名前も春日神社となっていました。以降、神社は荒廃の一途を辿ったようですが、正平9年(1354)高階忠正は神霊を自邸に移し中島弁財天と称しました。嘉永7年(1854)に当地を訪ねた幕末の国学者、鈴木重胤(すすきしげたね)は、玉井氏(高階氏と同様、高市皇子の後裔)の庭園に祀られていた中島弁財天を知り、克明に伝承や民間信仰を調査し、中島とは宗像中津島との繋がり、弁財天は神仏習合に女神宗像神と考え、宗像三女神の再興に務めました。そして安政6年(1875)に改めて、筑前の宗像大社から分霊をうけ再興され、明治8年(1874)に春日神社の社号を廃し宗像神社と改めています。桜井茶臼山古墳古墳の副葬銅鏡が破壊されて埋葬されていたのは伊都国平原遺跡の王墓と同じであり、其の他の出土遺物も類似しており桜井茶臼山古墳古墳の被葬者は北部九州の出身者の可能性が高いと考えられます。亦メスリ山古墳の被葬者も同様と考えられ、北部九州勢力の東遷説も現実味をおびてきます。
椿井大塚山古墳は奈良盆地東南部のヤマト始祖王墓とは、かなり離れた京都府木津川市山城町椿井にある3世紀末の築造と推定される古墳で1894年(M27)に当時の国鉄奈良線が敷設された時、古墳前方部と後円部が分断され、更に1953年(S28)に線路の拡幅工事の時に後円部の中央にあった竪穴式石室が発見され、石室から大量の副葬品が出土しました。この古墳の墳丘は全長約175m、後円部は直径約110m・高さ20mで丘陵を断ち切る形で作られていて、墳丘の大部分は自然地形の高まりで、自然の山を利用しているので、丘陵の一部のように見え、このような造り方は、最古級の古墳に多いといわれます。
埋葬施設は、南北長6.9m、幅1m、高さ3mの竪穴式石室に板石・割石を積んで壁を立ち上げ、天井も板石を置き粘土で厚く覆っていて、床には板石・礫・砂を敷き、その上に粘土を施し、コウヤマキの割竹形木棺を安置しています。石室内には朱が塗られ、粘土床には10kgを超える水銀朱がまかれていました。既に盗掘を受けていましたが石室から 三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面が出土し、総計36面以上の鏡と武具が出土しました。36面以上というのは他の鏡の破片数点が出ているのと盗掘で行方不明になったものがある可能性があるためです。武器・武具では、鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領が、工具・農具では、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本の他、鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品が出土しています。被葬者の手懸かりは無く不明で、出土した三角縁神獣鏡については邪馬壹国の女王卑弥呼が魏の皇帝から贈られた銅鏡百枚ではないかとする説もあります。

上写真左は椿井大塚山古墳の墳頂から木津川を挟み西の京都府綴喜郡の山代(やましろ)の息長氏の居住地を望む。  中写真は古墳を横断するJR奈良線、線路右が古墳後円部、左が古墳前方部ですが削平され民家が建っています。  右は墳頂から見た古墳前方部の集落。
「三角縁神獣鏡の謎」
三角縁神獣鏡に分類される銅鏡は日本で出土した鏡の中では最も数が多く、府県別の出土分布を見ると、奈良県100枚・京都府66枚・兵庫県40枚・大阪府38枚で、旧ヤマトの国を中心とした近畿地方の出土が多いが九州から東北まで全国に分布しています。
日本の古墳時代前期の古墳から多く発掘され、面径は平均20cm程度。鏡背に神獣が鋳出され、中国、魏の年号を銘文中に含むものは2点発掘されています。日本で三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、神獣鏡類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が畿内を中心に出土しています。これらの図画意匠を鏡裏に施した銅鏡を「画像鏡」と云われますが、日本へもたらされた画文帯神獣鏡などの画像鏡の意匠を巧妙に変更して国内で量産したもの、という説もあります。亦、中国では1面も出土していないため、三角縁神獣鏡は中国の鏡ではないと中国側では主帳しています。三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から多数出土しているが、邪馬壹国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土していません、改元されて実在しない中国の年
号の銘が入った鏡があり、卑弥呼に下賜された銅鏡は100枚ですが、それを上回る数の三角縁神獣鏡が出土しています。椿井大塚山古墳からは36面以上、大和(オオヤマト)古墳群の黒塚古墳からは33面出土した例もあることから、この鏡は魏から卑弥呼に下賜されたものではなく、日本で創作され大量に製造されたものと云う説もあります。
  上図は椿井大塚山古墳実測図。
        下右は椿井大塚山出土の三角縁獣文帯四神四獣鏡の複製品

邪馬壹国ヤマト説論者は三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳の被葬者が各地の首長に分配したものでないか。この
論法では、この古墳の被葬者は卑弥呼と云うことになります。亦、椿井大塚山古墳の被葬者は崇�濺傾弔僚邨擦侶杦汎�族�(たけはにやすのみこ)説もありますが、建波迩安王は崇�澆紡个靴独慎佞魑�海靴討�蝓�慎媼圓諒�茲箸靴討蓮∩蟇�靴�△蠅泙擦鵝H鐐鮗圓箸靴匿簑�垢襪覆蕁△海慮妬�梁亟澆六蛎�(やましろ)の息長氏の本貫地であり、日子坐(ひこいますのみこ)の子の山代大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)、その子の迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)、その子の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)更にその子の息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)の生誕地であり、
大筒木真若王・迦邇米雷王の名は何れも山代国綴喜郡に由来する名です。日子坐王一族にとつて山背南部の地は関係の深い地です。日子坐王の母系は丸邇氏であり、丸邇氏の本貫地は現天理市和邇町で山代の宇治から近江の琵琶湖の西側に和邇の地名があり、この辺りまでが勢力圏であったと考えられます。木津川を挟み東側は和邇氏、西側は日子坐王系息長氏の勢力圏であり、その日子坐の墳墓が椿井大塚山古墳とする根拠は日子坐王は崇�澳釮�「丹波国に派遣して、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめたまふ」とあり、崇�澆鬟筌泪叛�⊇藺絏Δ箸垢襪覆蕕弌�鋠匣漸Δ録�澆僚派磴砲△燭蝓⊃�澆侶豈鐚圓箸靴討�覆蟠�腓文⇔呂鰺④靴匿�濱�△斑亙�亮鹹垢箸稜涓霄圓砲覆辰討い燭里任蓮��靴�靴海慮妬�僚佚擽世汎鋠匣漸Δ箸隆慙∪④�鯡製侏茲此�悵翅臘融蓋妬�糧鐐鮗圓砲弔い討楼輿各罎里泙泙任后�

行燈山古墳(伝10代崇�濺傾栂�)は現在、宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあり、被葬者は10代崇神天皇とされる。1974年(S49)に宮内庁書陵部による外堤・渡堤・後円部墳丘裾部での発掘調査が行われ、2017年(H29)には考古学界の立ち入り調査も行われています。古墳の周濠を含めた最大幅230m、墳丘長242mで後円部は3段築成、直径158m、高さ31m前方部も3段築成で 幅100m、高さ13.6m、墳丘表面では葺石・埴輪が検出されています。主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定されます。出土遺物は円筒埴輪・土師器・須恵器や江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚があり、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定されます。被葬者は不明ですが当古墳の来歴は寛政9~享和元年(1797-1801)に蒲生君平が「山陵志」で景行天皇陵に比定、安政2年(1855)景行天皇陵に治定される。元治元年(1864)の柳本藩による修陵、銅板の出土。。慶応元年(1865)に、崇神天皇陵に治定変更。慶応3年(1867)谷森善臣が「山陵考」で崇神天皇陵に比定、明治期、宮内省(現庁)により崇神天皇陵に治定、現代に至る。
上写真 左行燈山古墳全景  上に見える古墳は櫛山古墳で行燈山古墳の後円部にある山辺の道を隔てた高い位置にある双方中円墳という特異な墳形をした古墳です。先の戦争中に軍がこの近くの平野部に飛行場を建設した時に、櫛山古墳の一部が削平化されています。
中は慶応2年発刊の聖蹟図志に描かれた崇�瀘諭�   ̄Δ賄前訃訖鞣甬�(しきみずがきのみや/崇神天皇の宮)跡。
渋谷向山古墳(伝12代景行天皇陵)は天皇陵として現在宮内庁管理下にありますが、1971年(S46)以降に宮内庁書陵部による数次の調査と2016年(H28)には宮内庁と考古学会の立ち入り調査が実施されています。墳形は前方後円形で、前方部を西方(傾斜低方)に向けています 古墳の規模は墳丘長300m、後円部4段築成、直径168m、高さ25m、前方部は3段築成で幅170m、高さ23m。墳丘周囲には周濠が巡らされており、墳丘周囲の周濠は傾斜地での湛水のため後円部側6ヶ所、前方部側4ヶ所で渡堤によって区切られています。前方部側では近世に農業用溜池として拡張を受けたとされますが、後円部側は築造当初の形状が保たれているそうです。周囲には陪塚的性格を持つと考えられる古墳数基の存在も認められます。出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土
  上写真 渋谷向山古墳の全景。    中 景行天皇陵の表示板。        右 渋谷向山古墳出土の石枕 
したと伝わる石枕(国の重要文化財)等がありますが、石枕の出土経緯詳細は明らかでない様で碧玉製で、重さ24kgあり外縁・側面には線刻が施されています。出土埴輪から古墳時代前期後半の4世紀後半頃(4世紀中頃築造説も有)の築造と推定されます。柳本古墳群では行燈山古墳に続く時期の築造で、古墳時代前期の古墳としては全国で最大規模になり、行燈山古墳とともに初期ヤマト政権の大王墓と目されます。被葬者は不明ですが、現在は宮内庁により12代景行天皇の陵に治定されています。しかし過去には10代崇神天皇陵に考定されるなどの陵墓改定が行われています。
1697年(元禄10年)江戸幕府による元禄の探陵で崇神天皇・景行天皇いずれかの陵に比定。
1855年(安政2年)江戸幕府により崇神天皇陵に考定される。
1864年(元治元年)修陵および石枕(国の重要文化財)が出土する。
1865年(慶応元年)修陵の竣工直前に景行天皇陵に改定される。
明治期、宮内省(現庁)により景行天皇陵に治定。
西殿塚古墳は奈良盆地東縁の丘陵上に築造された巨大前方後円墳で、東側には東殿塚古墳が隣接しています。此の2基の古墳は大和古墳群のうちでは最高所にあって盆地全域を眺望する位置にあり。現在は宮内庁治定の皇后陵として同庁の管理下にあります。これまでに1989年度(H1)に宮内庁書陵部による墳丘表面調査が実施され、1992~1994年度(H4~6)に天理市教育委員会による墳丘周辺部の調査が、2012年度(H24)には考古・歴史学15学会代表による立ち入り調査などが実施されています。墳形は前方後円形で東西方向の傾斜地(高位は東側)に直角に築造されているため左右非対称形になっています。当古墳の規模は墳丘長約230m、後円部東側で3段築成、西側で4段築成。 直径約140m、高さ約16m(東側)、前方部東側で1段築成、西側で2段築成。幅約130m、高さ:約12m(東側)、方形壇1段築成。後円部東西25.15m、南北26.54m、高さ3.m、前方部東西12.92m、南北 14.43m、高さ1.87m。
出土品に特殊器台形土器・特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪、有段口縁の円筒埴輪などの初期埴輪等が出土しており。主体部の埋葬施設は明らかではありませんが、墳丘上の後円部・前方部それぞれに方形壇が認められており、この古墳は、古墳時代前期前半の3世紀後半頃の築造と推定され、箸墓古墳に後続するヤマト政権の大王墓と目され、隣接する東殿塚古墳とでは西殿塚古墳を先とする連続的な築造とされる様です。
被葬者は不明ですが現在は宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ))」として26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されています。しかし手白香皇后は6世紀代の人であり、当古墳の築造年代とは年代矛盾があります。亦、手白香皇后陵については西山塚古墳(天理市萱生町)とする説が有力視されています。その根拠は西山塚古墳の築造年代が6世紀頃と手白香皇后の想定年代と合致することです。亦、当古墳の被葬者については崇神天皇、邪馬壹国の女王、卑弥呼の後継者の壹與とする説などがあります。
上写真 左西殿塚古墳の空中写真        中 西殿塚古墳の全景                  右 西殿塚古墳の遙拝所

馬見古墳群についはこの古墳群の大部分が大和国葛上郡(かつじょうぐん)に属するところから古代豪族の葛城氏の墓域とする説が有力ですが、葛城氏の本貫地は葛城郡の南部の掖上(わきがみ)周辺地域であるところから、馬見丘陵の古墳は初期ヤマト政権との関わりがある人達の墓域の可能性が強いとする説もあります。
馬見古墳群の大半が古墳時代前期から中期にかけての築造であり、葛城氏かヤマト政権の関連人物の墓域か判断は難しいところです。初期ヤマト政権の本拠地は纏向を中心とする地域であり、その西方に葛城氏の勢力圏があり、この時代の葛城氏はまだヤマト政権に従属していなかった事も考えられます。
新山古墳は1981年(S56)の後方部北側の調査で出土した埴輪の検討から古墳時代前期中葉の築造で馬見古墳群のなかで最初に造られた古墳と考えられています。馬見丘陵の南東端の支丘上に築かれた前方後方墳で、墳丘全長126m、後方部幅67m、前方部幅66m。1885年(M18)に後方部中央の竪穴式石室から車輪石(しゃりんせき)、鍬形石などの石製品と金銅製帯金具や三角縁神獣鏡、直弧文鏡(ちょっこもんきょう)など34面の鏡が出土しています。34面の鏡のうち9面は三角縁神獣鏡、3面は直弧文鏡、3面は画文帯神獣鏡、4面は方格規矩鏡、14面は内行花文鏡です。被葬者不明ですが宮内庁により「大塚陵墓参考地」(仮定被葬者として25代武烈天皇)として陵墓参考地に治定されています。

新山古墳    鏡写真は新山古墳出土の鏡で左から直孤文鏡・内行花文鏡・三角縁仏獣鏡
巣山古墳は、奈良県北葛城郡広陵町大字三吉元斉音寺にある、前方後円墳で馬見古墳群中最大の規模を誇る古墳で、墳丘全長約220m、後円部直径約130m、高さ約19m、前方部幅約112m、高さ約16.5mの規模があり、左右のくびれ部に造り出しが設けられています。前方部の西側には出島状遺構があり、水鳥・蓋(きぬがさ)・盾・家・囲・柵形埴輪が出土しています。埋葬施設は後円部中央に竪穴式石室が2基確認され、前方部にも小石室が造られています。しかしいずれも盗掘を受けています。出土遺物は、勾玉、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)等の玉類と鍬形石、車輪石(しゃりんせき)等の石製品、滑石製の刀子、斧が出土しています。墳丘の周囲は幅広い周濠が巡らされており、全面水をたたえた濠となり、ここから舟形木製品や木棺のふた、木偶(もくぐう)等の木製品が多数出土しています。その中でも一際注目されたのが舟形木製品で全長約3.7m、幅45cm、厚さ5cmで表面には円文様と帯文様が彫刻され、赤色顔料が塗られた痕跡が認められ、この古墳の被葬者を運んだ喪船の舟材と考えられます。此の当時の王またはそれに準じる権力者が死ぬとすぐには埋葬せず、数ヶ月から数年に渡って「殯宮(もがりのみや)」と呼ばれる宮に遺体を仮安置して、陵が出来るまでの間、死の確認と蘇生する可能性を祈る風習があった様です。そして陵が完成すると遺体の入った棺(木棺・石棺)を修羅や真っ赤な喪船に載せて陵まで運んだと考えられています。出土した舟材は当古墳の被葬者を運んだ喪船のものと考えられます。
上写真
巣山古墳出土 遺物

下写真
古墳築造時に使用した鋤(すき)
上写真
巣山古墳出土の舟用材

下写真
喪舟の想像図
9~15代 「記紀」の天皇崩年と御陵の築造時期
代 天皇 宮所在地 御陵 陵長 「書紀」崩年  「記」崩年  御陵築造時代(推定)
9 開化 春日率川宮  春日率川坂上陵 墳丘長100m 紀元前58年         五世紀前半 (500~530)
10 崇�� 磯城瑞籬宮  山辺道勾岡上稜(行燈山古墳) 墳丘長242m 紀元前30年  西暦318  四世紀前半 (300~330)
11 垂仁 纏向珠城宮  菅原伏見東陵(宝来山古墳)    墳丘長227m 西暦70年     四世紀後半 (360~400)
12 景行 纏向日代宮  山邊道上陵(渋谷向山古墳) 墳丘長300m 西暦130年     四世紀後半 (360~400)
13 成務 志賀高穴穂宮  狹城盾列池後陵(佐紀石津山古墳) 墳丘長218m 西暦190年  西暦355  四世紀末頃 (380~420)
14 仲哀 穴門豊浦宮/筑紫橿日宮  惠我長野西陵(岡ミサンザイ古墳) 墳丘長245m 西暦200年  西暦362   五世紀末頃 (460~500)
神功皇后 稚桜宮  狭城盾列池上稜(五社神古墳) 墳丘長267m
西暦269年    四世紀末  (360~400)
15 応神 軽島豊明宮/大隅宮  惠我藻伏崗陵(誉田御廟山古墳) 墳丘長425m 西暦312年  西暦394   五世紀初頭 (400~430)
上表の「書紀」崩年からは崩御から陵の完成までに考えられない程の年の差が生じており「書紀」紀年の矛盾が立証されます。「記」は崇�瀛���藹仍駑舛�33代推古天皇までに15代の天皇に崩年干支が記されていますが、崇�濺傾弔諒���「記」の西暦318年として行燈山古墳を崇神陵とすると陵の築造年に矛盾がある様に思われます。各御陵の築造年代・被葬者については学者間にかなりの相違があります。また被葬者の生前から陵の築造に懸かったのか、没後に懸かったのかにより陵の完成時期が大きく変わりますので、一概に陵の築造と被葬者を断定するのは如何なものかと思われます。宮内庁により成務天皇陵に治定されている狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)は「書紀」によると神功皇后の狭城盾列池上陵(さきのたたなみいけのえのみささぎ)と間違えられた時期があり、承和10年(843)に改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されています。また「扶桑略記」によると康平6年(1063)3月に興福寺の僧静範らが成務陵を盗掘して宝器を 持ち去ったが5月に山陵使が派遣され宝器は返還され、事件に関与した十七人は伊豆国に配流された記録が記されています。天保15年(1814)と嘉永元年(1848)にも盗掘があり、石棺から勾玉が盗まれ付近の住民ら十二人が石塚山古墳ほか二箇所の古墳の盗掘犯人として捕らえられ厳罰に処されています。この時の記録によると後円部に竪穴式石室と長持形石棺があることが推定され鏡、玉、剣などが盗掘されたようですが詳細については不明です。亦、「記」の崩年干支についても疑問があり10代崇�濺傾弔諒���称�318年で11代垂仁天皇と12代景行天皇の崩年は不祥、13代成務天皇の崩年が西暦355年になっていますが、垂仁・景行天皇の治世期間が37年になり、記述内容との整合性が問われます。紀年の記されない「記」でこの状況ですから、「書紀」の紀年と記述内容の矛盾性は更に酷いものです。しかし是は我が国に限らず文字史料がなく、亦あったとしても解読不能の古代文字では口承伝承や推理・推測に頼らざるを得ずやむを得ない事かも知れません。

下記に2010年(H22)11月に衆議院議員、吉井英勝氏の「陵墓と祭祀」に関する宮内庁への質問主意書に箸墓の推定被葬者と崇�瀘佑鳩聞堽佑硫�蠅亡悗垢觴遡篏颪筏榮眥�療柀杤颪鯣歓莎ⅠⅥ椶靴泙靴燭里濃温佑泙任砲翰�爾気ぁ�湘堕邑妬�慮紊傍Ⅵ棔�  答弁書の中の[以下略]は私が省略した箇所です。
天皇陵の治定と祭祀に関する質問と答弁書
平成二十二年八月四日提出    質問第三八号
陵墓に治定されている古墳の祭祀に関する質問主意書        提出者  吉井英勝

皇室の先祖や皇室関係者が葬られているという理由で、戦前に陵墓(陵墓参考地を含む。以下、この質問において陵墓と略)に治定し、現在も宮内庁が管理している古墳が多数ある。陵墓では皇室によって式年祭等の祭祀が行われているが、皇室の私的な祭祀に宮内庁職員やそれ以外の国家公務員と地方公務員も参列している。具体例として本年二月十三日の大阪府堺市の田出井山古墳(宮内庁によれば反正天皇陵)と、本年四月一日の大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(同じく応神天皇陵)での式年祭を取り上げた。これについて本年六月十四日に提出した質問主意書で、憲法が定めた政教分離の原則との関係を問うたが、これに対する答弁書は「国家公務員の参列については儀礼的なもので憲法上の問題があるとは考えていない」、「地方公務員の参列については答弁する立場にない」旨のものであった。よって、次のとおり質問する。
(一) 宮内庁によれば、「陵墓における祭祀は、皇室の伝統に基づくものとして古くから行われているもの」とあるが(二〇〇九年七月十七日閣議決定の答弁書)、「古くから」とは具体的にいつからか。また、今に至るまですべての古墳時代の陵墓で、祭祀は途切れることなく連綿と続けられてきたのか。証拠を示して明らかにされたい。
(二) 宮内庁は、箸墓古墳には孝霊天皇の娘であるヤマトトトヒモモソヒメが葬られていると定め、「大市墓」という名前の陵墓として管理している。宮内庁は、孝霊天皇の皇女であるヤマトトトヒモモソヒメの没年や箸墓古墳の築造年代については、日本書紀に記述がないという。ヤマトトトヒモモソヒメの父である孝霊天皇が葬られたのは日本書紀による孝元天皇六年で、それは紀元前二〇九年に相当するという見解を示している(二〇一〇年六月二十二日閣議決定の答弁書)。一方で文化庁は、箸墓古墳の築造時期について三世紀の中頃から後半と考えられるという見解を述べている(二〇〇九年二月二十日、衆議院予算委員会第四分科会)。
これは、孝霊天皇は紀元前二〇九年に死没し、その娘であるヤマトトトヒモモソヒメは箸墓古墳が築かれる三世紀半ばから後半まで、四百年から五百年近く生存していたことを意味しているのか。
(三) 宮内庁は「陵墓や陵墓参考地については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているので、静安と尊厳の保持が最も重要なことである」(二〇〇九年七月六日閣議決定の答弁書)と示しているが、「祭祀が継続して行われ追慕尊崇の対象なので、静安と尊厳の保持が最も重要である」と考える理由を分かりやすく答えられたい。
(四) 文化庁によれば、「古墳の被葬者が発掘調査で判明することは非常にまれ」という見解である(二〇〇九年六月二十四日、衆議院内閣委員会)。宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳の各々について、そこに皇室の先祖が葬られていることの証拠を明示されたい。
(五) 宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳の各々について、陵墓の名称・考古学上の名称・被葬者名(ルビ付)・所在地・治定年月日(西暦による)を分かりやすく示されたい。
(六) 陵墓の環境の静安と被葬者の尊厳の保持と、陵墓の墳丘最下段テラスよりも上に登る学術調査とは、学術調査がいかなる内容のものでも両立することができないという考えか。
(七) 宮内庁職員であれば、管理のために陵墓の墳丘最下段テラスよりも上に登っても静安と尊厳を保持することができ、宮内庁職員でなければ、墳丘最下段テラスよりも上に登って墳丘表面の観察をするだけでも静安と尊厳の保持ができないという明確な理由を、それぞれ示されたい。
(八) 宮内庁職員が陵墓の墳丘最下段テラスよりも上に登る場合は、どういう手続きを経ているのか。また、登る場合には何らかの祭祀を行っているのか。
(九) 宮内庁が提出した資料によれば、堺市の田出井山古墳(宮内庁によれば反正天皇陵)と羽曳野市の誉田御廟山古墳(同じく応神天皇陵)での式年祭の次第について次のようにある。
午前九時三十分、陵所を装飾する。
同 十時、勅使が参進して本位に就く。
次に神饌を供する。
この間、楽を奏する。
次に掌典が祝詞を奏する。
次に幣物を供する。
次に勅使が拝礼の上、御祭文を奏する。
次に幣物及び神饌を撤する。
この間、楽を奏する。
次に各退下する。
皇族、公務員、有位者及び有勲者並びに縁故者、門跡寺院の住職及び尼門跡寺院の住職が参列する場合は、勅使参進の前に着床し、御祭文奏上の後に拝礼する。
宮内庁によれば、陵墓における祭祀が神道の形式によるものか否かを答えることは困難である(二〇〇九年七月十七日閣議決定の答弁書)とのことだが、陵墓の拝所には鳥居が置かれている。また、陵墓の式年祭では次第のように、神饌を供し、掌典が祝詞を奏し、幣物を供する。鳥居の設置やこれらの行為と神道とは、どういう関係があるのか。全く関係がないのか。
(十) 「陵所を装飾する」、「神饌を供する」、「楽を奏する」、「幣物を供する」、「幣物及び神饌を撤する」主体はそれぞれ誰か。
(十一) 勅使、掌典、「陵所を装飾する」者、「神饌を供する」者、「楽を奏する」者、「幣物を供する」者、「幣物及び神饌を撤する」者は、それぞれ公務員か否か。公務員でなければ、どういう立場の者か。
(十二) 鳥居を含めた陵墓の拝所は国有財産か。その管理は誰が行っているのか。
(十三) 本年六月二十二日閣議決定の答弁書では「国家公務員による参列は、陵墓において皇室が祖先を弔う目的で行う行事に際し、平素から陵墓の管理等に携わる者が儀礼的に行ったものであり、憲法上の問題があるとは考えていない」とあるが、「管理等」の「等」とは何を示しているのか。その内容を具体的に明らかにされたい。
(十四) 儀礼的であれば、皇室の宗教的行為である祭祀に参列しても憲法上の問題がないのか。儀礼的なものと、そうでないものとの違いはどこにあるのか。明確に答えられたい。
(十五) 田出井山古墳と誉田御廟山古墳での国家公務員の式年祭への参列が、儀礼的であったという根拠を明示されたい。
(十六) 本年六月二十二日閣議決定の答弁書では「地方公務員による参列については、お答えする立場にない」とあるが、なぜ答える立場にないのか。答える立場にある者は誰か。
(十七) 宮内庁が提出した資料によれば、田出井山古墳での「反正天皇の千六百年式年祭」と誉田御廟山古墳での「応神天皇の千七百年式年祭」について、以下に掲げる公務員に対し、宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所長名で「反正天皇山陵千六百年式年祭の儀」と「応神天皇山陵千七百年式年祭の儀」の執行と参列の案内を送っている。これらの公務員を送り先として選んだ基準や根拠は何で、誰が選んだのか。
〔反正天皇の千六百年式年祭〕
大阪地方裁判所所長  大阪家庭裁判所所長  大阪地方検察庁検事正  大阪地方検察庁事務局長大阪地方検察庁堺支部長  大阪法務局堺支局長  国土交通省近畿地方整備局局長  国土交通省近畿整備局河川部長  国土交通省近畿地方整備局大和川河川事務所長  大阪府知事  大阪府府議会議長  大阪府府議会副議長  大阪府教育委員会委員長  大阪府教育長  大阪府警本部長   [以下略]
(十八) これら祭祀(式年祭)の執行と参列の案内を送った相手は、平素から陵墓の管理等に具体的にどのように携わっているのか。各々について具体的に答えられたい。
(十九) 皇室による陵墓の祭祀について、皇室以外の公務員に対し、なぜ祭祀の執行と参列の案内を送る必要があるのか。また、案内送付の決裁は誰が行ったのか。
 右質問する。
答弁本文情報
平成二十二年八月二十日受領    答弁第三八号
内閣衆質一七五第三八号   平成二十二年八月二十日      内閣総理大臣 菅 直人
       衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員吉井英勝君提出陵墓に治定されている古墳の祭祀に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

(一)について
お尋ねの「古墳時代の陵墓」とは、古代高塚式の陵墓及び陵墓参考地を指すと考えられるが、これらの陵墓等は、江戸時代の元禄年間(千六百八十八年から千七百四年までの期間をいう。以下同じ。)から昭和にかけて治定されたものであり、「諸陵寮誌」等の文献にみられるように、治定以降現在に至るまで皇室による祭祀が継続して行われているところである。
なお、古くは奈良時代に成立した「養老令」に、陵における祭祀をつかさどる諸陵司を設置することが記載されているほか、平安時代に成立した「延喜式」にも、祭祀の対象となる陵墓の一覧が記載されているところである。
(二)について
「日本書紀」には、御指摘の「箸墓古墳」の築造年次や倭迹迹日百襲姫命の薨去年次に関する記述は認められない。なお、御指摘の「箸墓古墳」の築造時期について、三世紀の中頃から後半という見解があることは承知している。
(三)について
陵墓等については、天皇及び皇族を葬る所として、祭祀が現に継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっていることから、静安と尊厳の保持が最も重要であると考えている。
(四)について
陵墓等は、「日本書紀」、「古事記」、「延喜式」等の古記録の陵に関する記載、口碑伝承等に基づき現地踏査が行われ、元禄年間から昭和にかけて治定されたものである。
(五)について
古代高塚式の陵墓等の名称、考古学上の名称、被葬者名、所在地及び治定の時期については次のとおりである。
畝傍山東北陵 四条ミサンザイ古墳 神武天皇 奈良県橿原市 文久年間(千八百六十一年から千八百六十四年までの期間をいう。以下同じ。)
 桃花鳥田丘上陵 四条塚山古墳 綏靖天皇 奈良県橿原市 千八百七十八年二月二十八日
 畝傍山西南御陰井上陵 不詳 安寧天皇 奈良県橿原市 文久年間
 畝傍山南繊沙渓上陵 不詳 懿徳天皇 奈良県橿原市 文久年間
 掖上博多山上陵 不詳 孝昭天皇 奈良県御所市 元禄年間
 玉手丘上陵 不詳 孝安天皇 奈良県御所市 文久年間
 片丘馬坂陵 不詳 孝霊天皇 奈良県王寺町 元禄年間
 剣池嶋上陵 中山塚一号墳、二号墳及び三号墳 孝元天皇 奈良県橿原市 元禄年間   [以下略]
(六)について
宮内庁としては、陵墓等については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっていることから、静安と尊厳の保持が最も重要であると考えている。このため、部外者を陵墓等に立ち入らせたりすることは、厳に慎むべきことと考えているが、学術研究上の要請にこたえるため、陵墓等の本義に支障を及ぼさない限りにおいて、保全工事に伴う調査の際の見学の実施や調査結果の公表等に努めているところである。
(七)及び(八)について
宮内庁は、先の答弁書(平成二十二年六月十一日内閣衆質一七四第五三五号)(三)及び(四)についてでお答えしたとおり、陵墓等の管理を行っており、陵墓等の管理に携わる宮内庁職員は、その職務として、陵墓等の管理上必要に応じて墳丘最下段テラスより上に登ることもある。その際、祭祀に当たる行為は行っていない。
(九)について
 先の答弁書(平成二十一年七月十七日内閣衆質一七一第六五七号)(六)についてでお答えしたとおりである。
(十)、(十一)及び(十七)から(十九)までについて
 先の答弁書(平成二十二年六月十一日内閣衆質一七四第五三五号)(六)及び(八)から(十二)までについてでお答えしたとおりである。
(十二)について
御指摘の「拝所」も陵墓等の一部であり、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第三条第二項第三号に規定する皇室用財産として宮内庁が管理している。
(十三)について
 お尋ねの「等」は、職務上陵墓とかかわりのある国家公務員を「陵墓の管理等に携わる者」と総称するために用いたものである。
(十四)及び(十五)について
お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、「反正天皇山陵千六百年式年祭」及び「応神天皇山陵千七百年式年祭」に宮内庁職員等の国家公務員が参列したことについては、参列の目的等にかんがみ、先の答弁書(平成二十二年六月二十二日内閣衆質一七四第五八五号)(六)についてにおいて、憲法上の問題があるとは考えていないとお答えしたものである。
(十六)について
「反正天皇山陵千六百年式年祭」及び「応神天皇山陵千七百年式年祭」への地方公務員の参列については、各地方公共団体の公務員の行為に関することであるから、政府としてお答えする立場にない。
平成二十二年十月一日提出   質問第一号
陵墓の治定と祭祀に関する質問主意書                 提出者  吉井英勝

奈良県高取町にある「車木ケンノウ古墳」は、文久年間に越智崗上陵という名前で斉明天皇陵に治定され、現在宮内庁に管理されている。このたび奈良県明日香村で、巨大な横口式石槨を持った七世紀後半と考えられる「牽牛子塚古墳」の発掘調査が行われ、八角形に並べられた凝灰岩製の石敷が確認された。牽牛子塚古墳は八角形の墳丘を持った古墳であることが明らかになったが、八角形の墳丘は天武・持統陵のように天皇陵級の古墳の特徴と考えられている。かねてから牽牛子塚古墳が斉明天皇陵と考える説があったが、今回の調査でその可能性はさらに高まっている。牽牛子塚古墳こそ本当の斉明天皇陵ではないかという考えが強まっている中、その学術的検証が急務と考えられる。
これまで、大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(宮内庁によれば継体天皇の埋葬地)、奈良県天理市の西殿塚古墳(同じく継体天皇妃・手白香皇女の埋葬地)、奈良県奈良市の市庭古墳(同じく平城天皇の埋葬地)を実例にあげ、古墳の築造時期と宮内庁が考える被葬者の年代に大きな隔たりがある陵墓について、学術的調査を行って治定の変更をすることは当然であると主張してきた。これに対し、宮内庁の考え方は「陵墓の治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく」というものであった。
よって、次のとおり質問する。
(一) 宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳について、陵誌銘や被葬者名を確実に特定できるものが出土したものはあるのか。あれば記載全文とともに示されたい。
(二) 現在宮内庁が斉明天皇陵としている車木ケンノウ古墳からは、被葬者が斉明天皇であることを示す陵誌銘が出土しているのか。
(三) 車木ケンノウ古墳は「古墳」であるのか。古墳であるとすれば、その築造時期についてはどのような考えがあるのか、文化庁の見解を問う。
(四) 牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であるか否かの検証と、宮内庁による現在の斉明天皇陵の治定が正しいのかという検証とを進める必要があるのではないか。治定の正否の検証を行う必要がないというのであれば、それは真の歴史解明を妨げるものとなるのではないか。
(五) 古墳から陵誌銘や被葬者名を特定できるものが出土する可能性がほとんどない以上、「陵墓の治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく」という宮内庁の考えは、かつて一度決めたものは絶対に改めないということを意味しているのか。また、この考え方を是正することを検討すると考えないか。
(六) 現在の宮内庁の陵墓治定は、戦前に行われた古事記・日本書紀等における記録や口碑伝承に基づく調査によるものである。考古学をはじめとする最新の学術的知見を踏まえて陵墓の治定を再検討することは当然のことではないのか。またその結果、陵墓に該当
しない古墳と考えられるものと分かれば、宮内庁の管理から外すことは当然ではないか。
(七) 陵墓(陵墓参考地含む、以下同じ)に治定されている古墳の多くは、幕末~明治年間に現在の宮内庁が治定したものである。本年八月四日に提出した質問主意書において、古墳時代の陵墓での祭祀が、皇室の伝統に基づいて古くから途切れることなく連綿と続けられてきたのかどうか質した。これに対する答弁書では、奈良時代の養老令や平安時代の延喜式の記述をあげている。
では中世以降、宮内庁が陵墓として治定するまでの間も、皇室の伝統に基づいて祭祀は継続していたのか。現在陵墓に治定されている古墳で行われている皇室の伝統に基づく祭祀とは、明治新政府が新たにつくった儀礼ではないのか。明確に答えられたい。
また、陵墓に治定している古墳すべてについて、中世以降現在の陵墓治定が行われるまでの間も、連綿と皇室の伝統に基づく祭祀が行われていたという根拠を、証拠となる遺物と文献名とを示して明らかにされたい。
(八) 宮内庁刊行の陵墓要覧によれば、宮内庁が神武天皇陵に治定している奈良県橿原市の「四条ミサンザイ古墳」では、二〇一六年四月三日、神武天皇没後二千六百年に当たる式年祭を行う予定である。今から二千六百年前は縄文時代と考えられるが、四条ミサンザイ古墳は「古墳」なのか。古墳であるとすれば、その築造時期等についてどのような根拠によって、いつと考えているのか、文化庁の見解を問う。
(九) 宮内庁は来年度概算要求で、明治天皇陵第三鳥居の改築工事として、約四千八百万円の予算を要求している。改築工事の目的は何か。
(十) 陵墓に治定されている古墳の拝所に設けられている鳥居は、宮内庁が設置したものと思うが、何のために設けているのか。古墳の築造時から設けられていたのか。また、これらの鳥居は西暦何年から設置されるようになったのか、古墳ごとに明らかにされたい。
(十一) 本年八月四日に提出した質問主意書で、宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳について、陵墓の名称・考古学上の名称・被葬者名等を質した。これに対する答弁書の中で、宮内庁が第二十五代天皇と呼んでいる武烈天皇に関する記載がないが、古墳時代の六世紀初頭に没したといわれる武烈天皇は古墳に埋葬されなかったということか。
 右質問する。

平成二十二年十月十二日受領   答弁第一号
内閣衆質一七六第一号     平成二十二年十月十二日      内閣総理大臣 菅 直人
       衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

(一)及び(二)について
お尋ねの「百二十一の古墳」からは、陵誌銘等は出土していない。
(三)について
奈良県教育委員会からは、お尋ねの「車木ケンノウ古墳」については、「車木ケンノウ古墳(斉明陵)」として周知の埋蔵文化財包蔵地(文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第九十三条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地をいう。以下同じ。)としており、その種類区分は「古墳・横穴墓」としていると聞いている。なお、築造時期については、調査がなされていないため、把握していないと聞いている。
(四)について
先般の牽牛子塚古墳の発掘調査の結果等を踏まえ、その被葬者を斉明天皇とする説があることは承知しているが、宮内庁としては、治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されていないことから、斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えていない。なお、今後とも考古学を始めとする学術的成果には留意していく所存である。
(五)及び(六)について
先の答弁書(平成二十一年七月六日内閣衆質一七一第六一一号)(十三)についての第二段落でお答えしたとおりである。
(七)について
陵墓等における祭祀については、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(一)についてでお答えしたとおりである。なお、中世以降、戦乱等の混乱により、一時祭祀が途絶えた陵墓等があると承知している。
(八)について
 お尋ねについては、奈良県教育委員会からは、「四条ミサンザイ古墳」としては周知の埋蔵文化財包蔵地としておらず、その種類区分等は把握していないと聞いている。
(九)について
 お尋ねの「明治天皇陵第三鳥居の改築工事」は、現在の鳥居が建築後五十年近く経過し、老朽化が進んだため改築するものである。
(十)について
陵墓等における鳥居は、陵墓等における特定の区域とそれ以外の区域との境界を示すために設置されているものである。
各々の陵墓等に最初に鳥居が設置された正確な時期は不明であるが、現存する鳥居の多くは、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(一)についてでお答えした治定の時期以降に建築されたものであると承知している。
(十一)について
第二十五代武烈天皇傍丘磐坏丘北陵は、自然地形を利用した山形の陵であり、御指摘の「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」には含めていない。
平成二十二年十一月十八日提出   質問第一七七号
陵墓の治定と祭祀に関する再質問主意書                 提出者  吉井英勝

本年十月一日に提出した質問主意書(以下、前回質問主意書と略)で、牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)と宮内庁が「斉明天皇陵」に治定している車木ケンノウ古墳(同県高取町)について取り上げ、陵墓の治定の見直しの問題を質した。牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であるか否かの検証と、宮内庁による現在の斉明天皇陵の治定の正否の検証等を求めたが、これに対する答弁書は「斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えていない」というものであった。
文化庁に確認したところ、牽牛子塚古墳の正確な墳丘範囲をつかむ調査中、凝灰岩製の横口式石槨のほぼ東南方向の下方に設定したトレンチで、このほど別の横口式石槨の一部が検出されたという。牽牛子塚古墳で巨大な石槨と八角形の墳丘が確認されたことにより、牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵ではないかという考えが強まっていることは前回質問主意書でも指摘した。日本書紀には、「斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵に合葬し、斉明天皇の孫に当たる大田皇女を、その陵の前の墓に葬った」という旨の記述がある。新たに検出された石槨に大田皇女が埋葬されたと考えれば、斉明天皇陵の前の墓に大田皇女を葬ったという日本書紀の記述にも一致し、牽牛子塚古墳こそが真の斉明天皇陵ではないかという考えはさらに補強されるものとなる。新たな石槨の学術的検討は当然必要であるが、同時に現在の宮内庁による斉明天皇陵の正否の検証と、真の斉明天皇陵の学術的検証の必要性はこれまで以上に強まっているものと考えられる。
 よって、次のとおり質問する。
(一) 前回質問主意書に対する答弁書で「斉明天皇陵の治定を見直さなければならないとは考えていない」が、「今後とも考古学を始めとする学術的成果には留意していく所存」という見解が示された。本年六月三日に提出した質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七四第五三五号)では「宮内庁書陵部陵墓課においては、陵墓等に関する様々な学説があることも踏まえて、調査及び考証に当たっている」という見解が示されている。これら答弁書の見解を踏まえ、宮内庁は今回の一連の調査成果に留意し、調査と考証に当たっているのか。取り組みの現状を明らかにされたい。
 また、斉明天皇陵の治定の正否に関する検証を行う必要があるのではないか。改めて問う。
(二) 前回質問主意書に対する答弁書で、宮内庁が斉明天皇陵として扱っている車木ケンノウ古墳から、被葬者が斉明天皇であることを確実に示す陵誌銘等は出土していないことが示されたが、日本書紀等の文献に車木ケンノウ古墳に斉明天皇を埋葬したという記述があるのか。あわせて、車木ケンノウ古墳に斉明天皇が埋葬されていると確実に肯定できる根拠を示されたい。
(三) 現在の斉明天皇陵のすぐ下には、斉明天皇の孫に当たる「天武天皇妃大田皇女」が葬られているとして宮内庁が「越智崗上墓」という名称で管理している陵墓がある。宮内庁は前回質問主意書に対する答弁書の中で、ここからも被葬者を確実に特定できる陵誌銘が出土していないことを明らかにしているが、大田皇女が埋葬されているものと確実に肯定できる根拠を示されたい。
 また、越智崗上墓とは、周知の埋蔵文化財包蔵地なのか否か、明らかにされたい。
(四) 前回質問主意書に対する答弁書で、牽牛子塚古墳の被葬者について「その被葬者を斉明天皇とする説があることは承知している」という見解が示されている。宮内庁が陵墓または陵墓参考地に治定していない古墳の中で、その被葬者が皇室の先祖であると考える学説について、宮内庁が把握しているものには他に何があるのか。古墳の名称と、考えられている被葬者とを列挙されたい。
(五) 宮内庁の治定による陵墓や陵墓参考地の被葬者とは別の被葬者が埋葬されているという学説がある古墳は少なくないが、宮内庁はその学説をどの程度把握しているのか明らかにされたい。
(六) 陵墓や陵墓参考地における祭祀の対象は何で、何を目的に行っているものなのか。
(七) 宮内庁の前身である宮内省が設置されて以降、陵墓や陵墓参考地の治定の変更や取り消しを行ったものがあるのか。あれば陵墓または陵墓参考地の名称、「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」であれば考古学上の名称、被葬者、変更もしくは取り消しの日(西暦による)、変更もしくは取り消しの理由を明らかにされたい。また、その際、祭祀の対象はどのように変更されたか。
(八) 奈良県天理市の行燈山古墳は宮内庁によって「崇神天皇陵」に、同じく天理市の渋谷向山古墳は「景行天皇陵」に治定され現在に至っている。現在の治定が行われるまでは、行燈山古墳は景行天皇陵、渋谷向山古墳は崇神天皇陵として扱われていたと思うが、どのような検討を経て現在の治定に至ったのか、詳細を示されたい。
また、その検討過程は何に記述されているのか。記録物の名称と、記述の全文を明らかにされたい。
(九) 本年八月四日に提出した質問主意書(以下、前々回質問主意書と略)に対する答弁書(内閣衆質一七五第三八号)で、行燈山古墳と渋谷向山古墳の治定の時期はどちらも文久年間と示されているが、この治定が行われるまで行燈山古墳では景行天皇が埋葬されているものとして、渋谷向山古墳では崇神天皇が埋葬されているものとして祭祀が行われていたのか。
また、その祭祀は「皇室の伝統に基づくものとして古くから行われているもの」(二〇〇九年七月九日提出の質問主意書に対する答弁書(内閣衆質一七一第六五七号))だったのか。
(十) 宮内庁はこれまで一貫して「陵墓や陵墓参考地については、現に皇室において祭祀が継続して行われ、皇室と国民の追慕尊崇の対象となっているので、静安と尊厳の保持が最も重要なことである」と述べ、これを理由に学術的目的であっても陵墓や陵墓参考地に治定している古墳の調査や自由な立ち入りを拒んでいる。陵墓や陵墓参考地に治定されている古墳が「国民の追慕尊崇の対象となっている」という根拠を明示されたい。
(十一) 前回質問主意書で、「現在陵墓に治定されている古墳で行われている皇室の伝統に基づく祭祀とは、明治新政府が新たにつくった儀礼ではないのか」と質し、明確に答えるよう求めたが、それに対する答弁は前々回質問主意書に対する答弁書での見解をそのまま引用するだけで、明確な記述がなかった。
 宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳の治定時期は、前々回質問主意書に対する答弁書で示されているように、元禄・享保年間のものは二十三で、残りの九十八の古墳の治定は幕末~一九四〇年代前半である。二〇〇九年七月九日提出の質問主意書に対する答弁書に「陵墓における祭祀は、皇室の伝統に基づくものとして古くから行われているものと承知している」とある。しかし、前々回質問主意書に対する答弁書では「治定以降現在に至るまで皇室による祭祀が継続して行われているところ」と示されている。皇室による祭祀の継続の始まりは「治定以降」で、「古くから」とは元禄・享保年間(十七世紀後半から十八世紀半ば)までで、多くは幕末~一九四〇年代前半ということか。
(十二) 幕末~一九四〇年代前半に治定された陵墓や陵墓参考地は百二十一の古墳のうち九十八であり、陵墓や陵墓参考地として宮内庁が管理している古墳において「皇室の伝統に基づくものとして古くから行われている」祭祀の実態とは、明治新政府の下で作り出された儀礼なのではないか。重ねて明確な答弁を求める。あわせて、現在のすべての陵墓や陵墓参考地の祭祀が、古代からの皇室の伝統に基づくものであるという根拠があれば明示されたい。
(十三) 前々回質問主意書に対する答弁書に「平安時代に成立した「延喜式」にも、祭祀の対象となる陵墓の一覧が記載されているところ」とあるが、これには陵墓参考地は含まれていないという理解でよいか。
(十四) 宮内庁が「古代高塚式の陵墓」として管理している古墳は全体でいくつあり、延喜式記載の祭祀の対象に該当するものはそのうちいくつか。あわせて、延喜式に記載されているという祭祀の対象に該当する陵墓の名称・考古学上の名称・被葬者名・所在地・治定年月日(西暦による)をすべて明らかにされたい。
(十五) 前回質問主意書に対する答弁書で「中世以降、戦乱等の混乱により、一時祭祀が途絶えた陵墓等がある」と示されているが、これに該当するものは宮内庁が「古代高塚式の陵墓又は陵墓参考地」として管理している百二十一の古墳のうち、いくつか。あわせて、該当する陵墓または陵墓参考地の名称・考古学上の名称・被葬者名・所在地・治定年月日(西暦による)をすべて明らかにされたい。
 また、祭祀が途絶えた「一時」とは、具体的にいつからいつまでなのか。
(十六) 前回質問主意書において、陵墓や陵墓参考地に治定されている古墳に設けられている鳥居の目的について質したが、答弁書では「陵墓等における特定の区域とそれ以外の区域との境界を示すために設置されているもの」というものであった。陵墓等における特定の区域とは、具体的に何をさしているのか。
(十七) 宮内庁が神武天皇陵と治定している「四条ミサンザイ古墳」について、前回質問主意書に対する答弁書は「周知の埋蔵文化財包蔵地としておらず、その種類区分等は把握していない」というものであった。神武天皇はいつ没し、神武天皇陵はいつ造られたのか。西暦で示されたい。
 右質問する。
平成二十二年十一月二十六日受領   答弁一七七号
内閣衆質一七六    平成二十二年十一月二十六日
                               内閣総理大臣 菅 直人
       衆議院議長 横路孝弘 殿
衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対し、別紙答弁書を送付する。

