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万葉歌に見る 大伴家持の生涯 |
馬国人 万葉歌20-4458の詠み人 |
伎人郷(くれひとのさと) 喜連の息長伝説の信憑性 |
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攝河の地に 息長川は存在せず |
![]() 息長系譜の形成者達 |
平野川探訪 万葉の息長川番外編 |
孝謙天皇難波宮 行幸と河内六寺 |
付替えられた大和川 | |
万葉集巻二十編纂の謎 | 平野川関連河川 | リンクのペ-ジ |
大阪市平野区喜連(きれ)町に古墳時代(2~3世紀)に古代豪族の息長(おきなが)氏が居住していた、また奈良時代に この地に居住していた馬史国人(うまのふひとくにひと)が大伴家持を招き歌宴を開いた時に馬国人が詠んだ歌に息長川がが詠み込まれていますが、この息長川は喜連の西を流れている今川が古代の息長川であると言われて一部の歴史学者と大阪市史(昭和初期発刊)や周辺都市の市史等にも「今川=息長川説」が記載されており大阪市東住吉区や平野区喜連在住の郷土史家の方の「歌宴からみた息長川(喜連川・今川)説」「伎人郷(くれひとのさと)息長河」説等の論文が雑誌「大阪春秋」の誌面をかざったこともあり、また喜連に「北村某の家記」なる古文書が存在しこの文書が古代豪族の息長氏の喜連居住説の根拠となっていました。 私は当時(2005年)リタイアして全くの歴史音痴でしたが私の住む隣町に、そのような歴史があることに驚き此の事が古代史の勉強を始める端緒となりました。そして私の住む大阪市平野区域が縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良時代から中世にかけて人が住み区内の何処を掘っても遺跡が出土する街であり区の南端を流れる大和川も江戸中期に付け替えられた人工河川であることを知り長年この地に住みながら地域の歴史について全く無知であった自分を恥ずかしく思いリタイアを機会にまず最も身近な「喜連の息長氏居住説と今川=息長川」説問題の考察に取り組んで見たいと思い立ち考察結果を纏めたものをホ-ムペ-ジにしました。 |
息長氏古代喜連に居住説の根拠となったと推測される「北村某の家記」 |
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左 大阪府全志に掲載された喜連の旧家に伝わる『北村某の家記』です 旧大阪府全志に『邑に北村某あり、一巻の家記を藏し、太古より仁徳天皇の御宇迄は若沼毛二俣王・以後醍醐天皇の延喜十七年迄は息長眞若麻呂・以後小松天皇の応永十九年迄は北村治良麻呂の撰筆なりと伝え、もと三巻なりしも、元和の兵火に羅りしかば、其の焼残を取纏め補綴せしものなりといふ。其の記する所を見るに、口碑の傳ふる所に符合し、口碑は此家記より出しにあらざるかと思はしむ。而して其の記事の眞なるかは無論疑なき能はざれども亦漫然口碑を記するに優れるものあらん。故に今其の要を摘みて左に之を掲記すべし』と記して「北村某の家記」全文が掲載されています。下記をクリックしていただくと『北村某の家記』全文がご覧になれます。 |
北村某の家記 ここをクリックして下さい |
万葉集巻二十-四四五八の息長川は今川か? |
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左 万葉集巻二十の大伴家持の詠んだ四四五七と馬国人の詠んだ四四五八(古新未詳)の書き込みがある二首です。(万葉集西本願寺より) 万葉集の原本はなく現存する万葉集は全て写本で平安時代に書写されたものが現存最古の万葉集といわれますが、全二十巻揃っているのは西本願寺本(鎌倉時代後期の写本)が最古の写本といわれています。 現存する写本には「ふりかな」がありますが原本は奈良時代の編纂で有り、「ふりかな」は平安時代に付けられたものと思われます馬国人にトキヒトとふりかなされています。 天平勝宝八歳丙申(へいしん)の二月朔日乙酉(ついたちいついう)の二十四日戊申(ぼしん)に太上天皇と天皇と大后と河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)し経信(けいしん)して壬子(じんし)を以て難波宮に伝幸(でんこう)したまひき。三月七日、河内国伎人郷(くれひとのさと)の馬国人の家に於いて宴(えん)せし歌三首 |
20-4457 住吉の浜松が根の下延(したは)へて我が見る小野の草な刈りそね 右一首兵部少輔大伴宿禰家持 20-4458 にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 古新未詳 右一首主人散位寮散位馬史国人 20-4459 葦刈りに堀江漕ぐなる楫(かぢ)の音は大宮人の皆聞くまでに 右一首式部少丞大伴宿禰池主読む 即(すなは)ち曰く、兵部大丞大原真人今城(いまき)、先つ日に他(あた)し所にして詠む歌なりといふ。 この20-4458の「息長川」について、河内国伎人郷に住む国人が遠くはなれた北近江(滋賀県米原市)の川を詠みこむはずはなく、当時伎人郷の国人の家近くを流れていた「息長川(現今川)」を詠んだものであるとする説があり、大正から昭和初期発刊の大阪府志・大阪市史・東成郡誌等も次のような記述になっていました。 ◆大阪府全志卷之三 第二節東成郡河川の項 (T11発刊) 今川は狭山池より発する西除川にして、河内国舊丹南郡の南野田・餘部・太井を經て同八上郡大饗村を過ぎ、小寺村の界より同丹北郡の岡・高見・更池・向井を經、高木村に至りて布忍川(ぬのせかわ)と呼ばれ、池内村を經、富田新田に出て、天道川と呼ばれ、當国舊住吉郡喜連村の西を流れて息長川の名を為し、桑津村の東に於いて依羅池より流れ来れる巨麻川(こまがわ)を併せたるものなり。其の今川といへるに河道の古と頗る異れるより呼びし新名にして、舊名は河内川なりと摂津志には記せり。 ◆大阪市史 (T12発刊) 平野川を旧名百済川、今川を旧名河内川とし、今川は河州丹北郡より流れ、本郡喜連の西に至りて息長川といひ、桑津の東を経て依羅池(よさみいけ)に発源する巨麻川(こまがわ)に會す。 ◆東成郡誌 『伎人郷(くれのさと)、 喜連村は伎人(くれ)の転訛なり。伎人郷は往古は河内国に属せり、万葉集に河内国伎人郷とあり。伎人堤は息長川の堤塘なり。息長川の事は北百済村に其條あり。続日本紀に天平勝宝二年五月、伎人、茨田等等、往々決壊したる事を載せたるはこの堤なり。三代実録に貞観四年三月、摂津河内の国人、伎人堤を相争ふ事あり。是より先古くは天平十三年四月,巨勢奈弖麻呂(こせのなじまろ)、藤原仲麻呂らを遣わして摂津河内の河堤を争ふ所を検校せしめられ、又大同元年十月、摂河両国の堤をさだめられたり。是伎人堤の紛争に係る為めなるべく、此堤は両国国境にあたりし故なるべし。堤の址今詳ならず。』 ◆東成郡誌・名所舊蹟墳墓の項 息長川 今川の舊河身なり。今川、舊河内川と称せり、河内丹北郡より流れて喜連村に入りて息長川と称せり。今の河身は、往古の流域と頗る異れるが為に、今川と称するなり。 現今川が古代の息長川に比定できるのだろうか? 「北村某の家記」にあるように伎人郷に息長氏が居住していたのか? という疑問が考察をはじめる端緒になりました。 |
馬国人の実像 |
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左写真 平城京二条大路沿いの藤原麻呂邸のゴミ捨て溝[SD5300]から大量の木簡が見つかり、その中から馬国人名が記された木簡です。 中写真 1988年(昭和63年)当時の発掘現場 右は長屋王邸と藤原麻呂邸の木簡出土現場図、両邸跡で合計74000点もの木簡が 出土しています。 |
万葉集20-4458の詠み人馬国人に関する史料が平城京跡の発掘木簡・続日本紀・正倉院文書により、その一部を知ることができます。また4458の歌には「古新未詳」という四文字が記されており、この歌は古歌を引用したものか国人が詠んだものか不明であるという事だそうです。この注記「古新未詳」の筆録者は誰か?。をも考察してみました。
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1959発行の「日本上古史研究会」誌上の喜連に息長氏居住論争 |
(1959)昭和三十四年正月発行の「日本上古史研究会」誌上で大阪樟蔭大学教授の今井啓一氏の「息長氏異聞」と大阪大学助手の八木毅氏が息長川の所在・喜連の息長伝承で誌上論争をされています。この誌上論争の全文をご覧になる方は下記をクリックしてご覧ください。
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伎人郷と息長伝説の信憑性 |