宮内庁としては、牽牛子塚古墳については、現在も明日香村教育委員会が調査を行っているところと承知している。
また、斉明天皇陵の治定については、先の答弁書(平成二十二年十月十二日内閣衆質一七六第一号)(四)についてでお答えしたとおりである。
(二)及び(三)について
「日本書紀」には、天智天皇称制六年二月二十七日に斉明天皇と間人皇女が小市岡上陵に合葬され、大田皇女がその陵前に埋葬されたことについての記述があり、「続日本紀」には、文武天皇三年十月二十日に衣縫王らを派遣して陵を修造させたこと及び天平十四年五月十日にその墳丘が崩壊し鈴鹿王らに修補させたことについての記述がある。また、「延喜式」には、斉明天皇陵は越智崗上陵とあり、大和国高市郡に所在する旨の記述がある。これらの記述や現地踏査等により、江戸時代の文久年間に、斉明天皇陵及び大田皇女墓が現在地に治定されたものである。
 また、大田皇女越智崗上墓については、奈良県教育委員会からは、文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第九十三条第一項に規定する周知の埋蔵文化財包蔵地とはしていないと聞いている。
(四)及び(五)について
宮内庁としては、陵墓の調査考証の一環として学術論文等を収集しており、それらに記載された説については承知しているが、お尋ねにお答えすることは、様々な誤解を生じさせるおそれがあることから差し控えたい。
(六)について
皇室においては、陵墓等に葬られている祖先を追慕するため、祭祀を行っていると承知している。
(七)について
陵墓関係事務を宮内省(当時)において取り扱うようになった明治十一年以降、治定替え又は治定解除を行った陵墓等の名称、考古学上の名称(古代高塚式の陵墓等に限る。)並びに治定替え又は治定解除の別及びその時期については、次のとおりである。なお、これらの陵墓等の治定替え又は治定解除の理由は、「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」等の古記録の記述、地元の口碑伝承、現地踏査等に基づくものである。
崇峻天皇倉梯岡陵 千八百八十九年七月十六日に現在地に治定替え
天武天皇・持統天皇桧隈大内陵 野口王墓古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
文武天皇桧隈安古岡上陵 栗原塚穴古墳 千八百八十一年二月十五日に現在地に治定替え
後一條天皇菩提樹院陵 千八百八十九年七月二十日に現在地に治定替え
旧仁賢天皇皇后春日大娘皇女陵 千八百七十九年二月八日に治定解除
光仁天皇夫人新笠大枝陵 不詳 千八百八十年十二月に現在地に治定替え
桓武天皇皇后乙牟漏高畠陵 伝高畠陵古墳 千八百七十九年十月十三日に現在地に治定替え
天智天皇皇子妃贈皇太后橡姫吉隠陵 不詳 千八百七十九年二月八日に現在地に治定替え
垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓 淡輪ニサンザイ古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
景行天皇皇子日本武尊能褒野墓 能褒野王塚古墳 千八百七十九年十月三十一日に現在地に治定替え
後嵯峨天皇皇子顕日王墓 千九百三年八月に現在地に治定替え
後村上天皇皇末孫河野宮墓 千九百十二年一月九日に現在地に治定替え
旧後亀山天皇皇曾孫尊秀王墓 千九百十二年一月九日に治定解除
旧性源院墓 千八百八十一年二月二十四日に治定解除
景行天皇皇子日本武尊能褒野墓附属物(白鳥陵) 軽里大塚古墳 千八百八十年十二月二十八日に現在地に治定替え
後嵯峨天皇皇子顕日王分骨塔 千九百三年八月に本墓から分骨塔に治定替え
旧小橡陵墓伝説地 千九百十二年一月九日に治定解除
旧伏見町陵墓伝説地 千九百十七年九月十一日に治定解除
旧矢作陵墓参考地 千九百四十一年四月十八日に治定解除
旧下嵯峨陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
旧相馬陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
旧河根陵墓参考地 千九百四十四年二月五日に治定解除
旧鵺塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
旧秘塚陵墓参考地 千九百五十五年八月十七日に治定解除
また、個々の陵墓等における祭祀の対象は、当該陵墓等の被葬者である。
(八)について
お尋ねの「崇神天皇陵」及び「景行天皇陵」については、江戸時代の国学者谷森善臣が「延喜式」の記載に基づき考証した結果を踏まえ、文久年間に現在地に治定されたものと承知している。
なお、谷森善臣は、陵墓等の考証に関する成果について「文久山陵考」を著しており、これは「勤王文庫第参編」に収録されている。
(九)について
崇神天皇山辺道勾岡上陵及び景行天皇山辺道上陵が現在地に治定される以前のこれらの陵の状況については、承知していない。
(十)について
宮内庁としては、陵墓等には、多くの国民が拝礼等に訪れていると承知している。
(十一)及び(十二)について
陵墓等における祭祀については、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(一)について及び先の答弁書(平成二十二年十月十二日内閣衆質一七六第一号)(七)についてでお答えしたとおりである。
(十三)について
富郷陵墓参考地は、「延喜式」に記載されている山背大兄王平群郡北岡墓の可能性があるものと考えている。
(十四)について
宮内庁が管理している百二十一の古代高塚式の陵墓等のうち、「延喜式」に祭祀の対象となる陵墓として記載されているものは、神武天皇畝傍山東北陵、綏靖天皇桃花鳥田丘上陵、安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵、懿徳天皇畝傍山南繊沙渓上陵、孝昭天皇掖上博多山上陵、孝安天皇玉手丘上陵、孝霊天皇片丘馬坂陵、孝元天皇剣池嶋上陵、開化天皇春日率川坂上陵、崇神天皇山辺道勾岡上陵、垂仁天皇菅原伏見東陵、景行天皇山辺道上陵、成務天皇狭城盾列池後陵、仲哀天皇恵我長野西陵、応神天皇恵我藻伏崗陵、仁徳天皇百舌鳥耳原中陵、履中天皇百舌鳥耳原南陵、反正天皇百舌鳥耳原北陵、允恭天皇恵我長野北陵、安康天皇菅原伏見西陵、雄略天皇丹比高鷲原陵、清寧天皇河内坂門原陵、顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵、仁賢天皇埴生坂本陵、継体天皇三嶋藍野陵、安閑天皇古市高屋丘陵、宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵、欽明天皇桧隈坂合陵、敏達天皇河内磯長中尾陵、用明天皇河内磯長原陵、推古天皇磯長山田陵、舒明天皇押坂内陵、孝徳天皇大阪磯長陵、斉明天皇越智崗上陵、天智天皇山科陵、天武天皇・持統天皇桧隈大内陵、文武天皇桧隈安古岡上陵、聖武天皇佐保山南陵、称徳天皇高野陵、光仁天皇田原東陵、平城天皇楊梅陵、仲哀天皇皇后神功皇后狭城盾列池上陵、仁徳天皇皇后磐之媛命平城坂上陵、継体天皇皇后手白香皇女衾田陵、安閑天皇皇后春日山田皇女古市高屋陵、聖武天皇皇后光明子佐保山東陵、光仁天皇皇后井上内親王宇智陵、光仁天皇夫人新笠大枝陵、桓武天皇皇后乙牟漏高畠陵、桓武天皇夫人旅子宇波多陵、天津日高彦火火出見尊高屋山上陵、履中天皇皇孫女飯豊天皇埴口丘陵、天智天皇皇子追尊天皇春日宮天皇田原西陵、天智天皇皇子妃贈皇太后橡姫吉隠陵、天武天皇皇子追尊天皇岡宮天皇真弓丘陵、彦五瀬命竈山墓、垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命宇度墓、景行天皇皇子日本武尊能褒野墓、応神天皇皇太子菟道稚郎子尊宇治墓、欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓、敏達天皇皇孫妃吉備姫王桧隈墓、用明天皇皇子聖徳太子磯長墓、桓武天皇皇子伊豫親王巨幡墓及び桓武天皇皇子仲野親王高畠墓の計六十四である。これらの陵墓等の考古学上の名称、所在地及び治定時期については、先の答弁書(平成二十二年八月二十日内閣衆質一七五第三八号)(五)についてでお答えしたとおりである。
(十五)について
御指摘の「中世以降、戦乱等の混乱により、一時祭祀が途絶えた陵墓等がある」とは、中世以降の戦乱等の混乱によりもたらされた様々な要因により祭祀が途絶えた可能性が高く、また、祭祀が行われていたことが記述された古記録が少ないため治定以前に祭祀が継続して行われていたことを確認できない陵墓等があるという趣旨を、端的にお答えしたものであり、お尋ねにお答えすることは困難である。
(十六)について
鳥居は、陵墓等において、埋葬区域と拝礼場所との境界、拝礼場所と参道との境界等に設置されている。
(十七)について
「日本書紀」には、神武天皇は神武天皇七十六年に崩御したと記述されているが、神武天皇陵の築造年次に関する記述は認められない。
ヤマト政権の誕生前後の謎を解く鍵が、大和(おおやまと)・纏向・鳥見山古墳群の中にあると考えられますが、残念ながら現状ではヤマト政権の初代王墓がいずれの古墳か特定できる手懸かりは現在のところ皆無です。魏志倭人伝に見る邪馬壹(台)国の時代は西暦200年~300年(弥生後期~古墳初頭期)と考えられます。西暦190年~200年に所謂「倭国大乱」があり、その後に邪馬壹国女王の卑弥呼が共立され、卑弥呼は魏の出先機関である朝鮮半島の帯方郡に使者を送り、魏王の明帝に朝貢し魏の景初三年(239)に「親魏倭王」の称号と金印紫綬・銅鏡百枚を賜受されています。この銅鏡百枚(三角縁神獣鏡)は卑弥呼から邪馬壹国連合国の首長達に分与されたと云われます。卑弥呼は狗奴国(くなこく)の卑弥弓呼(ひみここ)との間で権力抗争をしており、その為、魏の後援を必要としていた様です。西暦248年頃に卑弥呼が没すると内乱状態になり、宗女壹與(いよ)を擁立し内乱を収拾し西暦266年に女王壹與は晋に遣使しています。こうした情勢の中に三世紀前半頃にはヤマト王権が誕生し、「初国知らしし天皇」と云われる崇�濱�△�犬泙譴燭箸気譴泙后�舅臓ε燦��伀翊燦�海砲�韻堂κ茵�鹹絞茲罰个靴Ⅰ霏臍以�絮瀛�涼杪い�呂泙蠅泙后F貶検遡鐇源�紊離筌泪箸砲錬灰�蠅梁腟�呂糞鯏製戸遒�△辰燭髪召錣譴泙后�修譴賄銚極楪�療盡邸Ω旭篝廖�畦�圓隆篌縞薪勀薫篝廖∈伀羯圓梁臺 δ攬羂篝廚任い困譴盍長蟒戸遒任靴拭L鐇庫�釮砲呂海譴蕕僚戸遒凌諭垢禄祥茲諒臣呂遼④�頁精鄰呂鮗里禿貮瑤了蛙�寮霈�呂飽榮阿靴討い泙后�海琉榮阿砲弔い峠�發�△蠍鼎ね犬鮗里匿靴靴ね犬鬚弔�辰拭�祥茲離筌泪箸了拉枩�呂吠僂錣蠖靴靴せ拉枩�呂��辰討④拭�卦譴了拉杼悗�臑里靴匿靴靴そ戸遒鮑遒辰拭�偉愡鎧穫爾紡斥杰世鮨�弔垢訖諭垢僚ゞ欺戸遒�遒蕕譴拭6綵��呂�豼�靴突茲董▲筌泪箸竜貔�△鯊播櫃靴匿契�△鮗匇�靴拭�拉�綛颪�薀筌泪伐Ω△妨⇔呂料犠銈�△辰拭E銈陵諭垢弊發�△蠅泙垢�▲筌泪叛�△�浸�匹陵佑肪太犬靴燭里��海了�紊諒源晥卜舛��気膿秦蠅浪鬚蕕覆い里�従�覇貶検遡鐇源�紊竜�義宛紊倭瓦�罎寮さ�任后�
今日私達が「ヤマト政権」「三輪王朝」とか呼んでいますが一世紀から四世紀の文字の無い時代に「ヤマト」と呼ばれる地名があったのでしょうか。亦「記紀」写本にも○○天皇と記されていますが、天皇の称号は飛鳥時代の七世紀、40代天武天皇の頃に初めて使われたと云うのが考古学界の見解です。弥生・古墳時代には現在の奈良盆地東南部や初期の王は何と呼ばれていたのでしょうか。「記紀」には初代神武天皇は「記」によると「神倭伊波礼?古命(カムヤマトイワレビコノミコト)・「書紀」は「神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレヒコノスメラミコト)」と記されていますが、この様な名が数百年も口承伝承で伝わったとは考えられません。天皇の漢風諡号の出来た6~7世紀頃に作成されたと考えられます。倭国の2~3世紀の様子は僅かに中国史書の「魏志倭人伝」により、その状況を窺い知ることが出来るのみです。しかし「魏志倭人伝」とて2000字程度の記述で、その解読も研究者により異なり、邪馬壹国の所在地も今だに解明出來ない現状では「魏志倭人伝」から初期ヤマト政権の誕生を知る手懸かりを得ることは不可能で、ヤマト政権の始祖王の解明には欠かせない考古史料が柳本・纏向・鳥見山古墳群と北九州の平原古墳群に眠っているのですが、その全容解明には気の遠くなるほどの年月を要する事でしょう。
纏向遺跡と纏向古墳群
纏向遺跡は奈良盆地の東南部の三輪山山麓にある遺跡で近年の発掘調査で2世紀末~3世紀前半にかけての大型建物と棟持柱建物が発見され、邪馬壹国の宮都か?と話題になった遺跡で域内には我が国最古の前方後円墳である箸墓古墳やメスリ山古墳・東田大塚・矢塚古墳等が散在し纏向古墳群と呼ばれます。亦、此処は初期ヤマト政権の誕生地でもあり、日本の古代史の宝庫でもあり、多くの謎を秘めた地です。
左 2018年6月24日の纏向遺跡発掘に伴う邪馬台国論争記事。

右 2018年5月19日の纏向遺跡出土の桃の種科学分析記事。
上写真 左ホケノ山古墳発掘調査時の古墳全景、ヤマト王権の王都? 纏向、最古の前方後円墳で唯一、埋葬施設が発掘されたホケノ山古墳。   中 同埋葬施設。   右 主体部には特異な石囲い木槨で三角縁神獣鏡の副葬はなく、木槨上に東海系の壺が並べられてていた。布留1式の指標となる小型精製土器4個体があり、造営年代を箸墓古墳以降とする説もあります。
左図 大和古墳群
17西殿冢古墳、18東殿冢古墳、21黒塚古墳、25行燈山古墳(伝崇�瀘�)、29櫛山古墳、32渋谷向山古墳(伝景行陵)


上右図 纏向古墳群 34勝山古墳、35石塚古墳、36矢塚古墳、37東田大塚古墳、38ホケノ山古墳、39箸墓古墳

 上写真 左から纏向石塚古墳        中 纏向勝山古墳           右 纏向矢塚古墳
上 中写真は纏向東田大塚古墳   上中 東田大塚古墳   上右 東田大塚古墳に残る墳丘の石組
下左 空から見た東田大塚古墳前方部は削平され農地になっている。 下中 出土した籠   下右 出土した土器類
古代に玄海灘を越えた人々
文献・立証史料が揃っていても謎の多いものもあります。西暦57年に倭の奴(わのなの)国王が後漢に朝貢して光武帝より印綬を受けた記述が「後漢書」の「卷八五列伝卷七五東夷伝」に「建武中元二年(57)倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」と記されており、その時に貰った印綬が江戸時代の天明四年(1784)に博多の志賀島で出土して「国宝」に指定されています。是など実証史料があるのですが西暦57年にどの様な方法で中国まで行ったのか言葉の壁はどう克服したのか渡航した人数は一切不明です。ご多分に漏れずこの金印にも偽作説があります。
また「倭」を「委」と刻印しているのも真偽論争の因になっているようです。五世紀以前の歴史はまったく謎の歴史であり、その真相を知る事は不可能に近いのでは無いかと思われます。
「漢書」地理志燕(ちりしえん)地条に『楽浪の海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見す』と云う記述があります。下左図は紀元前100年頃の古朝鮮時代の半島で前漢の武帝が朝鮮半島の西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、紀元前108年に朝鮮半島に楽浪(らくろう)・真番(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の四郡を設置し、朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配します。その後真番郡・臨屯郡・玄菟郡は廃されますが、西暦204年には朝鮮半島に新たに帯方(たいほう)郡が置かれ楽浪郡との二郡は西暦313年まで存続します
三韓時代(2世紀~3世紀)の朝鮮半島で西暦346年頃に百済国が西暦356年頃に新羅国が建国されます。因みに高句麗の建国は伝説上では紀元前37年頃と云われます。西暦105年頃に高句麗は?(れい)を支配下に置き209年頃には北満から朝鮮半島に遷都し高句麗の騎馬民族が半島を南下するようになると、その機動力と戦闘力に圧倒された南朝鮮の国々の人々が戦禍に追われて倭国に新天地を求めて渡来して来るようになります。その反面紀元前~三世紀にかけて中国が設置した漢四郡の漢人が中国王朝の政治・文化的影響を朝鮮半島にもたらし、やがて高句麗王権・百済王権に取り込まれ、高句麗・百済の発展に寄与したと云われています。
朝鮮半島から日本列島への移住は縄文時代~7世紀迄続き、其の期間の移住者の数は把握することは出来ませんが、縄文時代の日本の人口については遺跡・集落遺構等から10万から30万で当時の食糧事情から縄文人の平均寿命は25歳前後ではと推定する説があります。これはあくまで推測で弥生から古墳時代にかけて、どのくらいの渡来人が倭国(日本)に来たのか全く判りません。また朝鮮半島から日本列島への移住も縄文時代から始まり稲作文化をもたらしたのも半島から移住して来た渡来人と云われています。
古朝鮮(紀元前)の朝鮮半島 漢武帝前108年に漢4郡を設置 3韓時代(2世紀~)
上左図の衛氏朝鮮は中国の燕を出自とする中国人亡命者である衛満(えいまん)が朝鮮半島北部に建国した国で衛満朝鮮ともいわれ、この衛氏朝鮮は三代衛右渠(えいゆうきょ)の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされます。その後に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島を四郡を通じて統治します。  上中図は漢が設置した四郡図。  上右は三韓時代の図で、馬韓・弁韓・辰韓の朝鮮半島南部に存在した言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる国を「三韓」と呼んで、三韓の「韓」はモンゴル語の「汗」と同じく「王」の意味だそうです。遼東郡の公孫氏が独立してからは、三韓諸国は公孫氏に服属しています。
下左図は公孫氏が支配していた領域。中国、後漢時代末期から三国時代初期にかけて、漢人の公孫氏(度たく)・康(こう)・淵(えん)の3代が(190~238)48年間遼東(りょうとう)半島に樹立した地方政権。 
下中図は四世紀末頃で国名の下の()内の数字は建国と滅亡年を表示。  下右図は任那の変遷図。
西暦238年以前に倭は公孫氏の支配領域を通らずに魏へ行く事はできなかった。
238年に公孫氏政権は魏に滅ぼされ239年6月に卑弥呼の使者は男生口4人・女生口6人、班布二匹三丈を魏に朝貢する。
「書紀」は古代の朝鮮半島記述に「新羅」の名を記すことが多く、また反新羅記述も多く見られます。上記に見られる様に新羅の建国は西暦356年ですから、垂仁期のアメノヒホコの渡来記述に「新羅の王子」とか任那人蘇那曷叱智(そなかしち)・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の帰国に際して天皇が与えた赤絹を新羅人に奪われ、それが基で二国間が不和になった記述がありますが、この当時新羅国は未だ存在せず、こうした反新羅の風潮は
親日国であつた百済が新羅と争った西暦660年の戦闘に日本から援軍を送りましたが663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本・百済連合軍は新羅・唐の連合軍に完敗し、ここに百済は滅亡し多くの百済王の縁者や氏族・民衆が大勢日本列島に亡命してきます。当時の先進国であつた百済の亡命者がヤマト政権に採用され律令国家の設立に寄与したと云われ、「書紀」編纂事業にも多数の亡命百済人が携わった様で、こうしたことから反新羅感情が「書紀」編纂に表れたと云う説もあります。
2001年(平成13年)の天皇誕生日の外国記者団とのインタビューで陛下は「桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国との由?を感じています」と述べられ天皇家が百済王家の血を引いている事実を認める発言をされています。また昨年九月の私的旅行では埼玉県の高麗神社を訪れておられます。こうした陛下の言動に対して、とやかく云う人達もいますが朝鮮半島から日本列島への移住は縄文時代~7世紀迄続き、其の期間の移住者の数は把握することは出来ませんが、これらの渡来人を倭王権は日本各地に分散居住させています。九世紀に編纂された「新撰姓氏録」には畿内に居住する氏族約1182氏の名を記載して「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、その出自を明らかにしています。その内、渡来系の「諸蕃」が326氏で、その内訳は「漢」163氏、百済104氏、高句麗41氏、新羅9氏、任那9氏、この他無所属117氏が有り、渡来系の占める比率は34.4%になります。但し、この数字には九世紀以前に帰化した氏族や畿内在住の一般民衆は含まれていませんので実数はもっと大きな数字になると考えられます。現在の日本人の大多数の祖先は渡来人であると云っても過言ではないようです。
桓武天皇の生母は高野新笠(たかのにいがさ)49代光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王を生んでいます。桓武天皇の即位後、皇太夫人となり、薨去(延暦8)後に皇太后、延暦25年(806)には太皇太后を追贈されています。諡号は天高知日之姫尊(あまたかしらすひのひめのみこと)です。高野新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)。父方の和氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和史(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されています。
また史実として認めるには異論が多く問題がありますが14代仲哀天皇の皇后、息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)の祖も新羅の王子、天之日矛(あめのひほこ)ですから、15代応神天皇も渡来系の血統が入っている事になります。この他皇室関係では天孫降臨・神武東征・ヤマト王権の成立等、天皇家の歴史について私共は正しい史実を知りません。また史実を知ろうにも史料が存在しないため、現在では「記紀」や考古学者の論文や著書と中国や朝鮮の資料に頼らざるを得ないのですが、「魏志倭人伝」「宋書倭国伝」高句麗の「広開土王碑文」「七支刀」「江田船山古墳出土太刀銘文」等の金石文(きんせきぶん)の解読によって知る方法もありますが、これらの金石文の解読も学者の方々により、それぞれの解読方法があり、いまだ統一見解がない状況なので五世紀以前の日本史は全く謎の世紀です。また根強く残る伝承、倭国(わこく/日本)の大王家(天皇)は朝鮮半島から渡来して来たと云う。此の伝承については「記紀」の神話伝承にも其れを示唆させる記述があります。それは素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天孫降臨神話伝承です。  
皇別 神別 諸蕃
左京 104 82 72 258
右京 78 65 102 245
山城 25 45 22 92
大和 19 44 26 89
摂津 30 45 29 104
河内 46 63 55 164
和泉 33 60 20 113
335 404 326 1065
左図は九世紀に編纂された「新撰姓氏録」で畿内に居住する氏族1182氏の名を記載して「皇別」「神別」「諸蕃」に分類して、その出自を明らかにしています。その内、渡来系の「諸蕃」が326氏で、その内訳は「漢163氏」、「百済104氏」、「高句麗41氏」、「新羅9氏」、「任那9氏」、この他無所属117氏が有り、これを入れると443氏となり渡来系の占める比率は実に41.5%になります。但し、この数字には九世紀以前に帰化した氏族や畿
内在住の一般民衆は含まれていませんので実数はもっと大きな数字になると考えられます。現在の日本人の大多数の祖先は渡来人であると云っても過言ではないようです。因みに上表の河内国は14郡76郷・和泉国が3郡24郷なので他の国に比し一郷当たりの諸蕃氏族の数が群を抜いているのが解ります。今日本各地に百済・新羅・高麗等の郡郷や寺社があるのは、これら渡来人が自分達の祖国から持って来た神仏を祀ったもの、亦居住先で在住民が信仰していた神仏と合祀したものです。これらの渡来人がもたらした水稲栽培・文字・仏教・製銅・製鉄・須恵器・土木技術等は古代文明の開花に大きく貢献しました。当時の有名渡来人として鞍作鳥(くらつくりのとり)・征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・秦氏(はたし)・漢氏(あやし)・高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・行基(ぎょうき)・最澄(さいちょう)等の他、百済王氏(くだらのこにきし)等の朝鮮王族もいます。当時の朝鮮半島からの渡来人は先進国の文明人だったのです。
後の推古朝に遣隋使が派遣され倭国と隋(581~618)の間に遣隋使・その後遣唐使が派遣されるようになり先進文明の摂取先が中国に変わります。従来は中国文化・先進技術のほとんどが朝鮮半島経由で日本に伝わって来たのですが、遣隋使や遣唐使の派遣で中国との往来が始まり先進文化が直接摂取出来るように成ると、当時の朝鮮が中国の属国的地位にあることから日本側に朝鮮蔑視の傾向が顕著になってきます。
文献・立証史料が揃っていても謎の多いものもあります。西暦57年に倭の奴(わのなの)国王が後漢に朝貢して光武帝より印綬を受けた。記述が「後漢書」の「卷八五列伝卷七五東夷伝」に「建武中元二年(57)倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」と記されており、その時に貰った印綬が江戸時代の天明四年(1784)に博多の志賀島で水田の耕作中の農民が巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中にあるのを発見したといわれます。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥(かめいなんめい)は「後漢書」に記述のある金印とはこれのことであると同定したといわれます。大正3年(1914)、九州帝国大学の中山平次郎教授が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定しました。昭和48年(1973)及び昭和49年(1974)にも福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されています。この金印は昭和29年(1954)文化財保護法に基づく国宝に指定されいます。是など実証史料があるのですが西暦57年にどの様な方法で中国まで行ったのか言葉の壁はどう克服したのか渡航した人数は 金印の文字を判読できたのか亦使用方法は解ったのか、これらが解ったのなら当時の倭にも文字が存在した事になりますが一切不明です。ご多分に漏れずこの金印にも偽作説があります。また「倭」を「委」と刻印しているのも真偽論争の因になっているようです。五世紀以前の歴史はまったく謎の歴史であり、その真相を知る事は不可能に近いのでは無いかと思われます。
上左写真 筑前国那珂郡志賀島村の百姓甚兵衛が水田の溝を改修中に発見した金印出土地。  中写真出土した純金の印で「漢委奴國王」の文字が刻まれている。  右写真スマホと単3乾電池と比較していただくと金印の大きさが解ります。 
この金印が後漢書に記される西暦57年に「倭の奴国、後漢に朝貢し光武帝より印綬を受ける」この金印が天明4年(1784)4月に百姓甚兵衛により偶然発見され、庄屋の進めで金印を口上書(下右)とともに郡代役所へ届出ることになった。その時の口上書と発見場所の絵図が下の写真です。この金印についても偽造説があります。  
更に後漢の安帝、永初元年(西暦107年)には倭国王の請見記述があり「倭国王師升(すいしょう)ら、後漢安帝に生口(奴隷)160人を献ず」と記されており、卑弥呼の邪馬壹国以前に倭人は前漢や後漢に使者を派遣していますが、彼等はどの様なル-トで中国まで行き、また言葉の壁をどの様に克服したのか、大きな謎ですがそれを解く手懸かりは一切無く永遠の謎です。西暦57年に倭人が中国へ行ったとは凄い事です朝鮮半島沿岸沿いに海路をとったのか、玄界灘を渡り朝鮮半島を陸路で行ったのか?、いずれにしても至難の技です。しかも西歴107年の倭国王帥升(すいしょう)ら、は160人もの生口(奴隷)を連れての中国への渡航で有り、どの様な船で総勢何百人の渡航だったのか。この2例が文献史料に残る日本人の海外渡航の初見史料です。
西暦57年・107年に倭人が中国に渡来している事実があるということは中国・朝鮮半島からも倭国に渡来して来た人々が存在し、この人達の中に中国王朝への朝貢を斡旋したものと考えられます。
※生口(せいこう) 中国や朝鮮半島に於ける捕虜や奴隷を示す言葉と云われていますが、技術職人を指す言葉と云う説もあります。言葉も判らない日本の戦争捕虜や奴隷を160人も貢上しても中国は有り難迷惑であり、日本固有の伝統技術・芸能文化人ではなかったかと云うのがその根拠の様です。    
上写真 左は1988年(昭和63年)に大阪市平野区長原遺跡の五世紀初頭の築造と推定される高廻り1・2号墳から出土した船型埴輪です。奥高廻り1号墳・手前2号墳から出土。

中写真は東殿塚古墳から出土した埴輪の外洋船。

左写真は平成元年(1989)に大阪市が市制100週年を記念して2号墳出土の埴輪の古代船を忠実に復元して大阪から韓国の釜山までの700Kmを実際に航海し古墳時代の倭国と朝鮮半島の人々の往来を再現する企画を立案、平成元年(1989)に大阪市が市制100週年を記念して、この埴輪の古代船を忠実に復元して大阪から韓国の釜山までの700Kmを航海する企画をたて、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現し「なみはや」と名付け大阪から韓国の釜山までの700Kmを実際に航海し古墳時代の朝鮮半島から倭国への渡来体験を試みるべく大阪市大の漕艇部員8名が漕ぎ手を務め、大阪港を漕ぎ出しましたが安定が悪く、そのうえなかなか進まず50cmの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうになり、到底海上を進むことは無理なので船を安定させるための重りを船底に乗せ曳舟で瀬戸内海から玄界灘を越えて韓国釜山港に入って大阪市大の漕艇部員8名が再び漕
ぎ玄界灘を渡って来たかのように振る舞ってもらったそうです。左は2004年(平成16年)の毎日新聞記事で大阪四條畷の蔀屋(しとみや)北遺跡から古墳時代の準構造船の木材の一部が出土した記事です。高廻り1号墳出土の埴輪によく似た形をしています。弥生時代の倭国から後漢に渡った記録として中国の「後漢書」に建武中元2年(西暦57年)に「倭の奴国後漢に朝貢し光武帝より印綬を受けた」、また、倭国王帥升(すいしょう)等後漢の永初元年(西暦107年)安帝に「生口(せいこう/奴隷)160人を献じ謁見を請う」と云う記述があり、是が倭国が外国に使者を送った最古の記述ですが、どうして渡海し、どのようなコ-スで中国入りしたのか?。当時の中国へ行くには朝鮮半島にわたり、半島沿岸沿いに北上するか、南朝鮮に上陸して陸地を北上したものと推測されますが、それにしても西暦107年の使節団は生口160人も伴い総勢300人程度の人数であったと思われ、どの様にして玄界灘を越えて中国まで行ったのか また当時の造船記述や航海術は 言葉の問題は全て謎です。その後、西暦200年代には邪馬台国や女王卑弥呼の記述が中国史書「魏志倭人伝」に見られますが、この時でも帯方郡までどの様なコ-スをとったのか、その詳細は不明です。
倭国使 職貢図に描かれた朝鮮3国の使者と倭国使 6世紀初頭頃の朝鮮半島
上左の写真は南朝の梁(りょう)の元定蕭繹(しようえき在位552~554)が即位前に刺史(しし)として荊州(けいしゅう)にいた539年頃,当時の外国人使節の貢献(ぐけん)のさまを描いた職貢図(しょくこうず)で職貢とは中央政府に収められる貢ぎものの意で「梁職貢図」に描かれた倭人像は、六世紀前半の原画を十一世紀後半に模写したものだそうで、倭人の肖像画としては最古のものです。六世紀といえば、日本史では倭の五王の時代になります。これは筆者が「魏志倭人伝」の記述を参照に想像して画いたものという説もあります。高句麗・新羅・百済使が礼服で靴をはいているのに対して倭国使は一枚の布を身体に巻いて裸足というみすぼらしい姿に画かれています。まさにこれは魏志倭人伝の記述で『其の風俗、淫(みだ)れず。男子は皆、露?(ろけい)し、木綿を以て頭に招(しば)り、其の衣は横幅(おうふく)、但(ただ)、結束して相連(あいつら)ね、略(ほぼ)、縫うこと無し。婦人は被髪屈?(ひはつくっけい)し、衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きぬきて之(これ)を衣(き)る』 という「魏志倭人伝」の記述を参考にした想像画の様です。六世紀に日本の使者が裸足で一枚の布を身体に捲いたままの姿で中国に行ったなど到底考えられません。大陸や朝鮮半島から来た人を「帰化人」「渡来人」といった呼び方があり、どちらも異国から来た人なのに、どう違うのか?。「記」には「帰化人」という記述は無く「書紀」にのみある表現です。こうした呼び名は渡来も帰化も同じだと思うのですが、敢えて言うならば居住地に定着し永住した人々が帰化人でしょう。
「記紀」天皇の和風諡号について
漢風諡号 和風諡号(読み) 「古事記」和風諡号    「日本書紀」和風諡号  
孝霊天皇  オオヤマトネコヒコフトニ 大倭根子日子賦斗迩命 大日本根子彦太瓊天皇
孝元天皇  オオヤマトネコヒコクニクル  大倭根子日子国玖琉命    大日本根子彦国牽天皇   
9 開化天皇  ワカヤマトネコヒコオオヒビ   若倭根子日子大毘毘命   稚日本根子彦大日日天皇 
10 崇神天皇  ミマキイリヒコイニエ     御真木入日子印恵命    御間城入彦五十瓊殖天皇 
11 垂仁天皇  イクメイイリヒコイサチ     伊久米伊理古伊佐知命   活目入彦五十狭茅天皇  
12 景行天皇  オオタラシヒコオシロワケ    大帯日子淤斯呂和気天皇   大足彦忍代別天皇     
13 成務天皇  ワカタラシヒコ         若帯日子天皇        稚足彦天皇        
14 仲哀天皇  タラシナカツヒコ        帯中日子天皇      足仲彦天皇       
神功皇后  オキナガタラシヒメノミコト   息長帯比売命      気長足姫尊     
15 応神天皇  ホムタワケ           品陀和気命         誉田別天皇        
上表は8代孝元天皇から15代応神天皇までの和風諡号です。右の様に漢字で表した場合「記紀」に表記の違いがありますが読みはいずれも同じです。漢字は「記紀」編纂時の八世紀に編纂者が選んだ表記方法でしょう。
和風諡号の読みは古代から口承伝承で伝わったものと云われていますが初代神武天皇の神倭伊波礼?古命(カムヤマトイハレビコノミコト)から文字で記録出来る様になったと云われる五世紀まで一千数百年もの間、天皇の名が口承伝承で正しく伝わったなど到底信じられません。亦、初代神武から14代仲哀天皇まで(2代綏靖を除き)名に「ヒコ」が付きますが15代応神天皇以降には「ヒコ」の名の付く天皇がなく、7代~9代まで「ヤマトネコ」・10~11代「イリ」・12~神功皇后が「タラシ」等の名が数代に亘り続き、「ヤマトネコ」は闕史8代で非実在説と実在説があり「イリ王朝」「タラシ王朝」 については王朝交替説があります。また考古学者の間では応神天皇までの古代天皇家は全て父子相続になっているのを疑問とする説もあります。確かに仁徳天皇以後は皇位継承は父子継承という様な単純なものではなく皇位継承の争いが激しく複雑です。古代の天皇は権力者であり、皇子も多く父子相続といった単純な継承法では収まらないのが真相であり、「記紀」の神武天皇から応神天皇までの記述には多くの矛盾や疑問が山積しており、その中から真実と虚構記述を見分ける事は容易ではありません。私は「記」の編纂方式が「上つ巻」は神話。「中つ巻」で神武天皇から応神天皇まで。「下つ巻」で仁徳天皇から推古天皇までと三分割して編纂されていますが、「中つ巻」は準神話として編纂しているのではないかと考えています。中つ巻までは矛盾と謎が多すぎます。編纂者がそういった事も承知の上でこの巻も神代の続編として編集したものではないでしょうか。「下つ巻」になると「記紀」の記述相違も減少し紀年の相違も縮小して推古朝に到り一致した時点で「記」は終了し後の歴史書は「書紀」のみとなり、41代持統天皇の全30卷で42代文武天皇から「続日本紀」となり記述内容の信憑性も格段に良くなります。
漢風諡号は天皇崩御後に生前の功績を讃えて贈られていますが、「記紀」記載の漢風諡号は奈良時代の漢学者で大学頭(だいがくのかみ)・文章博士(もんじょうはかせ)の淡海三船(おうみのみふね[養老6年(722)~延暦4年(785))が神武天皇から元正天皇までの全天皇と神功皇后の漢風諡号を一括撰進しています。「神武天皇から天武天皇までの「和風諡号」は実際の意味は「諡号」ではなく慣習的に和風諡号といっているだけで実態は不明だそうです。「続日本紀」大宝3年(703)12月17日、持統天皇の火葬の際に「日本根子天之広野日女(オオヤマトネコアメノヒロノノヒメノミコト)」と奉ったことが記されており、これが史料上初めての和風諡号だそうです。それ以前のものは諡号だとは記されてなく口承伝承で伝わったものと云われますが、私は「記紀」編纂時に作成されたものと考えています。
弥生人の寿命
縄文時代から弥生時代・古墳時代の日本人の平均寿命は発掘された人骨から死亡年齢を推定し、平均死亡年齢を計算する方法で、当時の人の平均寿命が推測されています。この方法によって算出された縄文から弥生時代
の人の平均寿命は30~35歳前後と推測されています。
下表は日本各所の墓地から出土した満15歳以上人骨平均死亡年齢(小林和正氏の研究, 1967年)
時代 満15歳以上人骨
平均死亡年齢
個体数
男子 女子 男子 女子
縄文時代 31 21.3 123 102
弥生時代 30 29.2  8  3
古墳時代  30.6 34.5  21  5
各地から出土した人骨の古人類学に基づく推定死亡年齢から平均余命を出す研究もなされています。例えば小林和正氏は、日本各地から出土した満15歳以上の人骨(推定満15歳未満の人骨は誤差が多いので除去)の平均死亡年齢を左表のように推定しておられます。但し骨年齢推定法の改訂により、縄文時代の15歳時平均余命を男女平均16.2年
から31.5年へ大幅に上方修正する長岡朋人氏らの研究もあり、正確な平均余命の推定は困難です。正倉院文書として残る飛鳥時代の古代籍帳に対して生命表の西モデルを適用することで、ファリス(1985年)は大宝2年(702年)の出生時平均余命(平均寿命)を28年~33年と推定している説もあります。
亦、縄文・弥生時代の天皇の寿命が100歳を超えたのは事実とする説もあり「魏志倭人伝」の記述の中に、「其の人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸も或いは二,三婦。婦人淫(みだ)れず、妬忌(とき)せず。」※右参照と記されているのが其の根拠の様です。亦、「魏略いう、其の正歳四節を不知(しらず)但春耕秋収(ただししゅんこうしゅうしゅう)を記し年紀と為すのみ」即ち「その俗、正歳四節(春夏秋冬)を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為すのみ」 この記述を以て春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を一年として数えていた。と云う「一年二歳論」を唱える説もあります。通称「魏志倭人伝」と呼ばれ
ていますが、正式名は「三国志魏志東夷伝倭人伝」でこの三国志は複数の歴史書・文献等から必要事項を抽出して、西晋の陳寿(ちんじゅ)という人が3世紀後半に編纂した本なので、陳寿自身が倭国の状況を見聞したものでは無いため、その内容には矛盾や誇張もあると想われ、それが今日まで延々と邪馬壹国論争が続いて、なを結論が出ない原因ではないでしょうか。右に記載した倭人伝の倭人の寿命に関する記「其の人の寿考、或いは百年、或いは八、九十年。」は明らかに誇張か、或いは「倭地は温暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)。屋室有り、父母兄弟、臥息(がそく)処を異にす。朱丹を以て其の身体に塗る」「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」ともあるので、自国の気候と比べて温暖な地と黥面や朱丹を塗った人々を見て年令を見誤ったのでは。いずれにしても縄文・弥生人の寿命を「一年二歳論」や「寿考或いは百年、或いは八、九十年。」とは考え難い思考だと考えられます。
暦と文字伝来の謎
「書紀」によると干支が日本に伝来して来たのは、29欽明天皇14年(553) 6月、百済に医博士(くすしのはかせ)・易博士(えきのはかせ)・暦博士(こよみのはかせ)等の交代や暦本の送付を求め翌15年2月、求めに応じて百済から五経博士王柳貴(おうりゅうき)・易博士背徳道王道良(えきのはかせせとくおうどうりょう)・暦博士固徳王保孫(こよみのはかせことくおうほうそん)・医博士奈率王有陵陀(くすしのはかせなそちおううりょうだ)・採薬師施徳潘量豊(くすりかりはかせせとくはんりょうぶ)・固徳丁有陀(ことくちょううだ)・楽人施徳三斤(うたまいのひとせとくさむこん)・季徳己麻次(きとくこまし)・対徳進陀(たいとくしんだ)を派遣してきました。推古10年(602)冬10月条、百済の僧観勒来(かんろくまふおもぶ)けり。仍(よ)りて暦の本及び天文地理の書、?(あわせ)て遁甲方術(とんこうほうじゅつ)の書を貢(たてまつ)る。是の時に書生三、四人を選びて、観勒に学び習はしむ。陽胡史(やごのふひと)の祖玉陳(たまふる)、暦法を習ふ。大友村主(おほとものすぐり)高聰(かうそう)天文遁甲を学ぶ。山背臣日立(やましろのおみひたて)方術を学ぶ。皆学びて業(みち)を成しつ。日本人が暦の技術を学んだのは此の頃のようですが暦が実用化されるのは41持統天皇4年(690)11月条、甲申(きのえさるのひ/11日)に詔(みことのり)を奉(うけたまは)りて始めて元嘉暦(げんかのこよみ)と儀鳳暦(ぎほうのこよみ)とを行(おこな)ふ。記述があり此の頃から干支が使用され始めたようです。「記」の完成は和銅7年(714)で「書紀」は養老4年(720)なので「帝紀」や「旧辞」に干支の記載がなくても編纂過程で干支を挿入することは可能であったでしょう。          左 写真は埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣
  下写真は稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣のレントゲン写真で見る文字
古墳時代の出土鉄剣・鉄刀の国産品で銘文象嵌(ぞうがん)のあるものや干支が入っている人物画像鏡があります。いずれも暦や文字の普及前に造られたものですが干支年・銘文が此の時代の鉄刀に象嵌したり、文字入り青銅鏡を鋳造する工芸技法が日本にあったことは驚きであると共に大きな謎でもあります。 埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)に表裏に115文字の漢字が金象眼で彫られ表には
『[表]辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比』 『[裏]其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支 ?大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也』
[訳文][表]ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、名はタカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。[裏]其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。』『其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天
下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。』
「ヲワケ」の祖先8代の系譜と、この鉄剣を作成した理由が記されています。鉄剣の裏側に刻まれた「獲加多支
鹵大王(わかたけるだいおう)」とは21雄略天皇(457~479)表の『辛亥(しんがい)の年』とは西暦471年が有力ですが531年説もあります。471年説ではヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは、大泊瀬幼武(おほはつせわかたける)則ち21雄略天皇であり「宋書」倭国伝に見える倭王武に比定されます。また「倭の五王」の最後の倭王武は西暦478年に、宋の皇帝、順帝に上表文を奉っています。「宋書倭国伝」が記す処によると「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。-以下略-」実に格調高い名文です。当時の雄略朝に仕えていた官人の書いたものとは思えません。恐らく中国か、朝鮮半島からの渡来人が雇用され書いたものと考え
られます。 右写真
亦、兵庫県養父市の箕谷二号墳は養父市八鹿町小山にある円墳で年号入り鉄刀が出土しています。昭和58年(1983)に出土した鉄刀に『戊辰(ぼしん)年五月』と刻まれた銅象嵌による銘文が発見されました。この戊辰年については、出土した須恵器から、西暦608年(推古16年)と推定されて、飛鳥地方で製作されたものと
推定されています。銘文は刀身の柄よりに「戊辰年五月(中)」の
の6文字を刻んでいます。鉄にタガネで線を彫り、その線に銅線をうめこんで文字を書く、銅象嵌という方法だそうです。これは日本最古の銅象嵌の技法で文字は1字1cmほどで、銅線は0.2~0.4mmという細いものです。 古墳の築造年代は発掘学者によると6世紀末から7世紀初頭に築造されたと云われています。左写真は箕谷二号墳出土鉄刀の戊辰(ぼしん)年五月のレントゲン写真。
「隅田八幡人物画像鏡」は和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する銅鏡ですが出土地や出土年代は不明ですが、銅鏡の背には東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ/古代中国の伝説人物)と鋸歯文(きょしもん)があり、周縁部に48文字の漢字銘を左回りに鋳出しています。
『癸未(きび)年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人
等取白上同二百旱作此竟 』
[訳文] 癸未(きび)の年八月、日十大王の年、男弟王(ヲオトのみこ)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻(しま)が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利(こんすり)の二人らを遣わして白上同(上質の銅)二百旱(かん)をもってこの鏡を作る。
此の「癸未年(きびのとし)」がいつに当たるかについては諸説があり、西暦443年説、503年説が有力な様ですがいずれの説にも疑問が有ります。問題は万葉仮名で記された「意柴沙加宮(おしさかのみや)」と「男弟王(ヲオドのみこ)」にあります。
西暦443年説の根拠
西暦443年は中国では宗の武帝の元嘉20年に当たり、倭国王の済(せい)は、使者を派遣して貢物を奉っり武帝から、「安東将軍・倭国王に」任命したと「宋書(夷蛮伝)」に記述のある年です。この「済」は「倭の五王」の中では19允恭天皇とする説が有力であり、意柴沙加宮(おしさかのみや)を息長氏が,宮廷にいれた后妃のために経営した刑部(おさかべ)で允恭皇后の忍坂大中比売が立后前に居住していたとする伝承があります。息長系譜では忍坂大中比売の兄に「意富々杼王(おほほどのみこ)」がいることから「男弟(ヲオド)王」に比定する説もありますが、「記」の息長系譜によると意富々杼王・忍坂大中比売は15応神天皇の孫に当たり19允恭天皇の皇后や北近江の息長・坂田氏の祖である意富々杼王が意柴沙加宮に居住していたとするには年代矛盾が生じます。
西暦503年説の根拠
503年説は諱(いみな)に「斯麻(しま)」を持つ百済の武寧王(502~523)とする解釈があり百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文化を倭国に伝えており、鏡の作者「斯麻(しま)」を百済の武寧王と推定する説です。亦、男弟(おほと)王を継体天皇と解釈し大和国桜井の「意柴沙加宮(おしさかのみや)」に居住していたとするもので、これは隅田八幡宮の人物画像鏡の「男弟王在意柴沙加宮」の銘文から「男弟王」を26継体天皇に推定したものです。継体天皇は諱(いなみ)は「ヲホド」、「書紀」では男大迹王(をほどのみこ)、「記」では袁本杼命(をほどのみこと)と記されます。また、「筑後国風土記」逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」「上宮記」逸文では「乎富等大公王(をほどのおおきみ)」と記されており、人物画像鏡の銘文の「男弟王」を26継体天皇に推定しています。
 上写真 左隅田八幡宮の人物画像鏡       中人物画像鏡の金石文                右 金石文
継体天皇の崩御年を「記」は丁未年(ひのとひつじ)で年43歳。丁未年は西暦527年と推定。逆算すると生年484年となります。「書紀」は継体25年(推定西暦531年)春2月に、天皇、病甚(やまいおも)し。丁未(ひのとひつじ/7日)に、天皇、磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に崩りましぬ。時に年82歳。逆算すると生年は西暦449年となります。「記紀」の崩年干支から逆算すると、隅田八幡人物画像鏡の作成「癸未年(きびのとし)」推定西暦443年には継体天皇(ヲホド)は生まれていないので「男弟王在意柴沙加宮」の男弟王を継体天皇の諱とする説は成立しません。
亦、「書紀」は次の様な異伝を伝えています。
或本に云わく天皇、28年歳次甲寅(ほしきのえとらにやどるとし/534)に崩りましぬといふ。而(しか)るを此(ここ)に25年歳次辛亥(ほしかのとのいにやどるとし/531)に崩りましぬと云へるは、百済本記を取りて文を為(つく)れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥(しんがいの年)3月に、軍進(いくさすす)みて安羅(あら)に至りて、乞?城(こつとくのさし)を営(つく)る。是の月に、高麗、其の王安(こきしあん)を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、倶(とも)に崩薨(かむさ)りましぬといへり。此(これ)に由(よ)て言えば、辛亥(しんがい)の歳は、25年に当たる。後(のち)に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知らむ。
「書紀」は天皇に関する記述や、其の他記述にしても矛盾する説や異説がある時は「一に曰わく」としてそれを記載しており編纂過程で、これらの矛盾と謎を解明出来なかった思いのたけを判ってほしいと「後世、調べ考える人が明らかにするであろう」と意味深長な言葉で呼びかけています。

素戔嗚尊と大国主命の出自
「記」では速?佐之男命(はやすさのをのみこと)・「書紀」は素戔嗚尊(すさのをのみこと)と記されています。
「記紀」により名の記し方が違いますので、この項では「スサノヲ」と片仮名で表記します。
スサノヲ神話については「記紀」で記述は異なり「記」は高天原を追放されたスサノヲは出雲国の肥河上(ひのかわかみ)の鳥髪(とりかみ)に天降りし其の地で八岐大蛇(やまたのおろち)退治をし、大蛇の尾から都牟羽(つむは/意不明)の太刀を取り出しアマテラスに献上します。是が後の草薙の劒です。スサノヲは此の地に宮を造り住み、櫛名田比売(くしなだひめ)を娶(めと)り生みませる子は八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)。また大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)神大市比売(かむおおいちひめ)に娶(めと)ひて生みませる子、大年神(おおとしのかみ)、次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の二柱。兄八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)の女(むすめ)、木花流比売(このはなちるひめ)に娶(めと)ひて生みませる子、布波能母遅久奴奴神(ふはのもじくみのすぬのかみ)。此の神、淤迦美神(おかみのかみ)の女(むすめ)、日河比売(ひかわひめ)に娶(めと)ひて生める子、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)。此の神、天之都度閇泥神(あめのつどへちねのかみ)に娶(めと)ひて生める子、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)此の神、布怒豆怒神(ふのづののかみ)の女、布帝耳神(ふてみみのかみ)に娶(めと)ひて生める子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)。此の神刺国大神(さしくにおほのかみ)の女、刺国若比売(さしくにわかひめ)に娶(めと)ひて生める子、大国主神(おおくにぬしのかみ)。亦の名大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)と謂ひ、亦の名は葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)と謂ひ、亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)と謂ひ、亦の名は宇都志国玉神(うづしくにたまのかみ)とと謂ひ、并(あは)せて五つの名有りとスサノヲの系譜は記します。下記スサノオ系譜参照
左のスサノオの系譜でスサノオ命と神大市比売(かむおほいちひめ)の間に生まれた大年神(おほとしかみ)この神はスサノヲの御子達の中でも特別活躍する神でもないのに「記」は大年神の系譜を何故、特別記載しているのでしょうか大年神について調べて見ると意外な正体が判明しました。大年神(おおとしのかみ)は須佐之男命(スサノオのみこと)と、大山津見(おほやまつみ)の娘である神大市比売命(かむおほいちひめのみこと)の子として生まれ、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とともに生まれています。この神は豊年を神格化した神で、食物や穀物の豊饒・収穫を意味します。このため古来から、宇迦之御魂神とともに各地で篤く信仰されています。宇迦之御魂神とは?、商売繁盛の神「お稲荷さん」として信仰され、京都伏見稲荷大社の主祭神ですが、「記紀神話」には系譜のみが記され、その性格については全く謎に包まれています。一説によるとヤマト建国の神とされる饒速日(にぎはやひ)と同神であるとも云われています。
大年神については牛頭天王の后、頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊といわれ、大年神と習合したという説もあります。亦、正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのもので、門松は年
上系譜 「記」の速須佐之男命(はやすさのおのみこと)系譜。
神が来訪するための依代(よりしろ)であり、鏡餅は年神への供え物です。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供え年神(歳神)を迎えます。亦大年神は他に多くの神の父とされます。
韓神(からかみ)とは百済からの渡来氏族が信仰した神。園韓神社(そのからかみじんじゃ)の園神について「記紀」に記載無く不祥。因みに奈良市の漢国神社(かんごう神社)の祭神は園神として大物主命(おほものぬしのみこと)、韓神として大己貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っています。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られる園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝えています。
曾富理神(そふりのかみ)とは新羅からの渡来神とされます。
白日神(しらひのかみ)白日は白木で新羅であり、新羅が訛り白日になった。亦、白日別神(しらひわけのかみ)は五十猛命(いそたけるのみこと/スサノオの子)の別名であるとされる説も有ります。
聖神(ひじりのかみ)は不明。大阪府和泉市に聖神社がありますが祭神は聖大神(ひしりのおおかみ)で大年神の御子神。「和泉国大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起」によると本地仏は地蔵菩薩となっています。現在は配神と為っていますが元は瓊々杵尊(ににぎのみこと)
上は日本神話の神々の系譜。 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)系譜の大年神とは毎年正月に訪れる来方神で、お歳徳(とんど)さん、恵方神、大歳神と地方によって呼び名が変わり、また大歳神は豊穣や収穫の五穀神として祀られている様で、その神の子が何故韓国名なのでしょう大阪の住吉大社の境外社にも大歳神社があり「初辰」さんのお祭りのときには、種貸社で「種を得て」、楠?社で「実り」、大歳神社で「収穫」するという意味があるそうです。神仏霊験記図会によると「此神に立願すれば、商人職人節季毎に売懸滞なく請取損銀なしといひ伝へ信心の輩少からず」とあります。 ・天照大神・饒速日命(にぎはやひのみこと)・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・磐長姫命(いわながひめのみこと)の五神が祭神であったそうです。
大阪の住吉大社の境外社にも大歳神社があり「初辰」」さんのお祭りのときには、種貸社で「種を得て」、楠?社で「実り」、大歳神社で「収穫」すると云う意味があるそうです。「此神に立願すれば、商人・職人、節季(せっき)毎に売懸(うりかけ)滞なく請取損銀なしと云い伝へ信心
の輩少からず」とあり、いかにも大阪商人の信仰するに相応しい神となっています。この系譜に朝鮮半島の神が日本神話に組み込まれているのは、やはりスサノヲと朝鮮半島の関連からなのかとの推測をうみます。韓神
(からのかみ)・
曾富理神(そほりのかみ)は朝鮮国の神の意。朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神で「延喜式」神名帳には,宮内省にいます神として園神,韓神の名が記されています。この二柱の神は延喜(901~923)以前から平安京の宮内省に祭られていた神で帝王を守らんとの神託により他所に移さずに宮内省に祭ることになったという伝承があります。園韓神社の祭神については園神社は大物主神(おほものぬしのかみ)、韓神社は大己貴命(おほなむちのみこと)・少名?古那命(すくなびこなのみこと)とする説がありますが大物主神と大己貴命は同一で大国主命の別名です。奈良市漢国町に漢国神社(かんごうじんじゃ)が鎮座しており祭神は園神(そのかみ)として大物主命(おおものぬしのみこと)、韓神(からかみ)として大己貴命(おおなむちみこと)・少名?古那命(すくなびこなのみこと)を祀る神社で推古天皇元年(593)、勅命により大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が園神を祀ったのに始まると伝えます。※大物主命・大己貴命はいずれも大国主命の別名です。その後、貞観元年(859)に平安京内の宮内省に祭神を勧請し、皇室の守護神となった伝承をもち、養老元(717)には藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したといわれます。平安遷都にあたり、漢国神社の神が勧請され、皇室守護のため宮中に祀られた園神と韓神と云う説も有りますが異説も有り真相は不明です。平安京の遷都以前に京都を治めていたのは渡来系氏族の秦氏であり、園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神でそれが宮中の地主神になったとする説もあります。園神社・韓神社は平安京の宮中の宮内省に応仁の乱頃まで鎮座しており、平安時代には例祭として園韓神(そのからかみのまつり)を年2回行う規定で、朝廷から重要視されていましたが応仁の乱以後は廃絶したそうです。「園神・韓神」が何故宮中に祀られるようになったちのか?。それについては「江家次第(ごうけしだい)」によると桓武天皇による平安遷都以前から宮中にあり、遷都の折に他所へ遷座しょうとしたが、従来通り「帝王を護り奉らん」との託宣があり、そのまま宮内省に鎮座することになった様です。
※ 江家次第 平安後期の有職故実書。21巻。著者は大江匡房(おおえのまさふ)。天永2年(1111)に成立。関白藤原師通(ふじわらのもろみち)の依頼により、朝廷の儀式・礼法などを詳記したもの。
韓国神社は春日率川(いざかわ)園韓(そのからかみ)神社でしたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國(かんごう)神社」に神社名が変わったそうです。祭神は園神(そのかみ)
として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命(おほなむちのみこと)・少名毘古那神(すくなひこなのかみ)を祀っています。亦境内社の林神社(りんじんじゃ)は貞和5年(1349)に中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因(りんじょういん)が祀られていて饅頭・菓子の祖神の神社としての知名度のほうが高いようで、林浄因の命日である4月19日には、「饅頭まつり」が行われ参拝者に無料で饅頭と抹茶がふるまわれています。
「記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされます。「書紀」の異伝では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にぎたま)を大物主神として三諸山(みむろやま/三輪山)に祀ったと云
われます。韓神の少名毘古那神(すくなひこなのかみ)は天乃羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って波の彼方より出雲に来て大己貴命(おおなむちのみこと/大国主命)の国造りに参加した神です。また常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・酒造等多様な性質を持った神でもあり、波の彼方から来たと云う事は朝鮮半島から来たと推測されます。 朝鮮半島から倭国(日本)への渡来ル-トは縄文・弥生時代初期までは朝鮮半島東岸から対馬海流に乗って出雲から丹後・若狭・越前の日本海沿岸に渡来するル-トが多かった様です。弥生中期から古墳時代になり造船技術や航海術の進歩で北九州から瀬戸内海が倭国と朝鮮半島との主要航路になり、四世紀なると倭の五王が413年から478年の間に九回貢朝していますが、どの様なコ-スで中国へ渡ったのか不明です。直接中国へ渡航したのは推古朝(592~628)の西暦600年の遣隋使が初めです。スサノヲノミコトは天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟ですが高天原で多くの乱暴を働いたため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、スサノオは千位(ちくら)の置戸(おきと)を負わせられ、髭と手足の爪を切り、祓(はら)へしめて高天原から追放され、出雲国の肥河上の鳥髪(ひのかわかみのとりかみ)に天降ります。此の地で八岐大蛇(やまたのおろち)退治の説話があり櫛名田比売(くしなだひめ)を大蛇の難から救い比売を妻に迎えます。また大蛇の尾から出た太刀を天照大御神に献上し、これを草那芸之太刀(くさなぎのたち)と云う。
※千座置戸座(ちくらおきと)は祓物を差出す高い場所、千座はその数の多いこと、置戸は物を置く台。
※草那芸之太刀は後年倭建命(やまとたけるのみこと)が草を薙いで難を免れた説話に由来して草那芸之太刀と命名されるので、ここで遡らせて記すのは不自然です。
「書紀」もスサノオの悪行に日神(天照大神)が天石窟(あまのいわや)に閉(こも)ります。衆神(もろかみたち)スサノオを責めて「汝の所行甚(しわざはなは)だ無��(たのもしげな)し。天上に住むべからず亦葦原中国(あしはらなかつくに)にも居るべからず。急(すみやか)に底根(そこつね)の国に適(い)ね」と高天原から追放する。
底根(そこつね)の国 根の国は遠き国亦は下方の底の国・地底の国・海の彼方の他界等の説あり。
「書紀」本文は高天原から追放されたスサノオは出雲国の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。(八岐大蛇退治の説話あり)大蛇の尾を割裂きて中から一つの剣を取り出します。これが所謂(いはゆる)草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。これおば倶婆那伎能都留伎(くさなぎのつるぎ)と云う。一書に云はく、本(もと)の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居(おろちを)る上に、常に雲気(くも)有り。故以(も)て名(なづ)くるか。日本武皇子(やまとたけるのみこ)に至りて名を改めて草薙剣(くさなぎのつるぎ)と曰(い)ふといふ。
「書紀」第八段
一書に曰はく(第一)
スサノオ尊、天よりして出雲の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。則ち稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)が娘、稲田媛(いなだひめ)を見そなはして、乃ち奇御戸(くみど)に起こして生める児を、�い療鮖骸膸位抄肱撹��莠�(すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)と号(なづ)く。一に曰く�い侶厂昇箏敝��莠衞�(すがのゆひなさかかるひこやしまてのみこと)と云う。また云はく�い了位抄肱撹��萍�(きよのゆやまぬしみなさるひこやしまの)と云う。此の神の五世の孫が大国主神(おほくにぬしのかみ)なり。
一書に曰わく(第二)安芸国(あきのくに)の可愛(え)の川上に下り到り、八岐大蛇退治の説話有り。大蛇の尾を斬るとき剣の刃少し欠けたり。割(さ)きて見れば、剣、尾の中にあり。是を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と号(なづ)く。是は今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら)に在(ま)す。即ち熱田の祝部(ほふり)の掌(つかさど)り祀る神是なり。其の蛇を斬りし剣をば、号(なづ)けて蛇の麁正(をろちのあらまさ)と云う。此は今石上(いそのかみのみや)に在す。是の後に、稲田宮主簀狭八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)が生める児、真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を以て、出雲国の簸(ひ)の川上に遷(うつ)し置(す)えて長養(ひだ)す。後にスサノオ尊、妃(みめ)としたまひて、生ませたまへる児の六世の孫、是を大己貴命(おほあなむちのみこと)と曰(まう)す。
一書に曰わく(第三)第二の続きで八岐大蛇退治の後、奇稲田媛(くしいなだひめ)との婚姻と草薙剣は昔スサノオの許に有ったが今は尾張の国に在り。其のスサノオの蛇を斬りたまへる剣は今吉備の神部(かむのものを)の許に在り。出雲の簸(ひ)の川上の山是なり。
※ 吉備の神部(かむとものお)  備前国赤坂郡の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社。祭神は明治まではスサノヲが八岐 大蛇を斬ったったときの剣の布都御魂(十握劒とつかのつるぎ)であったが現在はスサノヲ尊が祭神。この十握剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたと云う。
一に曰わく(第四)スサノオの所行無状(しわざあづきな)し。故(かれ)、諸々の神、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきど)を以てし、遂に逐(やら)ふ。是の時にスサノオ、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)いて、新羅国に天降りまして、曾尸茂梨(ソシモリ)の処に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰わく「此の地は吾居(われを)らまく欲(ほり)せじ」とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟を作りて、乗りて東に渡りて、出雲の
岡山赤磐市の石上布都魂神社 明治までの祭神は大蛇を斬った時の布留御魂
簸の川上に在る鳥上(とりかみ)の峯に到る。時に其処に人を呑む大蛇有り。スサノオ乃ち天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)を以って、彼(そ)の大蛇を斬りたまふ。時に蛇の尾を斬りて刃かけぬ。即ち擘(さ)きて視(みそなは)せば、尾の中に一つの神(あや)しき剣有り。スサノオ曰はく「此は以て吾が私(わたくし)に用いるべからず」とのたまひて、乃ち五世 の孫、天之葺根神(あまのふきねのかみ)を遺(また)して、天(あま)に奉(たてまつりあ)ぐ。此今、所謂(いわゆる)草薙剣なり。初め五十猛神(いたけるのかみ)、天降(あまくだ)ります時に、多(さは)に 樹種(こだね)を将(も)ちて下る。然れども韓地(からくに)に植えずして、尽(ことごとく)に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡(すべ)て大八州国(おほやしまのくに)の内に、播殖(まきおほ)して青山に成さずといふこと莫(な)し。所以(このゆえ)に、五十猛神(いたけるのかみ)を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。
石上布都魂神社の磐座(現在の祭神スサノオ)
即ち紀伊國に所坐(ましま)す大神是なり。
一に曰わく(第五)スサノオ曰(のたま)はく「韓郷(からくに)の嶋には、是金銀有(これこがねしろがねあ)り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国に、浮宝有(うくたからあ)らずは、未だ佳(よ)からじ」とのたまひて、乃ち髭(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉(すぎのき)に成る。又、胸の毛を抜きて散(あか)つ。是、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是��(まき)に成る。眉の毛は樟(くす)に成る。已(すで)にして其の用いるべきものを定む。「杉及び橡樟(くす)、此の両(ふたつ)の樹は、以て浮宝(うくたから)とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。��(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあおをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の?(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能(みなよ)く播(ほどこ)し生(う)う」とのたまふ。 時にスサノオの子(みこ)を、号(なず)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰す。妹、大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次に?津姫命(つまつひめのみこと)此の三柱の神、亦能く木種を分布す。即ち紀伊國に渡し奉(まつ)る。然(しこう)して後に、スサノオ、熊成峯(くまなりのたけ)に居まして、遂に根国(ねのくに)に入りましき。通常、根の国と黄泉(よみ)の国は同じものと考えられています。しかし本文と第一~第三が出雲での八岐大蛇(やまたのおろち)退治の話で第四・五が新羅に天降った話なので「熊成峰」の所在地についても新羅と推察されます。朝鮮古語では川を「ナリ」と云うことから文字で記すと「熊川」になり忠清南道公州(コンジュ)の熊川か慶尚南道の熊川に比定する説があります。亦日本国内説では紀州の熊野または出雲の鰐淵山(わにふちやま)とする説があります。しかし曾尸茂梨(ソシモリ)も熊成峯(くまなりのたけ)も朝鮮半島の地名です。スサノオが新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)という地に降臨した伝承に対して、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島があり関連するという説もあり、スサノオは朝鮮半島と関係の深い神です。
曽尸茂梨(そしもり)については諸説がありに韓国慶尚北道高霊に昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山がありその山は高霊の現加耶山である。古代には「牛の頭の山」と呼ばれ「牛の頭」は朝鮮語のよみで「ソシモリ」と云うそうです。加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという。さらに白雲里には「高天原」という地名まであるそうです。
 韓郷
(からくに)の嶋には、是金銀有(これこがねしろがねあ)り。仲哀・神功皇后・継体・顕宗期にも金銀彩色・海表金銀之国・金銀蕃国等の記述がありますが、是は鉄・銅とその加工技術を表すものとと思われます
熊成峯(くまなりのたけ)通釈クマナリ・クマナス・ワニナリ等とと読むこともでき、紀伊・出雲にもクマノの地名が有り、朝鮮にはクマナリがあります。
高天原から追放されたスサノオは子のイタケルと新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降臨した。
新羅の曽尸茂梨(そしもり)とは何処なのか? 
国内説 曽尸茂梨は熊曾、筑紫の曾及び紫をとって曾紫すなわち曽尸としたもので、茂梨はすなわち森、森は叢で、村の意味である。
朝鮮半島説
ソウル説 尸は助詞で、曽尸茂梨の曽茂梨とは新羅の原号であった徐羅伐[ソラブル]すなわち「ソの国のフル」の意で、現代語のソウル(首都)の事である。
春川説 曽尸茂梨とは朝鮮の江原道春川にある、元新羅の牛頭山の事である。牛頭天王(ごずてんのう)とスサノオが記紀編纂の頃には習合しつつあったとすると有力な説となる。
高霊説 高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという。その山は高霊の現加耶山である。古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうで「牛の頭」 は韓国語のよみで「ソシモリ」と云う。
 ★スサノヲは自分の体毛を抜いて樹木に変え、其の樹木で船を造ると云う。
樹木の種を持っていたのはイタケルで彼は其の種を朝鮮には播かずに日本全国に播いた。スサノオが自分の体毛を抜いて樹木にしたのは何処で? 第四では新羅から出雲へ渡る時は埴土(はに/粘土)で舟を造っていたが、今回は新羅の財宝を運ぶ為に杉や樟で舟を造るので、スサノオは朝鮮半島にいたことになる。
 ★最後は熊成峯に居て根の国(黄泉の国)へ旅立つ。
この熊成峯についも諸説があります。クマナリではなくクマナスで紀伊の熊野か出雲の鰐淵山(わにふちやま)説。
朝鮮語の古語では川をナリと云うことからクマナリは熊川で、今の忠�て酘燦��(ちゅうせいなんどうこうしゅう)の熊川。または、慶尚南道(けいしょうなんどう)の熊川とする説があります。
「出雲国風土記」によると「韓国伊太?(からくにいたける)神社」と名の付く神社が意宇郡に3社、出雲郡に3社の6社があり、この6座の韓国伊太?神社(からくにいたけるじんじゃ)はいずれも創建年代は不明ですが天平5年(733)完成の「出雲国風土記」には「韓国伊太?神社」の記載は無く延長5年(927)完成の「延喜式神名帳」では下表の様に意宇郡の3社には「同社坐」出雲郡の3社には「同社神」の次に韓国伊太?(からくにいたける)神社の記載があります。これでみると「韓国伊太?神社」の創建は「出雲国風土記」の完成後の創建で既存の神社に合祀されたと推察されますが、祭神の五十猛(いたける)・スサノオが出雲国に来た年代は不詳ですが、「記紀」では、この二神が出雲国に降臨するのは天孫瓊瓊杵尊が筑紫に降臨する、はるか以前のことであり高天原から天降った史上最初の人物です。その時期は不明ですが出雲国(葦原中国)作りに尽力した大国主命はスサノオ命6代の孫ですからスサノオ・五十猛が出雲国に降臨したのは一世紀頃の話と推察され、出雲国の祖神でもある五十猛命とスサノオ命が8~9世紀頃になり「韓国伊太?」神として既存の神社に合祀されたという「延喜式神名帳」の記載に疑問を感じるのですが。「延喜式」神名帳には、「韓国」を冠する神社が出雲以外にもう一座あります。それは南九州の大隅国(おおすみくに)囎唹郡(そおのこおり)の条に記される「韓国宇豆峯(からくにうずみね)神社」です。祭神は五十猛命であり何故南九州の地に五十猛命を祀る神社がと思いました。この神社の創建年代は不詳ですが、続日本紀に大隅国設立の翌年・和銅7年(714)に隼人教導のため「豊前の民200戸を移住させて、統治に服するよう勧め導かせるようにした」とあり、その移住者たちが敬う神として建立したものとも伝えられ延喜式神名帳に「大隅国(おおすみのくに)囎唹郡(そおのこおり)韓国宇豆峯(からくにうずみね)神社」と記し韓国(からくに)大明神、韓国(からくに)様と呼ばれていたそうです。五十猛命は日本各地に八十の木種を播布され山林を青山と成したと云う伝説があります。
出雲国の韓国伊太?(からくにいたける)神社
所在郡名 現神社名 主祭神 出雲国風土記記載の社名
意宇郡 玉作湯(たまつくりゆ)神社 同社坐 櫛明玉神・五十猛神・少彦名神 風土記→由宇(ゆう)の社 韓国伊太?神社
意宇郡 揖屋(いや)神社 同社坐 伊弉冉命・大己貴命・少彦名命 風土記→伊布夜(いふや)の社 韓国伊太?神社
意宇郡 佐久多(さくた)神社 同社坐 天照大神 ・素盞男之神 風土記→佐久多(さくた)の社 韓国伊太?神社
出雲郡 阿須伎(あすき)神社 同社 阿遲須伎高日古根命・五十猛命 風土記→阿受枳(あすき)の社 韓国伊太?神社
出雲郡 出雲神社(大社) 同社 大国主大神 風土記→御魂(みむすび)の社 韓国伊太?神社
出雲郡 曽枳能夜(そきのや)神社 同社 素戔嗚命・五十猛命 風土記→曽伎乃夜(そきや)の社 韓国伊太?神社
曽枳能夜(そきのや)神社 阿須伎(あすき)神社
揖夜(いや)神社
上写真 左から出雲国郡部図・出雲国風土記表紙(写本)・意宇郡、出雲郡の神社一覧。風土記の記すところによると出雲国に神社が399社あり、内184社が式内社。他215社式外社です。
島根県(出雲国・石見国)の大田市にスサノオの子、五十猛(いそたける)神が韓国(からくに)から上陸したと云う伝説の場所があり五十猛(いそたけ)町と名付けられています。(左図参照)JR山陰線の駅名・小学校名・海水浴場名も「五十猛」名です此処も島根県ですが風土記では石見国になり、石見国風土記に記載されますが石見国風土記は失われ現存するのは逸文のみで、この五十猛町の記録は無く、伝承によれば「この地はスサノオ命と其の子五十猛(イソタケル)命、大屋津(オオヤツ)姫命、抓津(ツマツ)姫命が朝鮮半島からの上陸の地との伝承があり。 磯竹村(五十猛町)の内大浦の灘なる神島に舟
上り座し給いて、父神スサノオ命は大浦港に鎮座し御子の五十猛神、抓津姫(つまつひめ)神、大屋姫(おほやつひめ)三柱の神は磯竹村の内なる今の宮山に御社を立て鎮り給い、それより地名を五十猛村(いそたけむら)と云う」そうです。石見国(石州せきしゅう)とは島根県の西部地域で、古代は6郡37郷から成り立ち、現大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼んでいます。「石見国風土記」は失われており現存するのは
、僅か数行の逸文のみで往古の石見国を知ることは出来ません。「延喜式」に石見国の駅として、波祢(はね)・託農(たくの)・樟道(くすち)・江東・江西・伊甘(いかみ)が記され、駅は郷と同じ行政単位でもあったそうです。近世では石見国は銀を産出することから六郡全て徳川幕府の直轄領になっていました。後に那賀(なか)郡・邑智(おおち)郡・美濃(みの)郡・鹿足(かのあし)郡の四郡は津和野藩、浜田藩領になっています。旧石見国東部、現在の島根県大田市大森には有名な石見銀山遺跡があります。 
スサノと牛頭天王の習合
上写真は奈良県桜井市の金屋河川敷公園にある仏教伝来地の碑と説明板。百済から渡来した宗教の受け入れをめぐって蘇我氏が崇仏を主張,物部氏は排仏を固執し,両者の対立が次第に激しくなり、仏教も伝来当初は迫害を受けたようです。
スサノオが高天原を追放されて出雲国へ降臨するのは理解出来ますが、なぜ朝鮮半島に天降るのでしょうか
「記紀」にはこの他「天孫降臨」記述にも高天原が韓国(からくに)に有るのではと想わせる様な記述があり、亦崇�濺傾弔寮��δ�眦纊�珍朕世療詫萓發鯲�佞韻詬佑糞Ⅸ劼�△觧��蘰鉸敍荏沈發覆匹盻个討④泙后�好汽離�氾詫菴世任△�「牛頭天王」が何故習合されるのか考察してみました。
「牛頭天王」とは仏教的な陰陽道の神で、祇園精舎の守護神とされます。我が国ではさらに神道の神であるスサノオと習合しています。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(ぎょうやくじん)とされていたためと云われています。平安時代に行疫神を慰め和ませることで疫病(やくびょう)を防ごうとしたのが祇園信仰の始まりで、その祭礼が「祇園祭り」で10世紀後半に京の町衆によって行われるようになったと云われています。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もあるそうです。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社や牛頭天王社が作られ、祭礼として御霊会や牛頭天王祭が行われるようになった様です。現在各地にあるスサノオを祭神とする神社は明治政府の「神仏判然令」慶応4年(1868)の施行前までは渡来神とか蕃神と云われる「牛頭天王=新羅明神」を祭神として祭っていました。「神仏判然令」で、神社での仏式の行事が禁止され、また祭神の名や社名に「牛頭天王」の様な仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名をスサノオ神社・素戔嗚命神社に変更されています。承暦3年(1079)に記された「八坂郷鎮座大神之記」によると、斉明天皇2年(656)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したとき新羅国の牛頭山のスサノオを祀った、この伝承によると我が国神仏習合以前に、朝鮮半島ですでに日本神話のスサノオが信仰されており、その信仰をもちこんだ渡来人が住みついた 後になってから牛頭天王と習合した事になります。亦、祇園社(京都八坂神社)は,貞観18年(876)に藤原基経(ふじはらのもとつね)が疫病を鎮めるために牛頭天王を祭って造営したと云う説も有ります。
上写真 牛頭天王の画像。左端と左から4つ目は京都八坂神社蔵の牛頭天王のお札と画像。 右端の絵は大阪市平野区の杭全(くまた)神社の祭礼絵巻の牛頭天王で、他の画像と違い実に柔和な表情に描かれています。

亦仏教の牛頭天王がスサノオと習合したのは,牛頭天王が道教系の武塔神と同一視されていたためで,この武塔神は「備後国風土記」によるとスサノオが一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)がスサノオに宿を貸したお礼に疫病を免れる茅の輪を与えて疫病から免れる方法を教えられたという説話で現在でも「蘇民将来之子孫也」などと書いた護符が家の門口に掲げられているのが京都の祇園辺りで見られます。人々は疫病を恐れ,その祟りを鎮める魔除けの神として牛頭天王(スサノオ)に対する信仰が広まったといわれます。余談になりますが福岡県大野城市にも牛頭山に通じる「牛頸山(うしくびやま)」が有り、此処には伽耶国から伝来した須恵器の窯跡群があります。 韓国(からくに)のソシモリ山=牛頭山=伽耶山の麓に住んでいた人々が六 世紀から八世紀にかけて、渡来系技術集団である今来の才伎(いまきのてひと)によってもたらされた数百基の須恵器窯跡群が存在しており、かっては窯業地としての大村落を形成していたと云われます。享保三年(1718)村の神社再建の時の棟礼には御笠郡牛頭村、明治十七年の内務省の文書にも御笠郡牛頭村と記されていますが、その後牛頭が「牛頸村」に変わっいます。て「備後国風土記」逸文では牛頭天王は武塔神とも称され、スサノオと同一視されて、武塔神を親切に迎え入れた兄の「蘇民将来(そみんしょうらい)」に対して疫病を免れさせ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記されています。この厄除け札は今でも京都の祇園などで玄関の上
福岡県大野城市の「牛頸」名の由来は古代の渡来人村の名に由来し故郷の関連名(牛頭)を村の名としこれが転訛した説あり
に貼って有るのが見られます。亦「神道集」によると牛頭天王(スサオ)を「抑祇園大明神者、世人天王宮ト申、即牛頭天王是也,牛頭天王ハ武答天神王等ノ部類ノ神也、天形星トモ武答天神トモ、牛頭天王トモ崇ル」と牛頭天王は天刑星、武答天神、天道神と
されいいます。。中世までには祇園信仰が全国に広がり牛頭天王を祀る祇園社や牛頭
天王社が作られ、祭礼として御霊会や牛頭天王祭が行われるようになった様です。私の住む大阪市平野区の阿加流比売神社(赤留比売神社)の本社である杭全(くまた)神社も明治の「神仏判然令」以前は「牛頭天王社」と呼ばれ貞観4年(862)征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道(まさみち)が牛頭天王を勧請し社殿を創建したのが最初と伝えられます。坂上家の祖も渡来氏族であるところから牛頭天王を勧請したものと思われます。下左は坂上当道(まさみち)の前に影向される牛頭天王(スサノオ尊)。中は牛頭天王をこの郷の地主神として祀る。右は牛頭天王祭礼図で牛頭天王に扮した稚児(いずれも杭全神社平野郷社縁起より)亦現代の杭全神社の夏祭
りは豪壮なダンジリ曳航で知られますが、「牛頭天王社」の頃の祭礼では、優雅な祭礼絵巻が残されています。上写真右、此の神社の絵巻物に描かれている午頭天王は実に柔和な姿に描かれていて大変珍しい物です。
阪上当道は、父広野以来の坂上氏の所領である、摂津国住吉郡平野庄(現大阪市平野区)の経営にも従事していたとも言われ杭全(くまた)神社の伝承によれば、当道は坂上広野を開発領主とする摂津国平野庄に住まいし、広野の後の平野の坂上氏の家督を継ぎ、「牛頭天王」を勧請し祇園社(現杭全神社)を創建したとされますが、中世の平野庄において坂上氏の後裔は、当道の系統ではなく、広野の子である峯雄の流れを汲むと云う説もあります。文献による当道の経歴を見ると承和年間は内舎人、斉衡2年(855)従五位下検非違使・左近衛少将。貞観元年(859)陸奥守・兼鎮守府将軍・従五位上。貞観9年(867) 3月9日に任地で卒去。享年55歳。亡くなるまで殆ど任地の陸奥で過ごしおり、平野庄の開発は広野の子峯雄とするのが正しい様です。
「記紀」の天孫降臨神話
 「記」の天孫降臨記述
天孫降臨(てんそんこうりん)とは天照大神(あまてらすおおみかみ)は地上界を吾が子の太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に治めさせたいと願い高皇産霊命(たかみむすびのみこと/高木神)とともに、色々な手を使い出雲国の大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ/大国主の別名)に出雲国の国譲りを迫り、最終的には大穴牟遅神と事代主神(ことしろぬしのかみ)の父子は出雲国を天照大神に譲渡します。天照大神と高木神は日本列島を統治させるため地上界に御子の天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと/天照大神の御子)を派遣しようとしていた時に天之忍穂耳命に子が生まれます。名は天迩岐志国天津日高日子番能迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)で天照大神の孫にあたります。この迩迩芸命(ににぎのみこと)を地上界に遣わすことになり、天照大神は八尺の勾玉(やさかのまがたま)・鏡・草那芸劒(くさなぎのつるぎ)に常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからをのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副(そ)へて詔(の)りたまはく「此の鏡は、もはら我が御魂(みたま)として、吾が前を拝むが如く、いつき奉(まつ)れ。次に思金神は、前(さき)の事を取り持ちて政(まつりごと)を為(な)せ」とのりたまふ。」此の二柱の神は、さくくしろ伊?受能宮(いすずのみや/五十鈴の意)を拝み祭る。次に登由宇気神(とゆうけのかみ)此は外宮(とつみや)の度合(わたらひ)に坐(いま)す神ぞ。 登由宇気神(とゆうけのかみ)は穀物神。 次に天石戸別神(ふめのいはとわけのかみ)亦の名は豊石窓神(とよいはとのかみ/皇居の門の神)此の神は御門(みかど)の神なり。次に手力男神(たぢからをのかみ)は、佐那々県(さなながた/三重県多気町辺の地名)に坐(いま)す。
尓して天津日子番迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔(の)りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重(やえ)たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天の浮き橋にうきじまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂のくじふるたけに天降り坐(ま)しき。是(ここ)に詔(のり)たまはく
『此地は韓国(からくに)に向かひ、笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まぎとお)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故此地(ゆえここ)はいたく吉(よ)き地(ところ)
と詔(の)りたまひて、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)す。これが「記」の天孫降臨記述のあらましです。
※ 「くじふるたけ」は霊峰の意、古代朝鮮語の「亀旨峰(クジポン)」と同語か
笠紗(かささ)の御前(みさき)に真来通(まぎとお)りて 笠沙の御前はとは何処か是については鹿児島県南さつま市笠狭町の野間岬説がありますが韓国に向き合っていません。亦、「草那芸劒(くさなぎのつるぎ)」とありますが、この劒は後世の12代
景行天皇の御子、倭建命
(やまとたけるのみこと)の東征のおりに伊勢の倭比売命(やまとひめのみこと)を尋ねた時に賜ったのが「御?(みふくろ)」と景行期に記されており、天孫降臨の時点で「草那芸劒」が出現するのは矛盾があります。草薙剣は元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言われ、三種の神器の一つで、スサノヲが出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の尾から見つかった剣でスサノヲはこの剣を高天原のアマテラスに献上しています。崇神天皇の時代に天叢雲剣の形代が造られ、形代は宮中に残り、天叢雲剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという伝承があり、倭比売命が、東征に向かう倭建命に天叢雲剣を授け、倭建命が相模国で敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、天叢雲剣で草を刈り払い危機を逃れた、以後天叢雲剣が草薙劒と呼ばれる。「書紀」の「一説では、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」と記します。
通説では天孫降臨の地は、南九州の霧島連峰の高千穂峰と宮崎県高千穂町の二処に降臨の伝承があります。この他に「記」の記述から北九州説もありますが、いずれも神話の中の話で確証がなく、いずれが真の降臨地か定説はありませんが「記」の記述から推測すると「筑紫の日向国(宮崎県)」では韓国(からくに)に向かひあわず、これはやはり北九州地域ではないかと推測されます。また福岡市西区から筑前深江へ向かう四十九号線の飯盛山の裾に日向峠があります。峠の背後には飯盛山(382m)、高祖山(416m)があり、この山の山頂から博多湾を望むと
『此地は韓国(からくに)に向かひ、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり』と云う形容に当てはまり、飯盛山の裾には室見川の支流で日向川があり「笠紗(かささ)の御前(みさき)」を糸島半島に求める説もあります。亦天孫降臨の伝説の発祥地とし、天孫降臨とは後の「ヤマト王権」の主が朝鮮半島から北九州への上陸を意味すると云う説もあります。
古代の伊都国と遺跡・神社 伊都国 日向峠・高祖山・飯盛山があります。
  「書紀」の天孫降臨記述
「書紀」本文は筑紫の日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほたけ)に天降(あまくだ)ります。「襲」は熊襲の「そ」と推測され九州南部を指し、通説にある九州南部の霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承がありますが、この場合、霧島連峰の一山である高千穂峰説が有力であると思われます。しかし南九州説では韓国(からくに)には向き合いませんが高千穂峰の西に韓国岳(からくにたけ)があります。韓国岳(1700m)は霧島連山の最高峰であり、鹿児島・宮崎両県の境界にまたがり国土地理院の地図でも「韓国岳(からくにたけ)」と表記されています。名称の由来については不明ですが頂上から朝鮮半島まで見渡すことができるほど高い山ということで韓国の見岳(からくにのみたけ)と呼ばれたという説もあり、昔は霧島岳西峰とか雪岳と呼ばれていたという説もあり、何時頃から「韓国岳」との正式名が付いたのかは不明です。
また「書紀」は「一書(あるふみ)に曰(い)わく」として四つの異説を載せており、その中には本文と大きく異なるものもあります。
「本文」では高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(すめみま、あまつひこひこほのににぎのみこと)に覆(おほ)ひて、天降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいわくら)を離(おしはな)ち、また天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわけ)て、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわき)て、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峰(たかちほのみね)に天降(くだ)ります。既(すで)にして皇孫(すめみま)の遊行(いでま)す状(かたち)は、?(くしひ)の二上(ふたかみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて、吾田(あた)の長屋の笠狭崎(かささのさき)に到ります。
「書紀」一書(あるふみ)に曰(い)わくでは天孫降臨地を次の様に記しています。
神代下第9段第一には天照大神、天稚彦(あめわかひこ)に勅(みことのり)して曰(のたま)わく「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は是吾が児の王(きみ)たるべき地(くに)なり。然(しか)れども慮(おもひみ)るに残賊強暴横悪(ちはやぶるあ)しき神者有(かみどもあ)り、汝先(いましま)づ往(ゆ)きて平(む)けよ」とのたまふ。…中略…皇孫天磐座(あまのいわくら)を脱離(おしはな)ち、天八重雲(あまのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。皇孫をば日向の高千穂の?触峯(くじふるのたけ)に到ります。
神代下第9段第二は皇孫、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)日向の?(くしひ)の高千穂峯
(たかちほのたけ)
に降到(あまくだ)ります。
神代下第9段第四は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、真床覆衾(まとこおふふすま)を以て、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸(あまのいわと)を引き開け、天八重雲(あめのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて日向の襲(そ)の高千穂の?(くしひ)の二上(ふたかみ)の峯に降し奉(まつ)る。時に大伴連(おほとものむらじ)の遠祖天忍日命(とおちおやあまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖天?津大来目(あめのくしつのおほくめ)を師(ひき)いて-(略)-天孫の前に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだり)て、日向の襲の高千穂の?(くしひ)の二上(ふたかみ)の峯の天浮橋(あまのうきはし)に到りて浮渚在之平地(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて、吾田(あた)の長屋の笠狭(かささ)の御碕に到ります。彼処(そこ)に一人の神有り、名を事勝国勝長狭(ことくにかつながさ)と曰ふ。天孫、其の神に問ひて曰(のたま)はく「国在(あ)りや」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく「在(あ)り」とまうす。因(よ)りて曰(まう)さく「勅(みことのり)の随(まにま)に奉(まつ)らむ」とまうす。天孫、彼処
(そこ)に留住(とどま)りたまふ。其の事勝国勝神(ことかつくにつのかみ)は、是伊弉冉尊(これいざなみのみこと)の子なり。亦の名は塩土老翁(しほつつのをぢ)
神代下第9段第六は天孫が大山祗神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)に娶ひて一夜に有身(はら)ませ四柱の子を生む。
生まれて間もなく真床覆衾(まとこおふふすま)に包まれ高天原から地上界に降臨した瓊瓊杵尊が、いきなり女を妊(はら)ませ四人の子をもうけると云う矛盾した話です。
神代下第9段第六は高皇産霊尊、乃ち真床覆衾(まとこおふふすま)を用(も)て皇孫天津彦根火瓊瓊杵尊に裹(き)せまつりて、天八重雲(あめのやえたなぐも)を排分(おしわ)けて降し奉らしむ。此の神を称(まう)して、天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)と曰す。時に降到(あまくだ)りましし処をば、呼ひて日向の襲(そ)の高千穂の添山(そほりやま)の峯と曰ふ。
天孫降臨地は本文ではは日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほたけ)で「異伝」では次の様になっています。
第一では筑紫の日向の高千穂の?触峯(くじふるのたけ)
第二では日向の?日(くしひ)の高千穂峯。
第四では日向の襲(そ)の高千穂の?日の二上峯(ふたかみのたけ)
第六では日向の襲(そ)の高千穂の添山(そほりやま)の峯。
第一では「筑紫」とあり、この場合の筑紫とは主に北部九州を指すと思われるが、古代では九州の全土を指す場合もあります。また「筑紫(つくし)」・「豊(とよ)」・「肥(ひ)」・「熊曾(襲)(くまそ)」と分けて呼称する場合もあった様です。また筑紫国とは後に筑前国と筑後国に分割された。現在の福岡県の西部と南部。本文・第四・第六では「襲(そ)」の高千穂とあるので南九州であろうと推定出来ます。天孫降臨の地、南九州説に宮崎県高千穂町と南九州の霧島連峰の高千穂峰とする二説がありますが、この場合「襲(そ)の高千穂」とありますから霧島連峰の高千穂峰と考えられます。
※真床追衾 真は美称。床追は床臥と同義。衾は伏す裳(も)、赤児を包む衣装。
 浮渚在平処(うきじまりたひら)浮島があって磯にお立ちになっての意。 膂宍(そしし) 荒れ果てて痩せた不毛 の地の意。
 膂宍(そしし)の空国(むなくに) 荒れてやせた不毛の地。
 頓丘(ひたを) ずっと丘続きの所を通っての意。
 国覓(くにま)ぎ 良い国を求めて。
 吾田(あた)の長屋 不明(薩摩国川辺郡の長屋山とする説あり)
 