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上左写真は喜連西善法寺にある息長沙禰王の碑で「日本上古史研究会」誌上で喜連の息長論争のあった昭和34年 当時に建立されたもの。中写真は応神天皇妃であった息長真若中比売の御陵跡といわれる広住陵で現在は駐車場の隅に僅かに残る。右写真は息長真若中比売陵の側にあった喜連環濠から出たといわれる石柱で微かに「息長真若」の文字が確認出来る高さ50㎝たらずの石柱で楯原神社境内に保存されている。 |
(1959)昭和三十四年の今井・八木論争から四十数年を経た今、東住吉歴史の道の会三津井康純氏が『万葉集に詠まれた息長川はわがまちの今川だった』と論文発表、講演会等を主催され1959年以来途絶えていた『息長川=今川説』を再度問題提起され、古伝承を訪ねる会の梅本雄三氏が三津井説に賛同され「万葉集と源氏物語をつなぐ息長川(今川)」「歌宴の情景からみた息長川(喜連川・今川)」「源氏物語や万葉集と息長川関連説について」を両氏の共同執筆として「大阪春秋」に発表されています。また喜連村史の会白川俊義氏が『大阪にあった伎人郷息長河』と題する論文を「大阪春秋」に発表「息長川=今川説」を補強されています。 大和川付替の功労者中甚兵衛の子孫である中九兵衛氏が「於吉奈我河(おきながかわ)考」と題する本を2006年・2007年に出版され中氏の息長川に対する私見と今川説論考の矛盾点を指摘されています。 下記に発刊された『摂河の息長川』関連本は大阪市立図書館でご覧いただけますが、「大阪春秋」記載号数について私の記憶違いがあるやも知れず、関心のある方は図書館で再度確認願います。 「於吉奈我河考 -平城京遷都千三百年・大和と難波の往来-」中九兵衛著 2006/6発行 「於吉奈我河考-新展開の今川説その論考の矛盾点-」 中九兵衛著 2007/4発行 下記はいずれも「大阪春秋」誌です。 「万葉集編集者の罪人に対する作為について」平成22年発行 NO.139 「歌宴の情景からみた息長川(喜連川・今川)」平成20年発行 NO.132 「万葉集と源氏物語をつなぐ息長川(今川)」 平成19年発行 号? 「万葉集に詠まれた息長川はわがまちの今川だった」発行年・号? 「大阪にあった伎人郷息長河」 発行年平成9~10年のいずれか号? 「源氏物語や万葉集と息長川関連説について(上巻)」 平成24年新年号 NO.145 「源氏物語や万葉集と息長川関連説について(下巻)」 平成24年春号 NO.146 万葉集20-4458の馬国人の詠んだ『にほ鳥の 息長川は…』この息長川について通説では河内国伎人郷に住む馬国人が遠く離れた北近江の息長川を詠むはずが無い、古代喜連に息長氏が居住していて、その墳墓があり息長氏所縁の地であるから、この地に息長川と呼称する川が存在し、その川を詠みこんだもので、その息長川は何時しか絶えてしまい、今少流となって残っているのが「今川」であり、宝暦年間の摂津国難波古地図(森幸安作図)にも息長川が記載されているというのが「今川即ち息長川」説の根拠であり、私も前回の考察では喜連に伝息長真若中津比売の広住陵や伝忍坂大中津比売陵と言われる讃野皇山(山王塚)等の墳墓伝説や「北村某の家記」等から古東除川を「息長川」と比定したものの歴史的に見て合理的な説明になっていただろうか?という疑念に悩まされ今回の再考察に至りました。 奈良時代の伎人郷周辺(現平野区喜連付近といわれる)の復元地形及び遺跡・遺構が大阪文化財研究所の30数年に及ぶ長原・瓜破・東喜連に於ける発掘調査で明らかになっているので、それらを参考に松原市に残る江戸期の絵図や現存する今川筋流路の調査により私説ですが『今川は息長川ではない』との結論に達した調査の経緯 を纏めました。 |
伎人郷と息長伝説はここをクリックして下さい。 |
万葉歌と大伴家持の生涯 |
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左は大伴宿禰家持の肖像画 中は平城京一条大路(現奈良市佐保台)にある家持の叔母、大伴坂上朗女の歌碑。大伴邸もこの付近にあったと推定されています。 |
『万葉歌と大伴家持の生涯』では家持と藤原氏の関係・家持の家族にまつわる謎。家持は藤原種継暗殺事件に関与していたのか。家持除名時に『万葉集』の編纂は終わっていたのか。没官後の『万葉集』はどう取り扱われたのか。そして何時『万葉集』は世にでたのか。等を私説を交えながら考察しました。
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系譜に見る息長氏 |
『系譜に見る息長氏』では息長系譜の信憑性について考察しましたが、その複雑怪奇さについては、とても私のような俄か古代史ファンの手に負えるものではなく、中途半端な考察に終わりましたが古代の喜連に息長氏が居住していた事実を実証する史料又は間接資料等も皆無で喜連と息長伝説は近世において作為されたものと私は考え、その考察結果をまとめてみました。。
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『伎人郷の所在地』と『伎人堤』については歴史地理から8世紀の地形復元や発掘調査から見て喜連東地域を含む周辺部と推定されますが、立証する史料もなく場所の特定が難しく今後の発掘調査等による新史料の検出が待たれます。今回の再考察では出来得る限り史料に基ずく考察を心がけ『万葉集西本願寺本』『続日本紀』『日本後紀』『日本三代実録』等を主に参照して考察いたしました。また『北村某の家記』ついても私論ですが近世に作為された文書ではと思います。 |
参考にした文献史料 |
『大阪文化財研究所』 発行の平野区域の発掘調査報告書ほか 『万葉集』 「万葉集」の原本は失われていて今あるものは全て写本ですが、全二十巻揃っているものは少なく、今回参考史料とした「西本願寺本」は鎌倉時代後期の写本で二十巻完備のものとしては最古のものといはれています。 『続日本紀』 (697)文武元年~(791)延暦10年までの95年間の歴史を全40巻に収めた編年体の勅撰史書で律令体制の施行と政変・謀反・陰謀・天変・凶作等も包み隠さず記述しており万葉集と併読すると当時の社会環境などがよくわかります。桓武天皇の在世中に編纂されているので天皇の治世の記述においては政治的配慮が顕著であり、天皇の心痛となった早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん記載されたものが後に削除され、削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇によって再び消されて現代に至っているといわれています。削除された部分は『日本紀略』に採録されています。しかし「日本書紀」と比べれば、 『続日本紀』の信頼性は格段に高いと思われます。“ 『日本後紀』 桓武朝の後半~平城・嵯峨・淳和朝に至る四代、(792)延暦11年~(833)天長10年までの42年の歴史を記述しています。編者は藤原緒嗣らで編年体、漢文で記され全40巻ですが現存しているのは10巻のみ。序文によれば、(819)弘仁10年、嵯峨天皇が、藤原冬嗣、藤原緒嗣、藤原貞嗣、良岑安世(よしみねのやすよ)に勅して編纂を命じています。未了のまま緒嗣を除く三人が死んだため、後に淳和天皇が詔して清原夏野(きよはらのなつの)、直世王(なおよおう)、坂上今継(さかのうえのいまつぐ)、藤原吉野、小野岑守(みねもり)、島田清田(きよた)に編纂の続行を命じ、仁明天皇の代になってさらに詔して藤原緒嗣、源常(みなもとのときわ)、藤原吉野、藤原良房、朝野鹿取(あさののかとり)に編纂の続行を命じています。さらに後、布瑠高庭(ふるのたかにわ)と山田古嗣(ふるつぐ)を加え(841)承和7年12月9日にようやく完成しています。編纂までにかかった期間は21年間、三代の天皇にわたる事業にずっと携わったのは、藤原緒嗣のみです。独特の批評や感想を交えた興味深い記述が多く、また和歌を多く収録しています。 『日本三代実録』 宇多天皇、勅撰の歴史書で清和・陽成・光孝天皇の三代三十年の事績を収めた編年体の実録。藤原時平(ときひら)、菅原道真(すがわらのみちざね)、大蔵善行らが編纂に携わり(901)延喜元年に全五十巻が完成しています。内容は政治・法制に関する記事が多く信憑性も高いものになっています。 今回の考察では史料と史料の間を繋ぐ想定私説を極力抑えて疑問点は、そのまま残し当ホ-ムペ-ジをご覧いただいた方々の判断にお任せすることにしました。私自信もこうした疑問点の解明に今後とも努めて補足してゆきますが、皆様方でお気づきの点等ありましたらご教示ください。 |
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