笠狭崎(かささのさき) 不明(鹿児島県南さつま市笠狭町の野間岬説が有り)
天孫降臨の地について南九州説・北九州説が有りますが、全ては神話の世界の話であり全て霧の彼方にあり、幾ら議論をしても結論の出る事は永遠にないと私は思います。それは実証する史料が無いのですから想像の世界になります。故に私共が「記紀」や中国・朝鮮の文献史料を見て自分で推理・推察する以外にないのですから考察する人により出る結論は違ってくる筈です。私の様な素人考えでは天照大神や高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は天孫を降臨さす前に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を葦原中国
(あしはらなかつくに/出雲国と推察)に遣わし、大己貴神(おほあなむちのかみ/大国主神の別名)と子の事代主神(ことしろぬしのかみ)に「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、皇孫を降し、此の地に君臨したまはむとするにあたりて我らを遣わし、駈除(はら)ひ平定(しづ)めしむ。汝が意何如(こころいかに)」と問い葦原中国を献上させるのですから天孫の降臨は葦原中国(出雲国)に降るのが順当であると考えるのですが。降臨地は九州です。
「記」では天孫降臨の地を「日向(ひむか)の高千穂のくじふるたけ」とし 「書紀」本文では「天孫降臨」の地を「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯に天降ります」と記しますが、一に曰わく(あるにいわく)の第一書では「日向の高千穂の???蝕峯(くじふるのたけ)、第二書では「日向の?(くしひ)の高千穂峯」、第四書では「高千穂の?日の二上峯(ふたかみのみね)」、第六書では「日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」と記しますが、「記紀」の編纂者はヤマト政権の崇神が御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とするなら何故皇祖神は遠く離れた九州の地に天降ったのでしょうか?。 降臨地は出雲国かヤマトの三輪山でよかったのでは何故北九州や南九州の地を降臨地に選んだのでしょうか。天孫降臨の年代は不明ですが紀元前後と推定すると「筑紫国」や「日向(ひゅうが/ひむか)」と云う地が有ったのか疑問ですが文献史料上「日向国」が誕生したのは「続日本紀」によると七世紀の律令制(701)成立後で日向国の領域は現在の宮崎県と鹿児島県の九州本土部分を含む広域に渡っていたが和銅6年(713)日向国の領域として(臼杵郡、児湯郡、宮崎郡、那珂郡、諸県郡)の5郡を日向国としています。また「日向の襲(そ)」とは熊襲の「襲」であろうと推測しますが熊襲が「記紀」の記述に現れるのは天孫降臨の時期から数百年も後のことです紀元前後の鹿児島県・宮崎県が、どう呼ばれていたか全く不明です。
朝鮮半島の始祖降臨神話
日本神話は天孫が高天原から神(人間)が降臨しますが、朝鮮神話は「三国史記」(1145)や12世紀末の「三国遺事」などの古典による文献神話と、口承神話の二種類があります。文献神話としては始祖の山上降下、日の御子(みこ)信仰、日光感生による卵生神話等があり、天から卵が降りてきて人が生まれる卵生神話で日本神話とは人と卵の違はあるが、いずれも山頂に降臨しており類似性のある神話です。  
朝鮮の檀君(だんくん)神話では、「天の神がその子に三つの天符印(てんぷいん)を授け、三千の徒衆を従えて太白山の頂上にある神檀樹(しんだんじゅ)のもとに天降って朝鮮を開いた」と云う話です。日本の天孫降臨神話と良く似ていて、三つの神器、お供の神々…このような類似性から「天孫」は朝鮮半島から渡ってきた渡来人だという説が生まれた様です。
※ 天符印とは鏡・劒・鈴でこれが日本に伝わって「三種の神器」の原形になったとの説もあります。 
「書紀」で天孫が降臨した地は「高千穂の?触峯(くしふるみね)」ですが、これは朝鮮語の「亀旨峯(クシムル)」の事だと推測されています。卵が赤い布に包まれて…というのも、ホノニニギが真床追衾(まとこおふふすま)に包まれて降臨した事と類似しています。五世紀頃の日本には、多くの朝鮮人が渡来して多くの技術を伝えていた様で、彼らの持つ建国神話の記憶が、日本神話の天孫降臨神話を生んだのではと言う説もあり、こうしたことがヤマト政権の初代王、崇神の渡来人説の元になったとも推測されます。
新羅の赫居世(カクキョセイ/日本よみ)神話は「雷光が射(さ)した地面に白馬が跪(ひざまず)いていた、人々が其処へ往くと白馬は天に昇り、大きな紫色の卵があった。其の卵を割ると中から容姿端麗な男の子が出てきた。身体から光彩を放ち、天地が揺れ動き、陽と月ことさらに清明であったので、その子を赫居世(カクキョセイ)と名付けた。また、位号を居西干(コソガン)といい、以後は王の尊称として使われる様になっています。
韓国の民間研究者の説として高天原は慶尚北道(キョンサンプクト)の高霊(コリョン)郡であるという説があり、現地では発掘も行われ、「高天原故地」と記された記念碑もあるそうです。ただし、韓国の史学界では、これは異端の説とされています。なお、他にも江原道(カンウォンド)の春川(チュンチョン)という説もあります。
「聖なる亀旨峯(クジポン)で首長達の集会が開かれていた時に、天から紫の縄が垂れてきたので、縄の元をたぐると紅い布に包まれた金の合子(ごうす)があり、開いて見ると日のような黄金の卵が六箇出てきた。この卵を衾(しとね)の上に置くと、身の丈九尺の一人の男子と化し即位して伽耶国(かやのくに)の首露王(シュロオウ・スロオウ)となった。残りの五箇の卵もそれぞれ男子と化し五伽耶の主となった。」また「記紀」にはスサノオ命が高天原を追放され天降ったのが新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)だと記されています。スサノオ命は新羅の曽尸茂梨が気に入らなかった様で「この地は吾居(おら)らまく欲(ほり)せじ」と云い埴土(はに)で舟を作り出雲へ渡ります 
韓国の高天原故地碑
下の写真は韓国慶尚北道高霊(コリョン)郡の加耶大学校内にある「高天原故地」の碑で、日本神話の天津神(あまつかみ/てんじん)が住む高天原はここであるとハングル文字と日本語で記されています。この碑の建立者は加耶大学の李慶煕(イ・チョンハン)総長で、この人の説によると高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した。東国與地勝覧(とうごくよちしょうらん)に書かれている伽耶の天神夷毘訶(テンジンエビス)の次男伊珍阿(イジナギ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿はイザナミである。任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は「主人の国」や「母なる国」を意味する。また高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルのことである。というのが李慶煕(リケイキ/イ・ゴンヒ)総長の主張で写真の様に大伽耶の初代王伊珍阿と其の父母、天照大神、素戔嗚尊の祭祀が盛大に行われています。この説は韓国の学界でも正式に認められたものではなく異説視されているそうです。因みに李慶煕氏は韓国のサムスン財閥の二代目会長を勤めた人です。
  ※東国與地勝覧 1530年、中宗の命により編纂された朝鮮の官選地理志。
上写真左 韓国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある高天原故地の石碑。 上左は韓国慶尚南道金海市亀山洞にある亀旨峰
(クジポン)
と呼ばれる小さな峰で伽耶の始祖である首露王(シュロオウ)が天から降りてきた伝承のある所です。
上右は頂上にある支石墓という古墳の墓石だそうです。  下写真は高天原故地の祭祀で左から「天神夷?訶 (てんじんえびす)・「正見母主(せいみぼしゅ)」・「伊珍阿(いじんあし/大伽耶の初代王)」。天神夷?訶と正見母主は伊珍阿の父母です。それに続くのが天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、5柱の御魂を祭る祭祀が行われています。
左上写真は韓国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑で日本神話の天津神が住む高天原は、ここであるとハングル文字と日本語で記されています。加耶大学の李慶煕総長の話によると高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、高と霊の字が含まれるので、韓国の高霊郡で誕生した。また東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷?訶(てんじんえびす)の次男伊珍阿(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿?はイザナミである。任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は「主人の国」や「母なる国」を意味するそうです。高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指すそうです。こうした李総長の思考により大学の敷地内に「高天原故地」という記念碑が建立され写真の
様な祭祀が行われています。日本の学者のなかにも李総長の主張に賛同される方もおられる様ですが、この地を高天原であったと云う考古学的物証はありません。
スサノオは朝鮮半島の神か?
スサノヲ尊の生誕
伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から還って竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)で禊(みそぎ)をした時に生まれたのが綿津見(わたつみ)三神・住吉三神で、更に伊弉諾尊が左目を洗った時に天照大神(あまてらすおほみかみ)、右目を洗うと月読命(つきよみのみこと)、鼻を洗うとタケハヤスサノヲのみことが生まれます。伊耶那岐命いたく歓喜(よろこ)ばして「吾は子を生(あ)らして、生(あ)らす終
(はて)
に三(みはしら)の貴(たふと)き子を得つ」とのりたまふ。其の御首珠(みくびたま)の緒もゆらに取りゆらかして、天照大神に賜ひて詔りたまはく「汝が命は高天原を知らせ」と、次に月読命に詔りたまはく「汝が命は夜之食国(よるのをすくに)を知らせ」と、スサノヲ尊には「汝が命は海原を知らせ」と事依(ことよ)さしたまふ。以上が「記」の記述で「書紀」の記述も同じですが月読命に「滄海原(あをうなはら)の潮の八百重(やほへ)を治すべし」と、スサノヲ尊には「以て天下(あめのした)を治すべし」とのたまふ。
更に「書紀」は記す。是の時にスサノヲ尊、年已(としすで)に長いたり。復(また)八握鬚髯生(やつかひげお)ひたり。然れども天下を治さずして常に啼(な)き泣(いさ)ち恚恨(ふつく)む。故、伊弉諾尊問ひて曰わく、「汝は何の故(ゆえ)にか恒(つね)に如此啼(かくな)く」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)したまはく、「吾(やつかれ)は母(いろはのみこと)に根国(ねのくに)に従はむと欲(おも)ひて只に泣くのみ」とまうしたまふ。伊弉諾尊悪(にく)みて曰(のたま)はく「情(こころ)の任(まにま)に行(い)ね」とのたまひて乃ち遂(やらひや)りき。
※八握鬚髯生(やつかひげお)ひたり 長く髯の伸びた老人の顔。
「書紀」にはスサノオの高天原追放について、本文のほかに五つの「一書に曰く」の記述があります。
本文ではスサノオ尊、天より出雲国の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。時に川上に(なく)声有るを聞く
(かれ)声を尋(たづ)ねて覓(ま)ぎ往(いでま)ししかば、一人の老公(おきな)と老婆(おみな)し有りて、中間(なか)に少女(おとめ)を置(す)えて撫(かきな)でつつ哭く。とこれから八岐大蛇(やまたのおろち)退治の話になります。
「書紀」神代上第八段
「一書(あるふみ)に曰(い)はく」第一ではスサノオ尊、天よりして出雲の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。
「一書に曰はく」第二ではスサノオ尊、安芸国(あきのくに)の可愛(え)の川上に天降りまます。
「一書に曰はく」第三ではスサノオ尊、奇稲田媛(くしいなだひめ)を幸(め)さむとして乞いたまふ。
「一書に曰はく」第四ではスサノオ尊、所行無状(しわざあづきな)し。故(かれ)、諸々(もろもろ)の神、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂(つひ)に逐(やら)ふ。是の時に、スサノオ尊、其の子五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)いて新羅国に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処に居します。乃ち興言(ことあげ)して曰わく「此の地は吾居(われを)らまく欲(ほり)せじ」とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東の方に渡りて、出雲国の簸(ひ)の川上に到ります。其処に人を呑む大蛇ありスサノオ天蠅斫(あまのははきりの)剣を以てその大蛇を斬りたまふ。尾の中に一つの神(あや)しき剣有り。スサノオ曰わく「此は以て吾が私に用いるべからず」とのたまいて乃ち五世(いつよ)孫、天之葺根神(あまのふきよのかみ)を遣(まだ)して、天に上奉(たてまつりあ)ぐ。此今、所謂草薙剣(いわゆるくさなぎのつるぎ)なり。五十猛神(いたけるのかみ)天降ります時、多(さは)に樹種(こだね)を持ちて下る。然(しか)れども韓地(からくに)に植えずして、尽(ことごとく)に持ち帰る。遂に筑紫(つくし)より始めて、凡て大八洲(おほやしま)の内に播殖(まきおほ)して青山に成さずといふこと莫(な)し。所以(このゆえ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊國に所坐(ましま)す大神是なり。
「一書に曰わく」第五ではスサノオ尊、「韓郷(からくに)の嶋には、是金銀有(これこがねしろがねねあ)り若使(たとひ)吾が児の所御(しらす)国に、浮宝有(うくたからあ)らずは、末(いま)だ佳(よ)からじ」とのたまひて、乃ち髭を抜きて散(あか)つ。即ち杉に成る。胸の毛を抜き散(あか)つ。是、檜に成る。尻(かくれ)の毛は、是��(まき)に成る。眉の毛は是?(くす)に成る。已(すで)にして其の用いるべきものを定む。乃ち称(ことあげ)して曰わく、「杉及び?(くす)、此の両(ふたつ)の樹は、以て浮宝(うくたから)とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。��(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへに)に将(も)さむ具(そなへ)にすべし夫(そ)?(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆能(みなよ)く播(ほどこし)(う)う」とのたまふ。 ※奥津棄戸 奥津は奥のという意、棄戸はすてるの意? 時にスサノオの子を号(なづ)けて五十猛(いそたける)と曰(まう)す。妹、大屋津姫(おほやつひめ)、次に柧津姫(つまつひめ)。凡て此の三柱の神、亦能(またよく)く木種を分布す。即ち紀伊國に渡し奉(まつ)る。然(しかう)して後に、スサノオ熊成峯(くまなりのたけ)に居まして、遂に根国(ねのくに)に入りましき。
上記の第四と第五の一書ではスサノオ尊は高天原から朝鮮半島を経由して出雲国に来ているので是で見るとスサノオ尊は渡来神である可能性が高いと考えられます。
「一書に曰はく」第六は大己貴命(おほあなむちのみこと)が少彦名命(すくなひこなのみこと)と国造りをした話に始まります。大国主神、亦の名は大物主神(おほものぬしのかみ)・国作大己貴命(くにつくりのおほあなむちのかみ)・葦原醜男(あしはらのしこを)・八千戈神(やちほこのかみ)・大国玉神(おほくにたまのかみ)・顕国玉神(うつしくにたまのかみ)と曰(もう)す。其の子凡(すべ)て一百八十一神(ももはしらあまりやそはしらのかみ)(ま)す。夫(そ)の大己貴命(おほあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)と力を戮(あは)せ心を一にして天下(あめのした)を経営(つく)る。復顕見蒼生(またうつくしきあをひとくさ)及び畜産(けもの)の為は、其の病(やまい)を療(をさ)むる方(みち)を定む。又、鳥獣・昆虫(はふむし)の災異(わざはひ)を攘(はら)はむが為は、其の禁厭(まじないや)むる法(のり)を定む。是を以て百姓(おほみたから)、今に至るまでに、威(ことごとく)に恩頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)れり。嘗(むかし)大己貴命、少彦名命に謂(かた)りて曰(のたま)はく「吾等が所造(つくれ)る国、豈(あに)善く成せりと謂(い)はむや」とのたまふ。少彦名命、対(こた)へて曰(のたま)はく、「或は成せる所も有り、成らざる所も有り」とのたまふ。この談(ものがたりごと)(けだし)幽深(ふか)き致(むね)有らし。其の後に、少彦名命、行きて熊野の御崎に至りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ。
熊野の御崎 島根県八束郡八雲村熊野。出雲国風土記には意宇郡条に「熊野山郡家正南一十八里熊野大神之社坐」と記す。
自後(これよりのち)、国の中に未(いま)だ成をば大己貴神、独(ひとり)能く巡り造る。遂に出雲国に到りて、乃ち興言(ことあげ)して曰はく、「夫(そ)れ葦原中国(あしはらのなかつくに)は本(もと)より荒芒(あら)びたり。磐石草木(いはくさき)に至るまでに、咸(ことごとく)に能(よ)く強暴(あしか)る。然(しか)れども吾已(われすで)に摧(くだ)き伏せて、和順(まつろ)はずといふこと莫(な)し」とのたまふ。遂に因(よ)りて言(のたま)はく「今此の国を理(をさ)むるは唯し吾一身(われひとり)のみなり。其れ吾と共に天下(あめのた)を理(おさ)むべき者、蓋(けだ)し有りや」とのたまふ。時に神(あや)しき光海(ひかりうな)に照らして、忽然(たちまた)に浮かび来る者有り。曰はく「如(も)し吾在らずは、汝何(いましいかに)ぞ能(よ)く此の国を平(む)けましや。吾が在るに由(よ)りての故(ゆえ)に、汝其の大きに造る績(いたはり)を建つこと得たり」という。是の時に大己貴神(おほあなむちのかみ)問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対(こた)へて曰はく「吾は是汝(これいまし)が幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)なり」といふ。大己貴神の曰(のたま)はく「唯然(しか)なり。廼(すなは)ち知りぬ。汝は是吾が」幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)なり。今何処にか住まむと欲(おも)ふ」とのたまふ。対(こた)へて曰はく吾は日本国
※幸魂奇魂(さきみたまくしみたま) 古代人には魂は肉体を離れて行動しうるものであったので、この様に魂だけが別行動した(やまとのくに)の三諸山(みもろやま)に住まむと欲(おも)ふ」といふ。故(かれ)、即ち宮を彼処(かしこ)に営(つく)りて、就(ゆ)きて居(ま)しまさしむ。此(これ)、大三輪の神なり。此の神の子(みこ)は、即ち甘茂君等(かものきみたち)・大三輪の君等(おほみやのきみたち)、又姫蹈鞴鞴五十姫命(またひめたたらいすずひめのみこと)なり。又曰はく、事代主神(ことしろぬしのかみ)、八尋熊鰐(やひろわに)に化為(な)りて、三嶋の溝?(みぞくひひめ)或は云はく、玉櫛姫(たまくしひめ)といふに通(かよ)ひたまふ。而して児姫蹈鞴鞴五十姫命(みこひめたたらいすずひめのみこと)を生みたまふ。是を神日本磐余彦火々出見天皇(かむやまといはれひこほほでみのすめらみこと/神武天皇)の后とす。                     
歴史講座などでよく「三世紀初頭て西暦何年頃」て問われると、答えに窮する事が屡々です。本文でも古墳の築造年代に三世紀中葉と記した場合の西暦年代を割り出す参考にと下記に年代表を作りましたが、是は私がこのHP作成の年代参考にしたもので、正確度については保証の限りではありません。
白色部分は西暦年号を主体にした世紀。 右の黄緑部分は「書紀」紀年で時代・世紀・天皇と世紀年代です。
世紀 時代 西暦 時代 世紀 天皇 「書紀」の紀年
紀元前 縄文~弥生 紀元前100年~1年 縄文 紀元前 1神武~6孝安 紀元前660~前291
一世紀 弥生 西暦0年~100年 弥生 紀元前 7孝霊~11垂仁 紀元前290~西暦70
二世紀 弥生 西暦101年~200年 弥生 一世紀 12景行 西暦71~西暦130
三世紀 古墳 西暦201年~300年 古墳 二世紀 13成務~14仲哀 西暦131~西暦200
四世紀 古墳 西暦301年~400年 古墳 二世紀 神功皇后 西暦201~西暦269
五世紀 古墳 西暦401年~500年 古墳 三世紀 15応神 西暦270~西暦310
 「書紀」紀年によると神功皇后摂政期は六十九年にも及びます故、二世紀~三世紀になります。
11代 垂仁天皇期(前29~西暦70)弥生時代
菅原伏見東陵(宝来山古墳) 伝垂仁天皇陵
古事記 11  伊久米伊理?古伊佐知命  いくめいりびこいさちのみこと
日本書紀 11  活目入彦五十狭瓊殖天皇  いくめいりびこいさちのすめらみこと
「記」伊久米伊理?古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと/垂仁天皇)、師木(しき)の玉垣宮に坐(いま)して、天(あめ)の下治(しらし)らめしき。此の天皇、沙本?古命(さほびこのみこと)の妹、佐波遅比売命(さはぢひめのみこと)に娶(あ)ひて生みませる御子、品牟都和気命(ほむつわけのみこと)一柱。また丹波の比古多々?美知宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこと)の女(むすめ)、氷羽州比売命(ひばすひめのみこと)に娶(めと)ひて生まれます御子、印色之入日子命(いにしきのいりひのみこと)次に大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと/12景行天皇)次に大中津日子命(おほなかつひこのみこと)次に倭比売命(やまとひめのみこと)次に若木入日子命
(わかきいりひこのみこと)の5柱。また大筒木垂根王(おほつつきたるねのみこ)の女(むすめ)、迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)に娶(めと)ひて生まれます御子、袁那弁王(をなべのみこ)一柱。山代(やましろ)の大国之渕(おほ
くにのふち)の女(むすめ)、刈羽田刀弁(かりはたとべ)に娶(めと)ひて生まれます御子、落別王(おちわけのみこ)次に五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)次に伊登志別王(いとしわけのみこ)。また其の大国之渕の女、弟刈羽田刀弁(かりはたとべ)に娶(めと)ひて生まれます御子、石衝別王(いはつくわけのみこ)次に石衝?売命(いはつくびめのみこと)亦の名は布多遅能伊理?売命(ふたぢのいりびめのみこと)
(一部の御子略)此の天皇の御子達十六柱の王(みこ)。男王(ひこみこ)十三柱。女王(ひめみこ)三柱。
印色之入日子命は血沼池(ちぬのいけ)
・狭山池・日下(くさか)の高津池を作る。また鳥取河上宮に坐(いま)して横刀(たち)壱千口を作らしむ。
※血沼池大阪府泉南地区場所詳細不明。日下の高津池東大阪市日下町辺と推測。
狭山池大阪府狭山市にある日本最古のダム式溜め池で築造は6世紀末か7世紀初頭。

沙本?売命(さほびめのみこと/佐波遅比売命)皇后の兄、沙本?古命(さほびこのみこと)の反逆事件があり、沙本?古命の反逆に心ならずも引き込まれた皇后は兄と共に稲城(いなき)に入り天皇の鎮圧軍を迎えますが、この時には皇后は妊娠しておられたので鎮圧軍は攻撃を控え対峙していたが、皇后が御子を生まれ、御子を稲城から出し天皇に養育を頼まれ御子の名を本牟智和気命(ほむちわけのみこ)と名付けられた。亦皇后は「丹波之比古多々?美智宇斯王(たにはのひこたたすみちうしのみこ)の娘、兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)を皇后なきあとの後宮に召し入れ下さい」と云われ兄の沙本?古命と共に稲城で焼死される。本牟智和気命は成人しても言葉を発する事が出来なかったが、其れは出雲大神の祟りであり、御子を出雲大社に参詣させると言葉を喋ることができた。また沙本?売皇后の申し残された美智宇斯王の娘達四人をお召しになったが比婆?比売命(ひばすひめのみこと)と弟比売命(おとひめのみこと)の二人を留めて、後の妹王(いもうとみこ)二人は容姿が醜いというので、丹波へ送り帰された。此の事で円野比売(まどのひめ)は帰途に山城国相楽(さがら)で木の枝に首を吊って死のうとした。このことによりその地に名付けて、懸木(さがりき)といった。今は相楽と云う。また乙訓(おとくに)に着いた時に、とてもけわしい淵(ふち)に落ちて死んだ。そこでその地を名付けて堕国(おちくに)といった。今は弟国(おとくに)という。
天皇は三宅連(みやけのむらじ)の祖先で名を多遅摩毛理(たじまもり)という人を、常世国(とこよのくに)に派遣して季節を問わず芳しく実る「ときじくのかくの木の実」をお求めになった。そして多遅摩毛理は、遂にその国に行くことができ、その木の実を手に入れて、冠の形に実のついたもの八連、串刺形に実を貫いたもの八本を持ち帰る間に、天皇はすでに崩御されておられた。多遅摩毛理は冠状の物四連と串状の物四本を分けて皇后に献上し、冠状の物四連と串状の物四本を天皇の御陵の入口に供え置いて、その木の実を手に取り拝礼し、叫び泣いて「常世国の、時じくの木の実を持ち帰り参上し、御前に供え居ります」と申し上げた。多遅摩毛理はそのまま叫び泣き果てて死んだ。その時じくの香の実というのは今の橘(たちばな)のことである。
この天皇の御寿命は百五十三歳。御陵は菅原(すがはら)の御立野(みたちの)の中にある。またその皇后比婆?比売命の薨去の時に、石棺作りを定め、また土師部(はにしべ)を定めた。この皇后は狭木(さき)の寺間(てらま)の御陵に葬り申し上げた。 
上写真 左 宝来山古墳(伝垂仁天皇陵)全景  中 壕中にある小島伝タジマモリの墓  右タジマモリ墓遙拝所跡
嘗ては小学校教科書にも載り忠臣タジマモリの墓とされ多くの参拝者が訪れたであろう遙拝所も今は訪れる人もなく荒れ果て閉鎖されている。一説によると古墳や溜め池の大きな壕には葺き石や堤が波による浸食を防ぐために壕中に小島が築かれていると云う。
「書紀」垂仁2年春2月9日、狭穂姫(さほひめ)を立てて皇后とす。 
冬10月、纏向(まきむく)に都つくる。是を珠城宮(たまきのみや)と謂う。 是年(このとし)任那人蘇那曷叱智(そなかしち)の帰国に際し任那王への下賜品、赤絹壱百匹を持たせて帰す。帰途に新羅人に赤絹を奪われる。其の二つの国の怨み、始めて是の時に起こる。
「一に曰く」 御間城天皇(崇神天皇)の御代に、額に角有(つのお)ひたる人、一の船に乗りて、越国(こしのくに/福井県)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に泊れり。故(かれ)其処を号(なず)けて角鹿(つぬが)と云う。問ひて曰はく「何(いずれ)の国の人ぞ」といふ。対(こた)へて曰わく「意富加羅国(おほからのくに)の国の王の子、名は都我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)と云う。伝(つて)に日本国に聖皇有(ひじりのきみます)と 聞(うけたまは)りて帰化(まうおもぶ)く」と云う。
3年春3月、天日槍(アメノヒホコ)来朝。「アメノヒホコ」の項を参照。
垂仁4年秋9月23日、皇后の兄狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反記述ですが大筋で「記」の記述と同じです。
7年秋7月7日、野見宿禰の相撲記述。
15年秋8月壬午(みずのえうま)の朔日、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を皇后とする。皇后の妹3人を妃としたまふが竹野媛のみは形姿醜く国に帰されることを羞じて、葛野(かずの)で自ら輿より堕ちて死(みまか)りぬ。其の地を号(なづ)けて堕国(おちくに)と謂ふ。今弟国(いまおとくに)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。
左図では日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛(ぬはたにいりひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりひめ)・竹野媛(たけのひめ)
の5人姉妹になっており竹野媛も妃として記載されますが誤記です。また「記」では比婆?比売・弟比売・歌凝比売(うたごりひめ)・円野比売(まとのひめ)の4人姉妹です。
皇后、日葉酢媛命は三柱の男(ひこみこ)と二柱の女(ひめみこ)を生まれます。第一をば五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、次に大足彦尊(おほたらしひこのみこと/12景行天皇)、次に大中姫命(おほなかひめのみこと)、次に倭姫命(やまとひめのみこと)、次に若城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)と曰(まう)す。
25年春3月10日、崇�澆慮翅紊暴祥莎榁罎麻�蕕譴討い薪珪搬膺世範疎膵餾何�(やまとおほくにたまのかみ)を分離して祀る事になり天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して宮中から大和笠縫邑に移して祀らせていたが、豊耜入姫命から倭姫命(やまとひめのみこと)に託し、倭姫命、大神の鎮座地を求め近江・美濃を廻り伊勢に至り大神曰(い)わく「是の神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ」とのたまいて、現在の内宮に鎮座する。「記紀」には丹後の「元伊勢」の記述はありません。
ここに大きな疑問が、天皇家の祖である天照大神が末裔の治める大和の地を出雲の大国魂神に明け渡して鎮座地を求めて放浪し最終は伊勢国に鎮座しますが、何故ヤマトを出て行かなければならないのか
26年秋8月2日、出雲の神宝の検校。  検校物事を調べただすこと。また、その職。
28年11月2日、10月に薨去した天皇の弟、倭彦命(やまとひこのみこと)を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬りまつる。近習者を集(つど)へて、悉(ことごとく)に生けながらにして陵の域(めぐり)に埋(うづ)み立つ。日を
(へ)て死なずして、昼夜に泣き吟(のどよ)ふ。遂に死(まか)りて爛(く)?(くさ)りぬ。犬烏聚(いぬからすあつま)?(は)む。天皇、此の泣き吟(のどよ)ふ声を聞(きこ)しめして、心(みこころ)に悲傷(いたきわざ)なりと有(おもわ)す。郡卿(まへつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「それ生(いけるとき)(めぐ)みし所を以(も)て、亡者(しぬるひと)に殉(したが)はしむるは、是甚(これはなは)だ傷(いたきわざ)なり。其れ古(いにしえ)の風(のり)と雖(いへど)も良からずは何ぞ従はむ。今より以後(のち)、議(はか)りて殉(しぬるにしたが)はしむることを止めよ」とのたまふ。
32年秋7月6日、皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨去。天皇、郡卿(まへつきみたち)に詔して曰(のたま)はく、「死(しにひと)に従(したが)ふ道、前(さき)に可(よ)からずといふことを知れり。今此の行(たび)の葬(もがり)に、奈之為何(いかにせ)む」とのたまふ。野見宿禰(のみのすくね)(まう)さく「夫(そ)れ君主の陵墓に生人(いきたるひと)を埋み立つるは、是不良(これさがな)し、豈後葉(あにのちのよ)に伝(つた)ふること得む。願わくは今便事(たよりなること)を議りて奏(まう)さむ」とまうす」 則ち使者(つかい)を遣わして、出雲国の土部壱百人
(はしべひとももひと)を喚(め)しあげて、自(みづか)ら土部等(はしべたち)を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取りて人・馬及び種々(くさぐさ)の物の形を造作(つく)りて、天皇に献(たてまつ)りて曰(まう)さく「今より以後(のち)是の土物(もの)を以て生人(いきたるひと)に更易(か)へて、陵墓に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ」とまうす。天皇、是に大きに喜びたまひて、野見宿祢に詔して曰(のたま)はく、「汝が便議(たよりなるはかりこと)、寔(まこと)に朕が心に洽(かな)へり」とのたまふ。則ち其の土物(はに)を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍(よ)りて是の土物を号(なづ)けて埴輪(はにわ)と謂ふ。
また「書紀」はこの御代に伊勢神宮創建の記述を記しています。崇�澆慮翅紊暴祥莎榁罎麻�蕕譴討い薪珪搬膺世範疎膵餾何世鯤�イ靴乍�觧�砲覆蠹珪搬膺世鯔㊥啼�洩�(とよすきいりひめのみこと)に託して宮中から大和笠縫邑に移して祀らせ、垂仁二十五年に豊耜入姫命から倭姫命(やまとひめのみこと)に託し、倭姫命、大神の鎮座地を求め近江・美濃を廻り伊勢に至り大神曰わく「是の神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ」とのたまいて、現在の内宮に鎮座します。ここに大きな疑問が、天皇家の祖である天照大神が末裔の治める大和の地を出雲の大国魂神に明け渡して何故、伊勢国に出て行かなければならないのか
倭大国魂神とは天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神で日本神話に登場する神ですが、大国主神と同一神とする説や大和の地主神とする説もあります。崇�澳釮砲和臈津頂�劼紡臺�臑膺世鮑廚蕕察∋堋紅��(いちしのながをち)に倭大国魂神を祭らせたとあります。出雲大社の祭神も大国主神ですが、大国主神の祖は天照大神の弟の素戔嗚命(すさのをのみこと)で、この命は高天原から追放され地上に降り出雲国を建国したとされ高天原の天つ神(あまつかみ)に対して国つ神になります。
 垂仁天皇陵について
「記」は「菅原の御立野の中に在り」・「書紀」は「菅原伏見陵」・「続日本紀」霊亀元年(715)条では垂仁陵を「櫛見山陵」と記載し、守陵3戸を充てると記されています。10崇神天皇陵や12景行天皇陵がヤマト政権の発祥地である奈良盆地南東部に位置するのに、11垂仁天皇陵が奈良盆地北部に位置するのは不自然であり、考古学的な築造順序に照らしても相違があり「記」や「書紀」編纂時代には垂仁天皇陵自体の所伝に錯誤が生じていたとする説があります。因みに宝来山古墳の築造年代は4世紀後半(400年代)と推定されています。
「記」垂仁天皇崩御記述 此の天皇、御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野(みたちの)の中に在り。
「書紀」九十九年の秋七月の戊午
(つちのえうま)の朔日(ついたちのひ)に、天皇、纏向(まきむく)宮に崩(かむがり)ましぬ。時に御年百四十歳。冬十二月の癸卯(みずのとう)の朔壬子(みずえね10日)に菅原伏見陵に葬りまつる。
垂仁期の息長系譜(三代目)  
山代大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)同母弟の伊理泥王(いりねのみこ)の女(むすめ)丹波阿治佐波?売(たにはのあぢさはびめ)と異世代婚して迦迩米雷王(かにめいかづちのみこ)が生まれます。この王の名から推察すると木津川を挟んだ相楽郡蟹幡郷(かにはたのさと)も一族の勢力圏入っていた可能性があります。亦、補略録末尾に『朱智天王神。右寺鎮守。在同郷西之山上。祭所。山代大筒城真若王之児。迦邇米雷王命。』とあり、現京田辺
市天王高ヶ峯の朱智神社の祭神は迦邇米雷王で配神として素戔嗚尊(すさのおのみこと/明治以前は牛頭天王)が祀られています。亦、この神社の本殿に「牛頭天王」像があり、石灯籠にも「牛頭天王」が刻まれており、神社由緒によると当社はもと此地より西方三町余りの所にあり『仁徳天皇の六十九年(381)に社殿を建てて、朱智天王(しゅちてんのう)と号(いはれ)ました。迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当たり、垂仁天皇の御代にこの地を
治められて、その朱智姓を名乗られました。素戔嗚尊が相殿とて祭られたのは、桓武天皇の御代(781~805)であります。その後清和天皇の御代に(858~876)、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷しました。 祇園御霊会は貞観11年(869)に牛頭天王を勧請したのが 京都の八坂神社(牛頭天王社)の起源とされますが 牛頭天王の勧請元が朱智神社でした。そのことから朱智神社は元祇園社とよばれていたそうです。祇園祭に際しては 朱智神社の氏子が奉じた榊を天王区の若者が八坂神社まで届ける「榊遷(かみうつし)」という行事があり その榊を受けて山鉾巡行を始めたと言い伝えられています。』

迦邇米雷王を祀る朱智神社の朱智(しゅち)ですが、朝鮮半島に由来する名だそうで、大加耶(オオカヤ)国の始祖王の名が伊珍阿鼓(イ・ジン・ア・シ)という名であり、朝鮮半島南部に存在した部族集団である馬韓・弁韓の諸国には首長がおり、大きな首長については臣智(しんち)と呼んでいたそうで、それが訛って「朱智(しゅち)」になったと云う説もあります。亦、一説には迦邇米雷王其の人が牛頭天王であると云う説があり、天之日矛(あめのひほこ)と日子坐王(ひこいますのみこ)を習合する説等も有り息長氏の祖をめぐる伝承は複雑怪奇です。

崇�澳釮竜Ⅸ劼任枠�留Щ朮Δ慮羯匯傭譴能�六庵譴任垢�⊆,凌眇隆釮任枠翡�?比売(ひばすひめ)、弟比売(おとひめ)、歌凝比売(うたごりひめ)、円野比売(まとのひめ)の四柱に変わって名の表記も変わっています。

 
※下図 印箇所が朱智神社 周辺には「天王」の地名が今日まで残り「牛頭天王」との関連が覗われます。
左 朱智神社の牛頭天王象(京都府指定文化財)
中 星印が朱智神社の所在地 付近一帯は天王の地名が付く。
右 日子坐王系の息長系譜三代目に当たる迦邇米雷王の系譜。


天之日矛(アメノヒホコ)・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の渡来伝承
「記」は天之日矛。「書紀」は天日槍と記して、読みはいずれも「アメノヒホコ」です。一般には「アメノヒボコ」と読まれていますが「矛」の音読みは「ム、ボウ」訓読みは「ホコ」。「槍」の音読みは「ソウ」訓読みは「ヤリ」であり、何故これを「ボコ」と読むのか。邪馬壹国が邪馬台国になった様に語呂合わせなのか、ここでは「アメノヒホコ」で表記します。
「アメノヒホコ」とは「記紀」では新羅の王子と記されていますが、それは朝鮮名ではなく日本名になっておりしかも「記」は「天之日矛」。「書紀」は「天日槍」と記し古代日本に於ける最高の名称を与えています。日本神話では神々を二つに分け高天原系の神が「天津神(あまつかみ)」、葦原中国(あしはらなかつくに)系の神が「国津神(くにつかみ)」とされており「天」の名が付くのは高天原系の神に限定されています。
それを逃げた妻を追いかけて来た(「記」)、日本に聖皇有(ひじりのきみます)と聞き己が国を弟に譲り渡来して来た(書紀)。自称新羅王の子に最高の日本名を与えたのは何故
「記紀」「播磨国風土記」にはアメノヒホコは新羅国から直接、播磨国や難波に来た記述になっていますが、古代の朝鮮半島から日本への航路は朝鮮半島南部から対馬海流に乗り出雲・丹後・若狭から能登半島の西側に漂着するものが多かった様で、2~3世紀ごろになると「魏志倭人伝」が記す様に狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国(つしまのくに)→一支国(いきこく)→末盧国(まつらこく)を経由して伊都国(いとこく)へと到るル-トが定着していた様でアメノヒホコやアカルヒメもこのル-トでで伊都国に到り瀬戸内海を経由して播磨・難波へ到ったと考えられます。
アメノヒホコの渡来時期について「記」はアメノヒホコの渡来を「昔新羅の国主(こにきし)の子有り。名はアメノヒホコ(天之日矛)と謂ふ。是(こ)の人参渡(まいわたり)り来つ」と記し、渡来年月についての詳細は不明、何故か後年の応神期にその渡来記述を記載しています。
「書紀」は垂二年に先皇(さきのみかど)の世に来朝した任那人、蘇那曷叱智(そなかしち)の帰国に際して任那王への賜り物として赤絹百匹を持たせるも帰途に新羅人に奪われる。次に一に曰わくとして御間城天皇(崇�濺傾�)の世に額に角有(つのお)ひたる人が越国(現福井県)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に来て、意富加羅国(おほからのくに)の王の子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、亦の名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と名乗る。「伝(つて)に日本国に聖皇有(ひじりのきみま)すと聞き、帰化したく参りましたが穴門(あなと)に至った時に其の国の伊都都比古(いとつひこ)が「吾は此の国の王なり」と云う」然(しか)れども其の人となりを見るに王に非(あら)じと知り則ち更還(かえ)りぬ。道を知らず嶋浦伝いに出雲国を経て此処に到ったが、既に崇神天皇は崩御された後であったので垂仁天皇に3年仕えたが、天皇アラシトに「汝の国に帰らむと欲(おも)ふや」と聞くと「甚望(ねがは)し」と云う。天皇、アラシトに「汝、道に迷わずして来ておれば先皇(さきのみかど)に仕えられたであろうが、是を以て汝が国の名を御間城天皇(みまきのすめらみこと)の御名をとりて弥摩那国(みまなのくに)とせよ」とのたまふ。赤織の絹を給を賜り己が国の郡府(くら)に収めたが新羅人聞きて兵を起こして、その赤絹を奪う是二つの国の相怨む始めなりと云う。
一に曰くとしてツヌガアラシトが国に有(はべ)りし時の話が語られるが、その話が「記」のアメノヒホコの国に居た時の話と類似しておりヒホコとアラシトは同一人物かとおもわしめます。
更に「書紀」は翌三年春三月条で新羅の王(こきし)の子、アメノヒホコ(天日槍)来帰(まうけ)り。として持ち来たる物として羽太(はふと)の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の鉾一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろぎ)一具の七物あり。則ち但馬国に蔵(をさ)めて、常に神の物とす。
亦、一に曰くとしてアメノヒホコ、艇(はしぶね)に乗りて播磨国に泊まりて宍粟邑(しさはのむら)で天皇が遣わした大友主(おほともぬし)と長尾市(ながおち)が「汝は誰ぞ、又いずれの国の人ぞ」と問うと「僕(やつがれ)は新羅国の王の子なり。然れども日本国に聖皇有(ひじりのきみま)すと聞(うけたまわ)りて、則ち己が国を以て弟知古(ちこ)に授けて化帰(まうけ)り」と答えます。
※伊豆志の八前の大神 ヒホコの持参した八種の宝物は兵庫県豊岡市出石町の出石神社に収め祭神とした。
比礼はひらひらとする布で、浪や風を起こしたり、鎮めたりする呪具。奥津は沖、辺津は海辺、鏡の呪力により海上の安全を祈願する呪具。
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の説話は「書紀」にのみ記載されている伝承で、自称、意富加羅国(おほからこく)の王子と名乗る。この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知(ソナカシチ)とを同一人物とする説もあり、またアメノヒホコと都怒我阿羅斯等の話も元は一つの説話であったものを「書紀」編纂時に二つに分けて記載したとする説もあります。しかし下図の様に此の但馬・丹後・若狹地方には式内社として白城神社(しろき)・信露貴彦(しろき)神社といった新羅系の神社も多く分布しており朝鮮半島南部から此の地方へ多くの人々が渡来して来て帰化定着しており、その彼らが祖神を祀ったものでしょう。宮津市には伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹 波国であったという伝承があり「元伊勢根本宮」と言われる籠神社や「丹後国風土記」逸文には浦島太郎伝説の原型とされる「筒川嶼子(つつかわしまこ)水江浦嶼子(みずのえのうらのしまこ)」の原話があり、古代から朝鮮半島からの渡来人がもたらす文化が広く浸透していた事が解ります。また弥生時代の朝鮮半島との交流は潮流や航海術・造船技術等から日本海ル-トが主で後年の船の大形化や航海術の進歩から瀬戸内海ル-トへと変わったものと考えられます。「書紀」独自の伝承説話である垂仁二年条、任那人蘇那曷叱智(みまなひとそなかしち)の赤絹を新羅人が奪う話があり他にも神功四十七年四月条、応神十四年是歳条にもあり、こうした新羅敵視の記述も「書紀」に多くあるのは編纂に携わった多くの百済亡命人に寄るものと云われています。また、「額に角ある人」都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の記述があり本文では日本国の聖皇(ひじりのきみ)の徳を慕っての渡来であり、一伝では、白い石から変化した美麗な童女の後を追っての渡来で、「記」の天之日矛の説話と同内容です。追って来た童女は難波に阿羅斯等は難波から遠く離れた裏日本の敦賀に、しかも渡来後童女の行方を捜した形跡は全くなく、また天之日矛も難波入りを遮られた後、アッサリと但馬国に回航しています。
このアメノヒホコとツヌガアラシト説話には多くの謎や矛盾があります。「記」のアメノヒホコと「書紀」のツヌ
ガアラシトの二つの説話は「記」は卵生神話からと「書紀」は白い石から生まれたという女性の類似した話で元は一つの説話として口承伝承として伝わったものが、「書紀」編纂時に二つに分割されたと言われますが何故分割する必要があるのか。またフメノヒホコや阿加流比売(アカルヒメ)といった名は日本名であり朝鮮名ではなく、「記紀」は何故日本名で記したのか
アメノヒホコと習合疑惑のあるツヌガアラシトの記述は本文では無く「一に云はく」として10代崇神天皇時代に額に角おいたる人、越国(こしのくに/越前)の笥飯浦(けひのうら/敦賀)に泊まれり。故(かれ)其処を号(なづ)けて角鹿(つぬが)と云う。このツヌガアラシト、半島から穴戸(あなと/現山口県)に上陸した時に伊都々比古(いつつひこ)なる人が「吾(われ)はこの国の王である。吾以外に王なし、と云われたがその人なりに疑念をいだき、其処を出たが道に迷い出雲を経て此処に着いたが、聖皇は崩御された後だった。」ので垂仁天皇に三年間仕え、意富加羅国に帰国するに対して天皇はアラシトが慕った崇�濺傾弔量召鯑鬚旅颪量召箸擦茲髪召ぁ∪峺┐鮗�欝△后�▲薀轡筏�餮�「弥摩那国(みまなこく)と改名した。天皇から下賜された赤絹は国の倉庫に収めていたが、新羅兵に奪われる。是が弥摩那国と新羅の相怨む始まりとなった。こうした記述を見る限り「ヒホコ」と「アラシト」は同一人物ではないかという説にも頷けます。
亦、角鹿(つぬが)の名付け親がツヌガアラシトであり、彼が角鹿に定着したのなら気比の大神は「ツヌガアラシト」であるべきでは。然し気比神宮の祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)・仲哀天皇・息長帯比売(神功皇后)を主祭神とし日本武尊(やまとたけるのみこと)・応神天皇・玉姫命(たまひめのみこと/息長虚津(そらつ)比売/帯比売の妹説有)・武内宿禰(たけのうちのすくね)この四柱を加え七柱を祭神としています。「気比宮社記」には当初の祭神は伊奢沙別命一柱であったが大宝二年(702)の社殿造営時に仲哀天皇と息長帯比売を本宮に合祀して日本武尊他三柱を周囲に配祀した様です。境内東側の裏参道に摂社の角鹿(つぬが)神社が鎮座して祭神はツヌガアラシトです。角鹿神社は敦賀の地主神と云われ、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が主祭神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もありますが本来ならツヌガアラシトが主祭神であるべきでは。また、伊奢沙別命とは「アメノヒホコ」の別名でありヒホコの持参した品の中に胆狭淺(いささ)の太刀があり、この太刀との関連性を指摘して伊奢沙別命をアメノヒホコにあてる説もあります。伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は御食津大神(みけつのおおかみ)とも呼ばれ食べ物を司る神です。
角鹿は後年、14仲哀天皇と皇后息長帯比売(神功皇后)が行宮の笥飯宮を建てて皇后が新羅征討に向かうまで居住し、亦、品陀別命(15応神天皇)が武内宿禰に伴われて笥飯宮に参拝して祭神の伊奢沙別神(いざさわけのかみ)と名前の交換をします。こうした笥飯宮や角鹿と息長帯比売との関連の詳細が「記紀」に記されて無く不明です。敢えて推察するならば笥飯宮の祭神は「アメノヒホコ」で皇后の母方の祖である事から角鹿に殊更愛着を持っていたのでしょうか。
気比神宮 (敦賀市) 気比神宮摂社の角鹿神社 角鹿神社拝殿
「タヂマモリ」記述が「記紀」共に垂仁期にあるので、是を基に五代遡るとアメノヒホコの渡来時期は7代孝霊天皇期(前290~前215)が推定渡来時期になります。「書紀」の創作された紀年での垂仁天皇の治世は(前29~西暦70)なので垂仁三年は前27年(甲午)になります。この垂仁期の実年代についての史料はなく「記」の10代崇神天皇の崩年が戊寅(つちのえとら)の年の十二月と記されており、この戊寅年を西暦318年とする説が有力ですので、これを参考にして垂仁期を算出すると垂仁三年は三世紀代前半になり、ヒホコの渡来時期とするには遅すぎる様に思われます。 「記紀」ともアメノヒホコを「新羅の王の子」とし「記」は逃げた妻の後を追っての渡来と記し、「書紀」本文では七種の宝物を持って来帰(もうけ/帰化)り。一伝では「日本国の聖皇(ひじりのきみ/崇��)を慕って播磨国へ渡来持参した宝物は八種で天皇の使者を通じて献上し播磨の宍粟邑(しさはのむら)と淡路島の出淺邑(いでさのむら)に住むことを許されたが、ヒホコは「臣(やつかれ)が住む処は、天恩を垂れ臣の情(こころ)の願(ねがは)しき地(とこ
ろ)を聴(ゆる)したまへ。」と懇願し天皇是を聴(ゆる)したまふ。ヒホコは菟道河(うぢかは/宇治川)を遡り北近江国の吾名邑(あなむら)に入り暫住する。また北近江より若狭国を経て西但馬国に到りて出嶋(いづし)の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多鳥(またを)と婚姻して但馬に定住しています。
上のタヂマモリ記事は「記」の垂仁期に記される記述で下左の記述は同じく「記」
の応神期に記されるアメノヒホコの渡来記述で、逃げた妻が難波の比売碁曾の社に坐す阿加流比売と
謂ふ。と記されています。
左は書紀のツヌガアラシト・アメノヒホコの渡来記述です。
左は「記」のアメノヒホコの系譜です。
右は「書紀」のアメノヒホコ系譜です。

タヂマノヒタカと叔父キヨヒコの娘スガカマノユラドミとの間に生まれた葛城高額比売(カツラギノタカヌカヒメ)が日子坐王(ヒコイマスノミコ)系の息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)と婚姻して息長帯比売(オキナガタラシヒメ)・虚空津比売(ソラツヒメ)・息長日子王(オキナガヒコノミコ)が生まれます。
上左は「記」の、中は「書紀」のアメノヒホコの系譜ですが、「多遅摩斐泥(タヂマノヒネ)と多遅摩比多訶(タヂマノヒタカ)は「記」のみの伝承で「書紀」には記載されていません。また「記」は「タヂマモリ」「ヒタカ」「キヨヒコ」は兄弟ですが「書紀」では「キヨヒコ」と「タジマモリ」は親子関係になっています。「記」は�て鋠辧��倏�麋�(タギマノメヒ)に娶ひて酢鹿之諸男(スガノモロヲ)、菅竈由良度美(スガカマノユラドミ)を生む。多遅摩比多訶(タヂマノヒタカ)は其の姪、由良度美と異世代婚して生まれたのが葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)で、この比売、息長宿祢王と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)が生まれます。「書紀」は垂二年に任那人、蘇那曷叱智(ソナカシチ)の帰国と都怒我阿羅斯等の笥飯浦(けひのうら)への渡来記述を記し翌三年春三月条で新羅の王(こきし)の子、アメノヒホコ(天日槍)来帰(まうけ)り。また一に曰わく(あるにいわく)としてアメノヒホコ、艇(はしぶね)に乗りて播磨国に泊まりて宍粟邑(しさはのむら)で天皇の使者と対面渡来理由と倭国への帰化希望を述べます。「書紀」は垂仁期にヒホコの渡来から 「記」は�て鋠辧��倏�麋�(タギマノメヒ)に娶ひて酢鹿之諸男(スガノモロヲ)、菅竈由良度美(スガカマノユラドミ)を生む。多遅摩比多訶(タヂマノヒタカ)は其の姪、由良度美と異世代婚して生まれたのが葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)で、この比売、息長宿祢王と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)が生まれます。「書紀」は垂二年に任那人、蘇那曷叱智(ソナカシチ)の帰国と都怒我阿羅斯等の笥飯浦(けひのうら)への渡来記述を記し翌三年春三月条で新羅の王(こきし)の子、アメノヒホコ(天日槍)来帰(まうけ)り。また一に曰わく(あるにいわく)としてアメノヒホコ、艇(はしぶね)に乗りて播磨国に泊まりて宍粟邑(しさはのむら)で天皇の使者と対面、渡来理由と倭国への帰化希望を述べます。「書紀」は垂仁期にヒホコの渡来から曾孫の�どГ修靴董�淆紊梁后▲織促泪皀蠅療曽亀Ⅸ劼鬚垢戮匿眇隆�(前29~西暦70)に収録するという矛盾記述になっています。
「書紀」垂仁三年春三月条では アメノヒホコは太耳(ふとみみ)が娘、麻多鳥(またを)と婚姻して諸助-日楢杵(ひならぎ)-�どА歸墜惨崋蕕搬海④泙后�
「記」ではアメノヒホコは俣尾(またを)が娘、前津見(まえつみ)と婚姻して母呂須玖(もろすく)-斐泥(ひね)-比那良岐(ひならぎ)-多遅摩毛理(たぢまもり)-比多詞(ひたか)-�ど�(きよひこ)と続きます。 
播磨国風土記(右の記事)では渡来して来た「アメノヒホコ」が葦原志乎命と播磨国の土地占居のために争う記述があるので神話時代の渡来になっています。「アメノヒホコ」について「記」は息長帯比売(14仲哀天皇皇后)の母系の祖と記しますが、「書紀」には「アメノヒホコ」と息長帯比売との関連についての記述はありません。
アメノヒホコとは実在人物なのか、物語上の架空人物なのかと云う疑問があります。現在の考古学者の多くは「アメノヒホコ」と呼ばれたものは朝鮮半島からの渡来者達が信仰する海洋太陽神を祭祀に使用する矛の事であろうと云われています。考古学者の間でも「現実に生存していた人物ではない「アメノヒホコ」とは太陽神を信仰する渡来人集団」「日神を祀る祭祀用具が天之日鉾」であると云う説が有力ですが、実在を信じる人も存在することは事実であり、その人達の拠り所は弘仁六年(815)に編纂された「新撰姓氏録」に「アメノヒホコ」と都怒我阿羅斯等の子孫として次の6氏が記されており、また児島高徳(南北朝時代)、浮田秀家(戦国時代)、武林唯七(赤穂浪士)、井上靖(昭和の作家)も「アメノヒホコ」の子孫だと名乗っています。「記」の序文に「朕聞(われき)く「諸家(もろもろのいえ)?(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と既に正実(まこと)に違(たが)い。多(さは)に虚偽(いつわり)を加ふ」といへり。」とあるように応神朝以前の諸家の系譜などは権威付け
の為○○天皇とか皇子を祖にあて、その末裔を名乗る傾向があり、渡来系の人達では漢の皇帝とか朝鮮王家の末裔として「新撰姓氏録」に登録されているものも多くあります。
  ★ 下図は「新撰姓氏録」から抜粋したヒホコとアラシトの子孫記事です
本貫 種別 細分 氏族名 同祖関係 始祖
911 右京 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
987 摂津国 諸蕃 新羅 三宅連 新羅国王子天日桙命之後也
959 大和国 諸蕃 新羅 糸井造 三宅連同祖 新羅国人天日槍命之後也
810 左京 諸蕃 任那 大市首 出自任那国人都怒賀阿羅斯止也
811 左京 諸蕃 任那 清水首 出自任那国人都怒何阿羅志止也
960 大和国 諸蕃 任那 辟田首 出自任那国主都奴加阿羅志等也
「記紀」はアメノヒホコとツヌガアラシトから逃げて来ただけの二人の女性が日本の難波に入り習合して比売碁曾(ひめごそ)の神になった云うのは何とも理解し難い説話です。亦「アメノヒホコ」は逃げた妻を追って難波へ、ツヌガアラシトは逃げた童女を追って敦賀に来ていますが両人とも朝鮮半島から日本まで妻や童女を追って来たにも拘わらず、アメノヒホコは渡の神に難波入りを拒まれると「記」は「更に還り、多遅摩国に泊(は)てつ」と記し、其の国に留まり、多遅摩の俣尾(またお)が女(むすめ)前津見(まえつみ)を娶ひて母呂?(もろすく)を生む……。「書紀」は「アメノヒホコ」が将(も)て来(きた)る宝物は、羽太(はふと)の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇・出石(いずし)の小刀一口・出石の桙(ほこ)一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろぎ)一具の并(あわ)せて七物(ななくさ)あり。即ち但馬国に蔵(をさ)めて、常に神の物とす。また一に曰わくとし「アメノヒホコ」は渡来目的は日本国に聖皇(ひじりのきみ)居ますと聞(うけたまわり)己が国を弟知古(ちこ)に授けて自分は帰化すべくまいりましたと言う。天皇はアメノヒホコに播磨国宍粟邑(しそうのむら)と淡路島の出淺邑(いでさのむら)に住むことを許されたが「臣が住む処は天恩を賜り臣が情(こころ)の願しき地を赦したまへ」と懇願し赦され、ヒ
ホコは菟道河(うぢかわ)を遡り、北近江の吾名邑(あなむら)に暫住する。近江国の鏡村の谷(はさま)の陶人(すえびと)は、アメノヒホコの従人(つかいひと)なり。その後ヒホコは若狭を経て西但馬国出石に到り定住し、出嶋(いづし/出石)の太耳(ふとみみ)の娘、麻多烏(またを)を娶り但馬諸助(たぢまのもろすく)を生む。諸助、但馬日楢杵(たぢまのひならぎ)を生む。日楢杵、�ど�(きよひこ)を生む。�どА�墜惨崋�(たぢまもり)を生む。「書紀」のアメノヒホコ記述は此処までで「記」のアメノヒホコ記述と比べると簡略なもので息長氏との関連についても一切記されていません。
「播磨国風土記」のアメノヒホコ
「播磨国風土記」では神代にアメノヒホコが韓国(からくに)から渡来して来た時に先住者の葦原志乎命(あしはらのしこをのみこと/大国主の別名)との間で激しい国土占居(こくどせんきょ)の争いの様相が語られています。
※「記」には葦原志挙乎命とは大国主命の別名とあります。   下は播磨国風土記の揖保(いひぼ)の郡の天日槍が葦原志擧乎命(大国主命の別名)に韓国から来た天日槍が宿る地を求めたが葦原志擧乎命は上陸を拒否する記述の一部。 「揖保郡(いひぼのこおり)
粒丘(いいぼおか)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、天日槍命、韓国(からくに)より渡り来て、宇頭(うづ)の川底に到りて、宿處(やどり)を葦原志挙乎命(あしはらしこをのみこと)に乞(こ)はししく、「汝(いまし)は国主たり。吾が宿らむ處を得まく欲(おも)ふ」とのりたまひき。志挙、即ち海中を許(ゆる)しましき。その時、客(まれびと)の神、剣を以ちて海水を掻きて宿りましき。主(あるじ)の神、即ち客(まれびと)の神の盛(さかり)なる行(しわざ)を畏(かしこ)みて、先に国を占めむと欲(おもは)して、巡り上(のぼ)りて、粒丘(いいぼおか)に到りて、?(いひを)したまひき。ここに、口より粒(いひぼ)落ちき。故(かれ)粒丘と号(なづ)く。其の丘の小石、皆能(みなよ)く粒(いひぼ)に似たり。又、杖を以ちて地(つち)に刺したまふに、即ち杖の處より寒泉湧(しみづわ)き出て、遂に南と北とに通(かよ)ひき。北は寒く、南は温(ぬく)し。
アメノヒホコが葦原志乎命に宿所を断られ劒で海水を掻き宿所を作った話は日本神話の国生み神話と類似しています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天之浮橋に立って矛で海掻き混ぜ、矛を上げると矛先から滴り落ちる海水が淤能碁呂島(おのころしま/淡路島)となる神話と類似しています。
宍禾郡(しさはのこおり)
ここでは天日槍と葦原志挙乎命の国占争いの途次に天日槍が村の名をつける説話と呪術的な国占の方法でそれぞれの勢力圏を決める説話がある。
宍禾(しさは)と名づく所以(ゆえ)は、伊和大神(いわのおおかみ)、国作り堅め了(を)へましし以後(のち)、山川谷尾を堺ひに、巡り行(い)でましし時、大きなる鹿、己が舌を出して、矢田の村に遇(あ)へりき。爾(ここ)
(の)りたまひしく、「矢は彼(そ)の舌にあり」とのりたまひき。故(かれ)宍禾郡(しさはのこおり)と號(なづ)
村の名を矢田村と號く。
奪谷(うばいたに)、葦原志挙乎命と天日槍命と二柱の神、此の谷を相奪(あいうば)ひたまひき。故(かれ)、奪谷(うばいたに)といふ。其の相奪(あいうば)ひし由(ゆえ)を以(も)ちて、形(かたち)(まが)れる葛(かづら)の如し
川音(かはと)の村。天日槍命、此の村に宿りまして、勅(の)りたまひしく、「川の音、甚高(いとたか)し」とのりたまひき、故、川音(かはと)の村といふ。この様に村名や地名を決める「庭酒(にはき)村・奪谷(うばいたに)・高家(たかや)の里・伊奈加(いなか)川」等を名付ける説話が続き、次に国占の話になる。
御方の里(みかたのさと)土は下の上なり。御形(みかた)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、葦原志挙乎命、天日槍
と黒土の志爾嵩(しにだけ)に到りまし、各、黒葛三條(おのおのもつづらみかた)を以(も)ちて、足に着けて投げたまひき。その時、葦原志挙乎命の黒葛(くろつづら)は一條(ひとかた)は但馬の気多郡(けたのこおり)に落ち、一條(ひとかた)は夜夫郡(やぶのこおり)に落ち、一條(ひとかた)は此の村に落ちき。故(かれ)三條(みかた)といふ。天日槍命の黒葛(くろつづら)は、皆、但馬国に落ちき。故(かれ)但馬の伊都志(いづし)の地を占めて在(いま)しき。(ある)ひといへらく、大神、形見(かたみ)として、御杖(みつえ)を此の村に植(た)てたまひき。故(かれ)御形(みかた)といふ。
ここでは伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神(おおなむちのかみ)の別称)は同神であると思わせる構成になっています。
天日槍(あめのひほこ) 風土記では神代に播磨国で国土占居の為に葦原志挙乎命(あしはらのしこをのみこと)と争った神として語られています。  
(いひを)したまひき
食事をする。    
宇頭(うづ)の川底 揖保川(いぼかわ)の河口。
海中を許(ゆる)しましき 土地を与えず、上陸を許さなかった。
南と北とに通(かよ)ひき。北は寒く、南は温(ぬく)湧き清水が南と北に流れて川となり、南北で水の温度が異なる
伊和の大神 葦原志挙乎命の別名か?     波加村 兵庫県中西部の現宍粟市(しそうし)波賀町 
御方の里(みかたのさと) 宍粟市(しそうし)波賀町の隣、揖保川上流の地。
黒土の志爾嵩(しにだけ) 兵庫県朝来市(あちごし)にある旧生野銅山の鉱物により土色が黒く変質いる事か? 此の鉱山の発見は大同二年(807)と言われるので「風土記」の完成は霊亀元年(715)頃と言われるので神代の黒土の志爾嵩の所在は不明
但馬の気多郡(けたのこおり) 兵庫県養父郡の北部。 夜夫郡(やぶのこおり) 養父郡の南部。
但馬の伊都志 兵庫県豊岡市出石、天日槍子孫の本貫地。
垂仁八十八年の記述によると天皇が「朕聞(われ)聞く、新羅の王子天日槍、初めて来し時に、将(も)て来れる宝物、今但馬に有り。元(はじ)め国人の為に貴(たふと)びられて、則ち神宝と為れり。朕、其の宝物を見欲(みまほ)し」とのたまふ。即日に使者を遣わして、アメノヒホコの曾孫�どГ望曚靴童�(たてまつ)らしめたまふ。
しかし�どГ禄仞个療畛劼里澆楼瓩硫爾鳳�靴童ゾ紊靴覆�辰燭�傾弔妨�襪瓩蕕豸ゾ紊気擦蕕譴襪�∈,療畛劼里澆�どГ竜�慳瓩蝓△気蕕肪枯�腓飽椶辰燭里播腓凌傭���魴悊討海譴鱆�辰燭髪召Α�
■アメノヒホコが新羅国から持参した宝物の中に出石の刀子・出石の槍(この出石は地名と思われる)が新羅に出石という地名は無く、出石の名の付く刀子や槍を持参するのはおかしい。
■熊の神籬とは神霊を招き,祭祀の対象とするために設けられたもの。神体が顕われぬように覆い囲むもの。
■垂仁三年のアメノヒホコ渡来からヒホコ5代の孫タジマモリの記述が垂仁期一代に集約されているのも疑問。
「熊神籬くまのひもろぎ」については諸説あり、熊はで新羅言葉で熊(こむ)と云い「朝鮮の神聖な」という意味だそうです。また神籬(ひもろぎ)とは神祭りをするにあたり、神霊を招くための憑坐(よりまし)、依代(よりしろ)のことだそうです。左は纏向にヒモロギの小字名がありヒモロギの説明板がありましたので参考までに右は古代の女性が着用していた領巾(比礼)。
アメノヒホコが持参した宝物と物部氏の神宝の類似性
古事記  日本書紀  日本書紀  日本書紀 饒速日尊(にぎはやひのみこと)が降臨する時に天つ神が授けた物部氏の十種の神宝 
垂仁3年条本文  垂仁3年条(一に曰く) 垂仁88年条
珠2貫(たまふたつら)  羽太玉(はふとのたま)  葉細玉  羽太玉  生玉(いくたま) 
浪振比礼(なみふるひれ)  足高玉(あしたかのたま)  足高玉  足高玉  足玉(たるたま)  
浪切比礼(なみきるひれ)  鵜鹿鹿赤石玉
(うかかのあかとのたま) 
鵜鹿鹿赤石玉   鵜鹿鹿赤石玉 死反(しにかえし) 
風振比礼(かぜふるひれ)  出石小刀(いづしのかたな)  出石刀子  出石小刀   八握剣(やつかのつるぎ) 
風切比礼(かぜきるひれ)  出石鉾(いづしのほこ)  出石槍  日鏡   辺津鏡(へつかがみ) 
奥津鏡(おくつかがみ)  日鏡(ひかがみ)   日鏡 熊神籬(くまのひもろぎ) 瀛都鏡(おきつかがみ)  
辺津鏡(へつかがみ)  熊神籬(くまのひもろぎ)   熊神籬(くまのひもろぎ) -  道反(みちかえし)
-   - 胆狭浅大刀(いささのたち)  -   蛇比礼(おろちのひれ)  
-  -  -  -  蜂比礼(はちのひれ)
-  -  -   -   品物比礼(くさぐさのものひれ)  
8種  7種  8種  6種   10種
「記」の記すアメノヒホコが持参した八種の神宝と河内国の哮峰(いかるがのみね)に降臨した物部氏の祖、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天神御祖(あまつかみのみおや)から授けられた天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)と類似しています。これらは航海に関するものと思われるものが多いのが特徴で古代の朝鮮半島と倭国を航海する際の安全を祈る呪具であったと推察されます。また「書紀」では「玉・鏡・剣」三種がセットになっているのが注目されます。日本神話では瓊瓊杵尊(にぎのみこと)の降臨の時、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が鏡・劒・珠を授け、これが三種の神器として皇位継承のシンボルとなっています。しかし北九州地域の弥生時代の族長の墳墓からも銅戈・鏡・玉が副葬品として出土しており、当時の権力者のシンボルであり、また呪術宗教の祭祀用具であったと考えられます。三種の神器とは当時の族長集団の中から選ばれた大王家の継承シンボルとして伝承されたものでしょう。
「書紀」本文では垂仁三年条でアメノヒホコが持参した宝物は七種でこれは但馬国に収めて神宝とした。また「一に曰わく」即ち別伝では先の七種に胆狭浅大刀(いささのたち) が加わり八種になっています。アメノヒホコが持参 した宝物の内容や扱いについて「記紀」で随分ことなります。「書紀」本文は垂仁三年に。ヒホコが持ち来たった七種の宝物は但馬国に収めて常に神の物としたと記し、一伝では八種の宝物は天皇の使者に貢献したと記す。そして八十八年の条では天皇が「朕聞(われき)く、新羅の王子(せし)天日槍(あめのひほこ)、初めて来し時に、将(も)て来たれる宝物、今但馬に有り。元(はじ)め国人の為に貴(たふと)びられて、則(すなは)ち神宝と為(な)れり。朕、其の宝物を見欲(みまほ)し」と詔(みことのり)され�どГ��欧靴童ゾ紊垢襦� この宝物は垂仁三年の条ではアメノヒホコが持参したものです。垂仁八十八年の条によると宝物を持参して天覧に供した�どГ�「書紀」によるとアメノヒホコ4代の孫です。「記」ではヒホコ5代の孫にあたり、亦垂仁九十年条ではアメノヒホコ5代の孫、田道間守が天皇の命で常世国(とこよのくに)へ非時(しきじく)の香果(かくのみ)を求めに旅立っています。いずれも大きな年代矛盾があります。 ヒホコが持参した宝物の内、珠と鏡は祭祀に用いる物、比礼(領巾)は航海で使用したと思われる呪術用と推察されます。アメノヒホコとは実在の人物ではなく朝鮮半島南部から渡来してきた人々が信仰していた太陽神を信仰する集団の名であり、それを祀る祭祀用具が神宝であったと考えられます。また「玉・鏡・劒」が天皇家の「三種の神器」に類似しておりアメノヒホコと天皇家の関連を推察する説もあります。
内行花文鏡(平原遺跡出土) 銅戈(弥生時代・吉野ヶ里遺跡出土) 勾玉と菅玉の首飾り
上写真左2枚は物部氏の祖神邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が降臨した河内国の哮峰(いかるがのみね)と云われる大阪府交野市の磐船神社と神社の神体の天の磐船と呼ばれる船形の巨石で中に入る事が出来ます。 邇芸速日命がアマテラスから託された十種神宝を納めた大和の石上神宮(天理市)。右はアメノヒホコ持参の八種の神宝を納めた出石神社。

  比売語曽の神 (アカルヒメ伝承)
アメノヒホコの逃げた妻もツヌガアラシトの逃げた童女(おとめ)も朝鮮半島から難波に渡来して来て比売碁曾社の神に祀られたと云う。アメノヒホコの妻について「記」は「阿加流比売(あかるひめ)」と名を記していますがツヌガアラシトの童女については名は不明。この二人の女性が申し合わせた様に難波に上陸して比売碁曾社の神に祀られるという奇妙な話が「記紀」「摂津国風土記」に記載されています。「記」は新羅の王子、アメノヒホコが逃げた妻を追って難波に渡り来たが渡りの神に遮られ難波に入れなかった。「書紀」は意富加羅国(おほからのくに)の王の子ツヌガアラシト亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)が逃げた童女(おとめ)を追って越国笥飯浦(こしのくにけひのうら/福井県敦賀市)まで来たが、童女(おとめ)は難波に到りて比売碁曾社の神と為る。亦は豊国の国前郡(みちのくちのくに)に至りりて、復(また)比売語社曾の神と為りぬ。並びに二処に祭(いは)ひまつられたまふと云ふ。また「摂津国風土記」では比賣島(ひめしま)の松原。古(いにし)へ、軽島の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に御宇(あめのしたしろし)めしし天皇(応神天皇)の御代、新羅国に女神(ひめがみ)あり。其の夫を遁去(のが)れて来て、暫く筑紫国の伊波比(いはい)の比賣島(ひめしま)に住めりき。乃ち曰(い)ひしく「此の島は、猶是遠(なほこれとお)からず。若し此の島に居ば、男の神尋(かみと)め来なむ」といひて、乃ち更(また)、還り来て遂に此の島に停(とど)まりき。故(かれ)本住める地(ところ)の名をば取りて島の号(な)と為せり。
左地図
豊国の比売語曾社のある大分県東国東郡姫島の位置。

右写真 
豊国の姫島の比売語曾神社
此の二人の女性が身を寄せたという難波の比売碁曾社は現代四社あり、内二社の祭神が下照比売(したてるひめ)となっていますが、下照比売とは「記」では大国主神と多紀理毘売命(たきりひめのみこと)の娘で、阿遅金且高日子根神(あぢすきたかひこねかみ)の妹。「書紀」は大国主の娘。「先代旧事本紀」は大巳貴神(おほなむちのかみ/大国主)と田心姫命(たきりひめのみこと)の娘で、味金且高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の同母妹と記されています。何故、アカルヒメと何の縁も由縁も無い下照比売が習合されるのか理解に苦しみます
※下照比売とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘で,天稚彦(あめわかひこ)の妻。葦原中国(あしはらのなかつくに)を乗っ取ろうとして天上からの矢で射殺された夫を,喪屋(もや)をつくって8日8夜歌舞してとむらったという。「記紀」に下照比売について詳細な記述はなく、阿加流比売との接点も皆無です。
左写真 姫嶋神社 大阪市西淀川区祭神 阿迦留姫命。    中・右写真 比売古曾神社 大阪市中央区高津一丁目祭神 下照比売命。高津の比売古曽神社は元々当地に鎮座していた神社でしたが豊臣秀吉の大阪城築城に際して高津宮がこちらに移転してきて比売古曽社は軒を貸して母屋を取られ比売古曽神は移転して来た高津宮本殿の東側の奥にひっそりと建っています。祭神は下照比売で子授けの神と記されています。
左写真 比売許曽神社 大阪市東成区 祭神 下照比売を主祭神とし速素戔嗚命(はやすさのおのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、大小橋命(おほおばせのみこと)、大鷦鷯命(おほさざきのみこと)、橘豐日命(たちばなのとよひのみこと)を配祀する。
中写真 大阪市平野区の赤留比売神社 手水鉢 三十歩大明神と刻まれ降雨の神として郷民に親しまれた当時の名残。
右写真 赤留比売神社 平野区平野東  祭神 赤留比売(あかるひめ)創建年代不明。現代は杭全神社の境外摂社。
左図は大阪遺跡(大阪文化財協会発刊)より転用一部加筆しています。(約2100年前の難波(なにわ)推定図)
①大阪市西淀川区の姫島神社。
②大阪市中央区高津一丁目の比売許曾神社。
③大阪市東成区の比売許曾神社。
④大阪市平野区平野東の赤留比売神社。
以上の四社が大阪市内のアカルヒメ関連神社の所在地を記したのが左図です。「記紀」は難波の比売許曾社の神と為る。と記しています、②③が比売許曾社で何れも式内社ですが創建年代は不明です。②比売許曾神社は茅渟の海と言われた現大阪湾に面していたと思われ
③比売許曽神社は河内湾が汽水湖の河内湖に変わった
湖水に面しており、この二社が「記紀」記述のアカルヒ
メの上陸地点に相応しいと思われますが、いずれも祭神は下照比売で社名のみ比売許曾神社となっています。「記」には新羅から来た阿加流比売が難波の比売碁曽の社に坐すと記し、「書紀」は意富加羅国(おほからのくに)から来た童女は豊国と難波の比売碁曾社の二処に祀られていると記します。
「延喜式神名帳」では下照比売を祭神とするのが比売許曽神社であると記し、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡にありと記しています。
の姫島神社のある西淀川区は古代は大阪湾内で淀川の河口でもあり地形も大きく変わり弥生時代に、この地に上陸したとするなら現吹田市以北になるのではと考えられます。
の比売許曾神社は高津神社の境内摂社ですが、元来当地は比売許曾神社の社地に高津神社が移転して来たようです。貞観8年(866)平安初期、清和天皇の勅命により仁徳天皇の難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀りましたが、天正11年(1583)に豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売許曽神社の境内
(現在地)に仁徳を祭った社が遷座され、比売許曽神社は地主神として摂社とされたそうですが、比売許曽神社の創建年代は不明ですが上町台地の西側にあたり古代の大阪湾に面した位置にあたります。
大阪市天王寺区小橋東之町に鎮座する比売許曾神社はの比売許曾神社の約3km東で上町台地の東側にあたり古代の河内湾に面した位置になり、朝鮮半島から逃げて来た比売の上陸地点としては最も適した処になりますが二社とも祭神は下照比売(したてるひめ)で日本の女神です。下照比売とは大国主命(おおくにぬしのみこと)の娘で天稚日子(あめのわかひこ)と婚姻した比売で、阿加流比売とは縁も由?もなく何故、下照比売が比売許曾社の祭神なのか釈然としません
の大阪市平野区の赤留比売神社は唯一赤留比売の名が付き祭神も新羅より渡来の女神、赤留比売命を祀る式内社ですが、近世までは俗称の三十歩神社の呼称の方が有名で赤留比売の名は忘れ去られていたのが「住吉松葉大記」や「摂陽群談」の記述に見られます。三十歩神社の名は室町時代の応永年間(1394~1428年)干ばつのとき、法華経三十部を読誦したところ霊験あらたかであったので、三十部神社がなまったものと云われています。創建年代や住吉大社との関連の詳細は不明ですが、弥生から古墳時代に朝鮮半島の国々との外交施設として難波津に難波館(なにわのむろつみ)があり、この時に外客接伴のために中臣須牟地神社で醸した酒を赤留比売命神に献る形で外客に給せられていたと言われています。「住吉神代記」に赤留比売神と中臣須牟地神の名が記されていたのは天平時代の一時期に中臣須牟地神に赤留比売神が併祀されていたとも考えられます。
また、赤留比売神社の昔の鎮座地について平野流町の門外字中山であったが寛文2年(1662)に現在地に遷座し大正3年に郷社杭全(くまた)神社に合併飛地境内末社となっています。また六月三十日の住吉大社の荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)には平野郷の坂上七名家よ9斎女を出し、桔梗の造花を捧げるのが慣例となつていた様で赤留比売社と住吉大社の密接な関連が覗われますが、現在はこの行事は途絶えているようです。杭全神社の主祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)ですが明治の神仏分離以前は「牛頭天王」で貞観4年(862)征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂上当道(まさみち)が「牛頭天王」を勧請し、社殿を創建した伝承があります。坂上家は渡来人である東漢氏(やまとのあやうじ)の阿知使主(あちのおみ)の子孫であるところから渡来神の「牛頭天王」を地主神として祀った縁(えにし)から阿加流比売神社も此の地で祀られることになったと推察されます。  「牛頭天王」と素戔嗚尊は習合され同一神とされます。
住吉大社の第四殿の祭神は息長帯比売ですが、創建当時の祭神は「アカルヒメ」であったとの説もあります。
『大阪府神社史資料』村社比売許曽神社から
比売許曽神社(大阪市東成区東小橋町)明治五年村社に列せらる。古事記によれば、比売許曾神社の祭神は新羅國王之子天日矛の妻にして、竊(ひそか)に小船に乗り、吾祖之國(わがおやのくに)に行かんとて本邦に渡來し、難波に留まりしを祭れるなりとし,日本書紀には、之れを意富加羅國王之都怒我阿羅斯等(おほからのくにのおうのつぬがあらしと)の許にありし一童女(おとめ)とし、此童女逃れて遠く海に浮ぴ、遂に我國に入り、難波に至りて比売許曾社の神となると、延喜式神名帳には、摂津國東生郡比売許曾神社名神大月次、相嘗新嘗 四時祭式に下照比売社一座或號比売許曾社。臨時祭式に比売許曾神社一坐亦號下照比売とあり。三代實録に貞観元年正月摂津國下照比売女神授從四位下とあるも、比売許曾神社なりとせらる。斯(か)くの如く比売許曾神社は難波の古社、式内の名神なれども、早く荒廃して 其所在沿革詳(さだか)ならず。古代は姫島に鎭座せしものヽ如し。然るに、天明八年(1788)に或者が奮記神賓を発見したりと唱へ、之れに基きて、比売許曾神社の縁起を編纂し、當社を延喜式内の比売許曾神社に當てヽより、其名世に現はれたり。 されどその作れる縁起は固より假作にして信すぺきものにあらす。本社所藏文書に小橋村検地帳(慶長十二年十一月 十二日)闕郡東郡戸御検地帳(文録三年八月)並に南北朝時代の古文書を存せり。
下右は住吉大社神代記の一節で八前の子神を託宣により楯原里に遷した記述と赤留比売命神の下に(中臣須牟地神・草津神)と記されているのは、この二社に合祀されている意味か。八前の神を楯原里に移したとあるが記載されているのは六前の神で住道神が重複しており実際は五前で、亦何故これらの神々を楯原里へ遷座する必要があったのか?。天平元年(729)に遷座した神々は年度不詳ですが元の鎮座地に戻っています。
上右の矢印が住吉大社神代記の赤留比売神が記載されている箇所です。    左はその訳文。
上は神代記の解説部分の細字部分を拡大したもので「赤留比売神社」の所在地は住吉郡と記され、比売許曽神社は東生郡となり祭神は下照比売とあり、赤留比売と下照比売の関連説明が無く謎です。亦、「伎人神」は神代記のみに記される神で詳細は不明です。「伎人神」は推測ですが奈良時代の攝津国に「伎人郷(現平野区喜連)」がありますが古文献等に「伎人神」の記載や伝承もなく不明です。忍海神についても不明。
上写真左から中臣須牟地神社の拝殿。 中写真 中臣須牟地神社前の難波��(にわのむろつみ)の外客接伴のための酒を醸したと云う遺跡、以前は注連縄が張ってあったのですが。  右写真は6月30日の夏越しの大祓神事(なつごしのおおはらいしんじ)に茅の輪くぐり無事に夏の暑 さを乗り越え、元気に何事もなく、無病息災を願う神事(開口(あぐち)神社)住吉大社関連神社。
この住吉大社神代記とは住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文で天平三年(731)に作成されたと奥書がありますが考古学者の間には天平三年作成に異論があり、平安期の作成ではとの説も有りますが、いずれにしても貴重な史料であることに変わりはありません。その神代記冒頭に『件(クダン)の住道(スムチ)の神達は八前なり。 天平元年(729)十一月七日、託宣に依り移徒(ウツ)りて、河内国丹治比(タヂヒ)郡の楯原里(タテハラノサト)に坐(イマ)す。故(カレ)、住道里(スムチノサト)の住道神と號(ナヅ)く』と記されていますが、しかし此処に記されているのは座摩神二前・中臣須牟地神一前・住道神一前・須牟地曾禰神一前・住道神一前の六前で、住道神一前が重複していますので実際は五前になります。また赤留比売命神の下に中臣須牟地神・草津神が小さく記されていますが、これは赤留比売命神が中臣須牟地社に配神されていたものかと考えられますが、その詳細と託宣により八前の神が何故楯原の里に移されたのか、また何故五前しか記されていないのか不明です。
この天平元年(729)の託宣による八前の神の遷座は住吉神の託宣と思われますが託宣理由は不明で、遷座した神は、何れも元の鎮座地に戻っていますが、その年月は不明です。
上図は松原市史第一巻第二章条里制の項に記載されている楯原中里の位置を示した図です。この図ではBY里・CY里・DY里の三つが太政官牒に記されている北三条楯原里と里外になり、BY里(楯原中里里外)は現在の松原市天美北6.7丁目。CY里(北三条楯原中里)は天美北1.3丁目。DY里(楯原中里)は三宅西7・平野区瓜破南1丁目。に該当します。JZ里・KZ里は現大和川と左右両岸(瓜破・住道)の一部になります。 楯原神社の最初の鎮座地はDY里楯原中里と推察されます。この地で(1371)応安四年十一月五日の瓜破合戦の戦火でに追われ西喜連に遷座したものと思われます。
住吉大社神代記に記載されている託宣により八前の神を移した「河内国丹治比郡楯原の里」について現在の楯原神社の所在地である大阪市平野区喜連(きれ)という説がありますが、私は楯原神社の由緒から楯原神社の創建時の鎮座地は喜連ではなく神社の名称の楯原里であったと考えています。河内国丹治比郡楯原里について調べていたら石清水八幡宮の庄園矢田庄についての文書に延久四年(1072)九月十日付の太政官牒に楯原中里の地名があり石清水八幡宮の荘園矢田庄の墾田六町八反の所在を記したものです。『壱処 字矢田庄 丹北郡 墾田陸町捌段 壱条矢田部拾参坪伍段、篠原里参拾参坪陸段、北 参条駅家里拾玖陸段、 楯原中里里外捌坪壱町、同里弐拾玖坪壱町以下略』住吉大社神代記には「楯原里」、太政官牒には「楯原中里里外」と記され年代は違いますが、いずれも河内国丹比郡の同一場所と思われるので松原市史を調べてみると松原市史第一巻本文編律令制下の丹比地方「条里制」の項に楯原中里の詳細位置が記されていましたので上記に楯原里所在図を抜粋転載しています。今喜連にある楯原神社の初代鎮座地は、この「楯原里」ではないかと思います。楯原神社由緒にも南北朝時代(1339~1382)に北軍の兵火に罹り焼失とあり「花営三代記」(1371)応安四年十一月五日の記事に「暁。河州宇利和利(うりわり)城寄手南方勢引退云々」とあり南北朝のこの時期に瓜破・丹比郡地域で戦闘のあったことが判ります。楯原神社が北軍の兵火に罹り焼失したのも、この瓜破合戦の時でしょう。楯原里に鎮座していた楯原神社が戦火に追われ摂津国喜連村の一角に遷座して来たのが応安四年(1371)以後のことで文明十三年(1481)春仮社殿を建て明応二年(1493)三月正社殿完成。元和年間(1615~24)暴風雨で破損。享保年間(1716~36)に現在地に移ったといわれています。楯原神社の現在の祭神は武甕槌大神・大国主大神・孝元天皇・菅原道真・赤留姫命になっています。 
中臣須牟地神社 座摩神社 (摂津名所図会) 神須牟地神社
神代記に記されている4座のうち、中臣須牟地神・住道神(神須牟地社)の二社は東住吉区内に、須牟地曽祢神(堺市金岡神社合祀されている)三社の所在地は解りますが、最後の住道神は不明。ただ古代に中臣須牟地社の北の辺りに天神山と云う山が有り、そこに住道社なる社があったという言い伝えが有りますが現代では、その山もなく位置も不明ですが、三社は式内社として現存しています。赤留比売神社(大阪市平野区)の由緒の詳細は全く不明で、現在地に遷座したのは、何時か、南北朝時代や大坂夏の陣などの戦禍も受けて下の「住吉松葉大記」にあるように江戸中期には赤留比売の名も忘れ去られ三百歩神社として存在していたようです。
アカルヒメについては「記紀」では、その記述は異なっていますが、説話の内容は同じです。女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという朝鮮の卵生神話であり、高句麗の始祖王の東明聖王(とうめいせいおう)・新羅の始祖王赫居世(かくきょせい)、伽耶(かや)諸国のひとつ金官国の始祖の首露王(しゅろおう)の出生譚などが天降った卵から人間が生まれたという卵生神話から発生しています。赤玉から生まれた「アカルヒメ」は即ち太陽の女神と云うことになるのでしょうか。「記」の編纂者はアカルヒメに「吾が祖の国に行かむ」と云わせて日本が太陽の神の国であり、太陽神の血脈に連なるのは日本だよと同じ太陽神を信仰する朝鮮諸国に思わせるための記述なのでしょうか。夫と養親から逃げて来た女が難波に到ると比売許曾の神となるのも理解し難い話で、アメノヒホコは難波入りを「渡りの神塞(さ)へて入れず」とあり、ヒホコは「故更(かれさらに)に還り、多遅摩(たぢま)国に泊(は)てつ」と「記」は記します。ヒホコの難波入りを塞(さ)へた神とは。逃げた妻を遙々異国の地まで追って来て難波へ入れないと知ると早々と海路多遅摩へ回航して、其の地で婚姻して定住するヒホコの行動も理解し難いものです。ヒボコの話と類似した自称、意富加羅国(おほからのくに)の王子と云う都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)も逃げた童女(おとめ)の後を追い日本に来ますが、この童女も難波に詣(いた)りて比売碁曾社(ひめごそのやしろ)の神となり亦、難波に到る前に豊国(とよくに)の国前郡(みちのくちのくに)に至りて比売碁曾社の神となり二処に祭(いは)ひまつられたと記すが追って来たアラシトは何故難波ではなく角鹿(敦賀)に来たのか。亦、其の後のアラシトの消息については何等記されていないのも解せません。住吉大社の第四宮には息長帯比売(神功皇后)が祀られていますが、創建当時の祭神はアカルヒメであったと云う説もありますが根拠が薄弱で信じ難い話です。究極のところ「アカルヒメ」の正体については解明の手懸かりも掴めず謎のままです。
上右から「住吉松葉大記」赤留比売命神社の記述。この記述によると「松葉大記」の記された元禄年間には阿加琉(赤留)比売を祀る神社が何処にあるのか不明だった様です。
中が「摂陽群談」巻十一の十六葉の記述です。  左端は「松葉大記」の三十歩社(赤留比売神社)の記述。
上に記される玉依姫とは神話で、海の神の娘。??草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり、四子を産んだ。末子が神武天皇。また豊姫とは息長帯比売の妹(記では虚空津比売)で息長宿禰王の子。この三百歩神社の記述は大分混乱しているようです。いずれにしても中世には赤留比売が何処に祀られているのか混乱していた様です。
「住吉松葉大記」とは江戸期に住吉大社の神職の家に生まれた梅園惟朝(うめぞのこれとも/生没年不詳)が神祇(じんぎ)史の基礎的研究をおこない元禄年間(1688-1704)に「住吉松葉大記」を編著した。『住吉松葉大記』は大阪府指定文化財として住吉大社・住吉文華館に展示公開されています。(参観は日曜のみ)
「摂陽群談」江戸時代に編纂された摂津国の地誌で伝承や古文献を参照に全十七巻から成り、第十一巻が神社部で完成は禄十四年(1701)。『大日本地誌大系』に収録されいて、作者は岡田溪志で江戸期の摂津地誌としては記述が最も詳しく記されています。現東成区の比売碁曾神社の祭神は下照比売を祀るとしており、阿加琉比売の上陸地を現高津神社の比売語曾社としていますが祭神はやはり下照比売で、この比売を阿加琉比売とも云うと記して居ます。しかし「記」の記述は天之日矛の逃げて難波の比売碁曾社に入ったのは「阿加琉比売」と記し、「書紀」の記述は都怒我阿羅斯等の逃げた童女については名を記していませんが記述の内容から「記」の阿加琉比売と同一人と考えられ「記紀」には下照比売の記述はなく難波に上陸して何故阿加琉比売が下照比売に変わるのか謎です。の摂陽群談の記述とは此の記述の事で「赤留比売神社とは、この社
なり」と記し住吉大社の末社と記していますが、この元禄年間には赤留比売社の名は忘れられ「三十歩社」として降雨の神として知られていたようです。現在住吉大社の第四宮には「息長帯比売(神功皇后)」が祀られていますが、6~7世紀頃に「神功皇后物語」が創作されるまでは「阿加流比売」が祀られ、「記紀」に「神功皇后物語」が挿入されると第四宮の祭神が「阿加流比売」から「神功皇后」に入れ替わったという説もありますが真偽を確かめる史料はありません。
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辛国息長大姫大目命・12景行天皇期から15応神天皇までの記述が誤操作で寸断され一部復旧しましたが資料の紛失と記憶力の減退で編集が遅れていますが体調の調子を見ながら再編集して行きますので暫くご猶予ください。
辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほめのみこと)伝承
豊前国の国の風土記に曰はく『鹿春郷(かはるのさと)田河郡(たがわのこおり)。此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源は、郡の東北(うしとら)のかた、杉坂山より出でて、直(すぐ)に正西(まにし)を指して流れ下りて、眞漏川(まろかわ)に湊(つと)ひ會(あ)へり。此の河の瀬清浄(せきよ)し。因りて�げ聾饗�(きよかはらのむら)と號(なづ)けき。今鹿春郷(かはるのさと)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。昔、新羅国の神、自(みづか)ら渡り来たりて、この河原に住みき。即ち、名付けて鹿春の神と曰ふ。又郷の北に峯あり。頂きに沼あり。周(めぐ)りて卅六歩ばかりなり黄楊樹(つげのき)(お)ひ、兼(また)、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)・黄楊・龍骨(たつのほね)等あり。第三の峯には龍骨あり。』この新羅国の神の名は延喜式神名帳に辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほめのみこと)とあり、日本三代実録には辛国息長比�鷽�(からくにおきながひめがみ)と記されており、福岡県糸島市(魏志倭人伝の伊都国)にある高祖(たかす)神社があり現在の祭神は彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)で配神として玉依姫命(たまよりひめ)・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)ですが江戸時代までは「高磯比��(たかそひめ)神社」「高祖大明神」と呼ばれていたそうで、この神社の祭神、「高磯比�鷽�」とはアメノヒホコの妻である「比売許曽神(阿加流比売(アカルヒメ)神)」の事であるという伝承があります。「記紀」等にはアメノヒホコは新羅国から直接、播磨国や難波に来た記述になっていますが、古代の朝鮮半島から日本への航路は「魏志倭人伝」が記す様に狗邪韓国(くやかんこく)→対馬国(つしまのくに)→一支国(いきこく)→末盧国(まつらこく)を経由して伊都国(いとこく)へと到るル-トが定着していた様でアメノヒホコやアカルヒメもこのル-トでで伊都国に到り瀬戸内海を経由して播磨・難波へ到ったと考えられます。この伊都国は「魏志倭人伝」に「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。郡使の往来、常に駐まる所なり」と記され、亦14仲哀期には穴戸の引嶋に天皇を迎えた伊都県主(いとのあがたぬし)五十迹手(いとて)が天皇に誰何され「高麗国
伊呂山(こまのくにのおろやま)に天より降り来しヒホコの苗裔(すえ)、五十迹手是なり」と(筑前国風土記)より。
高須神社は福岡県糸島市高祖に鎮座する古社ですが創建年代は不詳です。
「日本三代実録」元慶元年(877)条に高須神社が従五位下を授ける記事が有ります。しかし「延喜式神名帳」には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる様です。※国史見在社 六国史に神名、社名がみえるが、「延喜式」巻9、10の神名帳には登載されていない神社。国史見在社、国史所載社(こくし







高祖神社 高祖神楽福岡県無形文化財 伊都国(現福岡県糸島市)


12代 景行天皇期(71~130)弥生時代
渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん) 伝景行天皇陵
古事記 12  大帯日子淤斯呂和気天皇  おほたらしひこおしろわけのすめらみこと
日本書紀 12  大足彦忍代別天皇  おほたらしひこおしろわけのすめらみこと

上は「記」の景行天皇系譜。下は「書紀」の景行天皇系譜。
「記」は大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)、纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に坐(いま)して、天の下治(したし)らしめき。此の天皇、吉備臣(きびのおみ)等らが祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、針間(はりま)の伊那?能大郎女(いなびのおほいらつめ)に娶(あ)ひて、生みませる御子、櫛角別命(くしつのわけのみこ)、大碓命(おほうすのみこ)、小碓命(をうすのみこ)亦の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)、倭根子命(やまとねこのみこと)、神櫛王(かむくしのみこ)の五柱。この天皇の御子等(みこたち)、録(しる)せるは二十一柱の王(みこ)
、入れ記さぬ五十九柱の王、併せて八十柱の王(みこ)の中に若帯日子命(わかたらしひこのみこと/13成務天皇)と倭建命(やまとたけるのみこと)、五百木之入日子命(いほきのいりひこのみこと)の三柱の王は太子(ひつぎのみこ)の名を負(お)ふ。それより余(ほか)七十七柱の王は、悉く国々の国造(くにのみやつこ)、またわけと稲置(いなき)・県主(あがたぬし)に別賜(わけたまわ)ると記す。
※ 氏姓制度は古代行政区分の一つで、地方豪族がヤマト政権に対する貢献度に応じて、大王から国造(くにのみやつこ)に任命され、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)・などの姓(かばね)が贈られ、特権的地位を世襲した制度。「書紀」成務天皇五年条に諸国に令して、国郡(くにこおり)に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)に稲置(いなき)を置く。と記され是で見るとこの年に国造制度が出来たようですが、事実は不明ですが、この制度が始まったのは五世紀後半頃といわれます。

伝景行天皇の高穴穂宮跡 右の伝纏向日代宮跡説明板 伝景行天皇纏向日代宮跡
「書紀」卷第七は大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)と稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)の二代を記します。大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと/景行天皇)は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に立ちて皇太子と為(な)りたまふ。時に年二十一。 この年令、崩御の時106歳と記されるが矛盾があります。  景行天皇期の記述は「記紀」の間に大きな相違があり、「書紀」では熊襲討伐・国造・県主を設置した等、地方平定事業を天皇、自ら行った記述や12年7月条から19年条にかけて天皇の九州巡幸と熊襲征討の記述が比較的詳細に述べられているが、「記」は「后妃と皇子女」「倭建命(やまとたけのみこと)の西征・東征」「白鳥の陵」「倭建命の系譜」の四話が記されます。 此処では「書紀」の記述を年代順に追ってみます。二年春三月三日、播磨稲日大朗姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とする。后二柱の皇子を生まれます。第一をば大碓皇子(おほうすのみこ)、第二をば小碓尊(をうすのみこと)と曰(まう)す。この二柱の皇子は一日に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生まれませり。この小碓尊(をうすのみこと)は、亦の名を日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と曰(まう)す。幼くして雄略(をを)しき気有(いきま)します。壮(をとこざかり)に及(いた)りて容貌魁偉(みかほすぐれたたは)し。身長一丈、力能(ちからよ)く鼎(かなえ)を扛(あ)げたまふ。一書に曰わく、皇后、三柱の男を生まれます。その第三を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と曰(まう)すといふ
三年春二月、紀伊に行幸し、紀直(きのあたい)の祖、菟道彦(うじひこ)の女(むすめ)、影媛を娶り、武内宿禰(たけのうちすくね)を生む。
四年春二月十一日条、天皇の男女(ひこみこ・ひめみこ)前後併せて八十の子まします。然るに、日本武尊(やまとたけるのみこと)と稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)と五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)とを除きての外、七十余の子は皆国郡(みなくにぐに)に封(ことよ)させて各々(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。
十二年秋七月条、熊襲反(そむ)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。
八月十五日条、天皇、熊襲討伐のため筑紫に幸(いでま)す。
十一月五日条、日向国に到りて、行宮(かりみや)を建てて居(ま)します。是を高屋宮と謂(まう)す。
十三夏五月年条、(ふつく)に襲国(そのくに)を平(む)けつ。因りて高屋宮に居しますこと、已に六年なり。
十二年十二月、天皇、熊襲を討たむことを議(はか)る。郡卿(まえつきみたち)
に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕聞(われき)く、襲国(そのくに)に」
厚鹿文(あつかや)?鹿文(さかや)と云う者あり。この両人は熊襲の渠師者
(いさを)なり。衆類甚多(ともがらにへさ)なり。是を熊襲の八十梟師(やそたける)と謂ふ。其の鋒(つはもの)当たるべからず。師(いくさ)を興すこと少なくは、賊を滅(ほろ)ぼすに堪へじ。多に兵を動(うごか)さば、是百姓(これおほみたから)の害(やぶれ)なり。何か鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮(か)らず
して、坐(おの)づからして、其の国を平(た)むけむ」とのたまふ。時に一人の臣(まえつきみ)有り。進み[以下左の記述に続く]
※渠師者(いさを) 勇武なる者。 衆類甚多(ともがらにへさ) 献上物が多いの意。
熊襲梟帥(くまそたける)の二人の娘を懐柔して姉妹の姉に父殺しをさせた後、その罪を責め姉を断罪し、妹を火国造(ひのくにのみやつこ)に任ずると云う不条理なことを天皇が行ったことを記述する。
十九年秋九月二十日条、天皇、日向より帰りたまふ。
二十七年秋八月条、熊襲亦反(そむ)きて辺境を侵すこと止まず。
二十七年冬十月十三日条、日本武尊を遣わして、熊襲を撃たしむ。時に年
十六。二年三月条ではこの年日本武尊が生まれたと記す。二十七年に日本武尊十六歳とすると景行十一年生まれとなる
二十八年春二月条、日本武尊、天皇に熊襲を平(む)けたる状(かたち)を奏上。
四十年夏六月条、東の夷多(ひなさは)に叛(そむ)きて、辺境騒ぎ動(とよ)む。
東の夷多(ひなさは)所在不明。胆沢町(いさわちょう)岩手県南部の胆沢郡に属していた町のことか胆沢城築城に由来するという説などがあります。 ?
四十年冬十月二日条、日本武尊、蝦夷討伐に出立する。途中伊勢神宮参拝。叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)が草薙剣を日本武尊に授ける。
日本武尊、蝦夷征討の帰途、尾張氏の女(むすめ)宮簀媛(みやすひめ)を娶(めと)り留まる。胆吹山(いぶきやま)の荒ぶる神有るを聞きて退治にゆき負傷し、其の傷が原因で能褒野(のぼの)にて崩(かむさ)りましぬ。時に年三十。 天皇が日本武尊の死を悼み寝味甘(みものたてまつらむことあぢあひあま)からず。昼夜喉咽(ひるよるむせ)びて、泣き悲しみたまひて……伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化(な)りたまひて陵より出て、倭国(やまとのくに)を指して飛び琴弾原(ことひきのはら)に停(とどま)れり。依りて其の処に陵を造る。白鳥、更に飛びて河内に到りて旧市邑(ふるいちむら)に留まる。亦其の処に陵を造る。この三つの陵を号(なず)けて、白鳥陵と云う。是歳(このとし)、天皇践祚(すめらみことあまつひつぎしろしめしての)四十三年なり。
日本武尊の死去年月日は記されていないが記述の内容から景行43年と推測されるが、27年10月条に年16とあるので是が正しいとするなら43年の日本武尊の年令は32歳となる。
五十二年夏五月四日条、皇后播磨大郎姫(はりまのおほいらつめ)(かむさ)りましぬ。
同年秋七月七日条、八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)を立てて皇后とする。
皇后播磨大郎姫薨去の2ヵ月後の服喪期間内に八坂入媛命を立后するとは考えられない。
五十八年春二月十一日条、天皇、近江国に幸(いでま)して、志賀に居(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三年。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。
六十年冬十一月七日条、天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百六歳。
「記」は此の大帯日子天皇(おほたらしひこのすめらみこと)、御年百三十七歳。御陵は山の辺の道の上に在り。と記す。
小碓命(日本武尊)景行27年(97丁酉)に年16であれば生誕は景行11年(81辛巳)となる。
43年(113癸丑)日本武尊、伊勢国能褒野で病没。時に年30。とあるが27年(97丁酉)の熊襲討伐に出発時に年16とあるので、
日本武尊が東国遠征に出発時の年令は29であり、薨去時の年令は32歳となる。


7世紀に在位が確実と云われる34代舒明天皇(おきながたらしひこひろぬか)・35代皇極天皇(あめとよたからいかしひたらしひめ)と何れも「たらし」が付く名であり、12代景行天皇(おほたらしひこおしろわけ)・13代成務天皇(わかたらしひこ)・14代仲哀天皇(たらしなかつひこ)・神功皇后(おきながたらしひめ)の4代も「たらし」が付く名であり「書紀」編纂時に造作された名であり実在性に疑問があると云われています。
景行天皇年譜  紀年は書紀紀年です。()内の数字は西暦に換算したもの。
垂仁天皇17年(前13戊申) 大足彦尊(おほたらしひこのみこと/12景行天皇)誕生。
垂仁天皇37年(8戊辰)1月1日、大足彦尊(おほたらしひこのみこと)皇太子に立てられる。(21歳)
景行天皇元年(71辛未)  7月、即位。
2年(72壬申)  3月、播磨稲日大郎姫を立后、皇后、大碓命、小碓命(日本武尊)を生む(生誕年月不明)
12年(82甲戌)  7月、熊襲が背き朝貢せず  8月、天皇、筑紫に親征開始。
19年(89己丑)  熊襲討伐後九州巡行して帰国。
27年(97丁酉)  8月、熊襲が再叛  10月、小碓尊が熊襲征伐に出発。時に年16。
28年(98戊戌)  2月、日本武尊(小碓尊)が帰国。
40年(110庚戌 ) 10月、日本武尊が東国遠征に出発。
43年(113癸丑)  日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で病没。時に年30。
51年(121辛酉)  8月、稚足彦尊を立太子。
52年(122壬戌)  5月、皇后崩御。 7月、八坂入媛命を立后。
58年(128戊辰)  2月、近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。
60年(130庚午)  11月、崩御。享年は106歳。(「記」では137歳)
成務天皇2年(132壬申) 11月、山邊道上陵に葬られた。
「書紀」の景行天皇記述の矛盾と謎
  下記左端は「書紀」の紀年、()内は書紀紀年を西暦に換算。
垂仁十五年(前15)丙午(ひのえうま)の条に景行天皇誕生記述。
日葉酢媛命をたてて皇后としたまふ。皇后は三柱の皇子と二柱の皇女を生まれます。第一をば五十瓊敷入彦命、次に大足彦尊(後の景行天皇)、次に大中姫命、次に倭姫命、次に稚城瓊入彦命。
垂仁天皇の三十七年(8)戊辰(つちのえたつ)大足彦尊(景行)立ちて皇太子と為りたまふ。年二十一。
景行元年(71)辛未 (かのとひつじ)大足彦尊(景行天皇)即位
景行六十年(130)庚午(かのえうま) 天皇崩御 百六歳。
天皇、崩御時の年令百六歳とすると即位時の年令は四十七歳となり、垂仁天皇の三十七年の立太子時には未だ
生まれていないことになります。 垂仁天皇の三十七年の立太子時に二十一歳なら即位時の年令は八十四歳に
なり、崩御時の年令は百四十三歳になります。

「書紀」は随所に「異世代婚」や記載人物の年令の誤記がありますが編纂時や校正時に当然、その矛盾を発見出来るにも係わらず、誤記のまま世に出ているのは何故なのか。「記紀」は我が国最古の歴史書であり「書紀」は原則として純漢文で記されているため、完成当時から日本人には読みづらいものであったと言われ、完成翌年の養老5年(721)には「書紀」を自然な日本語で読むべく、宮中で時の博士が貴族や官僚達の前で講義する講座が設けられています。養老5年(721)から康保2年(965)までの講師の記録は有りますが講座内容の詳細は無いため不明ですが当然「書紀」内容の矛盾や紀年の疑問点等が指摘されたと推察されますが、講師達はどう答えたのでしょうか
「記紀」に見るヤマトタケル命の英雄物語
「記」では景行天皇の熊襲親征記述は無く景行期の記述から倭建命(やまとたけるのみこと)のロマン的英雄物語で埋められている記述を除けば、景行天皇の記述は天皇の御子達の中で記録されるのは二十一柱。残り五十九柱の御子の名は記録出来ずとあります。此の天皇、三野(みの/美濃)の国造(くにのみやつこ)が祖、大根王(おほねのみこと)の女(むすめ)、兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)二人の嬢子(おとめ)、其の容姿麗美(かたちうるは)しと聞こしめし、大碓命を遣わし喚(め)しあげたまふ。大碓命は召し上げずして己自(おのれみずか)ら二人の嬢子(おとめ)(ま)き、更に他(あた)し女人(をみな)を求め、天皇の求められた嬢子(おとめ)と詐(いつは)り貢上(たてまつ)る。是に天皇其の他(あた)し女(をみな)なることを知(し)らめて、恒(つね)に長き恨みを経(へ)しめ、また婚(ま)きたまはずて、恨みたまはずて。惚(なや)みたまふ。大碓命、兄比売(えひめ)に娶(めと)ひて生める子、押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのみこ)此は三野の宇泥?和和気(うねすわけ)が祖。また弟比売(おとひめ)に娶(めと)ひて生める子、押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのみこ)。此は牟�疆垠�(むげつのきみ)等が祖。 天皇が小碓命(をうすのみこと)に「どうしたことか、お前の兄は朝夕の食事に出てこない、お前がいって出て来る様に諭(さと)せ」と命じる。しかし五日立っても姿を見せないので、再度、小碓命に ただすと「早朝に厠(かはや)へ入る所を待ちかまえて握り掴んで手足をもぎとり薦(こも)に包んでなげ捨てました」と答えた為、天皇は小碓命の建(たけ)く荒き情(こころ)を惶(おそ)りて疎(うと)んじられ西の熊襲征討を命じる征討後、帰路に出雲国のまつろはぬ出雲建(いずもたける)をも征討し大和へ帰還する。天皇はその勇武を恐れてか再び東方十二道の荒ぶる神や従わない者どもの征討を命じる。吉備臣等(きびのおみら)が祖(おや)、名は御?友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副へて遣わす時に比々羅木(ひひらぎ)の八尋矛(やひろほこ)を給ふ。故命(かれみこと)を受け罷り行(い)でます時に、伊勢の大御神の宮に参入(まい)り、其の姨(おば)倭比売命(やまとひめのみこと)に「天皇既に吾の死ぬことを思ほす所以(ゆえ)か、何ぞ。西の方の悪しき人等を撃ちに遣わして、返り参上(まいのぼ)り来し間、いまだ幾ばくの時も経ず、軍衆(いくさびとども)を賜はず、今更に東の方の十二道の悪(あ)しき人等(ひとども)を平(ことむけ)に遣わす。此れに因(より)て思惟(おも)ふになほ吾の既に死ぬことを思ほし看(め)すぞ」と申し、患(うれ)へ泣き罷(たまわ)りたまふ時に倭比売命、草那芸劒(くさなぎのたち)を賜(たま)ひ、また御?(みふくろ)を賜ひて詔(の)りたまはく「もし急(には)かなる事あらば?(こ)の?(ふくろ)の口を解きたまへ」とのりたまふ。相模国(さがみのくに/神奈川県)で賊の計略で、窮地におちいるが、叔母倭姫(やまとひめ)から授かった草薙劒で危うく難を逃れる。東征の帰途、霊力のある草薙劒を持たず伊吹の山神を討ち取りに出かけるが、山中で白猪(いろゐ)となって出現した山神が大氷雨を降らし、その氷雨と山神の毒気に当てられた日本武尊はヤマトへの帰途、伊勢国の能褒野(のぼの)で力尽き不慮の死を遂げるという悲劇的な英雄物語になっています。
熊襲とは古代、南九州の肥後国球磨(くま)、大隅国曽於(そお)地方の豪族でヤマト政権に反抗した種族を指すと思われるます。 景行、仲哀、神功期に討伐記事があるが、応神期以後には熊襲の記事は見られません。しかし、古代においては複数の地名をあわせて一つの地域名とする例がほかにみられないことから、この考え方を疑問視する説もあります。
草那芸劒(くさなぎのつるぎ)とは倭建命が相模国で賊の計略で草原に火を放たれ折り草を薙いで難を逃れた事から名付けられた劒で、元はスサノヲが八岐大蛇を退治した時に大蛇の尻尾から出た劒で天照大御神に献上し、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が天降る時に天照大御神が八尺の勾玉(やさかのまがたま)・鏡・劒の三種を与えたと云う。この時点で草那芸劒(くさなぎのつるぎ)と称するのは違和感があります。
羽曳野市 白鳥陵 (前の山古墳) 亀山市 白鳥陵 御所市 白鳥陵
三重県亀山市の白鳥陵、亀山市にある能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は前方後円墳で、実際の被葬者は不明ですが、宮内庁により「能褒野墓(のぼのはか)」として日本武尊(やまとたけるのみこと)の墓に治定されています。築造時期は4世紀末(古墳時代中期初頭)と推定されています。日本武尊の墓とするには年代に無理があります。奈良県御所市の白鳥陵、「書紀」によれば白鳥となって能褒野陵から飛び立ち、大和国琴弾原(ことびきはら/奈良県御所市)にとどまり、そこに陵を造った。
羽曳野市軽里にある白鳥陵、正式名は軽里大塚古墳(かるさとおほつかこふん)「記」は能褒野から白鳥となって飛び、河内国志幾(しき)に留まり、そこに河内の白鳥陵を造ったと記し大和の白鳥陵の記述は無く、「書紀」によれば白鳥となって能褒野陵から飛び立ち、大和国琴弾原(ことびきはら/奈良県御所市)にとどまり、そこに陵を造ったところ、さらに白鳥となって河内国旧市邑(ふるいちむら)にいき留まったので、そこにも陵を造ったと記しています。被葬者は不明で築造時期は五世紀後半と推定されています。やはり日本武尊を被葬者にするには無理があります。 ●「書紀」16代仁徳天皇六十年冬十月条、白鳥陵の墓守目杵(めき/人名か?)忽ち白鹿に化りて走(に)ぐ。天皇、詔(みことのり)して曰(のたま)はく「是の陵、本より空(むな)し。故(かれ)其の陵守を除(や)めむと欲(おもほ)して、甫(はじ)めて役丁(えよほろ)に差せり。今是の怪者(しるまし)を見るに、甚(はなは)だ櫂(かしこ)し。陵守をな動(うごか)しそ」とのたまふ。「是の陵、本より空(むな)し。」ということは、既に仁徳天皇は軽里大塚古墳が空陵(から墓)であることを認識していたことになります。
墓守(陵守) 陵墓を守る者。百姓を陵守にした場合徭役(ようえき/国家によって人民に強制された労働)を免じていた。
景行期の日子坐王系の息長系譜 (四代目)
上写真 左 滋賀県米原市能登瀬に鎮座する山津照神社。  中 山津照神社古墳  右 明治15年(1882)神社工事の際、古墳発見時の記録画。1994年には京都大学が調査した結果、6世紀中頃の築造とされ宿祢王とは年代が違いますが、此の地が息長氏の本貫地であり、息長氏関連の首長墓と推定されますが被葬者名の特定は出来ませんでした。この古墳は息長宿祢王の墳墓とされていたが、調査で6世紀中頃の築造とされ宿祢王とは年代が違いますが、此の地が息長氏の本貫地であり、息長氏関連の首長墓と推定されますが被葬者名の特定は出来ませんでした。
上写真 左 能登瀬の天ノ川(旧息長川)に架かる息長橋、橋を渡ったところに山津照神社がある。ここから西の琵琶湖に到る一帯が古代の息長郷で現在も息長の名が付く郵便局や小学校が存在します。
中 写真国道9号線沿いに立つ息長宿祢王が子の帯比売(たらしひめ)を抱いている像、宿禰王は南山城の息長系でここ北近江の息長氏とは無関係です。右は 天之日矛が永住地を求める途次に北近江の吾名邑(あなむら)に暫住したと云う伝承地があり、その阿名郷が此の地であると云われ天日槍暫住地の碑も宿祢王像に隣接して建立されています。。
日子坐王系の息長系譜では四代目にして初めて息長姓を持つ息長宿禰王(おきながすくねのみこ)が誕生します。
この王が日子坐王系息長氏の四代目で、その活動期は景行期になります。息長宿祢王は葛城高額比売(かつらぎたかぬかひめ)に娶ひて息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱の御子が生まれます。また宿祢王、河俣稲依?売(かはまたのいなよりびめ)に娶(めと)ひて大多牟坂王(おほたむさかのみこ)が生まれます。
息長日子王は吉備の品遅君(ほむちのきみ)・針間の阿宗(あそ)の君が祖。大多牟坂王は多遅摩(たぢま)の国造
(くにのみやつこ)
が祖なり。と記されています。
葛城高額比売の祖は新羅国の王子、天之日矛で六代目の孫娘にあたります。息長宿禰王と葛城高額比売の婚姻により生まれたのが息長帯比売(おきながたらしひめ)で後の仲哀天皇の后となる、亦の名神功皇后(じんぐうこうごう)です。 葛城高額比売が天之日矛六代の孫とすると日矛の渡来は7代孝霊天皇期になります。
天之日矛の渡来年については「記紀」「播磨国風土記」それぞれに相違があり確定説はありません。
「書紀」の記事は垂仁三年(紀元前27年)の春三月に、新羅の王の子天日槍(アメノヒホコ)来帰(まうけ)り、と記し天日槍の系譜は田道間守(たぢまもり)までしか記されていません。亦、垂仁二年には都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来説話が記述されていますが是が「記」の天之日矛の説話に類似しており、この二人は同一人物と云われていますが、一つの説話を何故二つに分けて記す必要があったのか
また「播磨風土記」では「天日槍命(アメノヒホコノミコト)韓国(からくに)より渡り来て、宇頭(うづ)の川底に到りて、宿處(やどり)を葦原志擧乎命(あしはらのしこをのみこと)に乞(こ)はししく……」と記しているので天日槍命の渡来は神代の事とになります。息長宿禰王の定住地について北近江の坂田郡とする説がありますが、宿禰王の父や祖父の定住地である山代(やましろ)国綴喜(つづき)郡であるとした方が良いのでは、神功皇后(息長帯比売)陵も皇后、由?の地に近い奈良・京都の県境の佐紀古墳群に所在し、応神期の息長系譜には北近江坂田郡の息長氏の祖として若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)と弟比売(おとひめ)亦の名、百師木伊呂弁(ももきしいろべ)の子、大郎子(おおいらっこ)意富々杼王(おほほどのみこ)が北近江の息長・坂田等の祖と記しており、亦近江町にある山津照神社古墳が息長宿禰王の古墳という伝承が有りましたが、明治15年の神社社殿の移築工事中に古墳後円部から横穴石室を発見、石室内の出土品から、築造年代は6世紀中頃と推定され息長宿禰王とは年代がかけ離れており被葬者不明となっています。





上の写真は阿宗神社を訪れた時に「書紀」推古14年秋7月条に聖徳太子が天皇に勝鬘経(しょうまんきょう)・法華経を講じられた時に天皇は大変感動され播磨国の水田100町歩を太子に贈られ、太子はこれで播磨に斑鳩寺(いかるがてら)を建立されたという斑鳩寺をも訪ねました。写真左から仁王門・聖徳殿・1565年室町時代後期建立の三重塔の他、広大な境内に講堂・鐘付き堂等もあり各地に聖徳太子建立寺院と称する寺院がありますが歴史的に立証される太子建立寺院に接して感動しました。また当寺の別当職が明治期まで阿宗神社の維持管理をしていた様です。姫路市とたつの市に挟まれた兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)に所在します。
倭建命
行天皇期に天皇の皇子、倭建命(やまとたけるのみこ)を始祖とする新たな息長系譜が誕生します(下系譜参照)この倭建命、伊玖米(いくめ)天皇(垂仁天皇)の女(むすめ)、布多遅能伊理?売命(ふたぢのいりびめのみこと)に娶(あ)ひて生まれる御子、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)一柱。弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)に娶(あ)ひて生まれる御子、若建王(わかたけのみこ)一柱。近淡海(ちかつあふみ)の安国造(やすのくにのみやつこ)が祖、意富多牟和気(おほたむわけ)が女、布多遅比売(ふたぢひめ)に娶(あ)ひて生まれる御子、稲依別王(いなよりわけのみこ)一柱。吉備臣建日子(きびのおみたけひこ)が妹、大吉備建比売(おほきびたけひめ)に娶(あ)ひて生まれる御子、建貝児王(たけかいこのみこ)一柱。山代の玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)に娶(あ)ひて生まれる御子、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)一柱。また一妻(あるみめ/名不祥)の子、息長田別王(おきながたわけのみこ)。この倭建命の御子達、并(あは)せて六柱。その中で息長田別王の母のみが氏名不詳です。
帯中津日子命は、天の下治(14仲哀天皇)らしめしき。稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)建部君(けべのきみ)等が祖。建貝児王は讃岐の綾君(あやのきみ)伊勢別(いせのわけ)登袁別(とをのわけ)麻佐首(まさのおびと)宮首別(みやぢのわけ)等が祖。足鏡別王は鎌倉別(かまくらのわけ)小津の石代別(をつのいわしろのわけ)漁田別(いざりたのわけ)が祖なり。
息長田別王が倭建命系の息長氏の始祖になりますが、此の王については居住地や婚姻者の記述は無く二代目として杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)か生まれ此の系統の息長氏が本流となり日子坐王系の息長氏を加えて応神期の息長系譜に?がります。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)系と日子坐王(ヒコイマス)系息長系譜の謎
息長田別王の子、杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)此の王の子、��鄂森�翡簗�(いいのまぐろひめのみこと)次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)次に弟比売(おとひめ)三柱。若建王が��鄂森�翡笋釦�(めと)ひて生める子、?売伊呂大中日子王(すめいろおほなかひこのみこ)。此の王、淡海の柴野入杵(しばのいりき)が女、柴野比売(しばのひめ)(めと)ひて生める子、迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)。故(かれ)大帯日子天皇(おほたらしひこのすめらみこと/12景行天皇)此の迦具漏比売命に娶(めと)ひて生みませる子、大江王(おほえのみこ)
此の王、庶妹銀王(ままいもしろがねのみこ)に娶(めと)ひて生める子、大名方王(おほながたのみこ)次に大中比売命(おほなかつひめのみこと)の二柱。此の大中比売命は、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)の御祖(みおや)なり。   この系譜は「記」にのみ記されるもので「書紀」記述にはありません。
左図は日子坐王(ひこいますのみこ)系の息長氏と倭建命系の息長氏
が合体して北近江を本貫地とする息長氏が誕生した経緯を知る系譜です。倭建命(やまとたけるのみこと)が布多遅伊理?売(ふたぢのいりびめ)に娶(めと)ひて14仲哀天皇が生まれます。亦、一妻(あるみめ/名不明)に娶(めと)ひて息長田別王(おきながたわけのみこ)、弟比売(おとひめ)に娶(めと)ひて若建王(わかたけのみこ)が生まれます。この三柱の御子達は異母兄弟になり、倭建命の系譜では2代目になり、仲哀天皇は日子坐王系5代の孫で母方の祖に天之日矛を持つ息長帯比売(おきながたらしひめ)を皇后に迎え15応神天皇が生まれます。倭建命と一妻(あるみめ)との間に息長田別王が生まれ、此の王の婚姻者不明で杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)が生まれ、此の王も婚姻者不明で��鄂森�翡�(いいのまぐろひめ)・息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)・弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁(ももしきいろべ))の3人が生まれます。
息長真若中比売は応神天皇の妃(異世代婚)となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)を生み、此の王が母の妹、弟比売(亦の名百木師伊呂弁)と異世代婚して、大朗子(意富々杼王(おおほどのみこ))忍坂大中津比売など七人の子を生みます。この系譜では応神天皇と息長真若中比売・��鄂森�翡筺δ鑒翡�(モモシキイロベ)が異世代婚であり、息長田別王・杙俣長日子王と続けて婚姻者の名不祥であり、一妻の名も不祥という「記」の記述としては異様さが目立ちます。亦、日子坐王系の息長系譜では登場する8人中、息長姓の人物は息長宿禰王・息長帯比売・息長日子王の3人のみです。倭建命系の息長系譜でも14人の登場中、息長田別王・息長真若中比売の3人のみで有り、他の古代豪族系譜には見られないものです。異世代婚と他姓の入り交じった系譜に、不自然さを感じさせます。「記」の編纂にあたり天武天皇詔(すめらみことの
り)たまはく『朕聞(われき)く、諸々家(もろもろのいへ)?(も)てる帝紀(すめらみことのふみ)と本辞(もとつことば)と、既に正実(まこと)に違(たが)ひ、多(さは)に虚偽(いつわり)を加(くわ)ふ』といへり。今の時に当たり、其の失(あやまり)を改めずは、幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、其の旨滅(むねほろ)びなむとす。軌(こ)れ、邦家(くにいえ)の経緯(たてぬき)、王化(みおもぶけ)の鴻基(おほきもとい)なり。故惟(かれこ)れ帝紀を選び録(しる)し、旧辞(ふるきことば)を討(もと)め覈(あなぐ)り、偽(いつわり)を削り実(まこと)を定め後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ』この詔で諸豪族も自家に伝わる系譜を提出したものと思われ息長氏もこの時に系譜を提出して居ますが、その内容は「記」に記述されている系譜とは違うはずです。息長系譜に限っていうなれば『偽(いつわり)を削り実(まこと)を定め後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ』の趣旨とは程遠い結果になっていると感じるのですが、「記」の「中つ巻」の息長伝承は実に複雑怪奇で信じ難いものと感じるのは私だけなのでしょうか。上の系譜によると若沼毛二俣王と弟比売の異世代婚で生まれた大朗子(意富々杼王)が息長坂君・酒人君等の祖と記され北近江の坂田郡を本貫地とする息長氏の祖は仁徳期(推測)の大朗子(意富々杼王)となります。忍坂之大中津比売も16仁徳期に成人したと仮定し、17履中・18反正期を過ぎ19允恭天皇の皇后では考え難い異世代婚になります。「記」に記される「日子坐王系息長氏」「倭建命系息長氏」の系譜については歴史的事実とは到底思えない内容であると考えられ、亦、「記紀」の記述そのものも信じ難い箇所が多いのですが







ヤマトタケルを祖とする息長系譜
「記」の記述によると12景行天皇期になると天皇の皇子、小碓命(をうすのみこと)後の名を倭建命(やまとたけるのみこと)。「書紀」では日本武尊と書いて(やまとたけるのみこと)と読み「記紀」共通の呼び名になりますが、「書紀」
では「ヤマトタケル命」の記述内容は大きく変わり息長氏との関連記述は皆無です。
「記」では倭建命を祖とする息長氏がこの時代に誕生し、この系統の息長が開化期の息長氏を吸収して息長の本命系譜となります。
倭建命(やまとたけるのみこと)11垂仁天皇の皇女、布多遅入理?売命(ふたぢのいりびめのみこと)に娶(あ)ひて
生まれます御子、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)一柱。亦、其の海に入れる弟橘比売(おとたちばなひめ)に娶(あ)ひて生まれます御子、若建王(わかたけのみこ)一柱。亦、近淡海(ちかつあふみ)の安国造(やすのくにのみやつこ)が祖、意富多牟和気(おほたむわけ)が女(むすめ)布多遅比売(ふたぢひめ)に娶(あ)ひて生まれます御子、稲依別王(いなよりわけのみこ)一柱。亦、吉備臣建日子(きびのおみたけひこ)が妹、大吉備建比売(おほきびたけひめ)に娶(あ)ひて生まれます御子、建貝児王(たけかひこのみこ)一柱。亦、山代玖々麻毛理(やましろのくくまもりひめ)に娶(あ)ひて生まれます御子、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)一柱。亦一妻(あるみめ)のの子、息長田別王(おきながたわけのみこ)。おほよそ是の倭建命の御子達六柱。
  ※一妻(あるみめ) とは名を特定出来ない女性。
(かれ)帯中津日子命は、天の下治らしめしき。次に稲依別王は、犬上君(いぬかみのきみ)、建部君(たけべのきみ)等が祖。建貝児王は讃岐の綾君、伊勢別(いせのわけ)、登袁別(とをのわけ)、麻佐首(あさのおびと)、宮首別(みやぢのわけ)等が祖。足鏡別王は鎌倉別、小津の石代別(をつのいわしろのわけ)、漁田別(いざりたのわけ)が祖なり。
次に息長田別王の子、杙俣長日子王(くひまたながひこのみこ)。此の王の子、��鄂森�翡�(いいのまぐろひめ)次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)次に弟比売(おとひめ)の三柱。  
(かれ)(かみ)に云へる若建王、��鄂森�翡笋釦犬劼得犬瓩觧�
?売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこ)。此の王、淡海の柴野入杵(しばのいりき)が女、柴野比売(しばのひめ)に娶ひて生める子、迦具漏比売(かぐろひめ)。故大帯日子天皇(おほたらしひこのめらみこと/12景行天皇)、此の迦具漏比売娶ひて生みませる子、大江王(おほえのみこ)一柱。此の王、庶妹銀王(ままいもしろかねのみこ)に娶(あ)ひて生まれる子が大名方王(おほながたのみこ)、大中比売命(おほなかつひめのみこと)の二柱。故(かれ)この大中比売は香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)の御祖(みおや)なり。
12景行天皇が迦具漏比売命に娶(あ)ひて子を設けたとありますが、迦具漏比売命は景行天皇の玄孫(やし)に当たる人であり、凡そ現実離れのした矛盾記事です。  此の景行期に倭建命を祖とする息長氏が誕生しますが、倭建命の御子六柱の中で息長田別王の記述が簡略で、此の王と其の子杙俣長日子王の婚姻者不明と云うのも不自然であり、しかも杙俣長日子王には��鄂森�翡筺β�洪深稈翦翡筺δ鑒翡�(百師木伊呂弁モモシキイロベ)三柱の女がいますが母は不詳です。
一妻とは名不祥だが生まれた子が何故息長姓になるのか。そして息長田別王も婚姻者不詳で杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)が生まれ、ここでは息長姓の父と名不祥の婚姻者との間に生まれた子が杙俣姓で、この王もやはり婚姻者不詳で息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)を生んでいますが、三代にも渡り婚姻者の名も記さず、息長田別王以下五名の息長系譜に連なる人物が記載されますが息長姓を持つ人は2名のみです。杙俣長日子王の娘、息長真若中比売が15代応神天皇の妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)へと繋がり息長系譜の本流となるのですが応神朝に到る迄の息長系譜については謎と矛盾が多く合理的な説明が出来ません。
迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)はヤマトタケルの玄孫(やしゃご)にあたり景行天皇との婚姻などあり得ない。

「書紀」は大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)は、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉州媛命(ひばすひめのみこと)と曰(まう)す。
丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の女(むすめ)なり。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年二十一。
この立太子年令、天皇崩御年令百六歳と矛盾します
二年の春三月三日に、播磨稲日大郎姫(は
りまのいなびのおおいらつめ)を立てて皇后とす。皇后二柱の男(ひこみこ)を生まれます。第一をば大碓命(おほうすのみこと)、第二をば小碓命(をうすのみこと)と曰(まう)す。一書に云はく皇后三柱の男(ひこみこ)を生まれます。其の第三を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と曰(まう)す。其の大碓皇子・小碓尊は一日に同じ胞(え)にして、双(ふたご)に生まれませり。天皇異(あやし)びたまひて、則ち碓(うす)に誥(たけ)びたまひき。因りて、其の二柱の王を号(なづ)けて、大碓・小碓とのたまふ。是の小碓尊(をうすのみこと)は、亦の名は日本童男(やまとをぐな)また日本武尊(やまとたけるのみこと)と曰(もう)(わか)くして雄略(をを)しき気有(いきま)します。壮(をとこさかり)に及(いた)りて容貌魁偉(みかほすぐれたたは)し。身長一丈(みたけひとつえ)、力能(みちからよ)く鼎(かなへ)を扛(あ)げたまふ。
四年春二月、天皇、八坂入媛(やさかのいりひめ)を喚(め)して妃(みめ)として七男六女を生めり。第一を稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)、次が五百城入彦皇子(いほきいりひこのみこ)以下略
この天皇の男(ひこみこ)、女(ひめみこ)、併(あわ)せて八十柱の子(みこ)まします。日本武尊、稚足彦天皇、五百城入彦皇子を除き残り七十余の御子は皆国郡(みなくにぐに)に封(ことよ)させて各(おのおの)其の国に如(ゆ)かしむ。
十二年秋七月条、熊襲反(くまそそむき)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず。天皇、親征の為、筑紫に幸(いでま)す。
十九年秋九月二十日条、天皇、日向より帰りたまふ。
二十七年秋八月条、熊襲亦反(そむ)きて辺境を侵すこと止まず。日本武尊を遣わして、熊襲を撃たしむ。時に年十六。
二十八年春二月条、日本武尊、天皇に熊襲を平(む)けたる状(かたち)を奏上。
四十年夏六月条、東の蝦夷(えみし)叛きて、辺境騒ぎ動(とよ)む。屡々人民(しばしばおほみたから)を略(かす)む四十年冬十月条、日本武尊蝦夷討伐発路(えみしとうばつにみちだち)したまふ。途中、伊勢神宮を参拝。倭姫命(やまとひめのみこと)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を日本武尊に授けてたまふ。
日本武尊、蝦夷の叛乱を平らげ帰途、近江の胆吹山(いぶきやま)の荒ぶる神を鎮める為、胆吹山に向かうも日本武尊、病に倒れ伊勢の能褒野(のぼの)で崩(かむさり)りましぬ。時に年三十。 
天皇、日本武尊の崩(かむさり)りましぬ事、聞(きこ)しめて寝(みねますこと)席安(みまとやす)からむや。食味甘(みものたてまつらむことあぢはひあま)からず。昼夜喉咽(ひるよるむせ)びて、泣き悲しびたまひて標?(みむねう)
ちてまふ。我が子小碓王、昔熊襲の叛きし……伊勢国の能褒野(のぼの)陵に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化(な)りてまひて、陵より出て倭国を指して飛びたまふ。則ち倭の琴弾原(ことひきのはらに)に停(とどま)れり。仍(よ)りて其の処に陵を造る。白鳥、更に飛びて河内に至りて、古市邑に留まる。亦其の処に陵を造る。時の人、是の三つの陵を号(なづ)けて、白鳥陵(しらとりのみささぎ)と云ふ。是歳、天皇践祚(すめらみことあまつひつぎしろしめしての)四十三年なり。
五十二年夏五月四日条、皇后播磨稲日大郎姫薨(かむさ)りましぬ。
同年秋七月七日条、八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)を立てて皇后とする。
五十八年春二月十一日条、天皇、近江国に幸(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三年。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。
六十年冬十一月七日条、天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年百六歳。  御陵の記述なし。
日本武尊の没年不明四十年冬十月出征とあるので死去は四十三年が正しいか?
景行二十七年冬十月条に日本武尊の年十六とあるので四十三年には三十二歳。
垂仁三十七年(西暦8)春正月条 大足彦尊(景行)を立てて、皇太子としたまふ。
景行元年(西暦71)秋七月十一日条 太子、即天皇位(ひつぎのみこ、あまつひつぎしろしめす)因りて元(はじめ)を改(あらた)む。是年(ことし)、太歳辛未(かのとひつじ)。  ※改元
景行天皇年令の矛盾。景行天皇崩御を「書紀」記載の景行60年(西暦130)で年106歳とすると、即位時の年令は四十七歳となり、立太子の垂仁三十七年には未だ生まれていない。また垂仁三十七年の立太子時の年令二十一では即位時八十四歳、崩御は百四十三歳になります。
13代 成務天皇期(131~190) 弥生時代
佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)伝成務天皇陵
古事記 13 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと) 皇后 弟財郎女(おとたからのいらつめ)
日本書紀 13 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと) 記載なし
「記」若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)、近淡海(ちかつあふみ)の志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に坐(いま)して、天の下治らしめしき。此の天皇、穂積臣(ほつみのおみ)等が祖(おや)、建忍山垂根(たけおしやまたりね)が女(むすめ)、名は弟財郎女(おとたからのいらつめ)に娶(あ)ひて生みませる御子、和訶奴気王(わかぬけのみこ)一柱。故(かれ)建内宿禰(たけのうちすくね)を大臣(おほおみ)として大国・小国の国造(くにのみやつこ)を定め賜ひ、また国々の堺と大県(おほあがた)・小県(をあがた)の県主(あがたぬし)を定め賜ふ。
天皇、御年、玖拾伍歳(九拾五歳)。乙卯(きのとう)の年三月十五日に崩(かむあが)りましぬ。御陵は、沙紀の多他那美(さきのたたなみ)に在(あ)り。
「記」が天皇の崩年干支を記しているのは10代崇�濺傾弔紡海い藤歌稾椶任后�
「記」は成務天皇の崩年干支を乙卯(きのとう)と記し、学会ではこれを西暦355年とする説が通説となっています。
以上が「記」の成務期の全文です。和訶奴気王(わかぬけのみこ)に関する記述は皆無です。また異母兄弟の倭建命の子、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)を太子(ひつぎのみこ)にした記述も無い。
「書紀」稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)は、大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと/12景行天皇)の第四子なり。母の后をば八坂入姫命(やさかのいりひめのみこと)と曰(まう)す。八坂入彦皇子(やさかのいりひこのみこ)の女(むすめ)なり。
大足彦天皇(景行天皇)の四十六年(西暦116)に、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。年二十四。
※成務六十年六月の条に崩御時の年百七歳と記されているので逆算すると立太子時の年令は三十三歳となる。
三年春正月条、武内宿禰(たけのうちすくね)を以(も)て、大臣(おほおみ)としたまふ。初め、天皇と武内宿禰と
同じ日に生まれませり。故(かれ)(こと)に寵(めぐ)みたまふこと有り。
四年春二月条、「-一部略-今朕嗣(いまわれつ)ぎて宝祚(あまつひつぎ)を践(し)れり。夙(つと)に夜に兢(わなな)き��(おそ)る。然るに黎元(おほみたから)、蠢爾(むくめくむしのごとく)にして、野(あら)き心を悛(あらた)めず。是国郡(これくにこおり)に君長無(ひとごのかみな)く、県邑(あがたむら)に首渠無(おびとな)ければなり。今より以後、国郡に長(をさ)を立(お)き、県邑に首(かみ)を置(た)てむ。即ち当国(あたれるくに)の幹了(をさをさ)しき者を取りて其の国郡の首長(ひとごのかみ)に任(ま)けよ。是、中区(うちつくに)の蕃屏(かくし)とならむ。」とのたまふ。
※蠢爾(むくめくむしのごとく) の動くさま。   幹了(をさをさ) ヲサトシテ事にあたるに相応しい者。
五年秋九月条、諸国に令(のりごと)して、国郡(くにこおり)に造長(みやつこおさ)を立て、県邑(あがたむら)
に稲置(いなき)を置(た)つ。並(ならび)に盾矛(たてほこ)を賜ひて表(しるし)とす。則(すなは)ち山河を隔(さか)ひて国県(くにあがた)を分(わか)ち、阡陌(たたさのみち よこさのみち)に隋(したが)ひて、邑里(むら)を定む。
因りて東西を日縦(ひのたたし)とし、南北を日横(ひのよこ)とす。山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰(い)ふ。
山の陰(きた)を背面(そとも)と曰(い)ふ。是を以て、百姓安(おほみたからやす)く居(す)みき。天下事無(あめのしたことな)し。  ※この時期に、この様な行政区画の設定があったとは信じ難いです。 
成務期はこの後四十八年春三月条、甥足仲彦尊(みをひ、たらしなかつひこのみこと)を立てて皇太子としたまふ。
六十年(西暦190)夏六月十一日に天皇崩(かむがり)りましぬ。時に年百七歳。※御陵についての記述無し。
成務天皇の在位と実在性には疑問が持たれています。「書紀」では在位60年となったてますが、これだと日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後35年後に産まれたことになってしまいます。さらに成務天皇の事績は即位6年から先は48年に31歳の仲哀天皇を皇太子に任命した記事しか無いが、これは日本武尊の死が成務天皇即位より20年前にあたるため、仲哀天皇の年齢に矛盾が生じます。亦、「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇の和風諡号ですが7世紀前半の34代舒明・35代皇極・37代斉明天皇も同じ称号を持つことから、「タラシヒコ」の称号は7世紀前半のものであって、景行・成務・仲哀天皇の和風諡号は後世の造作という説が有力です。成務天皇の名である「ワカタラシヒコ」(稚足彦、若帯日子)は、これと全く同じ別名を持つ皇族男子が「記紀」のいずれにも、何人か存在しているため、実名を元にしたものではなく、固有名詞とは考えにくく。このため、成務天皇の実在性には疑問があるという説もあります。
※阡陌(たたさのみち よこさのみち) 阡は南北、陌は東西の道。
「記」では成務天皇と弟財郎女(おとたからのいらつめ)の間に和詞奴気王(わかぬけのみこが)一柱が生まれているが「書紀」では天皇に后妃は存在せず。天皇は生涯独身で過ごされた事になる。
景行四十六年の成務立太子の時に二十四歳と記されているので、これが正しければ崩御は九十八歳になります。
考古学者の中には在位年数や年令等が景行天皇に類似しており実在性に疑問を呈する方もおられるようです。
※ 佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)の実際の被葬者は不明ですが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されています。
「書紀」によると成務天皇陵と神功皇后(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)の狭城盾列御陵と間違えられた時期があり、843年(承和10年)、改めて北を神功皇后陵、南を成務天皇陵と決められたことが記録されています。
成務期の息長氏
息長氏四代目の宿禰王は天之日矛6代目の孫、葛城高額比売と婚姻して生まれたのが息長帯比売(おきながたらしひめ)次に虚空津比売(そらつひめ)、次に息長日子王(おきながひこのみこ)の三人の御子です。息長帯比売は14代仲哀天皇の皇后に虚空津比売の以後の記述は無く、その消息は一部に伝承が有るのみです。息長日子王は吉備品遅君(きびのほむちのきみ)、針間阿宗君之祖(はりまあそうのきみがそ)と記されます。
上写真は兵庫県竜野市誉田町に鎮座する阿宗神社で息長宿禰王の子、息長日子王(針間阿宗の君)を祀る。参道は車の通行が多いのか鳥居には防護柵が、拝殿の飾り瓦がひときわ目をひきました。神社の主祭神は神功皇后、配祀神 応神天皇、玉依姫命、息長日子王(阿宗親王)となっています。本来なら針間阿宗の君である息長日子王が主祭神であり、姉の神功皇后が配祀神であるべきなのに主祭神が入れ替わっているのでは。  神社由緒は欽明天皇32年に、宇佐八幡宮より勧請されて立岡山に鎮座した式内社が、鎌倉期に広山の現在地へ遷座。江戸期には弘山八幡宮と称した。立岡山の旧地には小宮がその後も存在していたが、旧阿宗神社は天文10年(1541)・元亀3年(1572)と二度の火災で寂れ、其後久しく再興を見るに至らなかったが、天正2年(1574)漸く再建し寛政5年(1793)本殿の屋根替を行ひ龍野城主生駒侯御供田三反を奉納。天保3年(1832)龍野藩主脇坂淡路守、雨請祈願をなし、明治7年(1874)郷社に列し同14年(1881)6月縣社に昇格する。明治中期に現阿宗神社に遷され、広山の八幡宮は阿宗神社へ改称する。明治初年まで、天台宗の斑鳩寺の別当持ちの神社で、神職は不在であった。阿宗神社の配神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)とは固有名詞では無く神霊の憑(よ)りつく巫女(みこ)の名で神功皇后と玉依毘売命を同一人物とする説もありますが年代矛盾があります。
※玉依毘売命 「日本神話」の綿津見大神(わたつみのおおかみ/海神)の子で、豊玉姫の妹。天孫降臨の段および??草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の記述に登場。豊玉姫が火遠理命(ほおりのみこと)との間にもうけた子である??草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妻となり五瀬命(いつせのみこと)、稲飯命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)四柱の御子を生み、末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼?古命(かむやまといはれびこ)即ち後の神武天皇です。



14代仲哀天皇期(192~200)弥生時代
岡ミサンザイ古墳 伝仲哀天皇陵
古事記 14 帯中日天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) 皇后 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
日本書紀 14 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) 皇后 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
「記」仲哀期の記述
此の天皇、「書紀」では角鹿の笥飯宮(つぬがのけひのみや)・紀伊の徳勒宮(ところつのみや)・穴戸豊浦宮(あなとのとゆらのみや)・灘県の橿日宮(なだのあがたのかしひのみや)と行宮を移り将に放浪の天皇といったところで「記紀」には事績の記載はあものの、その史実性は疑問視されている天皇です。下記に「記」の仲哀天皇の記述の訳文を全文記載しました。

[応神天皇の聖誕]



 「書紀」の仲哀天皇の記述
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子なり。母の皇后をば両道入姫命(ふたぢのいりひめのみこと)と曰(まう)す。活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと/11垂仁天皇)の女(ひめみこ)なり。天皇、容姿端正(みかほきらぎら)し。身長十尺。稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/13成務天皇)の四十八年に、立ちて太子(ひつぎのみこ)と為りたまふ。時に年三十一。
稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと/成務)、男無(ひこみこましまさず)。故(かれ)、立ちて嗣(つぎ)としたまふ。
元年春正月、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)即位。 宮の名記述なし。
二年春正月、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を立てて皇后とす。是より先に叔父彦人大兄(おとをぢひこひとのおほえ)が女(むすめ)、大中姫(おほなかひめ)を娶(めと)りて妃(みめ)としたまふ。?坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生む。次に来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主(おやおほさかぬし)が女、弟媛(おとひめ)を娶りて誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。
※品夜和気命(ほむやわけのみこと) 「書紀」には来熊田造(くくまだのみやつこ)の祖、大酒主(おほさかぬし)の女、弟比売を娶り誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。と記されており「記」の記述とは違う。「記」は息長帯比売が品夜和気命と大鞆和気命(亦の名)は品陀和気命の二柱を生んだと記す。
二年二月、天皇、角鹿(つぬが/福井県敦賀)に幸(いでま)す。行宮を興(た)てて居(ま)します。是を笥飯宮(けひのみや)と謂(まう)す。 即月(そのつき)、淡路屯倉(あはぢのみやけ)を定む。
同年三月、天皇、南の国を巡行、紀伊国に到りて徳勤津宮(ところつのみや)に坐(いま)す時に熊襲叛き朝貢奉らず天皇、是に熊曽国を討たむとす。則ち徳勤津より発(た)ちて、浮海(みふね)よりして穴門(あなと)に幸(いでま)す。即日に使を角鹿に遣わしたまひて、皇后に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「便(すなわ)ち其の津より発(た)ちたまひて、穴門に逢(あ)ひたまへ」とのたまふ。
夏六月、天皇、豊浦津に泊まる。皇后、角鹿を発ち、田門(ぬたのみなと)で皇后の船に集まった鯛(たい)に酒を注ぎ酔って浮き上がった処を現地の海人(あま)に獲らせて感謝される。亦、豊浦津(とゆらのつ)では皇后が如意珠(にょいのたま/是を持てば如何なる願いも叶う)海中より得られる伝説が記される。
秋九月、宮を穴門(あなと)に建てる。是を穴門豊浦宮という。
四年春正月、筑紫に幸す。岡県主(おかのあがたぬし)の祖熊鰐(くまわに)三種の神器を舳先に立て、周防の沙麼
(すはのさばのうら)に出迎え、魚塩(なしお)の地を献上する。また、筑紫の伊都県主(つくしのいとのあがたぬし)らの祖、五十迹手(いとで)が三種の神器を舳先に立て、穴門の引島に出迎え、三種の神器を献上する。天皇
五十迹手を褒めて「伊蘇志」という。其の後、灘県(なのあがた)に到り、橿日宮(かしひのみや)に居します。
筑前国風土記によると、天皇は五十迹手に「阿誰人(たれひと)ぞ」と問ひたまへば、五十迹手答えて「高麗(こま)の国の意呂山(おろやま)に、天より降り来し日矛(アメノヒホコ)の苗裔(すえ)五十迹手是なり。」と答えると天皇、ここに五十迹手を褒めて「五十迹手、恪(いと)しきかも伊蘇志(いそし)と謂(い)ふ。五十迹手が本土(もとつくに)は恪勤(いそ)の国と謂ふべし」と云われ、今、恪土(いと)の郡(こおり)と云うは訛(よこかま)れるなり。と記されており五十迹手は天之日矛の末裔であり、亦


の乙亥(きのとい)の朔(ついたち)己卯(つちのとう/五日)に、群臣(まへつきみたち)に詔(みことのり)して、熊襲を討たむことを議(はか)らしめたまふ。時に神有(ま)して、皇后に託(かか)りて誨(をし)へまつりて曰(のたま)はく、「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂(うれ)へたまふ。」是、膂宍(そしし)の空国(むなくに)ぞ。豈(あに)、兵(いくさ)を挙げて伐つに足らむや。この国に愈(まさ)りて宝有る国、譬(たと)へば処女(をとめ)のまよびきの如くにして、津に向へる国有り。此をば麻用弭枳(まよびき)と云う。眼炎(まかかや)く金(こがね)・銀(しろがね)・彩色(うるわしきいろ)、多(さは)に其の国に有り。是を??衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)と謂ふ。若し能(よ)く吾を祭りたまはば、曾(かつ)て刃(やいば)に血らずして、其の国必ず自(おの)づから服(まつろいしたが)ひなむ。復(また)熊襲も為服(まつら)ひなむ。其の祭りたまはむには、天皇の御船、及び穴戸直践立(あなとのあたひほむたち)の献(たてまつ)れる水田(こなた)名付けて大田といふ、是等の物を以て幣(まひな)ひたまへ」とのたまふ。天皇、神の言(みこと)を聞(きこ)しめして、疑の情有(みこころま)します。便(すなは)ち高き岳(をか)に登りて、遥に大海を望るに、曠遠(ひろ)くして国も見えず。是に天皇、神に対(こた)へまつりて曰(のたま)はく「朕(われ)周望(みめぐら)すに、海のみ有りて国無し。豈(あに)大虚(おほぞら)に国有らめや。誰(なに)ぞの神ぞ徒(いたづら)に朕を誘(あざむ)くや。復(また)、我が皇祖諸天皇等(みおやすめらみことたち)(ことごとくに)に神祇(あまつかみくにつかみ)を祭りたまふ。豈(あに)、遺(のこ)れる神有(ま)さむや」とのたまふ。
時に、神、亦皇后に託(かか)りて曰(のたま)はく、「天津水影(あまつみずかげ)の如く、押し伏せて」我が見る国を、何ぞ国無しと謂(のたま)ひて、我が言を誹謗(そし)りたまふ。其れ汝王(いましみこと)、如此言(かくのたま)ひて、遂に信(う)けたまはずは、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎(はら)みませり。其の子獲(みこえ)たまふこと有らむ」とのたまふ。然るに、天皇、猶(なほ)し信(う)けたまはずして、強(あながちに)
熊襲を撃ちたまふ。得勝(えか)ちたまはずして還(かえ)ります。
九年(西暦200)の春二月の癸卯(みづのとう)の朔丁未(ついたちひのとひつじ/五日)に、天皇、忽(たちま)ちに痛身(なや)みたまふこと有りて明日(くるつひ)に、崩(かむが)りましぬ。時に年五十二。即ち知りぬ、神の言(みこと)を用(もち)いたまはずして、早く崩りましぬることを。
一に云はく天皇、親(みづか)ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩(かむが)りましぬと云ふ。
「書紀」では上記ではどの神の神託か分からず、次の卷第九の神功摂政の仲哀九年三月条で神託した神の名が明らかになる。亦、「書紀」は神功皇后の新羅親征は卷第九の神功皇后前紀に、その詳細記述を記しています。 
「記紀」仲哀天皇崩御記事と御陵
「記」 帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、御年伍拾弐歳。壬戌(みずのえいぬ)の年六月十一日崩(かむあが)りましぬ。御陵は河内の恵賀(えが)の長江(ながえ)に在り。
  此の壬戌(みずのえいぬ)の年について考古学界では西暦362年とする説が有力です。
「書紀」 九年の春三月の癸卯(みづのとう)の朔日丁未(ついたちひのとひつじのひ/五日)に天皇、忽(たちまち)に痛身
(なや)みたまふこと有りて、明日(くるつひ)に崩(かむあが)りましぬ。時に年五十二。 即ち知りぬ、神の言(みこと)を用いたまはずして、早く崩りましぬ。一に曰く天皇、親(みづか)ら熊襲を伐ちたまひて、賊の矢に中(あた)りて崩りましぬと云う。是年、新羅の役に由りて、天皇を葬(はふ)りまつること得ず。
神功摂政二年の冬十一月の丁亥(ひのとい)の朔甲午(ついたちきのえうま/八日)に天皇を河内国の長野陵に葬りまつる。
上写真 左 岡ミサンザイ古墳(伝仲哀天皇陵)  中 島泉丸山古墳(伝雄略天皇陵)  右 河内大塚山古墳(陵墓参考地)は前方後円墳で墳丘長335m高さ20mの大王級規模の巨大古墳で築造は6世紀後半と推定されています。規模的には全国で五番目の巨大古墳ですが被葬者の伝承も無く、百舌鳥古墳群と古市古本郡の中間に所在し両古墳群にも属しない為、世界遺産からも漏れています。亦、此の古墳が陵墓参考地に指定されたのは

仲哀天皇出生の謎
14仲哀天皇についても実在説・架空説があり、「記紀」の記述についても相違点があり、 13成務天皇同様実在の可能性に疑義のある天皇です。その最大の疑惑は出生にあります。 「記」は垂仁天皇の皇女、布多遅能伊理?(ふたぢのいりびめ)に娶(あ)ひて生まれませる御子、帯中津日子命(仲哀天皇)一柱。としますが「書紀」は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/14仲哀天皇)は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子なり。母の皇后をば両道入姫命(ふたぢのいりひめのみこと)とまうす。と記され、この姫の母は山背国の大国不遅(おおくにのふち)の娘、綺戸辺(かにはたとべ)。甥の日本武尊と異世代婚して仲哀天皇を生み、仲哀天皇の即位後に皇太后になったとされ、「書紀」仲哀天皇元年(192)9月丙戌(ひのえいぬ)の日に「母の皇后を尊びて皇太后と曰(まう)す」と記されいいますが、父である日本武尊は皇位に就いたことがないため、両道入姫が皇后と云うのは矛盾しています。「書紀」は日本武尊の死去について景行天皇40年(110)冬10月条に蝦夷(えみし)討伐のため出立し上総国(かずさくに)陸奥国から信濃国・越国(こしのくに/北陸)を経て尾張の宮簀媛(みやずひめ)の許へ還り「近江の胆吹山(いぶきやま)の荒ぶる神を鎮める為、胆吹山に向かうも日本武尊、病に倒れ伊勢の能褒野(のぼの)で崩(かむさり)りましぬ。時に年三十」是年(このとし)、天皇践祚(すめらみことあまつひつぎしろしめして)の43年なり。と記されており景行43年(113)が日本武尊の崩年であることが分かります。亦、景行26年(96)10月条に「日本武尊を遣わし、熊襲を撃たしむ。時に年十六。」とあるので景行43年には32歳になります。
日本武尊の第二子である14代仲哀天皇の崩御は仲哀9年(200)で年52歳で「記紀」ともに一致しています故、崩年令から逆算すると出生は西暦148年、則ち成務18年となり、父の死後35年目に生まれたことになると云う矛盾が生じます。「記」には帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/仲哀天皇)、御年伍拾弐歳。壬戌(みづのえいぬ)の年6月11日崩りましぬ。とあり、この壬戌年は西暦362年と推定する説が有力なのですが「記」の崩年干支にも諸説が有り、「記」の編纂時に記入説・後年の完成時に挿入説等があり将(まさ)に謎です。「記紀」の編纂者は何故一読して矛盾記述と判る記述をそのまま記載したのでしょうか
 下表は息長系譜関連の9開化~15応神天皇までの「書紀」天皇の崩年と「記」天皇崩年干支の対照です。
天皇 「書紀」の天皇崩年記述 「書紀」
在位年数
「記」
崩年干支
「記紀」
年代差
9 開化天皇 開化60年(前98年)癸未 60  ワカヤマトネコヒコオホビビ
10 崇�濺傾� 崇��68年(前30年)辛卯 68 戊寅(つちのえとら/318)  348年  ミマキイリヒコイニエ
11 垂仁天皇 垂仁99年(西暦70年)庚午 99  イクメイリビコイサチ
12 景行天皇 景行60年(西暦130年)庚午 60  オホタラシヒコオシロワケ
13 成務天皇 成務60年(西暦190年)庚午 60 乙卯(きのとう/355) 165年  ワカタラシヒコ
14 仲哀天皇 仲哀9年(西暦200年)庚辰 9 戊戌(つちのえいぬ/362) 162年  タラシナカツヒコ
摂政 神功皇后 摂政69年(西暦269年)己丑 69  オキナガタラシ
15 応神天皇 応神43年(西暦312年)壬申 41 甲午(きのえうま/394) 82年  ホムダワケ










「記」は9開化天皇~15応神天皇までの7代の天皇(神功皇后は除く)中、崇�漾��魁γ膂ァΡ�静傾弔吠��鎧戮魑Ⅵ椶靴討い泙垢�「書紀」の記す崩年との差が大きく相違します。亦、7代の天皇で実在するのは10崇�漾�11垂仁・15応神天皇だけで12景行・13成務・14仲哀天皇は「記紀」編纂時に紀年に合わすために創作編入されたと云う説があり、其の根拠として12景行から神功皇后までの「タラシ」は7世紀初めの34舒明(オキナガタラシヒヒロヌカ)35皇極天皇(アマトヨタカライカシヒタラシヒメ)の「タラシ」に共通しており、9開化天皇の「ヤマトネコ」・41持統天皇の「オホヤマトネコ」は43元明(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)44元正天皇(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)の「ヤマトネコ」など7世紀後半の天皇に共通しており、こうした弥生時代の天皇名は7世紀(飛鳥時代)に「記紀」に挿入されたと云うのが根拠だとする説です。10崇�漾�11垂仁天皇の「イリヒコ」の名は後世に無く、皇子女にも「イリヒコ・イリヒメ」の名が多いのが実在説の根拠になっている様です。しかしいずれにしても疑問のあるところです。
「書紀」開化~応神まで8代の在位年数の合計が466年になり、仲哀の在位9年と成務から仲哀の間に空位一年があり是を除いて7代の在位期間は456年になり、一代平均65.1年になり弥生時代の人の寿命としては異常に長く信じ難い長命です。「記」は10崇�澆諒��鯤蠧�(つちのえとら)年と記し、これは西暦318年と推定する説が有力であり、11垂仁・12景行には崩年記録は無く13成務・14仲哀・15応神には崩年が干支で記されます。崩年干支の記されない天皇も実在したと仮定すると11垂仁~15応神までの6代までの年数は76年になり一代当たりの平均在位は12.7年となります。9開化は欠史8代に入る天皇であり、10崇�漾�11垂仁は実在、12景行は実在・架空の両論があり、次の「タラシ」系3代は架空挿入された説が有力であり、15応神も実在・架空の両論があり、いずれの説にも確証がなく、古代史の謎です。






一妻(あるみめ/名不祥)の子、息長田別王。おほよそ此の倭建命の御子達、并(あは)せて六柱。帯中津日子命は、天の下治(14仲哀天皇)らしめしき。稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)建部君(けべのきみ)等が祖。建貝児王は讃岐の綾君(あやのきみ)伊勢別(いせのわけ)登袁別(とをのわけ)麻佐首(まさのおびと)宮首別(みやぢのわけ)等が祖。足鏡別王は鎌倉別(かまくらのわけ)小津の石代別(をつのいわしろのわけ)漁田別(いざりたのわけ)が祖なり。
息長田別王の子、杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)此の王の子、��鄂森�翡簗�(いいのまぐろひめのみこと)次に息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)次に弟比売(おとひめ)三柱。若建王が��鄂森�翡笋釦�(めと)ひて生める子、?売伊呂大中日子王(すめいろおほなかひこのみこ)。此の王、淡海の柴野入杵(しばのいりき)が女、柴野比売(しばのひめ)(めと)ひて生める子、迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)。故(かれ)大帯日子天皇(おほたらしひこのすめらみこと/12景行天皇)此の迦具漏比売命に娶(めと)ひて生みませる子、大江王(おほえのみこ)
此の王、庶妹銀王(ままいもしろがねのみこ)に娶(めと)ひて生める子、大名方王(おほながたのみこ)次に大中比売命(おほなかつひめのみこと)の二柱。此の大中比売命は、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)の御祖(みおや)なり。

「書紀」も足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子なり。母の皇后をば両道入姫命(ふたぢのいりひめのみこと)と曰(まう)す。
と記し「記紀」の記述も一致しています。

此処ではオキナガタラシヒメの独断場です。角鹿から穴門へ向かう六月十日、渟田門(ぬたのみなと)では鯛が多く皇后の船の側に集まり、皇后が酒を注ぐと鯛が海面に浮かび漁民が、その鯛と取り「聖王(ひじりのきみ)が所賞(たま)ふ魚なり」といふ。以後六月になると此の処の鯛が酔って浮かび漁民を潤すと云う。亦七月五日豊浦津に皇后が泊まられ、皇后は、この日には海中より如意の珠を得られた。この珠を持つと全ての願いが叶うと云う。一説によると如意の珠は海の潮の干満を自由に操る事が出来ると云う。

豊浦宮山口県下関市長府豊浦町。   筑紫訶志比宮(つくしのかしひのみや)福岡市香椎
天皇崩御と神託皇后息長帯比売は神を依り憑かせる霊能者である。  沙庭神託を受ける祭の場。 神託を疑った天皇は神の怒りに触れ、此の国は汝が治めるる国ではない、汝はただ一つの道に向かい給えと崩御の預言をし、天皇は預言通り崩御する。  殯の宮(もがりのみや)遺体を安置し復活の儀礼をする場所。 国の大祓え国中の穢れ罪のすべてを祓い清める。  底筒男・中筒男・上筒男この三神は墨江(住吉)大神。
測されます。仲哀天皇の諡号は「記紀」共に「タラシヒコナカツヒコのスメラミコト」でこのタラシヒコタラシヒメと云う和風諡号は七世紀の34舒明・35皇極天皇に贈られた諡号で

は後世の七世紀に付けられた可能性があるとの説があります。
息長帯比売命 (気長足姫尊・神功皇后)
(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后像と狭城盾列池上陵(五社神古墳) 伝神功皇后陵
古事記 息長帯比売命 (神功皇后) おきながたらしひめのみこと
日本書紀 気長足姫尊 (神功皇后) おきながたらしひめのみこと
神功皇后とは本名オキナガタラシヒメ、「記」では息長帯比売・「書紀」では気長足姫、と記されます。

日子坐王(ひこいますのみこ)4代の孫である息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と新羅王の子とされる天之日矛(アメノヒホコ)の末裔の葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)が婚姻して生まれたのが息長帯比売(おきながたらしひめ)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのみこ)の三柱の御子。
「記」では息長帯比売。「書紀」では気長足姫と記し「記紀」共読みは「おきながたらしひめ」です。14代仲哀天皇の后となり「神功皇后(じんぐうこうごう)」と呼ばれます。仲哀天皇の崩御後六十九年間に亘り摂政として事実上政務に関与しており、「書紀」では第九卷を此の皇后の記述で埋め天皇以上の扱いで事績を記しています。「記」では対照的に仲哀天皇の項に「神功皇后の新羅親征」として数行の記述で簡略な記載に留めています。





左図系譜は「記」の記述から作成したもので「書紀」には神功皇后の系譜はありません。「書紀」では神功皇后に付いて異例の特別扱いで卷第九を全て神功皇后の記述にあて天皇よりも上位の扱いで、卷末には「魏志倭人伝」の記述を引用して「卑弥呼」とは神功皇后の事だと思わしめる様な記述になっています。江戸期までは、神功皇后を天皇とみなして、第15代の天皇とした史書もあった様ですが、大正15年(1926)10月の皇統譜令施行以降、皇統譜上の歴代天皇の代数から除外されています。
「書紀」の卷第九の神功皇后記述を要所のみを下記に記してみます。
気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこのすめらみこと/開化天皇)の曾孫(ひひこ)、気長宿禰王(おきながすくねのみこ)の女(むすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)とまうす。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/仲哀天皇)の二年に、立ちて皇后になりたまふ。幼くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかほよ)し。父の王、異(あやし)びたまふ。 仲哀九年の春二月に、足仲彦天皇(仲哀天皇)筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教(みこと)に従わずして早く崩りたまひしことを傷(いた)みたまひて、以為(おもほ)さく、祟(たた)る所の神を知りて、財宝の国を求めむと欲(おもほ)す。是を以て、群臣(まえつみたち)及び百寮(つかさつかさ)に命(みことおほ)せて、罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて更に斎宮(いはひのみや)
小山田邑(をやまだむら)に造(つく)らしむ。
三月の壬申(みづのえさる)の朔日、皇后、吉日を選(えら)びて、斎宮に入りて親(みづか)ら神主となりたまふ。武内宿禰(たけのうちすくね)に命して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)
して、審神者(さにわ)にす。因りて千�鏐��(ちはやたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて、請(ねぎまうし)して曰さく「先の日に天皇に教えたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願はくば其の名(みな)をば知らむ」
とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、乃(すなわ)ち答えて曰(のた)はく「神風の伊勢国の百伝(ももづた)ふ度逢県(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に所居(ま)す神、名は撞賢木巌之御魂天疎向津媛命(つきさかきのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」と。亦問いまうさく「是の神を除(お)き復神有(またかみいま)すや」と。答へて曰(のたま)はく「幡萩穂(はたすすきほ)に出し吾や、尾田の吾田節(をだのあがたふし)の淡郡(あはのこおり)に所居(を)る神有り」と。問ひまうさく「亦有(またいま)すや」と答へて曰はく「天事代虚事代玉籤入彦巌之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいのことしろのかみ)有り」と。問ひまうさく「亦有(い)ますや」と。答へて曰はく「有ること無きこと知らず」と。是に審神者(さにわ)の曰さく「今答へたまはずして更後(またのち)に言(のたま)ふこと有(ま)しますや」と。則ち対(こた)へて曰はく「日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(い)て水葉も稚(わかやか)に出(い)で居る神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す」と。問ひまうさく、「亦有(またあり)すや」と。答へて曰はく「有ることとも無きこととも知らず」と。遂に且(また)神有(ま)すとも言(のたま)はず。時に神の語(こと)を得て、教(おしえ)の随(まにま)に祭る。然(しかう)して後に、吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲国を撃(う)たしむ。
※ 審神者(さにわ) 皇后の神託を請い聞き、意味を解く人。  千�鏐��(ちはやたかはた)織物のこと、幣帛を数多く織りうず高く積むこと。  琴頭尾(ことかみことしり) 琴の頭部と尾部  
拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)後の伊勢神宮  撞賢木巌之御魂天疎向津媛命(つきさかきのみたまあまさかるむかつひめのみこと)神聖で威力のある御魂。
   ?絹(かとりのきぬ)=固織りの絹
「書紀」卷九の前半は、お伽噺の様な神功皇后の新羅征討物語は「記紀」共通です。是に高麗(こま)・百済(くだら)、二(ふたつ)の国の王、新羅の国の、図籍(しるしへふみた)を収(とりをさ)めて日本国に降(まつ)りぬと聞きて、密(ひそか)に其の軍勢(みいくさのいきほひ)を伺(うかが)はしむ。則ちえ勝つまじきことを知りて、自ら営(いほり)の外に来て、叩頭(の)みて款(まう)して曰(もう)さく「今より以後は、永く西蕃(にしのとなり)と称(い)ひつつ、朝貢絶(みつぎたてまつることた)じ」とまうす。故(かれ)、因(よ)りて、内官家屯倉(うちつみやけ)を定む。是所謂三韓(これいはゆるみつのからくに)なり。皇后、新羅より還りたまふ。
十二月の戊戌(つちのえいぬ)の朔日辛亥(ついたちかのといのひ/十四日)に、誉田天皇(ほむのすめらみこと)を筑紫(つくし)に生まれたまふ。故、時人(ときのひと)、其の産処(みうみのところ)を号(なづ)けて宇瀰(うみ)と曰ふ。妊娠中の息長帯比売(神功皇后)は新羅親征の為出産を延ばすのに腰に石を巻いて出征する。帰還後筑紫の宇美(うみ)で御子を出産。また新羅親征中腰に巻いていた石は筑紫の伊斗村(いとむら)に在る。また末羅県(まつらのあがた)の玉嶋里(たましまのさと)に到ったのが四月上旬だったので御裳(いふく)の糸を抜き取り飯粒を餌に鮎を釣られた。福岡県糸島市に新羅親征中腰に巻いた石を納めたと云う鎮懐石八幡宮があります。万葉集にこの石を詠んだ歌と鮎釣をした歌があります。
万葉集巻五
813 かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(かみのみこと) 韓国(からくに)を 向(たむ)け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取(と)らして 斎(いは)ひたまひし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐかねと 海(わた)の底 沖つ深江の 海上(うなかみ)の 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かしたまひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さびいます 奇(く)し御魂 今のをつづに 貴(たふと)きろかむ 山上憶良
855 松浦川(まつらかは)川の川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹(いも)が 裳(も)の裾濡れぬ  大伴旅人
上写真 左から福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮 祭神息長帯比売(神功皇后)と神功皇后が新羅親征に際して出産を延ばすため腰に捲いた石と云われる石と鎮懐石碑。 穴戸の豊浦宮跡に建つ忌宮(いみのみや)神社。(伝仲哀天皇の喪を行った所)
住吉三神の出現
息長帯比売(神功皇后)の新羅征討説話は皇后への神罹(かみかか)りが発端であり、其の神とは住吉三神ですが、住吉三神と如何なる神なのか「記」によると伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は亡くなった妻の伊耶那美命(いざなみのみこと)に会いたいと、あの世の黄泉国(よみのくに)に行き、伊耶那美命の肉体のいたるところにウジ虫がたかり集まり、うごめく音に驚き、その恐ろしさに黄泉国から逃げ帰り伊耶那岐命は「自分は目にするのもイヤな汚らわしい穢(けが)れた国に行っていたことよ。この身ついた穢れを取り除くために身の祓(はら)えをしよう」と筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)のアハキ原に行って禊(みそ)ぎをされた。-(中略)-身に着けていた物をお棄てになったところで「上瀬(かみつせ)は是太(これはなは)だ疾(はや)し。下瀬(しもつせ)は是太(これはなは)だ弱(ぬる)し」とおっしゃつて、中瀬(なかつせ)に入り、水に身を沈めておすすぎになった時に出現した神の名は八十渦津日神(やそまがつひのかみ)。次に大渦津日神(おおまがつひのかみ)。この二神は、あの穢れだらけの国にお行きになった時の身の汚れによって出現した神である。次にその渦(わざわい)を直そうとして出現とした神の名は神直?(おおなおびのかみ)。次に伊豆能売(いずのめ)。逢わせて三神である。次に水の底でお滌(すす)ぎになった時に出現した神の名は底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)。次に底箇之男命(そこつつのおのみこと)。水の中ほどの深さでお滌(すす)ぎになった時に出現した神の名は中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)。次に中箇之男命(なかつつのおのみこと)。水面でお滌(すす)ぎになった時に出現した神の名は上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)。次に上箇之男命(うえつつのおのみこと)。住吉三神は綿津見三神と同時に誕生しています。此の六神が生まれ次に伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が左眼を洗った時に生まれたのが天照大神(あまてらすおほかみ)で次に右眼を洗ひたまひし時に生まれてのは月読尊(つきよみのみこと)、次に鼻を洗ひたまひし時に生まれてのは素戔嗚尊(すさのをのみこと)で凡て三柱の神です。伊耶那岐命、勅任(ことよさ)して曰(のたま)はく、「天照大神は、高天原を治(しら)すべし。月読尊は、滄海原(あをうなはら)の潮の八百重(やほへ)を治すべし。素戔嗚尊は、天下(あめのした)を治すべし」とのたまふ。以上に述べた神々は伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が御身をお滌(すす)ぎになったことによって出現された神です。綿津見三神と住吉三神は皇祖神の天照大神に先んじて生まれており天照大神の兄弟神になります。
綿津見三神は博多湾の志賀島の志賀海神社に祀られ、海人の安曇連(あずみのむらじ)氏らが祖先神としてお祀りしています。その安曇連(あずみのむらじ)氏らは、その綿津見神の子の宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫といわれます。また底箇之男命・中箇之命・上箇之命の三神は、住吉大社の三座の大神です。
博多住吉神社 博多志賀島海神社 祭神綿津見三神 宗像大社 辺津宮
亦「記紀」記述によると伊耶那岐命(いざなぎのみこと)は素戔嗚尊(すさのをのみこと)に海を治め るよう命じています。綿津見三神と住吉三神と宗像三女神も海神であり、これらの九神を祀る神社が全て福岡県に鎮座しているのは古代の倭国と朝鮮半島の人の往来


北部九州の渡来神



神功皇后(息長帯比売)懐妊と応神天皇聖誕の謎
「記」の応神天皇生誕記述『皇后、其の政(まつりごと)いまだ竟(を)へぬ間に、懐妊(はら)みませるが、産れますに臨(のぞ)む。御腹を鎮(しづ)めたまはむとして石を取りて、御裳(みも)の腰に纏(ま)かして筑紫国に渡りたまひ、其の御子はあれ(ま)しぬ。其の御子の生まれましし地(ところ)に号(なず)けて、宇美(うみ)と謂ふ。
また其の御裳(みも)に纏(ま)かしし石は、筑紫国の伊斗村に在り。……』 「書記」は仲哀天皇の崩御日を仲哀九年二月六日とし記し、御子の生誕を同年十二月十四日、誉田天皇を筑紫に生まれたまふ。と記し応神天皇は14代仲哀天皇と皇后息長帯比売の皇子になりますが、この出生については考古学者や歴史愛好家の間にも疑問視する方も多く疑問符のついたままです。
     下左は住吉大社の「神代記」の住吉神と皇后の密事記述とその訳文です。    
「書記」は天皇の崩御日を仲哀九年二月六日とし記し、御子の生誕を同年十二月十四日、誉田天皇、筑紫に生まれたまふ。と記しているので皇后は天皇の死去した日に懐妊し十月十日目に分娩したことになり世間の通説通り正確な出産がかえって疑惑を招き武内宿禰(たけのうちのすくね)と皇后の密接な関係を疑う説、また、住吉大社神代記には『是(ここ)に皇后、大神と密事(むつびごと)あり』密事とは(俗に夫婦の密事を通はす事)という記述もあります。住吉神は三神であり、どの神と密事があったのかこの記述では不明です。また沙庭の場には天皇・皇后・建内宿禰の三人のみなので、皇后と宿禰の密事を疑う説や其のほか息長帯比売・応神母子の渡来人説がありますが、いずれも立証史料がなく想定の域を出ません。「記紀」記述では応神天皇の出自に疑問が有ることは事実ですが応神実在説論者は、この疑問について明確な答えを示
すべきだと思います。また応神天皇の父である仲哀天皇についても実在が疑われる記述が「書紀」にあります
成務48年(西暦178年)条、春3月、甥足仲彦(みをひたらしなかつひこ)尊をたてて、皇太子としたまふ。
仲哀前紀の記述、48年(成務)に、立ちて太子となりたまふ。時に年31。とあり逆算すると足仲彦尊の生年は西暦147年となり、これは成務17年(西暦147年)で仲哀の父日本武尊の死が景行43年(西暦113年)なので仲哀は父の死後34年後に生まれると云う矛盾が生じます。

「書紀」の神功皇后期前半記述の、お伽噺の様な皇后の新羅征討の説話は「記紀」共通ですが、新羅王の降伏で「記」は新羅王の門に御杖を衝き立て墨江大神の荒御魂を以ち、国守る神として鎭祭したと記し、「書紀」は神功皇后、九年の冬十月三日、和珥津(わにのつ)より発(た)ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起こし、陽候(うみのかみ)は浪を挙げて、海の中の大魚、悉く浮かびて船(みふね)を扶(たす)く。則ち大きなる風順(おいかぜ)吹きて、帆船波(ほつむなみ)に隋(したが)ふ。楫櫨(かぢかい)を労(いたつ)かずして、便(すなは)ち新羅に到る。時に隋船潮浪(ふななみ)、遠く国の中に逮(みちおよ)ぶ。則ち知る、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の悉くに助けたまふか。新羅の王、是に、戦戦慓慓(おぢわなな)きて?身無所(せむすべなし)。則ち諸人(もろもろのひと)を集(つど)へて曰わく、「新羅の国を建てしより以来、未だ昔も海水の国に凌(のぼ)ることを聞かず。若(けだ)し天運尽きて、国、海とならむとするか」といふ。是の言未(こといま)だ訖(をは)らざる間に、船師海(ふないくさ)に満ちて、旌旗日(はたひ)に耀く。新羅の王、?(お)じて志失(こころざしまど)ひぬ。乃今醒(いましさ)めて曰わく「吾聞く、東に神国(かみのくに)有り。日本(やまと)と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)有り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。必ず其の国の神兵(みいくさ)ならむ。豈兵(あにいくさ)を挙げて距(ふせ)くべけむや」といひて、即ち素旆(しろきはた)あげて自ら服(まつろ)ひぬ。素組(しろきくみ)して自ら服(まつろ)ひぬ。素組(しろきくみ)して面縛(とらは)る。図籍(しるへふみた)を封(ゆひかた)めて、王船(みふね)の前に降す。
※素組(しろきくみ)して面縛(とらは)る=自ら両手を後に縛り、面を前に向け謝罪降伏の意思を示す事。  図籍(しるへふみた)=土地の図面・人民の戸籍簿。
因りて、叩頭(の)みて曰(まう)さく、「今より以後、長く乾坤(あめつち)に与(ひと)しく、伏(したが)ひて飼部(みまかい)と為(な)らむ。其れ船?(ふねかぢ)(ほ)さずして、春秋に馬梳(うまはたけ)及び馬鞭(うまむち)を献(たてまつ)らむ。とまうす。則ち重(かさ)ねて誓ひて曰(もう)さく、「東にいづる日の、更に西に出づる非(あら)ずは、また阿利那礼河(ありなれかわ)の返りて逆(さかしま)に流れ、河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)となるに及(いた)るを除(お)きて、殊に春秋の朝(いや)を闕(か)き、怠りて梳(くし)と鞭(むち)との貢(みつき)を廃(や)めば天地地祇(あまつかみくにつかみ)、共に討(つみな)へたまへ」とまうす。時に或(あるひと)の曰はく、「新羅の王を誅(ころ)さむ」といふ。是に皇后曰(のたま)わく「初め神の教(みこと)を承りて、将(まさ)に金銀の国を授けむとす。又三軍(みたむらのいくさ)に号令(のりごと)して曰(い)ひしく『自(みづから)ら服(こ)はむをば殺しそ』といひき。今既に財(たから)の国を獲(え)つ。亦人自(またひとおの)づから降(まつろ)ひぬ。殺すは不祥(さがな)し」とのたまひて、乃ち其の縛(ゆはひつな)を解(と)きて飼部(みまかい)としたまふ。遂に其の国の中に入りまして、重宝(たから)の府庫(くら)を封(ゆひかた)め、図籍文書(しるしのふみ)を収(とりをさ)む。即ち皇后の所杖(つ)ける矛(みほこ)を以て、新羅の王の門に樹(た)て、後葉(のちのよ)の印(しるし)としたまふ。故(かれ)其の矛(みほこ)、今猶(いまなお)新羅の王の門に樹(た)てり。ここに新羅の王、波沙寐錦(はさむきむ)即ち微叱巳知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を以て質(むかはり)として金銀・彩色(うるはしきいろ)及び綾(あやきぬ)(うすはた)・?絹(かとりのきぬ)を齎(もたら)して、八十艘(やそかはら)の調(みつぎ)を以て日本国に貢(たてまつ)る。  ※ 馬梳(うまはたけ)=馬の毛を洗うはけ。  飼部(みまかい)=降伏の印として卑賤の役を負うという意味。
(むかはり)=入質は朝鮮側記録に因ると奈勿王36年(390)・18実聖王元年(403)の時なので書紀の紀年による神功皇后の

200年代とは異なります。   ?絹(かとりのきぬ)=固織りの絹
上写真 伝神功皇后の稚桜宮跡に建つ稚桜神社 左から入口の鳥居・神社本殿・神社裏から三輪方面を望む。
神功摂政十年春二月に、穴戸豊浦宮(あなとのとゆらのみや)で仲哀天皇の喪(みもがり)を収めて、皇子を連れて海路で難波に向かいますが腹違いの兄、香坂王と忍熊王が明石海峡で皇后と皇子の難波入りを妨害しますが、策を用いてこれを討ち、無事難波に入り皇子の誉田別(ほむたわけ)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)としたまふ。
皇后は大和の磐余(いはれ)に若桜宮(わかさくらのみや)を造り摂政として六十九年間、誉田和気命(ほむだわけのみこと/応神天皇)の後見を務めたと云う。「書紀」の記述によると皇太后の摂政期間が六十九年間ならば応神天皇は六十九歳で即位したことになり、この様な長期間の摂政治世は極めて不自然です。
神功摂政十三年春二月八日、皇太后、武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて誉田和気命を角鹿(つぬが/敦賀)の笥飯(けひ)大神を参拝。太子、角鹿より帰りますと皇太后、觴(みさかづき)を挙げて太子を寿(さかほかい)して祝福される。※太子の成人式
「記」は気比大神の記述では建内宿祢命(たけうちのすくねのみこと)、其の太子(ひつぎのみこ)に禊(みそぎ)せむとして、淡海(あふみ)と若狭国を経し時に、高志(こし)の前(みちのく)の角鹿(つぬが)に、仮宮を造りて坐(いま)せまつる。尓(しか)して其地(そこ)に坐(いま)す伊奢紗和気大神(いざさわけのおほかみ)が夜の夢に見えて云はく「吾が名を以(も)ち御子の御名に易(か)へまく欲(ほ)し」といふ。尓して言?(ことほ)き白(まを)さく「恐(かしこ)し命
(みこと)のまにまに、易(か)へ奉(まつ)らむ」とまをす。また其の神、詔(の)りたまはく、「明日の旦(あした)、浜に幸(い)でますべし。名を易(か)ふる幣(まひ)を献(たてまつ)らむ」とのりたまふ。故(かれ)其の旦(あさ)浜に幸行(い)でます時に、鼻毀(はなこほ)てる入鹿魚(いるか)、既に一浦(ひとうら)に依(よ)れり。是に御子、神に白(まを)さしめて云(の)りたまはく。「我に御食(みけ)の魚を給へり」とのりたまふ。故(かれ)また其の御名を称(たた)へて御食津大神(みけつおほかみ)と号(なづ)く。故今に気比大神と謂ふ。また其の入鹿魚(いるか)の鼻の血?(くさ)し。故其の浦に号(なづ)けて血浦(ちうら)と謂ふ。今は都奴賀(つぬが)と謂ふ。
古代の天皇の寿命が異常に長いことから、「書紀」の紀年は疑問視されています。神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年を起点として紀年を立てているのは、中国の讖緯(しんい)説に基づくもので一元を60年、21元1260年を一蔀(しとみ)とし、そのはじめの辛酉の年に王朝交代という革命が起こるとするいわゆる緯書(いしょ)での辛酉革命(しんゆうかくめい)の思想によると云われています。この思想で考えると斑鳩の地に都を置いた推古天皇九年(601)の辛酉の年より二十一元遡った辛酉の年を第一蔀(しとみ)のはじめの年とし、日本の紀元を第一の革命と想定して、神武の即位をこの年に当てたとされます。その為「書紀」の紀年と中国・朝鮮史書と年代の相違があり、次の「書紀」記載の百済国王の崩年・即位年記述もかなりの相違があります。また皇后摂政末年には後漢書の「魏志倭人伝」の記述も引用され邪馬台国の女王卑弥呼とは神功皇后の事であると思はしめる様な記述もあります。一体、神功皇后が実在の人物とするなら何時頃の人なのか次の「書紀」記載の記述から神功皇后(気長足姫・息長帯比売)の年代を推測して見たいとおもいます。「書紀」紀年によると神功摂政元年は西暦200年にあたります。


神功摂政三十九年。この年、大歳己未(おおとしつちのとひつじ)
魏志に云はく、明帝の景初三年(239)六月、倭の女王、大夫難斗米(たいふなとめ)等を遣わして、郡に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献す。太守�参�(とうか)、吏(り)を遣わして将(い)て送りて京都(けいと)に詣(いた)らしむ。 ※大夫難斗米 魏人伝には難斗米(なとめ)と記す。�参�も魏人伝には劉夏(りゅうか)と記す。
四十三年。魏志に云はく、正始四年(243)、倭王、復使大夫(つかいたいふ)伊声者(いせいき)・掖耶約(えきやこ)等八人を遣わし上献す。  ※伊声掖耶約  魏人伝には伊聲耆(イセキ)・掖邪拘(ヤヤコ)と記されています。
五十五年、百済の肖古(しょうこ)王薨(みち)せぬ。
※「書紀」には肖古(しょうこ)王とあるが百済13代以降の王名から推測して、ここは13代近肖古(きんしょうこ)王(346~375)と推測される、干支二運さげて西暦375年とすれば朝鮮史料と一致します。      
五十六年、百済の王子、貴須(いす)立ちて王と為(な)る。
※近肖古王の子で百済14代王、近仇首王(きんきゅうしゅおう)(375~384) 
六十四年、百済国の貴須(くいす)王薨(みまか)りぬ。王子枕流(むとむる)立ちて王と為(な)る。
※百済15代王、枕流(むとむる・ちんりゅう)王(384~385)
六十五年、百済の枕流(むとむる)王薨(みまか)りぬ。王子、阿花(あしん)年若し。叔父(おとをぢ)辰斯(しんし)奪いて立ちて王と為る。
※15代枕流王の没後その子阿花(あしんおう)年少の為、叔父の辰斯が王位を簒奪し16代王(385~392)となる。392年に辰斯(しんし)王の没後、阿花(あしんおう)が即位17代王(392~405)となる。「書紀」に辰斯王の記述無し。            六十六年。この年、晋の武帝の泰初二年(267)なり。晋の起居注(ききょちゅう)に云わく、武帝の泰初の二年十月に倭の女王、訳(をさ)を重ねて貢献(こうけん)せしむといふ。
※晋の武帝とは泰初元年(265)に魏の禅譲で皇帝になり太康11年(290)に没。卑弥呼は248年頃に亡くなっているので、此の時の倭女王とは壹与のことでしょう。訳(をさ)とは通訳。「書紀」編者は神功皇后の死をこの記事の後に設定しているのは66年の魏への使者も卑弥呼が送ったものと考えていたと思われます。
「書紀」は、ここに「魏志倭人伝」の記事を引用しながら、「邪馬台国」「卑弥呼」「壹与」の名は一切記載していないのは神功皇后を「卑弥呼」に比定する考慮の基に辛酉革命説を採用して「卑弥呼」の生存年代と神功皇后の摂政年代を合致させたのではとの疑念を抱かせますが、55年~65年の百済王の没年・即位記述を挿入することにより魏志倭人伝との年代差の矛盾が露呈することになり、「書紀」編者は何故この様な矛盾記述を挿入したのでしょう







上写真左 香坂・忍熊王旧蹟地(奈良市押熊)         中と右  福井県敦賀市気比神宮(笥飯)鳥居と拝殿


「記」では14代仲哀天皇の項に「神功皇后の新羅親征」として数行の記述があるのみですが「書紀」では異例の特別扱いで卷第九を全て神功皇后の記述にあて他の天皇よりも上位のあつかいで卷末には「魏志倭人伝」の記述を引用して「卑弥呼」とは神功皇后の事だと思わしめる様な記述になっています。
此処では「書紀」巻九の記述を中心に皇后の
事績を紹介してゆきます。
先ず卷頭に気長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと)は、稚日本根子彦大日日天皇(9代開化天皇)の曾孫、気長宿禰王(おはながすくねのみこ)の女(むすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)の二年に、立ちて皇后に為(な)りたまふ。幼くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかほよ)し。父の王、異(あやし)びたまふ、と記す。
この気長帯姫の息長姓について、13代成務天皇の都が近江志賀の高穴穂の宮であったことから仲哀天皇は同じ北近江(息長郷)
ら息長帯比売を皇后に迎えた。帯比売の息長は氏の本貫地の地名である。との説がありますが「記」の記述では応神期の若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の子大朗子(おほいらつこ)が近江息長氏の祖と記しており、帯比売とは時代にズレがあり、また比売の父は南山城の出身であり、帯比売の北近江の息長氏出身説には無理があります。
九年春二月条、足仲彦天皇(仲哀)筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教
(おしえ)に従はずして早く崩りたまひしことを傷みたまひて、以為(おもほ)さく、祟(たた)る所の神を知りて、
財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。
九年三月条、皇后、吉日を選びて、斉宮(いほいのみや)に入りて、親(みずか)ら神主と為りたまふ。武内宿禰に
(みことのり)して琴を弾かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を召して、審神者(そにわ)にす。……請(ねぎまう)して曰(もう)さく、「先の日に天皇に教へたまひしは誰(いずれ)の神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、答えて曰(のたま)はく、「神風の伊勢国の百伝(ももつた)ふ度逢県(わたらいのあがた)の折鈴(きくすず)五十鈴宮(いすずのみや)に所居(いま)す神、名は撞賢木巌之御魂天疎向津媛命(つまさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」と。亦問いまうさく「是の神を除きて復(また)神有(いま)すや」と。答へて曰(のたま)はく、「幡荻穂(はたすすきほ)に出し吾や、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこおり)に所居る神有り」と問ひまうさく、「亦有(またいま)すや」と。答へて曰(のたま)はく、「天事代虚事代玉籤入彦巌之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろのかみ)有り」と。問いまうさく、「亦有すや」と。答へて曰(のたま)はく、「有ること無きこと知らず」と。是に審神者(そにわ)の曰さく、「今答へたまはずして更後(またのち)に言(のたま)ふこと有(ま)しますや」と。則ち対(こた)へて曰(のたま)はく、「日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのおど)の水底に所居(い)て、水葉も稚(わかやか)に出で居る神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのお)の神有(ま)す」と。問いまうさく、「亦有すや」
と。答へて曰(のたま)はく、「有ることとも無きこととも知らず」と。-(中略)-次に皇后は神託に従い財宝(たから)の国新羅征討説話の記述に為りますが、その内容はお伽噺的であり、作為的な物語で、とても歴史的事実とは程遠いものです故省略致します。よく「謎の世紀」と云われますが四世紀以前の文献史料は皆無で、この当時の倭国を覗い知る史料としては中国の「後漢書」の「東夷伝」に記されている「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使者自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝給うに印綬を以てす」 建武中元二年は西暦五十七年です。これが最古の史料で、この時に光武帝が倭奴国(かんのわのなのこくおう)に与えた金印が天明四年(1784)に福岡市志賀島で出土しています。また、「東夷伝」は永初元年(107)、倭国王帥升等、生口(せいこう/奴隷)百六十人を献じ、願いて見(まみ)えんことを請(こ)う」と記している。そして「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条、則ち「魏志倭人伝」に記されている「邪馬台国」記述の二千余字の文字から覗い知る倭国。神功皇后摂政五十二年(252)に百済から献上されたと伝わる七支刀(しちしとう)の剣身の棟に表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされいます。これら中国史料三点、百済史料一点の文字史料以外は皆無です。
 倭奴国(かんのわのなのくに)という読みについては異論も多くありますが是が正論という読み方は未だ無いようです。
審神者(そにわ)とは、ここでは皇后の神託を聞き、其の意味を解説する人。
幡荻穂(はたすすきほ)、はたの様になびくススキの穂の意。w
表・中・底筒男とは住吉三神で、その出自は日本神話によると伊邪那岐命(いだなぎのみこと)は死んだ妻を追って黄泉国(よみのくに)に行き、戻って来たあと、日向の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)で海に入って禊(みそぎ)を行ったときに水の底で、すすぐ時に生まれた神の名が底津綿津見神(そこつわたつみ)。次に底筒男命(そこつつのをのみこと)。次に水の中で、すすぐ時に生まれた神の名は中津綿津見神(なかわたつみのかみ)。次に中筒男命(なかつつのをのみこと)。
水の上で、すすぐ時に生まれた神の名は、上津綿津見神(うはつわたつみのかみ)。次に上筒男命(うはつつのをのみこと この神話記述によると綿津見の神と交互に生まれて来ています。綿津見の神は海の神です。 「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になるそうです。これでは綿津見の神と住吉三神は兄弟神になります。綿津見神を祀る神社と住吉三神を祀る神社は別になっているのは何故
平安時代初期に作成された「新撰姓氏録」にはアメノヒホコとツヌガアラシトを祖とする氏族名が記載されてり、これらの伝承説話が何処まで史実を反映しているのか 私の様な駆け出しの古代史ファンには判別が付きかねます。また、平安時代の古代氏族名鑑の「新撰姓氏録」にはアメノヒホコ・ツヌガアラシトの末裔氏族が記載されていますが、氏族の自主申告によるものと思われ信憑性については疑問があるとおもいます。 
下表は新撰姓氏録に記載されている息長氏の始祖ですが、これで見ると応神天皇と息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)の子、若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)が始祖になっています。
アメノヒホコとツヌガアラシトを始祖とする氏族も6氏が記載されており、ヒホコ・アラシトも実在していたことになります。
※「新撰姓氏録」は畿内を本貫地とする諸氏族を皇別335氏・神別404氏・諸蕃326氏・無所属117氏の計1182氏が居住地毎に分類して記されています。完成は(815)弘仁六年七月二十日と記されています。
新撰姓氏録に見る息長氏の始祖
本貫 種別 氏族名 同祖関係 始祖 備考
1 左京 皇別 息長真人 真人 出自誉田天皇[謚応神。皇子稚渟毛二俣王之後也
2 左京 皇別 山道真人 真人 息長真人同祖 稚渟毛二俣親王之後也 日本紀合
3 左京 皇別 坂田酒人真人 真人 息長真人同祖
4 左京 皇別 八多真人 真人 息長真人同祖 出自謚応神皇子稚野毛二俣王也 日本紀合










下表は息長関連氏族を推定年代順に仕分けして見ました。「書紀」の記述では息長系譜を作成するのは難しく、「記」の記述を参考にして系譜を作りましたが、異世代婚・年代矛盾・姓名の謎等が入り交じり、私のような素人では、その謎解きも出来ずギブアップ状態です。開化期の日子坐王を祖とする息長系譜では日子坐王から五代の孫息長帯比売まで全て開化期に記されていますが、これを一代毎に振り分けたのが下表です。五代の孫息長帯比売は14代仲哀天皇の皇后です。仲哀天皇は開化天皇から五代目の天皇ですが9開化天皇から13成務天皇までの治世年から見ると三百四十七年です。




15代 応神天皇期(270~310)古墳時代
誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)伝応神天皇陵
此の天皇の皇子女達二十七王。男十二王・女王十五王ですが主な妃・皇子女以外はカットしています。
「記紀」は中日売命(なかつひめのみこと)を皇后として記す。応神期に異例の記述が二つありますその1は天皇の皇子である若沼毛二俣王(息長系譜)の系譜が応神期末尾に記されています。天皇の皇子の系譜は期首に記されるのが「記」の編纂方法です。その2は2~3世紀に渡来して来たと考えられる「天之日矛」の伝承がやはり応神期末尾に記されています。
「記」の記述。此の天皇、中日売命(なかつひめのみこと)に娶ひて生める御子、木荒田朗女(きのあらたのいらつめ)
大雀命(おほさだきのみこと/仁徳天皇)、根取王(ねとりのみこと)の三柱。矢河枝比売(やかわえひめ)に娶ひて生める御子、宇遅能和紀朗子(うぢのわきのいらつこ)、八田若朗女(やたのわかいらつめ)、女鳥王(めとりのみこ)の三柱。矢河枝比売の妹、袁那弁朗女(をなべのいらつめ)に娶ひて生める御子、宇遅之若朗女(うぢのわかいらつめ)一柱。また俣長日子王(くひまたながひこのみこ)が女(むすめ)息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)に娶ひて生める御子、若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)一柱。
※百師木伊呂弁、亦の名は弟真若比売命(おとひめまわかひめのみこと)、息長真若中比売の妹で若沼毛二俣王との婚姻は近親異世代婚になります。
大朗子(おほいらつこ)亦の名、意富々杼王(おほほどのみこ)は三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之米多君・布勢君等之祖と記されており「上宮記」 逸文によると此の王の子孫が26代継体天皇で応神五世の孫になります。
三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君の五氏が天武期の真人賜姓十三氏の中に入っています。これで見ますと北近江・若狭・越前は息長氏の勢力圏であることが窺えます。

「記」では息長帯比売命・「書紀」では気長足姫尊・「風土記」では大帯日賣命、息長帯日賣命と記されていますが
読みは全て「おきながたらしひめのみこと」です。また「記」は息長帯比売命、是れ太后(おほきさき)に娶(めと)ひて生まれませる御子、品夜和気命(ほむやわけのみこと)、次に大鞆和気命(おほともむけのみこと)またの名は
品陀和気命(ほむだわけのみこと)二柱。
「書紀」は仲哀二年春正月十一日に、気長足姫尊を立てて皇后とす。是より先に、叔父彦人大兄(おとをぢひこひとのおほえ)が女(むすめ)大中姫(おほなかひめ)を娶りて妃としたまふ。?坂皇子(かごさかのみこ)・忍熊皇子(おしくまのみこ)を生む。次に来熊田造(くくまたのみやつこ)が祖大酒主(おやおほさかぬし)が女(むすめ)弟媛(おとひめ)を娶りて誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生む。
※誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)は「記」の品夜和気命と同一皇子か 但し「記」は息長帯比売命の子であるが「書紀」では皇后が新羅征討の帰還後の十二月十四日に誉田天皇(ほむたのすめらみこと/応神天皇)を筑紫に生まれたまふ。と記すので誉屋別皇子とは異母兄弟となり、「記」の記述とは違う。
14仲哀天皇の項に息長帯比売(神功皇后)の記述を「書紀」とは対象的な実に簡潔な記述で記されていますが、「書紀」では異例の特別扱いで卷第九を全て神功皇后の記述にあて他の天皇よりも上位のあつかいで卷末には「魏志倭人伝」の記述を引用して「卑弥呼」とは神功皇后の事だと思わしめる様な記述になっています。
この項では「書紀」の記述を参考にして構成しています。「書紀」は気長足姫尊(神功皇后)の記述に巻第九の全てを仲哀天皇亡きあとの新羅征討と摂政期の記述にあてています。皇后は亦大帯日売・大帯比売(おほたらしひめ)の名でも記されています。「書紀」巻第九、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の冒頭記事は次の様に記す
気長足姫尊は、稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと/開化天皇)の曾孫、気長宿祢王(おきながすくねのおほきみ)の女(みむすめ)なり。母をば葛城高額媛(かつらぎのたかぬかひめ)と曰(まう)す。
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと/14仲哀天皇)の二年(193)に、立ちて皇后に為(な)りたまふ。幼(わか)くして聡明(さと)く叡智(さか)しくいます。貌容壮麗(はなはだかほよし)。父の王、異(あやし)びたまふ。
ここで初めて気長足姫命の父母の名を記しますが、父母の出自についての記述はありません。「記」では父気長宿祢王は日子坐王(ひこいますのみこ)系出身の初代息長姓の人で、母葛城高額媛は祖に新羅の王子、天日矛(あめのひほこ)の系統なのですが「書紀」はこの事は一切記載しません。垂仁期の天日槍の記述でも田道間守(たぢまもり)で打ち切っています。
神功皇后の実在性については比定的な意見が多いようです。先ず婚姻者の14仲哀天皇の出自が父日本武尊(やまとたけるのみこと)の没後三十数年後の出生という矛盾で実在が疑われること。また気長足姫尊についても実在を疑問視する説も多く、また「書紀」に見る神功皇后記述は、とても歴史的事実とは思えない内容です。香椎宮に於ける神託記述や皇后の船を大量の魚が動かした、豊浦の津では海中から潮の干満を操れる「如意珠(にょいのたま)」を拾ったとか、お伽噺的な話が多く「書紀」編纂者が何故この様な幼稚な三韓征伐の物語を作ったのか理解に苦しみます。次に神功皇后の新羅征討記述の一部を転載しましたのでご覧下さい。

上宮記に見る息長系譜
『上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ)』は「記紀」よりも成立が古く7世紀頃に成立したと推定されています。鎌倉時代後期まで伝存していたそうですが、現在では「釈日本紀」・「聖徳太子平氏伝雑勘文」に逸文を残すのみで編者は不詳。上・中・下の3巻から成り、聖徳太子の伝記説や上宮王家に伝来した史書説などがありますが真相は不明です。現在に伝わる逸文は下記に記載しましたが、継体天皇・聖徳太子関連の系譜だけです。継体天皇系譜は息長氏系譜に関連する系譜で継体天皇は息長氏が擁立した天皇と云う説の根拠も、この辺りから出たものではないかとおもわれます。
上左図は応神期の息長系譜・右図は「上宮記」の継体天皇系譜
継体天皇は応神5世の孫と云われ、その関連が記されている。また継体天皇は息長系の天皇と云われる関連が解る系譜です。
「記」では若沼毛二俣王の子は七人ですが上宮記では四人です

上宮記に曰わく、一に云う、
凡牟和希王(ホムツワケノミコ/15応神天皇)、名は弟比売麻和加(オトヒメマワカ)に娶(みあ)ひて生める児、若野毛二俣王(ワカヌケフタマタノミコ)、母々思己麻和加中比売(モモシキマワカナカヒメ)に娶(みあ)ひて生める児、大朗子(オホイラツコ)・一名意富々等王(オホホドノミコ)、妹践践坂大中比弥王(ホムサカノオホナカツヒメミコ)、弟田宮中比弥(タミヤノナカツヒメ)、弟布遅波良己等布斯郎女(フヂハラノコトフシノイラツメ)四人なり。
この意富富等王、中斯和命(ナカツしシワノミコト)を娶りて生める兒は乎非王(オヒノミコ)。牟義都國造(ムゲツノクニノミヤツコ)、名は伊自牟良君(イジムラノキミ)が女子(むすめ)、名は久留比彌命(クルヒメノミコト)を娶(めと)りて生みし兒は汗斯王(ウシノミコ)。伊久牟尼利比古大王(イクムネリヒコノオホキミ)が兒の伊波都久和希(イハツクワケ)-兒の伊波智和希(イハチワケ)‐兒の伊波己里和氣(イハコロワケ)‐兒の麻和加介(マワカケ)‐兒の阿加波智君(アカハチノキミ)‐兒の乎波智君(オハチノキミ)、余奴臣(ヨヌノオミ)の祖(みおや)名は阿那爾比彌(アナニヒメ)を娶(めと)りて生みし兒の都奴牟斯君(ツヌムシノキミ)が妹(いも)布利比彌命(フリヒメノミコト)を娶(めと)りき。汗斯王(ウシノミコ)彌乎國(みおのくに)高嶋宮(たかしまのみや)に坐(いま)しし時に、この布利比彌命(フリヒメノミコト)(いと)(うるわし)き女(みめ)と聞き人を遣わして三國坂井県(みくにのさかないのあがた)より召し上げ、娶(めと)りて生める所は、伊波礼宮(いはれのみや)に天(あめ)の下治(したしら)しめしし乎富等大公王(オホトノオホキミ)なり。父の汗斯王(ウシノミコ)崩去(かむさ)りまして後に、王(みこ)が母の布利比彌命(フリヒメノミコト)(と)いて曰(いは)く、「我獨(われひと)り王子(みこ)を親族部(うがら)(な)き國に持ち抱きて、唯獨(ただひと)り養育(ひだしたてまつる)こと難(むずか)し」と。爾して将に下り去りまして祖(みおや)
三国命(ミクニノミコト)の坐(いま)す多加牟久(たかむく)の村に在(ま)しましき。
上宮記系譜の称号の疑問と「記」の息長系譜との相違
「上宮記」の系譜で注目されるのは垂仁天皇と継体天皇には大王・大公王(おほきみ)の尊称で記されていますが、応神天皇には凡牟和希王(ホムツワケノミコ)と記しており、天皇に対する尊称ではなく王族の呼称で記すのは何故、凡牟和希王は15代王として即位しなかったのか
男性王族の称号には王(みこ)で統一されていますが、女性の場合「命」名が3名、無いのが6名で、その中に践坂大中比弥王(ほむさかおほなかひめのみこ)は「命」でなく王号が付けられています。「記」では允恭天皇の皇后として忍坂之大中津比売命(おしさかのおほなかつひめのみこと)と呼ばれ安康天皇・雄略天皇を生んでいます。「書紀」でも忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)と記されます。王号が付与されているのは男子では凡牟和希王・若野毛二俣王・意富富等王・乎非王・于斯王で女性では践坂大中比弥王のみです。
「上宮記」系譜の右側、?俣那加都比古(くひまたなかつひこ/息長田別王の子)に始まる26継体天皇の父方系譜になります。近江国坂田郡の息長氏の祖である意富々等王(おほほどのみこ)は継体天皇の曾祖父になります。故に
継体天皇は応神五世の孫に当たります。左の11垂仁天皇-伊波都久和希(イハツクワケ)……都奴牟斯君(ツヌムシノキミ)の妹、布利比彌命(フリヒメノミコト)へと続くのが継体天皇の母方系譜です。
「記」の息長系譜では若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)と百師木伊呂弁(ももしきいろべ/弟日売真若比売命おとひめまわかひめのみこと)の間には七人の子がいますが「上宮記」系譜では4人になっています。田井之中比売(たいのなかひめ)・取売王(とりめのみこ)・沙禰王(さねのみこ)の3人が記載されていません。



応神期の息長系譜
仲哀9年冬10月3日、皇后和珥津(わにのつ)より発(た)ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起こし、陽候(うみのかみ)は浪を挙(あ)げて、海の中の大魚、悉く浮(うか)びて船を扶(たす)く。則ち大きなる風順(おいかぜ)に吹きて、帆船波(ほつむなみ)に隋(したが)ふ。?楫(かぢかい)を労(いたつ)かずして、便(すなは)ち新羅に到る。時に隋船潮浪(ふななみ)、遠く国の中
に逮(みちおよ)ぶ。即ち知る天神地祗(あまつかみくにつかみ)の悉(ふつく)に助けたまふか。新羅の王、是に言未だ戦戦慄慄(おぢわなな)きて?身無所(せむすべなし)。即ち諸人(もろもろのひと)を集(つど)へて曰(い)わく「新羅の国を建てしより以来(このかた)、未だ昔も海水の国に凌(のぼ)ることを聞かず。若(けだ)し天運尽きて、国、海と為(な)らむとするか」といふ。是の言未(こといま)だ訖(をは)らざる間に、船師(ふないくさ)海に満ち旌旗日(はたひ)に輝く。鼓吹声(つづみふえこえ)を起こして、山川悉(やまかわふつ)く振(ふる)ふ。新羅の王、遥に望(おせ)りて以為(おも)へらく、非常(おもひのほか)の兵(つはもの)、将(まさ)に己が国を滅(ほろぼ)さむとすと。?(お)ぢて志失(こころまど)ひぬ。乃今醒(いましさ)めて曰はく「吾聞く、東に神国有り。日本(やまと)と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)有り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。必ず其の国の神兵ならむ。豈兵(あにいくさ)を挙げて距(ふせ)くべけむや」といひて、即ち素旆(しろきはた)あげて自ら服(まつろ)ひぬ。素組(しろきくみ)して面縛(みづからとらは)る。図籍(しるしへふみた)を封(ゆひかた)めて玉船(みふね)
※図籍(しるしへふみた)を封(ゆひかた)めて土地の図面と人民の戸籍是を封印して使用不能とする事は支配権を譲る事になる
の前に降(くだ)す。因(よ)りて、叩頭(の)みて曰(まう)さく、「今より以後、長く乾坤(あめつち)に与(ひと)しく
、伏(したが)ひて飼部(まかい)と為(な)らむ。其れ船?(ふねかぢ)を乾(ほ)さずして、春秋に馬梳及(うまはたけおよ)び馬鞭(うまのむち)を献(たてまつ)らむ。復海(またわた)の遠きに煩(いたつ)かずして、年毎に男女(おとこをみな)の調(みつぎ)を貢(たてまつ)らむ」とまうす。則ち重ねて誓ひて曰(まう)さく、「東にいづる日の、更に西に
出づるに非(あら)ずは、且阿利那礼河(またありなれがわ)の返(かへ)りて逆(さかしま)に流れ、河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)と為(な)るに及(いた)るを除(お)きて、殊に春秋の朝を闕(か)き、怠りて梳(くし)と鞭との貢(みつぎ)を廃(や)めば、天神地祇、共に討(つみな)へたまへ」とまうす。時に或(あるひと)の曰く、「新羅の王を誅(ろ)さむ」といふ。是に皇后曰(のたま)わく「初(はじ)め神の教えを承りて、将に金銀の国を授(う)けむとす。又三軍(またみたむろのいくさ)に号令(のりごと)して曰(い)ひしく、自(みづか)ら服(こ)はむをばな殺しそといひき。今既に財(たから)の国を獲(え)つ。亦人自(またひとおの)づから降(まつろ)ひ服(したが)いぬ。殺すは不祥(さがな)し」とのたまひて、乃ち其の縛(ゆはひつな)を解きて飼部(みまかい)としたまふ。遂に其の国の中に入りまして、重宝(たから)の府庫(くら)を封(ゆひかた)め、図籍文書(しるしのふみ)を収(とりをす)む。即ち皇后の所杖(つ)ける矛(みほこ)を以て、新羅の王の門に樹(た)て後葉(のちのよ)の印しとしたまふ。其の矛、今猶(なお)新羅の王の門に樹(た)てり。
※「新羅の国中に隋船潮浪(ふななみ)「新羅王が戦戦慄慄(おぢわなな)きて?身無所(せむすべなし)。」・「海水の国に凌(のぼ)ることを聞かず。」・新羅王の言葉の中に「神国・日本・聖王・天皇・神兵」があるなど潤色を加えたことで、新羅征討説話の信憑性に疑問を生じさせる結果になっています。

日本書紀 古事記
漢風諡号 歴代天皇の名 在位年数 治世期間 崩御年令 崩御年令 崩年干支
1 神武 カムヤマトイワレヒコ 76 前660~前585 127 137
2 綏靖 カムヌナカワミミ 33 前581~前549 84 45
3 安寧 シキツヒコタマテミ 38 前548~前509 57 49
4 懿徳 オオヤマトヒコスキトモ 34 前510~前477 77 45
5 孝昭 ミマツヒコカエシネ 83 前475~前393 113 93
6 孝安 オオヤマトタラシヒコクニオシヒト 102 前392~前291 137 123
7 孝霊 オオヤマトネコヒコフトクニ 76 前290~前215 128 106
8 孝元 オオヤマトネコヒコクニクル 57 前214~前158 116 57
9 開化 ワカヤマトネコヒコオオビビ 60 前157~前98 111 63
10 崇�� ミマキイリヒコイニエ 68 前97~前30 120 168 戊寅 258・318・378
11 垂仁 イクメイリヒコイサチ 99 前29~70 140 153
12 景行 オオタラシヒコオシロワケ 60 71~130 106 137
13 成務 ワカタラシヒコ 60 131~190 107 95 乙卯
14 仲哀 タラシナカツヒコ 9 192~200 52 52 壬戌
神功皇后 オキナガタラシヒメ 69 201~269 100 100
15 応神 ホムタワケ 41 270~310 110 130 甲午
17 履中 イザホワケ 6 400~405 70 64 壬申
18 反正 タジヒノミズハワケ 5 406~410 60 丁丑
27 安閑 ヒロクニオシタケカナヒ 2 534~535 70 乙卯
28 宣化 タケオヒロクニオシタテ 4 536~539 73
29 欽明 アメクニオシハルキヒロニワ 32 540~571
41 持統 オオヤマトネコアメノヒロノヒメ 10 687~696
42 文武 ヤマトネコトヨオオジ 10 697~706
43 元明 ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ 8 707~714
44 元正 ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ 9 715~723
「記紀」の基本資料は6世紀に作られた「帝紀(天皇家の系譜)」と「旧辞(記紀の説話・伝承)」であると云われています。上表は帝紀の王名表で歴代天皇(大王)の和名でヤマトネコ・イリ・タラシ等の名が続きこれを王朝交替説
などと云う説も有ります。ヤマトヒコ・ヤマトタラシ・ヤマトネコは欠史8代に入り実在の疑われる王です。
次はイリヒコが2代続き実在の可能性がある「イリ王朝」とする説があり、次の「タラシ」が4代続きますが後世
風な名で実在が疑われると云う説があります。

息長系譜のまとめ






息長名の由来について「水中に沈む海人の息長」「鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす時の、息を長く引く状態からつけられた鍛冶族の名」「此の称は尊称に出でて寿命長久の義」であるとか様々な説がありますが、私は息長氏は渡来系氏族で数系統に分かれて渡来、北九州から東遷し南山城に定着し木津川の輸送権を確保とた息長氏。今一つは日本海側に来着し但馬から若狭・北近江にかけての勢力圏を築き琵琶湖の湖上輸送権を確保しヤマトの息長と連携し天皇家に后妃を入れ外戚となった息長一族。また、豊前国の風土記に次の様な記述があります。
田河の郡(こおり)。鹿春郷(かはるのさと)郡の東北(うしとら)のかたにあり。此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源(みなもと)は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直(すぐ)に正西(まにし)を指して流れ下りて、真漏川(まろかわ)に湊(つど)ひ会(あ)へり。此の河の瀬清浄(せきよし)し。因(よ)りて�げ聾兇梁爾塙�(なづ)けき。今、鹿春(かはる)の郷と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。昔、新羅国の神,自(みづか)ら度(わた)り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなは)ち、名づけて鹿春の神と曰(い)ふ。又、郷の北に峯あり。頂(いただき)に沼あり。周(めぐ)り卅六歩ばかりなり。黄楊樹(つげのき)(お)ひ、兼(また)、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)、并(なら)びに黄楊・龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり。
この鹿春郷に渡来して来た新羅国の神の名は「延喜神名帳」の田川郡の条によると辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほめのみこと)で、「息長大姫大目命」とは銅の産出地である当地に新羅国から渡来した金工鍛治族が信仰する宗教の巫女ではと推測しています。また当時の朝鮮半島の鉄の産地は伽耶(かや)国であり一・二世紀頃は洛東江流域で砂鉄が大量に採取され、また金海鉄山・高霊伽耶治炉鉄山から鉄を産出したことから鉄製武器や農器具の生産や鉄の輸出が盛んに行われ金官伽耶と呼ばれ金官は「かね(てつ)の国」を意味する言葉で息長大姫大目命も金官伽耶国からの渡来と推測しています。

 日子坐王系の息長系譜
開化天皇の皇子、日子坐王は近江国の三上山に降臨した天之御影神(あめのみかげのかみ)の女(むすめ)息長水依比売(おきながみずよりひめ)と婚姻して丹波比古多々須美知宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)他四人の御子を生みます。天之御影神は鍛冶の神と云われていますが、なぜ近江の三上山に降臨したのか、そして息長水依比売の出生についても「記」は何も記さず、ある説によると三上山から40㎞北方に息長氏の本貫地があり天之御影神が其処へ通い妻問い婚をした説がありますが、北近江の息長氏の祖は応神期の若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)の子、意富々杼(おほほどのみこ)が北近江息長氏の祖であり年代に矛盾があります。亦、天之御影神の]娘が何故、息長姓なのか。丹波比古多々須美知宇斯王は丹波の河上之摩?郎女(かわかみのますのいらつめ)と婚姻して比婆?比売(ひばすひめ)・真砥野比売(まとのひめ)・弟比売(おとひめ)・朝庭別王(みかどわけのみこ)四柱の御子を生みます。比婆?比売は11代垂仁天皇の皇后に立后し息長水依比売の系統は天皇家の外戚となります。日子坐王は実母である意祁都比売(おけつひめ)の妹の袁祁都比売(をけつひめ)と異世代婚して山代之大筒木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)・比古意?王(ひこおうのみこ)・伊理泥王(いりねのみこ)の御子が生まれます。山代之大筒木真若王は実弟、伊理泥王の娘である丹波能阿治佐波?(たにはのあぢさわびめ)と異世代婚して迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)が生まれます。伊理泥王の娘に「丹波」の名が付くのは、此の王は丹波に居住していたのか。迦邇米雷王も丹波の遠津臣(とほつおみ)の娘、高杙比売(たかくいひめ)と婚姻して息長宿禰王(おきながすくねのみこ)が生まれます。此処でひときわ目につくのが「丹波」であり、この系統と丹波の結縁ですが、その詳細については何等の記述もなく不明です。息長宿禰王については北近江に居住していた説があり米原市顔戸の8号線沿いに息長宿禰王が子の帯比売(たらしひめ)を抱いている像と天之日矛暫住の碑が建立されており亦、能登瀬の山津照神社の境内古墳が宿禰王の古墳と云う説もありますが、1882年
国道8号沿いの息長宿禰王像 山津照神社境内古墳 山津照神社境内古墳発掘時の図


今回の息長氏の再考察でも疑問や矛盾点が続出しますが私には、この謎を解明する能力はありせんので疑問・矛盾はそのままに記しています。古代豪族の中でも息長氏ほど謎の多い氏族は珍しいのではないでしょうか。先ず出自が不明で史家の間でも諸説があり渡来人説・鍛冶族説・皇室の湯人説等がありますが未だ定説はないようです。仲哀・応神・允恭朝には后妃を出し、天武朝の「八種の姓(やくさのかばね)には皇親氏族として「真人(まひと)」を賜姓され、「古事記」「日本書記」の中に神功皇后伝承や自己系譜を持ちこみ、これらの編纂に介入した等々の説も枚挙に暇がないほどありますが、中央政界に於いて頭角を現すこともなく、皇親氏族として特別優遇された実績もなく、史書に見る限り実に影の薄い氏族なのですが、息長氏を除外しては古代史を語れません。「古事記」には息長氏についての記述にかなりのペ-ジを割いて比較的詳細に述べられていて、記事を追って行くと息長系図が作成出来ますが、矛盾に満ちた箇所が随所にあり、これが歴史的事実とは考えられません。 息長氏といえば近江国坂田郡を本貫地とする豪族で天皇の后妃を輩出した天皇家の外戚氏族ですが、9代開化天皇の皇子、日子坐王(ひこいますのみこ)を祖とする系譜から14代仲哀天皇皇后の息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)・12景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコトを祖とする系譜から息長田別王(おきながたわけのみこ)の孫娘の息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)が応神天皇妃となり若沼毛二俣王(わかぬまけふたまたのみこ)を生み、この系譜が近江国坂田郡の息長氏の祖となります。以後100年間ほど息長氏の消息が途絶えた後、30代敏達天皇の皇后として息長真手王の系譜が登場します。古事記では、この三系譜が記されており次ぎに息長氏が史料に見えるのは息長の名を持つ34代舒明天皇(息長足日広額天皇/おきなかがたらしひひろぬかのすめらみこと)の殯(もがり)で日嗣を奏した息長山田公がいますが、この人の官位、事績等は全く不明、次に「続日本紀」(711)和銅四年四月七日条、従四位下の息長真人老(おきながのまひとおゆ)に従四位上を授けた。という続日本紀の記述が信頼出来る文献史料上に現れる最初の息長氏であり史料上に見る息長性の人物で最高位に叙された人です。このあと7~8世紀代に文献史料に残る息長氏族の人の最高官位は従五位上止まりで平安時代にかけては画師、鋳物師の息長氏が見られますが衰退の一路を辿り、やがて文献史料上からも消えてゆきます。また「日本書紀」の開化期・景行期には息長氏の記述はなく、14代仲哀天皇期になり立后した気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと/後の神功皇后)が登場します。「書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と記され仲哀天皇崩御後の「書紀」は異例中の異例扱いだ天皇以上に神功皇后の事績を卷九の一巻を費やして記述していますが、矛盾と誇張に満ちた記述で皇后の実像と虚像の判別も難しいのが現実です。また、息長氏が擁立したと云われる26代継体天皇期の巻末に天皇の崩年の疑義についの記述中に『後勘校者知之也(のちにかんがえむひとしらむ知る)』と意味深長な記述があり、これは「書紀」編纂者の一人が、記したものですが、記述の疑義を指摘したもので当時の編集責任者も実におおらかなものです。また欽明期にも『…帝王本紀(すめらみことのふみ)に沢山古い名があり、撰集する人も、しばしば入れ替わることがあった様で、後人が習い読む時、意をもって削り改めた。伝え写すことが多くて、つい入り乱れることも多かった。前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。いま古今を考え調べて、真実の姿に戻した。容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを注記した。他のところもこれと同じである』という記述にあるように矛盾や異説のあるところには日本書紀編集者が、「一に曰く」として異説も取り入れ紹介して、真実探求の糧にしている編集方針は立派だと思いますが、天皇家系譜を万世一系にするため紀年を挿入した為に矛盾や謎が多く発生してしまったのではないでしょうか。後世調べ考える人が真実を明らかにするであろうと記して、矛盾と謎の解明を後世に託した形ですが、四世紀までの文字史料は皆無で、この当時の倭国(日本)の事情を知る史料は中国の「三国志」第30巻烏丸鮮?東夷伝倭人条(魏志倭人伝)と高句麗の広開土王碑文のみで、外国史料に頼るほかないのですが魏志倭人伝にしても著者の陳寿(ちんじゅ)本人が倭国を見聞したものでは無く、魚拳(ぎょかん)の「魏略」や王沈(おうしん)の「魏書」を参考にし、中でも正始元年と八年に倭国に来た帯方郡使の報告書を最も重視して記した可能性が高いと云われています。「魏志倭人伝」の正式名は中国の歴史書『三国志』中の「魏書」『第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』の略称で倭人状は約二千文字程てすが原本は伝わっておらず現在のものは写本であり100%正しく伝わっている保証はありません。また広開土王碑文の倭国関連碑文と魏志倭人伝の内容にしても異論が多く、いずれも衆人が納得するようなものではなく邪馬台国の所在地や卑弥呼の人物像や広開土王碑文は謎のままです。四世紀以前の日本古代史は全く謎の世紀で、実証出来る史料は皆無で今後古墳や遺跡の発掘調査で何処まで解明出来るのか待つしかないようです。

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